230.日蓮聖人と冨士山                          高橋俊隆

〇冨士山信仰

日本人は古来から山岳信仰をもつ民族の集まりです。山岳信仰とは山々を神の領域とし、山そのものの自然を崇拝の対象とする信仰です。狩猟や農耕、果樹を食料とする民族は山岳を生活の根源として敬います。山は恵みを与えてくれる神の領域として崇めるのです。どうじに、恐ろしい場として山を畏敬します。四季を通じておきる自然の災害にたいして強い信仰があります。山に霊的な力が作用していると受け止めます。これを、山の宗教といい、このような神聖な里山観はパターン化した山岳宗教論として研究されています。日本の古神道においても水源・鉱山・狩猟・森林などから得られる恵みに感謝し、雄大な容姿や火山などに対する畏敬の念から、山には神奈備という神が鎮座するとされ、御霊が宿る、あるいは降臨する(神降ろし)場所と信じられてきました。また、山が神界として信仰の対象となっていた一方で、死者の集まる他界として、磐座(いわくら)・磐境(いわさか)という常世(とこよ・神の国や神域)と現世(うつしよ)の端境として、祭祀が行われてきました。また、祖霊が山に帰る「山上他界」「地中他界」という信仰も育ちました。イタコ口寄せをはじめとする先祖霊供養にも発展をみせます。これらのことは、出羽三山・恐山など日本各地の山岳信仰にみられます。これらの伝統は今日も神社神道に残り、石鎚山諏訪大社三輪山のように山そのものを神体として信仰しています。農村部では山は四季を通じて水源であることと関連して、になると山の神が里に降りて田の神となり、秋の収穫を終えると山に帰るという、根強い作神・農神信仰が残っています。

チベット仏教でも聖なる山は信仰の対象とされますが、その山に登るのは禁忌とされる場合が多くみられます。日本の古代においても山中に入ることを禁忌としていました。その名残が女人禁制です。日本では時代の経過とともに、山頂に達することが重要視されます。道教の神仙思想に仏教思想が大きく山岳信仰を変えたといえます。仏教では世界の中心に須弥山という高い山がそびえ、欲界・色界・無色界という壮大な三界を説いています。日本人は山自体を信仰する気持ちに加え、早朝の来光に手を合わせます。これは、山頂のさらに彼方にある浄土を信仰しているともいわれます。それは祖霊のいるところであり、諸仏の常住する世界を想定しています。日本ではアニミズムとしての太陽信仰と、山岳信仰が結びついているのです。法華経の序品に「深山に入って仏道を思惟する」(『開結』六六頁)と説かれた修行がなされます。そして、自身の鍛錬のために険しい山を求める集団ができます。修験者の回峯行がこれです。それら能力を高める傾向が強くなったことは、最澄・空海・道元などの事績からうかがえます。人里離れた深山は山岳修行と学問研鑽の場であったのです。日蓮聖人も比叡山に長く在山していますので、山岳修行が十分に身についていたと思います。身延をそういう行学の地とされたかったのではないかと思います。それには広大な土地(山)と、民間人が居住できないほどの厳しい処が必要だったのです。身延の草案は生活をする場としては厳し過ぎるところでした。

そこで、富士信仰についてみてみましょう。富士信仰は富士山を神と見立て信仰の対象とする神祇・山岳信仰となります。竹取物語のかぐや姫は不死の薬を帝のために形見として残しますが、帝は傷心して天にもっとも近い駿河の山にて燃やすようにと命じ、この不死の薬を燃やしたことから冨士山と名付けたという物語があります。かぐや姫が昇天したこと、不死の薬を調達したところに神仙思想がうかがえます。(高橋徹・千田稔著『日本史を彩る道教の謎』二〇五頁)。富士山には噴火を鎮めるため、いつしか浅間大神(あさまのおおかみ)が祀られるようになりました。浅間大神は『常陸風土記』に福慈神といい、『万葉集』に霊母座神香聞(クスシクモイマスカミカモ)、『富士山記』に浅間大神、また、不尽神といわれ、縄文時代の遥拝遺跡があることからも、早い時期から神として崇められていました。代表的なものとして、「浅間神」「浅間大神」「浅間明神」など、呼び名には時代や記録により差異があります。富士宮市の富士山本宮浅間大社は、大同元(八〇六)年の建立といいます。浅間信仰(富士浅間信仰)の著明なものに頼尊の村山修験(興法寺)や、長谷川角行(一五四一〜一六四六年)や食行身(一六七〇〜一七三三年)の富士講があります。

浅間大神は、木花咲耶姫命とされるのが一般的です。浅間神社の祭神が木花咲耶姫命となったのは、木花咲耶姫命の出産に関わりがあるとされます。噴火を繰り返すことに出産を連想し、火中出産から「火の神」とされます。しかし、富士山本宮浅間大社の社伝では火を鎮める「水の神」とされています。富士山はしばしば噴火をして山麓付近に住む人々に被害を与えていたので、そのため噴火を抑えるために、「火の神」または「水の神」である木花咲耶姫を、神体として勧請した浅間神社が多くあります。しかし、富士山の神が木花開耶姫命とされた時期は明らかではないといいます。多くの浅間神社のなかには、木花咲耶姫命の父神である大山祇神や、姉神である磐長姫命を主祭神とする浅間神社もあります。江原浅間神社の木造浅間神像は、像高四〇.五a女身像で、如来像を三体の女神が背中合わせに囲んでいます。、平安時代の作といい、古代の富士山信仰に関連する唯一の伝世彫刻です。富士山を象徴する神は、鎌倉時代に天女からかぐや姫などとなり、近世以降に木花咲耶姫命に統一されていったといいます。

富士山の登山として記録の古いのは役の行者です。『日本現報善悪霊異記』には「夜往駿河、富岻嶺而修」 あり、役行者と富士山との関係がみえます。また、『富士山記』にも「昔、役の居士といふもの有りて、其の頂きに登ることを得たりと」とあり、役行者と富士山を結びつける記述は多く見られます。その後、麓から崇めるだけの信仰は、平安末期に山岳仏教の影響を受け、山に登り修行するという形に変わっていきます。そして、山頂を仏の住む曼荼羅の世界とする信仰が浅間信仰に加わることにより、神と仏が一体となった富士山の信仰が形成されました。修験者が盛んになった一因に、富士山の噴火活動が永保三(一〇八三)年に沈静化したためです。その修験者の用心は厳しく、江戸後期の寛政一二(一八〇〇)年まで、冨士山は女人禁制をまもっており、富士講という信仰組織の信者が登詣していました。「富士山開山の祖」とされる人物に末代上人がいます。『本朝世紀』に「是即駿河国有一上人。號富士上人、其名稱末代、攀登富士山、已及数百度、山頂構佛閣、號之大日寺」とあり、富士山頂に大日寺を建てたことが記されています。末代上人は修験道を組織した人物とも考えられ、富士信仰の変移に大きく関わる人物とされます。平安時代成立の『地蔵菩薩霊験記』によりますと「末代上人トゾ云ケル。彼の仙駿河富士ノ御岳ヲ拝シ玉フニ。(中略)ソノ身ハ猶モ彼ノ岳ニ執心シテ、麓ノ里、村山ト白ス所ニ地ヲシメ」とあり、末代上人と村山の関係が伺え、末代上人が村山修験を成立させたと考えられています。村山修験は民衆集団による組織化した富士信仰として最も早くにみられます。他にも平安時代末期の『梁塵秘抄』には「四方の霊験所は、(中略)駿河の富士の山、(中略)の道場と聞く」とあり、平安末期には既に富士山が信仰の対象となっていたことが分かっています。『本朝文集』によりますと、平安末期の久安五(一一四九)年に、冨士上人とも称された末代が、一切経を山頂に埋納したと伝えています。昭和五(一九三〇)年に頂上の三島ヶ嶽で経筒が発見され、経塚が営まれていたことがわかっています。ほかにも山頂から遺物が出土しており、これらは浅間神社に格護されています。(『日本の古代』一〇、菅谷文則稿、三八六頁)。『義経記』には「山伏の行逢ひて、一乗菩提の峯、釈迦嶽の有様、八大金剛童子のごしんさし、富士の峯、山伏の祈義などを問ふ時は、誰かきらきらしく答へて通るべき」とあり、富士山と修験道の関係が世に知られていたことがわかります。平安期は密教が主力となり、鎌倉期になりますと、本地垂迹の思想により浅間大菩薩と称されます。

浅間大神の「神階奉授」についてみますと、『日本文徳天皇実録』に「以駿河國浅間神預於名神」とあり、仁寿三(八五三)年に浅間神は名神に列しています。また『日本三代実録』に「駿河国従三位浅間神正三位」とあり、貞観一(八五九)年には正三位の位階を与えられ昇進しています。 また同じく『日本三代実録』に富士郡の正三位浅間大神の大山とあり、これらの記録から噴火活動を抑えるために、律令国家の手により「浅間神」が祭祀されるようになったと考えられています。これが現在の富士山本宮浅間大社になります。そして、はじめは駿河国に富士山を祀る神祠が創られたと思われます。『日本三代実録』の貞観六(八六四)年八月の報告に、「下知甲斐國司云、駿河國富士山火、彼国言上、決之蓍龜云、浅間名神禰宜祝等、不勤斎敬之所致也」とあります。このことから、駿河国に既に「浅間明神」を祀る禰宜や、祝が存在していたことが分かります。貞観七(八六五)年一二月の報告に「甲斐国八代郡立浅間明神祠、列於官社、即置祝禰宜、随時致祭」とあります。この頃に甲斐国側にも浅間神社が建立されます。浅間信仰は噴火の恐怖もあり各地に波及したのです。時を経て明治初年の神仏分離により、富士山の仏像仏具は破壊され、二合目の役行者堂は廃止されます。明治七年に釈迦ヶ岳は志良山(白山)岳、大日堂は浅間宮と改め、富士修験は新たな方向に存続を模索します。

〇日蓮聖人と富士山

この浅間大神を祀る神社が嶽麓の地方に建てられるようになります。それが大宮・村山・須山・須走・吉田・河口などです。浅間大神を祀るので浅間神社と称します。のちに、修行の霊場として役行者の徒を生じます。奈良時代の行基が開いた三浦富士(一八三b)の山頂にも浅間神社があり、「浅間神社奥宮」の石碑が建っています。この三浦富士には山開き以外の日に登ると、山鳴りがするので山に入らなかったというタブーがあります。そして、本地垂迹説にもとづき浅間大神の本地は、大日如来であるという説がでます。冨士信仰は神祇思想に外来の仏教思想を融和してきたのです。浅間神社の中には浅間造と呼ばれる、特殊な複合社殿形式を持つものもあります。浅間大神は神仏習合によって、浅間大菩薩と呼ばれます。日蓮聖人は『上野殿母尼御前御返事』(一八一六頁)に「冨士千眼大菩薩」とのべており、浅間を千眼と音読されたようです。南条時光は浅間神社の造営に出仕しており、日蓮聖人もそれを充分に承知されていました。このような仏教的な称号は『吾妻鏡』にみえます。建仁三(一二〇三)年六月に源頼朝が伊豆駿河のあたりで狩猟をしていたときに、仁田四郎忠常に命じて冨士の人穴(富士宮上井出村の北、富士山西麓の富士川支流芝川上流左岸に位置する)を探らしめたとき、古老の家来が浅間大菩薩の御在所であるので、昔よりあえて見てはいけない所である、ということをのべています。人穴信仰があったことを示しており、冨士の神が「浅間大菩薩」であると呼称されていたことがわかります。また、仙覚が文永六年に書いた『万葉集註釈』に、冨士山には頂上に八葉の嶺があり、浅間大菩薩という神がましますと書いています。そして、本地は胎蔵界の大日如来であるとあります。日蓮聖人のときには富士山の神が浅間大菩薩であり、大日如来であるという信仰があったことがわかります。(井野辺茂雄稿「冨士の信仰」『山岳宗教の成立と展開』所収。一二八頁)。富士山頂部には「八葉」と呼ばれる八つの峰があります。白山岳、久須志岳、大日岳、伊豆岳、成就岳、三島岳、駒ヶ根岳、剣ヶ峰の八つを富士山八葉と称してきました。八葉とは仏が坐る八枚の弁をもつ蓮華座のことです。その八葉の峰を巡る「お八巡り」が転化したという説があります。(剣ヶ峰三七七六b、白山岳(釈迦ヶ岳)三七五六b、久須志岳(薬師ヶ岳)三七四〇b、朝日岳(大日岳)三七五〇b、伊豆ヶ岳(阿弥陀岳)三七五〇b、成就ヶ岳(勢至ヶ岳)三七三三b、駒ヶ岳(浅間ヶ岳)三七一五b、三島岳(文珠ヶ岳)三七四〇b)。また、富士山の雅称として芙蓉峰と呼ばれました。芙蓉とは蓮の花の別称で美人の例えといいます。

日蓮聖人は冨士山をどのようにみられていたのでしょうか。日蓮聖人は冨士山を重視されていたと思われます。前述しましたように文永六年の春に冨士吉田方面を巡教されており、そのとき冨士山にのぼり法華経を埋経されています。「末法万年広布」の基を築くのが日蓮聖人の願いであったとあります。(『高祖年譜攷異』)。山川智応氏は冨士山に登った意義は、「日本の柱」となる三大誓願を立てた心境と同じとしています。(「大日蓮華王山」『日蓮聖人伝十講』下巻五四一頁)。また、本門の三秘中の戒壇を建立する場として、冨士山の地を最適とする説も浮上しました。つまり、身延入山を選ばれた理由の一つに、冨士が近くにあるということが考えられるのです。法華経を冨士山に埋経されたのは、蒙古襲来による亡国を防ぐためといいます。蒙古の日本への動勢が冨士埋経を促したと思われます。文永五年一月に再度、蒙古から国書が届きます。そして、文永六年の三月に返牒がないことへの叱責のような使者が日本に来ます。日蓮聖人はこのような情勢に危機感をいだき、日本国を守護するため日本の中心にそびえる第一の名山、冨士山を選ばれて埋経をされたと解釈されます。冨士方面の巡教の目的は埋経にあったので、その期間も短く行動範囲もせまかったと推測されるのです。(『身延町誌』八五頁)

  文永三年九月     黒的・殷弘がフビライの詔を携え高麗に来る(第一回)

      一一月    高麗王、宋君斐らと巨済島に赴くが渡日せず

  文永四年       黒的・殷弘ら再度高麗に来る

  文永五年一月     潘阜がモンゴルと高麗の国書を携え太宰府に来る(第二回)

             七ヶ月後、潘阜は返牒のないまま帰国する

  文永六年三月     黒的ら対馬に来て、前年に返牒がなかったことを問い糾す(第三回)

島民と紛争をおこし島民二人を捕らえ帰る

      春(五月)  富士山に法華経を埋経し立正安国を祈る
(『日蓮聖人の歩みと教え』第二部より転載)

日蓮聖人が富士山近辺を布教された伝承と事跡が各地に伝わっています。日蓮聖人は文永六年の五月に、久本房日元を案内として、冨士・甲州の巡業にでられています。そして、夏頃に法華経二八品を、冨士山の北口、五合目付近に埋経されたといいます。その場所を「経ヶ岳」(経ヶ森)といいます。富士宮の大泉寺の縁起に、かつて冨士山登山道五合五尺のところに「高祖堂」があったことを伝えています。「富士山真景之図」の一の鳥居の手前に「日蓮堂」と書かれた小堂が描かれています。この近辺に高祖堂があったと思われます。大泉寺に一八三八年に開眼された、冨士山奉安祖像が安置されています。別名に「天拝祖師」と呼ばれるのは、孝明天皇が黒船来航に危惧し、この祖師像を京都御所に遷座して国家安泰を祈念されたからです。また、吉田須走の拝所の後ろに「法華トウ」の石塔が描かれています。車返しの霊場の祖師堂に安置されている祖師像は、台座の銘文から須走近くにあった日蓮堂の祖師像と伝えています。この霊地を塩谷平内左衛門尉家によって代々守られ、七月一日の山開きには塩谷家に伝わる祖師像を背負い、山小屋に安置して礼拝したといいます。平内は富士吉田の神職でしたが、日蓮聖人に帰依して日仙と名のり上行寺の二世となっています。(望月真澄著『身延山信仰の形成と伝播』九二頁)。『甲斐国志』に「五合五勺、道より南の厳崛を経嶽と云ふ。相伝ふ、昔僧日蓮の法華経誦せし地なりとぞ。堂一宇あり。其内に銅柱に題目を鋳付たり。但日蓮参籠の地と、少し上に巌穴あり、今姥懐と称す。是日蓮風雨を凌ぎし所なり。其時、塩谷平内左衛門が家に宿し、彼が案内にて登山し、此処を執行の地と定めたりとぞ」と、日蓮聖人が巌穴に籠もり法華経を読誦したことが書かれています。のちに、この経嶽の近くに小堂を建て堂の柱に題目が書かれていたとあります。このことから、「経が岳」に参拝し法華経の一部経を埋経されたことは、日蓮聖人が冨士山を特異の山岳としてみていたことを示すものです。日興上人は戒壇建立の地を冨士山にみられていました。永仁六(一二九八)年二月一五日に、重須山宮に御影堂・本堂・垂迹堂を建立しています。ここを、「法華本門寺根源草創之地」と称しました。身延を選ばれたのは冨士山が展望できたからなのでしょうか。

本書を執筆している平成二五年六月に、富士山は世界文化遺産に登録されました。これは富士山の信仰や芸術、伝統が融合した文化的景観が認められたものです。とはいえ、富士山の仏教遺跡は明治の廃仏毀釈のときに破壊されています。ただ、静岡側の六合目付近に「題目宝塔」が残っています。石碑には万延元(一八六〇)年に建立されたと刻まれています。この石碑が今日に残ったのは不思議なことで、法華信者たちが石や土などで覆い隠して廃仏毀釈を逃れたともいいます。(仏教タイムス誌。平成二五年八月八日。第二五四五号)。