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□『法華取要抄』(一四五)本書の真蹟は中山法華経寺に所蔵されています。中山法華経寺は富木常忍氏の遺誡に基づき、日蓮聖人の真蹟や法衣類などを格護してきました。昭和六年に聖教殿が竣成されるまでは、十羅刹女堂・鬼子母尊神堂に安置され衛護されてきました。本書は第二箱右之一に格納されていました。一巻二四紙、天地三〇、二㌢、全長一〇二一、五㌢になります。(山中喜八著『日蓮聖人真蹟の世界』下一一四頁)。全文が漢文にて書かれています。述作の時と場所について諸説があります。定説としては真筆の筆致から見て、文永一一年五月二四日に身延にて著述されたとされます。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇一〇三七頁)。中山法華経寺の真蹟に日付はありませんが、日興上人の鈔本に「文永一一年五月」とあります。身延録外の稿本は二種ともに真蹟の模写ですが、その篇尾に五月二四日と書かれています。(山川智応著『日蓮聖人伝十講』下巻五四三頁)。身延山において認めた著作は、すべて長く継いだ継ぎ紙に執筆されているといい、のちに、表紙をつけ巻子本にしています。ですから、著書か書状なのかの判断は、文字が料紙の継ぎ目に書かれているかにあるといいます。『撰時抄』や『報恩抄』も楮紙の継ぎ紙に書かれており、個別に宛てた書状とは違い、教学書として大きな重要性をもっています。(中尾尭著『日蓮』一八七頁)。身延の真蹟目録に本書の草案には、『以一察万抄』と表題があったと記されています。身延の古記録には三度書き直されたとあります。この三度目が富木氏に宛てた本書となります。五月一七日に波木井氏の館に入られ、二四日に書き上げられるには早すぎるとされ、佐渡にて二月五日以降に書き上げられた、『以一察万抄』が改題されたという説があります(岡元錬城著『日蓮聖人』四〇七頁)。また、一妙院日導上人は『祖書綱要』の「第九佐渡前後法門異相章」に、文永九年五月二四日に系けています。 一般的に本書の執筆は佐渡在島中にはじまり、鎌倉在住中をふくめ身延にて書き終えたとみるのが通説です。その理由は身延山の真蹟目録(『日乾目録』など)に、『法華取要抄』と『以一察万抄』の二つの草案が、身延入山以前に在ったとするからです。身延に所蔵されていた真蹟の写本の標題に、『以一察万抄』と書かれ、その下に「取要鈔」と細書きされていたといいます。(『日蓮聖人御遺文講義』第七巻九六頁)。身延には『以一察万抄』の一九紙一巻、『法華取要抄』の一三紙一巻(中間不足)の二本が所蔵されていました。両書ともに文永一一年一月二三日と二月五日の天変の記載があることを根拠とします。つまり、文永九年説は認められなくなります。(都守基一稿「『法華取要抄』の成立」『鎌倉仏教の様相』所収三七九頁)。はじめは『以一察万抄』(一を以て万を察するための抜き書き)と題したのを、『法華取要抄』(法華の要を取る抜き書き)と改めたところに、日蓮聖人の立場が変わったことと、内容にも変化があったとみることができます。ここに、身延入山にて初唱された本書の意義がある、と評される理由があります。(稲田海素先生『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇一〇三七頁)。たしかに、本書の特徴は始めて「三大秘法」について、まとまった形でのべられていることにあります。本書は日蓮聖人が身延から始めようとされた活動を知る手引き書となるものです。本書の執筆が『以一察万抄』の草稿があったことと、波木井邸の落ちついた環境のなかにあったためか、筆致は穏やかに書き始められています。全体二四紙、第一紙の一行目は題号の「法花取要抄」、二行目に「扶桑沙門日蓮」、三行目に「述之」、本文に入り七行の全一〇行から始まります。第二紙一三行。第三紙一二行。第四紙一三行(継ぎ紙にかかります)。第五紙一三行。第六紙一三行。第七紙一三行。第八紙一四行(継ぎ紙にかかります)。第九紙一三行。第一〇紙一四行。第一一紙一四行。第一二紙一四行。第一三紙一四行。第一四紙一五行(継ぎ紙にかかります)。第一五紙一五行(継ぎ紙にかかります)。第一六紙一四行。第一七紙一五行(継ぎ紙にかかります)。第一八紙一四行。第一九紙一五行(継ぎ紙にかかります)。第二〇紙(継ぎ紙にかかります)。第二一紙一六行(継ぎ紙にかかります)。第二二紙は五行目で一端筆が置かれています。『定遺』(八一七頁)一〇行目の『仁王経』の文を引かれたところで、次の「齎此等明鏡引向当時日本国浮於天地宛如符契。有眼我門弟見之」のところから、筆致が緩やかになり行間に空きがあります。経文を書き終えて一休みされたのか、あるいは推敲をを重ねられたのかも知れません。第二三紙は一三行継ぎ紙にかかります。最後の第二四紙は七行です。ここに、「本門三法門建立之」と書かれています。 さて、日蓮聖人は三度目の諫暁を終え、幕府の様子をみます。しかし、幕府は日蓮聖人に敵対するかのように、蒙古調伏の祈祷を真言師に依頼します。このことは、当初から弟子信徒の間にも予測されていたといいます。ですから、幕府の動向を充分に観察されてから用意周到に身延に入られた、という見方ができましょう。たしかに、「結句は一人になりて日本国に流浪すべき身にて候」と、絶望感と思われる言葉があります。しかし、この言葉は聖者の孤峰感から発したものです。身延は意に叶ったところとのべているように、活動の場所を選定する発言であって、今後をどのように考えていたのかが問題となります。はたして、本書の特徴は「法華経の行者」としての自覚が強く出ていることにあります。厭世的な現実逃避・脱社会・脱人間という意味での「流浪」の心中であっては、本書にのべる「三大秘法」や広宣流布の気概についての著述はできないと思います。富木氏へ宛てた身延からの第一報は、身延に定住することを見据えて、「叉たちどまるみ(身)ならば、けざん(見参)に入候べし」とのべられたことになります。本書は佐渡後の日蓮聖人の行者意識を知る大きな著述といえます。『法華取要抄』の題名は本文中に、 「日蓮捨広略好肝要。所謂上行菩薩所伝妙法蓮華経五字也」(八一六頁) と、広・略・要のなかにおいては肝要を第一義とすることにあります。佐前の『法華題目鈔』(三九四頁)に題目を唱えることが、広・略・要のなかの要であるとのべていました。これは、法華経を受持するなかで、一部八巻二十八品を受持読誦することは「広」とし、方便・寿量品などの要品を受持護持することは「略」、そして、題目の南無妙法蓮華経を唱題することは、広・略・要の中には要にあたるとのべて、題目を唱えることの修行が大事であるとのべたものでした。本書はその肝要とは何かを示されたものです。要とは「かなめ」のことです。『寺泊御書』に釈尊の教えの中に法華経二十八品は「略之中要也」(五一五頁)とのべているように、最も大事なところを指しています。その肝要については佐渡流罪中の『観心本尊抄』に、 「寿量品肝要名体宗用教南無妙法蓮華経是也」(七一七頁) と、肝要の法とは要法の題目であることを明らかにしていました。そして、本書の翌年三月一〇日の『曽谷入道殿許御書』に、要法(八九五頁)とは逆謗を救済する良薬であり、その良薬である要法とは、「一大秘法」(九〇〇頁)の妙法五字であることをのべています。 「爾時大覚世尊演説寿量品 然後示現於十神力付属於四大菩薩。其所属之法何物乎。法華経之中 捨広取略 捨略取要。所謂妙法蓮華経之五字名体宗用教五重玄也。例如九苞淵之相馬之法 略玄黄取駿逸 史陶林之講経之法捨細科取元意等」(九〇二頁) と、本書は要法である寿量品の妙法五字と、それを弘通することが大事な責務であることを、神力品の「四句要法」「結要付属」をもってのべていきます。本書の要法が『曽谷入道殿許御書』になりますと、逆謗救済・末法下種の要法とのべていくように、正意は逆縁下種の要法を示されのであり(『日蓮聖人御遺文講義』第七巻一〇一頁)、身延から新たな広宣流布に移る気概をうかがうことができます。 そして、日蓮聖人は「扶桑沙門」という立場から『法華取要抄』を著述しました。『観心本尊抄』は「本朝沙門」とのべ、同じように日本の沙門としての立場から著述したという表現をされています。これは、佐前の天台付随の天台沙門を脱却し、本化上行菩薩としてのべていることに意義がありました。本書の「扶桑」とは中国において太陽の出る東海の彼方にある神木、その地の名称といいます。転じて日が出るところということで、インド・中国から見た日本(扶桑国)を指します。つまり、日蓮聖人の意志は末法今時に、「結要付属」を承けた本化上行菩薩としての強い信念と、留まることのない弘教の表明にあります。佐渡においては『開目抄』を著して門下の疑念に答えました。この疑念とは、法華経を信仰すれば諸天善神の守護があるのか、また、日蓮聖人の折伏の弘通は正しいのか、という「現世安穏後生善処」の経文の解釈にありました。日蓮聖人は自身が釈尊より勅命を受けた本化上行菩薩であることを説いて、これに答えました。そして、上行菩薩の立場から釈尊より授かった秘法は、南無妙法蓮華経の題目であることを、『観心本尊抄』において示されました。この題目は事一念三千・妙法五字・仏種・受持譲与という観心行の内容をもち、私たちが帰命する本尊像を図顕されました。この『開目抄』と『観心本尊抄』の二大著述の肝要を、私たちに説いたのが『法華取要抄』です。さらに、『御書略註』に広宣流布の心がけが肝要であり、法華宗の取要とは此処にあるとのべ、『法華取要抄』に釈尊一代に超過した、「三五の下種、一仏の始終、諸仏分身、諸仏の所従眷属など」を説いたのは、これからの弘通に焦点が当てられたとあるように、本書は身延期における宗旨を広める方法をのべたといえます。(『宗全』第十八巻二一八頁)。また、『録内御書』では五大部の次に置かれた重要な遺文で、日蓮聖人の一代における流通分に入られたと言えましょう。 本書の内容は大きく二つに分けられ、さらに五段に分類することができます。前半の二段は仏教の勝劣、後半の三段は末法為正をのべます。また、第一段は諸経の勝劣、第二段は仏陀の勝劣をのべます。第三段は「日蓮為正」、第四段は本抄の題名になった肝要の妙法蓮華経の五字をのべ、第五段には本化上行菩薩が出現して、法華経は必ず広まることをのべます。 ・五段分科 前半 仏教の勝劣 第一段 諸経の勝劣―――法華経は諸経の肝心(権実判) 法華最勝 第二段 仏陀の勝劣―――教主釈尊は諸仏の中心 釈尊有縁 迹門の釈尊と諸経の諸仏との違いと私たちの関係 本門の釈尊と迹門の釈尊との違いと私たちの関係 後半 末法日蓮為正 第三段 「日蓮為正」――諸経・諸宗の不孝謗法の失を説く 法華正機 第四段 肝要の題目―――要法である妙法五字による救済 法華要法 第五段 三大秘法――――上行出現による三秘の開出と皆帰妙法 法華広布 【第一段 諸経の勝劣】法華最勝「夫以月支西天漢土日本所渡来経論五千七千余巻。其中諸経論勝劣浅深難易先後 任自見弁之者不及其分、随人依宗知之者紛紕其義」(八一〇頁) と、冒頭の第一段には、インド・中国から渡来した仏教の経典や論釈は、仏典目録である『開元釈教録』(七三〇年。智昇撰二〇巻)の五千余巻、『貞元釈教録』(八〇〇年。円照編纂三〇巻)に七千余巻といわれる膨大なことをのべて、その中でどれが勝れているのかという、一代五時の勝劣(教)・浅深(理)・難行易行(行)・先後(位)などの本題の勝劣を判定していく方法をのべます。華厳宗・真言宗・禅宗・浄土宗などの諸宗は、それぞれの依経の経典こそが第一であると主張しています。つまり、華厳宗では、「一切経(すべての經典)の中で華厳經が第一である」。法相宗では、「一切經の中で解深密經が第一である」。三論宗では、「一切經の中で般若經が第一である」。真言宗では、「一切經の中で大日經・金剛頂經・蘇悉地經の大日三部經が第一である」。禅宗では、「釈尊の教えの中では、楞伽經が第一である」また。、「首楞厳經が第一である」。また、「經論の文字の教説によらずに、心から心へと伝えられる悟りの教外別伝を重んじる」。浄土宗では、「一切経の中で阿弥陀經・無量寿經・観無量寿經の浄土三部經が、末法に入ってからは衆生の機根と仏の教法が相応した第一」。倶舎宗や成実宗や律宗では、「長阿含・中阿含・増一阿含・雑阿含の四阿含經(小乗經)や律蔵(戒律)の論は仏説である。華厳經や法華經等の大乗經は仏説ではなく、外道の經である。」と主張しています。また、各宗の元祖たちは經・律・論の三蔵を証拠として宗旨を建立しています。華厳宗は、杜順・智厳・法蔵・澄観であります。法相宗は玄奘・慈恩。三論宗は嘉祥・道朗。真言宗は善無畏・金剛智・不空。律宗は道宣・鑑真。浄土宗は曇鸞・道綽・善導。禅宗は、達磨・慧可等です。しかも、聖人賢人であると言われ国王から万民にいたる人々から尊敬されました。批判の加えようのないことであると前置きをします。しかしながら、宝の山に入って瓦礫ばかりを拾い、栴檀の香り高い林に入って、臭気の強い毒薬の伊蘭を採り後悔をすることがあるように、たとえ人々から非難されても、正しいことを求めるべきであるとのべます。我が門弟は間違いがないよう後悔しないためには、委細に考察を加え深く究明しなければならないと訓戒します。 これらの諸宗の人師たちの誤りを正します。祖師たちの中には旧訳(鳩摩羅什・真諦などによる唐の時代以前に翻訳されたもの)の經典や論だけを見て、新訳(玄奘・義浄などによる唐の時代以後に翻訳されたもの)の經典や論を見ていない者や、逆に華厳宗・真言宗・法相宗などは、新訳の經典や論だけを見て、旧訳の經典や論を捨てる者がいると指摘します。また、誤った自宗の教に執着し自分に都合よく解釈をして、その見解を經典や論(解説書)に書き加えて後代に伝えた者がいること。これらの諸宗の祖師たちを、『韓非子』五蠹篇を引き、たまたまウサギが木の株に激突し気絶したのを見て、そこにいれば間違いなくウサギを捕獲することが出来るだろうと思って、その場所に張り付いているような愚かなものであるとのべます。正しい判断は団扇の形に導かれて、天に輝く月の有り難さを知ったならば、月の形とは違う団扇を差し置いて、本物の天月を仰ぐことが真に智慧のある人であるように、仏教においても誤りを正して、真実の教理を取ろうとする人こそが智人であるとのべます。つまり、自宗の既成的な教義にとらわれず、根本的な経典の理解と文献学的に、諸経の勝劣などを判断すべきことを提唱されたのです。そして、諸経の勝劣を判じる文証として法師品の「已今当の三説」を挙げます。 「今捨置末論師・本人師邪義専引見本経本論五十余年諸経中法華経第四法師品中已今当三字最第一也。諸論師・諸人師定見此経文歟」(八一一頁) これは、諸宗批判において『無量義経』の「四十余年未顕真実」の文と合わせて、常に論じられていた経証です。これを、「已今当の三説超過」といい、爾前経・無量義経・涅槃経の三説よりも法華経が最も勝れていると、釈尊が法師品で説いた文です。しかし、諸宗の人達もこの「已今当の三説」を知っているはずであるとのべます。では、なぜに法華経に帰信しないのでしょう。日蓮聖人はその理由として、一に自分が拠り所とする經典にも同じことが説かれているために迷う(相似の経文)。二に自分の本師(宗派の元祖)の言葉に執着するため。三に王や臣下の帰依がなければ自分の身分が危うくなるためであるとします。相似の経文とは法華経いがいの経典にも、それぞれが最も勝れていると、法華経に似たことが説かれていることです。本書のはじめには自分の宗派が第一とした経典をあげました。ここでは、最勝の経王であると説いた次の経典をあげます。金光明經の「この金光明經は諸經の王である」という經文。同じく、密厳經の「この密厳經はすべての經典の中で最も優れている」。六波羅蜜經の「(教・律・論・慧・総持のなかで)総持(陀羅尼・呪)こそ諸經の中の第一である」という經文。大日經の「何が菩提かといえば、如実に自心の本性を知ることである」という經文。華厳經の「この經は最も難しくて信じがたいが、そこに真実がある」という經文。般若經の「この經に説かれている法性真如の他には何もない」という經文。大智度論の「般若(智慧)波羅蜜が第一である」という論の文。涅槃論の「今この涅槃經の理は最も優れている」、という文をあげます。これらの經論の文は、法華經法師品の「己・今・当の三説に超過している」という法門と、似たような内容を持っているので相似の経文といい、諸宗の学匠が迷うところなのです。 しかし、これらの経典が何と比較して最勝としたのか、ということが問題となります。金光明經は大梵天王や帝釈天王や四天王が説いた經典と比較した場合において、諸經の王といわれているだけに過ぎず、あるいは、小乗經と比較した場合において、諸經の中の王であるといわれているだけに過ぎません。また、華厳經や勝髪經等の經典と比較した場合において、密厳経は勝れているだけに過ぎません。つまり、比較する対象によるわけです。日蓮聖人は釈尊一代の説法における、大乗・小乗、権教・実教、顕教・密教等のすべての經典と比較して、諸經の中の大王の如き存在ではないとします。「已今当の三説」とは釈尊一代の教えの全てのなかで比較することをいいます。人間の成長と同じように、釈尊は機根の能力に応じて、化法・化儀の施説をしたのが五時の経典です。幼稚園児と大人のように理解力に浅深があります。幼稚園児から見れば小学生は勝れていますが、大人から見ればその中学生も劣っています。 「其上諸経勝劣釈尊一仏浅深也。全非加多宝分身助言。以私説勿混公事。諸経或対揚二乗凡夫演説小乗経 或対向文殊・解脱月・金剛薩埵等弘伝菩薩全非地涌千界上行等」(八一一頁) つまり、経典の浅深、諸経の勝劣は、教を説いた教主の立場により変わるのです。それを、「釈尊一仏の浅深なり」とのべ、私たち凡夫が軽々しく判断することではないとします。なぜなら、真実を説く場にしか出現しない多宝仏が来て証明し、十方から集まってきた分身諸仏が釈尊を本師として讃歎します。釈尊の教のなかでも法華経こそが真実であると証言されたからです。また、諸経を説いた相手は二乗・凡夫や、文殊・解脱月などの小乗や大乗の者のためであって、地涌の上行菩薩などの本化の菩薩ではないと、その違いをのべます。このように、諸経が最勝とした根拠の弱さを指摘したのです。 【第二段 仏陀の勝劣】釈尊有縁次に、教主の立場や資格がどのように違うかをのべます。法華経と諸経との勝劣を判断する方法に二十ヶ条あるとのべ、、そのなかでも、この仏身を判じる最も重要な方法として「三五の二法」を挙げます。「三五の二法」とは前述しましたように、『文句記』の十双歎の最後の一双にあります。「迹化挙三千塵点。本成喩五百微塵」とあるように、化城喩品の「三千塵点刧」と寿量品の「五百億塵点刧」(久遠実成)の譬説のことです。また、釈尊の「因位果位」を論じることから、『観心本尊抄』には「三五の遠化」(七一一頁)とのべています。(拙稿「日蓮聖人の釈尊観―釈尊三徳観を中心としてー」『日蓮教学研究所紀要』六号六七頁。「日蓮聖人の釈尊観―親徳を中心としてー」『日蓮教学研究所紀要』七号五五頁を参照して下さい)。本書には次のようにのべます。 「三者三千塵点劫。諸経或明釈尊因位或三祇 或動喩塵劫 或無量劫也。梵王云 此土自廿九劫已来知行主。第六天帝釈四天王等以如是。釈尊与梵王等始知行先後諍論之。雖爾拳一指降伏之已来梵天傾頭魔王合掌三界衆生令帰伏釈尊是也。又諸仏因位与釈尊因位糺明之 諸仏因位或三祇或五劫等。釈尊因位既三千塵点劫已来 娑婆世界一切衆生結縁大士也。此世界六道一切衆生他土他菩薩有縁者一人無之。法華経云 爾時聞法者各在諸仏所等[云云]。天台云 西方仏別縁異。故子父義不成等[云云]。妙楽云 弥陀・釈迦二仏既殊。○況宿昔縁別化道不同。結縁如生成熟如養。生養縁異父子不成等[云云]。当世日本国一切衆生待弥陀来迎者 譬如牛子含馬乳瓦鏡浮天月」(八一一頁) 釈尊が仏となるため菩薩として修行を始めたときを因位といいます。それ以来、菩薩行を続けていることを因行といいます。この因位の時期について諸経と比較します。法華經以前の諸經のなかで小乗教(蔵教)では、釈尊の因位を三阿僧砥劫(『倶舎論』に「三無数劫(初・二・三阿僧祇)において各七万五六七仏を供養し」「余の百劫万に修して各百福荘厳す」とあります)と説いたり、通教では動喩塵劫(「誓扶習生」により第八地より第九地の間に、動(やや)もすれば塵劫を踰(逾)えるといいます。これは多劫の菩薩行を修して仏位に進むことをいいます。別教では無量劫と説いています。無量劫とは別教の菩薩五十二位のうち、十信より十地に至るまで無量劫という長いあいだ菩薩行を修することをいいます。第一部第五章第四節、法華経の教相を参照して下さい)、また、法華經以前の諸經においては、大梵天王が第六天の魔王・帝釈天王・四天王等と共に、世界が成立期(二十劫)から存続期(住劫)に釈尊が出現する第九劫に至るまでの二十九劫(成劫二十劫と住劫九劫)を、この娑婆世界を分有して統治していると説いていたので、この娑婆世界を統治していたのは、釈尊と大梵天王とどちらが先だったのか明らかではありませんでした。しかし、釈尊が菩提樹の下に座して、一本の指を上げて悪魔を退散させた後には、大梵天王は頭を下げ魔王は合掌し、三界(欲界・色界・無色界)のすべての人々は釈尊に帰伏したことをあげます(『摩訶止観』一上)。つまり、釈尊は久遠の昔より三界の主であったことをのべます。 また、諸仏の因位と釈尊の因位を比べます。因位とは成仏するために仏道修行を始めた時点から換算します。諸仏は三阿僧祇劫、あるいは五劫という期間であったと説かれ、釈尊は三千塵点と説かれています。日蓮聖人はここに釈尊と私たちの古い有縁性をのべます。そして、娑婆世界の一切衆生の「結縁の大士」であるとのべ、西方の阿弥陀仏などの他土の仏とは無縁であるとします。天台・妙楽大師の釈を引き、釈尊と私たちは結縁とそのあとの化導である塾益を受けた者であるとのべます。これを「生養の縁」といいます。つまり、釈尊と私たちには下種結縁と調熟の下種益・塾益があるが、弥陀とは無縁であることをのべます。釈尊と私たちは親子の義が成り立つが、弥陀とは親子の義は成立しないのです。弥陀が私たちを救ってくれると信じることは、例えば牛の子供に馬の乳を呑ませ、瓦でできた鏡に天の月の影を映そうとするように、無益のことであると譬え、釈尊こそが私たちを救う真実の仏であることを説いています。 次に「果位」について諸仏と比較します。果位とは仏となった時点を基にして化導の浅深を比較することです。因行を積み重ねて達成した仏の位をいいます。ここは大事なところで、日蓮聖人は釈尊の果位を論じるときに、本門の久遠実成の釈尊を示し、ここを根拠として勝劣を論じます。 「又以果位論之者諸仏如来或十劫・百劫・千劫已来過去仏也。教主釈尊既五百塵点劫已来妙覚果満仏。大日如来・阿弥陀如来・薬師如来等尽十方諸仏我等本師教主釈尊所従等也。天月万水浮是也。華厳経十方台上毘盧遮那 大日経・金剛頂経両界大日如来 宝塔品多宝如来左右脇士也。例如世王両臣。此多宝仏寿量品教主釈尊所従也。此土我等衆生五百塵点劫已来教主釈尊愛子也。依不孝失于今雖不覚知不可似他方衆生。有縁仏与結縁衆生譬如天月浮清水。無縁仏与衆生譬如聾者聞雷声盲者向日月」(八一二頁) まず、本門の釈尊と諸経の諸仏を比較して、 諸仏の果位をあげ「十劫(弥陀)・百劫(小乗の菩薩)・千劫已来の過去仏である」 本門の釈尊は「五百塵点劫已来妙覚果満仏」――久遠本仏であることを明かします。 本仏釈尊と分身仏を比較して、 「大日如来・阿弥陀如来・薬師如来等の尽十方諸仏は我等本師教主釈尊の所従(従者)」 ――諸仏は釈尊の所従であり眷属であることを明かします(諸仏統一) 教主釈尊を天の月に譬えるならば、教主釈尊以外の諸仏は、水の上に浮かぶ影に過ぎないと喩えます。 本仏釈尊と諸仏(多寶仏)を比較して、 「華厳経の十方台上毘盧遮那。大日経・金剛頂経両界の大日如来は、宝塔品多宝如来左右脇士である」 ――大日如来は多寶仏の脇士であり、その多寶仏は釈尊の所従であることを明かします。 毘盧遮那仏・大日如来は王の左右にお仕えしている臣下のような存在であると喩えます。 ここにおいて、寿量品の仏は「五百塵点」に譬えた久遠仏であることをのべ、この本門の釈尊と諸仏とは主従関係にあるとのべます。多寶仏も釈尊の所従であり、その多寶仏の従者である諸仏も更に劣ることを指摘します。ここに、釈尊と私たちの関係を「父子(親子)の義」の繋がりとして捉えます。「此土(娑婆世界)の我等衆生は五百塵点劫已来、教主釈尊の愛子である」と、私たちと釈尊は久遠の昔より血縁の繋がった父子としてのべます。私たちは寿量品の「五百塵点」の昔から、釈尊の誓願のなかに生きていたということです。私たちは無信心のために、それに気がつかないのであって、現実に釈尊と私たちは、「有縁の仏と結縁の衆生」の関係とのべます。この関係がわからないことを「覚知」できないとのべ、「不孝の失」といいます。この文章に釈尊三徳のうちの親徳と、不孝=謗法=覚知できないで堕獄する、という図式ができます。親徳は「久遠下種」という内容をふくみます。天台大師の『法華文句』、妙楽大師の『文句記』に、先の信解品の長者窮子の「父子相失」の喩えを解釈した文に「父子の義」が説かれていました。天台大師は舊(光宅)が長者を弥陀としたことに対し、喩えをもって父子の義が成立しないとのべたものです。 当時の現状をみますと、真言宗は大日如来を本尊とし、浄土宗は弥陀を本尊としています。同じ釈尊を尊ぶようでも律宗は小乗の教主である釈尊とし、禅宗は『華厳経』の釈尊を尊びます。日蓮聖人は父親である寿量品の釈尊を捨て、他仏を崇めていることは親に対しての孝養となるのかを問います。寿量品には「我亦為世父・為治狂子故」とあるように、釈尊は父親のように狂った子供にも同じように愛情を注ぎます。天台大師は『法華玄義』に、「本従此土仏初発道心。亦従此仏住不退地。乃至猶如百川応須潮海 縁牽応生亦復如是」とのべた文を引きます。この文はこれらの「本因縁」を釈したもので、釈尊と私たちの関係は結縁し熟縁した、親子関係であることを示したものです。 【第三段 「日蓮為正」】法華正機これより後半に入り、法華経は末法のために説き置かれた教であることをのべていきます。これを、「末法正意論」といい、本書に「末法為正」「日蓮為正」と示されます。これより終わりまで問答形式をとります。 「問曰 法華経為誰人説之乎。答曰 自方便品至于人記品八品有二意。自上向下次第読之第一菩薩 第二二乗 第三凡夫也。自安楽行勧持・提婆・宝塔・法師逆次読之以滅後衆生為本。在世衆生傍也。以滅後論之 正法一千年・像法一千年傍也。以末法為正。末法中以日蓮為正也」(八一三頁) 釈尊は法華経を誰のために説いたのかと問います。まず法華経二十八品において、前半の迹門十四品についてのべます。方便品第二から人記品第九に至るまでの八品を、始めから順序通りに読んでみると、第一には菩薩、第二には声聞・縁覚の二乗、第三には凡夫を教化するために説かれたとのべます。つまり、在世の人々を正機としています。しかし、迹門十四品の末尾の安楽行品第十四から勧持品第十三、提婆達多品第十二、宝塔品第十一、法師品第十と、順序を逆にして読んでみると(逆次読之)、この八品は釈尊入滅後の人々のために説かれていることが本意となるとします。「逆次読之」というように法華経を逆読すれば、在世の人々は傍意(二次的な意図)であり、末法の衆生が正機であるとのべ、釈尊滅後の中でも正・像法二千年は傍意であり、末法のために説かれているということが正意であるとのべます。法華経は滅後の私たちを救済するために説かれたとみます。これを「逆読法華経」「滅後の法華経」といいます。さらに、末法のなかでも日蓮聖人のために説かれたということが、正意の中の正意であると解釈されます。そこで、その証拠は何かを問います。日蓮聖人は法師品の「如来現在猶多怨嫉」(釈尊入滅の後には、釈尊在世の時よりも怨嫉が多い)の文を挙げます。そして、日蓮聖人をもって正意とする証文を、勧持品の二十行の偈文(「三類の強敵」)を引いて答えます。勧持品二十行の偈は法華経の行者を決定する色読の証文のことです。この「末法為正」については、『観心本尊抄』に、 「迹門十四品正宗八品一往見之以二乗為正以、菩薩・凡夫為傍。再往勘之以凡夫・正・像・末正為。正・像・末三時之中以末法始為正中正」(七一四頁) と、「一往・再往」としてのべていました。『観心本尊抄』に一往は二乗の機根を正機とし、本書には「順読・逆読」という表現をされ、機根の勝劣の立場からみて第一に菩薩、第二に二乗、第三に凡夫とのべています。(『日蓮聖人遺文全集講義』第一三巻三八頁)。『日蓮聖人御遺文講義』に、この相違は得益の次第と仏意からみた対機の傍正といいます。(第七巻一四一頁)。また、同じように本書の「日蓮為正」について、『観心本尊抄』に 「以已前明鏡推知仏意仏出世非為霊山八年諸人。為正像末人也。又非為正像二千年人。末法始為如予者也」(七一九頁) と、末法の始めの「為如予者」、つまり、日蓮聖人のために説き置かれたとのべます。ここに、「末法正意」と「日蓮為正」という要語ができたのです。「五五百歳」の分類により末法時代に視点を当てた見解です。 次に本門の立場ではどうなのかをのべていきます。本門の最初の涌出品において地涌の菩薩が出現します。弥勒はこの菩薩が釈尊とどのような関係なのかを問います。釈尊は久遠の昔から地涌の菩薩を教化してきたと答えます。(「我従久遠来、教化是等衆」『開結』四〇八頁)。 「問曰 本門心如何。答曰 於本門有二心。一涌出品略開近顕遠前四味並迹門諸衆為令脱也。二涌出品動執生疑一半並寿量品分別功徳品半品 已上一品二半名広開近顕遠。一向為滅後也」(八一三頁) 涌出品において地涌の菩薩が出現し、いよいよ釈尊の久遠実成が明かされようとされます。それを「開近顕遠」といい広と略の二つに分けられます。 略開近顕遠――前四味・迹門を聞いた在世衆生の脱益のために説かれた 広開近顕遠――動執生疑・寿量品・分別功徳品前半(一品二半)は滅後衆生のために説かれた 本書は略開近顕遠を在世の脱益とし、広開近顕遠の一品二半を滅後に配当しています。しかし、『観心本尊抄』には在世と末法の違いを在世は一品二半の脱益とし、末法は題目の五字の下種益とのべています。すなわち、 「以本門論之一向以末法之初為正機。所謂一往見之時以久種為下種 大通・前四味・迹門為熟 至本門令登等妙。再往見之不似迹門。本門序正流通倶以末法之始為詮。在世本門末法之初一同純円也。但彼脱此種也。彼一品二半此但題目五字也」(七一五頁) とのべた、有名な「彼脱此種」「彼一品二半此題目五字」の種脱益の違いです。『観心本尊抄』は在世の脱益を一品二半とします。『法華取要抄』は略開権顕遠を在世脱益とのべ、一品二半は滅後のためとのべます。一品二半と題目五字については、『観心本尊抄』は文上の一品二半と文底の題目五字をのべ、そして、題目の五字は寿量品の肝心であり、釈尊が末法の人々のために留め置かれた秘法・良薬であるとします。これは、『開目抄』に一念三千の法門は本門寿量品の文の底に沈めた(五三九頁)という「文底秘沈」の言葉のように、「文底五字」の題目は末法のための要法であると受けとめたのです。日蓮聖人は「以本門論之一向以末法之初為正機」と、本門も末法を正意として受けとめています。文上の一品二半と文底の五字は同じことですので、末法救護の立場から法華経を受容される日蓮聖人は、釈尊の「広開近顕遠」の意図は、末法に存すると受けとめたのです。(『日蓮聖人御遺文講義』第七巻一五〇頁)。『観心本尊抄』においては動執生疑の後半に限らず、略開近顕遠も末法のためであり序分も末法を正意とみているといいます。(『日蓮聖人遺文全集講義』第一三巻四三頁)。『観心本尊抄』は一品二半を文上の在世脱益、文底五字を末法下種とのべます。本書は寿量品の一品二半は末法のためであり日蓮聖人のために説かれたとのべます。この文上と文底とは寿量一品の表裏、能詮所詮、相関不離の関係であり、義によって分けて論ずるのが『観心本尊抄』、文に即して分けずに論ずるのが本書であるといいます。(『日蓮聖人御遺文講義』第七巻一五九頁)。 はじめに、「略開近顕遠」とはどういうことかを問い、これは釈尊在世の人々のために説かれたことをのべます。釈尊在世においても、文殊・弥勒等の諸々の大菩薩や、大梵天王・帝釈天王・大日天王・大月天王・衆星・竜王等は、法華経の迹門の八品(迹門熟益三段の正宗分)が説かれたことにより始めて釈尊の弟子となります。つまり、迹門以前の教(別円二教)は知っていたからです。舎利弗や目連等は鹿野苑における釈尊の最初の説法のときに、初めて仏道を求める心を起こした弟子ですが、四十余年の間は、権法(方便の教え)だけが説かれてきました。法華経に至って実法(真実の教え)を聞法します。そして、法華経の本門の涌出品において、略開近顕遠が示されたときに、華厳経の説法の時以来、釈尊が説いた法を聴聞してきた大菩薩、声聞・縁覚の二乗、大梵天王・帝釈天王・大日天王・大月天王・四天王・竜王等のすべての人々が、妙覚の位(菩薩の修行における五十二位の最高位で仏の悟りのこと)、もしくは、妙覚に準ずる位にまで登られたとのべます。これが、「略開近顕遠」の説明です。そして、法華経の本門寿量品の「広開近顕遠」は、誰のためにどのような目的により説かれたのかを問います。これは、寿量品の久遠実成を説いた理由になります。 「問曰 為誰人演説広開近顕遠寿量品乎。答曰 寿量品一品二半自始至于終正為滅後衆生。滅後之中末法今時日蓮等為也」(八一四頁) 本門寿量品を中心とした一品二半は、始めから終わりまで、まさしく、釈尊滅後の衆生のために説かれたとのべます。しかも、その中でも末法のこの時における、日蓮聖人等のためにこの法門が説かれたとします。その要法は「妙法蓮華経の五字」です。本書の「末法正意論」は『観心本尊抄』にのべていました。法華経の迹門も再往は凡夫をもって正機とし、末法の始めを正中の正とのべています。本門においても末法の人々のために説かれたとのべます。一往は在世の人々の久種の下種益・大通迹門を塾益・本門等妙を説くとのべ、再往は本門の序正流通ともに末法を詮としているとのべていました。 次に、この法門は前代未聞のことなので、証拠となる経文があるかを問います。日蓮聖人は自分の智慧は前代の天台・伝教大師に及ぶものではなく、ゆえに証文を示しても信用されないであろうとのべます。たとえ、その賢人であっても必ずしも認められないことがある例として、「卞和(べんか)の啼泣」の故事と「伍子胥(ごししょ)の悲傷」の故事をあげます。「卞和の啼泣」というのは、卞和は春秋時代前期の楚に住んでいたとされ、和氏(かし)とも呼ばれます。『韓非子』の和氏篇(四・蒙求上)において、法術の士の孤独を説明するための説話です。卞和は山中で玉(石のなかにある璞。あらたま)の原石を見つけ楚の厲王(蚡冒)に献上します。しかし、厲王が職人に石を鑑定させると、ただの石ころ(粗玉)だと言ったため、卞和を足斬りの刑にして左足を切り落とします。厲王が死に弟の武王が即位すると、卞和は再び原石を献上します。しかし、武王も卞和を信ぜず今度は右足を切り落とします。武王も死に子の文王が即位します。卞和は原石を抱きかかえて、三日三晩血の涙を流し泣き悲しみます。文王は人を遣わして、足斬りの刑を受けた者は沢山いると言うのに何故そのように悲しむのか、その訳を問い質します。卞和は足斬りにあった事が哀しいのではなく、宝石を石ころと言われたこと、正しい事を言っても信じられなかった事が悲しいと答えます。文王が原石を磨かせてみると、それは見事な宝石となります。文王は自分達の非を認め卞和を賞し、この宝石を「和氏の璧」と名付け楚の国宝とします。この和氏の璧ははるか後に、戦国時代の趙へと渡り完璧の故事の由来となります。文王が宝石の原石を磨いてくれたために、卞和の奉った石が宝石であったことが証明されました。日蓮聖人は真実の言葉でも用いられないことを、卞和の璞珠・璞玉(はくぎょく)の例を引きました。璞玉とは掘り出したままの玉、磨かれてない玉のことをいいます。「夫れ人心に霊明の智識を具すること猶璞玉の如し」(吉岡徳明著『開化本論』〉下・六)という用例があります。「伍子胥の悲傷」の故事については、伍子胥(~前四八五年)は春秋時代の楚の名族で、名は員(うん)といい父の奢、兄の尚が楚の平王に殺されたので呉に奔り、呉をたすけ楚を討ち破ります。平王の墓をあばいてその屍に鞭打って仇を報じたといいます。王の重臣となった伍子胥は、呉王を継承した太子の夫差に対して、越王の勾践を会稽山に破ったとき、勾践を殺すよう勧めます。それでも勾践の降伏を許したことを、国の将来を案じ何度も諌言を行ないます。しかし、伍子胥の諫言は夫差に受け入れらず、讒言により逆に自刎を命じられます。伍子胥は自分の目で越が滅びるのを見るため、両眼を抉って呉の東門に懸けよと遺言します。はたして、その三年後に越の勾践の反逆により、夫差は自ら頸切して呉は滅びたという故事を引きます。この二つの故事の引用は、日蓮聖人がこれまでに三度の諫暁をされても採用されず、かえって流罪死罪の配偶にあったことを示すためです。このような過去の事例からすると、今の日蓮聖人も用いられないかもしれないと前置きします。そして、弥勒は涌出品において、在世の聴衆が未だ見たことも聞いたこともない、地涌の菩薩が出現したことに困惑した様子を見て、まずは在世の衆生の疑いと、釈尊滅後の人々が謗法により悪道に堕ちないために、真実(開近顕遠・寿量品)を説くことを懇願します。それが「動執生疑」(『開結』三九九頁)の文です。「動執生疑」の文は地涌の菩薩と釈尊の久遠来の師弟関係を示すものです。『開目抄』に、 「されば仏此の疑を晴させ給はずば一代聖教泡沫にどうじ、一切衆生疑網にかゝるべし。寿量の一品の大切なるこれなり。其後仏寿量品を説云 一切世間天人及阿修羅皆謂今釈迦牟尼仏出釈氏宮去伽耶城不遠坐於道場得阿耨多羅三藐三菩提等[云云]。此経文は始寂滅道場より終法華経の安楽行品にいたるまでの一切の大菩薩等の所知をあげたるなり」(五七六頁) つまり、この聴衆の疑問に答えるため寿量品が説き始まります。本書はつづいて、寿量品の文を引きます。 「然諸新発意菩薩於仏滅後若聞是語或不信受而起破法罪業因縁等[云云]。文心者不説寿量品者末代凡夫皆堕悪道等也。寿量品云 是好良薬今留在此等[云云]。文心者上似説過去事様以此文案之以滅後為本。先引先例也」(八一四頁) そして、釈尊は寿量品を説くことの意義を説き示されます。しかし、日蓮聖人の焦点は滅後末法に当てられています。日蓮聖人は「今留在此」と留め置かれた理由は、滅後末法の人々のためであるとのべます。寿量品の文は良医である釈尊が病気の子供のために、最高の良薬を置いて他国に出張したときの経文です。『観心本尊抄』にも「動執生疑」の同じ文を引き、「文意者寿量法門為滅後請之也」(七一六)と末法為正をのべています。良薬とは「是好良薬寿量品肝要名体宗用教南無妙法蓮華経是也」(七一七頁)と、寿量品文底の題目のことで、本書に「文心者上似説過去事様以此文案之以滅後為本」とのべているように、末法に焦点が当てられている文章です。この末法為正の先例として経文の証拠(文証)を挙げます。末法に法華経の流布すべき予言として多用している経文です。法華経は本門流通分より挙げます。 分別功徳品――悪世末法時(滅後の五品) 神力品――――以仏滅度後能持是経故諸仏皆歓喜現無量神力 薬王品――――我滅度後後五百歳中広宣流布於閻浮提無令断絶~此経則為閻浮提人病之良薬 涅槃経――――譬如七子。父母非不平等然於病者心即偏重 『涅槃経』は「獅子吼菩薩品」の七子の譬説で、七子のなかの第一と第二番目の子供は極悪の一闡提と謗法の者をいいます。諸病のなかでも法華経を謗ることが第一の重病といいます。そして、この謗法の人々を救済するのが題目(「南無妙法蓮華経第一良薬也」(八一五頁)であるとして、この題目は正像二千年に一閻浮提には広宣流布されておらず、今、この末法に流布する時であるとのべます。もし、今時に流布しなかったら釈尊は大妄語を説いた仏となり、多宝仏が法華経を真実と証明したことも水の泡と消え、十方分身の諸仏が広長舌して助証したことも、芭蕉の葉のように裂け破れるとのべます。薬王品と『涅槃経』の文を引いた順序に、妙法五字を謗法逆縁のために留め置かれた要法とし、視点を末法に当てた末法下種(逆縁下種)が示されたといえます。(『日蓮聖人御遺文講義』第七巻一五八頁)。 次に、この釈尊の説示を助証する「多宝証明・十方助舌」と、「地涌涌出」が誰のためかを問います。これにより末法為正を深めていきます。まず、釈尊在世の人に視点を当て、法華経は釈尊在世の衆生のために説かれたのではないとします。例として釈尊の十大弟子である舎利弗や目連についてみます。舎利弗は智慧第一、目連は神通第一であるが、過去世の立場をみると舎利弗は金竜陀仏、目連は青竜陀仏であり、未来世には舎利弗は成仏の記別を与えられて華光如来となります。また、在世における法華経の意義は、舎利弗や目連は見思・塵沙・無明の三惑という、一切の迷いを即時に断ち尽くした菩薩となります。そして、本地からみると舎利弗や目連は、内心には菩薩の覚りを秘めていながらも、外見には声聞・縁覚の二乗の姿を示していた古菩薩である(「五百弟子品」)と述べます。文殊・弥勒等の菩薩の本地をみるならば、過去世に成道した古仏が現世に出現し、菩薩の姿を示されているとのべます。また、大梵天王・帝釈天王・大日天王・大月天王・四天王等は菩提樹下で、釈尊が初めて成道を得られる以前からの大聖であり、その上、大梵天王・帝釈天王・大日天王・大月天王・四天王等は、法華経以前の爾前経の教えを一言にして覚られていたとのべます。つまり、釈尊の在世においては、一人たりとも無智の弟子の者はいなかったのであるから、誰の疑問を解決するために、多宝如来の証明や十方分身の諸仏の広長舌相があったのか、そして、地涌の菩薩の出現の必要性を問い求めます。そこで、「末法為正」を証拠とする法師品と天台・伝教大師の釈を挙げます。 法師品―――如来現在猶多怨嫉況滅度後(『開結』三一二頁) 宝塔品―――令法久住故来至此(『開結』三三六頁) 天台大師――後五百歳遠沾妙道(『法華文句』) 伝教大師――正像稍過已末法太有近(『法華秀句』) この「滅後」を強調した経文と、「末法太有近」の解釈は、日蓮聖人に「末法為正」と「日蓮為正」の法華経流布を命じた文であるとのべます。この天台・伝教大師の末法法華流布の釈文は遺文の随所にみられ、佐渡在島中に執筆された『顕仏未来記』には、「後五百歳」の末法における法華流布の証文として引き、三国四師の系譜を示していました。 「法華経第七云 我滅度後後五百歳中広宣流布於閻浮提無令断絶等[云云]。予一者歎云 仏滅後既隔二千二百二十余年。依何罪業不生仏在世不値正法四依・像法中天台伝教等。亦一者喜云 何幸生後五百歳拝見 此真文。在世無益也。前四味人未聞法華経。正像又無由。南三北七並華厳真言等学者不信法華経。天台大師云 後五百歳遠沾妙道等[云云]。指広宣流布之時歟。伝教大師云 正像稍過已末法太有近等[云云]。願楽末法始之言也。以時代論 果報者 超過龍樹天親 勝天台伝教也」(七三八頁) 天台大師の釈文は『法華文句會本』(一巻三二紙左)の序品品題の因縁釈のうち、序正流通の流通分を説いたところです。伝教大師の釈文は『守護国界章』(巻上の下六一丁)の、謗法者大小交雑の止観を弾ずる章の第一三の文です。三国四師による系譜の見方と、釈尊より直授されたとする見方を別付属、「結要付属」といいます。末法正意を論じるときは、上行所伝の「結要付属」を重視します。 【第四段 肝要の題目】法華要法次に、視点を末法の衆生の救済から、良薬に譬えた要法についてのべていきます。その要法とは本門の本尊・戒壇・題目であることを明かします。すなわち、 「問云 如来滅後二千余年龍樹・天親・天台・伝教所残秘法何物乎。答曰 本門本尊与戒壇与題目五字也。問曰正像等何不弘通乎。答曰 正像弘通之 小乗・権大乗・迹門法門一時可滅尽也。問曰 滅尽仏法之法何弘通之乎。答曰 於末法者大・小・権・実・顕・密共有教無得道。一閻浮提皆為謗法了。為逆縁但限妙法蓮華経五字耳。例如不軽品。我門弟順縁 日本国逆縁也」(八一五頁) ここに、「秘法」というのは本門の本尊・戒壇・題目五字であるとのべています。これを「三大秘法」といいます。『観心本尊抄』には、「此時地涌千界出現本門釈尊為脇士 一閻浮提第一本尊可立此国」(七二〇頁)と、本尊についてふれていました。しかし、三大秘法すべてについてはふれていません。また、三大秘法についてのべた遺文は次のようにあります。 文永九年五月二日 『四条金吾殿御返事』「本門寿量品の三大事」(六三五頁) 文永一〇年四月二五日 『観心本尊抄』「一閻浮提第一本尊可立此国」(七二〇頁) 文永一〇年五月二八日 『義城房御書』「寿量品の事一念三千の三大秘法」(七三〇頁) 文永一一年一月一四日 『法華行者値難事』「本門本尊興四菩薩戒壇南無妙法蓮華経五字」(七九八頁) 『法華取要抄』は『観心本尊抄』の弘通段を補っています。つまり、「本門本尊与戒壇与題目五字」と、本門の本尊・戒壇・題目の「三大秘法」を示された遺文であることです。その本門の本尊とは『日蓮宗事典』に、「本門寿量品の仏の仏像が出現せしめられねばならないのである、とこのように述べられる。日蓮聖人は帰依の対象という意味で、しばしば「本尊」という語を一般的に用いられているが、あえて「本門の本尊」といわれるのは、要するに上来見て来たように、末法衆生救済の法たる別付属の「南無妙法蓮華経の五字」を譲与される本尊は、教主釈尊と共に証明の多宝如来、讃嘆の分身仏が三仏として打ちそろい、それと末法に伝えることを誓願した地涌の四菩薩がそこに具現するという姿としてしか表すことのできないものなのである。そうである故に大曼荼羅の讃文には必ず「仏滅後二千二百二十余年之間、一閻浮提之内未曽有大曼荼羅也」という意味がしるされるのである。(中略)。本門の本尊の理解の基本は「天台宗より外の諸宗は本尊にまどえり。(略)寿量品をしらざる諸宗の者は畜に同じ。不知恩の者なり」(『開目抄』定五七八頁)に示されるように、久遠本仏の釈尊の「みこころ」に末代衆生救済の根幹があるのであり、それが現実化されるためには久遠本仏の釈尊を本尊とするという、「本門の本尊」が明示されて初めてその意義が確定するのであり、日蓮聖人門下はまずこのことをしっかりと認識しなければならない」、とあります。つまり、本門の教主釈尊を本尊とすること、その教主釈尊は寿量品の文底に示された久遠本仏をいいます。そして、佐渡一谷において文永一〇年七月八日に、曼荼羅本尊が図顕されます。この曼荼羅は本門八品の儀相を表現されたもので、法華信者の信仰の対象として図顕されました。首題の題目七字が中央に大きく書かれます。この本門題目は寿量文底に秘沈された要法であり、地涌に付属された妙法五字です。受持することにより南無妙法蓮華経の七字の題目となります。それは、「受持譲与」だからです。(『観心本尊抄』七一一頁)。 本門戒壇については『日蓮宗事典』に、「「本門の戒壇」についての詳細な解説はほとんどなく、わずかに『三大秘法抄』にいわゆる王仏冥合の論述が示されるのみである。そこで後世の「本門の戒壇」解釈は、(1)教団永遠の理想像として語られるものと、(2)宗教的防非止悪から懺悔滅罪に進む立場からの考察と、(3)信証という宗教的体験の極地とする解釈との三方面から行われている。(中略)。日蓮聖人滅後に主張された「即是道場の戒壇」というのもこの解釈に連なるものであろう。さて、このような後世の本門戒壇の解釈を参酌しつつ、もう一度、日蓮聖人の意図を窺うと、(1)日蓮聖人の三大秘法開顕と照応して、それに関連する遺文に重説されるのは伝教の叡山円頓大戒場の建立についての論述が行われている。そこで日蓮聖人が叡山戒壇を重視されるのは、像法の末における本門法華仏教弘通の拠点の確立という意味があることがわかる。即ち、釈尊の随自意の教説が叡山の法華経の円頓戒壇に象徴化されたことを重要視されるためである。(2)に『観心本尊抄』末文のいわゆる密釈戒壇の段においては、伝教大師の延暦寺建立を賛えつつ、本門教主の寺塔顕現こそ将に今果さねばならぬ事業であることを示されている。なぜなら本門の教主が本門の四菩薩を脇士として現じた本尊は未だ顕されず、それこそ末法の始めに出現することが約束されている姿だからである。つまり、それによって末法の衆生に対する釈尊・法華経の救済の確証をこの土に顕現するという意義が示されていると考えられる。(3)「本門の戒壇」とはこのような意味を持つものであり、その具体的顕現が前述の三点のように開示されたものと理解することができよう」、とあります。なを、後の建治二年七月二一日の『報恩抄』にも同じように、 「問云、天台伝教の弘通し給ざる正法ありや。答云、有。求云、何物乎。答云、三あり。末法のために仏留置給。迦葉・阿難等、馬鳴・龍樹等、天台・伝教等の弘通せさせ給はざる正法なり。求云、其形貌如何。答云、一は日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦多宝、外の諸仏、並に上行等の四菩薩脇士となるべし。二には本門の戒壇。三には日本乃至漢土月氏一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず、一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱べし」(一二四八頁) とのべています。本門戒壇については名称のみを挙げ、具体的にはのべていません。 本書はつづいて、この「三大秘法」を正像時代になぜ弘通しなかったかを問います。答えとして正法・像法時代に三大秘法が弘まっていたならば、正法時代に弘まった小乗経の教えや、正法時代に竜樹菩薩や天親菩薩が弘めた権大乗経の教えや、像法時代に天台大師や伝教大師が弘めた法華経迹門の教えが、一瞬のうちに滅尽してしまうとのべます。滅尽とは効果を失うことで、仏教の教には「教法流布の前後」があります。浅い教えから深い教えと順序にしたがって広まることが大事で、機根においても正法・像法時代には変化があります。釈尊在世にも大小・権実・本迹の順序(化法・化儀)があるように、釈尊滅後もどうように順序があることをのべます。しかも、それは釈尊から付属されたことでした。これを「付法蔵」といいます。日蓮聖人は地涌付属を受けて末法に法華経を弘通しました。つまり、「三大秘法」は正像時代に弘通する教ではないことをのべます。そこで、仏法が滅尽してしまうような「三大秘法」の教えを、末法に弘通する理由を問います。その答えは末法時代になると仏教のすべての教は理論のみになり、それにより成仏という証果(現証)はないとします。(「末法者大・小・権・実・顕・密共有教無得道」)。この時代観は『大集経』の「第五五百歳白法隠没」によります。薬王品の「後五百歳」にあたる末法を指します。この時代観を教・行・証に配当してのべたのが『顕仏未来記』です。ここに、慈恩の『大乗法苑義林章』を引き、正法千年は仏の教えとそれを修行する者、その証得の三証が具備するが、像法千年は教・行は備わっても証果はなく、末法は教のみあって行・証がないという釈文をあげます。そして、「退大取小」「謗法充満」の末法に、本化上行菩薩が妙法五字をもって弘通することをのべます。その弘教は不軽菩薩の「我深敬等二十四字」である但行礼拝と同一であるとします。すなわち、『顕仏未来記』に、 「於末法者大小益共無之。小乗有教無行証。大乗有教行冥顕証無之。其上正像之時 所立権小二宗漸漸入末法執心強盛以小打大以権破実 国土大体謗法者充満也。依仏教堕悪道者多自大地微塵 行正法得仏道者少於爪上土。当此時諸天善神捨離其国 但有邪天邪鬼等入住王臣比丘比丘尼等身心 可令罵詈毀辱法華経行者時也。雖爾於仏滅後捨四味三教等邪執帰実大乗法華経 諸天善神並地涌千界等菩薩守護法華行者。此人得守護之力以本門本尊・妙法蓮華経五字令広宣流布於閻浮提歟。例如威音王仏像法之時 不軽菩薩以我深敬等二十四字 広宣流布於彼土 招一国杖木等大難也。彼二十四字与此五字其語雖殊 其意同之。彼像法末与是末法初全同。彼不軽菩薩初随喜人 日蓮名字凡夫也」(七四〇頁) と、末法時においては法華不信(退大取小)の謗法の者が国土に充満し(謗法充満)、仏道によって悪道に堕ちる者が多く(謗法堕獄)、諸天善神は国を捨離し(善神捨去)邪天邪鬼等が人の身心に入り込む(悪鬼入身)時であるとのべます。しかし、本門法華経の上から三時の教行証をみると、末法時こそ教行証が具足するとのべます。末法の人々(極重病人)を癒すには良薬である本門法華経以外にはないとします。本門法華経が説く教とは一念三千の仏種である妙法蓮華経の五字、行は南無妙法蓮華経の題目を受持すること、証は受持による釈尊の因行果徳の自然譲与(受持成仏)にあると『観心本尊抄』にのべていました。本書は『顕仏未来記』にのべた行証不備の問題と不軽菩薩の折伏逆化、そして、『観心本尊抄』の受持譲与に繋がっています。一閻浮提の人々が法華不信の謗法となったときは、これらの人々を救済する方法は、逆縁による妙法五字の弘教であるとのべたことです。『開目抄』に、 「我一門の者のためにしるす。他人は信ぜざれば逆縁なるべし」(五八八頁) と述べているように、日蓮聖人の弟子信徒は順縁であるが、法華不信の者は不軽菩薩が増上慢の比丘に法華経を説いたように、逆縁には逆化する必要をのべます。法華経を誹謗することは仏道に入る因縁になります。不軽菩薩は人々の仏性を尊び(仏性礼拝)ますが、かえって怨嫉をいだかれ迫害にあいます。この毀謗迫害を引き出しその縁により、人々を法華経に誘引する弘教の手段を逆化といいます。これを逆縁といい法華経の独特の化導法といえます。(日本思想大系『日蓮』一八五頁)。いわゆる、「逆縁下種」を本書にのべたのです。「毒鼓下種益」については『曽谷入道殿許御書』にいたりますが、すでに、『観心本尊抄』に「彼脱此種」「題目五字」(七一五頁)とのべているように、妙法五字の下種はのべています。つまり、本書には末法の衆生は謗法の者であり、不信謗法を救済するためには、妙法五字を新たに下種しなければならないとのべています。その例として不軽菩薩の仏性礼拝を挙げました。教学としては「末法折伏下種」(「末法下種」「折伏下種」「本未有善」「毒鼓の縁」などの用語があります)といいます。(拙稿「日蓮聖人の下種論――不軽品の逆縁下種を中心として――」『日蓮教学研究所紀要』所収、第八号一九頁)このことは『曽谷入道殿許御書』において後述します。 そして、本書は肝心要の「取要」をのべることから、次の「広略要」についての問答となります。このことは、『法華題目鈔』(文永三年)にのべています。 「一部八巻二十八品を受持読誦し随喜護持等するは広也。方便品・寿量品等を受持し乃至護持するは略也。但一四句偈乃至題目計りをとなうる者を護持するは要也。広・略・要の中には題目は要の内なり」(三九四頁) つまり、「広」とは法華経一部八巻二十八品の受持、「略」とは方便・寿量品など一巻一品の受持、「要」とは肝要の題目の受持のことです。本書に「要」とは上行菩薩の所伝である、妙法蓮華経五字であるとのべます。 「疑云 何捨広略取要乎。答曰 玄奘三蔵捨略好広。四十巻大品経成六百巻。羅什三蔵捨広好略。千巻大論成百巻。日蓮捨広略好肝要。所謂上行菩薩所伝妙法蓮華経五字也。九包淵之相馬之法略玄黄取駿逸。史陶林之講経捨細科取元意等[云云]。仏既入宝塔二仏並座 分身来集 召出地涌 取肝要当末代授与五字当世不可有異義」(八一六頁) ここに、日蓮聖人は「広・略」を用いず「肝要」を採択する理由をのべます。玄装三蔵は四十巻の大品般若経を六百巻に広げて訳したので「広」といい、羅什三蔵(鳩摩羅什)は千巻にも及ぶ大智度論を百巻に訳したことから、「広」を捨て「略」を用いたとのべます。日蓮聖人は「広・略」を用いず「肝要」を大事とする立場をのべます。日蓮聖人は釈尊の真意は法華経にあるとし、その法華経の肝要は寿量品の南無妙法蓮華経とみました、これを「広略」を捨て「要」を取るという表現をされたのです。その「肝要」とは上行菩薩が釈尊から伝授された、妙法蓮華經の五字とのべます。この肝要を用いる例として二つの故事を引きます。『事文類聚』の「九方皐相馬」と『宋高僧伝』を引きます。これは宋の祝穆(しゅくぼく)が一二四六年に編集したものです。「芸文類聚」の体裁に倣い、古典の事物・詩文などを分類したものです。ここに、奏の九包淵(九方皐)は馬を見分けるときに、黄色を帯びた病氣の馬を排除して、優れた駿馬だけを選択した(黄色の牡馬を得たと報告したけれど穆公が見ると玄い牝馬であったが名馬だった)ことを引き、形式よりも内容を重視し逸物を見抜く能力をのべます。「史陶林」(史道林)の故事は、梁の慧皎(四九七年~五五四年)の撰した『宋高僧伝』(五一九年成立)にあります。中国の東晋の僧の史陶林は二五歳にて出家します。経典を講説するときに章句の末節に拘泥せず、経文の元意だけを取って講義したという故事を引きます。守文の徒から批判を受けましたが、友人の謝安は喜び九包淵の「馬を相するや、その玄黄を略してその駿逸を取る」と言って肯定したといいます。(日本思想大系『日蓮』一八六頁)。つまり、細かい解釈よりも大意が大事であることをのべます。日蓮聖人は「肝要」を重視した故事を引き、「取要」の意義をのべたのです。その「肝要」とは「上行菩薩所伝妙法蓮華経五字」のことです。宝塔品にて多寶仏が証明し、釈迦・多寶の二仏が宝塔内に並座されます。釈尊の分身仏が十方より来集したなかで地涌菩薩を召します。そして、釈尊が地涌に授与したのは、一代仏教の「肝要」である妙法五字とのべます。つまり、末法の衆生のために法華経の「肝要」を取って授与されたのが、妙法蓮華経の五字ということです。日蓮聖人はこの教えに対して、異議を申し立ててはならないと厳命したのです。 【第五段 三大秘法】法華広布次に、この妙法五字が流布することの「先相」(八一六頁)があるかを問います。「先相」とは前相・前兆と同じで、前もってある物事が起こる前ぶれをいいます。たとえば予兆のように大地震が未来に起こる事を予知させる現象も含まれます。人間の生活は自然環境とつながり、周辺におこった出来事や現象には未来におこることを暗示するものがあります。日蓮聖人はその「先相」を方便品の十如是にみます。天台大師は十如是を空仮中の三諦として三転読文の解釈をし、三諦円融の法門を立て一念三千の依拠としました。十如是を挙げたのは仮諦としての法界から十界の様相が生じることを示すためです。天台大師の『法華玄義』の「蜘虫(くも)が掛れば喜び事があり、鵲が鳴けば客人が来る。小事でさえ斯くの如しである。況んや大事をや」(取意)の文を引き、小さな出来事にさえ前兆があり、まして大事なことは必ず前兆があることをのべます。そして、『立正安国論』にのべた正嘉の大地震や、それ以降の大規模な天変地夭が発生し、仁王経に説かれた七難・二十九難・無量の難、及び、金光明経・大集経・守護経・薬師経等の諸経に説かれている諸々の災難は、すべて現実のものとなったとのべ、妙法蓮華經の五字が流布していく先兆であるとのべます。ただし、仁王経に説かれている、「二つ、三つ、四つ、五つの太陽が出現する」という大天変だけは現われていないが、佐渡の国の住民は口々に、「今年の一月二十三日の申の時(午後四時頃)、西の空に二つの太陽が出現した」と言い、ある住民は「三つの太陽が出現した」ということを挙げます。また、「今年の二月五日には東の空に明星が二つ並び出て、明星と明星の間は三寸ばかりであった」と話していたことを挙げます。流罪を赦免され鎌倉に帰還する三月二六日以前の、一月二三日、二月五日に起きたことを住民から聞いたのです。そして、この大難は日本の歴史上に、未だかつてなかった大天変であるとのべます。そして、金光明最勝王経・首楞厳経・薬師経・金光明経・大集経・仁王経の日月天変の文を挙げ、 「最勝王経王法正論品云 変化流星堕 二日倶時出 他方怨賊来国人遭喪乱等[云云]。首楞厳経云 或見二日或見両月等。薬師経云 日月薄蝕難等[云云]。金光明経云 彗星数出 両日並現 薄蝕無恒。大集経云 仏法実隠没乃至日月不現明等。仁王経云 日月失度 時節返逆 或赤日出 黒日出 二三四五日出。或日蝕無光 或日輪一重二三四五重輪現等[云云]。此日月等難七難・二十九難・無量諸難之中第一大悪難也」(八一七頁) と、この太陽や月の異変は、仁王経の七難や二十九難、無数の難などの中でも、最も大きな悪難であるとします。 そして、これらの災難が到来する起因についてのべます。災難の興起については、『守護国家論』『災難興起由来』『災難対治鈔』『立正安国論』にのべていました。本書には『開目抄』にみられる法華経の行者にたいする迫害に視点を当てます。 「答曰 最勝王経云 見行非法者当生於愛敬 於行善法人苦楚而治罰等[云云]。法華経云 涅槃経云 金光明経云 由愛敬悪人治罰善人故 星宿及風雨皆不以時行等[云云]。大集経云 仏法実隠没乃至如是不善業悪王悪比丘毀壊我正法等。仁王経云 聖人去時七難必起等。又云 非法非律繋縛比丘如獄囚法。当爾之時法滅不久等。又云 諸悪比丘多求名利於国王太子王子前自説破仏法因縁破国因縁。其王不別信聴此語等[云云]。齎此等明鏡引向当時日本国浮於天地宛如符契。有眼我門弟見之。当知此国有悪比丘等 向天子王子将軍等 企讒訴失聖人世也」(八一七頁) つまり、現状の日本国には悪僧たちがいて、天子や王子や将軍等へ讒訴を企て、正法を広める法華経の行者を流罪に処したこと。また、名利を求めて破仏法・破国の邪教を説き、それを弁えずに国王たちが信受したため、聖人が失われようとしていることを、知るべきであるとのべたのです。そして、本書の最後の問答として、過去に仏教を弾圧した事件のときは、災難が起きなかった事例を引き、日蓮聖人との相違をのべます。すなわち、阿育大王の末孫にあたる弗舎密多羅王が悪臣の献策を容認し、阿育大王が造った仏塔を破壊し仏教を迫害し滅ぼした時。唐の武宗(会昌天子)が道士の趙帰真を重用し、中国の仏教を弾圧し破滅させた時。これは、『旧唐書』、『資治通鑑』などの史書の記録に、弾圧は会昌五(八四五)年四月から八月まで行われ、七月に「毀仏寺勒僧尼還俗制」の詔が下され、寺院四千六百ヶ所余り、招提(「招闘提奢」の略で衆僧の住む客房・道場をさします)・蘭若(人里を離れ仏道の修行に適する閑静な寺院のこと)など四万ヶ所余りが廃止します。還俗させられた僧尼は二十六万五百人、没収寺田は数千万頃、寺の奴婢を民に編入した数が十五万人といいます。また、日本の物部守屋が日本の仏教の流布を妨害した時。これは、同じ廃仏派の敏達天皇と物部守屋と中臣氏が結託し、崇仏派の蘇我馬子と対立しました。『元興寺伽藍縁起並流記資財帳』によりますと、敏達天皇一三(五八四)年九月に、蘇我馬子は宅の東に仏殿を造り、百済から将来した弥勒の石像を祀り、善信尼と弟子の禅蔵尼と恵禅尼を招いて齋会を催します。ところが、翌年三月に物部守屋は、この奉仏のため疫病が発生したとして、天皇に働きかけ「仏教禁止令」を出させます。そして、仏像と仏殿を破壊し善信尼などの僧尼を還俗させ、海石榴市(つばき)の亭に禁固させます。(『日本仏教史辞典』六〇〇頁) また、提婆菩薩や師子尊者等が殺害された時。これは、仏法のために身命を賭した(不惜身命)、正法の伝承者の事例をあげます。提婆菩薩は仏滅後九百年紀元三世紀ころの龍樹の弟子で『百論』を著しました。南インドで外道に帰依していた王や多くの論師を破折したため、その弟子に恨まれて刺し殺されます。死ぬ直前まで自分を殺そうとした相手を憎まず、悔い改めさせようとして逃します。師子尊者は釈尊の滅後一二〇〇年頃、中インドに生れ、第二三祖鶴勒那に法を受け罽賓国にて教化します。国王は多くの塔を破壊し僧侶を殺害していたので、師子尊者は国王に抗議します。しかし、外道の嫉みに謀られ、弥羅掘(檀弥羅王)は師子尊者の首を斬り殺します。この師子尊者で付法蔵は途切れ、インドにおける仏教は衰退の一途をたどります。これらの事例を列挙して、このような大難が起こらなかったのはなぜなのかを問います。そこで、前代におきた迫害と日蓮聖人における迫害の相違について次のように答えます。 「答曰災難随人可有大小。正像二千年之間悪王悪比丘等或用外道或語道士 或信邪神。滅失仏法似大其科尚浅歟。今当世悪王悪比丘滅失仏法 以小打大 以権失実。削人心不失身 不焼尽寺塔自然喪之。其失超過前代也。我門弟見之信用法華経。瞋目向鏡。天瞋人有失也。二日並出一国並二国王相也。王与王闘諍也。星犯日月臣犯王相也。日与日競出四天下一同諍論也。明星並出太子与太子諍論也。如是乱国土後 出現上行等聖人 本門三法門建立之 一四天四海一同妙法蓮華経広宣流布無疑者歟」(八一七頁) 正像時代と末法時代における災難の興起は、その時の人々の仏教受容の情勢に随って、大小の違いがあるとします。これは破仏法・破国の度合いのことです。破仏法においても外形的なものと内面的な罪の軽重があります。その例として、正像時代の悪王や悪僧たちは、外道の教えを用いて道教の士と称したり、邪神を信じて仏法を破っていたが、その過失は軽いとのべます。これは仏教以外の教による仏教への弾圧のことで、外形的な破仏法といえます。これに対し、当世の悪王や悪僧たちは、小乗を以て大乗を破り、権教を以て実教を失い仏法を滅失させているとのべます。現在の破仏法は仏教をもって仏教を弾圧しています。「退大取小」(『唱法華題目抄』一八七頁)は大乗の法華経を捨てて小乗を重んじることで、法華誹謗による堕獄の罪となります。同じように、「以小打大、以権失実」は小乗を信じて大乗を破り、権教をもって実教を滅ぼすことで、目的は法華経と法華経の行者を滅ぼすことです。邪教を支持する邪師だけが残ります。これは、平頼綱であり律宗の良観たちを指します。前代のように僧尼を殺害し寺院を焼却するという外形的な迫害ではなく、人の心を悩乱させ内面的に仏教を滅ぼそうと画策することをいいます。日蓮聖人はこの「以小打大」の破仏法こそ、前代に超えて罪が大きいとのべています。つまり、当時の悪王や悪僧たちの謗法(「執権謗実」)の罪は、正像時代の悪王や悪僧たちにも増して重大になり、したがって国難も前代未聞であることを示唆します。それゆえに、日蓮聖人の門弟たちは、法華経の信心を強くもたなければならないと訓戒します。眼を怒らせて鏡を見ると、眼を怒らせた自分自身が鏡に映し出されます。それと同様に、天が怒って災難をもたらしている原因は、人間が謗法の失を犯しているから、その反映として現実の日月難として現れているとのべます。そして、この日月難のいわれについて、二つの太陽が並んで出ることは、一つの国に二人の国王が並び立とうとする前兆であるから、。必ず王と王との内乱が起こり、太陽や月の運行を星が邪魔するのは、臣下が王を滅ぼそうと反乱する前兆であるとのべます。また、太陽がいくつも競って出ることは、世界中に戦争が起きる前兆とし、明星が並んで出るのは太子と太子との争いごとが起きる前兆と解釈します。つまり、内乱や外国からの戦乱が起きる前相であるとのべたのです。その原因は法華経の行者である、日蓮聖人を迫害した結果に起きた、天変であると示されたといえます。そして、『観心本尊抄』に、 「今末法初 以小打大 以権破実 東西共失之天地顛倒。迹化四依隠不現前。諸天弃其国不守護之。此時地涌菩薩始出現世但以妙法蓮華経五字令服幼稚。因謗堕悪必因得益是也」(七一九頁) とのべたように、本書も法華経流布の予兆として見れば、このように国土が乱れた後に、上行菩薩等の聖人が出現して法華経を広めるとのべます。そして、経文の予見(「十神力」『観心本尊抄』七一七頁)からすれば、その上行菩薩は本門の三つの法門(「三大秘法」)を建立し、全世界一同に、妙法蓮華経の題目が広宣流布していくことは疑いないとのべ、本書の執筆を終えます。一月一四に書かれた『法華行者値難事』に、三大秘法の萌芽的な表現が見えていました。 「天台・伝教宣之 本門本尊与四菩薩戒壇南無妙法蓮華経五字残之。所詮一仏不授与故二時機未熟故也。今既時来。四菩薩出現歟。日蓮此事先知之」(七九八頁) 本書の草案は二月五日以降に書き始めたと推察できます。本書に「三大秘法」建立の意志が、明示されたのです。本書から日蓮聖人の強い布教の信念をうかがうことができます。この点から日蓮聖人が絶望感をいだき、とかく疎外感や孤独感をもった弱者とするのは賛成できないといい、また、『聖密房御書』や『別当御房御返事』からも首肯できるとします。(佐藤弘夫著『日蓮』二六〇頁)。本書は日興上人の写本により五月二四日とされますが、早ければ文永一一年二月五日以降、遅くみれば一一月一一日までの間とする見解があります。これは、佐渡の天変の記述と、蒙古の襲来した情報を得たときを根拠とします。しかし、『法華行者値難事』の文章には、天変が起きる前に、すでに、蒙古襲来の予測ができていたことがうかがえます。もし、蒙古襲来が起きた後の著述としますと、鎌倉退出における日蓮聖人の内心に、変化があったと受けとることができます。それは、本書の草稿二本に、 「如是乱国土後 出現上行等聖人 本門三法門建立之 一四天四海一同妙法蓮華経広宣流布無疑者歟」(八一七頁) の文がみられないことにあります。本書は二度の改稿をして完成されたと見るからです。(都守基一稿「『法華取要抄』の成立」『鎌倉仏教の様相』所収三八二頁)。一貫してみられることは、日蓮聖人の法華経の行者意識です。鎌倉から身延へ身を移した寂しさには、鎌倉や房総などの信徒との別れの辛さがあったことでしょう、故郷の両親の墓からも遠くなります。そのような心情を持つところに、信徒は惹かれたと思います。そのような凡心をもちながら、行者としての道を歩む日蓮聖人の法華経観をうかがうことができ、「一心欲見仏」と説かれた、私たちの修行の原点があると思います。 三月二六日に第九一代天皇の後宇多院(一二六七~一三二四年)が八歳にて即位します。亀山天皇の第二皇子、母は藤原佶子(きつし。京極院)で、文永・弘安の両役を経験します。法名は金剛性、別名として大覚寺殿と号します。(在位は文永一一年三月六日~弘安一〇年一一月二七日)。諱は世仁(よひと)といいます。こののち富木氏の母親から帷子と金銭が送られてきます(『富木尼御前御返事』八一八頁)。そして、草庵ができるまで(六月一七日『庵室修復書』一四一〇頁)の一ヶ月の間は、甲斐地方を巡化されたのです。 |
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