232.七面山信仰の変遷                  高橋俊隆

◆◆第章 七面大明神信仰

◆第一節 七面大明神信仰の変遷

〇七面山信仰の変遷

身延山は日蓮聖人の墓所として、日蓮聖人の御心が永遠に棲む聖地として渇仰されています。日蓮聖人のご真骨を奉安した御真骨堂、尊像を安置した棲神閣祖師堂、そして、墓所である御廟所などを参拝し、日蓮聖人の御霊にふれるところです。この身延山を鎮守する霊峰として七面山があり、守護神として勧請されているのが七面大明神です。七面山は登詣の厳しいところですので、途中の困難をのりこえて山頂の七面天女にまみえるという、山岳信仰者にとっての達成感があります。七面山信仰のひとつに紙塔婆による千枚供養があります。麓の滝に身を清めて川に流す水向供養や、山頂に至る五〇丁の道のりに題目の千枚札をたてながら、奥之院に向かう信仰があります。これは自己の罪障消滅や因縁断ち、呪縛霊の供養などを行うためです。七面山信仰は自らの苦行によって七面天女に接します。ここには弁財天を祀る二の池があります。現在は福徳と蓄財の神として崇められ、現世利益をいただく霊山となっています。守護神信仰・山岳信仰の山といわれ(望月真澄著『身延山信仰の形成と伝播』二三九頁)、ご来光信仰・竜神信仰・七面大明神信仰があります。(『身延山・七面山参拝案内』八二頁)。このことからも、七面山は祖霊や神を祀る、日本古来の山岳信仰に成り立っていたことがわかります。

七面山の山頂付近に一九八二、四㍍の三角点がありますが、登山道からやや離れたところにある最高地点の標高は一九八九㍍です。日本二百名山の一つに選定されています。山頂付近が身延町の飛び地となっており、山頂は身延町と早川町の境になります。東側は身延山、富士川を隔てて天子山地と対峙し、西側には笊ヶ岳青薙山など、赤石山脈南部、白峰南嶺の山々が連なります。頂上には一の池、二の池、三の池があり、一の池正面の祠には水晶玉が祀られています。現在は身延の奥の院にあたる山で、日朗上人が開いたといわれています。日朗上人登詣のとき早川町薬袋の円立寺の所伝によりますと、池の水で手を洗い清め、手に持っていた薬袋を投じたところ、ということから村の名を薬袋と称し、薬師堂を建てて現在に至ったとあります。七面天女の七池の一にあたる霊跡といいます。開創は明応元(一四九二)年三月とあります。(『日蓮宗寺院大鑑』三五二頁)。山頂近くに敬慎院があり、多くの人が宿坊に宿泊しています。敬慎院から山頂付近にかけては富士山の好展望地として知られ、富士山のほぼ真西にあるため、春分秋分の日には、富士山山頂からのご来光が望めます。これがご来光信仰と呼ばれています。敬慎院には名物とも言える非常に長い敷布団があり、宿泊者はその布団に並んで寝ます。その敷布団を収納するときはロール状に丸めます。奥の院には影嚮石という七面天女由来の磐座があり、その周りを回りながら願い事をするとよいといいます。敬慎院に祀られている神が七面天女です。本社の裏にある池を「無熱池」「霊池」、通常は「一の池」と呼んでいます。地底の「お土」は腫れ物に効験があるとして長い間、信徒に与えられていました。昭和五〇年代の後半に薬事法が制定されてからは作らなくなりました。私が信行道場に入ったときは、この池の「お土」を丸め乾かし読経をして病気平癒を祈願していました。この土は灰白色をしており化石状に堆積した珪藻土です。珪藻の種類はフランシラリヤ・ジャトマ・ナビィキラ・メラシア・エセセミヤ・シネドラなどです。

七面大明神は、七面天女とも呼ばれ日蓮宗において法華経を守護するとされる女神です。七面天女は日蓮宗の総本山である身延山久遠寺の守護神として信仰され、久遠寺に縁する各地の日蓮宗寺院で祀られるようになります。七面山は山岳信仰として古くから存在していました。古来の村人たちの土着の信仰に仏教の教えが加わり、初期の神々は仏教のなかの善神へと習合され信仰されてきました。中尾尭先生は「雨畑村の伝説」から、七面山はもともと雨畑村の村民による山岳信仰の聖地であり、その信仰の歴史であったとのべています。山頂の池畔に「池大神」を祀り、これを「山の神」「水の神」として崇めていたのが原初です。どうように、近隣の山麓にある高住(こうじゅう)や赤沢の村人たちも、七面山の神を祀っていたとのべます。これらの地元の人々が五穀の豊穣や日常生活の安全を祈る山の神であり、春秋の二度にわたって山頂にのぼり祭祀していたと推測しています。(「法華修行の霊場―身延・七面山」『日本の霊場』2所収一一五頁)。そして、赤沢の村のほぼ中央にある社には、平安の頃から修験者が住みつき、そのかたわらに真言宗の寺を開きます。前述しましたように修験者の活動範囲は江戸時代になると規制されてきます。このことは、赤沢村の人が修験道の教えを学び、村人が里修験者のようになって信仰の儀礼を継承し、時に応じて整えることとなります。日蓮聖人が身延に入山され、その後、日蓮宗の勢力が広まると改宗し妙福寺と名のったといいます。妙福寺の住職は毎年元旦に村人と登り、七面天女の宮殿の扉を最初に開きます。これが鍵取りの行事です。また、村人は春と秋に登山道の整備をしています。これらの信仰行事は七面山と赤沢村との、古来よりの関わりを伝えています。身延山からの参詣者がふえることにより、他からの修験者の往来が終わります。

これら古来より受け継がれてきた七面山信仰に、新たに日蓮宗に帰属したことにより、法華経の教えに基づく現在の七面山信仰に発展してきたといえます。江戸以前の七面山信仰について不明な理由はここにあると思います。宗門の伝説によりますと、日朗上人と波木井実實長公が登山したのは、永仁(一二九七)年九月十九日(旧暦)の朝のことです。実長氏は永仁五年九月二十五日に七六歳にて没したというのが定説です。(宮崎英修著『波木井南部氏事績考』一五一頁)。このときに七面大明神を勧請したといわれています。山頂に祀られるばあい、極頂より低いところに祀ります。これは極頂の神を仰ぐためにあります。『身延鑑』にも本社は山の八分目にあるとのべています。神の領域を汚すことはできないという心理が伴い、山頂には祀らない約束事があるのです。このような山岳信仰には験者(げんさ)が関係していることが多く、このような要素がなければ七面山信仰はなかったともいいます。(里見泰穏著『里見泰穏先生著作論集』二三七頁)。そして、七面祭を九月一九日に行うのはこの由来によるとのべています。また、七面大明神と如意輪観音の像が池の大神社にある由来をのべています。

江戸時代以前の七面山については不明なことがあります。その一つに、室町時代に編纂された行学院日朝上人の『元祖化導記』(一四七八年九月二三日)や、円明院日澄上人の『日蓮聖人註画讃』(一五一〇年)、證誠院日修上人の『元祖蓮公薩埵略伝』(一五六六年)に、七面天女影向(出現)について書かれていないことです。この事実はなにを意味するのでしょう。このころ、宗門は文明一三(一四八一)年一〇月一三日に、日蓮聖人二百遠忌を勤修し、文明一四(一四八二)年に本国寺が身延山と法派の正閏を争っています。日真上人は延徳元(一四八九)年に妙本寺から勝劣派の立場に立って分立し、本隆寺(日真門流)を開創するなど、「寛正の盟約」(一四六六年二月一六日)以後、本迹一致と勝劣の論が再び行われるようになります(『日蓮教団全史』)。そして、永禄七(一五六四)年八月二〇日に、四条東洞院今村紀伊守泰久の館に一六ヶ寺代僧が集まり(『日蓮宗年表』一七八頁)、竹内三位・今村紀伊守ら列座の席において、三ヵ条からなる両派和融の条目が作られ調印されることとなります。これが「永禄の規約」です。正式には「一致勝劣都鄙和睦之条目」といい、第一条に「法華経一部八巻二十八品の肝心、上行所伝の南無妙法蓮華経をもって、一味同心して広宣流布を祈り奉るべきこと」、第二条に「法理すでに一統の上は、自讃毀他、私曲・謗言たがいに停止せしむべきこと」、第三条に「諸門和談の間、本末衆徒檀那たがいに誘取すべからざること」と定め、寛正の盟約以来の一致・勝劣両派の対立と、和睦が進められた状況にありました。

史料の初見は身延山に格護されている七面大明神の像です。神像のなかに天文一三(一五四四)年霜月吉日と記されたものです。(望月真澄著『近世日蓮宗の祖師信仰と守護神信仰』一〇六頁)。このころ京都においては、天文五(一五三六)年七月二三日未明に「天文法難」が勃興します。妙顕寺は鷹司家、本国寺は太田家、頂妙寺は細川家、本満寺は近衛家、妙滿寺は九条家などの援兵五万八千人が応戦しますが、比叡山・三井南都の僧兵および佐々木・大原の一八万、それに一向一揆が加わり無慚に敗退します。二七日に妙顕寺、二八日にいたるまで宗門本山は悉く陥落炎上しています。妙顕寺は堺の妙法寺に避難し、同じく本国寺は成就寺、立本寺は櫛笥寺に避難します。一〇月七日に幕府は日蓮宗宗徒を洛外に追放します。そののち、洪水、疫病の流行、飢饉などが続き、京都に種々の怪異が噴出し、社会不安に世情の変化がおきます。(糸久宝賢著『京都日蓮教団門流史の研究』二七〇頁)。宗門先師や信徒は近衛、花山院、九条、鷹司などの従来からの有力信者に協力を要請し、天文一一(一五四二)年一一月一四日に、後奈良帝より帰洛の勅許を得ています。このとき二一本山を一六本山とします。一一月二〇日に本国寺の日助上人が堺より帰洛し、大徳寺近辺に草庵を結びます。そして、天文一六(一五四七)年二月に洛内一五ヵ寺が連署し、四月一日に足利幕府は妙顕寺に禁制札を掲げ、八月七日に本国寺本堂遷座式に後奈良帝より綸旨を賜ります。翌年、佐々木定頼氏の斡旋により、毎年万疋献納の旨などを掲示し、比叡山衆徒と和解し延暦寺の承諾を得て順次帰洛再興したのです。(『日宗龍華年表』八二頁)。スペイン人のザビエルが、はじめて日本(鹿児島)にカトリック(切支丹)を伝えたのは天文一八(一五四九)年といわれています。

足利時代から織田信長の時代になりますと、折伏伝道による宗門の膨大化に対して弾圧を加えます。天正七年(一五七九)五月二七日、織田信長の命による日蓮宗と浄土宗との「安土宗論」がおきます。これは、比叡山の焼打ちや石山本願寺にみられる弾圧と同じです。謀略をもって日蓮宗の負けとし、普伝日門上人や大脇伝介を拷問して処刑し、堺にいた建部紹智を捕えて殺害したのです。油屋日珖上人(仏心院日珖上人)は打ちのめされ袈裟をむしり取られます。そして、詫証文二種を提出させられます。天正九年は日蓮聖人の三百遠忌にあたります。信長は天正一〇(一五八二)年六月二日に本能寺において自刃します。堺妙國寺の油屋日珖上人は、秀吉に安土宗論の不当を訴えます。それが認められ天正一二(一五八四)年に「法華宗弘通公許状」を得ました。翌年の七月一八日に豊臣秀吉は浄土宗側より、安土宗論の負証文と法衣を取り上げ宗門に還しています。本能寺の変のとき堺にいた徳川家康は妙國寺に宿泊していたといいます。このとき、妙國寺の僧や油屋親子の助けを得て難を逃れたと伝えています。小室妙法寺は身延の末寺扱いを不満としていたので、天正一一年に家康の裁断により無本寺として独立しています。(『日蓮教団史概説』九二頁)。宗門においては災厄が続いた時代でしたが、身延山は武田・徳川家の外護を得て基盤を固めていたのです。(林是幹稿「甲斐日蓮教団の展開」『中世法華仏教の展開』所収。三九五頁)。

文献上に七面大明神が見られる始めは、天正二〇(文禄元年、一五九二)年一二月八日に大阪の雲雷寺を開いた日宝上人(京都妙伝寺一二世)が、曼荼羅本尊に七面天女を勧請したのが最初といいます。武田氏滅亡より一〇年にあたります。ちょうど秀吉が朝鮮へ出兵(文禄・慶長の役)した年です、この「文禄の役」のとき加藤清正は二番隊主将となっています。つぎに、文禄五(一五九六)年の身延山一八世如雲院日賢上人の曼荼羅に、「七面大明神宝殿常住之守護本尊也」と脇書きに見えます。(宮崎英修著『日蓮宗の守護神』一二三頁)。このときには宝殿が建立されていたことがわかります。すなわち、身延山に本格的に七面大明神が祀られたとします。(『日蓮教団史概説』一二四頁)。絵像は身延山歴代住持が開眼した画像があります。彫像は天正年間の銘文が刻まれている身延山所蔵の尊像が初見といいます。(望月真澄著『御宝物で知る身延山の歴史』一〇三頁)。

これまでのことから、日蓮聖人は崖崩れの露出した七面山の景観についてはのべていますが、七面山信仰については触れられず、善智法印などとの接点はあっても、直接的な関係はなかったと考えられます。ただし、民俗信仰や山岳信仰の性格からして、早い時代から呪術者や験者が存したと考えられています。(里見泰穏著『里見泰穏先生著作論集』二二五頁)。後述しますが日興上人の布教活動に接点が見いだせます。では、いつごろから七面天女信仰が盛んになったのでしょうか。宮崎英修先生は身延と池上におきた身池対論以後に発展したとのべています。(『日蓮宗の守護神』一二一頁)。身延第一四世善学院日鏡上人・第一五世宝蔵院叙師・第一六世琳光院整師の三師ころから七面山の七面天女の信仰が発生し、本格的に身延山に定着したのは中世から近世にかけての時期といいます。善学院日鏡上人(一五九二~一五九九年)は西谷檀林(一五五六年)の祖とされます。元亀三(一五七二)年四月一一日に身延攻めの伝承があります(史実とはされていません)。『本化別頭仏祖統紀』の日叙上人(一五七七年没)の伝記には、「信玄は身延の地勢堅固なるを見て居城をここに移さんと欲して申し入れ信濃国に二倍の替地を約したが、時の貫主日叙の断固たる決意により拒絶され身延を攻撃した。だが七面嶽に神兵現れて諸将兵の眼くらみ信玄は舌根を神箭に刺されて退し陳謝した」と書かれています。(『日蓮宗事典』)。身延攻めは七面天女の神威を宣顕することになり、この霊験もあって七面天女信仰が具体的になったとされます。このころ身延は関東奉行の徳川家康の保護をうけていましたので、七面大明神の宝殿が造られますが、なぜ、この深山に構築されたのかという疑問があります。(室住一妙稿「七面大明神の伝説・縁起とその考証」『七面大明神縁起』所収二八頁)。とくに、元和年間(一六一五年~)から幕府や諸藩の保護をうけています。(中尾尭著『日蓮信仰の系譜と儀礼』二九一頁)。このことから推測しますと、一六世紀の中頃から次第に七面天女の信仰が強まり、それまでの原初の七面山の民間信仰を包摂していきます。身延山の霊跡参拝や御会式の参拝も近世にはいり発展します。御会式の期間は参詣する人から関銭を免除する会式関免許が行われたのは、武田信玄の永禄元(一五五八)年、徳川家康の天正一七(一五八九)年ころからです。これにより身延への参詣者が多くなりました。(林是晋著『身延山久遠寺史研究』二〇二頁)。

文禄五(一五九六)年に一八世日賢上人が、七面大明神宝殿を造営し常住守護本尊を奉安します。慶長四(一五九九)年八月二五日に村雲日秀尼の丹誠により、身延山本堂・方丈・唐門が落成します。、そして、受布施・不受不施の論叢で有名な身延と池上の論叢がおきます。この発端は関東諸山の不受派が、千僧供養を受けた身延を謗法の地として、参詣した者は地獄に落ちる(「謗法堕獄」)と受派の身延を攻撃したことにあります。(この経緯は文禄四(一五九五)年九月二五日に、豊臣秀吉による京都方広寺千僧供養会。その後、慶長四(一五九九)年十一月二〇日、日奥上人の大阪城対論、江戸城に移り慶長一三(一六〇八)年一一月一五日に常楽院日経上人の慶長法難などを経てのことです)。これにより身延山への参詣者は半減します。このようななかで、加賀藩の祖、前田利家の側室で三代藩主前田利常の母である寿福院は、元和五(一六一九)年に五重の塔や奥之院祖師堂を建進しています。また、元和年間(一六一五年~)より、関東・京都などに檀林が増設されるようになります。大沼田檀林は文禄三(一五九四)年に田間村長久寺の壇所を還したもので、二代将軍徳川秀忠が東金放鷹の際、妙経寺に立ち寄り日乾上人の進言に基づき、東西一二〇間・南北七〇間の朱印地に建立されたものです。規模は講堂・宿坊三六・諸寮・乾師堂などが建立され、勝劣派の学問所として興隆しました。指南を受けた学徒は法肩(はっけん)・法縁・法類と呼ばれる系統を形付けました。

身延第二六世の日暹上人(一六四八年没)は、寛永六(一六二九)年二月二六日に、不受不施禁止を寺社奉行に訴えました。いわゆる「身池対論」となります。幕府は寛永七(一六三〇)年四月二日に対論を裁決し、徳川家康が不受不施派を禁止した裁きに違背した罪(上意違背)として、不受不施派を敗者とします。これにより、宗門は大きく変動します。池上本門寺の長遠院日樹上人は信州伊那に流罪、中山法華経寺の寂静院日賢上人は遠州横須賀に流罪、平賀本土寺の了心院日弘上人は伊豆戸田に流罪、小西檀林の守玄院日領上人は佐渡のち奥州中村に流罪、碑文谷法華寺の修善院日進上人は信州上田に流罪、中村檀林の遠寿院日充上人は奥州岩城平に流罪となります。不受不施派の首謀者として大きな影響を与えた佛性院日奥上人は、裁決直前の三月一〇日に六六歳で京都妙覚寺に没します。死後に関わらず再度、対馬に流罪となります。これらを不受八聖といいます。(『日蓮宗年表』二四五頁)。日奥上人をのぞいた先師を「前六聖人」とよびます。さらに、幕府は不受不施派の拠点である池上本門寺を身延日遠に、京都妙覚寺を身延日乾に与えます。身延久遠寺はこれを好機として飯高檀林・中村檀林・小西檀林の三檀林を接収し、中山法華経寺・小湊誕生寺の不受不施派の拠点をも支配下に収めたのです。受派の身延山が他の門流寺院を押さえて、教団を代表する地位を獲得したのです。受布施派は身延の日乾・日遠・日暹上人、藻原妙光寺の日東上人、玉沢妙法華寺の日遵上人、貞松蓮永寺の日長上人です。宗門の動揺は大きなものでした。この紛糾は結果的に七面天女信仰も、これに連動して発展したといいます。(『日蓮教団全史』・『身延山史』一三一頁)。七面山を身延山の管理とし、七面天女信仰が流行することにより、身延山も発展したという見方ができましょう。(望月真澄著『身延山信仰の形成と伝播』三一〇頁)。幕府は寛永一三(一六三六)年に寺院に朱印・安堵状を与えました。これにより棚経が慣例となり、寛永一六(一六三九)年に宗判改めの制を設け寺請け証文を定めました。

そして、養珠院夫人(一五七七~一六五三年)が、七面山に始めて登詣したのは、寛永一七(一六四〇)年のことでした。七面山も他の山岳信仰の霊地のように女人禁制であったと思います。養珠夫人は三浦氏の支流である正木賴忠氏の養女で、安房で成人したこともあり熱心な日蓮宗の信者でした。万部寺から七面山へ向かって下がったところに、七面山遥拝所がありました。女人禁制の霊山には女性が遥拝して祈願をこめた女人堂という、女性のための参籠所があります。女人が入山を止められたのは、行者は山中の修行において、特殊の加持力を得るため苦るしい修練を行います。その行中において女性の存在は心身を悩乱する恐れがあります。また、古代より神道においては血のケガレを嫌います。それらが加味されて、修験道においては女人が入山することを拒みました。七面山も当初は大峰七面山の系譜にあたり、小室妙法寺が管理したことから当山派の霊山と思われ、このことは女人禁制であることを示唆します。また、赤沢の妙福寺はもと真言宗の寺であり、七面山はここの管理下にありました。妙福寺が六ヶ坊を率いて日蓮宗に転宗した史実から、七面山は大峰真言修験の霊山であったと推測できます。女人禁制の山であったため、養珠院夫人が白糸の滝にて七日間の水垢離をされたと思われます。爾来、宗門においては女人禁制が解かれた始めとし、養珠院夫人を女人踏み分けの祖として尊信しています。

女人禁制が解けたことにより提婆達多品の女人成仏の教えが、七面天女の本地を龍女と転化されます。そして、参詣者が増加し一七世紀の前半には、現在のような日蓮宗の身延山鎮守の七面大明神信仰として定着します。養珠夫人が尊信された八歳龍女像が大野の本遠寺に所蔵されています。開扉しますと左右に「南無八歳龍女神尊像」と「持以上仏、仏即受之」の文が揮毫されています。(身延・七面山敬慎院発行『七面山』二七頁)。この龍女成仏の信仰が江戸城の大奥女中に、身延山・七面山信仰を結びつけたのです。(望月真澄著『近世日蓮宗の祖師信仰と守護神信仰』二四七頁)。この要因は身延山の宗門における立場が、大きく関わっていたことはすでに指摘されています。(中尾尭著『日蓮信仰の系譜と儀礼』三一〇頁)。また、宮崎英修先生は宗門の布教方針に大きな変革があったことを指摘されています。身池対論のあと折伏布教が抑制されたことにより、摂受的な布教として着目されたのが祈祷布教でした。そこで、身延山は祈祷の守護神として、あらたに登場したのが七面天女であったとのべています。(『日蓮宗の守護神』一二〇頁)。

大きな事件として注目されることは、雨畑と赤沢の利害対立に発展した七面山頂の所有権争いで、表面化したのが境界訴訟です。この雨畑と赤沢の村の訴訟は、慶安四(一六五一)年に起き、領主の千松君・徳松君両殿より四人の奉行が現地に来て山境を定めます。このとき第二七世日境上人は役僧の清水院を七面山へ案内し、正光院を薬袋村へ送り身延山の境を説明します。これにより、七面山の本社から山の中腹にかけての四方八丁の土地は、身延山の信仰地であると判断され、身延山にて管理支配することが決定されました。この手形を雨畑・赤沢・高住・小縄・薬袋・大島・搏坪(くれつぼ)・伊沼・下山などの九ヶ村の名主が連名して、奉行の三上・久留・雨宮・大柴の四人に差し出し、一九年来の争いが落着します。(『身延山史』一三五頁)。これは身延山にとって大きな進展となります。七面天女信仰も本格的になったといえます。春木川にそった赤沢村は七面山の登山口として繁栄します。不受派の活動は引き続いており、幕府は寛文五(一六六五)年に、寺社領は国主の供養であるとの手形を提出させます。このとき、小湊・碑文谷・谷中などは悲田供養として手形を出します。これにたいし、手形を出さなかった妙滿寺・法連寺・興津妙覚寺・雑司ヶ谷法明寺の僧は流罪となります。翌六年に野呂檀林の安国院日講上人や玉造檀林の明静院日浣上人が、寺領は為政者が国民に与える仁恩であると、幕府を換言したため流罪にあいます。このときの日述・日尭・日了・日講・日浣・日庭上人を「後六聖」と呼び、不受のなかに悲田派と恩田派の二つが生じました。

寛文六(一六六六)年に元政上人の「七面大明神縁起」が執筆されました。本書は七面大明神についてのべた現存する最古の文献です。七面天女が日蓮聖人の御前に影現された建治三年から三八九年をへています。身延第一四世日鏡上人が入山されたのは天文一三(一五四四)年一二月二一日で、「七面大明神尊像」を開眼されたのは、その前の霜月(一一月)のことです。日鏡上人が「七面大明神尊像」を開眼されてからも、約一二三年後の執筆となります。この「七面大明神縁起」は漢文で書かれています。執筆の由来は京都の信者が深草山の上に七面堂を建立するときに、弟子たちの求めに応じて書き与えたものです。内容は七面天女の本地と利益を書いたものです。幕府は寛文一〇(一六七〇)年に諸寺の本寺・末寺を判明させる宗教対策をとります。身延山は一致派における総本山として名実を獲得しており、従属する附庸本寺と諸末寺を有しました。これに則り寛文一三(一六七三)年に、幕府は本末寺院の朱印状・安堵状を下します。これにより、幕府と宗門寺院との連絡は、江戸府内の役寺・寺社奉行などを経る諸制度が一定されました。その後、敬慎院(七面明神本宮)は身延三〇世日通上人が、延宝三(一六七五)年八月八日に建立しています。本殿は天都宮・天女祠といい七面天女を祀っています。(『鷲の御山』一一四頁)。この建築の様式は仏教寺院に付設された神社建築となっています。本殿改築、拝殿客殿など、敬慎院を建立したときに「池大神宮」も再建されました。このとき、三〇世日通上人は池大神再建棟札本尊肩書きに、つぎのように書かれています。「池大神者従根本雨畑造営故 今亦彼村中為造営者也 七面大明神末社池大神棟札 延宝三年八月二八日」。この八月二八日は遷座式が行われた日です。七面社本宮は三間半に四間。弊殿は二軒半に二間。拝殿は六間に四間など、久遠寺が建立した七面社(敬慎院)は、池大神の社殿と比べられないほど大規模なものでした。これにより、雨畑村の池大神の祭祀などの山上管理権が大きく後退し、久遠寺の規模が圧倒的に強くなります。七面山に僧侶などが常住し参詣者がふえると、麓の人達の七面山に関わる役割が大きくなります。とくに、赤沢村は身延山と七面山の中継点になるので大きな役割をもちます。(中尾尭稿「七面山の信仰」『冨士・御嶽と中部霊山』所収一〇〇頁)。七面山から得る収益は山麓の経済を潤わしたのです。木版刷りの七面大明神御影(木版刷本尊)は、身延三二世智寂院日省上人(一六三六~一七二一年)のころから領布されたといい、智寂坊には日省上人が感得された七面大明神が祀られています。身延山には積善房流の祈祷相伝があります。日遠上人(一六四二年没)・日暹上人(一六四八年没)から始まります。日暹人は身延山に伝わった祈祷の切紙・口決などを整理し、西谷化主の第七世智性院日遂上人に伝えます。積善房流の祈祷は元来、日蓮聖人から日向上人に伝えた秘法とされ、身延第一三世宝聚院日伝上人(在位二五年。一五四八年寂)までは、本院に直伝されていました。日伝上人は積善房流の祈祷をたてて開基となります。日由・日国上人をへて、身延二二世日遠上人のときに中絶していた祈祷を再興します。一〇代の仙寿院日閑上人は積善房流の祈祷の祖といわれ、寒中に七面山の池に身を浸し練行し、改宗受法者が一万人いたといわれています。(『日蓮教団史概説』一〇三頁)。七面天女信仰と祈祷が結ばれ、修法師の加持力が求められていたことが分かります。江戸前期は養珠夫人や寿福院夫人、紀州・水戸家、それに、前田・浅野・伊達・蜂須賀家などの有力な武家によって宗門が繁栄していきました。

身延第三一世日脱上人(一六九八年没)の『身延鑑』が、貞享二(一六八五)年に発行され、七面天女の伝説を記録しました。このころに謡曲の「現在七面」が作られており、一七世紀後半には七面山が広く知られ、七面天女信仰も普及されるようになっていました。身延第三六世の六牙院日潮上人(一七四八年没)の『本化別頭仏祖統紀』に、日伝上人が七面山にて修行をしたこと、日閑上人も七面山にて七面大明神の加護を祈ったことを載せています。祈祷相承の道場として七面山が機能していたことがわかります。その後、文政三(一八二〇)年に普門院日憲上人は、「身延積善房流祈祷相承之事)」に七面山に登り加行を成満すべきことをのべています。(加行滿一千日之事)。その加行の作法は始めに積善房にて法楽、つぎに本院祖師堂にて法楽、つぎに奥之院祖師堂にて法楽、そして、七面山の御宝前にて法楽という順になっています。七面山においては直ちに御宮にて法味を言上し、別当に本院からの添え状を提出して修行の認可を得、帳場や世話人へ挨拶にまわります。翌日は宝前や行場などを清掃し身支度を整えます。明けて池大神と影向石明神に法楽し、定めの通りにご開帳を行うことが記されています。(入加行差次之事)。(宮崎英修著『日蓮宗の祈祷法』二二五頁)。ここから、宗門における七面山の意義、その七面山には七面大明神や池大神、影向石明神などが並立して勧請されていたことがわかります。

ところが、安永五(一七七六)年一〇月一二日夜に七面山の堂宇が全焼し、死者を出す惨事がおきます。このときに叙歴唱師事件がおきます。身延の西谷檀林側は守慎院日唱上人が、七面天女は邪神であるとしたことなどをあげて訴えます。唱師の「七面邪神説」の主張は、七面天女信仰は日蓮宗の本来の信仰ではないということでした。翌年の四月二八日に西谷檀林能化(泰学・義忍・潮瑞・良向・博瑞)は、唱師の主張に八ヶ条の項目をもって反駁し寺社奉行に訴えます。奉行の召喚により五月五日五ッ時に双方が対決します。二回目の審問を六日に行い、身延山より歴代本尊を取り寄せ、七面大明神の書式について検校を行うことになります。一四日に役寺立ち会いのうえ検校が行われ、これにより、未決ながら唱師は不受悲田の異説とされます。唱師は衣を脱がされ揚がり屋(牢屋)にて同二九日に牢死し、小塚原に引き捨てられます。そして、安永七(一七七八)年一月二七日に、不受の邪説を唱えたことで死後の重刑に処せられます。これにより、唱師は歴世から削除され、唱師が認めた曼荼羅は麓坊に集められて焼却されました。檀林能化の日遵上人は騒動の責任者として三宅島に流刑されます。(林是幹稿「身延西谷檀林の形成と展開」『近世法華仏教の展開』所収、四六一頁)。博瑞上人は濃州岩村に謫せられ、三年にわたる唱師事件が終わります。六月に奉行所より身延山へ、争論が起きた不届きを厳戒されます。(『身延山史』二一七頁)。ただし、記録として残っているのは西谷檀林側(安永六年三月一九日、檀林某著『倍増威神録』一巻。『日蓮宗年表』二一二頁)のみなので、事件の真相は明らかではありません。(林是晋著『身延山久遠寺史研究』九六頁)。そして、天明元(一七八一)年に日蓮聖人の五百遠忌を迎えます。このころ、国学者の本居宣長(一六六九~一七三六年)が復古神道を盛んに主張し、国学者の富永仲基(一七一五~一七四六年)の『出定後語』や、服部天游(一七二四~一七六九年)の『赤裸々』などに見られる仏教批判の影響が続いていた時期に重なります。文化七(一八一〇)年に甲府の法華寺において、英智院日宣上人は神職と問答をしています。文政二(一八一九)年ころからは、平田篤胤(一七七六~一八四三年)の『出定笑語』、その附録の『神敵二宗論』において、一向宗と日蓮宗が神敵として宗門にたいしての攻撃がはじまります。この影響は強く仏教界に及ぶことになります。

江戸後期になりますと、信者層は公武から庶民に拡大され、社殿はそのまま継承されます。この庶民信仰により講中(こうじゅう)が増え、出開帳による布教が盛んになります。身延山においては文政七(一八二四)年の火災による復興と、文化・文政の治世に乗じて江戸の出開帳が増えます。嘉永二(一八四九)年ころより七面大明神も出開帳に神名を連ねるようになり、安政四(一八五七)年には定着されたといいます。(望月真澄著『近世日蓮宗の祖師信仰と守護神信仰』一二六頁)。嘉永五(一八五二)七月七日に本堂入仏式を行っています。しかし、宗門僧侶は宗学においても信仰においても、充分に養成できていなかったといいます。(『日蓮教団史概説』一三五頁)。金沢立像寺充治園の優陀那日輝上人は、嘉永三(一八五〇)年に『庚戌雑答』を著します。嘉永六(一八五三)年に黒船騒動、安政五(一八五八)年に安政の大獄がおき国難の風潮が漂います。安政七(一八六〇)年に江戸城の桜田門外において、水戸藩と薩摩藩の脱藩浪士が彦根藩の行列を襲撃して、大老の井伊直弼を暗殺します(桜田門外の変)。

慶応三(一八六七)年に大政奉還・王政復古となり、明治元(一八六八)年となります。明治政府は国家神道を勧め天皇制を強化します。三月一三日に神祇官が再興され、神社を所属とし一七日に社僧・別当を還俗させ、二八日に神仏判然令を布告します。これは、権現・明神・菩薩などの仏教にちなむ神号を廃し、あわせて仏具なども神社のなかに置くことを禁止したものです。そして、一〇月八日に太政官は京都十六本山に、三十番神・天照太神・八幡大菩薩の神号の使用禁止を布達します。身延山久遠寺は神号相除を認めるよう末寺に指示しました。一〇月一八日に日蓮宗諸本寺に三十番神や神祇の称号を混用することを禁じ、曼荼羅のなかに天照太神・八幡大菩薩などを配祀することを禁じます。(『日本仏教編年大鑑』五〇七頁)。葬儀にあたり天照太神・八幡大菩薩を書いた行衣を、死者に着服することを禁止したのです。これにより、富山藩では三二あった日蓮宗寺院が一ヶ寺に合寺させられます。薩摩藩では一三二ヶ寺の日蓮宗寺院が廃寺され、千葉県大多喜藩は四ヶ寺、高知県では八ヶ寺、松本では四ヶ寺など、各地において廃仏が行われたのです。(宮川了篤稿「日蓮宗修法史概説」『身延論叢』第一六号所収、二〇頁)。明治の神仏分離令・廃仏毀釈のはじまりです。

明治二年一月に身延山はこの布令にたいし、東京触頭三ヶ寺の名をもって末寺に触書を出します。ほとんど布令に従う内容です。これに先立つ江戸役寺の一五ヶ寺が、身延へ提出する草案に七面大明神のことをのべています。「惣而七面天女ハ元ヨリ示現ノ神ナルヲ以テ七面天女ト可奉称事、尤モ大明神ノ額ハ外ス事、神道者ガ身延山ヘ怨嫉ヲ生ジ居ル時ナレバ極難ヲ申掛ケル事、必定ナレバ急ギ天女ト可申上事」と、時勢に応じて対処せざるを得なかった狼狽がうかがえます。(『身延山史』二六九頁)。宮内省は明治五(一八七二)年三月二七日に、神社仏閣の女人結界の制を解禁し、四月二五日には全僧侶の肉食妻帯蓄髪の禁を解き、法要いがいのときは俗服着用を許可します。これは、寺院所蔵の宝物類の開示を伴い、古来からの信仰に介入することでした。付随して僧侶の在俗化による堕落を招きました。同時に政府の仏教側への方針を、皇道宣布に役立たせる方針に変えます。そこで、同年一一月に充治園出身の新井日薩上人(一八三〇~八八年)は大教院教頭になります。そして、日蓮宗や真言宗などの祈祷をする宗派に、祈祷取締がなされた年の明治六年の六月一〇日に、日蓮聖人開闢六百年法要を行います。明治七年三月三日には、久遠寺七三世日蓮宗一致派初代管長に就任し、組織整備と人材抜擢を行って宗門の近代化に努めます。しかし、明治八年一月一〇日午後六時に西谷本種坊より出火し、本山支院一四四棟、日蓮聖人のご親筆『開目抄』『報恩抄』などを焼失します。そして、明治九年二月三日に、一致派を日蓮宗と改称する公称許可を得、明治一一年七月一九日に身延山久遠寺を総本山と呼称することになります。明治一二年に琉球処分により沖縄県になりますが、琉球からの古い神の多くは政府公認の神社の祭神とはされませんでした。明治一三年から神社は内務省社寺局の所管となり、明治一七年一一月に教導職が廃止されます。これは、敬神愛国・天理人道・皇上奉戴の「三条の教則」にもとづき富国強兵などを国民に教育する役職です。しかし、島地黙雷などによる反対運動や、神道事務局神殿の祭神をめぐって、伊勢派と出雲派の神官の内部の混乱により、神仏合同布教は停止の状態だったからです。結果、宗教のことはその宗派の自治に任せるということで廃止されます。これは神道国教方針を放棄した判断といえます。(小笠原日堂著『曼荼羅国神不敬事件の真相』二二頁)。同月一七日に官長の日鑑上人は公に宗務院公認許可を得ます。神道事務局は明治一九年一月一一日に、神道本局(のちの神道大教)と改め、教派神道(神道十三派)、独立教派の扱いとなります。宗門では明治一八年五月に、深川浄心寺において祖尊像・七面大明神尊像を開帳します。(『身延山史年表』頁)。

明治二七年七月にはじまる日清戦争は、朝鮮半島をめぐる大日本帝国と大清国の権力戦争で、翌年の三月にかけて行われました。この戦争の勝利により多額の賠償金を得、経済が飛躍します。明治二九年九月に七面山開闢六百年祭が行われ、明治三五年四月に開宗六五〇年紀念大会が開催されます。明治三七年二月八日には、ロシア帝国との間で朝鮮半島と満洲南部を主戦場として日露戦争が起きます。明治三八年九月五日に、アメリカ合衆国の仲介によるポーツマス条約により講和します。日露戦争の勝利は海軍軍人に信者を得ることになり、財団設立による宗門の基礎が確立したといいます。身延山は明治四〇年に布教団を組織し教団の意気を高めます。明治政府は神道の国家的性格を強く打ち出しますが、宗教として体系化されるよりも神職官僚化と儀礼化させることに留まりました。(堀一郎著『民間信仰』一一頁)。行政上の差配に従ったなかにも本来の自然宗教の要素は内包されているといえましょう。このとき七面大明神から七面天女に名称がかわったといいます。七面天女の称号は大正から昭和になりふたたび七面大明神にもどります。(森宮義雄著『七面大明神のお話』七九頁)。しかし、里見泰穏先生は七面山は廃仏の対象にあがらず、七面大明神はすでに仏教化し宗門に定着していためであるとのべています。(『里見泰穏先生著作論集』二四二頁)。

大正に入りますと宗門は社会性を強く打ち出します。(影山堯雄稿「中世近世及び現代社会と法華教団との交渉」『法華経の思想と文化』所収、一九七頁)。大正元(一九一二)年一〇月二七日に七面山の総門が新築され、清水竜山上人の選字になる「和光関」の扁額が掲げられます。また、同年、七面山の参道羽衣橋を鉄骨橋に架け替えます。そして、大正八年一一月七日に七面山にて開基日朗上人六百遠忌を奉行します。大正一〇年二月一六日に、日蓮聖人の生誕七百年を紀念し、宗務院は小湊誕生寺において国祷会をおこないます。身延山は聖誕七百年記念・山林復古祝典報恩会を、第一期四月十五日、第二期十月一日から行います。(『近代日蓮宗年表』二四九頁)。また、本多日生上人と各門流は政界の木内重四郎、軍部の東郷平八郎、ほかに、加藤高明・床次竹次郎・小笠原長生・犬養毅・田中智学居士・佐藤鉄太郎・矢野茂・大迫尚道などの請願書により、大正一一年一〇月一三日に、「立正大師」の諡号が宣下されます。(影山堯雄稿「近代法華仏教運動の展開」『近世日本の法華仏教』所収、一二一頁。渡辺宝陽稿「本多日生」『日本近代と日蓮主義』所収、七三頁)。『立正大師号奉載記事』によりますと、宮内省から日蓮宗各派官長にあてて「今般 特旨以テ其宗宗祖日蓮ヘ大師号宣下候事 大正十一年十月十三日」と宣下があり、大正一〇に宮内大臣に就任していた大久保利通の次男、牧野伸顕大臣より宣下書を受けとっています。(山口輝臣稿「天皇と日蓮―大正一一年の立正大師号宣下をめぐってー」『日本歴史』第七七〇号所収、三頁)。身延山では一一月二一日に諡号宣下慶讃法要をおこない、秩父宮殿下が御登山参拝されました。大正一二年九月一日、神奈川県相模湾北西沖八〇㌔を震源とした発生した関東大震災がおきます。東京近辺の社寺が多数焼失しました。昭和四(一九二九)年一二月一四日に、身延山本山支院信徒は身延山・七面山ケーブル架設反対を決議します。

また、法華宗にみられるように、昭和一二(一九三七)年の法華宗に対しての教義綱要事件、同一六(一九四一)年四月から二〇(一九四五)年一〇月に至る曼荼羅国神不敬事件、同一七年の日蓮聖人の遺文から、天照太神のご神徳を冒瀆した箇所を削除するようにと、情報局から厳命された宗祖御遺文削除事件、皇太神宮にたいして不敬の行為であると攻撃され、国家権力による団弾圧事件を受けています。昭和一八年八月三一日に神戸地方裁判所は法華宗にたいし有罪としますが、昭和一九年八月二六日に大阪控訴院は、被告人二人に対し無罪の判決をします。この件に関しては終戦とともに消滅していきます。この間、第二次世界大戦(一九三九~一九四五年)を経験します。昭和二〇年一二月二八日に広布された宗教法人令により、登記すれば自由に宗教法人を設立できることになります。これにより、明治政府により禁止されていた修験教団が相次いで独立します。昭和二一年一月一日に昭和天皇は人間宣言を発布します。すなわち、天皇自らが神格を否定されたのです。これにより、同月三一日に神祇院官制など、すべての神社関係法令が廃止されます。皇室令の全廃、そして、宮中祭祀は天皇の私的行為となりました。昭和の軍国主義に守護神信仰は翻弄されたのです。妙石坊の鳥居は明治初年いらい失われていましたが、昭和三七年一二月に昔の姿に復元されました。(身延・七面山敬慎院発行『七面山』四五頁)。

以上、七面山の変遷をみてきました。七面山信仰の特徴の一つとして、山麓の諸堂を拠点にして民間の行者たちが、激しい修行を行うことがあげられます。(中尾尭稿「法華修行の霊場―身延・七面山」『日本の霊場』2所収一二七頁)。七面山の登山口に、神力坊・白糸教会・妙法教会・明浄院・弁天堂(日教教会)などがあり、ここにて修行を行います。この形態は山岳・修験信仰にみられるもので、昔から変わらない「行」と思います。その一例として七面山麓の旧弁天道についてみてみますと、開創の東日教上人は幼少の頃から師匠に随身し身心の鍛錬を行いました。そして、身延山の学生として修学し荒行を修めます。のちに、中山法華経寺の奥之院の中興となり、中山法華経寺一三一世に加歴されました。雄滝にて断食滝行をおさめ、ここに「日朗雄滝願滿弁才天女」を祭神として、昭和二六年一〇月に弁天堂が開堂されました。秋一〇月三日と春の五月三日に大祭が行われていました。日朗上人と七面山との関係、七面山と弁才天の関係を表した堂名と思われます。修行は期間を七日・二一日・三五日・百日と区切って行われる場合が多く、読経・唱題・水行・清掃・雑用をこなし、平均の就寝時間は二~三時間です。東日教上人は午前零時に水行をされ、朝勤が始まる前の午前四時にも水行をされていました。茶道に若水は寅の刻に汲むという言葉があります。寅の刻は午前四時です。寅は五行の木にあたり、相生の最初にあたることから木は万物を生じるものとされます。午の刻(昼一二時)を過ぎると井戸の水に毒気を生じ、夜中の子の刻(午前零時)を過ぎれば生気に溢れた新鮮な水に変わるといいます。昔は夜明け前に台所の甕に水を汲みいれました。(『茶の湯と陰陽五行』淡交社編六頁)。とくに、「草木も眠る丑三つ時」の「三つ行」(密行)は、神仏との感応や霊魂との霊感、鬼畜魔障との法力を養います。丑の刻とは午前一時から三時までの二時間で、それを四つに分けた三番目が丑三つ時で、この午前二時から二時半の深夜に特殊能力が磨かれると、東日教上人はのべています。なかには断食や無言の行をかねて行うこともあります。角瀬まで炭や食料などを買いに毎日、往復します。春木川は川底に水流があり常に歩く場所がかわります。そのため毎日、川の整備をします。これらに伴う肉体労力があり、これも提婆品の修行の一環となり肉体を鍛えるために必要なことです。ここで、精神と肉体をきたえ行力を高め、そして、諸天善神・仏・菩薩と感応の世界に近づく修行をするわけです。昭和の四十年代中頃までは、この春木川にそって大きな岩石が立ち並んでいました。東日教上人は滝壺に雨よけの屋根を作り籠もります。自分一人が横たえるだけのものだったといいます。ここで修行する者は日ごとの怪異や魔力に惑わされ、大雨のときの雄滝は天地が逆巻くと思われるほど荒れ、骨折などの怪我をして途中で逃げ出したといいます。東日教上人の話ではこの岩窟に行者が身をひそめて、それぞれが修行をしていたといいます。(安斎嘉修著『ひたすら南無妙法蓮華経』Ⅱ。六七頁)。)古来の修験者たちの有り様が彷彿されます。また、辨天堂の上流にて激しい修行をした行者がいたといいます。一般の信者が七面山にて行をするときにも、「秘密の行」(密行)を行います。夜の一二時に白糸の滝に入り滝行をし、神力坊の伽藍大善神を拝んで登詣します。このような修行は江戸時代から続いていました。京都の岩倉実相院の祈願僧であった日誓上人は、白糸の滝で弘化元(一八四四)年から嘉永三(一八五〇)年までの七年のあいだ滝行に専念しています。江戸時代にはこのような深山の岩窟に居して滝行に励み、祈祷の行力を積む行者がいました。行者は七面山の山麓にいて行を積みますが、山中や山上にはいません。それは七面山は聖なる七面天女の棲まいであり、山そのものが七面天女と受けとめているからです。ですから、登詣するときは水行をして身を清めてから参詣にのぞむのです。

七面天女信仰の高まりは、このように身延山が末法鎮守の善神として祈祷布教した功績といえます。身延山にて行学を修得した青年僧は、全国各地に布教し有縁の地にて末寺を建立しました。これにより、祖師信仰が全国的な広がりをもち、それに七面天女信仰も付随しておこり、全国に「写し」となって広まっていたのです。(中尾尭稿「法華修行の霊場―身延・七面山」『日本の霊場』2所収一三二頁)。日蓮聖人の門下としての弘教信念が強かったことがうかがえます。