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◆第二節 七面天女伝説の諸説〇七面天女伝説の推移では、七面天女の伝説はいつころからできたのでしょうか。七面山の縁起には第二章(七一頁)に挙げたように、「池大神」「七つが池」「厳島女」などの伝説があります。身延山には通説の高座石と、里見泰穏先生がのべる西谷草庵にての七面天女出現の伝説があります。(『里見泰穏先生著作論集』二三八頁)。七面山にはどのような口碑があったのか、その伝説の内容の推移について七期にわけてみたのが、さきの「七面山の年表」(六〇頁)です。これらの縁起本に見られる、「厳島女」と「七面天女」の出現の縁起について概観します。 一、『御義口伝』古写本(大石寺・要法寺所蔵)元亀二(一五七一)年の写本が、大石寺と要法寺に所蔵されています。日興上人が日蓮聖人の法華経講義を筆録したものと伝えられていますが、現在は後世の偽作とされています。(執行海秀稿「御義口伝の研究」『立正大学論叢』第四・七号所収)。『御義口伝』に、提婆品の沙竭羅竜宮の龍女について、 「殊此八歳龍女成仏帝王持経先祖タリ。人王始神武天皇也。神武天皇地神五代第五鵜萱葺不合尊御子也。此葺不合尊豊玉姫子也。此豊玉姫沙竭羅龍王女也。八歳龍女姉也。然間先祖法華経行者也」(二六五四頁) と、七面天女の本地は提婆品の龍女という説があります。この龍女の姉は神武天皇の祖母にあたる豊玉姫であると書かれています。『日本書紀』の海幸山幸神話では豊玉姫を玉依姫の姉とします。玉依姫は共に海神(ワタツミ)豊玉彦の娘となります。また、親子とする説もあります。善女龍王は娑伽羅龍王の第三王女です。日本の皇室の先祖は法華経の行者であるとしたことは、龍女本地説に関連します。(室住一妙稿「七面大明神の伝説・縁起とその考証」『七面大明神縁起』所収五二頁)。 二、「七面大明神由来事」亮朝院本書は慶安五(一六五二)年一二月一日に、亮朝院(赤門寺)から発行されています。亮朝院は慶安元(一六四八)年に亮朝院日暉上人が、七面山で荒行の後に荒藺(こうりん)山に七面宮を開創されました。七面大明神の像は身延山二七世の日境上人より授与されたものです。身延の七面山と同木の七面明神像を祭ったのが亮朝院の始まりといわれています。はじめは牛込和田戸山護明村に庵をむすび七面尊像をまつりました。その後、三代将軍徳川家光の武運長久を祈り、七面堂を建てたのがはじまりです。寛文一一年に現在地の新宿区西早稲田に移転しています。(『日蓮宗寺院大鑑』二七頁。望月真澄著『近世日蓮宗の祖師信仰と守護神信仰』一三八頁)。亮朝院の七面大明神は身延七面山の分体としてお祀りされました。開創の日暉上人は身延積善坊流の祈祷師である日閑上人の弟子でした。この亮朝院の縁起と七面大明神の霊験を木版画にして発行したのが本書です。大奥の女中の七面大明神信仰の手引き書となっています。初期になる本書は日閑上人が書いたもので、牛込五明村の荒井山に建つ七面堂は、七面大明神の分体を祀っていることと、霊験を中心にを書いています。この七面堂は「高田七面堂」ともいわれます。文化文政期の「江戸名所図会」に描かれた当時のままの姿で残っています。(「早稲田・高田馬場の歴史散策ガイド」ウェブ検索)。その後、享保二(一七一七)年一月に、栄亮院精舎第五世日匡上人が「亮朝院七面縁起」を著し、文化元(一八〇四)年九月に日誓上人が改版をされています。この「亮朝院七面鎮座縁起」には、七面天女の本地をそれまで見られた吉祥天・大功徳天に八歳の龍女が加わっています。(坂本勝成稿「江戸の七面信仰」『日蓮教学研究所紀要』第三号所収)。 三、「七面大明神縁起」元政上人草山元政上人(一六二三~六八年)が『草山集』(二六の一一)に書かれたものです。京都深草の宝塔寺は日像上人が改宗した寺で、七面宮に安置されている七面大明神像は、仏師青木居士が彫刻したものです。青木居士は二体の像を造り大きい像は七面山に奉安し、最初に造った小さな像は自宅に安置していました。のち、家を嗣いだ東庵(余元澄)が寛文六(一六六六)年五月に、同じ深草瑞光寺の元政上人と共に奉安されたものです。このときに書かれたのが「七面大明神縁起」で、最古の文献となっています。このときは七面堂とはいわず、神道的な七面宮と呼ばれています。(森宮義雄著『七面大明神のお話』一三四頁)。本書を見ますと吉祥天が垂迹されて、七面大明神に示現されたとあります。吉祥天は鬼子母尊神の娘であり、父親は徳叉迦といいます。七面山の名称には鬼門を閉じて七方面を開くという意味があるといいます。執行海秀先生は元政上人が、七面大明神を吉祥天女の垂迹としているのは、鬼子母神の娘であるところに結びつけたのではないかと推測しています。(「七面大明神縁起」五二頁)。また、金輪際より涌出して黄金を成す処という説を基に、七面山が黄金の所成といわれたのは、経文に「七宝山」・「瑠璃金山」とあることによるとしています。そして、疑いなく七宝勝殿の霊地であるとして、凡愚の測るところではないので疑念をもたないようにとのべています。『身延山図経』をみますと、一の池の「無熱池」の側に「摩尼珠嶺」があります。この摩尼珠がある嶺とは鉱山を示すと言います。 前述したように高野山の丹生都比売神は、朱砂(硫化水銀)を採掘する一族が祀る神で、その鉱脈のある所を丹生と言います。また、高野山奥之院の小山を姑射山(こやさん)といい、ここは高野山の発祥のところといわれています。中国では不老不死の仙人が住むという山を藐姑射(はこや)山といいます。仙人が住んでいた山という意味をもっています。道教の修行者や修験者がいたということになります。道教の根本理念は錬丹術・錬金術にありますので、七面山もこの影響にあったことがうかがえます。この錬丹術は前にのべたように、中国古代の道教の神仙思想より発展した長生術の一つで、不老不死の仙人になれる霊薬(仙丹)をつくることです。基本的には草木などの植物から抽出した仙薬を作ることが主体ですが、次第に鉱物からも不老不死の丹薬が生成できるとして発展したのが「外丹術」です。つまり、化学的手法を用いて物質的に内服薬の丹を得る技術です。この煉丹術はすでに漢代にみられ、『抱朴子』を著した西晋・東晋の葛洪らによって金丹道として確立し、他の神仙方術とともに道教の一部とみなされるようになったといいます。『抱朴子』内篇の「金丹篇」に、黄金は火中にて何度錬り鍛えても消えず、土中にても腐食することなく、その不朽性をもって人を不老不死にすることができるとのべています。煉丹の主な方法には、原料の鉱物を釜の中で加熱する火法と、鉱物を水溶液や懸濁液にする水法があります。典型的な金丹の製造法は、丹砂(硫化水銀)・汞(水銀)・鉛などの薬物を調合して、鼎炉にて火にかけて焼煉します。辰砂などから冶金術的に不老不死の薬とされた仙丹を創って服用し仙人となることが目的です。『抱朴子』などによると、金を作ることは仙丹の原料にすることと、仙人となるまでの間の収入にあてるという二つの目的があったとされています。錬丹術は営利を生む二面性をつねに有していたのです。一般人のなかには営利を目的とした者が多くいたのです。つまり、高野山の姑射山が錬金術をおこなう道教の行場であったことを示すのが摩尼山の名であるというように(若尾五雄稿「近畿山岳信仰と丹生」『近畿霊山と修験道』所収。四六五頁)、七面山に「摩尼珠嶺」という山があることは、この山に摩尼宝珠があったから摩尼山と名づけられたのです。摩尼宝珠とは金・銀・水銀など宝石のことをいいます。道教の神仙信仰に裏付けた錬丹術がなされていたと思われることです。 また、本書に日蓮聖人と七面天女の出会いについて、通説の「妙石坊法輪石」をのべています。すなわち、日蓮聖人が身延山において説法されていたその中に一婦人がいました。容粧(立派な衣服や装身具で身なりをととのえている)は雅(上品でみやびやか)でした。このところに波木井氏も同座して説法を聴いていました。近隣には見かけない婦人であったので、素性に不審をもちました。日蓮聖人は女性にむかって本形(ほんとうの正体)に戻れるかを問います。女性は一滴の水があれば可能であると答えます。そこで、弟子に花瓶をとらせて女性にあたえます。花瓶の水を得た女性はたちまちに一丈ほどの毒蛇に姿をかえ、花瓶に纒(まと)わり首を矯け舌を吐く姿をあらわします。そして、波木井氏を見ます。これに波木井氏は畏れをいだきますが、疑いを解消します。毒蛇はもとの女性の姿にもどり、自分の師匠は霊山の塔中において釈尊より別命を受けた者であり、自分も仏勅を蒙って護法の神になる者であるとのべます。これよりは身延山に水火兵革の難がないようにし、一乗の法華経を信受する者には、その願うことを意のごとく叶えることを誓って去ったとあります。本書のこの記述が基本となっています。 四、「七面山鐘銘等之写」延宝三(一六七五)年に大中院日孝上人(一六四二~一七〇八年)の書き記したものです。日孝上人は元政上人のもとで書や詩文を学びましたので、元政上人の影響を強く受けています。没後に『水雲集』二巻や「扶宗明文志」に詩文が収録されています。元禄四(一六九一)年に誕生寺は悲田不受不施派として、幕府から禁圧されます。その復興のため元禄一四(一七〇一)年誕生寺の二六世貫首となって、日蓮聖人誕生の霊地であることを高く掲げました。本書の内容は、「七面山の東面の平坦なところに自然にできた湖水があり、これを七面の池という。この池の「龍」はかつて人に化して日蓮聖人の法を聴聞した。いわゆる、七面の神である。七面大明神の誓いにより身延山の伽藍を擁護し火災を防ぎ、人民に福をあたえてきた。それ以来、四百年のあいだ湖水の水は涸れたことがない」、と七面大明神の威力をのべます。鐘銘のなかに、「神之幽宮水接阿耨、徳亞善竜」とあることから、七面大明神の本地は龍神としていることがわかります。「神之幽宮水接阿耨」とは、『神皇正統記』(一三三九~四三)上・序論に「此の海中に四大洲あり。〈略〉南洲の中心に阿耨達(あのくたつ)といふ山あり。山頂に池あり」と、阿耨達という山の頂上に池があります。その池を阿耨達池(清涼・無熱悩の池と訳します)といいます。この池はヒマラヤ(雪山)の北にあるとされる神話上の池で、この池の周りは八百里あり、池の岸辺は金・銀などの四宝をめぐらされています。中には竜王がすむといいます。その竜王の名前は阿那婆達多竜王(阿耨達竜王)です。竜王は阿耨達池(無熱悩池)に住し、その四方からガンジス川など、四つの大河を流して人間の住む世界(大陸である閻浮提、贍部洲)を潤すといいます。提婆達多品の龍女は沙竭羅竜王の第三王女で「善女(如)龍王」といわれています。ですから、亞は「つぐ」という意味ですので、「徳亞善竜」(徳の力は善竜につぐ龍神である)とのべています。七面天女と提婆達多品の龍女は違います。ただし、『身延鑑』に七面天女は徳叉伽竜王の娘としています。このことについては後述します。 五、『蓮公行状年譜』豊臣義俊貞享二(一六八五)年に書かれたとする豊臣義俊師の『蓮公行状年譜』(『法華霊塲記』)には、建治三年のところに「九月、七面大明神身延山に鎮座現端」と簡略に記しています。建治三年の九月に七面天女の影現があった処は身延山ですが、その場所は特定されていません。本地などについても書かれていません。 六、「七面大明神縁起」大中孝師小湊誕生寺二六世の大中院日孝上人が書かれました。延宝八(一六八〇)年ころといいます。(森宮義雄著『七面大明神のお話』三〇頁)。本書に鬼門を閉じて七面を闢(ひら)く、ということから七面山とする説は他と同じです。山上の湖水は藍(あお)く清らかであり、どんな旱(ひでり)にも枯渇することがなく、その所に宝殿を構えて祀ったのが七面大明神であると書いています。この本地は計り知れないが、相伝によると吉祥天の応現であるとのべています。この相伝とは師弟関係からしますと、元政上人の「七面大明神縁起」と思われます。日蓮聖人との出会いについても、おおむね元政上人と同じです。容貌が端厳(きちんと整っていて威厳のあること)で、服飾も綺麗な婦人に水をあたえると龍身に変じます。その驚くほどの怖い姿は、眼光は雷を射るようである。爪と牙は刃を植えたようである。鱗の色は種々の色糸を用いて、華麗な模様を織り出した錦の織物のようである。舌の先端から穂のように激しい炎が湧きだしている。身の大きさは一丈(約三、〇三㍍)。花瓶のまわりを纏(まとわ)り繞(めぐ)ること二、三匝(めぐり回ること)。そして、首を矯げて(直す)回顧(うしろをふりむく)します。その睨む姿は恐ろしく怖畏(おそれおののく)するほどだったのです。ですから、この様子を見ていた波木井氏は疑うどころか、未曾有のことであると感動したのです。龍身をもとの婦人の姿に変え、霊山にて末法に法華経を持つ者を擁護する誓いを報ずるため、これよりは持経者の七難を除き七福をあたえ、身延山の伽藍を守護するといって沒します。沒(没)とは水に沈むということで、水のなかに隠れ去ったということになります。元政上人の「七面大明神縁起」とくらべますと、婦人が龍身に変わって波木井氏を見つめるところが誇張されています。また、六老僧の口伝として日蓮聖人が提婆達多品を説いていたときに蛇形が来て聴聞していた、日蓮聖人はこの蛇は八才の龍女であると言われた、という口碑をのべています。つまり、場所を草庵として西谷伝説を脚色し、女性は竜身になります。本書に六老僧の口伝がのべられていました。(『身延山史』三九頁)。 七、『身延鑑』日脱上人身延山三一世日脱上人が執筆されたといいます。『身延鑑』には二つの伝説が書かれています。一つは日蓮聖人に関すること、もう一つは厳島女(ごんとうにょ)に関することです。厳島女については同年代の約二〇年前の元政上人著「七面大明神縁起」(一六六六年)にのべられてはいません。このことから、『身延鑑』のころに京都の公卿である藤原師資の姫が、厳島女であるという伝説が加飾されたようです。本地を弁財功徳天女(吉祥天)とするところは同じですが、さらに、厳島女という厳島弁財天であることが加えられています。本書下巻の老僧が案内をしながらの説明によりますと、山の八分のところに「御本社」が東向きに建てられており、弊殿と拝殿、御供所や別当の御房があることをのべます。池の形は曲蛇の形をしており、池の底から水がわきでて、ここから流れ落ちていく滝の流れには金砂が混じることをのべます。天竺の無熱池の水をこの池にうつした七不思議の池であると説明します。そして、「池大神」の祠の前にきます。客人が「池大神」の本地はどのような仏菩薩なのか、いつのころから七面山に垂迹されて末法の守護神となったのか、そして、七面という謂われを問います。それに答えた老僧の言葉はつぎのことでした。「此の御神と申すは本地弁才天功徳天女なり。鬼子母天の御子なり。右には施無畏の鍵を持ち、左に如意珠の玉を持ち給ふ。北方畏沙門天王の城、阿毘曼陀城妙華福光吉祥園(あびまんだじょう みょうけふっこうきっしょうえん)にいますゆえ、吉祥天女とも申し奉る。山を七面というは、此の山八方に門があり、鬼門を閉じて聞信戒定進捨懺の七面を開き、七難を払ひ七福を授け給う七不思議の神の住ませ給うゆへに、七面と名付け侍るとなり。此の神、末法護法の神となり給う由来は、建治年中の頃なりとかや。大聖人御読経の庵室に、はたち(二十歳)ばかりの化高女の、柳色の衣に紅梅のはかまを着し、御前近く居渇仰の体を、大旦那波木井実長郎党等共見及び、心に不審をなしければ、大聖人はかねてそのいろを知り給ひ、かの女にたづね給ふは、御身はこの山中にては見なれぬ人なり。何方(いづかた)より日々詣で給うとありければ、女性申しけるは我は七面山の池にすみ侍るものなり。聖人のお経ありがたく三つの苦しみをのがれ侍り、結縁したまへと申しければ、輪円具足の大曼荼羅を授け給い、名をば何と問い給へば厳島女(ごんとうにょ・いつくしまにょ)と申しける。聖人聞し召し、さては安芸国厳島の神女にてましますと仰せあれば、女の云く、我は厳島弁才天なり。霊山にて約束なり、末法護法の神なるべきとあれば、聖人のたまはく、垂迹の姿を現はし給へと、阿伽の花瓶を出し給へば、水に影を移せば、一丈あまりの 赤竜となり、花瓶をまといひしかば、実長も郎党も疑ひの念をはらしぬ。本の姿となり、我は霊山会上にて仏の摩頂の授記を得、末法法華受持の者には七難を払ひ七福を与う。誹謗の輩には七厄九難を受け、九万八千の夜叉神は我が眷属なり。身延山に於て水火兵革等の七難を払ひ、七堂を守るべしと固く誓約ありてまたこの池に帰り棲み給う」と、説明します。 本書に建治年中のある日、日蓮聖人が庵室で読経されていたときに、七面天女が日蓮聖人の側に居座していたとあります。これは妙石坊法輪石伝説ではなく、西谷庵室説になります。提婆達多品の読経中と思われます。わかりやすくしますと、つぎのようになります。日蓮聖人が読経されている庵室のなかに、二〇歳ほどの高貴な女性(化高女)が柳色の着物に紅梅の袴を着し、日蓮聖人の側近くに座り尊顔を渇仰されていました。化女とは仏・菩薩がかりに女人の姿となって現れた権化の女性のことをいいます。高貴な地位や姿から化高女と言ったと思います。高女(たかじょ)とは、安永五(一七七六)年に刊行された鳥山石燕(せきえん)の妖怪画集『画図百鬼夜行』によると日本の妖怪とあります。宮城県古川に周囲約四㌔の化女沼(化粧沼)があります。長者の娘(照夜姫)と大蛇の悲恋の伝説で、化女沼龍神が祀られています。化高女ということから人間ではない龍女のイメージを想像させます。藤井教雄先生は「気高き女性」と解釈されています(『身延鑑』二五五頁)。日蓮聖人と同席していた波木井氏は、この女性が誰なのか不審におもいます。日蓮聖人はそれを察し、皆が見慣れぬ化高女にいずれの所から日々、参詣されるのかを尋ねます。ここで、化高女は七面山の池にすむ者であると答え、法華経の功徳により内外の苦、壊苦、行苦の三つの苦しみから逃れたことを告白し、法華経と日蓮聖人との下種結縁を求めます。名前を聞くと厳島女といい、安芸の厳島弁財天であることを明かします。霊山において末法護法の善神となると約束したことを聞き、その垂迹の姿を現すことを求め、阿伽(閼伽)の花瓶を差し出します。厳島女が水に影を移すと一丈あまりの赤竜となります。そして、自分は霊山会上にて釈尊より摩頂の授記を受けた者であり、釈尊と約束したことを護り末法に法華経を信仰する者には七難をはらい七福をあたえ、法華経を誹謗する者には七厄九難をあたえるとのべます。九万八千の夜叉は自分の眷属であり、身延山においては水火兵革などの七難をはらい七堂を守ると約束して、七面山の池に帰り棲んだとあります。つまり、霊山会上において末法擁護を誓った龍女が、日本の厳島神社に棲み、のちに、七面山の池に移り棲み日蓮聖人が来られることを待っていたという内容です。ここに、身延山の守護神となった由来をのべていました。七面天女は末法に護法の神となるべく、安芸の厳島弁財天として日本にいたことを明かします。そして、日蓮聖人が身延山に入り、法華経を説く会座にきて法を聞いていたのです。その姿は二十歳ほどの女性であったわけです。 厳島神社は祭神の市杵島姫命の名に因んでいます。市杵島(いちきしま)は厳島(いつくしま)とも表され、神霊を斎き祀る島という意味です。もともとは軍神であり、祭神は市杵島姫命・田心姫命(たごりひめのみこと)・湍津姫命(たぎつひめのみこと)の三柱で、宗像三女神と総称されています。宗像三女神の神名や配列などに古来より異説があります。宗像大社の社伝では、沖ノ島の沖津宮=田心姫神・大島の中津宮=湍津姫神・九州本土の辺津宮=市杵島姫神となっています。祖神は大国主命、事代主命で三輪氏・賀茂氏と同系になります。周辺に海人関係の地名が多いように、宗像氏が奉斉する海神でした。「ムナカタ」は「ミナカタ」、つまり「水辺」の意味とも言われています。古来、宗像大社は朝鮮と日本を結ぶ最短ルートである海北道中(うみきたのみちなか)を守る神として崇められてきました。沖ノ島の祭祀場跡からは、国宝の「子持勾玉」や「金指輪」などが発掘され、大陸との交流が見られるほか、海神の勢力が大阪湾や阿波・紀伊に及んでいます。(『日本の古代』8、黛弘道稿、二六二頁)。古来、安芸の宮島の厳島神社(社家佐伯氏)、近江の竹生島の都久夫島神社、相模の江ノ島神社、ほかに、大和の天の川、陸前の金華山に祀られています。また、安芸の厳島神社は空海を出した佐伯氏が代々奉斎しています。市杵島姫命は神仏習合時代には仏教の女神である弁才天と習合し、隣接する大願寺と一体化して「日本三大弁才天」の一つとされます。 さらに、老僧は龍女と七面山のいわれについて、身延山代々の古老が伝える中納言藤原師資(のりすけ)の「姫君説話」をのべます。すなわち、「京都の公卿の師資が厳島弁財天に子宝を祈り娘を授かります。その姫が成長して人が嫌う病気になります。治療に効き目がなく困っていたところに、厳島大明神の霊夢のお告げがあります。その内容はここより東海道のすえに甲斐波木井川の水上に七面の山がある。そこに北方毘沙門天王の城である妙華福光吉祥園を移した七宝の池がある。これは天竺の無熱池の水を移した池である。池の底には金の砂を敷き八功徳をそなえ、諸天善神が常に極楽された池である。この水にて垢離(こり)すれば姫の病はたちまちに平癒すると言うものでした。霊夢のとおりに七面山に登詣し池水をもって身体を清めたところ、お告げのように平癒します。そして、驚くことに、姫は自分はこの池に棲むいわれがあると言い、やにわに池のなかに入身すると二十尋(ひろ。約三〇㍍)ほどの大蛇に変身して浮かびあがったとあります。これを見た供人は驚いて都へ帰ってしまいます。東宮の御連枝(皇太子に近い高貴な人)で、池之宮という人が姫と夫婦になる兼言(前もって言っておいた言葉。約束の言葉)をしていました。池之宮は姫が七面の山に身を捨てたと聞きはるばる探しにきます。しかし、姫と巡り会えることができず、終には池に身を投げて死んでしまいます。里人は池之宮のために墓をつくり、のちに夢告により社を建てて池の大神として祀った」、と伝えています。池之宮の本地は毘沙門天王とあります。 この厳島弁財天=七面天女の「姫君説話」は、七面天女を弁才天女とするのが本筋と思います。もう一度、おさらいしてみます。日蓮聖人より二百年ほど以前の後三条天皇(一〇三四~七三年)のころ、中納言藤原師資という公家が京都にいました。藤原師資という人物について、鎌倉中期頃に大江重則という下級貴族が著したらしい古文書に『師資捜奇伝』があり、このなかに藤原師資が崇めた邪教に関する記録をのせています。信仰にたいして独特な見解をもっていたようです。この藤原師資は子供に恵まれなかったので、安芸の厳島神社に祈願をします。満願の日の夜に師資の妻は天に昇っていく龍が、宝珠を呑む夢を見て目がさめます。それからまもなく懐妊し一人の娘を産みます。授かった姫は厳島姫と名づけられ大切に育てられます。成長にしたがい美しさをまし、都中の評判になるほどでした。皇族の池の宮(「池の大臣」)という高貴な青年が結婚を申し込みます。しかし、召玉章(めしだまずさ。恋文)の数をかさねても返事はありませんでした。「我が袖は、涙のしぐれ、はれぬども、つれなき松は、ふるかひもなし」と詠じました。ところが、姫は原因不明の病気(業病・天然痘)になり苦しんでいたのです。さまざまな治療をうけても効果はありませんでした。両親は厳島神社に病気平癒の祈願をしたところ、天空より美しい声が聞こえます。「これより東方に甲斐の国、波木井郷というところがあり、その水上に七つ池の霊山がある。そこは、毘沙門天王の城、釈花福光(妙花福)の吉祥天(園)をうつした霊境で、七宝金娑の池には天竺の無熱池(あのくたっち)の水をたたえ、八つの功徳をそなえている。この水をもって身心を浄めれば、たちまちに平癒するであろう」、というお告げを受けます。姫の一行は京都から甲斐にたどり着き、神託にしたがい七面山に分け入り笹小屋を作ります。姫は一の池で体を浄めると病はたちどころに平癒されたといいます。業病は夢告の如く平癒し、清浄になった姫の身体が光り輝きます。そのとき、姫はこの池に住む因縁があるといって池に飛び込みます。そのとたん二十尋ほどの龍が水面に姿を見せ、末法の時に現れて法を守らん(末法在時、現則護法)と言って、池のなかに消えたといいます。これにより、姫は龍神となり七面天女に姿をかえたといいます。いっぽう、池の宮はわざわざ中国に渡って霊薬を求めてきます。そして、姫が行ったという七つ池の霊山に跡を追います。七面山に来た池の宮は山麓や山中を隈無く探しまわりますが、見つけることができませんでした。川中の小島に居して琴笛を奏し、経を誦してひたすら偲びますが、それもつきて終に近くの池に身を投じたといいます。のちに、村人がお告げにより祠を建てて、「池大神」として祀ったと言い伝えています。七面山はこの厳島女の姫君説話の舞台となっていました。それより厳島女と池大神は村人の信仰をうけるようになり、やがて、日蓮聖人が身延山に入られ、法華経の読経と唱題が聞こえてきます。そして、時を待って妙石坊の高座石の説法を聞きに来られたのです。あわせて、本書には東宮の池之宮が池大神となったとのべられていました。 宮川了篤先生は池の宮を「池の大臣」とし、姫の原因不明の病気を天然痘としています。七面山に分け入った厳島姫の一行は笹小屋を作り、ここに、老翁一人を残して帰ったとします。そして、一の池に行った姫がもどらないので姫を探したがみつけることができず、山麓に住みついて行方を探します。姫を尋ね求めてきた池の宮(大臣)は、山中を探しまわりぱったりと老翁にであいます。一部始終を聞くとこの薬袋も何の用にもたたなくなったと言って池に捨てます。そこで、薬袋と書いて「ミナイ」と呼ぶようになったといいます。老翁は姫と池の大臣をいたわしく思い、ついにみなげが淵に身を投じます。池の大臣は薬袋・赤沢・雨畑・京ヶ島・管絃ヶ島・硯島などの村里をさまよい歩き、夏には七面山にのぼり池の畔の笹小屋で琵琶を奏でることを唯一の楽しみにしつつ一生を終えたとあります。(「七面山の信仰」『日蓮宗の御祈祷』一二八頁)。同じ「姫君説話」にも中核となる内容はかわりませんが、微妙に異なっていることがわかります。また、厳島の弁財天信仰の物語は京都中心のものが流れてきたといわれ、正統の日蓮宗の信仰に結びつかず、七面山としては前身的なものといいます。(室住一妙稿「七面大明神の伝説・縁起とその考証」『七面大明神縁起』所収二七頁)。 さて、老僧は「池大神」の本地は、弁財天功徳天女であるとのべながらも、鬼子母神の子供であり北方の毘沙門天の城にいるので吉祥天女とも言うとあります。つまり、弁財天(安芸の宮島の厳島弁財天)と功徳天女であると二人の神名をあげ、七面天女の本地は吉祥天と弁才天の同一体と言います。しかし、密教の「観心十界曼荼羅」には、吉祥天と弁財天は別個の存在として画かれているように、弁財天と功徳天女は別神というのが一般的な認識です。そこで弁財天と功徳天について見てみます。 【弁財天女と功徳天(吉祥天)】弁財天・吉祥天は大日如来の化身という説や、伊勢神宮・安芸厳島と大日如来を結ぶ説があります。(森宮義雄著『七面大明神のお話』一〇四頁)。また、弁財天を天照太神とする説などがあります。吉祥天と弁財天はともに福徳・蓄財の神とされています。とくに弁財天は水神の神格をもちますので、水辺に祀られることが多いのが特徴です。蛇が「つかわしめ」とされ、これにより蛇が蓄財の対象とされることになります。 ―弁財天― まず、本地とされた弁財天を調べてみます。そのなかでも厳島神社の明神(弁財天)は、日本の三弁天の一つになります。大弁功徳天、大弁才天といいます。『金光明経』によれば妙音楽天ともいいます。このいわれの『金光明経』功徳天品を、『身延山図経』の「古徳雑文」にのせています。誕生寺二六世の大中院日孝上人の「七面大明神縁起」です。(北沢光昭著『身延山図経の研究』九八頁)。その『金光明経』には、此の経を受持するものを弁天自ら守護すると説き、その形像については八臂の弁財天を説いています。すなわち、「常以八臂自荘厳令持弓箭、刀、矟(ほこ)・斧・長杵・鉄輪並羂索」と示されています。(『国訳一切経』経集部五。二五四頁)。密教では『大日経』に「左手に琵琶、右手之を弾奏する」と琵琶を奏でる二臂を説いており、勝軍の祈りには八臂の尊像を本尊とします。智慧、弁才、音楽の祈りには二臂の尊像を本尊とすると区別しています。『空海辞典』(一九五頁)に弁財天は梵天の妃といい、吉祥天とともに信仰されているとあり、『金光明最勝王経』(大弁財天女品)に示されている形は八臂像ですが、密教では胎蔵界曼荼羅に左手に琵琶をもち、右手で弾奏する図があり、一般に琵琶をもった弁財天が象徴となっているとあります。また、吉野曼荼羅に弁財天が勧請されています。中央に蔵王権現が画かれ、その右下に役行者が画かれています。伝説によりますと、大峰山中で修行した役行者が金峰山で守護神を得ようとしたとき、弁財天・地蔵菩薩・大黒天があらわれたが、最後に金剛蔵王権現が湧出岩から出現したのを守護仏としたといいます。弁財天は役行者とこのような形で関わっています。(宮家準著『宗教民族学』二五六頁)。 厳島は推古帝の時に初めて、市杵島姫、田心姫、湍津姫を祀ったといわれます。また、もとより島全体を神体として崇敬した山岳信仰が認められています。その厳島大明神(厳島弁財天)の本地について「お伽草子」に、次のように伝えています。「お伽草子中天竺の摩訶陀国の善財王は、父大王より賜った伝家の宝の扇に画いてある、毘沙門天の妹吉祥天を見て恋の病に臥す。西方サイシヨウ国の第三王女あしびきの宮は、その画のような美人であると教える者があった。しかし、その国へは往復十二年もかかるが、家宝である五からすという烏が王のために使して、往復百七十日ばかりで返事をもらってきた。王はますます恋の病が重くなってきたが、氏神の夢想の告げによって、弘誓の船、慈悲の車を造り、五からす公卿臣下を乗せて、サイシヨウ国に行き、あしびきの宮を欺むいて本国に連れて来た。ところが后たちが嫉んでみち腹の病にかかった様をして、仲間の相人に合わせて、「ギマン国の、チヨウザンという山の薬草を王が採ってくれば治る」と言上させ、王を往復十二年も掛かるギマン国へゆかせた。その留守中に后たちは武士たちに、あしびきの宮をカラビク山コントロカ峰ジヤクマクの岩へ連れて行き殺させた。宮は妊娠七ヵ月であったが、其の時王子を産んで梵天帝釈に加護を祈った。その子は、帝釈をはじめ虎狼野の守護によって山中に成長した。十二になった時、王が帰国してこの事情を知り、山に尋ね行き王子を助ける。宮の遺骨を携えてカビラ(石垣島川平という説がある)国スイシヨウ室のフロウ上人に頼んで、再生させることが出来た。ところが王は宮の妹に心が移ったので、宮は日本へ来て伊予の石槌の峰、さらに安芸国佐伯郡カワイに落ちつき、佐伯のクラアトの奉仕によって、クロマス島に仮殿を造って住んだ。宮はいつくしき(伊都伎・厳。神聖・厳粛)島なりと、この島をめでたので厳島の名が起った。この宮を大ゴンゼンといい、本地は大日如来で、あとから尋ねて来たセンサイ(善財)王は、マロウドの御前(客人御前)と呼び、本地は毘沙門天。滝の御前はカラビクセンの御王子の御事なり。御本地は千手観音にておはします。ひじりのごぜん(聖御前)と申すは、カビラ国の上人にておはします。本地は不動明王にておはします」、と伝えられたものがあります。貞和二(一三四六)年の「断簡絵巻物」が現在のところ最古の記録で、解読不明のところが目立ちます。「源平盛衰記巻十三」にも大同小異の記事が出ています。(「身延の伝説」『身延町誌』七九頁)。この『身延鑑』などの文献資料からしますと、七面天女は天竺西方にあったサイシヨウ国の、第三王女あしびきの宮だったことになります。密教的な視点から宮を大日如来とし、ほかの御前たちを毘沙門天王・千手観音と結びつけています。修験道において弁才天は、竜神のあらわれとして祭祀されることが多く、『修験深秘行法符呪集』に載せられた天部の諸尊は、諸明王とともに多く弁才天は七つの修法があげられています。弁才天の本体である白虵の印、八大龍王の八葉印を結んで陀羅尼を唱え、所願成就を祈願します。(宮家準著『修験道儀礼の研究』三九三頁、四一〇頁)。 ―功徳天(吉祥天)― 吉祥とは繁栄・幸運を意味し幸福・美・富を象徴する神とされ、密教では功徳天・宝蔵天とも呼ばれ、美女の代表としての尊敬を集め、五穀豊穣の神としても信仰されています。梵名マハーシュリー、ラクシュミーシュリ、またはシュリーマハーデーヴィーといい、大いなる幸運という意味をもちます。インドの伝説では海の泡から蓮華を持って誕生したと言われます。功徳天女は吉祥天女とか吉祥功徳天、室利摩訶堤毘、摩訶室利などと漢訳され異名が多く見られます。密教では胎蔵大日の所変とし、金剛大日の所変である毘沙門天王の妃とされます。『大日経疏』第五に、「功徳天は毘沙門に従う.北方にあるべし。もし本位ならば又西方に置く在すべきなり」と示されています。(『空海辞典』三七頁)。尊像は唐の貴婦人をモデルとしており、一面二臂・冠に瓔珞・臂釧(輪状のかざり)を付け如意宝珠を持つ例が多く見られます。 如意宝珠は左手に持ち右手は施無畏の印を結びます。吉祥天の持ち物の中で本来重要なのは蓮の葉ですが、日本の吉祥天像では左手に如意宝珠を持ち、右手は施無畏印を結ぶことが多くみられます。佛典の中で最初に女人がみられる『金光明経』に、弁才天と共に現れ功徳を説いており、法会では主尊に祭られ重要視されています。また、吉祥天女の父は八大竜王のなかの徳叉伽竜王で、母は訶利帝で鬼子母尊神です。鬼子母神の五百人の子供の中の一人とされます。兄(あるいは夫。インド神話ではビシュヌの妻)が毘沙門天王となります。功徳天は過去に宝華瑠璃世尊の所において善根をうえたと説かれ、護法と護国、受持者の守護を説きます。そして、功徳天がいる場所は北方の毘沙門天にある阿尼曼陀という城で、そのなかに功徳華光という園があり、さらに、そのなかでも金幢という七宝に飾られた、極妙のところに住んでいると説かれています。吉祥天の父親が徳叉伽竜王なので、七面天女の本地を吉祥天と考えました。大中院日孝上人は「七面大明神縁起」に、功徳天品の前半のここまでを引用し、七面天女の本地をこの経文により吉祥天女とのべました。 日本においては『法華経』『仁王経』『金光明経』を護国三部経として重視しています。これに除厄興福の経典として『金剛般若経』『大般若経』などが加わります。奈良時代には『金光明経』がもっとも重用されています。おもな内容はこの経を広め、正法をもって国王が施政すれば、国は豊かになり諸仏菩薩に愛念され仏法守護の四天王をはじめ、弁才天や吉祥天、堅牢地神などの諸天善神が国を守護し、受持の者の災厄を除き福利を増進すると説いています。四天王品第六に北方の毘沙門天王(多聞天)・東方の提頭頼吒天王(だいずらた。持国天)・南方の毘留勒叉天王(びるろくしゃ。増長天)・西方の毘留博叉天王(びるはくしゃ。広目天)の梵名の四天王が示されています。そして、天神は国王が正法を行えば守護するが、非法を行えば天神に見捨てられ国が滅亡することを説いています。ここが日蓮聖人の「善神捨国」思想に大きな影響を与えた説示です。 さて、本書に「本地は弁才天、功徳天なり」とありますが、弁才天と功徳天とは別神であることがわかります。『金光明最勝王経』第七六「弁才天品」、第八「大吉祥天増長財物品」と品を別にして説かれており、「弁才天が吉祥天を従えグゼラート(グジャラート。インド西部)の海辺に去れり」、とあることからも、吉祥天(功徳天)は弁才天の従神であることが肯定されます。「弁才天功徳天女なり」との『身延鑑』の説は、弁才天と吉祥天とを同一視し混同したものといわれています。なを、大百科辞典には「弁財天は梵語羅佉室弥(ラグシュミー)の訳、吉祥天のことであるとありますが、吉祥天は梵語摩訶室利(マハーシュリー)ですから、吉祥天とすることは誤りになります。つまり、『身延鑑』においては弁財天と吉祥天の二つの守護神を、七面大明神の本地としたのです。そして、これまでの西谷草庵説に、新たに厳島弁財天女の「姫君伝説」をくわえ、この二つの伝説を結びつけたのです。 真言密教には吉祥天女を、胎蔵界の大日如来の変化神であるという教えがあります。そして、大日如来を天照太神の本地として、そこから吉祥天女と天照太神を同一視する信仰が生まれました。さらに、厳島神社の弁財天も大日如来とし、天照太神とする思想が生まれたのです。現在、敬慎院に安置されている七面大明神の姿は、『金光明最勝王経』大弁財天女品第十五の説相と一致していることから、本地は弁財天女と決断されています。(森宮義雄著『七面大明神のお話』五四頁)。また、真言宗系の修験者が多かったことが、とうじの寺院数によってわかっています。そこで密教的な吉祥天女説が多くなったと考えられています。七面山において活躍していた山伏は、天台系よりも真言系が多かったといいます。(中里日応稿「日蓮聖人身延山御入山以前の七面山と身延」『棲神』四二号所収)。ここからも、七面大明神の本地を吉祥天とした理由がうかがえます。密教における吉祥悔過(けか)というのは、吉祥天女の前にて罪過を懺悔することです。奈良東大寺二月堂の修二会におこなわれる十一面悔過、薬師寺の薬師悔過など、空海いぜんにこのような密教的な儀式がおこなわれています。古密教といわれる儀式のなかに、吉祥天女の信仰があったことがわかります。吉祥悔過法は大極殿・国分寺において、天下太平・五穀豊穣を祈る修法です。(『仏教語大辞典』二二二頁)。しかし、中世になると民間に信仰が広まることなく、天女としては弁才天に地位を譲ることになります。 八、「七面大明神縁起」亮朝院五世享保二(一七一七)年に亮朝院の五世日匡上人が書いた縁起です。ここには、四代将軍の家綱公の天長地久を祈ったこと、亮朝院の七面大明神が江戸城内に入り、家綱の守り本尊となったことなど、大奥の御祈祷所として霊験あらたかなことを書いています。七面大明神の本地などについてはふれていません。 九、『本化別頭高祖伝』一七二〇年智寂院日省上人(一六三六~一七二一年)の著述、『本化別頭高祖伝』建治三年のところに書いています。すなわち、二十歳くらいの容姿が優雅な女性が、日蓮聖人のもとに奉仕していました。波木井氏が草庵に尋ねてきて、この女性は誰であろうと不審に思い日蓮聖人に素性をたずねます。ここからは元政上人の「七面大明神縁起」と同じです。日蓮聖人は女性にむかって本形(ほんとうの正体)に戻れるかを問います。女性は一滴の水があれば可能であると答えます。そこで、弟子に花瓶をとらせて女性にあたえます。花瓶の水を得た女性はたちまちに一丈ほどの毒蛇に姿をかえ、花瓶に纒わり首を矯け舌を吐く姿をあらわします。そして、波木井氏を見ます。これに波木井氏は畏れをいだきますが、疑いを解消します。毒蛇は女性の姿にもどり、自分の師匠は霊山の塔中において釈尊より別命を受けた者であり、自分も仏勅を蒙って護法の神になる者であるとのべます。身延山に水火兵革の難がないようにし、一乗の法華経を信受する者には、その願うことを意のごとく叶えることを誓って去ったとあります。その方向は身延の西にあたり春木川の上にあり、もっとも高く鬼門の一方を閉じ七面を開くところであることから、七面山と名付けたとあります。土人がいうところでは、金輪際より涌出して黄金となり、絶頂にある池は八功徳の水を澄まし、そこから五色の雲を生じ、三宝の鳥が翔翺(しょうこう)して喚呼する場景であるといいます。その本地は吉祥天女であるとし、また、功徳天という説をあげています。そして、六老僧の口伝として、日蓮聖人が提婆達多品を講義されるときに、大蛇が日々に来て法を聴いていたのをみて、この大蛇は霊山会上の八歳の龍女であるとのべたことをあげています。また、佐渡在島のときに姿をみせた厳島女である、という説をあげています。権化のさまざまな現れがあるので諸説があるとのべています。ただし、前述したように室町時代の『元祖化導記』や『日蓮聖人註画讃』には、七面天女影現の伝説は書かれていません。このように、西谷伝説では女性は毒蛇にかわります。本地は吉祥天・功徳天とのべ、概ね元政上人の説を取り入れています。これに、提婆達多品の龍女と厳島女の伝説を記述しています。 一〇、「池大神宮」身延山三三世遠沾日亨上人(一六四六~一七二二年)の書写古記に、「勧請未知七面号。池畔勧請故称池大神。実是七面大明神也」とあります。つまり、七面天女の神号がわからないときに、この神を池の畔に祠を建て勧請したことから「池大神」と称したが、実はこの池大神は七面大明神のことであった、と書かれています。(『身延山史』三八頁)。つまり、池大神と七面大明神は同体と受けとめています。七面山の神力坊は身延山一二世円教院日意上人の代に創立されますが、神力坊という称号は遠沾院日亨上人の代につけられたものです。ここから七面山への登詣道がはじまる起点とされます。 一一、『本化別頭仏祖統紀』享保一六(一七三一)年に六牙院日潮上人(一六七四~一七四八年)が著述されました。身延の谿(渓谷)に巨石があり、日蓮聖人はここに寄り添って法を説いていたので法輪石と名付けたこと、そこに七面天女が出現されたので、妙石庵を造って霊跡を守っていることをのべます。つづいて、天女出現の説法の場についてのべます。内容は『本化別頭高祖伝』を踏襲してほぼ同じです。法輪石にて女性は毒蛇に変身し、護法の善神となることを誓って七面山に去ります。本地については『金光明経』を引き吉祥天女とします。また、六老僧の口碑として提婆品の八歳の龍女説と、佐渡謫居のおりに現れた厳島女の説があることを記しています。弁才天女についてはふれていません。 一二、「七面本地記」智静孝師享保一八(一七三三)年に大野本遠寺一二世智静院日孝上人が執筆されました。七面天女の本地を吉祥天女・普賢菩薩・釈迦牟尼仏・大日如来・阿弥陀如来・天照太神・八幡大菩薩とする説を否定します。そして、七面山の御神体が蛇形であるということから、本地を提婆達多品の八歳龍女説が正しいとします。(森宮義雄著『七面大明神のお話』三二頁)。 一三、『学海余滴』(「七面大明神縁起辯惑」)了義達師了義院日達上人(一六七四~一七四七年)が寛保元(一七四一)年に書かれたものです。日達上人は陸奥に生まれ鷹峰、六条、中村の檀林能化となっています。享保五(一七二〇)年に本圀寺二十六世となり、法脈の正統を究明して六条教学を図りました。また、他宗とも権実論争を展開し当時の仏教界の三傑と称されています。(『日本仏教人名事典』)。本書に「七面大明神縁起辯惑」として、西谷伝説の七面天女出現の真偽について書かれています。こまかなことは元政上人の『草山集』と、大中孝師の『水雲集』に書かれているとし、結論は西谷に七面天女が出現されたことは文献になくても、真実であると受けとめることを主張されています。また、佐渡流罪中に厳島女という婦人が日蓮聖人のもとにきて、曼荼羅本尊を授与されたとあります。その女性は安芸の宮島の厳島明神でした。厳島はもと恩賀島といい海中にあり周囲七里、七浦あったと記され、七面山と関連させています。この厳島女は佐渡流罪のときと、身延に隠棲されてからは七面天女として、身延山の隣の七面山に鎮座して霊山の本誓を護ったと書かれています。本地は天照太神の孫、沙竭羅竜王の娘とあります。霊山で即身成仏し経力をあらわすため、七面天女として現れたとします。厳島女の出現の真否については、むやみに判断してはならないとし、中山法華経寺の初転法輪のときの妙正婦人は、大野村の池沼(妙正池)の姥神となっていること。佐渡流罪のときに角田の七頭蠎虵(大蛇)のこと、天台大師が玉泉寺を創立するとき、その場に趺坐し定に入ると蠎虵があらわれた故事、そして、章安大師は天台大師の前に、関羽が現れたことを智者別伝に載せなかったが、これを虚誕とすることはできないとのべて、これに準じて西谷伝説の伝説をみだりに廃してはならないとしています。しかし、厳島女は弁財手を本地としますので、提婆品の龍女とは相違します。 一四、『高祖年譜攷異』『高祖年譜攷異』は『本化別頭高祖伝』『本化別頭仏祖統紀』と同じで、本地については吉祥天のみをあげています。七面天女に関しては「七面山記」に詳しく書いてあり、画工の大蔵が描いた七面示現の相を載せているとあります。本地を吉祥天というのは『金光明経』に説く住居と、七面山の住居と同じであるからであるとのべています。金輪際より涌出し黄金の成るところという相伝は、「学海余滴」「草山集」と同じであるとのべます。 一五、「七面山神祠記」(雨畑村の池大神)遠沾院日亨上人の著といいます。本書に七面天女が法を聞くことは、古老の所伝であって古記にはないとのべます。そして、祖師の口伝として、提婆達多品を読経している倚(かたわら)に蛇がきたというが、これが七面天女の龍のあらわれとは伝わっていないとのべます。(『身延山史』三八頁。『御本尊鑑』一五七頁)。つまり、「七面山神祠記」には七面天女の故事に疑問を呈しています。(中尾尭稿「七面山の信仰」『冨士・御嶽と中部霊山』所収九九頁)。そして、雨畑の土人(古老)の言い伝えを載せます。この「木片の仏像」の因縁は、「九月一九日」「池大神」とも関連します。(『身延山史』三八頁)。原初の信仰は雨畑村の村民が信仰した、「池の大神」という地主神であったことです。つまり、七面大明神が七面山に奉祀される以前から、この地に祀られていたのです。すでに池大神を祀る信仰があったのです。この池大神は雨畑村の信仰として伝わってきました。そこで、「七面山神祠記」によりますと、七面天女が日蓮聖人の説法を聞いていたという、古老の所伝の記録は見当たらないとのべています。ただし、六老僧が記した祖師口伝のなかに、提婆達多品を読誦していたときに蛇が来て聴聞していた、とあることをあげます。しかし、これも七面山の竜神という確証にはならないとのべながらも、古老の所伝を真実として受容すべきとのべています。提婆品の龍女説を支持したことになります。この雨畑村の言い伝えは、山麓の雨畑村と七面山信仰と強い関連性があると思います。そこで、この雨畑村の民間伝説をみてみます。 【雨畑・稲又村の言い伝え(池大神)】一、「雨畑に住んでいた猟師(樵夫)が七面山の麓に猟にいき、たまたま休息していたところに二寸ばかりの仏像らしき木片をひろい、家に持ち帰ったところが一家疾病にかかります。このことを聞いた信士(精進潔斎の仏教徒)が自分のところに安置します。その信士だけが無事で家の人はみな病に伏せてしまいます。信士は木像にむかって、自分は常に潔浄をもって身を修め家を齋しているのに、神はなぜに祟りをなすのかと問います。すると、その夜、夢に仏像が俗家に祀られることを嫌い、もとの住処(栖)に還してほしいと告げます。さらに、九月一九日に七面山に登り、その東面の池の畔に祠を建てて安置してほしいと頼まれます。夢から醒めたのは八月二六日のことでした。七面山は峻険な山であったので、昔から誰も登った者はいませんでした。しかし、夢告のとおり九月一九日になるのを待ち登渉します。夢告のとおり東面に池があります。この池畔に祠を立て木片を祀り、この仏像らしい木片を「池の大神」と称したとあります」。この内容が通説となっています。 二、また、「承久三(一二二一)年に雨畑村に高岸源左衛門尉という人がおり、狩りを好み一一月の秋の暮れに、雨畑の奥深い稲又川滝の池にさしかかったところ、一匹の鹿が馳せ来たります。急いで矢を放とうとした瞬間に消えてしまいます。鹿がいた滝のあたりを見渡すと二寸ばかりの仏像らしきものがあり、その像から光りが発せられ眼が射られるようでした。この不思議を深く感じ、矢を捨て岩の上に立って、この光明を放つ尊像はいかなる神仏にましますのか、自分はこれまで殺生を好み多くの生き物を殺してきたと、罪の深さに気づき懺悔の心をおこします。これよりは、殺生をやめ神仏を祈らんと誓い、仏像を拾いあげて我が家に安置し、香花灯明を供え敬い供養します。そして、このたび稻又より出現の仏像こそ、当村の安泰を守らせたもう有り難きご守護神なりと大いに喜び、夜の明けるのをまち雨畑村の名主望月六左衛門のところに行きます。このいきさつを語りこのような尊い仏像を、猟師風情が家に祀るのは恐れ多いと告げます。六左衛門はみ仏は貴殿の信仰をたより、この世の一切衆生に幸福を授けたもう有り難き思し召しであるから、貴殿の家にて祀るのが道理であるとのべます。源左衛門はますます信仰の志を厚くします。不思議にも我が屋敷より清水が湧き出で、大干魃にあっても水の不自由はなかったと伝えます。ある夜、夢にこれより東に高山があるので、我をその山に送るべし、永く受け持つ者を守護すべしと告げられます。村人はその趣を聞き早速評議をして、東の高山に勧請することに決まります。しかし、その翌日より数度の大雪にみまわれ登山できませんでした。翌年の二月下旬となり、雪も消えかかってきたころ、吉日を選んで勧請することを決めます。貞応元(一二二二)年三月一日の辰の日、村中源左衛門も同道して登山します。ちょうど四〇丁のところに平地があり、ここに祭祀することを決めます。あたりの草木を切り払い地形を定めて社をいとなみ勧請します。村人はおのおの村内安全を祈り下山します。その夜、夢に今日勧請するところより八丁奥に池がある。深い因縁があるので池のほとりに住み、永く雨畑村を守護すると告げられます。翌朝、源左衛門は名主六左衛門に申し入れ、お告げの通り八丁奥を探し池のほとりに社を移します。村人は神の名を申し上げんと評議のすえ、稻又の池より出でこの池のほとりに住みたもう因縁により、山を「池の山」と称し神を「池大神」と申し上げ、三月一日の辰の日を祭日と定め、毎年この日は必ず村中で登山し祭典を執行することを決めた」、という言い伝えがあります。 三、また、雨畑村の漁師が雨畑川で光り物を拾ったという説話があります。これは雨畑村の猟師が山奥で仏像に似た古木を拾ったという説話と似ています。(日高白象稿「参道にそって」『七面大明神縁起』所収一三六頁)。また、猟師が狩りにでて山中でひろった仏像を持ち帰り、家で祀ったところ火災にあい家財を全焼したといいます。それで、隣家に置いてもらったところが、この隣家も火災をおこし全焼し、このように仏像を祀ったところは火災にあい、仏像だけが無事で、その仏像は最初の猟師のところにもどります。猟師は仏像を恨んで小言を言ったところ、夢告にて七面山の池のほとりに祀るようにと言われ、九月一七日に人跡未踏の七面山に登って祭祀したといいます。これが、七面山開創の伝説となります。はじめの祭神は「池大神」として祀りました。これにより、池大神宮は雨畑村の造営することとなりました。七面天女・竜神についての伝説はこれ以後のこととなります。(今村是龍著『身延の伝説』一九頁)。この伝説からうかがえることは、七面山信仰の歴史はもともと雨畑村の村民による山岳信仰の聖地であったことです。山頂の池畔に「池大神」を祀り、これを「山の神」「水の神」として崇めていたのです。どうように、近隣の山麓にある高住や赤沢の村人たちも、七面山の神を祀っていたことがわかります。(中尾尭著「法華修行の霊場―身延・七面山」『日本の霊場』2所収一一五頁)。 四、また、稻又村にはつぎのような伝説があります。「昔、高岸源左衛門という猟師が獲物を求めて雨畑川から更に奥にある稻又川の上流、御池樽という所まで来ました。屏風のように切り立ち岩と岩に挟まれた道幅の狭い、昼でも暗いところまでやって来ると、前方に光ったものを見つけました。猟師は弓に矢をつがえて大きな声でどなりました。「汝、生あるものならば此の矢の先に止まれ」、すると一寸八分(五、五㌢)の金の玉が矢の上に止まりました。それを大切に持ち帰り高いところに飾って置きますと、夜中に家鳴りがして一晩中眠られなかったのです。あまりにも家鳴りがひどいので、まんじりともしないでいると、高貴な方が夢枕に立たれて、「自分をこれより三、四十丁山の上にある池のほとりに祭るように」、と神示がありました。そこで、村人三、四人とともに七面山の「一の池」ほとりにお祭り申し上げました。一行は金の神とともに一夜を明かしますと、再び例の高貴な方が夢枕に立たれまして、「たいへんにご苦労であった。おまえたち望みのものをつかわす」と、村人たちは大喜びでさっそく「水が欲しい、水をぜひ与えて下さい」と頼みました。一同が部落に帰ってみると清水がコンコンと湧き出ています。しかし、この水で不浄のものを洗うと水はピタリと止まってしまいます。村の正徳寺の上人に頼み神にあやまってもらい、御祈祷をしていただくと水は再び湧きだし、村人は神からの恵の水として今も大切にしているとのことです」。稻又は雨畑の隣の村で稻又谷があります。 この稻又の村は戦争のときに若い者が出征し老人ばかりになったので、発祥の地には行場だけを残して、堂を稻又部落に移したそうです。毎年、四月四日を期して部落民が集まって感謝のお祭りをしているそうです。この稻又の人達が祀ったのが「池大神」です。堂に祀ってある池大神は、七面山の池大神宮に祭ってある尊像と同じ型式で、大きさは五分の一くらいと言います。制作の年代は大正ころといいます。ただし、部落の人達が言うには、池大神のご神体は「金の玉」の筈であって、いつ頃から現在の仙人像(役行者)になったかは分からないとのことです。(森宮義雄著『七面大明神のお話』六一頁)。このことから、稻又村の部落民は水を欲していたこと、そして、金鉱があったことを知らせています。つまり、村人は金塊を池大神のご神体として祀っていたことがわかります。そして、その池大神のご神体を役行者に作り替えたことも分かります。(金塊―一の池―池大神―役行者像)。正徳寺は身延山一二世日意上人が、明応五(一四九六)年二月一一日に創立されました。「池大神の発祥の地」は近くの雨畑字稻又にあります。山林関係に従事する人が多いので山の信仰が盛んであるといいます。(『日蓮宗寺院大鑑』三五一頁)。 さて、この木片に神が宿ったという口碑や、稲又村の金塊の口碑は、神々を祭祀した理由をのべています。神には霊威神・祖先神・職業神・常世神・渡来神・怨霊神などを含む具体的な神への展開があり、信仰を保持しながらより高次な祭祀へ展開するのが一般的です。(『日本の古代』一三、鎌田茂雄稿、四一一頁)。ここにおいては、民族信仰における山神信仰と複合します。山神信仰は農民や木樵などの山民と、狩猟民・鉱山師・鍛冶師などの生業から起きた山の信仰です。山神は「ヤマノカミ」とそのままの言葉で言われることが多く、農民の山神は「オサドサン」「マンドウサン」「ヤマノコサマ」「オミサキサマ」ともいわれます。山民は「十二様」と呼ぶことが多く、狩猟民は「サガミサマ」「カクラサマ」「トドンサア」「シャチジン」ともいいます。金属民は「金山様」「金屋子神」を山神としています。地域と生業によって呼称が多々みられるところです。また、山神は一般的には女性神とされます。山神は農穣と豊猟をもたらし福を与える神であり、かつ、山中における怪我や死、自然災害にたいしてから起きる恐ろしい神、祟る神という両面がみられます。雨畑村の伝説は山・池を尊び恐れるということから生じたことがわかります。また、山神は蛇や兎・猿・犬・猪・河童・鳥という動物として表すことが多くみられ、さらに、天狗・鬼・山姥・山男と同一視され、山中での怪異談も広く伝えられています。この信仰は修験の山となっても、そのままの純粋な信仰がつづけられ、七面大明神を祀る山となっても並列して信仰されてきたことになります。 雨畑村の木片の仏像、稲又村の金塊は、ともに「池大神」として祀られました。池大社に祀る「池大神」は老翁の姿をした神像で、一の池を神格化したものとされます。これは享保五(一七二〇)年に造られました。この池大神像の銘文の中央に「南無池大神」と尊像の銘を書き、造像の年月日や開眼主、発願主にならんで「七面山池の主」とあります。つまり、「池大神」は七面山の地主神であると書かれたことになります。しかし、この「池大神」の像容は修験道の祖といわれる役行者の姿なのです。(望月真澄著『身延山信仰の形成と伝播』四三頁)。つまり、「池大神」は役行者という解釈になります。この像を開眼した身延山三四世日裕上人は、「建立記」に「初勧請時未知七面号。池畔勧請故称池大神。実是七面大明神也。今如意輪観音像安置之」と書いています。最初に神像を祀ったときは池の畔であったので、「池大神」と村人は呼称して、そのときは七面大明神とはいわなかったが、本体は七面大明神と同一神であると書いています。三三世の遠沾日亨上人の「池大神宮」には、七面天女の神号がわからないときに、この神を池の畔に祠を建て勧請したことから「池大神」と称したとあり、池大神は七面大明神であるとしかのべていません。 「建立記」によりますと、山頂の敬慎院は延宝三(一六七五)年に、身延山三〇世日通上人の代に堂宇が再建されました。「七面山鐘銘」「七面山神祠記」「池大神宮」(日通上人の池大神再建棟札)も同年となっています。最初の建立については不明なところが多いといいます。七面大明神の尊像は万治三(一六六〇)年一〇月に寄進されています。日通上人の「池大神再建棟札」に、「池大神者従根本雨畑造営故、今亦彼村中為造営者也、七面大明神末社池大神棟札。延宝三年八月二八日」、とあり、池大神を最初に祀ったのは、雨畑村の人たちであったことになります。(望月真澄著『近世日蓮宗の祖師信仰と守護神信仰』一〇八頁)。本来は雨畑村の住民が祀っていたものでした。毎年三月の一の辰の日に登詣して、池大神の祭礼をするのはこのためといいます。(中尾尭著『日蓮信仰の系譜と儀礼』二九六頁)。池大神宮を別名に「沙竭祠」(しゃかつし)といいます。(『鷲の御山』一一五頁)。この雨畑村の故事は地域性の強い民族信仰でした。ここに組織仏教がくわわり、法華信仰の守護神へと進展したことになります。 【池大神と役行者】山にたいしての民俗信仰のなかに、雨畑村の例にある木霊(木神)のほかに、水神・竜神などがあります。これらの俗信仰が結合されて七面山の信仰が形成されました。重要なのは神を祀った人達の生業(すぎわい・なりわい)によるといいます。民族宗教から分析しますと、七面山という山には山民と農民の信仰が考えられます。山民は樵夫・金堀・狩人がいます。これらの職種の人は、木片・金塊・斧というように一の池の「池大神」に結びついています。山神を女神とするのは、山からの恩恵を女神が産み与えると感受するからです。たとえば、前にのべた高野山の山の神は丹生都比売命という女神でした。この神を祀ったのは狩人の姿をした高野明神という男神です。丹生とは辰砂のことですから、この一帯は辰砂を産出する水銀鉱床群があり、その辰砂の産出を司ることから女神とされます。中国南朝の王琰が撰した『冥祥記』(四七九年)の「廬山の霊異」に、江西省北部にある廬山(一五四八㍍)に七峰があり、その崖は鋭く切り立っているので登った人はいなかったが、晋の太元(三七六~三九六年)に范寧が学校を建てようとして山の木を切らせたところ、沙門の服を着た人が空を突切り天に昇るのを見ます。山頂について振り返ると雲が立ちのぼって、全てが消え去ったという話しです。『冥祥記』は史部に著録しており、怪異のことを記した志怪小説ではなく、事実を記録したものとして認識されています。薬草を採取していた数人が、その現象を目の当たりに見たことが書かれています。(『仏教文学集』中国古典文学大系60。三二六頁)。この七峰の大崖と山神らしき神威の現れと、そこに住んでいる伐採をした樵夫、薬草を採取する山民が登場しているところに、七面山との類似性がうかがえます。つまり、山神信仰を厳密にいいますと、三種の職業の人々に三種の山神があったということです。これに対して、農民の山の神とは春は山から降りて田の神となり、秋の収穫が終われば山に帰って山の神になります。これを、「春秋去来伝承」といいます。田の水を潤わすことが大事で、ここに、水分信仰があります。農民は山の残雪をみて農作物の種まきを始めます。つまり、農民の山の神信仰は水分信仰をいい、それは、七面山の一の池の池大神信仰に繋がります。漁民においても海上に出たとき、山を目印として船の位置を知る山あてという習俗があります。山が見えない沖合を山無しというように、山は漁民の安全な航路の指標となっていました。この漁民が海に出て使う沖言葉と、猟師が山に入って使う山言葉とが、各地で一致しているといます。(『世界大百科事典』)。ともに雲のかかり方、風の吹き方に天気を占っています。これらの職種の人が祀った山の神の神像は特徴的なものがあります。『日本民族大辞典』(下。図版)にそれぞれの神像の写真を掲載しています。たとえば、鉱山の神像は刀剣を持っています。藁蛇を神像としたもの。斧と鋸を持ったもの。鳥の羽を持ったもの。猪にのる山の神の神像があります。そこで、自分たちの生活を守って下さる神の居場所が問題となり神聖な場が求められます。神聖な禁忌の区域になる神の領域と、そこより少し下がって見上げる場所に祠を造る例がみられます。これは、神が常にまします領域はみだりに近づいて汚してはいけないという意味をもちます。七面山の本社と奥之院はその場所にあたります。「池大神」は池大神宮と書かれた扁額(六七世日楹上人)の堂に祀られています。この「池大神」は七面山に最初から祀られている神で、地主であると本社では説明していたといいます。(森宮義雄著『七面大明神のお話』五六頁)。この山神・地主神として池大神を祀ったのは雨畑村の人達です。さきにのべた雨畑村の伝説の神のことです。本来は雨畑の住人が祀っていたので、このいわれにより毎年三月の一の辰の日に「池大神」の祭礼をしています。 ところで、日蓮宗新聞(昭和四三年一〇月一〇日発行第五四二号。「縮刷版」二号一四七三頁)にのせた現宗研の記事に、七面山に「池大神」として祀られている尊像は役行者像であり、後世それを神仙思想によって修正し発展したものであろうとあります。また、この「池大神」は老爺の姿をしており、一の池を神格化したものといいます。(中尾尭稿「七面山の信仰」『冨士・御嶽と中部霊山』所収一〇四頁)。その「池大神」の尊像の写真は森宮義雄著『七面大明神のお話』に掲載されています。(全身、五八頁。頭部、六二頁。背後、六六頁)。その姿は三角髭を蓄え頭髪は長く伸ばして上で二つに束ねています。法衣のように袖の袂が大きく、腰紐を胴まわりに回して衣を縛っています。右手に自然木の長い杖をもって、右足を左足の方に寄せて岩(石)上に座り、顔は前方の大地に向けて眼は正面を見ていません。瞑想に入っている容姿を現していると思われます。見た目は仙人風の老翁です。この姿は役行者に違いありません。そうしますと、修験道の祖師を祀った修験者の介入が、近年まであったことを示していることになります。この役行者と思われる尊像は、高さ一㍍くらいの木製で、背面に次の勧請文が書かれています。中央に「南無池大神」とあります。その右に「七面山池の主・享保五庚子年・仲旬日新奉刻彫・為悦衆生故」。左に「現無量神力・賜紫身延山三十・四法嗣上人・見竜院日裕花押」。この下の右に「施資請主・古屋弥次右衛門・大久保勘左衛門・山下七郎左衛門」。左に「懇望請主・別当敬慎院・幸順房日慶・副介尭信房日正」、と彫られています。享保五庚子年は一七二〇年にあたり、仲旬とは六、七月のことです。つまり、この木造が造立されたとき、何らかの意図にて「池大神」と役行者は一体と見なされたことになります。 この役行者の像は「池大神」として、身延山三四世の見竜院日裕上人(一七一三~三二年在山)が開眼されています。この時期は脱・省・亨の三師の後を継ぎ、ひとつおいて後に三六世六牙院日潮上人がいます。日脱上人のころから曼荼羅に七面大明神が勧請されます。亨師の「池大神宮」の写本古記に、「勧請未知七面号。池畔勧請故称池大神。実是七面大明神也」とあります。つまり、「池大神」は七面大明神のことであるというものです。では、なぜその姿を役行者にされたのかという疑問が生じます。「池大神」は役行者であり、七面大明神になると思うからです。しかし、その脈絡に意義が認められます。つまり、池の主が山の主とは違うというのが、土着の信仰であり祀ってきた人達の祭礼です。修験者にしますと、七面山を開いた祖師は役行者であり、追従する者の行者意識があります。一般的な民族宗教や仏教教団の影にあった山伏が、それを打破するため理想的祖師としたのが役行者でした。この団体的な山伏衆を成したのが平安末より鎌倉期にかけてで、修験道の第一次成立期にあたります。(和歌森太郎著『修験道史研究』一二頁)。修験者たちが七面山を開山した称号として、残したのが「池大神」であったと解釈できます。また、竜神信仰には呪術性が必要とされ、その役割をもっていた修験者が斗藪することにより、「池大神」に役行者のイメージが添加され、混同されたと思われます。七面山信仰において役行者は大きな存在であったのです。その信仰の脈絡に「池大神」をして二つの解釈がなされたと思います。このことは教義的な解釈よりも、七面山を身延に融和させる宗門の施策が、大きな理由となっていたのです。 しかし、古くからの原初の信仰を把握する必要があります。それが根本となっているからです。いわゆる、ニギミタマにあたる山の主としての地主神が、古来の住人の祀った神になります。同時に七面山には神秘な池があり、ここに竜神が住むと信仰されていたのです。木片の仙薬と思われる仏像や、金鉱石は池の産物と信仰されました。ゆえに、村人が池畔に金塊(「池大神」)を祭祀したのです。平安中期ころの「池の神」に、弁才天信仰にまつわる「姫君説話」が加わりました。この姫君伝説は山岳神と人間神との結合として、日蓮聖人の西谷影現となります。室住一妙先生はその七面山に存する神の応現の姿は、竜神とも婦女身ともなるのであり、身延山を鎮護する守護神であるという視点からみると、七面天女は応現神・霊威神・祭祀神という神に合致するとのべています。(「七面大明神の伝説・縁起とその考証」『七面大明神縁起』所収四四頁)。七面山にも役行者に関与する修験道の存在がありました。その修験者たちに祀られた神が「池大神」であり、七面山修行に求めた存在に、神格化した役行者が意識されていたと思います。 |
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