227.修験者の歴史的な動向               高橋俊隆

〇修験者(山伏)の歴史的な動向

験の起源を『踏雲録事』には釈尊入滅後八八〇年ころに、インドに出生した龍樹菩薩を伝灯弘通の大先達とし、中国においては帛尸梨密多羅、日本においては役小角に始まるとあります。これまで見てきたように、修験道は山岳崇拝の信仰を基とします。山は霊力があり神聖な場とするからです。入山することにより神聖な霊力が肉体に這入り込むという素朴な信仰を持っています。(『折口信夫全集』第二〇巻二〇五頁)。修験道の下地は原始神道における祭祀行事や態度にあるといい、そこに仏教が入って修験道となったので、修験道の活動には民族に遺る神事の要素や行法が見られるといいます。(和歌森太郎著『修験道史研究』六頁)。日本古来の山岳宗教をもとに、道教・日本神道・陰陽道などの思想・修法・呪法などを仏教に吸収して形成されました。仏道の修行として山岳に入る修験者は、悟りを開いて仏果を得るために敢えて厳しい山々で困苦を忍び心身を修練します。出家・在家を問わず即身即仏を実修する宗教といわれます。修験者と山伏は同じ修験道を実践する者で、日本各地の霊山を修行の場とし、自己に衣・食・住の厳しさを求めることによって超自然的な能力である「験力」を得て、衆生の救済を目指す実践的な宗教です。 この山岳修行者のことを「修行して迷妄を払い験徳を得る」ことから修験者、また、山に伏(臥)して修行する姿から山伏と呼ばれました。頭に頭巾(ときん)と呼ばれる多角形の小さな帽子のような物をのせ、手には錫杖と呼ばれる金属製のを持ちます。身体には袈裟と篠懸(すずかけ)という法衣を身に纏い、山中での互いの連絡や合図のため、ほら貝を加工した楽器を持っています。この特異な容姿から山伏と呼び親近性をもってきました。山伏の山の縦の三画は右から報身・法身・応身の三身。蓮華部・仏部・金剛部の三部。空諦・中諦・仮諦の三諦で、これを横の一画でむすび三身即一身。三部一体。三諦一念を示すとします。伏の字の人偏は法性、右の犬は無明で、両者をあわせて法性・無明不二の義を示すと解釈しています。このような室町後期に成立した修験道の教は、密教や天台本覚論、これを基盤にして成立した両部神道や山王神道の基盤にたっています。ここでは修験者と山伏の相違については触れず、ともに験者としての修法に取り組む者としてのべていきます。

修験道は修行と儀礼を主体とすることから教義に進展はみられません。山伏独特の修験十六道具は、それぞれ不二の世界、十界不動明王母胎などを象徴します。おもに密教や天台の理論を借用し、両者が混合されて発展してきました。役行者を祖師とするのも、大半は後世に仮託されたものです。後世の修験者のそれぞれの修行の経験や、験力に負うところが多いのです。修行を積むことにより普遍的神格との同化を求め、また、個別的神格を使役することよって、邪神邪霊を統率し除魔をするという世界観をもっています。山林において修行することは「禅行修道」(僧尼令第十三条)に基づくものです。また、山中入峯の行を「擬死再生」と考え、峯中で正灌頂を授かることに「即身成仏」を説きます。これを十界修行といいます。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏の十の段階のそれぞれに、行者の五体が大日如来の五大と悟る座法である床堅(とこづめ)・懺悔・修行者の犯した罪の重さを計る業秤・水断・水汲みの作法である閼伽(あか)・相撲・延年・護摩のための木を集める小木(こぎ)・穀断(こくだち)・金胎(こんたい)の秘印をさずける正灌頂の十種を修めることによって即身成仏できるとします。堀一郎氏は俗聖には修験系俗聖、念仏系俗聖、俗神道陰陽師系俗聖(巫祝陰陽師系)の三つ。修験を人神信仰と山中他界観念を背景として形成されたもの。修験には遊行的行者型、隠遁的行者型の二つのパターンをあげています。(『我が国民間信仰史の研究』)。これにより修験の位置づけがなされました。

時代が下るにしたがい修験者の質が落ちたと言います。すでに、延暦一八(七九九)年の勅語に、沙門が山林に陰住して人の嘱託をうけて邪法を行うことを禁止しています。この事実からわかることは、日本に在来した神仙家や座覡(御巫)が行った呪術や卜占などの占術を、仏徒も取り入れて行っていたことです。これは庶民の求めに応じたことであり、このような呪術の需要は長く続いていることを踏まえたいと思います。つまり、修験道の本質には巫術的なものがあるのです。山岳信仰や山伏出現過程についてみますと、修験道は日本古来の山岳信仰が、道教や仏教に影響をうけて、平安時代の中期ころに成立した宗教です。山岳修行により超自然力である験力を獲得し、呪術的な活動を行う実践的な儀礼宗教とされます。山岳信仰には民族的な山神信仰や、神霊が鎮座する山という神道的な神奈備信仰、そして、修験者における山岳斗藪信仰があります。修験道はこのような原始的な固有信仰を基礎として成立しています。(山崎時叙稿「近江山信仰の民族的研究」『近畿霊山と修験道』所収。四三五頁)。これまでの低山の神奈備信仰が高山へと移り、同時に里の方に神社が下がって里宮となりました。発祥地を中宮とするのが修験道の中宮発祥説です。(五来重稿「大和三輪山の山岳信仰」『近畿霊山と修験道』所収一七八頁)。清澄山も修験の山で虚空蔵菩薩を祀るのが証拠です。(宮家準著『修験道と日本宗教』七五頁)。これらの山岳は修験道が整備されると曼荼羅であると受容されます。古来の祖霊の山、恵みの山という観念に、真言宗の母なる山というイメージが付加されます。他界観としては真言宗は密厳浄土と見、天台宗は法華経の霊山浄土という見方をします。また、弥勒の浄土としての金峰山、観音浄土としての熊野の那智、阿弥陀の浄土としての熊野の本宮などのように、山岳そのものや時代により位置づけに変化があります。(宮家準著『修験道儀礼の研究』六二七頁)。

初期の修験者は遊行の優婆塞といわれ、葛城・吉野・熊野などの山岳を拠点として修行していました。その代表者となったのが、奈良時代の中期に活躍した役行者です。山岳仏教の成立は密教と陰陽道が、日本固有の山岳崇拝と結合したもので、その密伝の時期は早くに見られます。役行者の没後に朝廷は道教との兼ね合いから、山岳宗教を戒め禁止しますが(七一八~七七〇年)、山林修行者に験力が勝れた者が輩出しています。この時代に目立つのは吉野比蘇山寺で、神叡(~七三七年ころ)が入山して、自然智宗という元興寺法相系の僧を中核とした一派ができます。「虚空蔵求聞持法」により卓越した記憶力を得る修行で、これを自然智といい目標としました。また、山林にて禅行の観念をおこなう禅師がおり、山林修行者は禅師とも呼ばれています。(『仏教史概説』日本編。三六頁)。たとえば、熊野の永興禅師がいます。ほかに、大峰山の良弁(金鷲優婆塞。六八九~七七四年)、室生寺の賢璟(けんきょう。七一四~九三年)などの南都の僧侶も山岳修行をしています。神叡は「求聞持法」の行者として『今昔物語』(巻十一第五話)にのせられています。空海の「求聞持法」は吉野山に修行していた優婆塞からうけたともいいます。良弁は「執金剛神」と「不空羂索観音」の呪法を行じています。ほかに、日光補陀落山(二荒山、男体山)の勝道(七三五~八一七年)、加賀の白山の泰澄(六八二~七六七年)、英彦山(きこさん)の法連などもみえます。勝道は神宮寺(中禅寺)を建て千手観音をまつり「千手観音根本陀羅尼」の密教修法をして雨乞いなどをしています。法連は『続日本記』によりますと、医術のほかに咒医の力を体得して病気を治していました。(五来重編『高野山と真言密教の研究』一九頁)。称徳天皇が没し白壁王が光仁天皇として即位した宝亀元(七七〇)年に、道鏡(七〇〇?~七七二年)を下野薬師寺に追放し、同時に山林修行の禁を解きます。それまで山林行者を禁制していた天平元年四月の条に、仏法を偽って教化する者がおり、書符を封印して薬を合わせ毒を作っていた、と評価されているように危険性も併せもっていたことは事実です。しかし、山林行者のなかから徳行僧として迎えられる者が多く、平安時代になりますと最澄・空海の山籠修行の提唱もあり、両宗の密教僧たちの山岳信仰が興隆します。同じ山林修行であっても最澄は山林寂居といわれ、空海は山林苦行といわれます。この違いは空海が山林優婆塞としての生活を、入唐まで続けていたことにあるといいます。(井上光貞著『日本古代の国家と仏教』一〇七頁)。

比叡山では回峯行をはじめた相応、真言宗では金峯山で修行した小野流の聖宝、大峰山の道賢(日蔵)、浄蔵は有名です。このような山岳で修行し験力を身につけた者を修験者と呼ぶようになったのです。また、行基や道鏡も同じように山林・山岳修行者であり、多数の修行者はそれぞれ記憶力を増進するために「如意輪求聞持法」、罪障消滅の「如意輪観自在菩薩念誦法」、「如意輪陀羅尼法」などを修したといいます。修験者はそれぞれが信仰する仏典に依拠して山林修行をしますが、とくに、宗派に偏せずに自己の身心を鍛えるために修行をすることが多いのが特徴です。ゆえに、修験宗とはいわずに修験道といわれました。教義としては修験者の衣体・法具・修法に関するものが大半で、その多くは密教理論をもって意味づけられています。経典としては、『聖不動経』の、「験ありて法の成ぜんことを欲せば、山林静寂の処に入り、清浄の地を求めて道場を建立し、護摩事をなすべし。速やかに成就することを得ん」。また、『孔雀王経』等に「この呪文を咒持するものには、衆魔悪鬼盗賊水火旋風悪風諸病等の一切の悩患を離れ、一切の願うところを満足して、寿命百歳をたもつことを得る」。また、法華経の提婆品に「時有仙人。来白王言。我有大乗。名妙法蓮華経。若不違我。当為宣説。王聞仙言。歓喜踊躍。即随仙人。供給所須。採果汲水。拾薪設食。乃至以身。而作状座。身心無倦。于時奉事。経於千歳。為於法故。精勤給侍。令無所乏」(『開結』三四四頁)と説かれた「千載給仕」の文などを依拠としいています。ここに、釈尊前世の阿私師匠のことを、「仙人」と翻訳されていることに注目されます。仏道体得者の行動のなかに、仙人の要素が多分に含まれていたのです。

修験者は岩(岩窟)と滝を大事な修行の場としました。山林苦行の修行から神秘性な験力を得るためでした。また、その験力を受益しようとする者がいたのです。修験者の験力の現れとして加持祈祷が重視されます。庶民への修験活動については、『修験道章疏』『修験聖典』などによって概要が把握できます。方位や病気に関するものがあり、なかでも、治癒儀礼に関しての修法と呪符の用例が多く収録されています。「符咒集」に四四〇の修法が集められており、呪符を使う目的に産育や除霊治癒が大きなウエートを占めていたこともわかります。秘術としてこの符に三六の折り目を入れて折り、その上に筆で九字を切り入れる方法や、刀印で九字を切るという方法も書かれています。たとえば、虫歯の歯痛や火傷を治す呪や、野狐放符など多彩に見られます。虫歯の呪符には「急急如律令子安符」「天王之御子六十二」「虫是江南虫郤来食吾牙釘在椽頭上永世不還家」などがあります。「急如律令」は漢代の公文書の用語で、意味は律令のように至急にせよということで、それが修験者の験力を顕す呪文となったのです。仏典の経文としては、「一切除乱、摂念山林、億千万歳、以求仏道」(法華経序品『開結』六七頁)「長誦此真言、若末法世人、刀兵不能害、水火不梵漂」(『金剛峰樓閣一切瑜伽瑜祇經』)などがあります。治癒儀礼に共通していることは、病気・災難が邪霊・邪鬼・祟りなどの、超自然的な霊的な力によって生じるという論理があることです。そして、治病・除災は山岳修行によって獲得した霊的能力を行使することにより、目的が達成されると考えられました。ここに、さまざまな治癒儀礼がなされ、さまざまな符や呪文・祈祷・九字・加持・護摩・結因が駆使されたのです。護摩や諸尊法による祈祷や、修験者の験力による加持により災いを払い去ります。このほかに、憑きものおとしの調伏祈祷なども行います。簡略なものとして、呪符やまじないが行われました。修験者の火渡り・隠形・飛行などの験術や、九字・金縛り・筒封じなどの呪法もこれに類するものです。これらの基本として、道教の入山修行の際の禹歩、入山符(内篇十七、登渉)や薬(内篇十一、仙薬)に類するものが、修験道においても認められます。とくに、符呪は里修験が好んで用い、これについては『抱朴子』を引いて、符は老君に始まるもので神明から授かり、人間が用いるものとしています。(修験初学弁談、愚答、故事)。九字・筒封じ・反閇・「急急如律令」の呪文・薬草などは、前述してきたように道教と関係が深い呪術です。修験道の成立の要因は多岐にわたりますが、日本古来の原始的な神祇・山岳信仰と呪術仏教の習合に帰着します。しかし、この日本の原始的信仰こそが、中国固有の陰陽道や道教の影響を強く受けたものなのです。ですから、修験道に陰陽道的色彩が濃いのは、その素地となった山岳の呪術的神祇信仰が、すでに陰陽道・道教の要素を含んでいたからなのです。(村山修一著『日本陰陽道史話』一九三頁)。

他方、政治・社会・宗教などの状況によって、修験者の姿勢や修行内容が変わります。社寺に寄住した者、独立して部落に赴いた者などにより、対庶民の宗教活動に相違が生じます。古代的俗神道や民間陰陽師は崩壊しつつ、修験道に結合していきます。中世的分類としては修験者山伏系・念仏聖系・俗神道陰陽道系の三種に大別できます。庶民が山岳登拝をした底流にあるのは山岳他界観といいます。(宮本袈裟雄著『里修験の研究』三一五頁)。ここに、念仏信仰との接点があります。山伏は一方では念仏聖という側面がありました。平安後期の『梁塵秘抄』の「大峰聖」にみられるように、浄土の主と一体化することを願望しています。山頂に達することは極楽浄土に往生したと捉え、極端な例として山間での土中往生もあったといいます。この背景には源平騒乱の京都を中心にした、律令国家より封建社会へ移る激しい時代であり、平安時代中頃の御霊怨霊、生き霊死霊観がもっとも政治的に跳梁し、巫祝験者や陰陽師たちの活躍した時代だったことがあります。この怨霊退治と念仏信仰や密教による呪法、神秘主義が陰陽道を吸収していくことになります。(堀一郎著『民間信仰』二七七頁)。院政期には阿弥陀の浄土とされる熊野詣でが盛んになります。中世には修験道本山派・当山派の二派が形成され、近世の枠組みでは役行者を派祖とし、聖護院門跡を頂点とする天台系本山派と、聖宝を派祖とし醍醐寺三宝院門跡を頂点とする真言宗当山派に分かれます。聖宝(八三二~九〇九年)は諡号を理源大師といい醍醐寺の開祖で、真言宗小野流の祖、のちに、当山派修験道の祖とされます。俗名は恒蔭王といいます。天智天皇の六世孫にあたり、父は葛声王(かどなおう)です。一三世紀後半頃から、聖宝を山伏の祖とする信仰が醍醐寺内に起こり、熊野長床衆にも受容されていたようです(「醍醐寺新要録」「山伏帳」)。これに属さない出羽三山を中心とする羽黒派、英彦山・石鎚山・日光山・戸隠山・立山・白山などの修験者の霊山があります。また、平安時代に山岳修行が盛んになった理由に、南都北嶺の大寺院や摂関家などが材木を必要としたためともいいます。八世紀後半から九世紀にかけて、頻繁に火山噴火や群発地震が起き、寺院堂塔や家屋が被災し倒壊しました。この修復再建のピークが一〇世紀になります。南都の寺院は用材を確保するために杣山を経営し山林を管理する働きがあったのです。摂関家はその用材を確保するために寺院を守護したともいいます。(井原今朝男著『中世寺院と民衆』)。

鎌倉時代になると仏教界は幕府の膝元に進出していきますが、奈良・京都の旧仏教界は依然と権力を持ち続けています。修験者にとっては験力が競われるようになります。自己の鍛錬の場として、大験者にしか耐え切れない山岳が選ばれるようになります。とくに、大峰の神秘性と険しい苦行性が、斗藪修行の最適な場とされました。どうじに、山伏の姿が特異の別世界の姿として見られるようになります。庶民の欲望を叶えるため、山伏に加持祈祷の効験を求めるようになります。身延七面山もこのような大峰山信仰に助長されたと思われます。この集団に先達としての先駆者が指導するようになり、教団としての山伏衆が結成されて来ます。先達が山伏入峯にあたり権威をもつようになり、厳格な指導を行うようになります。このような規律を厳しくする原点に役行者の存在が必要とされます。役行者を祖師と崇め教団として結束を深め発展していくのです。鎌倉初期から中期にかけては、それまでの京都の公家仏教から武士や庶民への信仰が広がります。幕府内の要人は公家に対抗して、新出の禅宗・念仏宗・真言宗・律宗などを支持していきます。修験道においては本覚・事理不二思想や仏性思想などの教理体制を整備します。それに併せて役行者の入峯修行の行規として、汲水・洗浴・懺悔の法などを説きます。然しながら、修験の教えは概念化できるものではなく、体験から自分で判断することにあるとして、もっぱら行動性・斗藪性・苦行性の発揮に山伏らしさを示すことによって新宗教に対抗します。山伏への信仰は愚鈍・貧者・文盲などの機根や、薄弱な者に開かれたという風潮があり、深い教学がないとも批判されました。修験者は呪術加持祈祷の験力を強めるため、入山修練の態度を変え自力による修得に力を注ぎます。入峯苦行の心構えとして法華経の「我不愛身命、但惜無上道」の文を唱えたといいます。(和歌森太郎著『修験道史研究』一三八頁)。捨身求法の覚悟は魔性に打ち勝つための信念でもあったのです。

山伏は自由に諸国を斗藪しており、義経が吉野から山伏姿で逐電し奥州藤原氏のもとに行っています。公暁が建保七(一二一九)年に、八幡宮境内で三代将軍実朝を父の仇と信じ暗殺したとき、山伏の姿になって忍び込んでいたといいます。(「護国寺旧記」・「石清水八幡記録」)。北条時政が箱根から甲斐の武田氏を訪ねたとき、僧を伴って山伏の順路を通って甲州に向かっています。(『吾妻鏡』治承四(一一八一)年八月二五日の條)。この八月は頼朝が石橋山に敗退した月で、九月に源義仲が信濃に挙兵し、武田信義は甲斐にて挙兵しています。鎌倉初期には山伏の斗藪地として、各地に延びる道路があったことがわかります。また、諸国を斗藪する山伏のみが密かに知っている山間路があったのです。(柳田国男著『山の人生』七頁)。そのため修験者や山伏は各地の情報に通じることになりました。山伏は通信の役割もしています。家族への連絡であったり、謀反や合戦の情報を伝達しています。(『十六夜日記』建治三年一〇月二五日。『太平記』)。修験者の斗藪的性格が派生的な展開をみせ、これが修験道の存在を確保したといいます。(和歌森太郎著『修験道史研究』一三七頁)。山伏の説法は民衆への呼びかけとして、他宗との問答の間に成されたといいます。日蓮聖人と甲州の金剛山胎蔵寺の辻房法師とにおける「山臥問答」があります。これについては桑木巌翼氏が昭和一五年六月の「図書」に紹介されています。また、後述する小室妙法寺の善智法印との問答(「甲州小室山伏問答記」)も、験競べが主体となっています。

鎌倉後半になりますと山伏の勃興期になります。その外見により未知の庶民を刺激し、修験者は職業的専門家として認められています。法然や親鸞が説く専修念仏は神祇否定を教えたもので(『選択集』二行章。『教行信証』化巻)、仏教史のみならず日本思想史上、特筆すべき思想であるといわれます。(『仏教史概説』日本編。一六六頁)。民衆の念仏信仰は時宗の一遍などの遊行僧が流布していました。一遍は熊野本宮で阿弥陀如来の垂迹身とされる熊野権現から、衆生済度のため「信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札をくばるべし」との夢告を受け、この時から一遍と自ら名のり念仏札を賦算し踊り念仏を説きました。しかし、この神勅相承を説き諸国の大社に接近していた時宗にかわり、神祇否定を説く真宗の急速な発展がみられるようになります。また、園城寺末の聖護院が本山派と呼ばれる修験者を統轄していきます。七面山と類似性をもつ大峰山には、吉野側の金峰山から法隆寺・東大寺・松尾寺・世義寺などの、近畿寺院に関係した修験者が入っていきます。南北朝時代は金峰・大峰・熊野一帯は南朝政権が立て籠もったところになります。北朝との間に山岳戦があり修験者も動員され遁甲方術による兵法に威力を発揮したといいます。

室町前半も役行者の存在は大きく、修験者は山岳を鍛錬の場とし、役行者を守護神として祭祀しています。これからの時期は修験道の第二次成立期であり、教派修験道が成立していきます。七面山においては赤沢妙福寺が管理した時代となります。本山・当山派が修行する大峰山の、吉野側は金剛界、熊野側は胎蔵界の曼荼羅に擬えました。葛城山には法華経の二十八品をそれぞれに納める経塚がつくられました。熊野の修験は熊野十二所権現を主尊とし、金峰山は金剛蔵王権現を主尊としています。金峰山とは奈良県大峰山脈のうち、吉野山から山上ヶ岳までの連峰の総称です。金峯山とも表記し、「金の御岳(かねのみたけ)」とも呼ばれます。吉野山の金峯山寺修験道の中心地の一つであり、現在は金峯山修験本宗の総本山となっています。冬期間に山の洞窟などに籠もり、正月か四月八日に出峰する晦山伏がいます。この冬の期間は祖霊が山の神として鎮座するときであり、験力を身につける最良のときとするからです。金峯山の享徳二(一四五三)年の「当山年中行事条々」に、春の入峯は四月晦日より五月中旬までの華供の峯、秋は七月六日より一八日夜の秘法を修するまで金峯山にいて、それより、大峰山に斗藪し九月に下山するとあり、年中行事となっていたことがわかります。七面山と関連があるという大峰山をみますと、大峰山系を縦走することを「大峰奥駈け」といいますが、熊野から吉野へ駆けることを順峯(じゅんぶ)、吉野から熊野へ駆けることを逆峯(ぎゃくぶ)といいます。順峯も逆峯も同じ道を行きますが、順峯は天台宗の園城寺・聖護院系(本山派)の山伏が行い、逆峯は真言宗の醍醐寺三宝院系(当山派)の山伏が行っていました。近世以降は両派とも吉野から入るのが一般的になります。修験者は霊山において独特の修行をします。この苦行に「峯中十種修行作法」というものがあります。これは、修験者が峯中で行う修行を、十種の修行の段階を床堅・懺悔・業秤・水断・閼伽・相撲・延年・小木・穀断・正灌頂として、十界にそれぞれに当てはめたものです。この十界修行のうち最終段階である仏の行に当たる正灌頂がここで行われたそうです。前述した深仙ノ宿はかつて本山派(天台系修験)が伝法灌頂を行った重要な行場です。修験者は十界修行を行い即身成仏を求めます。そのために、修験者は懺悔滅罪無垢無悩になり、悟脱の仏界にいたる方法として、肉体的苦行により心位を高めていきます。この心位が高まると法楽として延年の舞いを行います。山伏においては重要な作法でした。峯中十種修行作法として、「延年者天道快楽修行、寿命延年伎楽歌舞之粧也」と規定されています。これは院政時代の咒術的儀礼演舞から発したのではないかといいます。神楽は本来、招福攘灾の意味をもっていますので、山伏が苦行の末に延年の舞いを演ずるのは、「延年佳令」を根底的理念としたことの伝承であり、験者にとっての慰めであったといいます。このうち、懺悔・相撲・延年・穀断は道教にも認められるといいます。(重松明久稿「修験道と道教―泰澄と役小角を中心として」『古代国家と道教』)。また、金峰山にはいっていた山伏が出峯するにつき、蔵王堂の前で経を読み笈渡しなどの行事をし、その夜に堂家(常住方)と山伏(客僧方)との間で験競べがおこなわれます。験競べとは験者や山伏が安居や山林斗藪のあとで、左右に分かれて験力の優劣を試み合うことです。同門内における研鑽であり、他門とにおける優劣を競うのは古来からの習性です。鎌倉期の説話集『古今著聞集』に、山伏の験競べの一例として、三善清行の子浄蔵は天台系の行者で、比叡山横川に参籠中に修入という行者と験競べをします。それは石に護法をつけて行者の指図どおりにあやつる術で、護法童子を使役したともいわれ明王・天部・眷属などを使うともいいます。これが終わると徹夜で延年が舞われます。(和歌森太郎著『修験道史研究』一四二頁)。験術として祈雨法・飛行法・剣渡法(刃渡り)・火生三昧法(火渡り)・隠形術法(身かくし)・湯立神楽・不動金縛法などが秘法とされています。(宮家準著『修験道儀礼の研究』一一〇頁)。験力を身につけた修験者は、人々の要求に応じて密教的な加持祈祷を行います。そのおりに陰陽道の卜占や道教の呪符などを用いています。呪符は産育・治病・恋愛・除災などの、私たちの生活に関わり活用されていました。あわせて護符の飲用もあります。(『符呪集』・『不動明王百符』)。

室町後期になりますと教派的・政治的規制を強く受けるようになり、山伏修行は恒例行事化していき内容が乏しくなります。教派的とは所属する教団に集結され組織化されたことです。霞(仮住)といわれた平山伏は、霞場をそれぞれが支配する年行事職により総括されます。その上位にいる先達の下について給仕し入峯の指導を受けます。その理由として大名制の政治的規制がなされたことです。この大名領国制は分国によりこれまでの守護地頭から大名になったことです。分国とは中世における一国の単位で、源頼朝の知行国である関東御分国、南北朝時代いこうの守護大名の知行した領国などが当たります。戦国時代には各大名が自領を対象とした分国法を制定して統治しました。これにより地方の完全領有となります。つまり、各修行地に入山するときに、その地の領主の承認が必要となったのです。この分国意識が強い国ほど修験道界においても、年行事を通しての教派的規制が強くみられます。このような状況から本山派と当山派の結びつきが強まります。両派の修験道は教義や儀礼が整えられ、組織をもつ教団として確立します。霊山の峰入り修行の意味づけや縁起も整備されたのです。

永禄一一(一五六八)年八月二九日付けの「甲斐国志」に所収されている「祇園寺文書」に、武田信玄から国中客僧衆にあてた朱印条目があります。ここに、山伏にたいし、「一、棟別役之普請悉皆免許之事」、「二、遠国之使可相勤之事」と規定しています。後者に関して永禄一二(一五六九)年八月一九日付けの「甲州古文書」に、武田信玄から当山流の山伏覚圓坊に宛てた文書があります。「今度房州(里見義弘)之為使者罷越無相違令帰国、甲州当山之山伏年行又可任于所望候云々」とあり、房州から甲州に年行事職に補任されたことがわかります。ここから、修験者が甲州に出入りしていたこと、その規制が厳しくなっていた社会状況がわかります。(和歌森太郎著『修験道史研究』二五〇頁)。自由に各地を斗藪できなくなったことにより、山伏の地域定着化がおきてくることになります。山伏集団が領内を横行するようになると弊害も生じます。同年七月五日に武田信玄は駿河の西山本門寺に制札を与えています。この制札は西山本門寺の申請によって、寺院やその他の一定地域内での乱暴停止などの禁制を発したものです。その禁じた内容を個条書きにして広く民衆や軍兵に知らせるため、木札に書いて寺社の門前や村落の入口などに掲げたものです。中世の記録によりますと、受益者が板などの材料を用意して禁制の下知者に書いてもらっています。守護地頭制から大名制へ推移したことにより、社会規制が強化されました。修験者たちにも影響がおよび、次第に行動範囲を定着せざるを得なかったのです。このことは、里修験・里山伏へ推移することになります。(宮本袈裟雄著『里修験の研究』二〇頁)。

秀吉の時代になりますと、関東の統治は徳川家康(一五四二~一六一六年)が行います。甲斐においては加藤光康が旧武田領を知行します。加藤光康は天正一八(一五九〇)年の小田原征伐にあたり駿府城に在番し、それらの功で二四万石の甲斐国府中(甲府)城主となりました。山伏に宛てて、「当国之山伏年貢之外諸役之義、披成赦免上者於誰々違乱不可有之者也」と、年貢や諸役について規制をくわえています。天正二〇(一五九二)年(文禄元年)の「文禄の役」(一五九二~九八年)においては、渡海し漢城に籠城しますが病にかかります。帰国の途次の文禄二(一五九三)年八月二九日に西生浦で病死します。後を継いだのは加藤光泰です。文禄二年一一月一六日付けで、井上梅雲齋栄秀より加藤光泰に、「国中山伏衆諸役並田地役夫銭共、披成御赦免之旨光泰様御印差遣候條不可有異儀者也」と、修験の教派に対し、年行事や生活にいたるまで明確にされるようになります。ちょうど加藤清正は朝鮮出兵にあたり、天正二〇年の二月二日に京都本国寺にて一万部法華経を読誦し利運を祈願しています。

江戸時代に入りますと、徳川家康は全国的な支配と統一を行います。また、儒学を奨励したことが、各方面に大きな影響を及ぼします。徳川家康は幕府の支配力をつけるために各種の法度を制定します。政治的には武家諸法度や禁中並公家諸法度が挙げられます。仏教界に対しても各宗ごとの法度を制定し寺院を規制し始めます。慶長七(一六〇二)年の浄土宗に始まります。本願寺では文禄元(一五九二)年一一月二四日に、本願寺一一代顕如の長男である教如(光寿)が本願寺を継承します。文禄二年九月に教如は豊臣秀吉の命により退隠させられ、法主を准如が継承することになります。そして、慶長七年二月に後陽成天皇の勅許を背景に徳川家康より烏丸六条に寺地を寄進され、教如は本願寺の第十二代に就任します。このことにより本願寺は「堀川七条の本願寺」と「烏丸六条の本願寺」とに分立しました。本願寺は大名を凌ぐ強大な勢力をもっており、家康はこの勢力を弱めるため東西両本願寺に分割したといわれます。その後、天台宗、真言宗、曹洞宗、臨済宗、日蓮宗などに規制を行います。これら寺院法度制定・本末制度・寺請制度の目的は、寺院勢力をけん制し政治への介入を固く禁じることでした。畿内の大寺院が豊臣方と組み、反抗勢力化することを恐れたからです。

当山派は醍醐寺三宝院を開いた聖宝理源大師に端を発し、本山派は園城寺の増誉が聖護院を建立して熊野三所権現を祭ってから一派として形成されていました。真言宗や天台宗は皇族・貴族との結びつきが強く、庶民との関わりを持ち生活を支える役目を果たしていたのが修験者でした。しかし、教派が盤石であったとはいえません。室町末期ころには本山派も逆峯入りを行うようになっており、修験道の区別が曖昧になっていました。逆順峯入りに教派の相違がなくなってきたのです。慶長七年に当山と本山派の争いが、三宝院義演が佐渡大行院に金襴地袈裟を許可したことに端を発します。この年の三月七日に養珠夫人は京都の伏見城にて頼宣を産んでいます。慶長一一年には当山派の近江飯道寺と伊勢世義寺におきた紛争を、門跡内にて解決ができず、将軍に採決を仰いでいます。慶長一二年の冬に関東山伏は、真言・天台宗と袈裟着用などの公事をおこし惨敗します。このとき、山伏が修験道の由来などに無知であることが暴露し、修験者たちが仏教以前の仙道の修行をしていたと嘲笑されています。つまり、峯中修行の教義的理解が希薄となり、修行においても慣習化されていたのです。しかも、その内容は道教の神仙思想や呪術信仰のレベルから、仏教的な成仏論への昇華ができていなかったのです。師弟関係も恒常化していました。しかし、修験者には加持祈祷を中心とした、現世利益に期待が集中していきます。これらの里人などが山伏を必要とした理由は、一に豊穣と地域の守護。二に葬儀と供養。三に治病や災厄からの救済などが基本的なものでした。その修法として卜占・託宣・寄り祈祷・護摩祈祷が行われました。(宮家準著『修験道と日本宗教』二一四頁)。地域の人々の宗教生活は修験の効力を必要としていたのです。里修験は人々の要請に応えて祭祀・験術・呪法などを行いました。これらの中には前にのべた道教との関連が複数みられます。たとえば、祈祷所の壇上には壇鏡を置き、疫神祭・荒神祭・地鎮土公祭・庚申待作法・荒神供作法・盗賊除散法などの呪法を行なう儀式に見られます。

慶長一四(一六〇九)年には、幕府の印可による修験道の再確認がなされます。「権現様朱印」により年行事職が公認され、呪術作法の行事が門跡にたいしても強化されます。山伏は門跡の権威よりも、徳川幕府の俗的権威に支配されることになります。この支配体制により修験道の意気が凋落したと指摘されます。(和歌森太郎著『修験道史研究』二五六頁)。また、真言宗寺院より入峯役銭を徴収しようとしたために起きた訴訟、当山と羽黒派などの争いがあります。これらは当山派有利の裁許がなされます。この背景には徳川幕府の宗教政策が根強くありました。幕府は慶長一八(一六一三)年に「修験道法度」を定め、聖護院本山派と醍醐三宝院当山派の両派に分属させます。つまり、真言宗系の当山派と、天台宗系の本山派のどちらかに属さねばならないことにし競合させる政策をとったのです。本山派には霞という一定地域での活動を公認します。当山派では袈裟筋支配のほかに、新たに江戸鳳閣寺を諸国総袈裟頭に任じて修験者を統率していきます。山伏を対象とした「山伏法度」が発令されたのも同年です。これは山伏の活動の範囲を規制するものでした。たとえば、「祭礼や法事を軽くすること。民家を借り仏壇や看板を出してはならないこと。法衣装束は華美にしてはならないこと。仏や役行者などの絵像を掛けて祈念してもよいが直に片付けること」などです。この規定は山伏の行動を制限しますが、なぜ執拗に山伏を規制したのかといいますと、戦国時代には間諜として利用されていたからです。前に記したように、武田信玄は山伏を活用する代償として、山伏の普請役を免除しました。また、今川義元は富士村山修験を優遇しました。しかし、山伏には逆スパイの危険もあったので、徳川家康は諜報に山伏を使わず、かわりに甲賀や伊賀の忍者を用いました。山伏が持ち合わせた機能と機動力を恐れたのです。

幕府は規制をさらに強化し五〇年後の寛文二(一六六二)年に、山伏に関連する御触書の公布をおこないます。幕府は山伏を定住化させ、全国の山伏を管理させるために、山伏勢力の頂点にあった京都聖護院の本山派と、同じく京都醍醐寺三宝院の当山派の両派に全国の山伏の掌握を命じます。山伏は必ず二つの派のどちらかに属することとし、山伏の人別帳も作られるようになります。本山派と当山派との大まかな違いは、山林での修行のさい熊野から入って吉野に至るか、その逆に吉野から熊野に至るかという修行コースにありますが、幕府はその問題にはふれず、対立している両派に山伏管理の義務を負わせ、両者を抗争させることで山伏勢力の弱体化を狙ったといいます。さらに、幕府は寛文六(一六六六)年に、「諸社祢宜神主法度」を制定します。これは吉田神道の台頭を意味していました。これにより、吉田神道は日本の神道界に絶対的な地位を築き、江戸幕府の神道政策が功を奏したことになります。寛文という時期は幕府が山伏を規制し、吉田神道が神道界を支配し始めたときになります。幕府は寺院に農民との寺壇関係を結ばせ、宗旨人別帳の作成を寺院に命じます。これは、山伏から宗教的儀礼を奪うことになります。吉田神道は修験道を否定し神を優位に置きます。仏教は仏を神より優先します。吉田神道は全国の神社の管理権を寺院から奪って神職に与えようとします。これまで僧侶が別当などの地位にあって、神社に奉仕する社人を顎使していることへの反感があったのです。教理的には仏教側が主張した本地垂迹説や神仏習合を否定し、神本仏迹である唯一神道を掲げます。仏教と神道の間にある山伏は、その所属する基盤を求めて新たな方策を模索します。短絡的には吉田神道の支配下に入って社人となるか、真言宗や天台宗に改宗して僧侶になることでした。法衣や袈裟の法服着用の定めは、新客・度衆・大越家・大先達という身分と、寺柄により厳格に決められていました。こういうなかで、江戸中期いこう増えたのが里修験者です。有髪妻帯の俗的生活をし、頭巾篠懸の風俗を継承して歴門假説や呪符祈祷をしました。怨霊疫厲の退散調伏の修法をしていたことは、死霊崇拝の山の修験者の子孫であることを示しています。(堀一郎著『民間信仰』二七八頁)。これは、死霊にたいしての死霊交媒と、死者供養という修法が大きな役目であったのです。関所の撤廃や交通・貨幣・宿の発展に伴い、それを、求めた信者が絶えなかったことでした。『徳川禁令考』(四九)の「寛政七年の条」(一七九五年)に、修験者が卜占をしても礼物を受けとらなければ、土御門家の免許がなくても卜占をしてもよいとあります。ですから、卜占料は受けとらなくても、そのあとの祈祷については礼銭を受けとっていたようです。(宮家準著『修験道儀礼の研究』二八一頁)。とはいえ、文化元(一八〇四)年七月二日の醍醐座主の『高演大僧正入峯行列記』には、全国より修験関係者が万をもって数えるほど行列したとあります。

江戸中期から幕末は時代の転換期にあたり、精神生活の価値体系の転換があります。(宮本袈裟雄著『里修験の研究』三一六頁)。修験道が教理を理論化して、各種の教義書を編むようになるのは江戸後期のことです。有名なのは行智(一七七八~一八四一年)の「木葉衣」「踏雲録事」です。行智は父の行弁のあとを継ぎ、浅草福井町の覚吽院の住持をしています。当山派の惣学頭に任じられ、本書は修験道が衰退したため復興の目的で、修験道の伝承や教学について著したものです。修験道が衰退した後に、このような体系的な書物が成立したことになります。修験道が幕府から規制を受け、実践面が大きく制限されたことに対して、修験道の意義を問い直したともいえます。天保一四(一八四三)年に幕府は寺社に禁奢令を敷きます。当山修験の本山三宝院から末徒に出された御触書に、「諸寺院ノ僧侶破戒不律之義ニ付、天明・寛政・文政之度追々取締方申渡」とはじまり、文中に「不如法之僧徒多有」「貪欲情ヲ断チ学徳ヲ相磨、寺務専一ニ可相心懸處、利欲之念深放逸無慙之輩不少歎ヶ敷く事ニ候」「略服美服ヲ着シ」などと戒めの文言があります。ここから、修験者たちは学問もせず修行もせず、利欲を求めて高価な衣服を着ていたという状況と、当然ながら世間から悪評されたことがわかります。(中条真善稿「当山派修験」『高野山と真言密教の研究』所収。四〇五頁)。

そして、明治五年の修験道廃止により、多くの者は天台・真言宗の寺僧となり、神道の神職に帰属しました。悪評を受けていながらも修験者が脈々と活動してきたのです。しかして、その修験者たちは旧習の神仏混淆の信仰であり、易・方位・星供荒神供・悪魔祓い・病気平癒の祈祷を、生活の糧としていました。しかし、これを無碍に否定することはできません。下北地方の別当と称された神社の神主は、そのほとんどが近世期里修験の後裔といいます。とは言えかつての修験者が得意としていた呪術的な活動はありません。現在、各地に残る祀りの行事は、往事の修験者の宗教活動や験競べが、その地の習俗となったものが多いのです。それを主催する験者が絶えたため、祭りの本来の儀式が形骸化して受け継がれているのです。祭りの主旨は供物や舞楽の持ち物などで判断できます。明治六年には主要な活動であった憑祈祷や口寄せも禁じられます。ここに、修験道から新宗教と呼ばれる教団が成立してきます。この関係について宮家準氏は、『修験道と日本宗教』(一七四頁)において三つの類型があるとのべています。第一に冨士・御岳に見られる民衆の山岳修行者による修験超克型。第二に修験者がその宗教の教祖の開教にきっかけを与えた修験衝撃型。第三に民間の行者などが活動の便宜などから、修験教団に所属するなどして、修験道の影響をうけた修験受容型をあげます。そして、その類型として修験超克型に丸山教、修験衝撃型に天理教。修験受容型として解脱会をあげています。

ところで、『皇国神仙記』に南巨摩群硯島村の雨畑山の雑仙(雨畑の仙翁)のことが書かれています。甲府代官所の山番士の二人が、雨畑山を検察していたところ大雨となり山中の一寺に止宿しました。この二人が退屈しのぎに碁を囲んでいると、虚空から坊主頭の異人が飛んできて勝負を見物しています。頭髪は雪のように白く眼中は碧く澄んで、身には木の葉で綴った襤褸をまとっています。二人が驚いて側にいた住職に訊ねると、その方は三次入道という武田信玄(一五二一~一五七三年)に仕えた人で、害を加えることはないといい、勝頼の代になって世を捨て雨畑山に隠れて修練をし仙人となった、ということが書かれています。(知切光蔵著『日本の仙人』二七六頁)。すなわち、「雨畑の仙翁は、元武田信玄に事へたる、三次入道と云へるものなり。入道始め跡部長坂等が姦佞を厭い、世を去りて雨畑山に隠れ、修錬功積もりて、遂に仙人と成りたりと云ふ」とあります。甲府代官所は甲斐一国が幕府直轄領となった享保九(一七二四年)以降のことになります。仙翁は二百歳ほどの寿命を得た仙人の類に入っていますが、入道ということから修験者に近いと思われます。この記述のように、雨畑山にて神仙修行を行っていた者がいたと思われます。