241.小室妙法寺の善知法印と験競べ  高橋俊隆

◆第三節 身延周辺の布教(小室妙法寺と白犬)

○小室妙法寺の善知法印と験比べ

波木井氏と草庵建設の相談が行われ、日蓮聖人は庵室のおおよその間取りを指示され、庵室の外回りの地ならしや、庵室にいたる道路の整備も指示されたと思われます。しかし、一ヶ月の建築期間で庵室いがいの工事をすることは難しいので、その後もいくらかの人手と弟子などで工事を続けたことでしょう。七月二六日付けの『上野殿御返事』、八月六日の『異体同心事』(太田氏宛て)ころに幾分は落ちつかれ、蒙古襲来の「文永の役」の情報が入ります。一一月一一日の上野氏、二〇日に曽谷氏に書状を宛てられたことからしますと、一一月の中頃には庵室に落ちつかれ、冬に向かう準備をされたと思います。庵室の造営と並行して『法華取要抄』を書き上げられました。そして、庵室が建ちあがるあいだを利用して、近辺の地形や集落を観察しながら布教をされます。日朗上人と日興上人の二人を伴い、甲斐の小室・伊佐和(石和)・八代・北原(休息村)や信州の蔦木(富士見町)などの布教をされ、北巨摩郡の甘理をへて波木井に帰ってきたといいます。(『身延山史』二頁)。また、西出(手)・金川原・中野・湯沢などの地名がみえます。(『本化別頭仏祖統紀』『本化別頭高祖伝』)。この甲州遊化については疑念があるといいます。(山川智応著『日蓮聖人伝十講』下巻五四三頁)。ただし、日興上人は鰍沢の出身で母方は冨士河合の出身でありました。父親は大井の庄司橘ノ入道といいます。幼いときに父親を喪い外戚の由井氏の養子となりました。真言宗実相寺の別当播磨律師に弟子入りし、後に四十九院の供僧職を有していましたので、土地の事情や所在する寺院についても詳しかったと思います。真言宗の寺院として内房には胎鏡寺、南部に妙楽寺、横根にいた山伏の実教阿闍梨不動院日成上人は、玉林山実教寺を建てました。また、西山殿は台密の信者であったといいます。前述しましたように、日興上人は修験僧との繋がりがありますので、積極的に身延周辺の布教に出られたことは事実です。

草庵が完成される間に周辺の布教をされます。身延山から五、六里ほどのところの増穂町に、真言宗の巨刹である小室山があります。小室山はもと仁王山護国院金胎寺といい持統天皇七(六九三)年に役の行者が開いたといわれています。東(あずさ)三三カ国の修験道(山伏)の棟梁(つかさ)としての古刹で大きな勢力をもっていました。身延を拠点として法華経を弘通するためには、まず、金胎寺を破邪顕正することが先決であったのです。五月二八日に小室山に向かわれます。途中、田に働いている乙女の足に蛭がいくつもついているのを見た日蓮聖人は、たとえ蛭一匹でも殺せば殺生の罪を犯すことになるので、罪を犯さなくてもいいようにと、蛭を手にとって法華経を読誦したところ、たちまち人にとりつく蛭がいなくなったといいます。小室のとなりにある土録という処にいる蛭は血をすわないといわれ、土録蛭とよばれているそうです。この不思議に驚いて集まってきた人たちに、小室山の門前にて法華経の教えを説かれました。これを知った小室山の住持である恵頂阿闍梨善知法印(『本化別頭仏祖統紀』。「肥前公恵朝」『高祖略縁起』。「恵朝阿闍梨」『白犬天神縁起』)は、山伏数十人を連れて日蓮聖人を論伏しようとします。しかし、法論に敵わないと知ると法力(法術)勝負にでます。「妙法寺山緒書」に「呪術の捔力」を行ったとあります。捔力は力くらべのことですから、修験の法力や行力を競ったということです。(中里日応稿「日蓮聖人身延山御入山以前の七面山と身延」『棲神』四二号五三頁)。『本化別頭仏祖統紀』には「法力を角(きそ)う」とあります。

修験者は自己にむけての覚りの行と、他者にむけて験力を示す必要があります。修験とは修行によって体得した効験を現すことをいいます。庶民が求めることを叶えなければなりません。その方法が修法であり祈祷とよばれます。修験者の間においても互いの験徳を競います。(宮地直一稿「山岳信仰と神社」『山岳宗教の成立と展開』所収。一一四頁)。行力の浅深を判ずるためや、宗派依経の勝劣を判定するときに行われました。これを「験競」(験くらべ)といいます。「手護摩」「湯立釜」「剣の刃渡り」「火渡り」など多種多彩にみることができます。(五来重著『山の宗教―修験道』八五頁)。また、かつてあった戸隠の柱松行事や、修験関係の柱松にみられるように、柱によじのぼって火をつける早さを競うのは、山伏の「験くらべ」に由来します。(和歌森太郎稿「柱松と修験道」『山岳宗教の成立と展開』所収三七〇頁)。この山伏の験競べが儀礼化したのが吉野の「蛙飛」や鞍馬の「竹伐り」、羽黒山の「兎飛び」などです。(アンヌ・マリブッシイ稿「愛宕山の山岳信仰」『近畿霊山と修験道』所収一一八頁)。とくに、秋から冬にかけて山中に入り、正月か春先(旧暦四月八日)に出峰する「冬の峰」は、験力を養う厳しいものです。山中で年越しをするので晦日山伏と言われ、出峰すると験競を行いました。これを今に伝えるのが、羽黒山の松例祭の「烏飛び」「兎の神事」「大松明まるき」「火の打ちかえ」などの競技です。(宮家準著『修験道と日本宗教』一九頁)。日蓮聖人と善智法印のあいだに、この「験くらべ」が行われたのです。

善智法印は東三十三ヶ国山伏の棟梁として、肩を並べる者がいないといわれた行者でした。日蓮聖人が座っていた大石を一丈ほど持ち上げます。日蓮聖人はその石を空中に停止させ、大石をもとの下に下ろせなくします。空中にある大石を空に縛り止めたから、真言の法力で下ろしてみなさいと言われ、石を下ろそうと祈りますが石は空中に浮かんだままでした。善知法印は己の法力が法華経に敵わないことを知ります。日蓮聖人が読経すると大石は静かに地上にもどります。この石の大きさは左右約六㍍、横幅二㍍ほどといいます。法論の様子を木版にしたのが懸腰寺の宝物となっています。大石は寺のなかにあり、その上に日蓮聖人の尊像が安置されているといいます。(宮尾しげを著『日蓮の歩んだ道』一五二頁)。この持ち上げた石を法輪石といい、この場所に建治二年に妙石山懸腰寺が建てられました。また、川の水をせき止める呪術を行います。日蓮聖人はこの水口を開いて流れ落としたといいます。この所を口漏沢(くろさわ)といいます。(『高祖略縁起』)。同日、小室山にも立ち寄り善知法印を帰信させたといいます。七日間滞在して『立正安国論』を講述され、八日目に身延に帰ったといいます。(竹下宣深編『日蓮聖人霊跡宝鑑』一一六頁)。宮家準氏は『修験道と日本宗教』(五九頁)に、「なを佐渡にも、日蓮が山伏と験競べをして、山伏が大石を天に舞いあがらせたのに対して、日蓮がこれを呼びもどして山伏を下敷きにして殺したとの話が伝わっている」とのべています。この殺人をしたということは誤解ですが、日蓮聖人の修験の力、法華経の経力の強さが曲折して伝わった一例と思います。