237.身延入山の心境         高橋俊隆

◆◆第 西谷草庵入居

◆第節 身延入山の心境

〇草案仮住まいの意図

 日蓮聖人が鎌倉を去り身延山に向かった最大の動機は、前にものべたように法華経の教えが容認されなかったからです。日蓮聖人は最後の力を振り絞って諫暁されました。三諫不容の結果は想定の中にあったとしても、強い衝撃を受けたと思われます。その上で、さらに身延入山の状況について考えてみますと、次のことが挙げられます。

  三諫の責務を果たして「仏法中怨」の誡責を逃れることができた

  幕府は日蓮聖人の諌言を無視し真言僧に蒙古調伏を祈らせた

  「日本国にそこばく(若干)もてあつかう(持て扱う)て候身」『波木井殿御報』と感じられた

  鎌倉にいる意義がなく更なる迫害を感じた 

  「賢人の習い」として山林に身を隠すことにされた

  「存する旨」があり新たな弘通の道に進もうと発起された

  佐渡流罪は心を傷め身体を痛め疲れ果てさせていた

  一時のあいだ身延山に身を休め流浪する覚悟であった

  『法華取要抄』に本門三秘をのべ近隣の教化に出られた

  草庵が完成し謫居された

  世間は賢人と同じように身延山に隠棲されたと思っ

  身延山の環境と生活は苦しかったが安息の地であった 

  次第に弟子や信徒が往来するようになった

身延山は法華経の行者の住処であるから「霊山浄土」と認識された

 以上のことが考えられます。鎌倉を去らなければならない必然性があったこと。日興上人と波木井氏の意志を汲み身延山に向かったこと。身延山は一時の身心を癒やす目的地であったと思われます。ですから、住まいは本格的なものではなく西谷に仮住まいの草庵を作ってもらったのです。『庵室修復書』に、

去文永十一年六月十七日に、この山のなかに、き(木)をうちきりて、かりそめにあじち(庵室)をつくりて候しが、(中略)今年は十二のはしら(柱)四方にかふべ(頭)をな(投)げ」(一四一一頁)

と、簡素な建て方だったのです。しかし、身延山に住むことによって身心の安息の地となります。世間の風評は賢人のように隠棲されたと思われたことにより、身延山から出ることができなくなった。そして、霊山浄土に似た法華経の聖地と感じはじめたと思われます。室住一妙先生は幕府から遠からず近からずという場所として、身延山を選ばれたとのべています。不遠の理由は国の安危に関しての情報を得るためです。不近の理由は世間の卑しい感情を刺激しないことと、為政者に深い反省を促すためとのべています。また、別当推挙などの誘惑に惑わせられないためとのべています。また、泣く泣く逐われるように身延山に逃げいった、惨めさがあったとものべています。(『純粋宗学を求めて』三九四頁)。『本化別頭仏祖統紀』には、平頼綱より城門の西に新たに愛染堂を建立し、庄田一千町(三百万坪)の収益を上納するので、自分に従って他宗批判をやめ護国を祈るようにと命じられます。もし、これに従っていたならば、現在の極楽寺や建長寺のように大伽藍が残っていたかもしれません。しかし、周知のように鎌倉には妙本寺や光則寺など、宗門の寺院が建立されています。また、清澄寺にも招かれていますが、これも断られています。清澄には東条氏に付随した勢力があること、清澄寺の長老支配が蔓延していたことなどが理由と思います。日蓮聖人は何の柵も規制もない、純粋に法華経を読誦できる場所を選ばれたのです。

さて、身延に着き波木井氏の館に案内された日蓮聖人は、旅の疲れを回復するため数日をここに(円実寺が波木井氏の旧館といわれます)過ごされます。このときに、波木井実長氏は身延の山中に、一寺を建立することを日蓮聖人に申し出ます。『波木井殿御書』古来より偽書といわれ、諸御書の自叙伝を抜粋した傾向がみられますが、日蓮聖人は波木井氏との会見をつぎのようにのべています。

「波木井殿に対面有しかば大に悦び、今生は実長が身に及程は見つぎ奉るべし。後生をば聖人助け給へ、と契りし事はただごととも覚えず。偏に慈父悲母の波木井殿の身に入かはり、日蓮をば哀れみ給歟。其後身延山へ分入て山中に居し、法華経を昼夜読誦し奉り候へば」(一九三〇頁)

波木井実長が熱心に日蓮聖人を身延に招いていたことがわかります。日蓮聖人は波木井氏の熱意に感謝されたことでしょう。このときは身延を定住の地とはされていませんが、波木井氏の真心は伝わったのです。しかし、当初、日蓮聖人は辞退されています。これは前述しましたように、日蓮聖人の内心には、諸国を行脚しながら布教すること、また、蒙古が押し寄せる九州への巡化も考えられたと思います。もはや、佐渡流罪を赦免された身の上は罪人ではなかったからです。『法蓮鈔』(九五三頁)には赦免になったけれど、鎌倉には身を休め布教を行う処がないとのべ、『八幡宮造営事』(一八六七頁)には二九年にわたる日々の論義、月々の難、そして、両度の流罪により身は疲れ心も傷んだとのべています。その結果、『下山御消息』(一三三五頁)に賢人の教えには三度び諫暁し、それでも聞き入れられないときは去れ、という本文に準じ、且く身延の山中をその場に選び罷入ったのです。日蓮聖人は賢人の故事に習い鎌倉を去ることが、法華経の行者の次に進む道と決断されたのです。その後のことは決まっていなかったのです。しかし、人々の見る目は違っていました。身延に入山された日蓮聖人を『報恩抄送文』には、

「自身は内心は存ぜずといへども、人目には遁世のやうに見えて候へば、なにとなく此山を出ず候」(一二五〇頁)

と、世間の人々は遁世したと思ったのです。しかし、日蓮聖人は遁世と思っていたのでしょうか。日蓮聖人は比叡山にて勉学されていますので、最澄を開祖と仰ぐ天台僧としての自覚をもっています。復古天台を標榜し、結果、最澄が説く末法の法華弘通は本化上行菩薩に到達されることを考えますと、内心は最澄に直結した門弟という意識をもっていたと思います。つまり、内心においては三国四師の意識は消えなかったはずです。内心においては本師釈尊との師資相承の血脈は途切れてはいないのです。そのあらわれが、内心には遁世と思っていないが他人はそのように見ているという、『報恩抄送文』の言葉になったと思います。庶民の日蓮聖人にたいする感覚は、この現実の世界に絶望し、世捨て人となって身延の山中に遁世されたと思った人もいたでしょう。しかし、ここにのべられた遁世とは、官僧から遁世僧となったという意味合いとか、世間の煩わしさから捨離し世捨て人のように隠棲したという意味合いではないように思います。日蓮聖人の教団は遁世教団とみられても(松尾剛次著『中世都市鎌倉の風景』八四頁)、日蓮聖人は遁世僧として扱われることを否定したと思います。世間が日蓮聖人のことを遁世されたという意味合いは、日蓮聖人は賢人と同じ道を歩まれたと解釈している、と日蓮聖人は受けとめたと思います。ゆえに、「なにとなく此山を出ず候」という言葉になると思います。世捨て人になるならば、これまでの国家諫暁や法華最勝の弘通を放棄することになりましょう。賢人のように山林にはいるが、法華弘通の活動はやめないという信念が、この言葉から窺えます。

鎌倉を退出され身延に着いた日蓮聖人の心中は、これからの為すべきことを実現する場を探索されています。身延はその場を求めるための通過点で、内心はまだ流浪中でした。北条氏から身を護ることなどを考え、波木井氏の一寺建立の誠意にたいし、耐用年数に限りのある庵室の用意をしていただいたと思います。これは、「世を遁れ道を進めん」という、外見には遁世にみえても、日蓮聖人の内心に「存する旨有りし」とのべた、内面に決意されていたことがあったのです。すなわち、『四条金吾殿御返事』に、次のように述べています。

「同十一年の春の比、赦免せられて鎌倉に帰り上りけむ。倩事(つらつらこと)の情を案ずるに、今は我身に過あらじ。或は命に及ばんとし、弘長には伊豆国、文永には佐渡の島、諌暁再三に及べば留難重畳せり。仏法中怨の誡責をも身にははや免れぬらん。然るに今山林に世を遁れ、道を進んと思しに、人々の語様々なりしかども、旁(かたがた)存ずる旨ありしに依て、当国当山に入て已に七年の春秋を送る」(一八〇〇頁)

と、内面に秘めた思いがあったのです。

田中智学居士は「世を遁れ」というのは形式であり、その内容は「道を進めん」というところにあるとのべています。その道を進めるところに「存ずる旨」があるのであるから、身延入山は遁世ではないとします。そして、その存旨は建長五年の立教開宗いらい一貫していたことであり、「結前生後」の教化であるとのべています。(『大国聖日蓮上人』四六四頁)。つまり、日蓮聖人の真意は不断の法華弘通にあったということです。鎌倉退出はその場を求める旅であったことになります。日蓮聖人は身延の山林に一時のあいだ滞在し、そののちに「道を進んと思しに」と、身延以外の別なところに進むことを考えていたと受け取れます。世間には懺悔滅罪のため身延山に入ったとか、折伏から摂受になったとか、さまざまな批判があったと思います。また、弟子や信徒のなかには、身延以外の地を勧誘されたのでしょう。山川智応先生は三大誓願弘法の方法を、一転するときであったとのべています。交通不便で弟子信徒と隔絶し過ぎないところ、しかも、下界から離れた深山を探されていたとのべています。(山川智応著『日蓮聖人伝十講』下巻五四九頁)。山川智応先生は五つの理由をあげています。「1、加賀法印に祈雨を命じたことは、なにを意味していたか。聖人としての出処進退を正さなければならなかった。2、自行のため弟子のため信徒に渇仰の情をもたせるため。3、名誉利達を離れ行者の生活をおくるため。4、身延山にて自身の行動を書き残せた。5、折伏を拡大し延長された」。いづれも、大衆にむけて弘教する意識は失わなかったという方向性と、その場は身延山に合致したとのべています。高木豊先生は為政者との志向のギヤップに挫折感をもち、流人に擬える孤独感を抱いて身延山に入り、孤高の隠者として始まったとのべています。三諫までは政治権力者によって衆生救済を目指していたが、それが打ち砕かれたことにより身延山に向かったとのべ、つぎに日蓮聖人が行おうとされたことは、弟子の育成と信徒の教化にあったとのべています。つまり、為政者から個々の弟子信徒に視線が変わったことになります。ここに、身延山を結ぶ弟子たちの教化活動がはじまり、初期日蓮宗教団が構成されたとのべています。(高木豊著『日蓮とその門弟』一九六頁)。一般的な見方をしますと、日蓮聖人は全国を行脚して法華経の下種をされるという考えと、外敵の権威がおよばない山中にて成し遂げたいことがある、という考えをもっていたと思われます。前者は日蓮聖人が内に秘めたことになります。ですから、波木井氏にたいし、心にかなうところが見つかるまでは、身延永住を約束できないと正直な心からのべたと思います。しかし、波木井氏の切実な願いを無碍に断ることもできなかったのでしょう。草庵の仮拵えは日蓮聖人が波木井氏の熱意に答えた最上のことだったと思います。

では、鎌倉から甲斐身延に歩み、さらに、どこに向かって歩まれようとされたのでしょうか。平安時代の持経者や聖のように峻険な山、深谷の川を覆う山岳を求めたのでしょうか。法華経の行者を自認されている日蓮聖人も、信濃国の険阻な山容のなかに晩年の安住の地を求めようとされたのでしょうか。(中尾尭著『日蓮』一八三頁)。一遍は四天王寺・高野山をへて、六月に熊野三山へ参詣しています。熊野権現から賦算という阿弥陀仏を印刷した紙札を配って全国を巡業し、六十万人に念仏の教えを勧めるようにと託宣を受けます。(金沢文庫『蒙古襲来と鎌倉仏教』三一頁)。日蓮聖人もこのような布教を考えたのでしょうか。あるいは、前述した冨士山岳信仰者のように、冨士周辺に戒壇建立の地を模索されたのでしょうか。波木井氏の邸宅に休まれて『法華取要抄』を完成されます。ここには積極的に法華経を弘通しようとする意志が窺えます。すなわち、

「出現上行等聖人 本門三法門建立之 一四天四海一同妙法蓮華経広宣流布無疑者歟」(八一八頁)

とのべられた文面には、「本門戒壇」を建立する意志がみえます。「存する旨」とはこのことなのでしょうか。そうしますと、草庵完成までの期間を近隣巡化されたのは、戒壇を建立する地を探索されたと見ることができましょう。しかし、日興上人の『冨士一跡門徒存知事』の中の「本門寺を建つ可き在所の事」に、「先師何国何所不被定置之」(先師何の国、何の所とも之を定め置かれず)とのべています。つまり、日蓮聖人は戒壇としての機能をもつ本門寺の建立場所については、どこの国のどの場所という指定をされていないということです。本門戒壇建立の願望は未完のまま終わったのでしょうか。そこで、日興上人は身延山ではなく、四神相応の王城の勝地として駿河の冨士山を選ばれました。(『日興上人全集』三〇九頁)。日蓮聖人が身延山に歩みを向けた理由の一つに、日興上人の勧めがあったと思います。日興上人は元より冨士一帯を教化活動されています。大井庄の鰍沢で誕生していますので、ここには日興上人の血縁関係者が多く居住していました。日興上人は波木井実長氏のことを、最初発心の弟子であるとのべています。この因縁によって実長氏は九ヶ年の間、帰依されたとのべています。(「冨士一跡門徒存知事」『冨士宗学要集』第一巻。五二頁)。つまり、日興上人は身延周辺にも信者基盤を築いていたのです。また、日蓮聖人に随従して佐渡に入島していますので、『開目抄』『観心本尊抄』の執筆を影ながら支えていました。本化の教えを直授された自覚は大きかったと思います。身延に同行して庵室完成にいたる間、日蓮聖人に随従されて近隣の布教をされています。身延定住に拘らず他の場所を探索されたのは、日興上人の影響があったと考えられましょう。また、建治三(一二七七)年に南部町内船に居を構えた、四条金吾の強い要請があったといいます。(石川修道著『国難に立ち向かった中世の仏教者』二三九頁)。さらに、蒙古襲来の具現性が大きな影響をもっていたことを指摘できます。『撰時抄』に、

前代未聞の大闘諍一閻浮提に起るべし。其時日月所照の四天下の一切衆生、或は国ををしみ、或は身ををしむゆへに、一切の仏菩薩にいのり(祈)をかくともしるし(験)なくば、彼のにくみ(憎)つる一の小僧を信て、無量の大僧等・八万の大王等・一切の万民、皆頭を地につけ掌を合て一同に南無妙法蓮華経ととなうべし。例せば神力品の十神力の時、十方世界の一切衆生一人もなく、娑婆世界に向て大音声をはなちて、南無釈迦牟尼仏南無釈迦牟尼仏、南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経と一同にさけびしがごとし」(一〇〇八頁)

とのべた、この「前代未聞の大闘諍」は、未来の出来事であったとしても看過できないことです。それは、『立正安国論』に明らかに見ることができます。

しかし、結果的に身延山は日蓮聖人の心を満足させる所となり、身延山に定住することになるのです。あるいは、蒙古の襲来にそなえて山深い身延に疎開したと推測する説があります。(真継伸彦氏『日本の聖域』3.日蓮と身延・七面山)。蒙古との戦争を予見した避難行動であったとも言います(金沢文庫発行『蒙古襲来と鎌倉仏教』四一頁)。また、身延が「霊山浄土」になるという目的が想定できます。(尾崎綱賀著『日蓮―現世往成の意味』二二七頁)。ただし、この身延は霊山に劣らない浄土であるという感慨は、経年とともに日蓮聖人の心中に深まったことでした。身延に法華経の読経と法華経の論談が深まることによって、「身延霊山」の思想が発します。『日蓮宗事典』(四二三頁)に、「「中天竺之鷲峰山を此処に移せる歟。将た又漢土の天台山の来れる歟と覚ゆ」(定一七三九頁)とあり、更に「天竺の霊山此処に来れり、唐土の天台山親りここに見る。我が身は釈迦仏にあらず、天台大師にてはなけれども、まかるまかる昼夜に法華経をよみ、朝暮に摩訶止観を談ずれば、霊山浄土にも相似たり、天台山にも異ならず」(定一六五一頁)とのべて、身延山を「霊山浄土にも相似たり」とみ「霊山此処に来れり」とも感じられている。この考えは年と共に深まり、入滅の前年頃になると一層鮮明となってくる。即ち弘安四年(一二八一)九月に南条時光に宛た御書によれば「此処(身延山)は人倫を離れたる山中也。東西南北を去りて里もなし。かかるいと心細き幽窟なれども、教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し、日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり。(略)かかる不思議なる法華経の行者の住処なれば、いかでか霊山浄土に劣るべき」(定一八八四頁)と論じて身延山を霊山浄土に勝るとも劣らぬ処と指定し、更に「彼月氏の霊鷲山は本朝此身延の嶺也」と断定されるに至っているのである」、と解説しています。この「霊山浄土」の思想は本門戒壇建立にくらべますと、かなり多く語られていることに注目されます。

日蓮聖人が完全に世間から離れ、遮断された空間のなかで寂しく死を迎えた、という意見はありません。それは、身延に入ってからの行動が活動的だったからです。その活動こそが日蓮聖人の「存する旨」にヒントを与える脈絡です。しかも、その場は人里離れた山中を選ばれたのです。日蓮聖人が比叡山に一二年間在山された経験は、必然的に山岳修行者としての体質を内在されたのです。日蓮聖人は居住の処を「山林」(八三六頁)「山中」(九五三頁)と呼んでいますが、前述した最澄の山岳在居に似た思いがあったと思われます。身延在山の功労を結果からみますと、とくに、門下の教育を完遂されたことが中心になると思います。身延期に著述を多くされていることからうかがえます。つまり、社会の関わりを完全に離脱した遁世とは違うということです。大旨は教団の拡充を図ったということになります。しかし、両度の流罪、三諌の結末により、身は疲れ心も傷んだと吐露された日蓮聖人の心境と、体調の変化を見逃せません。一時のあいだでも心身の疲れを癒したいと思われたのです。身延に入り五七歳となった弘安元年一一月二九日に、池上宗長氏に宛てた『兵衛志殿御返事』に、

「去年の十二月の卅日よりはらのけの候しが、春夏やむことなし。あきすぎて十月のころ大事になりて候しが、すこしく平愈つかまつりて候へども、やゝもすればをこり候に、兄弟二人のふたつの小袖、わた四十両をきて候が、なつのかたびらのやうにかろく候ぞ。ましてわたうすく、たゞぬのものばかりのもの、をもひやらせ給へ。此二のこそでなくば、今年はこゞへしに候なん。其上、兄弟と申、右近尉の事と申、食もあいついて候。人はなき時は四十人、ある時は六十人、いかにせき候へども、これにある人々のあにとて出来し、舎弟とてさしいで、しきゐ候ぬれば、かゝはやさに、いかにとも申へず。心にはしづかにあじちむすびて、小法師と我身計御経よみまいらせんとこそ存て候に、かゝるわづらわしき事候はず。又としあけ候わば、いづくへもにげんと存候ぞ。かゝるわづらわしき事候はず」(一六〇六頁)

と、身体の体調が不良であることを告げ、草庵に大勢の弟子たちが起居しているのを煩雑に思っています。庵室には雑役を勤める小僧と二人のみにて、自由に御経を読む静かな生活を送りたいという心境をのべています。建治二~三年ころには学生がふえ、どんなに断っても多いときには六十人にふえていました。一年前の建治三年冬から始まった「はらのけ」の病により、健康が優れなくなります。春になって雪が融けたらどこかで静養したいという心境をのべています。つまり、身延に滞在した理由の一つに、体調の変化を感じ取っていたことが考えられます。身心ともに疲れはて、一時のあいだでも安息の日々を送りたかったという心中です。ですから、『波木井殿御報』に、

「日本国にそこばくもてあつかうて候みを、九年まで御きえ候ぬる御心ざし申ばかりなく候へば、いづくにて死候とも、はか(墓)をばみのぶさわ(沢)にせさせ候べく候」(一九二四頁)

と、九年にわたり安息の場と弘教を支えてくれた恩義を、自らの埋葬の場を身延山に指定されたと思うのです。『波木井殿御書』に、次のようにのべられています。

「九箇年の間心安く法華経を読誦し奉候山なれば、墓をば身延山に立させ給へ。未来際までも心は身延山に可住候。日蓮は日本六十六箇国島二の内に、五尺に足ざる身を一つ置処なく候しが、波木井殿の御育みにて九箇年の間、身延山にして心安く法華経を読誦し奉り候つる志をば、いつの世にかは思忘候べき」(一九三二頁)

と、『波木井殿御報』と同じように、墓所を身延に懇願されています。そして、心安く仏道修行を行うことができたことを感謝されていることです。このことは大事なことです。立教開宗いらい世間からは疎外され、常に命を狙われてきた人生でした。安らぎのある生活を願う気持ちは私たちにもわかります。北条氏などの武力的攻撃を、波木井氏の外護により避けることが出来た身延山は、日蓮聖人の棲神の地となったのです。

その波木井氏は草庵を造作させるため、番匠の三上長富・福士長忠・橘樹光朝の三人を待機させていたといいます。(『本化別頭仏祖統紀』)。身延に着いて一ヶ月という短期間で草庵を作ります。波木井氏が最初から草庵の場所を確定されていたのか、日蓮聖人と探して決められたのかはわかりません。波木井氏は前もって希望の環境を聞いていたのかも知れません。「着連れ宿」の伝説からしますと、身延山を知り尽くしている村人が、草庵の場に適した身延滝に案内されます。その場とは『種種御振舞御書』に、

「其中に一町ばかり間の候に庵室を結て候。昼は日をみず、夜は月を拝せず。冬は雪深く、夏は草茂り、問人希なれば道をふみわくることかたし」(九八六頁)

と、草庵の場所は一町ほどの土地であったことがわかります。町を単位としますと一単位の土地面積は一〇段、坪数では三千坪になります。身延の山中においては狭小なところといえます。しかも、周りは山林に囲まれ暗い場所であったことがわかります。しかし、ここには山林修行者には欠かせない川と滝がありました。『妙法比丘尼御返事』に、

「内に滝あり、身延の滝と申。白布を天より引が如し。此内に狭小の地あり。日蓮が庵室なり。深山なれば昼も日を見奉らず。夜も月を詠る事なし」(一五六三頁)

また、『秋元御書』にも、庵室の環境を伝えています。

「前に西より東へ波木井河中に一の滝あり。身延河と名けたり。中天竺之鷲峰山を此処に移せる歟。将又漢土の天台山の来る歟と覚ゆ。此四山四河之中に、手の広さ程の平かなる処あり。爰に庵室を結で天雨を脱れ」(一七三九頁)

とのべているように、樹林に囲まれた「一町ばかり間」「手の広さ程の平かなる処」、そして、生活に必要な水の供給として「身延の滝」がある所に、草庵を構えたことがわかります。草庵の場所は波木井郷から北西の方向で(『松野殿女房御返事』一六五一頁)、かなり山中に入った鷹取山の麓でした。山林修行者にしますと人里とは適宜な距離になり、身を清める滝でもあったのです。この草庵用地は自然に平坦であったのではなく、修験者たちによって人工的に造作された所かも知れません。日蓮聖人が入山されたときには、その形跡は消えはてており、着連れ宿の村人の口碑に長福寺と、その修験者たちが深仙の宿所としていた跡地として、伝えられていたのかも知れません。時間の経過と人間の記憶からしますと、平安中期から後期あたりに廃墟となったと思われます。修験者にとって身延山から七面山への道は、現在でも遮断されるように、風水害などにより断絶される難所でした。草庵周辺は大きな石が敷きわたり、草だけが覆い繁っていたとのべています。また、『新尼御前御返事』に、

「峰に上てみれば草木森森たり。谷に下てたづぬれば大石連連たり。大狼の音山に充満し猿猴のなき谷にひびき、鹿のつまをこうる音あはれしく、蝉のひびきかまびすし。春の花は夏にさき、秋の菓は冬なる」(八六四頁)

と、身延山一帯は草木が森森と生い茂り、谷に降りれば大石が連連と覆いかぶさった地形であるとのべています。身延山には鉱山や薬草などの価値がある資源がなかったと思われます。身延山を構成する地形について林是晋先生は、櫛形山層と呼ばれ主に安山岩や凝灰礫岩のような火成岩よりなっているといいます。参道入口付近の頁岩に、ヒルゴと呼ばれる有孔虫の化石が含まれることから、海底堆積物であることを示し、およそ、一千万年ほど前の海底に沈積したものといいます。人類が出現したころの第四紀洪積世の堆積物は、身延川にそって段丘歴層を作り、この上に現今の身延門前が展開しているといいます。また、身延山の周囲は急峻な山岳地帯で、断層地形によって周縁山地と画せられているといいます。身延山の西側は糸魚川と静岡の構造線で、七面山などと界せられ興造線に沿って早川や春木川が流れています。大小無数の渓谷には径六〇㌢におよぶ礫岩が横たわっています。身延山を覆っている堆積物の多くは玢岩(火成岩の一種)類の砂礫層で、表土も厚く中性の土壌に気水の流通も良いので、杉や檜などの生育に適した山といいます。植物の分布は暖地性の植物の北限のものが多く、下方にはカシ類、上方にはブナやカエデが分布しています。動物はカモシカ・ヤマネ・ツキノワグマ・イノシシ・アナグマ・タヌキ・キツネ・ニホンザル・ムササビ・モモンガ・イタチ・ノウサギ・リスなど。鳥類はスズメ・カラス・セキレイ・ヒヨドリ・ウグイス・ツバメ・コジュカイ・カケス・シジュウカラ・キジバト・ブッポウソウなどが生息しています。気候は多量の雨が降るので土砂災害が頻繁に起き、冬は寒く雪が多いので山間の生活をおびやかす地形とのべています。(『身延山久遠寺史研究』一一七頁)。『種種物御消息』に、身延山の地形や気候について、

「するが(駿河)とかい(甲斐)とのさかいは山たかく、河はふかく、石をゝく、みちせばし。いわうやたうじ(当時)は、あめ(雨)はしの(篠)をたてゝ三月にをよび、かわゝまさりて九十日。やまくづれ、みちふさがり、人もかよはず、かつて(糧)もたへて、いのちかうにて候つるに」(一五三一)

と、石が多く急峻な山岳地帯であるので、大雨が続くと川は決壊し山崩れがおき歩道がなくなってしまうため、三ヶ月間は孤立してしまう環境であることがわかります。つまり、修験者であってもその生命を脅かす過酷な所であり、生活を支える鉱物や薬草などの資源が少ない処だったのです。はたして、日蓮聖人はこの草庵の場所が、「極寒の處」(『観心本尊得意釥』一一一九頁)となり、生活に適しない場所であったことを予知されたのでしょうか。比叡山の厳しい山岳を経験していたから予想はできたのかも知れません。比叡山の名物は「論・湿・寒・貧」というように、自然環境は日常生活に厳しいもので、山中は冬の寒気と夏季の湿気が烈しく、横川はとくに山深く自然が厳しいところでした。また、最澄は「臨終遺言」に、上級の僧は小竹の円房に住み、中級の僧は方丈の円室に住み、下級の僧は三間の板室として訓戒しています。ですから、日蓮聖人はあえて、その場を選ばれたという方が正鵠を射ているのかも知れません。この漂泊の思いが一一月ころには、身延山に定住する意志にかわっていきます。その理由として先の蒙古の動向が関わっていると思います。『上野殿御返事』に、

「抑日蓮は日本国をたすけんとふかくおもへども、日本国の上下万人一同に、国のほろぶべきゆへにや、用られざる上、度々あだをなさるれば、力をよばず山林にまじはり候ぬ。大蒙古国よりよせて候と申せば、申せし事を御用あらばいかになんどあはれなり。皆人の当時のゆき(壱岐)つしま(対馬)のようにならせ給はん事、おもひやり候へばなみだもとまらず」(八三六頁)。

ここには、日本の国、日本の人々を蒙古の驚異から救おうとされた、日蓮聖人の意志がのべられています。その日蓮聖人の諌言を用いなかったため、蒙古が襲来したことの悲しさが伝わります。日蓮聖人が蒙古の襲来から逃れて、自分だけが生き延びようとされ、身延山に来たという説は正しいのでしょうか。その答えは身延期における著述と本尊染筆、熱原法難などの対処のされ方をみて判断していきたいと思います。とくに、『法華取要抄』は身延に到着して直近の執筆ですので、日蓮聖人の真意をうかがうことができると思います。