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◆第四節 役行者と修験道○役行者神仙思想から修験道へ移行させた人物に、役行者(六三四~七〇一年)の存在があります。七面山に役行者の尊像があることからも、役行者はどのような修行者であったかを知る必要があります。修験道の教義・法則・歴史に関する文献に『修験道章疏』があります。このなかの役行者に関する伝記に、「役行者本記」「役行者顛末秘蔵記」「役君形生記」「役公徴業記」があります。このなかで古いのが室町末期の「役行者本記」です。役行者について最も古く確実な記録は、『続日本記』(七九七年)の「文武天皇三(六九九)年五月二四日の条」です。そして、役行者が孔雀王呪法を修法したことを記述したのは『日本霊異記』です。役行者の呪法の名声に託して孔雀王呪法の効験を広める目的があったという説があります。この『日本霊異記』の記述が、後の『今昔物語』『本朝神仙伝』『扶桑略記』『元亨釈書』などに引き継がれていきます。この過程に伝説は変化します。その時代の人々に適宜な内容に変化するといいます。その一つが各霊山の開祖とする伝説です。(宮本袈裟雄著『里修験の研究』三四五頁)。役行者の場合も大峰に埋葬した棺に遺骸はなかったとし、摂州にて姿を見たという伝説は、不死の境地に達成したことを示そうとしたと思われます。基本として変わらないのは仙人としての人物像です。追従した修験者たちが理想としたのも、山林斗藪(修行)を行うことによって、神仙の域に達することでした。役行者像は修験道の歴史において、その未成立の時代、確立された時代、教派として伸張していく時代ごとに、修験者集団の開祖役行者の伝承が変遷します。それを、成立期(八~一一世紀)、確立期(一二~一五世紀)、教派修験の確立と里修験化(一六~一九世紀)に分けて、修験道にみられる道教から受容された要素を分析する見方があります。(宮家準著『役行者と修験道の歴史』『修験道と日本宗教』一一二頁)。 役小角を「賀茂役君小角」(かものえんのきみおづの)と呼びます。姓は君、幼名を小角・金許麿といい、大和国葛城上郡(御所)茅原に生まれています。役氏(役君)は三輪氏族に属する地祇系氏族で、加茂氏(賀茂氏)から出た氏族でした。賀茂始祖伝によりますと、一族は宮崎の高千穂に住んでいました。賀茂建角身命(たけつぬのみこと)の代に神武天皇の東征の際(天尊降臨)、日向の山中で日の神(高木神・天照太神)からの天啓を受け、長髄彦との戦いで苦戦していた神武天皇の元に赴いて、紀州熊野から大和へ至る道を先導しました。これにより天皇より八咫烏(やたがらす)の称号を与えられました。神武天皇在位中は葛城に駐まり天皇を補佐し、天皇の亡後は岡田の賀茂に閑居していましたが、神武天皇の子の綏靖天皇が再び召しています。岡田付近の木津川の流れも昔は「鴨川」と呼ばれていました。賀茂氏は雄略天皇の頃に葛城山の勢力を倒して、ここに展開したものと推定されています。雄略天皇の以降に賀茂一族が鴨川、秦一族が桂川沿いに展開して、両氏族が京都の開拓を始めます。賀茂神社の祭神である別雷大神(わけいかづち)の祖父が建角身命で、葛城峰に留まった一族に役行者がいます。加茂役君(賀茂役君)とも呼ばれる役民を管掌した一族であったことから、「役」の字をもって氏とし、大和国・河内国に多く分布していたとされます。賀茂氏は高鴨神社に仕える神官で、「鴨」を名のる古い社の発祥の地はこの高鴨神社です。高鴨神社の祭神を「味耜高彦根神」(あじすきたかひこねのかみ)といい、「耜」は鉄製農具を意味しています。小角は金属に関係をもつ賀茂氏を出自としています。葛城山麓にはかつて朝町銅山が稼働し、明治二五年頃に坑夫が二〇人くらい働いていたといいます。父の賀茂公大角は葛城山を奉斉して、葛城山神の神託を朝廷に奏状する代々の呪術師で天神族の一員でした。葛城山の神をまつるのが山麓の豪族である高賀茂朝臣で、その司祭者が役行者といいます。ですから役行者は呪術を駆使した帰化人系の呪法家だったのです。役行者は高賀茂氏からしますと神奴(かみのやつこ。かんやつこ。しんど)の長といいます。つまり、神社にいて掃除などの雑役を務めた奴婢ということになります。『日本霊異記』に「役ノ優婆塞者、賀茂ノ役ノ公ノ氏、今ノ高賀茂ノ朝臣者也。大和ノ国葛木ノ上ノ郡茅原ノ村ノ人也」と、高賀茂氏につかえた茅原の出自であることが書かれています。また、武内宿禰の後裔とされる葛城氏は、実在が確認できた日本最古の豪族で、古墳時代の大和葛城地方に本拠を置いていました。邪馬台国の東遷いこう紀氏は紀伊国に進出したといわれ、葛城氏と同じように武内宿禰を始祖とします。武内宿禰の五男が紀(木)角で、その弟が葛城襲津彦(そつひこ)です。もともと天道根命(あまのみちねのみこと)、または御食持命(みけもち)を祖とする「神別氏族」でした。神皇産霊尊―天御食持命―彦狭知命─手置帆負命─天越根命─比古麻命─天道根命という系図があります。襲津彦は漢人を連れ帰り、桑原・佐糜(さび)・高宮・忍海(おしぬか)に住まわせ葛城氏の拠点とします。南郷遺跡群から韓国と同じ大壁造の建物が検出しています。後述するように、役行者が葛城山(葛木山、金剛山)にて修行をしますが、葛城氏と紀氏は一族であるところに、道教との関連性がうかがえます。巫術などのシャーマニズムには脱魂と憑依がみられ、機能的には憑依のほうが強いといいます。卑弥呼は女性シャーマンの代表といいます。男女がペアをくむのが、神功皇后と武内宿祢・中臣烏賊津使主になります。男性のシャーマンの代表は役行者といえます。この流れが現在の行者や祈祷師などに受け継がれているのです。(『神道史大辞典』四六八頁)。 葛城山系の主峰である金剛山には金剛砂があり、二上山の近辺には石英や雲母などがあります。この条件のある場所を選び、中国から帰化した道士が仙境として住んでいたといいます。このことから、役行者は中国の道術・方術・符呪・呪禁を学んでいたと考えられ、鬼神を使役する呪法は道教を基盤とします。(宮家準著『修験道と日本宗教』一一四頁)。また、中国では茅山派の陶弘景に見られるように、すでに神仏習合の思想はできており、役行者においても仏教を受容する素地はできていました。(重松明久著『古代国家と道教』四四五頁)。一七歳の時に元興寺で孔雀明王の呪法を学んだといいます。『孔雀王経』は叔父の願行上人から修得した精神統一に用いられたともいいます。(知切光蔵著『日本の仙人』一七頁)。「孔雀明王呪」の効験を役行者に託したのが『日本国現報善悪霊異記』の記述であるといいます。(和歌森太郎稿「山岳信仰の起源と歴史的展開」『山岳宗教の成立と展開』所収。三二頁。『修験道史研究』三三頁)。役行者は一七、八歳のころには巒気(らんき)と融合したといいます。役行者の神通力は中国の大仙と軌を一にするといいますが、苦修練行の法は役行者の独自のものといいます。そして、三二歳の時に葛城山に登り、金銅孔雀明王の像を岩窟に安置して験術を体得します。ほかに、熊野や大峰(大峯)の山々で山岳修行を重ねます。そして、吉野金峯山で金剛蔵王大権現を感得し、修験道の基礎を築いた山岳呪術者といえます。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇一二七頁)。本地は曇無竭菩薩という説があります。また、百済経由の道教思想と、金剛蔵菩薩に代表される華厳系の密教との関係が想定されるといいます。(重松明久稿「修験道と道教―泰澄と役小角を中心として」『古代国家と道教』所収、四四五頁)。 平安初期の奈良薬師寺の景戒が、弘仁一四(八二三)年ころに編集をおえた、日本最初の仏教説話集である『日本霊異記』(『日本国現報善悪霊異記』)に、役小角は仏法を厚くうやまった「役優婆塞」(僧ではない在家の信者)と呼ばれています。仏教的には下級の者ということで、日蓮聖人が「役優婆塞」(『忘持経事』一一五一頁)とのべているのは、当時の仏教者にとって当を得た見解なのです。同書には「孔雀明王の呪」に長じ、神通力を得て山林を飛行し鬼神を繋縛したとあります。鬼神とは人々が畏怖する魔性の存在をいいます。この鬼神を鎮める呪術者の代表が役行者でした。役行者は山伏修行者ではなかったのですが、のちに山伏の祖型となり修験者の祖師となります。また、役行者は成仏することを目的としたのではなく、不老不死の仙人になるという、現報本願の心持ちが強くみえます。鬼神を使役することが『後漢書』の方術や、葛洪の『神仙伝』や『抱朴子』などに共通します。つまり、役行者は道教の神仙思想を基盤としていたのです。役行者が仙人として描かれる背景には、葛洪の仙道の影響があります。このことは、この時代に山岳修行をしていた者に共通したものと思えます。あわせて、『続日本記』には鬼神(精霊)を役使して水をくみ薪をとらせ、その命令に従わなければ呪をもって縛り付けたとあります。(「能役使鬼神」)。この表現は中国の諸方術書にみえる表現で、鬼神とは山人に近いと言います。役行者が前鬼・後鬼を従えて給仕をさせたという記述は、張魯の鬼道いらいの道教の信仰が継承されていたことを伺わせ、それは、紀氏・葛城氏の祭祀文化にみることができます。そして、「汲水採薪」は提婆品の文(『開結』三四四・三四五頁)であり、これにより苦行奉仕の法としています。これに逆らえば「以咒縛之」というところに、相手が鬼神であり、役行者の力が強かったことを表現しているのです。山林苦行については『過去現在因果経』などに見られます。『日本霊異記』にいう「優婆塞」とは、神秘的な霊力をもっている行者をさしています。たとえば、春日山一帯の諾楽の東山の山寺にいて、執金剛神の塑像の脚に縄を結んで礼仏悔過した金鷲(こんしゅ)優婆塞。また、和泉の血渟(ちぬ)の山寺にいて、性欲を問題として吉祥天女を渇仰した信濃国優婆塞などが載せられています。これらは景戒が生きた時代が飢饉や疫病、それに、戦乱の社会であったこと。そこに、仏教者として勧善懲悪や因果応報などを説くため、怪奇を交えた唱導説教の種本として使用したということなど、景戒の人生観・死生観をさぐる良材となっています。修験道の祖といわれる役行者も、本書に置いては優婆塞としての観点にあるのです。 役行者は文武天皇三(六九九)年五月二四日に伊豆流罪となります。これは役行者が葛城山と吉野の修験集団の統合をはかったことで、国家から危険視されたという見方があります。(五来重稿『近畿霊山と修験道』一四頁)。葛城山のあたりは葛城氏と大和王権との政治的な衝突がありました。役行者を讒奏した一言主は国譲りをした大国主の子、事代主と同体、あるいは分身ともいいます。葛城峰の一言主神が役行者を謀反の疑いにて讒言したことは、高加茂氏一族の抗争とみる見方があります。また、山岳宗教と呪術とが、この時代に重要な意義をもっていたことがうかがえます。(和歌森太郎著『修験道史研究』三一頁)。役行者は古来の山岳呪術者として、卓越した力をもっていたところに役行者処罰事件が起き、この伊豆流罪により妖怪をあやつり人を惑わすという強烈な印象をいだかせたといいます。武内宿禰・葛城氏と一言主神の関連について、まず大伴・中臣氏との関係もあります。天岩戸神話に登場して天照太神を祭るのは、中臣連の祖天児屋命、忌部首の祖太玉命、玉祖連の祖玉祖命、猨女君の祖天鈿女命、鏡作連の祖石凝姥命などです。また、天孫降臨神話において天降る天孫瓊瓊杵尊に随伴するのは、右の神々と大伴の連の祖天忍日命、久米直の祖天津久米命らで、猨女君をのぞけばいずれも連・首・直を称する伴造(とものみやつこ)の祖先神であって、臣の姓を有する氏の祭神は登場していません。つまり、大伴氏や中臣氏が連を称していることと、その祖先神が神代に天皇家の祖先神につかえた神話をもっていることとは無関係ではないのです。大和王権の各部司を分掌した豪族なのです。伴造には秦氏・東漢氏・西文氏など代表的な帰化氏族がおり、ほかに、弓削・矢集(やずめ)・服部(はとり)・犬養・舂米(つきしね)・倭文(しとり)などの氏があり、連・造・直・公などの姓を称しています。いっぽう、武内宿禰(建内宿禰)の後裔氏族が臣を称していることと、その祭神が天皇家の祖先神に奉仕した神話を所有しないことは、互いにつながりがあるといいます。武内宿禰後裔の上位氏族は、葛城地方や本拠地の神々を祭り守護神としていたのではないかといいます。葛城地方には『記紀』の神話・伝承に活躍する重要な神々がいます。それは、事代主神・味耜高彦根神・一言主神などです。いずれも天皇家の祖先神につかえた神話がありません。それどころか、事代主神・味耜高彦根神は天照太神と敵対関係にあった出雲の大国主神の御子神とされ、一言主神は先制君主雄略天皇をひれ伏させたと伝えます。葛城地方の神々は天皇家の祖先神にたいして独立的、反抗的であったと見られています。これは、武内宿禰後裔氏族が大王にたいして自立的な性格を有していたことと無関係ではなく、一言主神はもともと葛城氏の奉斉神であったといいます。『修験故事便覧』(巻一。九筒封条)に役行者より呪縛された一言主の石索を、越の泰澄(六八二~七六七年)が解こうとしていると、役行者が叱り止めさせたことが書かれています。これを新羅系の泰澄と一言主と、百済系の道教の信奉者である役行者の対立という見方もあります。後に役行者は当山派の修験道として展開し、泰澄は天台系の本山派として展開していきます。(重松明久著『古代国家と道教』四三七頁)。また、神武天皇と欠史八代の皇子たちは、元来、その後裔氏族であったとも指摘されています。武内宿禰後裔氏族や部民は、大王の食膳に奉仕するという共通性があります。上位氏族のなかで最も早く活躍したのは、五世紀前半から中葉にかけて大王家の外戚として権威を誇った葛城臣です。そして、武内宿禰は上位氏族となる葛城・蘇我・平群・波多・許勢・紀などの諸氏の祖とされるのです。(『日本の古代』一一、前之園亮一稿、二五五頁)。 役行者は諸国の神や葛城の一言主神に、葛城山と金峰山の間に橋を架けるように命じますが、一言主神は従わなかったので呪縛します。その讒言により伊豆に配流されます。役行者は験力により捕縛されずにいましたが、母が捕らえられたので母を許してもらうため、出頭して捕らえられたといいます。けれども富士明神の神文によって、三年後の大宝元(七〇一)年一月に大赦があり茅原に帰ります。そして、摂津の箕面山から母とともに仙人となって、天空に飛び渡唐したといいます。一言主神の讒言により伊豆流罪になったというのは『日本霊異記』の記述で、『続日本紀』には讒言したのは韓国連広足とあります。一言主神という神ではなく実在の人物が書かれており、正史である『続日本紀』の方が信頼されるといいます。(村山修一著『日本陰陽道史話』一九六頁)。韓国連広足は祖先の盬児が韓国に使いしたことにより韓国の姓を賜ったといいますが、本来、朝鮮からの渡来民であるといいます。ですから、広足は呪禁道に精通しており、天平四(七三二)年に典薬頭に任じられています。呪禁道は敏達天皇六(五七七)年に百済から渡来していました。この官吏の広足が役小角に弟子入りをしたのです。その真意はわかりませんが、結果的に官人の地位を利用して、当時、賀茂氏一族に禁ぜられていた一言主神の託宣を行い、それが朝廷に対して陰謀を企てたと中傷して、役小角を流罪にし失脚させたことになります。役行者は民間道教の道士であり、広足は官用道士の立場でした。 役行者は時をへるにしたがい伝説は発展し仏教的な山間修法の験者となります。役行者は神仙思想を取り入れていたことは確実なことです。(津田左右吉著『役行者伝説考』)。これにより謀反の罪に問われたという推測もなされました(五来重著『修験道入門』)。大陸から伝来した神仙思想・道教の呪法は継承されていたのです。ただし、このような仏教いがいの呪法を仏教徒は禁じていたのです。しかし、方術・小道・巫術などの呪術を取り入れたのが役行者と思われ、これらの道教、そして、仏教・陰陽道などが修験道にふくまれていくのです。(宮本袈裟雄著『里修験の研究』三五一頁)。つまり、雑部密教といわれる呪術性は、奈良時代に要求されていたことを示しています。(勝又俊教著『密教の日本的展開』二三〇頁)。同じように、陀羅尼信仰が僧尼や庶民のなかにも浸透していました。(『日本霊異記』)。純粋密教といわれる修法は、平安初期の空海により大成されていきますが、役行者などのように呪術を行った者として、敏達天皇のときに百済からきた日羅が勝軍地蔵法を修したこと、孝徳天皇のときに法道仙人が金剛摩尼法を修したこと、そして、泰澄が十一面観音法を修したことが挙げられます。役行者がどこまで修法と仏法を得ていたかはわかりませんが、日蓮聖人のなかには優婆塞としての程度の仏教理解であったと思われます。七面山に役行者を祀ることは、奈良時代末期における呪術性が保持されてきたことを示していると思います。その展開は空海の日本密教の教えによります。天台の密教(台密)は天台法華に融合させ帰一させることが根底にあります。これにたいし、真言密教は顕教である諸宗と異なった立場から教えを展開します。(勝又俊教著『密教の日本的展開』二六七頁)。ですから、空海の密教は釈尊の教を超えたとする独自性に、諸宗の上位に立つ優位性を主張しました。大日法身の雄大性が山岳信仰に合致し、これらの民族宗教をたやすく吸収したと思われます。なによりも山林優婆塞として四国の山岳にて修行をした体験が、密教の神秘性に附合したといえます。役行者が修験者の祖といわれるのは、平安時代の初頭に天台・真言の密教が山岳信仰に習合したことにあります。ですから、役行者が仏教の優婆塞であるとか、密教修法に長じた者といわれたのです。そして、大峰山と葛城山を両山、または、両峰と呼び、その他の霊山を国峰(くにみたけ)と称したように、中世いらいの修験道の霊山が各地に活気をもち、その霊山に役行者は登ったという伝説がつくられたのです。(『日本仏教史辞典』八二頁)。そして、愚勤住心編の『私聚百因縁集』巻八の「役行者ノ事」に、「山臥ノ行導尋源皆役行者ノ始テ振舞シヨリ起レリ」とあるように、役行者が山林を修行の場とした修験の祖とされたのです。 葛城山に関しては鎌倉中期の『大和葛城宝山記』(『日本思想大系』一九)があり、両部神道の立場から記したもので度会行忠は神宮秘記の最極書としています。(宮家準著『神道と修験道』六一頁)。和歌森太郎先生は役行者はほんらい大和の葛城山の呪術師であり、仏教者ではなかったとのべています。金峰山と葛城山との間に、呪力をもって橋をかけた優婆塞であるという伝説が平安前期にできたのは、吉野・金峰山に寄せる山岳信仰が強められた時期に、知名度の高い役行者の斗藪は効果があったのです。このときに行者という呼び名もおきたといいます。しかし、密教修行者を行者と呼ぶことがあるため、役行者と呼ぶようになったといいます。(『修験道史研究』新版三八九頁)。役行者が研鑽した密教の深さにもよりますが、「優婆塞」という呼称は空海や空也にもみられます。しかし、このような修験的な性格をもった優婆塞の呼称は、空也のころから絶えていきます。(井上光貞著『日本古代の国家と仏教』二〇三頁)。これは、「優婆塞」のレベルから、高度な仏教を主流とした修験道の確立したことを示すことでした。大峰山系が密教の金胎両界の曼荼羅とされたのに対し、葛城山は法華経の峰と呼ばれます。紀伊の加太の阿布利寺に序品の写経を納めた経塚をつくり、ここから二上山の普賢寺に勧発品を経塚に納め、この峰々に法華経二八品をめぐる修行が行われました。このため葛城山は法華経の世界とされました。首楞厳院(横川中堂)の鎮源が書いた『法華験記』(『大日本国法華験記』一〇四〇~一〇四四年頃)などの諸伝にみられるように、法華経の信仰は律令時代から盛んに行われ、法華持経者という修行者が誕生します。この持経者の修行の場は神仏習合の色彩が強い神社や、霊山と呼ばれる山岳が目立ちます。(『日本仏教史辞典』四〇五頁)。『法華験記』においても、吉野や大峰をはじめとした霊山を修行の場としています。また、三井寺の珍蓮、沙門蓮長、行空、道命などは、一所不住に法華経を読誦しながら遊行・巡礼した持経者です。個々の罪障感を根底として、法華持経による滅罪の実修というところは、日蓮聖人の佐後以後の行動と共通性があるといいます。(井上光貞著『日本古代の国家と仏教』二一七・三四四頁)。たしかに、法華持経者は「不惜身命」の教えを信念としており、これら、法華経の提婆品や常不軽品を実践するという信仰のもとに、修験者たちの修行が行われるようになったのです。ただし、日蓮聖人の持経者としての認識は、法華経を身読するというところにあります。伊豆流罪中における自分は「昼夜十二時に法華経を修行し奉ると存し候」(『四恩抄』二三五頁)と、山岳斗藪の持経者とは違っています。小松原の刀杖の迫害を受けた日蓮聖人は、持経者ではなく行者という認識に立ちます。『南条兵衛七郎殿御書』に、 「されば日本国の持経者はいまだ此経文にはあわせ給はず。唯日蓮一人こそよみはべれ。我不愛身命但惜無上道是也。されば日蓮は日本第一の法華経の行者也」(三二七頁) と、勧持品の文を挙げ明確に行者とのべています。つまり、法華経を持経することから弘経へ開拓することです。観念から事行へと進展するところが、大きな違いといえます。 ところで、『甲斐国志』によりますと、役行者が甲斐に来たことにより、七面山の山岳修験が始まるとあります。中里日応先生は役行者が甲斐に来た証拠として、八代郡一宮興法寺の由緒書きと、右左口村の七覚山円楽寺の寺記、都留郡小篠花蔵院の『院跡開起書上帳』を挙げています。そして、甲斐における修験道の古い歴史と、これに準じて七面山が修験道の霊場であったと推測されています。(「日蓮聖人身延山御入山以前の七面山と身延」『棲神』四二号四四頁)。修験道が本格的に発展するのは平安時代(七九四~一一九二年)になりますので、役行者の影響をうけた修験者が七面山に入峯したと思われます。平安時代に信奉された山は、冨士山・金峰山・地蔵ヶ岳・鳳凰山・大菩薩などで、とくに、金峰山と富士山は山岳宗教の拠点となりました。七面山もこれらにつらなる修験の霊場であったと想像されます。その理由として、大峰山の七面山と小室妙法寺の七面宮との関係が、七面山と摺り合わせられるからです。役行者像が七面山に祀られたのは、大峰山の修験者との関係と思われます。役行者の後継は、一、役行者――二、義学(葛城山に籠もる)――三、義元(吉野大峰を護る。前鬼・後鬼は吉野・熊野の境界を護って前鬼の里に住んだ)――四、義真(摂津の箕面を開発した)――五、寿元(九州の彦山修験を開発した)――六、芳元(四国の石鎚山を開発した)――七、助音(淡路島譲葉峰を開発した)――八、黒珍(出羽の羽黒を開発した)となっています。二代目の義学も完全に仏教に染まったのではないといいます。(知切光蔵著『日本の仙人』二五頁)。しかし、初期の修験道は日本の山岳宗教に、仏教の呪術性が取り入れられることから始まったのです。道教と仏教は同じころに中国から日本に伝わりましたが、結果的にも道教の神仙思想より仏教の神仏習合思想のほうが受け入れやすく、密教の呪術神秘性が日本人に受容されたといえましょう。天台密教の根本三流、真言密教の当山派小野広沢流については、『日蓮聖人の歩みと教え』第一部第三章第二節「南都の仏教」を参照してください。 また、役行者の像と新羅明神の像との類似性が指摘されています。これは美術史家の視点からみたもので、この類似性は園城寺の聖護院門跡の修験道にあったといわれます。園城寺は大友皇子の子である大友与多王が、父天智天皇の追善のため、父が祭祀していた弥勒像を安置する寺院建立を願ったものです。天武天皇は「壬申の乱」では大友皇子と敵対していましたが、朱鳥元(六八六)年に寺の建立を許可します。大友与多王が自分の「荘園城邑」(田畑屋敷)を投げ打って一寺を建立しようとする孝心に感じいり、園城寺の寺号を与えました。天安二(八五八)年に円珍(八一四~八九一年)は、唐から多くの経巻や法具などを携えて日本へ帰国します。そして、翌貞観元年にはこれらの什宝を園城寺(三井寺)に唐院を設けて格護します。新羅明神(新羅善神)は円珍によって再興され、貞観四(八六三)年に園城寺に祭祀されたものでした。これより園城寺の鎮守神となっています。円珍が唐からの帰途、船中に老翁が現れ、円珍のために仏法を守護すると誓ったのが新羅明神で、円珍が園城寺を創めたとき再び新羅明神が現れ守護したと言います。のち、園城寺の境内にある北野に住んだといい、現在の新羅善神堂(国宝)に、この円珍が船中で感得したという老体の新羅明神を安置しています。神像は両体側部から彫成し、割矧ぎとしないで内刳りを入れた檜の一木造りで、高さ七八㌢で国宝に指定されています。頭髪とあごひげに細かな毛筋を刻み、着衣部には大振りな彩色および金銀截金文様があります。血走って極端に垂れ下がる目、鋭く高い鼻、神経質な細かい指などに異様な像容といわれますが、神秘的な感情をたたえながらも彫法は軽妙といいます。今は失われた両腕の持物は、画像では黄巻と錫杖となっていますが、現状では持物を留めた形跡はないといいます。この新羅明神像は伝法灌頂の受者いがいは拝礼が禁じられています。この新羅明神の造像は三門派の赤山明神に対抗したものという説(辻善之助先生)や、奈良時代初期に新羅から渡来した大友村主氏が、自ら祭祀していた新羅明神を氏寺である園城寺内の北野に祀っていたといいます。円珍が再興したときに護法神となった(宮地直一稿「山岳信仰と神社」『山岳宗教の成立と展開』)ともいいます。中世期の修験道は熊野三山検校が統轄し、園城寺門跡や聖護院門跡が勢力をのばしていました。役行者が修験道の開祖とされ造像されたとき、この像容が新羅明神に酷似した関連性が指摘されています。園城寺に安置されている最古の新羅明神座像は、永祥七(一〇五二)年に造像されたと推測されています。画像としては痩身老相像と肥満老相像があるといいます(石川知彦先生)。鎌倉・室町期の熊野曼荼羅に、右下隅に新羅明神、左上隅に役行者が描かれています。役行者像の最古といわれるものは、冨士山北麓の行者堂旧蔵(中道町円楽寺に格護されています)の半跏像(総高一一六、五㌢)です。一二世紀初頭のものといわれます。この類似性の背景には園城寺の増誉(一〇三二~一一一六年)が白河上皇の熊野御幸の先達を務めたことにより、熊野三山検校に補任されたこと、爾来、検校職は園城寺の重代職となったことにあります。寺門派が三門派と対峙する過程に、新羅明神を雛形とした役行者像が生み出されたといいます。(宮家準著『神道と修験道』二八二頁)。 『筥根山縁起序』に神仙として、聖占仙人・利行丈人・玄利老人などが登場します。四国の石鎚山には鬼神を駆使する上仙をはじめ、寂仙・石仙・常仙・法仙などがあります。山岳信仰の開基とされる日光の勝道上人や筑波山の徳一和尚は仏教者ですが、神仙とみなす要因がみられ、修験道と神仙思想は類似した修法(方術)をもっているのです。これを、役行者を道教の仙人に近い存在とすれば、修験者が役行者を理想としたのは神仙の境地に到達することが理想となりましょう。孔雀明法を体得したとすれば密教よりの役行者像ができてきます。修験道が神仙思想を受け入れてその柱の一つとした得意な存在であり、かつ、役行者を神仙としたことにより日本の修験道霊山を組織統一できた、という位置づけがなされるのです。(宮本袈裟雄著『里修験の研究』三五三頁)。役行者の存在はこのような神仙思想をもって、仏教のなかに位置つけられました。卓越した加持能力と自身の得脱を願うとき、道教には限界があります。たとえば、大峰の修験道は「神仙屈宅、賢屈所居」(修験道教典)というように、道教の教えを吸収し超越した形となって表れたといえましょう。行人という言葉は端的に目的をあらわした表現なのです。(五来重編『高野山と真言密教の研究』三頁)。 |
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