231.七面山と大峰山                 

〇七面山と大峰山

日蓮聖人は「七面の嶺」(『新尼御前御返事』八六五頁)、「七面の山」(『種種御振舞御書』九八六頁)とのべていますので、すでに、七面山という名称があったことがわかります。「七面」の読み方を鈴木一成先生は「なないたがれ」と読んでいます。(『日蓮聖人正伝』二二九頁)。これは、『妙法比丘尼御返事』(一五六三頁)に「西はなないたがれと申て」、『四条金吾殿御書』(一四三六頁)に「なないたがれのたけ」と、仮名書きされていることからわかります。「がれ」とは『広辞苑』によりますと、静岡や山梨地方でつかう言葉で崩壊地をいいます。大きく山崩れしたところが七カ所あったということになります。慶安四(一六五一)年の「久遠寺地領記述書」にも「オオガレ」の記載があります。『身延山図経』(一七四一~一七四三年)にも「朝陽洞」とよばれたオオガレが描かれています。「七板崖」とも書きます。(町田是正稿「身延山の伝説考」『仏教思想仏教史論集』所収三七二頁)。身延山の山門の寺平付近や御真骨堂からも七面山が遥拝でき、オオガレの険しいところがわかります。別名に摩尼珠嶺ともいいます。これは、「如意宝珠」の梵語です。その後、安政二(一八五五)年一〇月二日の安政大地震のときに山崩れがおき、慶応元(一八六五)年の「久遠寺地領境界」の地図をみますと、七面本社の裏側に「裏オオガレ」、左側面に「表オオガレ」「美女ガレ」とあり、とくに、裏オオガレは本社に迫ったことが分かります。しかし、安政東海大地震の被害について、久遠寺や七面山に大規模な崩壊の形跡がないので、安政東海大地震のかなり以前から崩壊していたと結論されています。日蓮聖人のとうじは既に大きく崩壊していたと思われます。(東京農工大学。永井修・中村浩之稿『七面山大崩れに関する歴史的考察―身延山の文献・古文書に見るー』)。本殿の後方山上に直径一里ほどの大崩壊の場所があり、「大崖」(おおがけ)とよび絶勝をきわめているといいます。七面山の八勝というのは、蓬莱神色・夷州仙舟・甲府金城・信陽瓊嶽(けいがく)・摩尼仙霞・珊瑚紅葉・湖水八徳・朝噉雪花(ちょうたんせっか)をいいます。また、七面山の連峰に七つの池があるといいます。(竹下宣深編『日蓮聖人霊跡宝鑑』一一二頁)

日蓮宗新聞(昭和四三年一〇月一〇日発行第五四二号。「縮刷版」二号一四七三頁)に、「七面信仰の源流をもとめて」という記事があります。これは現宗研(茂田井教亨所長)が、昭和四二年一一月と昭和四三年七月二二日から二七日まで、吉野大峰山の奥駈修行に参加した報告です。ふつう山上ヶ岳(狭義の大峰山)より弥山、そして、七面山、前鬼山などをへて熊野三山へ行くことを奥駆修行といいます。吉野山麓から山上ヶ岳までは奥駆とはいいません。(福井良盈稿「大峰奥駆行場と入峯行」『近畿霊山と修験道』所収。二〇二頁)。金峰山・大峰山・熊野山のなかで大峰を中心とみます。大峰山の登詣が盛んになったのは、関白の藤原道長(九六六~一〇二七年)が寛弘四(一〇〇七)年八月一一日に、写経を山上ヶ岳に埋納したことに始まるといいます。この経筒には蔵王権現とあります。大峰山頂には元禄四(一六九一)年に完成した重要文化財の大峰山寺本堂があります。桁行き心々で二三、八二二㍍、梁間は心々で一九、八二八㍍、棟高一二、六二五㍍の寄せ棟造りとなっています。日本では最高所にある重要文化財の建築となります。(『日本の古代』一〇、菅谷文則稿、四〇四頁)。『諸山縁起』は大峰の要事に関する口伝を録したもので、役行者が修行した大峰山には、一二〇の遺宿があり三八〇人の仙人が住んでいたとあります。その中心となっていたのは神仙岳となっています。ここに道教の影響をみることができますが、道士は一人で山中に入り仙薬を作って不老長生を求めるのに対し、修験道では集団で峰入りして即身成仏を求めるところに違いがあります。修験道が仏教を基盤として、日本的に展開していくことを示唆しています。

また、大峰山は釈迦が法華経を説いた霊鷲山が飛来したところとされます。そして、葛城山も法華経二十八品の納経塚がつくられており、修験道において平安中末期から山の神を権現と呼ぶ権現信仰が展開します。この権現の用例は寿量品によるとします。歴史上の釈尊は久遠実成の仏陀が化現されたとするところにあります。また、『金光明経』の如来の法身は常住不変であるが、衆生救済のために権りの姿を現すと説くところにあります。寿量品にはこれを「六或示現」(『開結』四一九頁)、妙音菩薩品に三十四身(『開結』五四一頁)、普門品には観音菩薩の三十三身の(『開結』五五二頁)化現が説かれています。目に見えない本質的な存在が具体的に目に見えるものとして現れること、神の真体の示現を権化、権現と解釈されます。そして、大峰山には金剛蔵王権現の眷属として八大金剛童子があります。この童子たちが峰中の行者を守るとされます。同じように葛城山にも別に八大金剛童子がいるとされ、この大峰と葛城の童子を合わせた一六人の童子は、化城喩品の大通仏の一六人の王子の現れと見るのです。(宮家準著『神道と修験道』一八〇頁)。

大峰山寺本堂の発掘調査が昭和五八(一九八三)年から本堂の解体修理にともない行われました。外陣の中心となる当たりに平安時代初期の護摩壇と灰の跡がありました。内内陣の中心あたりに竜穴の場所があります。これは役行者が感得した蔵王権現が、地面から涌出し飛び込んだとされる場所です。奈良時代には竜ノ口(竜穴)周辺で護摩が行われました。壇は一辺が一、二㍍の方形で、二〇から三〇㌢ほどの自然石を水平に並べています。内内陣の壇の南方に灰や炭が五〇㌢ほど堆積しており、この灰のなかから銅銭・金箔・雲母・仏像・錫杖片・籾・須恵器・黒色土器片が出土しました。平安時代に二度ほど堂が焼失し、この焼失された堂の木材などは西側の低地に廃棄されました。その廃棄物のなかから二体の黄金仏・ガラス製瓦・ガラス経軸端・金剛経軸端などが出土しました。この黄金仏は宇多天皇が奉納されたものでした。大峰山のもっとも古い遺物は、古墳時代の鈴付き杏葉です。これは馬装具の一種で関東地方の後期古墳に見られるもので、飛鳥時代になると見られないといいます。男体山にも古墳時代の遺物があり、つまり、古墳時代には山の信仰が始まっていたのです。(『日本の古代』一〇、菅谷文則稿、四〇九頁)。平安初期には天台宗を中心に、如法経(法華経)の埋納が始まります。平安中期以降に建物が大きくなり、護摩壇は埋められます。平安末期の一〇〇七年に、藤原道長は四五年後にせまった末法のために経塚を造りました。そして、元和二(一六一六)年に木食上人の再建をうけて、元禄時代に大造成し本堂を建立しました。

この大峰には役行者三生の霊骨があるのであるから(『諸山縁起』)、ここに到達することにより山伏は役行者に直接あえると考えました。修験道では行者が大峰山寺に参拝するまでに、発心門・修行門・等覚門・妙覚門の、 四つの門が存在するとされます。(室町初頭時代『安居院作神道集』)。これは悟りへの段階を門により象徴しています。大峰は一乗菩提峯と呼ばれます。この呼び方は天台系の呼び方で、一乗妙法蓮華経によって阿耨多羅三藐三菩提を成就することができるという意味です。草木にも仏性があり、此土は仏土という本覚思想があったからです。これは、熊野も吉野もはじめは、法華持経者によって開かれたことを示しているといいます。(五来重稿『近畿霊山と修験道』三頁)。ただし、修験道教義の基本書である『修験修秘訣集』には、大峰山を「当峰者、金胎両部浄刹、無作本有曼荼也。森々嶺岳金剛九会円壇、欝々厳洞胎蔵八葉蓮台」と捉えています。つまり、大日法身の曼荼羅の世界という真言的に捉えています。役行者が道教的な呪術を使役したことは前述しましたが、大峰信仰もこの道教に関係があるといいます。吉野も道教思想による神仙境とされ、水銀鉱床のあることが大きな要因でした。水銀鉱床のある近くには、金や銀の鉱脈があるからです。大峰も古くは御金の嶽、金御嶽(かねのみたけ)と呼ばれ(『万葉集』巻一三の三二九三)ていたこと、そして、昭和五九年に大峰山寺の床下から黄金仏二体が発見されたように、採金や次金術に関わっているといいます。金峯神社は金山毘古神(金精明神)といい、金山彦と金山姫を祀っています。不老不死といわれた金丹の仙薬にも関連します。同じく本堂の基壇下から四〇点ほどの和鏡が発見されました。蔵王権現と毛彫りされた銅鏡があります。鏡は悪鬼の本性を映すとされ、魔物の正体を見破るために使われました。行者の護身具として入山のときには必ず所持しなければならない法具です。修験者の護身具としての鏡信仰となっています。金峰山寺ではお守りとして五岳真形鏡を用います。これは『抱朴子』に五嶽真形鏡を携えれば山の神を召し出すことができるとあるからです。ですから、峯入りや奥駆けするときに必ず身に着けます。五嶽は神仙が往来する五つ名山のことで、泰山東岳)・嵩山中岳)・灊山(のちに衡山南岳)・華山西岳)・恒山北岳)をいいます。この金峰山寺のお守りの五岳真形鏡と、中国の山東省泰山の麓にある泰廟に所蔵されている元代の五嶽真形鏡は類似しており、あきらかに道教の教えに添っていることがわかります。(福永光司・千田稔・高橋徹著『日本の道教遺跡を歩く』一九〇頁)。

さて、この調査はおもに日蓮宗と修験道の交渉と、祈祷修法との関連を調査する目的です。また、参加者の回峯行業の心理的なもの、肉体的な変化を実験調査しています。そして、現地において七面山と類似したところを三点あげています。

一 七つが池が遙拝所の近くにあった

二 断崖の切り立った山容が七面山のオオガレと似ている

三 信徒の厳しい修行の場となっている

また、相違するところを二点あげています。

一 七面山は七面大明神を神体とし、大峰山は神体が不明で釈迦・大日・弥勒とならぶ菩薩を祀っている

二 女人禁制を解いた七面山は庶民の信仰を培養しつづけた

 そして、結論的なこととして、

一 七面山の「池大神」の尊像は、後生に役行者か神仙思想によって修正した

二 大峰七面山の真言系修験(当山派山伏)と、関東修験の集合した初期の形態であった

つまり、七面山には役行者に系譜をもつ神仙思想の道術を鍛錬した仙人がおり、初期の修験者が籠もっていた山岳信仰の山であったということになります。役行者は大峰の菊丈窟にこもって蔵王権現の示現を感得します。役行者は大峰と葛城を交互に巡行したことから、役行者を見習って多くの行者が大峰と葛城を目指しました。そして、嶺と嶺とに橋を架けて修行をし易くしようとし、山々の神々などを動員して完成させようとします。その使者となったのが前鬼と後鬼です。この二鬼が回峯した甲斐の山に身延山が入っており、役行者が前鬼と後鬼を引き連れて開いた山といいます。また、山麓の神力坊、十万部寺、妙石坊などに祀られている「妙法大善神(二神)」は、太郎が峰、次郎が峰と呼ばれ、もともとは天狗であったとされるところから、この二神の存在は関東修験の特徴を示しているといいます。それに、赤沢の妙福寺はもと真言宗の寺であり、七面山と六ヶ坊をひきいて日蓮宗に改宗しています。この史実に基き身延七面山は大峰七面山の真言系修験である当山派山伏と、関東修験者の集合した初期の山岳修行の霊場であったと推定しました。この調査は日蓮聖人入山いぜんの、七面山の信仰的な形態を知る貴重な報告です。修験者たちが七面山へ登詣する行動範囲に身延山が入っていたと思われ、地理的な行動範囲についても認識することができます。また、波木井氏の信仰も真言宗であり、とうじの流行として念仏をあわせて信仰していたといいます。(『身延町誌』九六九頁)。南部氏が真言宗を信仰していたのも、このような背景があったと思われます。

天文年間(一五三二~一五五五年)の記録によりますと、甲斐には本山派八五院、当山派二一四院があり、小室妙法寺、休息立正寺、柏尾大善院、七覚円楽寺、窪八幡普賢寺、藤木法光寺等が梁魁であったとあります。修験道はこの院政時代をピークとし、降って文化、文政の頃には本山派・当山派合わせて、凡そ二一〇ヵ寺あったと『甲斐国志』にあります。これらの山岳で修験者となっていた者のなかに、日蓮宗に属していた僧俗もいたといいます。この修験道の歴史や小室妙法寺が修験道の巨刹であったことから、七面山との関連が考えられます。その証左として『身延町誌』(七八頁)に、小室妙法寺と休息立正寺の縁起をのせていますので引用します。「徳栄山妙法寺記」(小室山妙法寺)。「往古真言宗ニテ肥前上人ト申ハ、東三十三国山伏ノ司ナリ(按スルニ修験本山派ハ天台宗、当山派ハ真言宗也)。文永中、日伝ヨリ嗣法ス寺境山ニ倚リテ高ク東ヲ表トセリ・・西峰トテ後山ニ七面明神ノ宮アリ、山上拾町許ニ閼伽ノ池(里人峰ノ湖トモ呼ヘリ)漏閼(ろあ)ノ清水ト云ハ山内ヨリ出ツ」ここに、小室妙法寺はもと真言宗の寺で、住持の肥前上人(善智法印)は東国の三十三ヶ国を治め、山伏の首領的な力をもっていたとあります。文永年中に日蓮聖人の弟子となり、肥前公恵朝阿闍梨日傳上人と名のり中老僧になります。妙法寺は山境の高いところに建っており、正面は東向きになっています。その後方に西峰といって七面大明神を祀る宮があり、閼伽の池があると書いています。山伏の司である肥前上人と七面明神の宮との関係がうかがえます。上沢寺ももと真言宗の寺で、法喜阿闍梨が住持をしていました。また、小室妙法寺と同じく休息立正寺も修験道の巨刹であり、住持の宥範法印が日蓮聖人に帰依しています。この勝沼郡北原(休息)は富木氏(富木播磨守種継)の所領といいます。休息立正寺の縁起につぎのようにのべています。「休息立正寺縁起」。「四十五代聖武帝、行基菩薩創立、子安地蔵寺ト称ス、六十代醍醐天皇ノ延喜三年乙酉住職行敏阿闍梨ノ時真言宗ニ属ス。六十七代三条天皇長和四年乙卯八月覚徳阿闍梨ノ時金剛山胎蔵寺ト改ム、七十二代白河天皇永保三年癸亥覚範ニ及ビ関東以東三十三カ国ノ棟梁トシテ部内ヲ取締ル。此時寺門隆盛、支院千坊末寺数百、八十九代亀山帝文永十一年甲戌十月二十四日、日蓮上人ノ当国布教、住職宥範皈伏、三七日滞在、寺号ヲ休息山立正寺ト改ム」、とありますように、小室妙法寺・上沢寺・休息立正寺は、もと真言宗の寺であり、修験道の古刹であったことがわかります。とくに、吉野大峰の七面山と身延七面山、小室山妙法寺の七面明神の宮との間に類似点があるといわれる理由です。

吉野大峰山の七面山と、身延七面山は同じ山岳信仰の霊場として位置しています。このことから、日蓮聖人が身延へ入山される以前、すなわち平安末期院政時代において、当山派・本山派の修験道が盛に行なわれ、役小角の流れを汲む行者が全国に漫延します。そのときに厳島弁才天を七面山に祀るようになったのではないかともいいます。七面山には「なないたがれ」があり、厳島には七浦があって七浦明神といい、山下の七浦に対し山顚(山上)の「七いたがれ」を称したものと推考されています。(「身延の伝説」(『身延町誌』八〇頁)。また、七面山は身延の奥の院にあたる山で、山頂近くの標高一七〇〇㍍付近に敬慎院があります。摩尼珠嶺というのは摩尼珠が如意宝珠の梵語であることから名づけられ、天女が法華経の行者の志願満足を叶えるための誓願に基ずくといます。(『身延の枝折』大正五年発行。八〇頁)。この「奥院」「奥之院」の存在は山岳寺院の伽藍配置の特徴となっています。(『日蓮宗事典』)。これからしますと、真言系の修験道としての大峰山や箕面山などと関連してきます。古来の神道から七面天女信仰が発達したことは、七面山の入口である表参道・裏参道に鳥居が建てられていることからうかがえます。身延山内においては『身延山御絵図』(宝永)に、妙石坊の入口に鳥居があり、ここが七面山に入る入り口であることがわかります。『身延山図経』(寛保)には琢珠館の手前に一基、忉利門の前に一基が画かれています。そして、一の池の前に一基たてられています。この鳥居は現在も見られ神道的な祭祀を自然に受け容れ発展してきたことがわかります。

七面山本社を敬慎院とよびます。本社という呼び方は神道の呼称では神社の形式をいいます。『身延山御絵図』(宝永)には「大明神宮」「池大臣」。『身延山図経』は「天都宮」「天妃祠」「沙竭祠」の名称がみえ、『身延山御絵図』(宝歴)には、「敬慎院」の境内として「大明神宮」「池の大神」とあります。安永五(一七七六)年一〇月一二日夜に七面山の諸宇が全焼します。その焼失まえの享保四(一七一九)年に、南部藩の家臣の宇夫方平太夫が主人のために身延・七面山を代参し、そのときの報告文が南部家に保存されています。それによりますと、「拝殿」「御本社」「別当寺」「御池」などの表現がみえ、とうじの呼び方がわかります。現在も「七面山本社」を中心として、「池大神宮」「願滿社」「参籠殿」からなり、総称して七面山敬慎院といいます。本社は七面造りという様式をもっています。寺院の伽藍造りとは違い、外観は伊勢神宮のなかにある神楽殿と類似しています。建造からみた本社は神道的ということです。神楽の語源は、「神座」(かむくら・かみくら)が転じたものとする説が一般的です。神座とは「神の宿るところ」「招魂・鎮魂を行う場所」を意味しています。巫女が神座に神々を降ろし、神の意志を伝えたりする所です。人々の穢れを祓い願望が伝えられるなど、神人一体の宴を催す場であり、そこでの歌舞が神楽と呼ばれるようになったと考えられています。『記紀』には岩戸隠れの段で、天鈿女命が神懸りして舞ったという神話が神楽の起源であるとされています。天鈿女命の子孫とされる猿女君は宮中において鎮魂の儀に携わっており、このことから神楽の元々の形は招魂・鎮魂・魂振に伴う神遊びであったと考えられています。また、拝殿・内陣・和光門・影向石・二の池鳥居・奥之院拝殿・宝厳石などに、「しめ(注連)縄」が四季を通してはられています。古神道においては神が降りて鎮座(神留・かんづま)する木や岩を神体として祀り、神域の証としてしめ縄をはり禁足地の印としました。御霊代(みたましろ)・依り代として神がここに宿っているという印とされます。この神域は常世であり、俗世の現世(うつしよ)と区別されます。しめ縄はこの二つの世界の端境や結界を表しています。現在の神社神道では社は、神域現世を隔てる結界の役割をもっています。

日蓮宗の修法においても幣束を飾り道場を荘厳します。荒行堂の全域が結界の清浄の地となります。荒行の再行になりますと幣束相承が伝師より授けられます。日本人の古来からの慣習や風俗に従った仏教の弘通方といえます。つまり、七面天女信仰に神道の思想と影響が認められることです。前述しましたように、安永の全焼の時代は本居宣長たちの復古神道が起きた時代です。そして、明治の廃仏毀釈を経て今日にいたります。七面山の歴史をみますと、まず原初の俗信仰に、役行者を祖とした真言系の修験の山岳信仰が入ります。日蓮聖人の門弟たちによる法華信仰が広まることにより、法華守護の善神として七面天女が信仰されました。七面山は身延山をまもる鎮護の山となります。七面大明神の威力を感受して、加被力を祈念するところに祈祷修法の荒行が始められます。七面山の池大神の信仰、役行者の信仰、竜神信仰、弁才天信仰など、神仏混交の姿のまま純粋に継承され、時勢に応じての守護神信仰が重ねられてきました。それらの善神が一つになって私たちを守護しているのが七面山です。そして、法華経の善神として中心となっているのが本社の七面大明神です。日本の神々は法華経を護ることを釈尊に約束したと、法華経を理解するのが日蓮聖人の善神観です。その七面大明神は法華経の経力を充分にうけ、威力を倍増して私たちを日夜に守護していると信仰されています。また、身延山が発展するにしたがい、それを助長するために身延山鎮護の守護神を必要とした、ということが指摘されています。宗門における身延山の勢力が弱かったため、他宗の本山と足並みをそろえることを目的としたといいます。どうじに祈祷による修法布教が重視されてきました。この時期を行学院日朝上人の境内拡張からはじまり、日伝上人において完成された時とします。安永の社殿焼失のあと天明元(一七八一)年に、七面大明神の像が関西から奉納されました。この時それまでの立像から半跏像にかわりました。(森宮義雄著『七面大明神のお話』一〇九頁)。

なを、敬慎院は七面山本社とよぶように、この七面山の神を共有する神社に付属する寺院として別個に建てられました。これを「別当寺」といいます。神祇に仕える目的から神社に付属して営まれた寺院を神宮寺といいます。文献では『続日本紀』文武天皇二(六九八)年一二月条に、多気大神宮寺を度会群に遷すことが書かれており、神宮寺は八世紀初頭から表れたと推定されています。これにより、神仏習合の発現を示す標識となりました。真言系の九州大伴氏菊地家出身の慶円(一一四〇~一二二三年)は、別名に三輪上人といわれるように、三輪に平等寺を興し三輪流の神仏両部思想を確立し神祇灌頂を唱えました。上賀茂神社の神宮寺を建てていることから、鴨氏(三輪氏)と関わりがあるといわれます。また、叡尊は弘安八(一二八五)年に、古代からの三輪の神宮寺を復興し大御輪寺とします。これにより、平等寺は大神神社、大御輪寺は同社若宮の神宮寺となります。そして、叡尊は慶円の真言神道を三輪流神道として大成させます。神宮寺は天台か真言宗のどちらかに属しますが、日蓮宗の寺院として淡路国(兵庫県)の妙国寺や妙称寺があります。同国大和国魂神社の神宮寺のように修験の寺もあります。(『神道史大辞典』五〇八頁)。大和大国魂神社には宝永年間に、大きさ五、五㌢四方の「大和社印」と刻まれた古銅印が、境内から出土しており平安初期の物と言われています。

七面山敬慎院は久遠寺が直轄し、現在は別当所となり別当職を任命しています。これにたいし、七面山奥之院は六郷町にある定林寺と本定寺が別当職を交替でおこなっています。二の池とご神木を管理しています。定林寺は小室妙法寺の末寺で真言宗の道場でした。身延山一五世日叙上人の教化により、天文七(一五三八)年に改宗しました。住持の定林律師は日定と名のります。本定寺は妙覚院日福上人が文安元(一四四四)年に創建しています。この本社(摩尼殿)は東向きに富士山にむかって建てられています。奥之院からは春秋の彼岸に冨士山頂の中央から太陽がのぼります。随身門を通って摩尼殿の七面大明神を照らし出します。七面山にご来光信仰がおきる所以です。ご来光については日蓮聖人が毎日、日天子に向かって読経をされていたことが、日向上人の「聖人一期行法日記」に書かれています。日蓮聖人は日天子にたいして法華経守護の善神としてみられ、立教開宗の「旭が森」での始唱にみられます。日蓮聖人は諸天善神の願行が、法華経の行者を守護することにあるとのべています。諸天善神は昼夜に法華経を護るという神祇観をもっています。比叡山に遊学されたおりにも伊勢神宮を参拝しており、常明寺にて宿泊され水ごりをされた誓いの井戸が伝えられています。天照太神・正八幡・山王は比叡山の守護神(『神国王御書』八八二頁)というのみではなく、天照太神について『撰時抄』に、

「日本国と申すは天照太神の日天にまします故なり」(一〇四五頁)

と、日本という国名になり日本の国土を守護する天照太神に、立教開宗の決意をのべたのです。そして、神力品の「結要付属」を承け「如日月光明 能除諸幽冥」の文をもって、日蓮聖人も自己の僧名のゆらいとされたのです。建長六年正月元旦の日蝕に愛染を感得され、一五、六、七日に不動明王を感得されています。