239.『富木殿御書』(144)         高橋俊隆

□『富木殿御書』(一四四)

日蓮聖人は諸国を流浪する気持ちで鎌倉をたたれました。このときの日蓮聖人は「日本国にそこばく(若干)、もてあつかうて候身」(『波木井殿御報』一九二四頁)と、鎌倉にいた自分を評しています。「若干」とは幾らかのという意味と甚だ多くという意味があります。「持て扱う」というのは取り扱いに持て余す、手に負えないということです。ですから、日本国中の人々から大層持て余された自分、目障りで邪魔者扱いされているという意味合いがあります。これは幕府の中心勢力者たちを指しています。そのような状況から中央の政治体制への干渉を離れ、諸国を放浪することを考えていたと思われます。しかし、その反面、法華経を弘通するために、拠点とする地を探していたことも事実です。その心中と現況を富木氏に報告したのが五月一七日付けの『富木殿御書』です。真蹟全一紙が鴨川市の小松原山鏡忍寺に所蔵されています。

「いまださだ(定)まらずといえども、たいし(大旨)はこの山中、心中に叶て候へば、しばらくは候はんずらむ。結句は一人になりて日本国に流浪すべき身にて候。叉たちどまるみ(身)ならば、けざん(見参)に入候べし」(八〇九頁)

と、身延山の有様は概ね心中に叶うので、暫くは波木井氏の外護する身延山に滞在すると告げます。しかし、ここに定住するとまでは決めておらず、再び漂泊の旅を続ける立場であることを伝えています。(『日蓮辞典』二五頁)。諸国を遍歴しながら法華経を宣説し、蒙古の危機を乗り越える布教を目指していたのでしょうか。身延山は今後の方針を定めるための、一時的な待避所と捉えていたかもしれません。不安定な中にも定住する意志があるので、そのときには富木氏と再会したいという意志を伝えたのです。日蓮聖人が目的とした「大旨」とは何だったのでしょうか。「存する旨」は身延の山中においても実現できることと思われます。身延山にて叶うことならば諸国放浪は必要のないことになります。先にみてきたように、仏道修行を行うには比叡山のように厳しい山間であることが第一条件です。山高く谷深い白雲悠々とした適した地を理想とします。それは、ことさら草庵の場所が人里はなれ、生活をするには不便であることを求めたように思えるからです。同じ身延山中においても辺鄙なところを選んだのは、波木井氏による氏寺家を避けたという考えもあります。(山中講一カ著『日蓮自伝考』三八二頁)。また、隠棲の立場を重視されたのです。身延山中に滞在することになったのは、波木井実長氏の敬待によりますが、甲府や駿河の弟子信徒の要請や、鎌倉の途次に信徒となった近隣の要望も日蓮聖人の心を動かしたと思います。この年の一〇月に蒙古襲来があるように、蒙古が日本に攻めてくることに対する思索があったと思われます。

本書は日蓮聖人の無力感や失意感に満ちているという意見があります。しかし、驚くべきことは、身延に着いて直ぐに認めた本書の書体は、活気があり躍動感がある筆跡であることです。真蹟のなかでも迫力感が漲っています。自由になったことの悦びと明るい兆しを見いだした書体にみえます。岡元錬城先生は、「複雑な感触を読む者に与えるこの書状一篇の理解は、日蓮聖人の心境の複雑さのひだに融け入らなくては充分ではないだろう」、「この一文を短絡的に理解すると、日蓮聖人の真意を汲み得ない」、とのべています。(『日蓮聖人―久遠の唱導師』四三五頁)。私は本書の書体から、日蓮聖人は賢人として新たな出発をされた思います。賢人の習いとして山林に隠棲しますが、その賢人とは「八風」に侵されない者のことをいいます。『四条金吾殿御返事』に、

「賢人は八風と申て八のかぜにをかされぬを賢人と申なり。利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽也。をゝ心(むね)は利あるによろこばず、をとろうるになげかず等の事也。此八風にをかされぬ人をば必天はまほらせ給也。しかるをひり(非理)に主をうらみなんどし候へば、いかに申せども天まほり給事なし」(一三〇二頁)

とのべているように、利・誉・称・楽の四順と、衰・毀・譏・苦の四違を克服することです。利(うるおい)とは目先の利益、誉れ(ほまれ)とは名誉、称(たたえ)とは称賛、楽(たのしみ)とは享楽です。そして、衰(おとろえ)とは肉体的な衰えや財産の損失、毀(やぶれ)とは不名誉、譏(そしり)とは中傷、苦(くるしみ)とはこれらを包括した内外の苦しみをいいます。日蓮聖人の一代における流通段に入ったといえましょう。

また、身延近辺では飢饉があり食べ物に不自由していることを伝えています。五月の一七日ころは米がなくなる端境期になり、それにくわえ山間部あたりは生産力の低いところです。

「けかち(飢渇)申すばかりなし。米一合もうらず。がし(餓死)しぬべし。此御房たちもみなかへ(帰)して但一人候べし。このよしを御房たちにもかたらせ給べし」(八〇九頁)

と、米などの食料を買うことができないので、同行した弟子のほとんどを帰したと報告しています。身延での生活はわずかな弟子と始まりましたが、波木井氏の庇護によってこれまでの危険からは回避されます。波木井氏の家来や村人の案内で、身延の川を渡り高取山の麓に居住の場を決めました。日蓮聖人の同意があってこの場所に決めたと思います。草庵の初めの場所は定かではありませんが、現在の場所より奥に入った険しい所といわれています。実長氏の館にて今後の方針などを話しあい、最初に行ったことは『法華取要抄』を書き終えることでした。十七日に波木井郷に着き七日の間に執筆を終えます。