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◆第三節 北辰妙見信仰○北斗信仰伊勢の海女が身につけているセーマンとドーマンの印のルーツは北斗信仰にあるといいます。北辰すなわち北極星を祀る信仰のことです。ひしゃくの縁になっている二つの星を結んで、そのまま五倍伸ばせば、そこに北極星があります。高松塚古墳や横山古墳の天井に北斗七星の図が描かれており、明日香村のキトラ古墳の天井石にも金箔の星座が描かれていました。北斗信仰は武帝が神秘的な神を祭ったことにあります。天の星座の中官、北極星中の太一星(太は至高を、一は唯一・根元を表す語)、すなわち北極星が神化されたのはこのときといいます。『史記』封禅書では亳(はく)謬忌という人物が、漢の武帝に太一を祀ることを進言しており、そこでは太一を天神の尊きものとし、太一の補佐を五帝としています。謬忌は武帝に古代の天子は春と秋に都の東と南の郊外で太一を祭り、そのときには牛・羊・猪を七日間供え、壇をつくって八方に鬼神の通る道を作ったことをいい、武帝はこの進言を採用しました。長安の東と南に太一祠を起てたといいます。太一壇を設けて天一・地一・太一の三神を祀ったのです。以後、太一は天の中心に位置する北極神と解され、天皇大帝や昊天上帝といった至高神と同定されることもありました。さらに、三年に一度、天一・地一・太一の祭りを行います。やがて、泰山で封の祭りを行い、武帝の時代に太一神は三年ごと、泰山での封禅は五年ごとに天子が観察する方式が生まれました。太一神である北極星は上天を代表する最高神となり、泰山は地上の天につながる最高の聖地となったのです。この星を神格化してパンテオンのなかの最高神として、民衆にひろげるのが道教の役割であったのです。(吉田光邦著『星の宗教』一九四頁)。北辰は道教の最高神として信仰されています。その配下にあるのが北斗七星です。北斗七星が現場の所願を叶えてくれるとするのが北斗信仰です。随・唐代になりますと、直接、北辰に祈願を込める信仰がおきました。 『日本書紀』にある香香背男命(かがせおのみこと)は、星宮の祭神とされることが多く、これは北斗星のことであるといいます。孝徳天皇の大化元(六四五)年に、唐の都城制にならって前期難波京が建設されました。都城の中央北詰に宮闕を設ける北闕制は北辰崇拝によるものです。藤原京・平城京・平安京もこの規制に従っています。日本での記録は『続日本紀』の宝亀八(七七七)年に、「妙見寺へ美濃国勝田郡、上野国群馬郡戸五十烟を寄進す」とあるのが初めです。いらい室町ころまで天皇みづから、三月三日と九月三日に妙見祭を行っていました。「御燈の祓え」というのは、北辰に燈火を奉るとき、身に穢気がないように事前に行う祓いでした。この北辰信仰が盛んになり、朝廷から北辰を祭ることを禁止するまでに至ります。興味深いことは、せめて斎王が伊勢に行くときだけは止めるようにという達しが出されたことです。(「京畿の百姓の北辰に燈火を奉るを禁ず。齋内親王の斎宮に入るを以てなり」『日本後紀』延暦一八年九月)。つまり、伊勢神宮の天照太神と北辰(太一神)との習合がなされていたと思われることです。齋王が斎宮に入り神を祭っているときに、庶民が北辰信仰をしていると、齋王の行為が妨げられ神(北辰・太一)に伝わりにくい、あるいは、齋王を汚すものとされたかもしれません。日乾上人が鎮宅霊神を妙見菩薩と名づけた理由もここにあるといいます。(福永光司・千田稔・高橋徹著『日本の道教遺跡を歩く』二二三頁)。関東地方では平安末期から鎌倉時代に、武士層の信仰を得ます。千葉常胤の一族は妙見信仰が厚く、千葉・秩父・相馬の三神社に妙見像を奉安しています。中山法華経寺の大田氏も妙見信仰をしており、山内の妙見堂では毎年、酉の市には一昼夜読経されます。『千葉伝考記』の千葉忠賴誕生の条に、「その嫡流は月星を象りて家紋とし、末流は諸星を以て家紋とす」とあり、北斗七星の信仰を基とし千葉妙見の縁起が伝えられています。(金指正三著『星占い星祭り』二三二頁)。清澄寺の主峰は標高三八三㍍の妙見山といいます。海に臨んだ山や岬に、妙見の名称がつけられたのは、漁民たちの船の位置を知る目標だからです。 また、四天王寺の七星剣、法隆寺金堂の持国天指物の七星文銅大刀、正倉院宝物の呉竹鞘護杖刀にも北斗七星が画かれています。七星を刀に刻んだ剣は敵を打ち破るという信仰があったからです。(福永光司著『道教思想史研究』四六頁)。日蓮宗の守護神信仰に見られる妙見信仰は、北斗七星を神格化したものです。国土をまもり災いを消し怨敵を退け、人の寿命を増す菩薩として親しまれています。星のなかでもっとも勝れ菩薩の大将といいます。(『七仏八菩薩大陀羅尼神咒経』)。北辰妙見・尊星王ともいい、神仙中の仙といいます。また、妙見菩薩・妙見大士・大雲星光菩薩・尊星王・北辰菩薩などとも呼ばれます。星辰信仰は古代バビロニアに端を発するといい、天文が早くに発展したインドや中国も北辰信仰が重んじられました。北辰は道教や陰陽道の受容で司過・司命の神とされます。仏教では『宿曜経』の伝来や密教の修法で流行しました。奈良・平安時代は怨霊思想のなかで星供(妙見供)の修法が盛行し、台密の三井寺では尊星王法を国家鎮護の秘法とし、東密では妙見法として除災増益の星供が盛んになります。院政期には七壇北斗法や大北斗法(如法北斗法)の密教修法が発達します。北斗七星と仏教の関係はつぎのようになります。 天枢・天魁・貪狼(とんろう) ドゥーベ (α Ursae Majoris、α UMa) 天璇(てんせん)・巨門(こもん) メラク (β Ursae Majoris、β UMa 天璣(てんき)・禄存(ろくそん) フェクダ (γ Ursae Majoris、γ UMa) 天権・文曲(もんごく) メグレズ (δ Ursae Majoris、δ UMa) 玉衝・廉貞(れんちょう) アリオト (ε Ursae Majoris、ε UMa) 開陽・武曲(むごく) ミザール (ζ Ursae Majoris、ζ UMa) 揺光・破軍(はぐん) ベネトナシュ(η Ursae Majoris、η UMa) 斜線は大正新修大蔵経にある唐の密教経典『仏説北斗七星延命経』の名です。『仏説北斗七星延命経』には七星について、次のように文曲星を吉祥天とし、北極星である破軍星を薬師如来に擬しています。 南無貪狼星 是東方最勝世界 運意通証如来仏 南無巨文星 是東方妙宝世界 光音自在 南無禄存星 是東方円満世界 金色成就 南無文曲星 是東方無憂世界 最勝吉祥 南無廉貞星 是東方浄住世界 広達智弁 南無武曲星 是東方法意世界 法海遊戯 南無破軍星 是東方琉璃世界 薬師琉璃光如来仏 また、北斗七星には輔星があります。北斗七星の第六星の外側に小さい星があり、これを輔星といいます。後陽成天皇の『御宸翰星図』に「ソヘボシ」と仮名で書かれています。同書にこの輔星は寿命星といい正月にこの星が見えない者は、その年のうちに死ぬという倉橋島の伝承をのせています。『史記』には輔星が明るく見える時は、補佐の臣が強固で小人を排斥し弱臣を疎遠にして用いないとあります。陰陽道では輔星を重視し金輪星といって信仰の対象としています。(吉野裕子著『陰陽五行思想からみた日本の祭』一一四頁) 鎌倉時代の神道書である『神号麗気記』には太一神と天御中主は同一神であると書かれており、同じように、大阪交野市星田の星田妙見宮(小松神社。神体は二つの巨石)の、享和元(一八〇一)年に刊行された『河内名所図絵』に、神道家には天御中主と称し、陰陽家には北辰星といい、日蓮宗徒には妙見と称したとあります。道教では北極星が最高神であり太一神のことです。つまり、太一神=天御中主=北辰星=妙見となり、日蓮宗において北辰妙見尊星と呼称される善神となっています。北辰である妙見尊を、天御中主と同一とする神道的解釈なのです。(石川修道著『国難に立ち向かった中世の仏教者』七四頁)。出雲路十念寺の澤了が謹集した『鎮宅霊符縁起集説』上下二巻があります。奥書に宝永四丁亥年八月吉日に編集したことがわかります。本書は澤了が「第一化現次第大意」から「第四十三霊符七十二道之解釈」まで、四十三の項目に亘り鎮宅霊符神や妙見信仰、霊符の図に関する事柄をのべたもので、鎮宅霊符の総解説書となっています。これによりますと天地草創のときに円形のものが出現し、その中心に一点の神があった。これが北辰尊星であり、この宇宙の根源の神である星から陰陽が生まれて日月となり、また五を生じて五行となり人間を産んだとし、その根源を遡ればまた一点の北辰尊星となり、それは太一神であると説いています。(吉田光邦著『星の宗教』二四〇頁)。太一陰陽五行思想(陰陽五行思想)においては、 太一―――一元思想 陰陽―――二元対立思想 五行―――循環の玄理 となります。太一(北極星)と北斗七星の関係をみますと、北極星の神霊化が最高の天神である太一のことです。太一と太子・后の天帝一家の居所は紫微垣です。つまり、動かない星である北極星を太一といいます。その周りを一年の周期で廻るのが北斗七星で、天帝と乗車としての関係にて捉えるのが基本となっています。太一は太極の神格化でもあります。(吉野裕子著『陰陽五行思想からみた日本の祭』三六頁) 北極星=太一 太極 =太一 妙見菩薩は北斗星のシンボルであり、別に紫微大帝・上元大乙神ともいわれます。紫微は北極付近にある星座で、中国で紫微宮は宮廷の内廷を意味します。つまり、妙見菩薩は帝王を守護する機能をもつとされたのです。道教では天を主催する神の名となっています。 太一=天皇大帝=昊天上帝 後漢の訓詁学者である鄭玄(じょうげん、一二七~二〇〇年)は、古文学を確立し「易経」「尚書」「周礼(しゆらい)」などに注を施し、漢代経学の集大成を行ないました。その古注に「昊天上帝は冬至に広い野の円丘で燔祠(はんし)する天皇大帝星」と書かれており、『続日本紀』には、桓武天皇の延暦四(七八五)年の冬至に天神を祀り、同じく六(七八七)年には昊天上帝が燔祠されたことが記載されています。朝鮮半島の寺院は山紫水明な深山幽谷に建てられ、必ず七星神が祀られています。七星神の主神は北斗七星です。高麗時代には災厄をなくす儀式が宮廷の七星閣において行われています。朝鮮寺院の中枢である北斗七星に対する信仰は、星田妙見宮をはじめとする妙見信仰として、生駒には古くから見られます。 伊勢には曽て妙見町があり間(あい)の山の北西部に妙見堂がありました。外宮の神官をしていた度会高主の一人娘は、大物忌として内宮へ朝の御饌を供える途中に勢田川で溺死します。遺体のかわりに川底から童形の木像を感得し、尾部御陵に奉安して一族の繁栄を祈ります。末子の春彦(白太夫)は仁和四(八八八)年に、陰陽道の北極星信仰である山宮祭を行い妙見信仰を始めます。これが伊勢における妙見信仰の始まりで、尾部御陵に奉安した木像は常明寺に祭られます。髪をみづらに結った童子像が伊勢の妙見像の特徴です。この髪型は奈良時代かそれ以前の造形といいます。(『伊勢の妙見さま』伊勢妙見堂発行。一二頁)。『本化別頭仏祖統紀』に、日蓮聖人が伊勢の常明寺に滞在したときに、妙見大菩薩が示現されたとあります。同じく『神道史大辞典』(九四二頁)にも、日蓮聖人が常明寺で北辰を感得したとあります。常明寺は外宮の祭式を取り仕切る渡会氏の氏寺です。日蓮聖人の当時の安房の御厨の神官は、渡会一族の會賀小太夫(渡会光倫)で、會賀(あおか)が岡野(おかの)と転じて継承されているといいます。(石川修道著『国難に立ち向かった中世の仏教者』七七頁)。日蓮宗の尊像は立像と座像があり、立像のときは岩上の青亀の上に立ち、両手で剣を地に立てています。座像は日乾上人の創案といわれ鎧を着て剣を頭上にかかげ左手で金剛印を結んでいます。この剣はもと天に向けてもっていましたが、その上を通過する雲が真っ二つに分かれるのを見て、あまりにも霊験があらたかすぎることから受け太刀にしたといわれています。(掛下節怜稿「妙見信仰」(『日蓮宗の御祈祷』所収一五四頁)。さらに、妙見信仰が「北斗七星」に対する信仰であり、並んで虚空蔵菩薩信仰は「金星」に関わりをもち、両車は奈良時代からその信仰がある点において、妙見信仰と虚空蔵菩薩との関係をみることができます。日蓮聖人が得度された清澄寺の本尊は虚空蔵菩薩です。日蓮聖人は『善無畏三蔵鈔』に、 「而るを日蓮は安房国東條郷清澄山の住人也。幼少の時より虚空蔵菩薩に願を立て云く、日本第一の智者となし給へと云云。虚空蔵菩薩眼前に高僧とならせ給て明星の如くなる智慧の宝珠を授させ給き。其しるしにや、日本国の八宗並に禅宗念仏宗等の大綱粗伺ひ侍りぬ」(四七三頁) とのべているように、日蓮聖人が幼少のときに虚空蔵求聞持法による祈願をされたのは周知のことです。虚空蔵求聞持法とは虚空蔵菩薩によって記憶力を成就する修法ですが、これが星信仰と重なるのは、虚空蔵菩薩の化身として「明星天子」(金星)に祈願をする行法があるからです。この行法は記憶力の増益を目的とするもので、大安寺の道慈律師が唐から像と共に養老二年(七一八)に将来したといいます。古くから山岳宗教者が入っていた山は、虚空蔵菩薩と関わりがあります。胎蔵界曼荼羅には虚空蔵菩薩が勧請されていることからも、虚空蔵菩薩にたいする信仰は密教系の寺院に必ずあり、妙見信仰と並ぶ星信仰といえます。このことからか、日蓮聖人が妙見信仰をとりいれたために、中世以後では寺の守神となったり、武将の守護神となったともいいます。(『日本の古代』、鎌田茂雄稿、四一六頁)。 能勢妙見はもともと付近一帯を治めていた能勢一族の守護神でした(『摂州名所図絵』)。能勢氏は久々知妙見を開いた多田満麿を鼻祖とし、源賴国が長元年間(一〇二八~三七年)に能勢郡地横に城を築き能勢を名のりました。(『尊卑文脈』)。『欲急解』に「凡そ七物は上は七星に応ず」と、薬草を七星に配し、地横を破軍星に擬しています。破軍星は妙見の本地という説があり関連性が指摘されます。(野村耀昌稿「近代における妙見信仰」『近代日本の法華仏教』所収二三四頁)。玉持院日然上人が慶長五(一六〇〇)年に始めて能勢に弘教し、頼次は改宗します。さらに、日乾上人を招いて法華経の奥義を聞き、慶長一〇年に領内をあげて日蓮宗に改信しました。七面大明神も北辰尊星であるとする説があります。なぜならば七面大明神は足下に白蛇と亀を踏むからで、玄武で地の象徴、右手に剣を持ち左に蓮華を持ち背後の円光には七曜が配されているからとします。(吉田光邦著『星の宗教』二四四頁)。また、七面天女の本地は吉祥天とも言われ、北斗七星の一つである文曲星を吉祥天とし、妙見尊・吉祥天・七面天女は同一視されます。七面山一帯は武田信玄当時、甲州金の一大産地であったと言われ、日蓮聖人が「日本第一の智者となし給へ」と祈った房州の清澄寺には虚空蔵菩薩(明星天子)と妙見尊を祀っています。清澄寺の山号は千光山、鉱山神の一つ千手観音より由来し、千手観音を千光仏ともいいます。院号は金剛宝院、金剛とはダイヤモンドのように堅くて不変の金属をいいます。(『日蓮宗新聞』平成一〇年八月一日)。 北辰の目面しい用例に、小樽市立北山中学校の校章は、星と山との組合せを用いています。その理由に『論語』の為政篇に「政をなすには徳をもってす。たとうれば北辰(=北極星)その所に居り、衆星これに向かうが如し」とあるように、北極星は理想の光であり衆望の的であることから、特に北の国北海道の象徴ともなるとしました。同じ北海道の者として北の国の厳しさと誇りが感じられます。 【鎮宅霊符神】鎮宅霊符神は道教の経典である『太上秘法鎮宅霊符』にあるように、北辰(北極星)・北斗七星を神格化した道教の神のことです。つまり、北辰・北斗を神格化したのを鎮宅霊符神といい、北斗七星を中心とした天上の星々を神格化した道教の神です。中国では北斗七星は天帝(北辰・北極星)の乗り物で、人々の生死や福過を支配するといいました。『太上秘法鎮宅霊符』に記載された『抱朴子』に、北斗と日月の字を朱書した護符を身につけると負傷しないとあり、人の命を司る神とされました。霊符は神符(お札)のことです。この鎮宅神が日本の神道の天御中主神と習合されました。それが仏教に入って「北辰妙見菩薩」と変じます。妙見信仰はかつては「鎮宅霊符神」と言われていたのです。奈良市陰陽町にある鎮宅霊符神社は、伝承の記録の残る最古の鎮宅を祀っています。陰陽町は元興寺極楽坊周辺の一角にあり、陰陽師達が住んでいた地区です。鎮宅霊符神社は陰陽師の末裔が代々維持されてきたそうです。祭神は天御中主で『古事記』(日本古典文学大系『古事記祝詞』四九頁)の冒頭において、最初に誕生した神とされています。(国生みを行った伊耶那岐神・伊耶那美神は十二代目となります)。「鎮宅」とは、家・屋敷の安全を願うこと、そして家族の幸せを願うことです。ですから鎮宅霊符神とは、霊符を使った呪法により家内を守護する神をいいます。この神社の鎮宅霊符神がいつから天御中主と言われたかは不明といいます。(福永光司・千田稔・高橋徹著『日本の道教遺跡を歩く』二二七頁)。霊符神信者が本宮として尊崇しているのは、熊本県八代市宮地町の鎮宅霊符社といいます。(金指正三著『星占い星祭り』一六九頁)。 道教に「鎮宅霊符」という札があります。七二体の神像が画かれ、中央に尊星王が大きく画かれています。妙見信仰はこの「鎮宅霊符」などの信仰と混じり合いながら形成されました。このことから文字信仰は妙見信仰に繋がるといいます。七十二種の霊符の数の通説は、儒家の先天の八卦と後天六十四卦を加えた易にもとづいたとする説です。また、一年を七十二の季節に分ける七十二候からでたと言う説があります。また、天の九点、地の九州、人の九つの孔、加えて二十七、三倍して八十一、これから天の九を除いて七十二との数字合わせの説があります。七十二種の霊符の数の説は複数あります。七十二は中国では古くから聖数として行われてきた数でもあり、『抱朴子』(巻一七)も七二の霊符があることを説いています。起源はここにあると思われます。また、北斗の第七星を破軍星というので、中世以降には千葉・相馬・大内氏などの武士間では、妙見菩薩を弓矢の神としました。千葉氏の祖である平良文(村岡五郎。八八六年生まれ)は平将門と戦い勝利を得ます。このとき妙見菩薩を勧請しています。平良文の父は上総介として東下した高望王で、その五男になります。高望王の曾祖父が桓武天皇です。(桓武天皇ー葛原親王ー高見王ー高望王ー良文)。桓武天皇は北辰の昊天上帝を祀っています。ここに、千葉氏の北辰信仰があるといいます。この系図に胤貞がおり胤貞の次男は中山法華経寺第四世の日祐上人です。秩父大宮の秩父妙見宮は、平良文が逗留して妙見菩薩を勧請したところで、現在は秩父神社と改称されています。ここに、妙見像を刻んだ版木と、太上神仙鎮宅霊符神を刻んだ版木が保存されています。 「鎮宅霊符」は天地三八㌢、左右二一㌢の大きさで、枠内の中央上に神仙があり、抱卦と示卦の両脇侍の童子像があり三尊像となっています。その上に旋璣八卦の図があり左右と下部に七十二の霊符が配されています。「鎮宅霊符神」の縁起を次のようにのべています。前漢の孝文帝が弘農県に赴いたとき、劉進平という富豪がいました。劉進平はその由緒を、「ある日、二人の書生が来て私の宅が零落していることに同情し、七十二の霊符を伝授し、この法を修すること十年にして富豪となり、二十年にして子孫繁栄し、三十年にして必ず白衣の天使が汝の宅に来るであろう、と言って立ち去った。書生は門を出て五十歩ばかりで一条の白気となって天に昇って消えてしまった。それよりこの修法を行うと忽ち今日の富を得、天子までおいでになったのである」と答えます。これを聞いた孝文帝は、自らも祭祀し民家に「鎮宅霊符」の法と符を伝え家内安全を祈願させます。これを「鎮宅霊符神」と呼び、霊符の本体は「北辰星」であると説いています。これは、中国に道教が開創されたのが後漢の順帝の帳道陵に始まるので、孝文帝に附会した説話は捏造といいます。しかし、「鎮宅霊符」の内容は理解できます。また、推古天皇三年九月十八日に、周防国に星降りの奇瑞があり、翌々年に多々良浜に百済の琳聖太子(聖明王の第三子)が来て、北辰妙見を「鎮宅霊符神」として祭祀し、太子は多々良姓を名のり大内氏の祖となります。(野村耀昌稿「近代における妙見信仰」『近代日本の法華仏教』所収二三〇頁)。場所は肥後国八代郡白木山神宮寺といい、琳聖太子により七十二霊符の信仰がもたらされたとします。符は上方に七星と諸星を画き、下方には道教で用いる絵文字を書きます。この文字は劉進平が伝えたといいます。(吉田光邦著『星の宗教』二四二頁)。宇佐八幡宮の第一殿の脇殿に北辰社があり、中世には神像が祀られ亀卜の神事がなされています。五世紀頃に新羅の陰陽道を取り入れた呪術仏教の影響を受けたといわれます。北辰の神は卜占の神であり、北九州香春岳(かわら)の鉱山を開発した新羅の鍛冶シャーマン辛島氏がもたらした信仰といいます。京畿における北辰信仰の伝搬はこの宇佐が起源となったといいます。(村山修一著『日本陰陽道史話』三五頁)。 【二十八宿】二十八宿とは天球における天の赤道を、二八のエリア(星宿)に不均等分割したもので二十八舎ともいいます。また、その区分の基準となった二十八の星座(中国では星官・天官といった)のことで、中国の天文学・占星術で用いられます。江戸時代には二十八宿を含む多くの出版物が出され、当時は天文・暦・風俗が一体になっていました。現在も活用されています。古代中国の天文学は黄道に沿って天を四宮に分け、そこに四神を配当しました。この四宮を七分し二八の星宿を定めました。これが二十八宿です。斗宿は二十八宿の一つで減歩七宿の首宿です。構成は八星座からなり、斗宿六星は南斗のことです。南斗は別名天機といわれ天廟とされています。斗宿のなかで重要なのは南斗についで「鼈」です。天の川にいるべき天上の鼈がそこにいない場合は、地上の川が溢れたり、川筋が変わるといわれ、天鼈は地上の水さえも支配する星といわれました。(吉野裕子著『陰陽五行思想からみた日本の祭』一七〇頁)概要は東北西南の四象からなっています。すなわち、東方七宿――角(かく)(すぼし)・亢(こう)(あみぼし)・(てい)(ともぼし)・房(ぼう)(そいぼし)・心(しん)(なかごぼし)・尾(び)(あしたれぼし)・箕(き)(みぼし)。北方七宿――斗(と)(ひきつぼし)・牛(ぎゅう)(いなみぼし)・女(じょ)(うるきぼし)・虚(きょ)(とみてぼし)・危(き)(うみやめぼし)・室(しつ)(はついぼし)・壁(へき)(なまめぼし)。西方七宿――奎(けい)(とかきぼし)・婁(ろう)(たたらぼし)・胃(い)(えきえぼし)・昴(ぼう)(すばるぼし)・畢(ひつ)(あめふりぼし)・觜(し)(とろきぼし)・参(しん)(からすきぼし)。南方七宿――井(せい)(ちちりぼし)・鬼(き)(たまおのほし)・柳(りゅう)(ぬりこぼし)・星(せい)(ほとおりぼし)・張(ちょう)(ちりこぼし)・翼(よく)(たすきぼし)・軫(しん)(みつかけぼし)の二八をいいます。 二十八宿の星座は四つの方角の七宿ごとにまとめられ、その繋げられた形は四つの聖獣の姿に見たてられます。東方の七星座をつなぐと南を頭とし北を尾として横たわっている蛇に見えるので龍としました。これらは二十八宿の星の精として五色に配当しました。これが、東方青龍・北方玄武・西方白虎・南方朱雀の四象(四神あるいは四陸ともいう)です。星宿に東西南北の定位があるのではなく、春分の午前零時における各宿の位置により見ています。春分に南中するのが朱雀であれば、そのときに北方にあるのが玄武七宿、東にあるのが蒼竜七宿、西にあるのが白虎七宿となります。各宿が南中するのは、次のようになります。 春分南中 ――朱雀宿。夏至南中 ――蒼竜宿。秋分南中 ――玄武宿。冬至南中 ――白虎宿 中国では十二星座のかわりに二十八宿を用いて、射手座の西半分を箕宿(きしゅく)、東半分を斗宿(としゅく)としていました。箕はモミをふるう「み」の事で、矢の下の四つの星の四角形を箕としたようです。中国ではここを風伯(風の神)のいる所とし、畢宿(ひっしゅく、牡牛座のヒヤデス星団)を雨師(雨の神)のいる所としました。詩経に「月、箕にかかれば風砂をあぐ」とあるように、軍師たちは箕宿に月がかかると風の前兆と見たり、また、この星宿に風を祈って敵軍を悩ませたそうです。『礼記』の曲札上に、天子の軍の前軍は朱鳥の旗を立て、後軍は玄武の旗を立て、左翼軍は青龍を立て、右翼軍は白虎を立て、招揺軍の旗は中央に立てるとあります。招揺星は北斗七星のことです。『大唐開元礼』『大唐郊祀録』には、昊天上帝を祭る円丘の第三階に二十八宿の神位があり、四神は昊天上帝の従祀の神となっています。四神は三韓人が信仰しており、後漢の四神鏡が輸入されています。、天武天皇が皇后(持統天皇)の病気平癒を祈って建てた(六八〇年に発願)のが薬師寺で、その本尊薬師如来の台座に四神が浮き彫りされています。文武天皇は大宝元(七〇一)年正月一日の朝賀の儀式に初めて四神旗を用いています。高松塚の四神図も同時代になります。『和漢名数続編』に四神は方位を正す神であるので、相地や家相など四神相応の要件があることを書いてます。平安京は船岡山が北の玄武、巨椋池が南の朱雀、鴨川が青龍、山陰山陽の両道が白虎の四神になっています。これを判断(占う)するのが陰陽師です。 斗宿には六つの星があり、形が北斗七星を小さくして伏せた柄杓と見て南斗六星と呼びました。西洋でも北斗七星を「大きなさじ(Big Dipper)」といい、これに対して南斗六星を「(小さな)ミルクさじ(Milk
Dipper)」とよびます。中国の二十八宿の斗宿の別名です。北天の北斗七星の対として南斗六星といいます。北斗七星と同じように南斗六星は黄道上にあり、太陽や月などの惑星の通り道であることから重んじました。道教では北斗七星は死を司る神(北斗星君)、南斗六星は生(寿命)を司る神(南斗星君)として、「碁をかこむ仙人」という話があります。南陽のある村に趙顔(ちょうがん)という男の子がありました。五月のある日、麦畑で働いていると、どこからか馬に乗って来た男が、趙顔を見つけて立ち止まり、「かわいそうに、二十歳までは生きられまい。」とつぶやいて走って行きました。そして、待っていた管輅にその話をすると、「北側の仙人は北斗七星で、南側の仙人は南斗六星じゃ。北斗は死を司り、南斗は生を司る。人が母に宿るのは北斗と南斗が相談して決まるのじゃ」と言ったという話です。 |
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