233.七面天女出現の通説              高橋俊隆

七面天女出現の通説(妙石坊)】

七面天女と日蓮聖人の出会いについて、「西谷草庵説」と「妙石坊高座石」(法輪石)の二つがあります。一般的にいわれているのは妙石坊説ですので、この通説を紹介します。日蓮聖人は建治三(一二七七)年九月(あるいは建治二年(『鷲の御山』一一〇頁)、身延山山頂から下山の道すがら、現在の妙石坊の境内にある高座石(法輪石)と呼ばれる大きな石に座り、信者方に説法をされていました。この説法は定期的にされていたのか、日蓮聖人が説法をされるときには信者や弟子、里人が集まり、里人は茣蓙を敷いて聴聞したといいます。このなかに妙齢の女性がいたのです。この場所は七面山登山道にあたり田代といいます。七面天女が日蓮聖人のもとにきたのは、ちょうど妙石坊の高座石に座って法華経の教えを説いていたときでした。この女性ははるか昔に一の池にて身心を浄めた二〇歳ほどの姫の姿にて聴聞します。この説法があるときは常に来て熱心に聴聞していました。波木井公をはじめ一緒に供をしていた者や里人たちは、このあたりでは見かけない女性であるので、一体だれであろうか、どこから来たのかと不審に思っていました。日蓮聖人は、一同が不審に思っている気持ちに気付いていました。読経や法話を拝聴するためにその若い娘が度々現れていたので、その若い女性に向かって、「そなたの姿を見て皆が不思議に思っています。あなたの本当の姿を皆に見せてあげなさい」と言います。すると、女性は笑みを湛え「お水を少し賜りとう存じます」と答えると、日蓮聖人は傍らにあった水差しの水(花瓶の水)を一滴、その婦人の手のひらに落とします。すると今まで美しい姿をしていた女性は、たちまち緋色の鮮やかな紅龍の姿に変じ、その正体を現します。皆は驚き畏れます。そして、もとの姫の姿にもどり、私は七面山に住む神であると知らせます。法華経の山である身延山の裏鬼門をおさえて、身延一帯を守っていることを知らせるために姿をあらわしたとのべます。そして、末法の時代に法華経を修め広める方々を末代まで守護し、至心に祈るならばその苦しみを除き、心の安らぎと満足を与えますと告げます。そう言い終えると、七面山の山頂の方へ雲に乗って天高く飛んで行ったといいます。その場に居合わせた人々は、この光景を目の当たりにし随喜の涙を流して感激したといいます。皆は七面大明神(天女)と崇めました。こうして七面天女は身延山を護るだけではなく、法華経を信ずる人を護る善神として篤い信仰をあつめたのです。純白な尊顔と慈悲深い豊麗な身体に金色の宝冠を戴き、右手に鍵を携えて左の掌に宝珠をお持ちになっています。これは、私たちの苦しみの門に鍵をかけ、福徳の蔵を開いていく誓いを示しています。左の掌にある宝珠は私たちの罪を消して身心を清め、そして、知恵と福徳を授けるという大願をあらわしているといいます。

『日蓮宗事典』にはつぎのように解説しています。こまかな描写に変化があります。「身延七面山に伝わる伝説である。日蓮聖人が身延隠棲中のこと、しばしば二〇歳くらいの高貴な女性が、柳色のころもに紅梅のはかまを着けて、聖人の法華経読誦を聴聞していた。大檀那波木井実長らはその何人なるかを知らず、怪しんだ。ある日、日蓮聖人に問われるまま「私は身延山の一峯である七面山の池に棲む身であって、聖人の法華経読誦を聴聞し、もろもろの苦悩をまぬがれたいと願っているのです」と女は答えた。そこで聖人は大曼荼羅を授与した。そして、この女性は弁才天女であって、霊鷲山の法華経の会座にて、法華経の行者を守護するとの誓約をたてたのであると説明し、阿伽棚の花瓶をとり出して、女の前に置き、影を写させたところ、忽ち高貴の姿は変じて一丈余りの赤い竜の身となった。聖人が「今より、永く七面山に棲んで、身延山の水火兵乱等の七難をはらい、七堂を護るように」と申されるのを聞き、深くうなずき七面山の池に帰り、水底深く潜んでいったという」、と説明しています。つぎに、七面天女が姿を現したときの様子をみてみます。

【七面天女出現のパターン】

  七面天女との出会い

女性については一般的に「妙齢」な二〇才くらいの女性とあります。「美少女」ともいいます。(竹下宣深編『日蓮聖人霊跡宝鑑』一一一頁)。気品があり高級な服装を身につけた、端正な女性というイメージです。日蓮聖人は女性の正体を知っていたのはみな同じです。

  日蓮聖人との出会い

女性が現れたのは高座石にて説法をされていたときと、西谷草庵のなかで講義をされていたときの二説があります。岩間湛良先生は日蓮聖人が高座石で毎日、説法をされたことに疑問を呈しています。その理由は高座石のある場所は草庵よりも数丁も山に入ったところであり、今日でもその間は一軒の人家はなく、まして、入山の当初は原始林でありそのような所へ、弟子・旦那を従えて説法するとは考えられないとのべています。(「七面大明神霊験記」『七面大明神縁起』所収一四八頁)。普通に考えますと、定期的な講座は天候に左右されない屋内で行われると思います。波木井氏や里人が集まる時期や時間も制約されます。女性は常に日蓮聖人の側にいて給仕をされていた、その姿に不審をもったという口調もあります。岩間湛良先生は日蓮聖人が散策中の出来事であったとすべきとのべています。この女性が本体を現すとしますと、屋外の山林や岩場があるところが良い条件になります。蛇が進入しやすいところ、そして、竜身をあらわして回繞し隠れ去る屋外が適します。日蓮聖人が散策中に提婆品を説いていたら、たまたま側に蛇形がいて聴聞していたと、六老僧の口伝に加味できます。

 

女性が水を欲したことは事実ですが、その水の受けとり方などはさまざまです。花瓶の水を女性の黒髪に数適そそいだといいます。(竹下宣深編『日蓮聖人霊跡宝鑑』一一一頁。町田是正稿「身延山の伝説考」『仏教思想仏教史論集』所収三七四頁)。手の平に与えたともいいます。みずから花瓶をとって水を得たともいいます。また、その水は阿伽(あか)棚の花瓶の水とあります。(『日蓮宗事典』)。阿伽は閼伽と同じ意味です。閼伽は三宝に供養される水のことで六種供養(閼伽・塗香・華鬘・焼香・飯食・灯明)のひとつになります。あらゆる病気を治すという霊妙な薬を阿伽陀薬というように、清浄な水を意味しています。ふつうに言う垢・穢れを洗い清めることになります。閼伽を汲むための井戸を「閼伽井」、その上屋を「閼伽井屋」、「閼伽井堂」といいます。また、閼伽を入れる瓶を水瓶(すいびょう=軍持)といい、閼伽を入れる器を「閼伽器」、閼伽を供える棚を「閼伽棚」といいます。つまり、日蓮聖人が与えた花瓶の水は、清浄な水であることを表現しています。岩間湛良先生がのべる日蓮聖人の散策中の出来事であったら、その花瓶の水も華美なものではなく、竹筒の水としなければならないとのべています。ただし、容器の如何にかかわらず日蓮聖人がそそがれたことは、修法上からみてありうるとのべています。また、聖護院の修験者は釈迦岳から大日岳に向かう深仙の宿で身体を清めます。聖護院山伏にとっては正規の山伏になる深仙大灌頂をうけます。天台密教においては胎蔵界曼荼羅の中台八葉の大日如来の座にあたります。大日如来と同格になるための儀式が、山伏の頭の頂に水をそそぐ灌頂といわれるものです。一枚岩の大岸壁からわずかに滴る水が香精水とよばれ、この水をもって灌頂します。女性が欲した水も、このような灌頂の意義をもって、正式に七面山の守護神となった、という指向がうかがえます。

  変化した姿

女性の姿は龍神に変化し、黒雲に乗って七面山に飛び去ったというのが定説です。「大蛇にかわり龍女と名のる」(竹下宣深編『日蓮聖人霊跡宝鑑』一一一頁)ともいいます。また、「水没して消え去った」ともいいます。これは大地の草陰や岩場などに隠れたような状態をいいます。現実的には後者のほうが理解しやすいでしょう。この場合は蛇が聴講し、日蓮聖人は提婆達多品の龍女であるとのべた、六老僧の口伝に近くなります。

  九月一九日に三説

一、所伝には日朗上人と波木井氏が七面山に登った日が九月一九日といいます。これにより七面山の開創の日と定められています。日蓮聖人はいつか七面山に登って、七面大明神をお祀りしようと考えていましたが、生きている間には叶いませんでした。そこで、日蓮入滅後一六年目、弟子の中でも師孝第一と仰がれていた日朗上人は、波木井公(当時は出家して日円)らと共に、七面大明神を御祀りするため、初めて七面山へ登ります。当時の七面山は道無き山だったといいます。日朗上人一行は尾根伝いに七面山へ登ります。山頂近くまで登ると大きな石があり、その前で休息したところ、この大きな石の上に七面大明神(七面天女)が姿を現して日朗上人一行を迎えたといいます。日朗上人は、この大きな石を影嚮石と名付け、その前に祠を結んで七面大明神を御祀りし影嚮宮と名付けます。これが七面山奥之院の開創で、永仁五年(一二九七年)の九月一九日のことです。後に社殿は何回かにわたって改築され、現在のように参籠殿なども立派に整備された七面山奥之院となります。影嚮石のそばに七面天女を祀る本社と拝殿が建立されたのは、身延山四二世の耐慈院日辰上人の曼荼羅によりますと、六郷町宮原の村民が宝暦九(一七六〇)年九月に発起して、宝暦一一年に完成したといいます。(中尾尭著『日蓮信仰の系譜と儀礼』二九七頁)。影嚮石の下方に七面天女の神木というイチイの大木があります。

二、これにたいし、雨畑村の伝説にみられるように、雨畑村の住人が木片の仏像を七面山頂の池のそばに、「池大神」として祀った日が九月一九日といいます。日朗上人が開山となった由緒のある日と、雨畑村のこの故事による祭祀の日は、なぜか同月同日として伝えられています。ただし、前述しましたように、日朗上人と波木井氏が七面山に登詣された事実は不明です。日朗上人は弟子に命じて、波木井氏の子息が案内をして七面山に登詣されたことは充分に考えられることです。

三、また、厳島女の伝説のなかで、中納言の姫が池に入水したのが九月一九日とあります。これらの口碑の九月一九日を旧暦になおしますと、ちょうど収穫をおえた時期であり、神仏に感謝の供物(初穂)をささげる時期にあたります。この風習が祭事として定着し、厳島女の命日になったという説があります。(里見泰穏著『里見泰穏先生著作論集』二二三頁)。言い伝えは九月一九日に定着していたことがわかります。

おおむね以上のことが、七面天女出現の様子となっています。他の文献をみてみますと、本地などについていくつかの違いがあります。この違いは口承伝説にみられるもので、脚色された部分を取り除くと一貫した不変の真実を探ることになります。そこで、各文献の内容をみていきたいと思います。