228.高野山の古代信仰                  高橋俊隆

〇高野山の古代信仰

吉野という場所は『懐風藻』などによりますと、古代の貴族や官僚たちが、聖仙のすむ神仙境と考えていたといいます。ここには金峯山があり、のちに修験道の霊場となります。実際に吉野宮がつくられた記事は斉明天皇の二(六五六)年ですが、応神・雄略天皇が吉野へ行った記事があります。持統・文武天皇も田身嶺(たむのみね。多武峰)の天宮に行幸しています。(福永光司著『道教と古代の天皇制』一三九頁)。注目されることは、吉野の山伏修行に神仙思想が結びついていることです。これは道教の中国古代の山岳信仰に類似したものです。『懐風藻』にある「仙」「霞を喰う」「姑射の嶺」というのは道教の神仙思想の言葉なのです。ですから、吉野は神仙の郷として憧れた地で、高野山の最高峰の弁天岳(九八四b)を水源とした水分信仰(みくまり)があります。これは山麓や山中の住民によって信仰されていた水分の神を祀るもので、水分の山神である丹生津比売神を祀った丹生川上神社があります。ここには水と水銀の仙薬があり山岳信仰のおこる理由がうかがえます。古代の高野山と関係が深いのは丹生都比売神社(にふつひめ。別称天野大社、天野四所明神)です。天野大社とも称される丹生都比売神社は、高野山一山の地主神を祀っています。丹は朱砂(辰砂。朱色の硫化水銀)のことであり、その鉱脈のある所を丹生と(銀の原石)いいます。朱砂はそのまま朱色の顔料となり、精製すると水銀が採取できます。(銀の原石)このことから、丹生都比売神(丹生明神)は、朱砂を採掘する一族が祀る神であるといわれます。創建年代は不明ですが、『日本書紀』の神功皇后摂政元年二月条に「天野祝」(あまののはふり)の名が見えることから、八世紀には天野祝氏によって奉斎されていたことがわかります。天野祝氏は紀国造氏や丹生川上神社に仕える丹生祝氏と同族で、もとは大丹生直(おおにゅうのあたい)を称していました。『丹生大明神告門』(のりと)によりますと、丹生都比売大神は神代に紀伊国伊都郡奄田に降臨し、御子の高野大神とともに大和・紀伊を巡った後、天野原に鎮まったとされます。祭神である丹生明神は天照大神の妹君で稚日女尊(わかひるめのみこと)とされます。天野の里の北にある三谷の地に降臨し、諸国に農耕を広め現在地に鎮座したといいます。天照大神は伊勢神宮に祀られ、椎日女命は御子の高野明神と共に紀伊・大和地方を巡歴し、養蚕なぞを教えて回り永住の地として天野を選ばれました。

高野山には山神である丹生津比売神と、高野明神(狩場明神)を祀ります。高野山の鎮守神ではなく主神となっています。この山神を祀ったのは狩人で、この狩人の始祖が後に神格化されて高野明神となります。高野山の鎮守として位置付けられる天野大社は、民族信仰の山神や水神を『古事記』や『日本書紀』の神名から固有神名化しており、ここに、高野山の山神である丹生津比売を、天照太神の妹神として神統記に位置づけます。この高野山の山神信仰と、天野の水分信仰の結合をはかったのが、丹生・高野両明神の合祀です。(五来重稿「高野山の山岳信仰」『高野山と真言密教の研究』所収。三〇頁)。高野山は中核となる金剛峯寺壇上伽藍に、神社の祭神である丹生・高野両明神を祀るなど、著名な寺院の中でも特に神祇との深い関わりをもっています。この理由は高野山が真言宗の本山となるまえに、山岳信仰の霊場として存在したからです。また、丹生明神が天野の神から高野山の神へ移行したのは、同地における紀伊国造にかかわる信仰がありました。つまり、原初の民族信仰があり、それを護ってきた村民の信仰を継承したことが確認できます。山岳信仰などにおいては、日本神道の神のなかから鎮守の神を選び、勧請することが通例であったといいます。それは、日本の神々は仏を護るという意識があったからです。寺院が土着の神々を否定せずに祭祀したことにより、仏教的な神として昇格させた感覚を土地の住民にもたせることができたのです。

高野山は空海(七七四〜八三五年)自身が建立しているので、七面山の成立とは違います。空海は嵯峨天皇から弘仁七(八一六)年に高野山の地を賜わります。空海にとっては若い時に修行した所であり、高い峰に囲まれた平坦地を八葉蓮華の曼荼羅の世界と見なし、山上に真言密教の道場を建立すべく天皇に願い出たというのが史実とされています。金剛峯寺の由来も『金剛峰樓閣一切瑜伽瑜祇經』から取られ、瑜伽とは瞑想によって自己と絶対者との合一をはかる修行法をいいます。平安中期の成立とされる『金剛峯寺建立修行縁起』には別の理由が載せられています。空海は自宗の寺院を建立する土地を求めていた時に、黒と白二匹の犬を連れた狩人に出会います。狩人が放った犬の導きで、丹生都比売神社に詣でます。そこで、主祭神(地主神)の丹生都比売神の神託を受けて高野山へ入ります。そして、唐の国から自ら投げた三鈷を発見したと伝えられています。空海が出会った狩人は丹生明神の子供である高野御子の化身で、高野山の名前はここからつけられます。高野山は天野大社の管理下にあり、丹生の採掘権を持っていたのは丹生氏でした。天野社から高野山を借りるには丹生氏の援助がなければなりません。一方、朝廷は丹生氏から銀の上納を受けていましたので、朝廷からの了解も得なければなかったといいます。空海が嵯峨天皇の勅許を賜り高野山を開いたのは弘仁二(八一六)年のことです。この開山にあたって土地を提供したのが丹生明神です。空海は高野山造営の前に天野社の一隅に曼荼羅庵を建てて参籠し、後に山王院としこれが金剛峰寺となります。高野山開創にあたり弘仁一〇年五月三日に、地主神の丹生都比売明神、高野御子明神を高野山真言密教の御法神と定め、高野山開創のおり最初に壇上伽藍へ両明神を勧請しました。(明神社)。これが外来の密教、仏教が日本の神々と一体になった「神仏習合」の始まりでした。ここに、空海の日本の神にたいする態度がみられるといいます(佐和隆研稿「高野山の山岳信仰と弘法大師」『高野山と真言密教の研究』所収。五二頁)。

高野神道では、丹生明神(丹生津比売神)を、胎蔵界の中心である大日如来、高野明神を金剛界の中心たる大日如来に、それぞれ本地仏と定めて、地主神と護法神の存在意義を説いています。山中他界観念にみられるように、高野山を兜率の内院に凝らし、ここを媒介として死者往生の地とする信仰が盛んになります。死者がいくべき霊山という根強い山岳信仰を見過ごすことはできません。(堀一郎『民間信仰』二三八頁)。また、山岳信仰には金鉱や仙薬などの利益が介在していますので、空海は水銀の経済的価値に着眼し、丹生社との縁が結ばれたともいいます。(和多昭夫稿「高野山と丹生社について」『高野山と真言密教の研究』所収。八七頁)。同じように、仙薬として朝熊岳の護摩堂明王院「野間の万金丹」や吉野大峰山の「陀羅尼助」は有名です。「求菩提山秘伝」には製薬と物理療法を施し方が伝えられ、英彦山修験者修験にも製薬の秘伝があるように、修験者は皇漢医学の知識をもっていたことがわかります。(宮本袈裟雄『里修験の研究』二〇七頁)。霊山には修行の現場というほかに金鉱や仙薬が存在し、修験者たちは練金や治癒儀礼を用いて民間療法を駆使していたことがわかります。