229.比叡山の古代信仰                  高橋俊隆

〇比叡山の古代信仰

最澄(七六七~八二二年)は大山咋(おおやまぐい)の神を延暦寺の守護神としています。この理由として、入唐した天台山国清寺には、周の霊王の王子晋が神格化された道教の地主、山王元弼(げんひつ)真君が鎮守神として祀られており、これにに倣って比叡山延暦寺の地主神として、日吉社に日吉山王権現を祀ったといいます。日吉社を中心とする山王信仰はこれに由来し、比叡山の王という意味で山王とも呼ばれます。(『日本民族大辞典』上。七三二頁)。このとき山神から贈られたという檉(てい)の木が、根本中道の一郭に植えられています。『古事記』によりますと大山咋神は、「亦の名は山末之大主神。此の神は近淡海国の日枝の山に坐し、亦葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神ぞ」(『日本古典文学大系』一。一一〇頁)とあり、山末之大主神・鳴鏑神(なりかぶら)ともいいます。咋(くい・くひ)は「杭」のことで、大山に杭を打つ神ということから、大きな山の所有者の神、つまり、もっとも古くからこの日枝山に祀られていた山の神・地主神のことをいいます。(『比叡山』五五頁)。『古事記』にあるように、近江国の日枝山(ひえのやま、比叡山)、および、葛野びえ(かづの・かどの。葛野郡京都市)の松尾に鎮座する鳴鏑神を神体とすると記されています。大山咋の神名は「偉大な山の境界の棒」とも呼びます。また、鳴鏑は鏑矢が音をたてて飛ぶので鳴鏑といいます。『賀茂縁起』に丹塗矢に化して玉依姫と結婚し、賀茂別と雷命を産んだというところから、鳴鏑神の別名があります。『山城風土記』には鳴鏑のかわりに、丹塗矢となっています。つまり、松尾神と同一神とされていたことがわかります。この松尾大社の後ろの松尾山(二二三㍍)に古社地があります。大宝元年(七〇一年)に勅命により秦忌寸都理(はたのいみきとり)が、山頂附近の磐座から神霊を現在地に移しました。秦忌寸都理は娘を斎女とし、以降、明治初期に神職の世襲が禁止されるまで、秦氏の一族が神職を務めてきました。起源は五世紀ころに渡来人の秦氏が山城国に居住し、松尾山の神(大山咋神)を氏神として祀ったことにあります。秦氏に由来していることがわかります。

日吉山は神体山といわれる八王子山(牛尾山)のことといいますが、横川の波母山(はもやま)という説もあります。大化元(六四五)年に蘇我氏を滅ぼした天武天皇は、近江の大津宮で即位します。このとき大津宮に鎮守として大和の三輪明神を勧請します。これが、比叡山の鎮守となった日吉山王の大宮です。『三宝住持集』(『伝教大師全集』巻五。四〇〇頁)によりますと、弘仁元(八一〇)年ころから日吉山が比叡山と改称されます。(武覚円稿「比叡山と日吉大社との神仏習合」『伝燈』歴史篇。所収一二八頁)。つまり、日吉は比叡のことで、比叡山の麓の日吉大社大津市)は、大山咋神を祀る全国の日枝神社の総本社となっています。比叡山に延暦寺が建立されてからは、天台宗および延暦寺の守護神とされるようになります。いわゆる神仏習合の関係になります。また、日枝神社には後に天智天皇が、大津京遷都のとき大己貴神(大物主神)を勧請されています。大物主神の鎮まる神体山が三輪山ですので、大和朝廷の護り神である三輪明神を併せ祀ったのです。これにより、大物主神を大比叡、大山咋神を小比叡と呼び延暦寺の守護神としています。『古事記』の上巻に「大山上咋神、亦名、山末之大主神。此神者、坐近淡海國之日枝山」とあり、大山上咋神は日枝山(比叡山)に鎮座しているとあることから、比叡山も神体山であったことがわかります。坂本の日吉大社東本宮の奥宮は、標高三七八㍍の中尾山にあり、ここに「金(こがね)の大厳(おおいわ)」と呼ばれる巨巌があり、神の降臨をあおぐ磐座信仰がありました。(『日本の古代』一三、上田正昭稿、一九八頁)。

また、大物主神は蛇の姿をした神と神話にあり、同じく山の神・農業の神とされます。つまり、山王とは二神の総称であり、大物主神は西本宮(大宮)に大山咋神は東本宮(二宮)に祀られます。後から来た三輪の大物主神を上位に迎えたのは、三輪山頂が大嘗祭を行う聖地であり、天皇霊の坐す処であったためといいます。『日吉山王利生記』(『続群書類従第二輯下』六五七頁)に二宮の大山咋神について、小比叡大明神・地主権現といい、昔は横川に祀られていたとします。天照太神の第二の御子なので二宮と呼称したこと、日本国の地主であるとし、この本地は薬師如来であると記しています。

・両所権現・日吉社

大和の三輪から勧請された大物主神・大比叡明神――大宮・西本宮・・・釈迦

地主神の大山咋神・小比叡明神――――――――――二宮・東本宮・・・薬師

現在の山王院は法華鎮護山王院といい、境内に山王権現社があり、円珍が在山中はここを住房としていました。比叡山無動寺を開創し、千日回峰行の祖とされる相応(八三一~九一八年。建立大師)は、三塔巡礼の基をつくります。最澄伝教大師円仁慈覚大師とした諡号は、相応の奏請によるものです。平安末期から鎌倉にかけて天台宗の思想である三諦即一思想と山王神道が結びつけられます。山王の二字を天台宗の三諦円融観をもって説明します。三諦とは仮諦・空諦・中諦のことで、仮諦とは万法妙有のこと、空諦とは諸法真空のこと、中諦とは諸法実相非有非空を指し、円融観からすれば三諦は一つである(三諦即一)と説きます。そして、山王神道ではこれを山王二字に転用して、山の縦三画は三諦、横一画は即一をあらわし、王字は横三画は三諦、縦一画は即一をあらわすと説きます。また、山王の二字はともに三画として、一画の象で三諦即一を示すとします。(『三宝輔行記』)。つまり、一心三観・一念三千に擬えた解釈です。

日蓮聖人は比叡山にて修行されたことから、山王を大切にしていたことが鎌倉の猿畠山法性寺の山王堂などに見ることができます。現在、法性寺の山頂にある奥之院に山王大権現があり、日蓮聖人が鎌倉に入るときと、松葉ヶ谷法難を逃れた霊跡として鎮座しています。山王については『開目抄』(五四二頁)、『神国王御書』(八八二頁)、『四条金吾殿御返事』(一三〇四頁)などにみられます。『安国論御勘由来』に念仏や禅宗に趣き、比叡山への帰依が薄くなることにより、諸天善神が威光を失い日本国を捨て去ることにふれています。このとき、比叡山を守護する善神として神名をあげています。

然後鳥羽院御宇建仁年中法然・大日二人有増上慢者。悪鬼入其身狂惑国中上下挙代成念仏者毎人趣禅宗。存外山門御帰依浅薄。国中法華真言学者被弃置了。故叡山守護天照太神・正八幡宮・山王七社・国中守護諸大善神不法味失威光捨国土去了」(四二三頁)

天照太神・正八幡宮・山王は比叡山を護る守護神として把握されています。また、建治三年(一二七七年)年六月九日に、三位房日行は鎌倉桑ヶ谷において、法座を開いていた天台僧の竜象房と問答を行い勝利します。龍象房を鎌倉につれてきたのは良観ですが、この龍象房は悪僧として比叡山から追放された人物でした。このとき、比叡山は山王の威厳の下に対治を行ったことについて、『頼基陳状』に、

「又仰下状云龍象房・極楽寺長老見参後は釈迦・弥陀とあをぎ奉と云云。此條又恐入候。彼龍象房は洛中にして人の骨肉を朝夕の食物とする由令露顕問、山門の衆徒蜂起して、世末代に及て悪鬼国中に出現せり。山王の御力を以て対治を加むとて、住所を焼失し其身を誅罰せむとする処に、自然に逃失し行方を不知処に、たまたま鎌倉中に又人肉を食之間、情ある人恐怖せしめて候に、仏菩薩と仰給事、所従の身として争か主君の御あやまりをいさめ申さず候べき。御内のをとなしき人人いかにこそ存候へ」(一三五五頁)

とのべているように、比叡山と同じく山王を法華経の善神としていることがわかります。この神祇思想は身延山に入ってもかわらず、日眼女が久遠実成の釈迦仏を造立したときに、その土地などの神々も久遠仏の釈尊に統一されることをのべています。その『日眼女釈迦仏供養事』に、

「法華経寿量品云或説己身或説他身等云云。東方の善徳仏・中央の大日如来・十方の諸仏・過去の七仏・三世の諸仏、上行菩薩等、文殊師利・舎利弗等、大梵天王・第六天の魔王・釈提桓因・日天・月天・明星天・北斗七星・二十八宿・五星・七星・八万四千の無量の諸星、阿修羅王・天神・地神・山神・海神・宅神・里神・一切世間の国々の主とある人、何れか教主釈尊ならざる。天照太神・八幡大菩薩も其本地は教主釈尊也。例せば釈尊は天の一月、諸仏菩薩等は万水に浮る影なり」(一六二三頁)

とのべていることから、ここに、「天神・地神・山神・海神・宅神・里神」の神名をあえて書かれていることに留意しますと、身延・七面山の民族信仰から発展した七面天女信仰が理解しやすいと思います。

山王権現(日吉大宮権現)は釈迦垂迹であるとされ、神仏分離では大山咋神とされます。天台宗が興した神道の一派を山王神道といい、のちに天海が山王一実神道と改めます。元亀二(一五七一)年に織田信長によって、比叡山や日吉社は焼き打ちされます。天正一三(一五三八)年には、好運が三塔・日吉社王七社・葛川を千日にわたって巡拝する回峯行を始めます。役行者に始まるとされる南山の修験にたいし、相応を祖とする北嶺修験とに分ける見方があります。太田道灌江戸城の守護神として、川越日吉社から大山咋神を勧請して日枝神社を建てています。江戸時代には徳川家の氏神とされ、明治以降は皇居の鎮守とされています。延暦寺と日吉大社の神仏習合のかかわりは、明治の神祇令により中断されますが、古来の行事は復興されているものもあります。

このように、高野山においても比叡山においても、地神・山神として土地に原初から伝わる信仰の神を祭祀してきたことが確認できます。それを護る人々の存在も大きかったことが指摘できます。つまり、山岳に伽藍を草創するにあたって、その土地に古来から信仰された土着の地祇の存在があり、その神地から一部の土地を分け与えられるという形で伽藍が形成されました。当初の祭神も従神として祭祀されてきたのです。この例は上代における宗教伝説のひとつのカテゴリーとなっていたのです。(景山春樹稿「高野山における丹生・高野両明神」『高野山と真言密教の研究』所収。六七頁)。このことは七面山信仰の祭祀形態を知る手がかりとなります。山岳信仰は日本古来の信仰に、各時代に伝搬してきた呪術的な道教・仏教を摂取し、地域や国家に順応しながら発展してきたことがうかがえます。