238.波木井実長氏                       高橋俊隆

〇波木井実長氏

波木井(羽切)氏の祖先は、人皇五六代清和天皇の第六皇子、一品式部卿貞純親王になり、六孫王と名のったといわれる源経基より、多田満仲・河内守頼信・伊予守源頼義をへて新羅三郎義光にいたります。新羅三郎義光は八幡太郎義家の弟になります。義光は義家にしたがって陸奥に出征し甲斐源氏を興します。義光の子供に武田冠者義清があり、その子に逸見冠者清光(従五位下刑部少輔)がいます。清光の子供に武田太郎駿河守信義(武田氏の祖先)・上総介光長(逸見氏の祖先)・加賀美次郎信濃守遠光(加賀美氏の祖先)の三人がいます。遠光の子供に秋山太郎光朝・信濃守長清(小笠原氏の祖先)・三郎光行(南部氏の元祖)・四郎経光(於曽氏の祖先)の四人がいます。

五四代仁明天皇―――五五代文徳天皇――五六代清和天皇―――五七代陽成天皇

    ――貞純親皇―源経基(清和源氏)―〇―五八代光孝天皇――五九代)宇多天皇―――醍醐天皇      敦実親王―源雅信(宇多源氏)

源経基―多田満仲―河内守頼信―伊予守源頼義―新羅三郎義光(義家の弟。甲斐源氏)―武田冠者義清―

逸見冠者清光―加賀美次郎信濃守遠光―三郎光行(南部氏の元祖)―波木井(破木居)六郎実長(八戸の祖)

波木井実長は加賀美次郎遠光の三男光行を親とします。光行は南部氏の祖といわれます。源頼朝が治承四(一一八〇)年に石橋山の戦いに戦功をあげたことにより、甲斐の南部牧(南部町)を与えられます。このときに南部氏を名のります。文治五(一一八九)年の奥州合戦で戦功を挙げ、陸奥国糠部郡(糠部道の五境。現在の青森県から岩手県にかけての地域)などを与えられました。建久元(一一九〇)年には頼朝に従って上洛し、その後、奥州の領地に三戸城を築城しましたが、自身は奥州にはほとんど赴かず鎌倉や南部牧に住んでいたといいます。光行の兄の長清は巨摩郡小笠原荘に住み、甲斐源氏の名族たる小笠原氏の祖となっています。三郎光行には彦太郎行朝(一戸の祖、庶子)・彦次郎実光(三戸の南部氏を継ぐ、嫡子)・太郎三郎朝清(七戸の祖)・五郎行連(九の祖)・波木井(破木居)六郎実長(八戸の祖)の六人の子供がいます。(『南部根元記』上初)。あるいは、子供は五人として波木井実長は四男ともいいます。(『門葉縁起』『藻原系図』)。また、次男(『或記』)という説(『身延山史』六頁)や、三男という説があります。通説では実長は光行の六男といわれます。日蓮聖人が文永一〇年八月三日付けにて、波木井実長氏に宛てた書状に、『波木井三郎殿御返事』(七四五頁)があります。真蹟はありませんが、『興師本』が重須本門寺に所蔵され、「甲斐国南部六郎三郎殿御返事」と記載されています。宮崎英修先生は日蓮聖人が実長氏を「六郎三郎」と呼ぶのは、実長氏は始め彦三郎といい後に六郎に改めたという『群書類従』『身延山書類聚』『系図綜覧』により、実長氏は三男であるとします。(宮崎英修著『波木井南部氏事蹟考』一五七頁)。

総領の南部実光は時頼に仕え臨終の場に侍ったほどの御内人でした。同じ時頼の近臣に宿屋最信、南条氏がおり、波木井氏との関係はここに結ばれていました。実長は甲州の波木井・御牧(南部)・飯野(大野)の三郷を領地とし、波木井に居城があったので波木井殿と呼ばれました。羽切・破切居とも書きます。実長氏の嫡男の実継の系統が陸奥へ移って八戸氏に繋がります。実長の四男(あるいは長男)の長義の系統は甲斐国に勢力を保ちました。言い伝えによりますと、実長氏の先妻の系統が南部氏を名のり、後妻の系統が波木井氏を名のったといいます。(『日蓮宗寺院大鑑』三三二頁)。実長氏は日蓮聖人と同じ貞応元年の生まれで、性格は敏活で学問を好み仏教に篤信であったといいます。源頼経に仕官したことにより鎌倉に出仕しています。実長氏の入信の時期については、康元二(正嘉元年。一二五七)年に大内安清の紹介により、松葉ヶ谷の草庵に日蓮聖人の教えを聞いたといいます。(『身延山史』七頁。『昭和新修日蓮聖人遺文全集』別巻八一頁)。また、荏原義宗(九老僧の朗慶上人の父親です)の紹介ともいいます。(『鷲の御山』七頁)。しかし、日蓮聖人は「貴辺は之を聞くこと一両度、一時二時か」(『波木井三郎殿御返事』七四八頁)とのべています。一両度とは一、二回ということですから、顔見知り程度で深い師弟関係はなかったといえます。むしろ、日興上人の「御弟子分帳」によりますと、日興上人より教化をうけて信心堅固であったと思われます。正嘉元年ころの入信は誤伝といわれる所以です。(山川智応著『日蓮聖人伝十講』下巻五三九頁)。ですから、実長氏は文永六年ころに、日興上人の教化をうけて入信し、日蓮聖人と直接面談して帰信したのは、文永六年から七年ころと思われます。また、波木井実長の長子次郎実継(清長)が日興上人に帰依し、その手引きによって文永六年のころに入信したともいいます。(宮崎英修著『日蓮とその弟子』一〇八頁。『波木井南部氏事蹟考』二二三頁)。同じように、『身延町誌』(九七八頁)には文永元(一二六四)年に、日興上人によって実長氏の第三子、弥六郎長義氏が先ず帰服し、ついで実長氏の妻妙徳尼が入信したとあります。つづいて実長氏も日興上人により文永六年に入信し、七年ごろ直接聖人に帰依したものと考えられるとあります。波木井氏一家は日興上人の教化であることがわかります。(「日興上人と甲斐身延山」『冨士要集』五巻一二七頁。「原殿御報」『宗全』二巻一七三頁。宮崎英修著『波木井南部氏事蹟考』二二三頁)。一般的には鎌倉の辻説法を聞いて、日蓮聖人に帰依されたといいますが、日蓮聖人と実長氏の面談は、この文永六年頃にあった可能性があります。『六郎恒長御消息』は本満寺本の写本が、実長を恒長と誤写したものと考えられ、文永元年ではなく文永六年の九月に実長氏に宛てたとする解釈に近くなります。同じように、日蓮聖人は文永六年の五月に久本坊日元を案内として富士吉田方面の教化にでられ、富士山・木立村(川口湖畔)・勝沼方面の教化をされ、板坂(小田原)を通って九月ころに鎌倉へ帰ったといいます。(『高祖年譜攷異』『本化高祖年譜』)。日蓮聖人と実長氏が親しくなった時期を文永六年とみることができましょう。

実長氏の祖父である加賀美遠光は、菩提寺の宝塔山遠光寺を、建暦元(一二一一)年に建立しています。このときの宗派は真言宗で感応山遠光寺といいました。栄西は真言もかねており老齢のため弟子の宗明阿闍梨が開山となっています。宗明は日蓮聖人に帰依し日学と名のっています。同じく恵光山長遠寺は祈願寺として建てられ真言宗でした。加賀美山法善寺・三守皇山大聖寺が真言宗東寺流であったことから、実長氏も同じ宗派であったと思われます。このことから、実長氏の最初の信仰は真言であったことがわかります。しかし、当時一般の仏教状勢に従って、日蓮聖人に知遇を受ける以前においては、念仏者という説があります。日蓮聖人は実長氏の信仰について、建治三年のころ(『四条金吾殿御返事』一三〇三頁)から、日興上人に従わないようになったとのべています。また、実長氏の性格を狷介不覊のところがあり、それゆえに厳粛な日興上人より、温厚で自義に同ずる日向上人に帰依したと推察しています。(宮崎英修著『波木井南部氏事績考』二二九頁)。

実長氏の日蓮聖人へたいしての給仕について、身延入山を熱心に懇請されたが、次第に信心が薄れ放任された状態であったという意見があります。そのため、日蓮聖人は食生活や庵室の老巧や寒苦など、衣食住に困窮されていたといいます。はたして、実長氏は日蓮聖人を粗末にされたのでしょうか。実長氏一人が過分な供養をされれば、他の信徒の供養は必要なくなります。大勢の人々に功徳の善行を積ませてあげることが本意です。富木氏たちからも月々の供養料が届けられています。日蓮聖人は実長氏にたいして、身延在中における供養を、最小限にとどめることを約束させたのではないでしょうか。身延一山を寄進されることは誰でもができることではありません。身延一帯を警護し日蓮聖人の命を見守られたのです。この日蓮聖人と実長氏との信頼関係をうかがえるのが、池上にて書かれた『波木井殿御報』です。このなかに、「畏申候(かしこみ申し候)」(一九二四頁)、「九年まで御きえ(帰依)候ぬる御心ざし申ばかりなく候」、と実長氏にのべます。代筆とはいえ目上の人にたいしての言葉使いに、実長氏を篤信の信徒として、その貢献を敬っていたことがわかります。そして、日蓮聖人の墓所を身延に定めたのは、波木井氏の気持ちを察してのことであったと思います。身延の土地を寄進され、居住の庵室を造作された費用も大きな給仕として、日蓮聖人はうけとめていたのです。常陸にむかうときには実子の実継氏や公達を手配して警護され、宿の手配や路銀も用意されたことでしょう。とくに、栗駒毛の駿馬を日蓮聖人に供したことは、実長氏の日蓮聖人を思慕される気持ちをあらわしています。日蓮聖人は馬をこよなく愛でました。日蓮聖人が痛ましく思い、そのために舎人を付けたほどの駿馬は、実長氏にとっても貴重な馬であったはずです。波木井氏との死後の約束を、暗に馬に託されていたと思われる会話です。

波木井氏の経済状況はどうだったのでしょうか。農民とどうように苦しい生活を余儀なくされ、蒙古防衛のための負担も重くのしかかっていたといいます。また、日蓮聖人は波木井氏一族の南部氏からも、支援を受けていたといいます。その証しとして建治二年五月一〇日の『筍御書』(一一七七頁)、弘安元年五月二二日の『霖雨御書』(一五〇四頁)、弘安元年一二月二一日、ほりの内殿宛ての『十字御書』(一六二〇頁)をあげます。これらは、供養品を届けにきた使者のために、文面にした折紙の礼状です。日蓮聖人の細やかな配慮を知ることができます。受け取りを記すだけの折紙であったので、たくさんあった礼状は伝わらなかったと思います。『十字御書』には十字(むしもち)や、炭二俵を供養されていることが書かれています。堀之内とは御館殿などといわれ、その地の領主などをさすといわれ、身延近辺に館を構えていた南部氏一族の信徒と推測しています。(中尾尭著『日蓮聖人のご真蹟』一五五頁)。つまり、波木井氏の教化により同族の南部氏一族が、日蓮聖人を支えていたとみることができるのです。その実長氏は永仁五(一二九七)年九月二五日、七六歳で没しました。遺骨は波木井城があった城が峯から数丁はなれた波木井山円実寺、梅平長円寺(鏡円坊と合併されています)、そして、御廟所の三カ所に分骨されています。(『身延山史』九頁)

               ――鏡円坊の背後にある南部氏館(館跡)

  波木井実長氏の館とされる三説――――南部町の南部氏館(南部城跡)                ――波木井山円実寺(身延町波木井・南部城山)

身延山支院である鏡円坊は実長の次男(幼名春乙丸。身延五世日台上人。一二歳にて法主となり三五年勤めました)が、晩年に屋敷を改めたものと伝えています。この鏡円坊より約三百㍍西側の墓地裏を登ったところに屋敷跡があります。この御屋敷を別名、南部氏館といいます。波木井氏の屋敷跡とする地元の伝承があります。しかし、発掘調査によりますと、約四〇㍍四方の削平地であり、遺物も微量であったことから、ここが実長氏の屋敷跡であるとするのは難しいとします。波木井から南部一帯を支配していた者の館としては小さいといいます。この南部氏館は二カ所にあります。もう一つは南部町の南部氏館です。ここは光行の館があったところで、建久二(一一九一)年に光行は実長を甲斐に残し奥州へ下向しました。二男の南部実光は『吾妻鏡』によりますと、時頼臨終の際に尾藤景氏、宿屋光則らの得宗被官と共に臨席し、時頼の看病を行ったといわれ、、御内人に昇進して幕府内に相応の地位をもっていたといいます。しかし、『南部系図』によりますと、建長六(一二五四)年鎌倉で卒去となっており、墓所は青森県三戸郡南部町の三光寺にあり、甲州南部には住んでいません。光行が南部の地にいた間の居館がこの場所といわれています。南西に四百㍍のところに妙浄寺があり、その裏手に南部城の山跡が残っています。この南部町の南部氏館が実長の時代どうなっていたかも不明で、謎の多い所といわれています。また、『本化別頭仏祖統紀』には、日蓮聖人が停住された実長の館は、のちの円実寺であると記述しています。『甲斐国志』では梅平北方にある波木井集落背後の城跡を、実長氏の屋敷(城址)としています。身延山の裏参道に面し城山の名もここにあるといわれています。実長を開基とする波木井山円実寺は、海抜三百㍍付近の山麓にあります。また、現在遺構は見られませんが南部城山があります。どちらに関しても史料はないので関連性は判断しがたいといいます。ただ、日蓮聖人は実長氏を波木井殿と呼ばれていることから、実長氏は波木井を本拠としていたと思われます。(宮崎英修著『波木井南部氏事蹟考』一五一頁)。

さて、日蓮聖人は波木井実長氏の館に案内され、ただちに富木常忍氏に近況を知らせています。それが、つぎの『富木殿御書』です。