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○白犬の伝説善智法印は本心より随順したのではなかったので、翌年の建治元年の秋に身延の草庵に訪れ、粟餅(ぼた餅・饅頭)に鴆毒(ちんどく)を入れて日蓮聖人を殺害しようとします。日蓮聖人はこの奸計を見破り善智に毒味をするように命じますが、善智は堅く辞退したので、ちょうど庭先にきた白犬に餅を与えたところ悶絶します。このあと、「小室山毒消し秘妙符の由来」によりますと、護符を作って与えたところ、まもなく元気になったと伝えます。『高祖日蓮大菩薩略縁起』には、妙符を認め水に点して白犬の口にそそぐと、忽ちに蘇生したとあります。しかし、定業により三日を過ぎて病死したとあります。これをみた善知法印は懺悔しあらためて弟子となります。熊本の出身なので肥前公日伝と名乗り中老僧の一人となります。白犬が蘇生した霊験に肥前公は法華経に信心をもち、自分の罪障を懺悔したのです。(『高祖日蓮大菩薩略縁起』文化一五年・『開運日蓮大菩薩略縁起』天保六年)。ただし、『高祖略縁起』(甲州小室徳栄山妙法寺略縁起)には白犬蘇生のことは書かれていません。このとき、日蓮聖人が与えられた歌が、「おのずからよこしまに降る雨はあらじ、風こそ夜半の窓をうつらめ」、と伝えています。そして、小室山を徳栄山妙法寺と変え、法華経の寺院としました。身延の醍醐谷にある志摩坊は日伝上人が住まわれた跡といいます。志摩坊の山号は要行院といい建治元年に開創され、三年を経て旧地に帰ったといいます。醍醐谷の由来は善智法印の号が醍醐と称したので、後人が地名としたといいます。(『日蓮宗寺院大鑑』三二二頁)。 また、毒餅を食べた白犬は悶死したという説があります。法喜山上沢寺(銀杏寺)に毒饅頭を食べて死んだ、白犬の遺骸を埋葬したといいます。日蓮聖人は犠牲になった白犬を憐み、墓標代わりに銀杏の杖をたて供養されました。杖が逆さまだったので葉から実がなる木となりました。いわゆる、杖差神樹で「お葉つき銀杏」「さかさ銀杏」とよばれています。法喜法印は日受と名のります。また、別の説では、小室山にて法論に負けた善智法印が、毒饅頭をもって追いかけ、下山の上沢寺のあたりで追いつきます。ところが、一匹の犬がその毒饅頭を食べて悶死します。日蓮聖人はこの犬を哀れに思い、白犬を葬り銀杏の杖を墓標として立てたといいます。このときに供養した塔婆は、身延文庫に伝来しているといいます。(望月真澄著『御宝物で知る身延山の歴史』二一頁)。遠沾院日亨上人の「身延山久遠寺諸堂等建立記録」に、「犬の塔」の記録があります。ここに、「小室日伝聖人帰伏ノ因縁詳ヵニシ諸人口碑二其塔婆ノ残木在リ宝蔵」(『御本尊鑑』一四六頁)と、嘗ては御廟所の側に白犬の墓碑があったことがわかります。白犬のために塔婆を建てて供養していたのです。善智法印が信服した出来事が毒饅頭であり、その犠牲となって死んだ犬の菩提を、大切に弔っていたことがわかります。その「犬塔婆」の残木が宝蔵に保存されていたのです。白犬の出来事を、これとは別に伝えたのが志摩坊の造営の記録です。ここに、小室日伝上人は建長六年に清澄寺に遊学しており、このときにはすでに日蓮聖人とは交友関係にあったという、塩田義遜先生の説を引用されています。(林是晋著『身延山久遠寺史研究』一五七頁) また、志摩坊の縁起に上沢寺も元は真言宗の寺とあります。善智法印は上沢寺の法喜阿闍梨と結託し、帰路の日蓮聖人にこの坊での休憩をもちかけ、毒入りのぼた餠を差し出します。勧められるがままに、日蓮聖人がぼた餅を食べようとした、まさにその時、どこからともなく一匹の白い犬があらわれます。日蓮聖人はお前も食べたいであろうと、ぼた餅を犬にあげたところ、一口食べた犬は血を吐き、たちまちに絶命してしまいます。この光景を目の当たりにした善智法印は、日蓮聖人の不思議な神佛の加護の前に、ついに観念し心からお詫び申し上げ、弟子入りをお願いしたとあります。 また、白犬の遺骸を法喜阿闍梨の坊に埋葬し、無量刧に供養するようにと墓をたてます。この墓標にした銀杏の杖より芽がふきだしたのが、毒消しの逆さ銀杏となります。明治二四年七月に、白井光太郎博士により始めて学界に紹介されました。「逆さいちょう」「お葉つきいちょう」と呼ばれます。この白犬の霊を法喜阿闍梨日受上人は、白犬天神(狛犬天神)として勧請されたのです。(「宗祖大士御身替」『白犬天神縁起』承応二年上沢寺)。また、「小室妙法寺興造縁由」には毒饅頭を食べた真似(偽)をして庭に投じたところ、白犬が来て食べて斃れたとあります。日蓮聖人は護符をあたえて蘇生させたとあります。また、「白犬尊縁記」には白犬がどこからともなく来て、悠然と遊んでいたとあります。日蓮聖人は毒饅頭の入った破り子(破籠)を開け、まず善智にすすめます。善智法印が辞退して日蓮聖人にすすめるので、不信におもい側にきていた犬をよび、この餅には毒が入っているが自分のために食べて死んだならば、永代に供養すると言って与えます。犬も最初はにおいを嗅ぎ食べませんでしたが、杖をもって諭(寵)したところ、これを食べ即時に死んだとあります。日蓮聖人はこの場所に墓をつくり、自筆にて塔婆を建て寵した杖を墓の上に建てた縁により、法喜食山と号したとあります。(今村是龍著『身延の伝説』四四頁)。供養の塔婆は身延山の草庵のところと、上沢寺の二カ所にあったことになります。白犬が日蓮聖人の身代わりになったのは草庵のところか、上沢寺であるのかという疑問がおきます。どちらにも毒餅と白犬が関係していた記述は一致しています。この白犬の飼い主が法喜阿闍梨であったのかもしれません。 さて、先師もその旨を伝えたように、善智法印が日蓮聖人の弟子となった理由に、この白犬が大きく関係しています。ことに、草庵の近くに卒塔婆を建てて供養していたことは留意すべきことです。白犬が蘇生したとする霊験談が大きく関わっていると思います。験競べについて興味深いことは、平安末期に描かれた鳥獣人物戯画の内容にあります。そのなかでも山伏と真言僧の二人が、兎に扮した者に気合いをかける図があります。これは、験競べの「折り殺し・折り生かす」という、呪殺・呪活を意味している図と推測されています。(『日本民族大辞典』上。五七七頁)。本図には僧侶が多く書かれ、擬人化された動物の水遊び・賭弓・相撲・綱引きなどに験競べの要素を見ることができます。つまり、過去の修験者は呪殺・呪活という法力をもっていたということです。善智法印が日蓮聖人に屈服した理由は、此処にあると思います。また、犬に関わることとして、犬を連れて獲物をとる狩人や、犬を連れている鉱山神があります。空海を高野に案内した犬飼明神の言い伝えなどには、犬を鉱山師や鉱夫、また、狩人と関連づける見解もあります。(若尾五雄稿「近畿山岳信仰と丹生」『近畿霊山と修験道』所収四七九頁)。山中にて光り物を発見するのは狩人が多く、ここに社寺の開創伝説が始まることが多くみられ、雨畑村の伝説もこの一例といえます。 また、日蓮聖人は小室に布教されたおり増穂町の青柳を通ったところ、疫病が流行して里人が苦しんでいたので、ここに一泊して病難退散のお札を書いて祈願されました。この縁により村人が身延の草庵に尋ねて教えを受けていたと言います。建治二年に日蓮聖人より曼荼羅を授与され、一寺建立の気運がおき、のち、肥前公日伝上人(善知法印)の弟である十如院日全上人が、永仁六(一二九八)年に寿命山昌福寺を建立します。肥前公日伝上人は自ら日蓮聖人の木造を造り、寿命長久の祖師として十如院日全上人に授与されました。これにちなみ、山号を寿命山とし寺名は十如院日全上人の昌福阿闍梨号から名付けられました。昌福寺の言い伝えによりますと、この地には悪霊がいて里人が難渋しており、そこへ通りがかった日蓮聖人が石に法華経を書写して悪霊を払ったといいます。これにより里人は日蓮聖人に帰依して一寺を建立し、日全上人を住持に迎えたとあります。文明年間(一四六九〜一四八七年)に、水害により一町ほど東より移転しています。(『日蓮宗寺院大鑑』三六三頁)。石和においては鵜飼いを救済され、北原では安国論を講じ、修験僧の宥範法印を教化されています。もとは真言宗の金剛山胎蔵寺といい、日蓮聖人は門前で立正安国論を講じ、このとき住持の宥範が帰依します。文永一一年に全山改宗し休息山立正寺となります。(第二部「経ヶ嶽」富士・甲州の巡行)。甲府市上曽根町に知勝山妙石庵があります。近くに日枝神社がありますので、山王権現との関係から日蓮聖人はここを参拝され、神社の前の大石のところで辻説法をされました。この縁由により妙石庵が造られました。妙石庵の前の道は中道往還とよばれた鎌倉街道です。妙石庵の裏に曽根大屋といって、池上に向かわれたときに宿泊されたところがあります。そして、信州の蔦木方面を巡教されて身延に帰られています。 このように、日蓮聖人は修験者との法論・験競を行われたようです。日興上人の教化した弟子などにも修験に関わった僧がみえます。たとえば、鰍沢蓮華寺の寂日坊日華(秋山氏の一子)・日妙上人は七覚山の修験者といわれます。小室妙法寺の百貫坊日仙(小室の城主小笠原の一子)・日伝、青沼国府寺の治部房、柏尾寺の甲斐公蓮長、走湯山(そうとうざん)五百坊の学匠であった式部僧都、同じく円蔵坊に登山していた虎(寅)王丸(日目)や、箱根権現の帥房などが帰伏しています。(『冨士宗学要集』第五巻三六二頁。池田令道稿「竹取物語と冨士戒壇の縁由」『興風』一七号一五五頁)。日蓮聖人に常随給仕をされた弟子が数人います。そのなかでも日興上人などは日蓮聖人の居住の地が安全なことを確認されて、蒲原岩本や冨士方面、伊豆方面の縁故の信徒を獲得するため奔走されていたと思います。仁田郡畑郷(静岡県田方郡函南町畑毛)の新田四郎信綱は上野南条時光氏の姻戚です。その弟の五郎が走湯山の円蔵坊にて修学中に、伊豆山に入り一山の大衆と交歓しています。のち五郎の虎王丸は一五歳にて日興上人の門に入り日目上人と名のります。建治二年四月八日伊豆走湯山円蔵坊にて得度され、この年の一〇月二四日に身延山に入り、それ以後、日蓮聖人に給仕されます。(安立行編著『日蓮大聖人自伝』三二七頁)。 以上のことから、身延に着いた日蓮聖人は波木井氏の邸宅に滞在されず、身延近辺の布教をされたところに、日蓮聖人のこれからの活動の方向性をうかがうことができます。鎌倉退出は法華経の弘通を停止することではなく、次の段階に向けて邁進する意欲をもっていたのです。『法華取要抄』には「三大秘法」をのべます。これは、「戒壇建立」という新たな出発の表明と見ることができます。ただ、その場所が定まったわけではなかったのです。林是幹先生がいわれるように、且く山中に遁れて時期を待ち、さらに幕府諫暁をおこない、「公庁対決」「邪法禁止」「法華国教」を強く願われたのかもしれません。著述や子弟教育をされて法華経を万年に伝えようとされたことは間違いないと思います。(「甲斐日蓮教団の展開」『中世法華仏教の展開』所収。三八〇頁)。 ―以上― |
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