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◆第三節 七面天女本地の諸説〇七面山伝説の相違里見泰穏先生は七面山信仰に関する伝説を、次のように大きく四点にしぼっています。(『里見泰穏先生著作論集』二一八頁)。 ① 「池大神」に関する伝説―――木片に寄り付き池に憑依した蛇竜、夢告により祠を建て池大神とした ② 「七つ池」の伝説――――――幻の池の竜(「身延の伝説」『身延町誌』一一二三頁) ③ 「安芸国厳島女」の伝説―――竜。資師の姫は池のなかに入る(池大神とむすびつけている) ④ 「西谷草庵」の伝説―――――竜(七面天女の本地は厳島弁才天女・吉祥天・八歳龍女) このうち①と②は七面天女信仰の原型となります。①~③は日蓮宗に関する記事はなく原初の民族信仰とされます。④の西谷草庵(高座石)伝説に七面天女があらわれます。つまり、④の「西谷草庵」は民族信仰であった七面山信仰に、七面天女を結びつけた作為性がみられると結論します。それゆえに「池大神」「厳島女」「弁才天」を包摂して、論理つけた西谷草庵伝説にさまざまな違いが生じたといえましょう。七面山の山岳信仰や民族信仰には、山にたいしての尊崇と感謝をあらわす祭祀が形成されます。これは山から得る食料や水源、狩猟や農耕など多々の収益をうけているからです。身延の寺平から縄文土器や石鏃が出土することからも、人間が生きていくうえの恵みの山となっていたことがわかります。どうじに山の自然災害や、山中における不慮の死に接する畏怖があります。七面山は高山としての尊崇と、山頂に満々とたたえ枯渇しない池があります。この水が滝となって垢離の場となります。オオガレの嶮難は行者の達成感を満足させます。ここに、神の宿る山、天より神が降臨される山という尊崇がかなえられます。恐れと恵みの霊山となったのです。①と②はこのような要素をもって、地方に土着した信仰と同じといえます。この原初の民族信仰とされる①~③に共通していることは、「蛇」や「竜」にかかわっていることです。これは民俗信仰としての典型的なパターンなのです。七面山における①の「池大神」は木片に憑依した神で、池のわきに祠をたて祀ることを求めています。池にすむ竜が憑依していたと思われる口碑です。②の「七つ池」の伝説では幻の第七の池の中央から竜が天に昇っています。幻の池の主は竜という口碑になり、神格化した竜神の存在を現しています。③の安芸の国の「厳島女」は、七面山の池に身を入れ大蛇となり、そして、法華経の霊山である身延山を護る七面天女となります。この厳島女の本地は弁財天であると解釈されていました。この③の厳島女の伝説は、厳島女の本地の詮索がなされ、法華経の守護神であると結びます。京極中納言師資の出現は京都の貴人であることを強調します。その姫は厳島の神と結びつけました。。つまり、高貴な神という印象を七面天女に与えます。七面天女の本地を権威づけることになります。このことから①と②の素朴な民族信仰の原型に、③の厳島女の伝説が結びつき、七面天女に高貴な守護神としての神格がそなわったと考えられます。そこに、『金光明経』の説示を補強として、七面天女の本地が弁財天となりました。『身延町誌』には修験道が盛んになり、役行者の流れをくむ行者が甲斐に訪れ、厳島弁財天を七面山に祀るようになったのではないかとあります。また、大峰七面山の真言宗の修験と、関東修験の集合した初期の形態であったといいます。ただし、問題となることはこのときに、功徳天(弁財天)と吉祥天の二神が列記されてしまったことです。 つぎの、④の「西谷草庵」の伝説は、七面天女の出現を完成させ①~③を包摂します。しかし、七面天女の本地については整合できずに矛盾をふくんでしまいました。先師の多くはここを霊性の存するところとし、深く追求することを制止したのです。美しく若い女性が日蓮聖人のもとに姿をあらわしたのは、西谷の草庵であると思います。七面天女信仰が強まるにしたがって、その場が高座石となり、七面山登詣の華表となった妙石坊となります。ただし、日蓮聖人が隠棲された「庵室」が、この妙石坊付近にあったことは充分に推測されますので、両者を同所とするほうが理解しやすくなります。この女性は七面山にすむことから七面天女と尊称されます。のちに、日孝上人の「七面山本地記」にみられるように、提婆品の龍女が本地であるとのべられるようになります。その理由は法華経と七面天女を結びつける必要があったからです。換言しますと、七面天女信仰を宗門に定着させる動きであったのです。そのために伝説が変容したのです。(里見泰穏著『里見泰穏先生著作論集』二二六頁)。近世中期の池大神は七面大明神の末社となります。池大神の像にかわって七面大明神が山頂の敬慎院に祀られ、七面山の主神となり身延山の霊場へとかわっていったのです。(望月真澄著『身延山信仰の形成と伝播』四三頁)。また、身延山の一四世日鏡上人(~一五五九年)・一五世日叙上人(~一五七七年)・一六世日整上人(~一五七八年)のころから、身延山鎮守七面大明神が育成されたといいます。日整上人のときは身延山中に定着していたといいます。(宮崎英修著『日蓮宗の祈祷法』一六〇頁)。 七面大明神の尊像を勧請されたのは、天正年間(一五七三~一五九二年)以降のことで、久遠寺の末寺を中心に七面信仰が浸透していったといいます。『元祖化導記』にはこの西谷草庵伝説が、記述されていないことに留意しなければなりません。宮崎英修先生は、日蓮聖人の滅後より身延山の朝・意・伝三師のあいだは、七面天女の名称はなく、鏡・叙・整三師のころから発生し育成されたとのべています。そして、提婆品の龍女と七面天女は別体であるとのべています。その理由は日蓮聖人の曼荼羅のなかに、「竜神・竜神王・竜王・大竜王」として勧請されていることを挙げます。そして、具体例として、大覚大僧正が延文二(一三五七)年六月一日に、開眼した絵曼荼羅に描かれた捧珠の龍女は、提婆達多品の龍女であること。室町中期とされる備前妙政寺にも捧珠の龍女が描かれているが、七面天女とはまったく異なると断定されています。(『日蓮宗の守護神』一二三頁)。提婆龍女説は身延山・七面山の信仰の強まった近世後期に登場してきたことになります。 七面山信仰にみられる験者の苦行などの行為を、中国から伝わった神仙術で説明する研究があります。これにたいし、神仙術は二次的なもので、仏教はそのうえの三次的な付けたりともいいます。ここには日本に伝わった固有の宗教があるとして、修験道はそれをもち続けた「野生の宗教」といいます。(五来重著『山の宗教―修験道』八四頁)。験者には山岳斗藪の苦行を強いることによって達成できる贖罪意識と、神と遭遇できるという基本的な信仰がみられます。すなわち、これらからうかがえる過程をみてみますと、つぎのことが推測できます。 ① 池大神といわれる蛇竜(竜神)の霊威があった ② 幻の七つ池の霊場には天空に立ち昇る竜神がいた ③ 厳島女(池大神)の伝説が加わり竜神の本体は弁財天・吉祥天とされた ④ 西谷草庵に影現した七面天女(厳島女)の伝説となった つまり、池大神は弁財天(吉祥天)となり厳島女となり七面天女となったわけです 逆にみますと、七面天女は厳島女であり弁財天であり池大神である、ということになりましょう ⑤ 七面天女は提婆品の龍女でなければならない 身延山は七面山を霊場として法華布教の方法として祈祷を推進させた 七面山の神体を法華教学と日蓮聖人に結び七面天女伝説を宗門的に定着させた 以上のような経緯をうかがうことができます。
〇七面天女の本地とその変遷では、肝心な七面天女の本地について、どのように解釈されているかをみてみます。さきに挙げた「七面山信仰の年表」にうかがえるように、歴史的な動向と教学的な解釈、および、身延山の布教方策に影響されていたことがわかります。 一、『御義口伝』古写本(大石寺)――提婆品の龍女 二、「七面大明神由来事」亮朝院―――七面山と同木の七面明神像を祭祀したとあります 三、「七面大明神縁起」(元政)―――「鬼子母尊天の女なり」と記し本地は吉祥天とします 草庵説にて女性が毒蛇にかわった。毒蛇ー龍神――吉祥天 四、「七面山鐘銘等之写」――――――七面の池――七面大明神――婆達品の龍女ではない龍神女 五、『蓮公行状年譜』豊臣義俊――――建治三年九月、七面大明神身延山に鎮座現端 六、「七面大明神縁起」大中孝師―――吉祥天 六老僧の口伝として提婆品の龍女を挙げます 七、『身延鏡』身延三一世日脱上人――厳島女(厳島弁財天)――弁財天と吉祥天の二神を挙げています 姫君説話 東宮の連枝池之宮が池大神であり本地は毘沙門天王 八、「七面大明神縁起」(亮朝院)―――霊験を記しています。 九、『本化別頭高祖伝』―――――――本地は吉祥天・功徳天 草庵説にて女性は毒蛇にかわります 提婆品の龍女と厳島女の姫君説話 一〇、「池大神宮」(遠沾日亨上人)――池大神――七面大明神 一一、『本化別頭仏祖統紀』―――――毒蛇――吉祥天 一二、「七面山本地記」智静孝師―――提婆品の龍女 一三、『学海余滴』了義達師―――――厳島女――七面天女――提婆品の龍女 一四、『高祖年譜攷異』―――――――吉祥天 一五、「七面山神祠記」遠沾亨師―――提婆品の龍女 雨畑伝説 中里日応上人―――弁財天女(「日蓮聖人身延山御入山以前の七面山と身延」『棲神』四二号所収。八〇頁) 岩間湛良先生―――提婆品の龍女(「七面大明神霊験記」『七面大明神縁起』所収一五〇頁) 室住一妙先生―――提婆品の龍女(「七面大明神の伝説・縁起とその考証」『七面大明神縁起』所収四三頁) 厳島の弁財天信仰は日蓮宗の信仰に結びつかず、七面山としては前身的なもの 里見泰穏先生―――七面天女信仰を定着させるために伝説が変容した(『里見泰穏先生著作論集』二二六頁) 宮崎英修先生―――提婆品の龍女と七面天女は別体(『日蓮宗の守護神』一二三頁) 中尾尭先生――――提婆品の龍女は護法の善神として装いを新たにした「法華修行の霊場―身延・七面山」『日本の聖域』3所収一一八頁) 以上をもとにして分かることを、いくつかに分類してみてみます。まず、基本的に把握しておくことは、これまでのべてきましたように、身延・七面山は祖霊を祀り神を祀る日本古来の山岳信仰に成り立っているということです。この心情を無視して七面天女信仰を語ることはできません。また、日蓮聖人の神仏習合思想が七面山を吸収し、七面天女を法華守護の善神と規定できたといえます。諸天善神の守護は釈尊との約束であると受けとめますと、身延山を守護する善神の影現は釈尊に到達することになります。(影山堯雄稿「日蓮の諸尊信仰」『日蓮信仰の歴史』講座日蓮3所収、一四三頁)。ゆえに、後世、七面山の地主神は法華経を守護する善神であり、その尊号を七面天女(大明神・大菩薩)と呼称されたのです。七面天女信仰は、 ・純粋な七面天女とされる本地への信仰 ・民間信仰から宗門的な教義つけがなされた七面天女信仰 があります。本地説が複雑になったのは後者によります。森宮義雄氏は七面天女の本地に、諸説が生じたことを解明する手立てとして、三点をあげています。(『七面大明神のお話』三三頁)。 ⑴、仏教が神道と集合した神仏習合と、それから派生した本地垂迹説 ⑵、七面大明神をお祀りした七面山は、その昔どうなっていたのか ⑶、池大神と役行者のこと 純粋な七面天女信仰の基本は⑵と⑶です。そして、その純粋な日本古来の土着の信仰に、仏教思想がはいり神道と絡み合いながら展開してきたのが⑴になります。これを表示したのが【七面山の年表】(本書五二頁)です。七面天女信仰は、つぎのように分類されます。 七面大明神 民族信仰―――――池の神・木の神・土地の神・金鉱石の神・動物の 神道・道教――――山神・地主神・陰陽師・道術 修験道――――――役行者・呪術 仏教―――――――仏・菩薩・諸天善神(『金光明経』吉祥天・弁才天) 法華経――――――竜神(八歳の龍女)・護法の善神 しかし、民間信仰的な視点から本地をたずねますと、宮崎英修先生がのべたように、七面山の七つ池にすむ竜神は、吉祥天女でも弁才天女でもなく、また、八歳龍女でもその他の誰でもなく、もともと土着していた「地主神」と考えられます。ここに、仏教の垂迹思想が入り護法の善神となります。法華経の法味を納受することにより加護力を増し、法華経の守護神として信仰されました。つまり、仏が神として権現するという教えにより、神仏が習合し信仰されていった教学史をもちます。たとえば、鎌倉時代には真言宗の金剛界・胎蔵界の教えをもとにした両部神道があり、比叡山の鎮守とされる山王権現をもとにした山王神道がおきています。神が主で仏が従であるとする伊勢神道や、室町時代になりますと吉田神道・法華神道などが説かれてきます。こういう思想に影響をうけて発展してきたといえます。また、神前に読経をして神の威力としたように、神宮寺(別当寺、神護寺、宮寺)の形成にうかがえる歴史をもっています。 以上の資料からわかることは、吉祥天女説が多く見られることです。その理由を執行海秀先生は、元政上人(「七面大明神縁起」)が鬼子母神の娘は吉祥天女である、と記述したことに根拠があるとのべています。真言密教では吉祥天女を胎蔵界の大日如来の化身とする説があります。その大日如来は天照太神の本地とするところから、吉祥天女を天照太神とする説がうまれました。また、「御義口伝にシャカラ竜王の娘が聴聞に現れたとし、神武天皇の祖母に当たる豊玉姫は龍女の姉であると伝えている。龍神と皇室とのかかる関係は、中古天台の叡山に伝えられた一実神道の口伝に由来するものである」とのべています。(「久遠の本仏と守護神」「七面大明神縁起」所収五三頁)。つぎに、六老僧の口伝の提婆品の八歳龍女説がみられました。そして、吉祥天女と弁財天女を同体としている日脱上人の説(『身延鑑』)。また、厳島弁財天女説がありました。ほかに、普賢菩薩・八幡大菩薩・天照太神・鬼子母尊神などの説があります。(林是㬜著『身延山久遠寺史研究』三〇三頁)。普賢菩薩説は身延山三四世日裕上人によります。冨士山信仰の視点からみますと、各宗がそれぞれの意味つけをしています。たとえば、江戸前期の「八葉九尊図」(一六八〇年)のように、富士吉田からの信仰施設を描いたなかに、山頂には九尊の仏が描かれています。玉沢妙法華寺の日桓上人は冨士山の参詣案内図を作っています。このなかの「冨士山法華勧請諸尊図」に、冨士山の一合目から頂上にいたるまでの諸尊を勧請しています。一合目は七面大明神。二合目は八幡大菩薩。三合目は天照太神宮。四合目は鬼子母神。五合目は得大勢至菩薩・清正公大神祇。六合目は普賢菩薩・中宮毘沙門天王。七合目は文殊師利菩薩。八合目は摩利支天。九合目は妙見大菩薩。頂上は釈迦牟尼仏・帝釈天王・千眼天王となっています。(望月真澄著『身延山信仰の形成と伝播』九四頁)。注目されるのは、一合目から六合目までのうち五合目の得大勢至菩薩をのぞいた諸尊が、七面天女の本地と伝えられていることです。また、浅井了以は『江戸名所記』に谷中延命院の七面大明神について、「七面は本地北斗の七星、妙見もまたこれ星の名なり。(中略)日蓮聖人大難の時にあたって、梅の梢に星下りの奇特をあらわしたまうも、七面の明神守護の故なり」と、七面と七星に懸けて妙見大菩薩と関わりをもたしています。(金指正三著『星占い星祭り』二六五頁)。 疑問に思うことは、一体の七面天女になぜ一〇体ほどの本地が伝えられたのかということです。日蓮宗において本地解明に苦慮してきたことがうかがえます。その背景をさぐることにより、解明できることがあるかもしれません。中里日応上人は敬慎院の尊像は、『金光明経』第一五の説示と一致していることから、弁財天であるとしています。この理由は古来、大峰山にある同名の七面山信仰と関係があるといいます。また、厳島弁財天が何時頃どういう形において祀られたかを推敲すれば、七面山信仰が明らかになるとのべています。大峰山の七面山に厳島の七浦の明神を加えて、七面山信仰を考察しなければなりません。(中里日応稿「日蓮聖人身延山御入山以前の七面山と身延」『棲神』四二号所収。八〇頁)。また、安永五(一七七六)年一〇月一二日の、七面山焼失以前と焼失後における尊像の姿が、立像から半跏像になったのはなぜなのか。神格の位置づけが変わり立像と座像の違いとなったのでしょうか。七面山奥之院と七面山本社は、ともに七面大明神を祀っており、奥之院は座像となっています。七面大菩薩と呼ばれました。(中尾尭稿「法華修行の霊場―身延・七面山」『日本の霊場』2所収一一四頁)。また、古来から九世日学上人(一四五九年没)以前と、一五世日叙上人(一五七七年没)以後を重視されています。九世日学上人代には、七面大明神の堂を建て赤沢妙福寺が管理し鍵取りをした時期で、長禄二(一四五八)年六月二九日に妙福寺古堂が建立されています。一五世日叙上人は七面山の社殿造営を勧めています。武田信玄が永禄元(一五五八)年に会式関免許(七箇条の制状)を与えたように、日叙上人は武田信玄や下山の穴山梅雪の帰依をうけています。天正四(一五七六)年には甲駿信の末寺に一〇月祖忌に登詣すべき触を出し、これにより身延山鎮守七面大明神信仰の基盤が創られたといわれています。敬慎院釈迦堂に日叙上人の位牌が安置されているのはこの貢献にあります。 ところで、岩間湛良先生は七面天女の本地について、率直に三点の疑問をあげています。(「七面大明神霊験記」『七面大明神縁起』所収一五〇頁)。 問題の一、大明神は果たして影現したのか 問題の二、いかなるわけがあって初めに天女として現れ、後に竜神として現れたのか 問題の三、影現した天女と竜神とは、いずれが大明神の本地身なのか。或いはいずれも本地身であり、或いはいずれも本地身ではないのか 問題の一については、法華経守護の諸天善神が刹那の間に飛び来たって影現し、行者と国土を護るのは守護神の誓願であるので、七面大明神が影現することは事実とのべています。七面天女信仰はこの西谷影現・高座石伝説が初めとなり、ここから日朗上人の七面山登詣の理由が発生しています。七面天女と日蓮聖人を結ぶには必要な伝説です。岩間湛良先生は問題は二にあるとします。大乗の菩薩道は自行と化他の二つがあり、その化他にも摂受と折伏の二つがあることをあげます。これをあてはめて折伏を行ずるときは竜神となって邪悪を誡責し、摂受を行ずるときは天女となって正法を弘持すると解釈しています。高座石における聴聞の女性の姿は天女の摂受の現れで、波木井氏たちが正体を怪しんだので、姿を現した竜神の姿は折伏を行ずる威神力を示したとのべています。問題の三については、天女も竜神もそれがそのまま本地とはいえないとのべます。観音の三十三身の変化のように、七面大明神も衆生救済のために千変万化しても不思議ではないとのべます。水と波は同一のように、本地身の水と影現身の波とは別々のものではなく、天女でも竜神でもない根源的なるもの不滅なるものを本地としています。しかし、結果的に七面天女の本地は何かといえば提婆品の龍女とします。七面山の本社に安置されている尊容は、左手に持っている宝珠は龍女の宝珠であり、右手に持つ鍵は「我闡大乗教度脱苦衆生」の誓願によって大乗法華経の宝庫を開く鍵であるとします。 さて、前記しましたように森宮義雄氏は本地解明の鍵として、つぎの三点を指摘していました。⑴、仏教渡来以来、仏教が神道と習合した神仏習合と、それから派生した本地垂迹説。⑵、七面大明神を御祀り申し上げた七面山はその昔どうなっていたのか。⑶、池大神のこと。私はこれをつぎの三点からみてみたいと思います。 A 七ッ池・池大神などの土着の信仰―――――――⑵・⑶ B 七面山が山岳宗教の霊場となった信仰―――――⑴・⑵・⑶ C 身延山が七面大明神を守護神として祀った ――A 七ッ池・池大神などの土着の信仰―― 第二章と第四章でのべましたように初期の信仰となります。民族宗教の一定の範疇にはいるもので、山岳信仰としては初期の修験道の影響として役行者の存在がありました。 ――B 七面山が山岳宗教の霊場となった信仰―― 現宗研の記事に七面山信仰は大峰真言系の修験と、関東修験の習合したのが初期の形態であったとありますように、山岳宗教は仏教伝来いらいの民族宗教に影響をあたえました。また、前述しましたように道教と神道の教えが仏教と絡み合って展開していますので、それらを分析してそれぞれの宗教教団の基盤となっていたもの、その信仰の目的はどこにあったのかを探る必要があります。欽明天皇七(五三八)年に百済の聖明王により仏教が公伝し、崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部・中臣氏とが対立します。蘇我稲目が仏像を祀ると疫病が流行したので、天皇は神の祟りとして仏像を破棄させたということから、日本には古来よりの神祇信仰があったことと、外来の仏教が入り神仏の衝突があったことがわかります。時をへて飛鳥・白鳳時代になりますと国神と仏教とが融合していきます。(『日蓮宗読本』)。これは、仏教がはじめて伝来したときに、日本人は仏のことを蕃神・他神・仏神と呼んでおり、古代から仏と神は同じ属性として意識されてきた源流があります。天平宝宇ころに延慶が著した『武智麿伝』の説話に、和銅八(七二五)年に夢にあらわれた神(奇人)が、神宮寺の建立により宿業から救われたということが書かれています。神においても仏教により救済されるという説話です。同じような記述は、近江陀我神と僧慧勝、多度神が三宝に帰依したこと、若狭那売神、近江奥島神などにもみられます。つまり、神仏習合の発生は仏教伝来の当初よりみられ、しかも、神も仏によって救済されるという思想があったのです。(『仏教史概説』日本編。七一頁)。言い換えますと、神は仏教の教により成仏したということになります。山岳信仰はこれら大陸から導入された思想や、移民に伴い道教の神仙思想が入ります。つづいて古密教の修法が入り修験道が盛んになります。この山林仏教徒(修験者・山伏)は古来の神社と結びあい、いわゆる神仏習合が始まります。そして、神仏習合の思想は、神は仏の権化・垂迹と考えられるようになり、平安中期には教義として組織化されます。すなわち、本地垂迹思想の成立です。多様に流入する渡来文化を日本の風土に合わせて独自な日本文化を形成してきたといえます。 日本における本地垂迹説は聖武天皇(七〇一~七五六年)が奨励したといわれます。それは大仏建立にあたり宇佐の八幡大菩薩の託宣と、新羅系の渡来人の援助を必要としたことにあります。四、五世紀に新羅系の辛島氏が豊前国北半に進出し、香春岳の採銅所に香春神(辛国息長大目命)を祀ります。これは新羅の亀卜鍛治の御巫を神格化したものといい、ここに八幡神信仰の初期形態があります。豊前の土俗的信仰と新羅や百済の仏教的陰陽道的色彩をおびた土俗信仰が習合し、日本固有の神祇とは性格を異にした、仏教と神道の習合が形成されたのです。(中野幡能編『八幡信仰事典』)。神亀元(七二四)年に聖武天皇が即位すると、渡来系氏族に和風の姓名を与えています。(『日本の古代』坂本義種稿、三九四頁)。天平一九年に聖武天皇は大仏造立の祈願のため、宇佐八幡宮に使いを遣わします。その時の八幡の託宣は、「神我天神地祀乎率伊左比天必成奉无」(かみわれあまつかみくにつかみをいざないてかならずなしたてまつらん)というものです。そして、盧舎那仏造像の寄付を募ったのは、百済系渡来人の良弁と行基(高志氏)で、東大寺建立には新羅系の猪名部氏があたり、大仏鋳造の造仏長官に任ぜられたのも、百済系の国中連公麻呂でした。天平二一年に大仏に塗る金が不足したときには、豊前香春から銅が、陸奥の国にいた百済王家の末裔である陸奥守敬福が、陸奥で産出した砂金九百両を献上しています。つまり、 大仏建立の現状は材料の金銅が不足し、中国から輸入しなければならない窮地にありました。そのとき、宇佐八幡宮がわが国の天神地祇を総動員して協力すると託宣を下し、その通り援助を得て大仏は完成したのです。手向山八幡宮は東大寺鎮守として大仏開眼の折に建立され、豊前豊後以外の土地に最初に勧請された八幡宮です。また辛国神社の祭神は韓国翁で、東大寺建立に功労した百済系移住民を祭っています。東大寺創建時に様々な障害をもたらした天狗たちを良弁僧正が改心させ、仏法護持を誓約させて祀ったといわれ、東大寺では大法会の前夕に必ず天狗妨害封じをして魔障がないことを祈ります。このような事情からも、朝廷は高度な外来文化としての仏教を重んじ、神仏同体の思想を打ち出して土着の信仰を宥和しようとしたのです。霊亀年間(七一五~一七年)の越前国気比神宮寺や、養老年間(七一七~二四年)の若狭国若狭彦神宮寺の建立はその先駆けをなしました。神宮寺が建てられことは、外来の仏教が日本の神々と融合し、仏教が日本に定着した現れだったのです。また、宮寺制は貞観二(八六〇)年に清和天皇の創建による、石清水八幡宮護国寺(旧称男山八幡宮)に始まるといいます。宮寺制とは神仏習合思想から神社と併設された寺院(神宮寺)が一体となったもので、この宮寺神社では神社の社前で仏典の読経や仏事の供養法会がおこなわれました。 平安時代には神仏一体・神仏習合の思想としての本地垂迹説に発展します。平安中期になると多くの神社で祭神の本地仏を特定するようになり、一般的な思想として広く認められ波及していきました。本地垂迹は法華経の寿量品の「六或示現」の本仏思想、大日経の本地加持身説によります。鎌倉時代になりますと仏教的神道がおきます。両部神道・山王神道は日蓮聖人の滅後において、宗門に大きな影響をあたえました。のちに、円教院日意上人は文亀三(一五〇三)年に、法華経の題目七字に三種の神器を当てはめて解釈するようになります。(『本尊論資料』一八一頁)。曼荼羅勧請の天照太神や八幡大菩薩、三光天子などの天部衆に、神仏習合の思想の視点から解釈をされています。神仏習合とは日本固有の神祇信仰と仏教が混ざり合い、独特の行法・儀礼・教義を生み出した宗教現象をいいます。また、神仏習合の風潮を経済的な面からとらえる見方があります。地域社会を発展させるには経済的な基盤を築かなければなりません。平安中期以後の寺院の多くは、寺領荘園に基盤をおいていました。その荘園は農民たちの労力により成立しています。荘園領主がよりよい支配関係を続けるには、農民たちが信仰している神祇を敬うことにありました。(『仏教史概説』日本編。七四頁)。この方策として神仏習合思想が合致しました。つまり、農民を支えている神祇を仏教に融合させて、信仰を核とした支配を強めようとしたのです。祭祀・祭礼の祭の場は、農民の心を統一できる良い機会でした。七面山においても農民や山民の信仰を否定して打ち壊すのではなく、村人たちの自主的な信仰を形成していた神祇をそのまま取り入れることが、村人と闘争を興さず山神の祟りという畏怖もなく、円滑に経済基盤を確立できたのです。七面天女の本地を追求するばあい、この村人の底辺にある祈願、感謝、謝罪、崇敬、帰依、服従という信仰の本質を知ることが大事です。 全国的に七面山信仰が始まったのは、七面山に社殿が造営された戦国時代といいます。一般に一四六七年の「応仁の乱」から一五六八年の織田信長入京、もしくは、一五七三年に室町将軍足利義昭が、信長によって追放されたのを終わりとする時代を戦国時代といいます。この時期は世情不安のときで、庶民の不安を神仏に希求したときに重なります。このときに建てられた社殿(本社)については、享保四(一七一九)年に南部藩の家臣である宇夫方平太夫の代参報告文があります。これにより七面大明神の勧請のされかたが神道的で、もともと神道の神として祭祀されていたことがわかります。「明神」という呼称は本地垂迹の神であることを表しています。つまり、神道的に祀られていた地主神(七面大明神)の社殿を継承したことがわかります。鬼子母尊神・十羅刹女は法華経に説かれている守護神ですから、仏教的に伽藍に勧請されますが、七面大明神は仏説に神名がないので、そこに勧請のされ方に違いができたともいいます。ただし、宮寺の制による神社に付属した寺院という形態を維持しているという見方ができます。 江戸後期になりますと国学者による復古神道の思想が広がります。先駆けとして林羅山(一五八三~一六五七年)、中江藤樹(一六〇八~四八年)、山崎闇斎(一六一八~八二年)、貝原益軒(一六三〇~一七一四年)などの儒者があらわれ、神仏習合を排斥して神儒一致を提唱します。つづいて、国学者として荷田春麿(一六六九~一七三六年)、賀茂馬淵(一六九七~一七六九年)、本居宣長(一七三〇~一八〇一年)、平田篤胤(一七七六~一八四三年)が復古神道を提唱し、庶民に受け入れられ仏教界は大きく変動します。このようなときに、七面山の社殿などが全焼したのです。安永五(一七七六)年一〇月一二日夜のことでした。しかし、七面山信仰は根強いものがあり、安永九(一七八〇)年八月一九日に七面社本宮が再建され、翌年の天明元(一七八一)年九月二七日より身延山にて、日蓮聖人五百遠忌が勤修されます。七面大明神の尊像が神道側の宗教理念の変更から、立像から半跏像にかわったのはこのときといいます。(森宮義雄著『七面大明神のお話』一〇九頁)。そして、天明四(一七八四)年六月に弊殿と拝殿などが再建されます。(「天明五年六月二五日に再建成就」林是恭先生『みのぶ』二〇一三年一月号一〇頁)。拝殿の向拜に彫刻が施されており、表の上段に中国の詩人である林逋(九六七~一〇二八年)が鶴に乗っている姿と、中国前漢の武帝時代(前一五六~前八七年)の黄安(廬敖)という亀に乗った仙人の彫刻があります。この彫刻から道教の仙人思想を見ることができます。七面天女の姿が立像から半跏像にかわったのはなぜか、どのような理由があったのかを知る必要がありましょう。半跏とは結跏趺坐のことで略式のすわり方をいいます。片方の足だけを他方の大腿部の上に置くすわり方。半跏坐・菩薩坐ともいいます。これにより、本地垂迹を神から菩薩へと高めた意識がうかがえます。つまり、神道的な神を法華経の菩薩に向上したといえます。「七面大菩薩」という称号の意図する教学的解釈がうかがえます。積善坊中興の日順上人が勧請された七面天女像も半跏像になっています。 国学者による復古神道の思想が広まると、本地垂迹説に基づく神道説は俗神道として排斥されていきます。さらに、明治時代の神仏分離政策により、仏教的な神像は排除されることになります。このことから、七面山信仰を把握するには、神仏習合による七面大明神信仰の展開をみることが必要です。とくに、明治の廃仏運動や昭和の曼荼羅不敬事件にみられるように、仏教教団が政府により弾圧され、教義の解釈においても彎曲せざるを得ない圧力があります。前述(第五章第一節)しましたように、七面天女の本地についての定義も、表面上において変えざるを得ない弾圧があったからです。 ・本地垂迹説の推移 飛鳥時代 仏教が伝来します 七面山に山岳宗教が入ります 鎌倉時代 仏教的神道説が深まり両部・山王神道が起きます 七面大明神信仰が確立します 江戸後期 国学者による復古神道の思想広がります 七面山の社殿が全焼します(安永五(一七七六)年) 七面天女の尊像が立像から半跏像にかわり「七面大菩薩」と称号されます 民衆は寺院に反感をもち廃仏毀釈の思想が芽生えます ――C 身延山が七面大明神を守護神として祀った―― 室住一妙先生は七面天女の本地は、智静院日孝上人「七面山本地記」の提婆品の龍女説が穏当とのべています。伝説・社会的自然発生の事情・個人の夢告霊感などの事実と、法華経の龍女成仏のなかに吉祥天や弁財天もこめられているという教理を理由としています。『開目抄』の龍女成仏を挙一例諸とし、普賢菩薩においても末法弘通の威力を示すことにより、本地として加勢されたと解されるとし、本地垂迹とはその分々の近いところをいうのであり、絶対の本地は五字七字の南無妙法蓮華経久遠本仏よりほかはない、としています。(室住一妙稿「七面大明神の伝説・縁起とその考証」『七面大明神縁起』所収四三頁)。この室住一妙先生の解釈は岩間湛良先生と同じですが、宮崎英修先生と相違します。また、室住一妙先生の「絶対の本地」は、教学的に論じて本師釈尊の一念三千に帰一されるとしても、私は七面山の信仰史に視点を当ててみて、七面天女の本地は七面山の地神であり、あえて、仏典に神名や菩薩名を求める必要はないと思います。それが、宮崎英修先生や中尾尭先生の、現在の本地解釈の立場と思います。ここで考察すべきことは、なぜに本地を吉祥天や弁才天、提婆龍女にされたのかということです。 そこで、これまでの伝説に「竜神」の存在が、一定して口碑にあったことに注目してみます。「竜神」を祭祀する信仰は水神信仰を意味しています。稻作農民にとっては雨が必要です。穀物の豊穣をもたらす神は水神とされ、その姿は竜神として画かれることが多くみられます。そのため、旱魃がつづくときは竜神に雨乞いの祈祷をし、村落の代表が池の水を持ち帰って、畑にまく風習があります。日本の古語でいいますと、蛇体の水神はメドチ・ミズチといいます。日本人のあいだでは水神が重視され、それが蛇の姿、つまり竜神として観念される場合があり、それが、仏教側からは弁財天となる特徴があります。(和歌森太郎稿「戸隠の修験道」『山岳宗教の成立と展開』所収。二〇四頁)。そして、六老僧古伝の西谷影現の蛇はこの竜神で、提婆品の龍女の説法を聴聞していたと伝えます。提婆品の龍女と七面天女を直接むすびつけたのは、二二世日遠・二六世日暹上人が身延山の勢力を高めたことに連動するといいます。身延山の守護神である七面天女も、中山法華経寺の鬼子母尊神信仰とともに日蓮宗の守護神として確立されます。このとき、曼荼羅に勧請されていた龍女と同格化されます。具体例として、本阿弥光悦の子で京都本法寺、中山法華経寺の本通院日允上人が開眼した画像、今治法華寺の三十番神の下に画かれた鬼子母神と龍女を相対させた画像があります。ここには、七面天女と龍女が同格とされ、その龍女を七面天女に変換したのです。(宮崎英修著『日蓮宗の守護神』一二四頁)。 さて、江戸後期になりますと、神道家は儒教と結びつくようになり、国学の影響をうけて復古神道に移っていきます。しかし、七面山信仰は庶民層に広がり、文化・文政(一八〇四~一八六二年)には更に盛んになっています。そこに、明治の神仏分離令があります。神仏分離は神と仏、神社と寺院など、神道と仏教を区別させることです。正式には神仏判然令といい、慶応四(一八六八)年三月一三日から、明治元(一八六八)年一〇月一八日までに出された太政官布告、神祇官事務局達、太政官達など一連の通達の総称をいいます。この動きは早くからあり、江戸時代の中期後期以後の、儒教や国学など復古運動に伴うものをさします。一般的には明治新政府により出された神仏分離令に基づき、全国的に公的に行われたものをいいます。神仏分離令は仏教排斥を意図したものではなかったと釈明しますが、全国各地で廃仏毀釈運動がおこり、各地の寺院や仏像の焼却や破壊が行なわれました。このとき、「七面大明神」の称号を「七面大天女」とします。これを扇動したのは地方の神官や国学者でした。政府も神道国教化の下準備として、神仏分離政策を行なったわけですが、明治五年三月一四日の神祇省廃止・教部省設置で頓挫し、神仏共同布教体制となったのです。その後、明治憲法に信仰の自由が認められ、第二次世界大戦をへる過程のなかで、もとの「七面大明神」にもどります。本地垂迹の信仰がうすれたことにより、「七面大明神」の神格は、法華経の守護神として強調されます。 提婆品の八歳龍女と七面天女を結んだのは、日蓮聖人が提婆品の龍女成仏を説いたときに、一座のなかにいた人身の七面天女が、日蓮聖人の指示により竜身をあらわし、そして、法華経を守護し身延山を護ると誓った所伝にあります。つまり、文殊師利菩薩の教化をうけ、それまで女人は不成仏とされたのを、不惜身命の覚悟をもったことにより即身成仏し、一座の仏弟子が黙然として信受して、八歳の龍女に尊厳をいだいた経文にあります。このとき聞法している女性こそが、その八歳龍女に違いないと受けとめたのです。すなわち、七面天女の本地を提婆品の龍女とするのは、法華経の女人成仏の教えによるものです。法華経の信者にとっては、最も身近に感じることができたのではないでしょうか。現在は古来からの伝説の竜神を七面天女と称し、弁財天の尊像をつくって七面大明神と呼称しているといいます。(中里日応上人前掲書)。また、この竜神を吉祥天とした理由は、吉祥天の父親が徳叉伽竜王であることから、本地を吉祥天と考えたのです。『金光明経』に説かれたように、吉祥天と弁財天も同じく福徳と蓄財の神ですが、とくに、弁財天は吉祥天とは違い水神の神格をもっています。ゆえに、一の池の池畔に敬慎院が建立されました。七面山はこのような過去の信仰の歴史が、現在も鳥居として残り本社という呼称をもち、そして、二の池に弁財天を祀って現在に到っているのです。さきに、高野山と比叡山における古代信仰にふれました。高野山には弁天岳を水源とした水分信仰があり、山神である丹生津比売神と高野大明神(狩場明神)を祀っていました。最澄は比叡山延暦寺の地主神として、大山咋の神(日吉山王権現)を祀っています。比叡山の王という意味で山王とも呼ばれ、比叡山の守護神となっています。七面山においては古代信仰として、一の池に祠を建て竜神を祀ってきたことが、これまで調べたことでわかりました。「池の大神」や吉祥天、弁才天女、八歳龍女などと名称はかわっても、七面山の一の池を中心とした竜神信仰は一貫として継承されてきました。宮崎英修先生が提婆品の龍女と七面天女は別体とのべたように、現代における本地説は出発点にもどり、原初の地主神そのものになったと思われます。旧雄龍願満弁天堂に祀られた弁財天女は、相模江ノ島の弁財天といいます。尊像は立像にて宝珠を持ち、絵図には竜神を従えた尊容となっています。 なを、七面天女の本地について図像的による解明が研究されています。(松本かつよ稿「七面大明神の図像的研究に関する一考察」『立正大学大学院年報』二二号所収)。七面天女が出現された場面を描いた図面から考察する方法と、七面天女の尊像から年次をおって考察する方法です。日蓮聖人の画像として浄永寺の竜蛇観と、七面天女の持ち物である鑰に注目されています。森宮義雄氏が編集された身延・七面山敬慎院発行の『七面山』によりますと、養珠夫人が奉持された立像の「南無八歳龍女神尊像」の写真(二七頁)が掲載されています。七面天女との異同はわかりませんが、女人として提婆品の龍女成仏に因んで信仰されていたことがわかります。また、七面天女の尊像は立像と座像があります。立像は両足で立っている像のことで、座像は椅子や台に腰を掛け、脚を下ろして座った姿勢をいいます。この姿勢の像を椅像(いぞう)・椅座(いざ)といい、椅坐、倚座、倚坐とも書きます。この椅座にも 善跏椅座(ぜんかいざ)―――――両脚を下ろして座った姿像 半跏椅座像(はんかいざ)――――下ろした左脚の膝に、右足首を乗せて座った姿像 交脚椅座像(こうきゃくいざ)――左右の脛を交差させて座った姿像 があります。本書には、ほかに、積善坊の半跏椅座像(二九頁)、浄永寺の善跏椅座(三八頁)、妙石坊の立像(三五頁)が掲載されています。同じく『七面大明神のお話』に角田山妙高寺の立像(一二六頁)の写真が掲載されています。森宮義雄氏は『七面大明神のお話』(一二七頁)に、七面天女の像が立像から椅座像、そして、本社の半跏像へ変遷していることを指摘され、神仏習合思想が影響しているとのべていました。 これにくわえて、身延除歴処分を受けた守慎院日唱上人が、「七面邪神説」を唱えたといわれることについて、この真偽はどうだったのでしょうか。唱師は七面本社焼失の翌一〇月一二日に、西谷檀林能化に「七面社殿焼失は邪神奉祀の故」と邪神説を提起します。ただし、江戸奉行所で行われた取り調べで、唱師は「七面明神邪正の義、一言も論ぜず」と返答しています。唱師が返答に窮したのは曼荼羅書式の異例にありました。とくに、身延歴代聖人の列記の仕方にあり、そこから唱師を不受不施派の邪義を唱えていると責めていきます。問題はここにあったと思われます。事件後に唱師の曼荼羅は取り集め麓坊にて焼却処分しています。(『身延山史』二二〇頁)。麓坊の開基である寶聚院日傳上人が、身延流・積善坊流祈祷の祖であり、七面山修行の祖であることから、麓坊にて焚焼をされたのではないかといいます。焼却の理由のなかに列聖御代々の先師名が異流であると、一老円解院日盛上人が歴代譜のなかに記載しています。身延山に一軸だけ所蔵されている曼荼羅には、七面大明神が勧請されているといいます。(林是晋著『身延山久遠寺史研究』三〇四頁)。檀林側は唱師はわざと「七面明神の尊名を細く書き末座に置いていると主張しています。(『宗全』第二二巻四二頁)。唱師の曼荼羅は他に『邪流不受不施根起聞書対決本録』(中澤章編輯)に一幅と、札幌の光徳寺などに格護されています。岡教邃先生の『身延貫主日唱上人の不受不施事件』(『大崎学報』第二六号四三頁)に、唱師は不受不施邪流の汚名を負ったと擁護する意見や、宮崎英修先生の『日蓮宗の人々』「除歴された日唱上人」には、幕府行政の犠牲となったとして、唱師を池上日樹上人のように復歴を願う意見が出されています。身延山が雑乱信仰に大きく変わったのは、天文法難や安土宗論のあとのことで、とりわけ重・乾・遠三師の受派が、関東諸山の不受派の諸師を追放してからのことであると指摘されています。(菅野憲道稿「武田氏の駿河侵攻と冨士門流」『興風』一七号二九頁)。林是晋先生は「日唱の身延除歴事件について」(『棲神』四九号五二頁)に、身延貫主職の後任問題・本院と西谷檀林の関係も背後に潜在されていたとのべています。唱師を除歴したのは同じ中谷台出身の日豊上人と考えられるとのべています。檀林の日遵上人は三宅島に遠島されますが、四〇年後の文政一〇(一八二七)年閏六月二一日に、死後赦免され檀林の化主に加歴されていることに対し、唱師がいまだに不受不施邪流として、身延・飯高檀林を除歴されたままであると指摘されています。七面本社焼失と唱師の邪神説は、大きな課題を残したのです。 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