236.身延・七面山への参詣路      高橋俊隆

◆第四節 身延・七面山への参詣路

〇身延への路

 身延山にいたる道筋として、興津街道・岩淵街道・甲府街道・信州街道などがあり情報の道と言われます。富士川にそって遡上する道は東海道から甲州にいたる街道となっています。甲府と冨士を繋ぐ重要な交易路ですので、食料などの生産物や生活や業務の必需品を運送するだけではなく、情報の伝達路にもなっていました。この要所に所領を占めていたのが南部一族であり、波木井氏の管轄されていたところです。身延山は辺鄙なところとはいっても常に情報が届けられる地の利があったのです。庵室に籠山する弟子が多かったことは、相当量の情報を送受されていた証左といえましょう。しかし、鎌倉時代の身延への路は興津川沿いの村落を結ぶ細い道といわれます。戦国時代になり武田信玄が駿河進攻のため、軍用路として整備されました。江戸初期になり甲州街道から身延山参詣道として整備されます。江戸中期には幕府甲府勤番が設置され、街道として往来が増えました。通称に「みのぶ道」「みのぶ街道」と言われ、あわせて東海道から身延山に入るコースも、望月真澄先生の『御宝物で知る身延山の歴史』(七八頁)に紹介されています。

 府中―市川大門―帯那―割石峠―岩間―岩崎―下山―身延山

 府中―市川大門―黒沢―割石峠―岩間―岩崎―下山―身延山

府中―市川大門―鰍沢―砥坂――岩間―岩崎―下山―身延山

  興津―――宍原――万沢――南部――身延山(興津中町に「身延山道」の石碑と題目碑があります)

  岩淵―――松野――万沢――南部――身延山

  由比―――内房――万沢――南部――身延山

慶長一七(一六一二)年に、「水運の父」と呼ばれた角倉了以(一五五四~一六一八年)によって富士川水運が開かれますと、舟を利用して身延参拝をする信徒がふえました。徳川家康は慶長一二(一六〇七)年に、京都の商人である角倉了以に富士川の水路を造らせます。角倉了以は岡山より船頭八人を呼び、四名ずと鰍沢と黒沢に住まわせ、五年をかけて鰍沢から静岡の岩淵までの、約七二㌔の水路を完成させます。鰍沢・青柳・黒沢は「三河岸」とよばれました。高瀬舟にのり五時間で川を下ったといいます。また、商化漕運の制を定めます。運賃は人馬ともに京銭二〇文、冨士道も同じ参詣の歩者は五文となっています。(『南部町史』五三六頁)。このような東海道と甲州街道を結ぶ道を河内路・身延道中・身延往還といいました。このように、道路や富士川を利用して身延山に参詣していたのです。(林是晋著『身延山久遠寺史研究』二一四頁)。参詣記や紀行文にみられる参詣の順路については、望月真澄先生の『近世日蓮宗の祖師信仰と守護神信仰』(一三六頁)に詳細にのべられています。甲府から身延へ参詣するには、甲府から鰍沢まで歩き、昌福寺や小室山を参拝し、鰍沢から船で富士川の急流を下って下山まで行き、そこから山づたいに身延山を参詣するのが、一つのコースになっていました。身延山から帰るときは大野の本遠寺を参拝し、そこから船に乗って岩淵までいき、東海道をまわって江戸に上るというのが一般的だったといいます。一日の道程を船でいけば二刻(四時間)ほどの短い時間といいますので、早くて利便性が良かったのですが、富士川の急流に阻まれ転覆する危険性もありました。川の途中に番所があり船が沈んで身元不明人出さないため、住所と氏名をたずねられたといいます。(市川智康著『日蓮聖人の歩まれた道』一七八頁)。日蓮聖人のとうじも川船があり、豪雨により川が氾濫し川止めになったり、道路も土砂くずれで通行できなかったことが知られています。身延へ向かう途中で引き返すこともあったのです。(『千日尼御前御返事』一五四六頁)。現在でも降雨や強風にて交通不能になるほどですから、日蓮聖人のとうじにあっては信徒の往来や食料の運搬も途絶えてしまいます。弘安元年はとくに長雨がひどかったようです。(『種種物御消息』一五三一頁。『上野殿御返事』一五七二頁)。夏の雨と、そして、冬の降雪が交通を遮断したのです。(『兵衛志殿御返事』一六〇五頁)。その影響は食料や衣料などの物資が滞ることになります。弟子や信徒たちは、身延の草庵にいたる山路を常に補修していたと思います。

深草の元政上人(一六二三~一六六八年)の「身延行記」は、万治二(一六五九)年に八〇才になる母を伴っての身延紀行を綴ったものです。元政上人は能書家で詩文や和歌に長じていたので、芭蕉や新井白石から高い評価を受けました。母は篤信の法華信者であったので、自身の病弱もあって妙顕寺の第一六世鷲峯院日豊上人について得度します。日豊上人は身延中興心性院日遠上人の高弟です。母の手を引き身延山に詣でた孝養の元政上人は、母を送った翌年(寛文八年)の二月一八日、四六歳の生涯を閉じました。この「身延行記」により、とうじの身延参詣の道中がわかります。また、安永九(一七八〇)年の『身延山ひとり案内』に、東海道から身延山の総門までの道のり、木曾街道からの道のりが記載されています。(北沢光昭稿「みのぶ山ひとり案内」『大崎学報』一四九号所収。一一一頁)。

〇七面山への参詣路

身延山の三門から七面山へのルートに三通りあります。(望月真澄著『身延山信仰の形成と伝播』二七一頁。『近世日蓮宗の祖師信仰と守護神信仰』八七頁)。

一  三門―丈六堂―ー三光堂―奥の院―追分感井坊

二  三門―御廟所―妙石坊―願滿稲荷―追分感井坊

三  三門―妙石坊―――松寿庵――――追分感井坊

『身延鑑』(一五七頁)に草庵から身延川をのぼって七面山に行く道中を、田代六老僧畑・遄塞ががけ・完(しし)の都・沼田の嶺・万部堂・長峰・赤沢・春気川・一の鳥居までは三里とあります。ここから七面山へ登詣します。現在の信行道場の前の通りを七面山道といい、洗心洞のトンネルをぬけて妙石坊に進みます。江戸時代は祖師堂の裏の三光堂から奥の院をへて追分にいたる道もあり、七面山への参詣道は二つのルートがありました。両方ともに追分から宗説坊をへて赤沢に至り、ここから角瀬に下り白糸の滝を拝して、五〇丁の険しい山を登ります。竹下宣深編『日蓮聖人霊跡宝鑑』(一一三頁)に、七面山の参詣道筋を、妙石坊―高座石―洗足満願社―雨乞の滝―松樹庵―千本杉―鹿都―追分―十万部寺―赤沢妙福寺―白糸の滝―羽衣橋―神力坊―中適坊―晴雲坊を載せています。

一は、身延山から思親閣に登詣し、そのあと、追分から赤沢村をへて七面山を参詣します。また、前日に思親閣に登詣し身延山の宿坊などに参籠された方は、宿坊から出発し高座石のある妙石坊に向かいます。妙石坊は日逢上人が文禄年間に開創されました。『身延山図経』に七面山第一の華表(めじるしの標柱・鳥居)とあります。ここが七面山への入り口ともいえます。(「身延の伝説」(『身延町誌』一一二一頁)。ここより二と三の二つのルートがあります。

二は、北沢の橋をわたり急坂を登れば、洗足願滿社(願滿稲荷社)があります。左に八丁ほど行ったところです。この社の創立の年代は不明といいます。日蓮聖人が竜王(たつおう)淡路守正義という武士を訪ねたときに、御足を洗ってから説法をなされました。そのときに竜王氏所持の守護神(観世音菩薩)に願滿大菩薩と名付けられました。それいらい願滿稲荷とよび、この土地を洗足と呼ぶようになったといいます。(『身延山・七面山参拝案内』五五頁)。竜王淡路守はこの地の住人といいます。(『身延の枝折』昭和一六年)。

三は、妙石坊の右の裏手から一〇丁ほどの、日蓮聖人が袈裟をかけたという松のある松樹庵にむかいます。七面山道といい日蓮聖人が休憩されたところです。この道をさらに登り千本杉を抜け、三〇丁の追分で左にまがり感井(かんせい)坊(道智庵)につきます。追分感井坊に日蓮聖人が、明神の夢をご覧になって湧き出たという霊泉がありました。また、身延山三一世の一圓院日脱上人が、貞享四(一六八七)年三月一九日午の刻に霊夢を感じて湧き出でた神水ともいいます。(『鷲の御山』一一一頁)。ここから七面山・奥之院思親閣・身延山山門へと三本の道がわかれているので追分といいます。登りはここまでです。ここから二〇丁歩き十万部寺へ向かいます。ここには二人の荒神が住んでいました。手に団扇を持った天狗ともいいます。日蓮聖人は妙石坊にて説法のおりに、二人を教化され山を守護するように命じられます。のちに、日朗上人が法華経守護の善神として妙太郎と法太郎と名づけられ祭祀されます。霊験があらたかであるようにと、法華経十万部の読誦を発願されました。この由来により十万部寺とよばれ、七面山登詣の守り神として、「妙法二神」の道場となりました。妙石坊・七面山中適坊・小室妙法寺にも祀られています。この言い伝えにより七面山の開山は日朗上人とされました。しかし、この永仁五(一二九七)年九月一九日のとき、日朗上人は鎌倉に在住されており、波木井氏と同道したとはいえないとします。(『身延山史』三八頁)。波木井氏は同年九月二五日に七六歳にて逝去されています。ここから二〇丁歩きますと、文化年間(一八〇四~一八一八年)に妙宣尼が、慈父の宗説(そうせつ)の志願により建てた宗説坊につきます。そして、一〇丁ほどにある妙福寺に向かいます。もとは妙福庵といい、七面山の修験道が盛んであったころは、山伏などの修行者の集まるところで、真言宗の寺院でした。のちに、その管理下であった七面山と六ヶ坊とともに日蓮宗に改宗しました。この由緒により七面山の鍵取り役を任じられています。(『身延山・七面山参拝案内』一〇〇頁)。ここから、七面山麓の赤沢村に向かいます。宗説坊から赤沢まで二〇丁です。赤沢村のふもとに流れるのが春木川で、ここにかかる橋を羽衣橋、また、万年橋といいます。(『鷲の御山』一一二頁)。久遠寺の三門(昭和期と推定される丁石は三門を起点として菩提梯が一丁目となっています)から敬慎院までは六里二五丁(二四㌔)といわれていますが、現在は二二㌔ほどの距離に短縮されました。

七面山の麓から山頂に登詣するには、地元で南街道・北街道とよばれる二つの道があります。一般的に表参道と裏参道とよばれます。七面山の信仰にはご来光信仰・龍神信仰、そして、山頂にある敬慎院に「身延山の守護神、末法惣鎮守七面大明神」を祀る七面天女信仰があります。おもに蓄財福徳の現世利益と、因縁(罪障)消滅・心願成就を願う登詣修行が続いています。七つの池を神奈備とした竜神信仰(水神信仰)は、古来から雨乞いのため一の池の水をくんで各地に運んでいます。山上は堂宇ともに飛び地として身延山の所有で、行政区画上は身延町に編入されていますが、その山腹一帯は早川町になります。『身延山略譜』の久遠寺二四世日要上人の条に、「七面山別当は法蔵院日照、赤沢妙福寺歴代」とあり、七面山と妙福寺、そして、身延山と妙福寺に関わる土地所有の関係と古来の信仰形態がうかがえます。また、二七世日境上人の慶安四(一六五一)年に、山麓の赤沢と雨畑の両村が山境を争ったことを契機として、行政的にも身延山の支配下に入っていったといいます。(林是晋著『身延山久遠寺史研究』一一五頁)。これは、身延山の信仰勢力が七面山を掌握し、七面山ならびに近隣の村落に経済的利益をもたらしたとうかがえます。最近は白糸の滝と春木川にかかる羽衣橋の近くの、七面山登拝口から登詣する表参道が一般的になりました。白糸の滝(五色滝ともいいます。『鷲の御山』一一三頁。『身延山図経』には梵音滝とあります)は、徳川家康の側室、養珠夫人お万の方(六八歳)が水垢離をされたところです。正保元(一六四四)年に養珠夫人が身延山を参詣し、七面山に登詣されようとします。衆僧から女人禁制の清規を伝え聞き、この滝にて七日間の水行をされます。そして、始めての女人として七面山に登詣されました。それまで女人禁制の霊山であったのを解禁されたのです。その日は快晴でことに山は静かであったといいます(『本化別頭仏祖統紀』)。これにより、女人である七面天女の霊験を求めて、多くの人々が登詣するようになりました。今も「阿万様の滝」と呼び慕われています。その法勲を讃えて養珠夫人の銅像が建てられました。養珠夫人は紀伊頼宣・水戸家頼房の二人の生母となった人です。大野山の本遠寺を建立されています。白糸の滝より川上に白糸の滝とは対照的な力強い滝があり、ここに、昭和二一年に雄滝弁天堂が建てられています。古くは日朗上人の修行の場といいます。昔、土地の人たちが弁財天女を祀った祠がありましたが、いつしか、風雨のため朽ちはてたのを、中山法華経寺の奥之院中興である東日教上人が、ここで断食の修行をされ弁財天女を感得され復興されたものです。現在、正中山奥之院が日蓮宗に復帰したのを機に日教教会となりました。

表参道を登りはじめて二丁目に神力坊があります。もとは登山口にありましたが、明治の中頃に崖崩れがあり、今のところに移しました。本堂には日蓮聖人の尊像と養珠夫人の木造が安置されています。登山道をはさんだ向かいに伽藍坊大善神が安置されています。伽藍坊大善神の木造は岩の上に腰をおろした老爺の姿で、役行者を思わせる七面山一帯の守護神といいます。日蓮聖人が身延山に入られる前の、修験者の山であったことがうかがえます。一三丁目に肝心坊、二三丁目に中適坊、三六丁目に晴雲坊、四〇丁目をこえたところに無縁堂があり、四六丁目に和光門、鐘楼、随身門があります。ここからは富士山・身延山・鷹取山の姿が望めます。そして、七面山本社・敬慎院があります。久遠寺の境内から西南西へ直線で約七㌔、思親閣からは西南へ直線で約八㌔です。道程にして久遠寺から西方五里二〇余丁にて七面山の頂きにのぼります。約二〇㌔の距離になります。久遠寺の山門から敬慎院の拝殿までの山道は約二二㌔です。身延山と七面山は近い距離にあることがわかります。社殿は標高一九三二㍍、境内地の最南端にある国土地理院の三角点は標高一九八二㍍です。

七面山本社は東向きに富士山に向かって建てられ、七面造りという様式をもっています。敬慎院という本社の右手に「池大神宮」があり、池を守るために建てられています。ここが、七面山が開創されるいぜんから祭祀されていた七面山信仰の起源といいます。本社の回廊をくぐりますと、高山には珍しく大きな「一の池」があります。近くに小さな「二の池」があり、影嚮石、「奥之院」があります。影嚮石は日朗上人の前に竜神が影現されたところといい(『身延の枝折』昭和一六年)、巨石信仰と相まって七面大明神があらわれた霊石として有名です。近くにある「ご神木」はアララギの大木で、かつて杣人が伐採しようとして斧をいれたところ、樹皮より血が流れ出たので、この木には神が棲んでいるとして伐ることをやめました。このときから「ご神木」とよばれました。お池は「無熱池」とよばれます。山上の敬慎院に食料などを運び上げる強力という人達がいます。一日に何往復もしていました。背負子に頭を超す荷物を積み、途中で休むときは杖を腰に当てて座ることはありません。早川の赤沢と高住の人達が七面山に登詣する信者のために、荷物を担ぎ奉仕してきました。夏の暑いときも冬の積雪が腰を上まわる厳寒の季節にもかわらず登詣し、敬慎院の荷物を運び給仕されるのです。過去の修験者の姿をここに見るような気がします。そういう強力さんも昭和四十年代ころには数人になりました。この強力さんの存在は七面山において修行した験者の末裔と思います。七面山から下山するときは、かつては裏参道とよばれた道が利用されており、奥之院の裏から南アルプスの山々を望みながら、高住をへて角瀬におります。奥の院から一二丁下がった三〇丁目に明浄坊があります。さらに一三丁下がると栃之木安住坊につきます。ここには日朗上人がお手植えになったという栃の木があります。山梨県の指定天然記念物になっています。ここから杉並木のなかを下がっていくと神通坊があり角瀬です。現在は表参道から登詣し同じ表参道から下山されるようになりました。

前述しましたように、明治維新により神仏混沌廃止・廃仏毀釈が行われたとき、寺院の仏像は廃棄され神像は回収されました。このとき、神道側からの攻撃をさけるため、いっとき七面大明神の額をはずし、称号を七面天女とあらため、七面山の守護神とすることにより、廃仏毀釈の危害に備えたのです。