243.身延庵室の完成                     高橋俊隆

●●第五部 草庵完成から『報恩抄』まで
◆◆第一章  草庵完成と「文永の役」
◆第一節  草庵の完成と身延の生活

○庵室の完成

庵室の場所は梅平より身延河にそって、身延と鷹取の裾を入って二〇町ほどとなります。河をわたるところの鷹取の麓に自然にできた平地になります。波木井から一里ほどの鷹取山の麓の谷が身延の沢です。身延河は現在のような大きなものではなく、ささやかな谷川で身延山麓に近いところを流れていたといいます。(『身延山史』一二頁)。前述したように、草庵の敷地は「一町ばかりの間に庵室を結び」(九八六頁)、「はこのそこの如し」「手の広さ程の平なる処あり」(一七三九頁)といわれるように、四山四川の中に手のひらくらいの平坦なところがあり、山間にあっては狭小な一点に住まいを構えたのです。『庵室修復書』によりますと、

「去文永十一年六月十七日に、この山のなかに、きをうちきりて、かりそ(仮初)めににあじち(庵室)をつくりて候しが(中略)今年(建治三年)は十二のはしら(柱)四方にかふべ(頭)をな(投)げ」(一四一〇頁)

と、その狭い場所に波木井実長は木を伐り曳き石をして、日蓮聖人の居住の小堂を建てました。「仮初め」というのは、その場限りでさして重大ではないことをいいます。日蓮聖人の入山当初の心中がうかがえます。しかし、日本国中に身の置き場所がない流浪の旅と思われていたのが、仮初めにも身延山に安堵の住居を得たのです。こののち池上入寂まで九年を身延山にて過ごされることになります。日蓮宗において、この六月一七日を身延草創の日としています。一二の柱で当時の一間は柱間が十尺で約三㍍ですので、庵室は三〇坪で六〇畳ほどの広さで高さは七尺でした(宮崎英修著『日蓮とその弟子』一〇九頁)。あるいは、三六坪ほどのほかに付属の建物があったともいいます(山川智応著『日蓮聖人伝十講』下巻五四八頁)。いずれにしましても質素な建物と思われます。この仮初めの庵室は三年半を過ぎたころには柱が傾き、壁もくずれて雨漏りやすきま風が室内に入り込むようになります。夜には屋根の穴から月の光がさしこんで、灯りをつけなくても読経できたとのべています。また、すきま風の吹き付けることにより、経本が自然にめくれたとのべています。(『庵室修復書』一四一一頁)。建治三年に庵室は急遽、学生たちにより補修されたのでしょう。積雪の重みと長雨による湿気などが、建物を脆くしたのです。しかし、これも弘安四年には倒壊し、同一〇月に新たに一〇軒四面の堂が建立されます。つまり、当初の庵室は数年ほどのために造られたかりそめの堂であったということです。

 さて、六月一六日に佐渡から阿佛房と国府入道が二〇日間の山路を経て身延山に詣でたといいます。そして、日蓮聖人が身延について一ヶ月後の六月一七日に、波木井実長氏が建てた三間四面の草庵に居住することになりました。(『元祖化導記』)。七月二六日に時光に宛てた『上野殿御返事』に、

「今年のけかち(飢渇)に、はじめたる山中に、木のもとに、このはうちしきたるやうなるすみか、をもひやらせ給」(八一九頁)

と、木々に囲まれた木のもとに木の葉を敷き詰めた体裁の草庵であることを知らせています。「仮初め」と思って六月一七日に庵室に入りますが、身延の門一町を出でずに過ごされることになります。実質的に身延の山中に籠もってしまいます。この籠山について紀野一義氏は、定着というよりは自分を見つめ直すためであり、心は絶えず揺れ動き、その止まぬ対象を求めたのが、おびただしい書状であったとのべています。(『日蓮配流の道』五六頁)。自分を見つめ直すということは、上行菩薩としての末法弘通のあり方であると思います。その行動が信徒へ法華経を教えるための書状でした。また多くの弟子を養成され、その弟子を出身地などへ派遣して教線を覚超することでした。信仰の定着を願ったのが曼荼羅本尊の授与といえましょう。身延に定着する意志は廟所を身延に定めたことにうかがえます。では、入寂の地を池上にのぞみ身延を下山された理由はどこにあったのでしょうか。このことについては後述いたします。

【身延での苦しい生活】

身延の四季は日蓮聖人の肉体には辛かったのでした。南房総生まれで鎌倉・比叡山に青年期を過ごした日蓮聖人にとっては、佐渡といいこの身延の冬の寒さがこたえたと思われます。とうじの日本の平均気温は四度から五度くらい低かったといいます。『秋元御書』(一七四〇頁)には、身延には雪が七尺から一丈ほどつもり、土地の猟師さえも行き来しなかったとのべています。長雨や大雪のため交通が遮断され食料が底をつくことがありました。弘安元年は雨量が多く山崩れなどが頻繁に起きました。『種種物御消息』に、 

「ただなる時だにも、するが(駿河)とかい(甲斐)とのさかいは山たかく、河はふかく、石をゝく、みちせばし。いわうやたうじ(当時)はあめはしの(篠)をたてゝ三月にをよび、かわゝまさりて九十日。やまくづれ、みちふさがり、人もかよはず、かつて(糧)もたへて、いのちかうにて候つるに、このすゞの物たまわりて法華経の御こへ(声)をもつぎ、釈迦仏の御いのちをもたすけまいらせさせ給ぬる御功徳、たゞをしはからせ給べし。くはしくは又々申べし。恐々。   七月七日  日蓮   [花押]   御返事」(一五三一頁)

また、同年一二月酷寒『兵衛志殿御返事』に、特に寒中の厳しさは肉体を弱らせることになります。

「なつ(夏)、又いづれのなつかあつからざる。たゞし今年は余国はいかんが候らめ、このはきゐは法にすぎてかんじ候。ふるきをきなどもにとひ候へば、八十・九十・一百になる者の物語候は、すべていにしへこれほどさむき事候はず。此のあんじちより四方の山の外、十丁二十丁は人かよう事候はねばしり候はず。きんぺん一丁二丁のほどは、ゆき一丈・二丈・五尺等なり。このうるう十月卅日、ゆきすこしふりて候しが、やがてきへ候ぬ。この月の十一日たつの時より十四日まで大雪下て候しに、両三日へだてゝすこし雨ふりて、ゆきかたくなる事金剛のごとし。いまにきゆる事なし。ひるもよるもさむくつねたく候事、法にすぎて候。さけはこをりて石のごとし。あぶらは金ににたり。なべ・かまに小水あればこをりてわれ、かんいよいよかさなり候へば、きものうすく食ともしくして、さしいづるものもなし。坊ははんさくにて、かぜゆきたまらず。しきものはなし。木はさしいづるものもなければ火もたかず。ふるきあかづきなんどして候こそで一なんどきたるものは、其身のいろ紅蓮大紅蓮のごとし。こへははゝ(波々)大ばゝ地獄にことならず。手足かんじてきれさけ、人死ことかぎりなし。俗のひげをみれば、やうらくをかけたり。僧のはなをみれば、すゞをつらぬきかけて候」(一六〇五頁)

このように、厳冬には嵐が激しくふき積雪は夏まできえず、昼は陽の光もみえず夜は月を拝することができない(「冬は嵐激しく雪降り積みて消えず極寒の処」)と喩えるほど、辛苦の多い処であったといいます。気候の不順は農作物などが不作になり、食料にも大きく関わってきます。『上野殿御返事』(一五七二頁)には、「富人なくして五穀とも(乏)し、商人なくして人あつ(集)まる事なし」食料難に苦しめられます。銭百文で一升の塩を買うことや、一斗の麦を五合の塩と交換されたとのべ、味噌もなくなったとのべています。気候・風物や交通の不さと村落の社会的状況などの労苦が身延山にはあったのです。

 しかし、日蓮聖人や弟子のために、しだいに信徒から食料や衣服、什器、金銭などの供養が届けられます。供養品は上野氏・富木氏・妙法尼・新尼・南条氏・西山氏・松野氏・曽谷氏・三澤氏・窪尼・千日尼・国府入道などから、海苔・油・菓子・柿・梨・わかめ・昆布・かわのり・栗・味噌・米・塩・芋・酒などの食料が供養されます。小袖・綿衣類着物などの衣類。御器などの什器、筆・墨・紙などの文房具、経典などの典籍、駿馬などが届けられます。身延を訪れた信者が、食事があまりにも粗末なことに驚いて、なかには帰宅してからは一汁一菜以外は口にしなかったと伝えられているほどです。(市川智康著『日蓮聖人の歩まれた道』一九一頁)。紙が不足していることを、「紙なくして一紙に多く要事を申すなり」(『辨殿御消息』一一九一頁)と伝えています。この書状は『報恩抄』を著作していたときですので、なおさら紙が不足されたのでしょう。

日蓮聖人ご自身も山に入って薪を樵り、露深い草を分け入って深谷に下り、春には芹や蕨を摘み、秋には木の実をひろって食をささえていました。弟子たちは畑を作って自給自足にあてました。御廟所から西北の山の裾間に六老畑があります。稗・粟・野菜を栽培したといいます。提婆達多品の「採薪及果蓏、随時恭敬与」(『開結』三四五頁)を色読され給仕をされたと伝えています。「田代六老畑」といいます(『身延鏡』一五九頁)。弟子たちは庵室に同居せず、今の発電所付近に宿舎があったといいます。後年になると各々が坊舎を構えるようになります。『日向記』の「聖人一期行法日記」があるとされています。この原本は現存しないのですが行学院日朝上人の『元祖化導記』にその一部が載せられています。身延在山中に国難として蒙古襲来があります。教団の迫害として熱原法難がおきます。身延山の生活は法華経の行者の生き方であったといえましょう。

 また、身延山は孝養と望郷の恩の山といいます。(新月通正著『日蓮の旅』二三三頁)。日蓮聖人は身延の草庵から五〇丁の山道を、一時間ほどかけて登頂され、東の小湊に向かって両親と道善房をしのび供養されたといいます。別名に大孝院といいます。山門の前に両親をしのんで植えたというお手植えの大杉が二本そびえています。今の麓坊の裏より登られたといいます。かつての登詣道は丹雀嶺より進まれたといいます。この場所に奥之院思親閣が日朗上人の発願により建てられます。日蓮聖人が入寂された翌年の弘安六年五月に、日朗上人が小堂を建て、日蓮聖人が父母を偲んだ意思を継ぎました。現在、思親閣に日蓮聖人の像とご両親の像が安置されています。江戸時代の深草の元政上人が病身をおして、この思親閣に母堂の遺髪を埋葬した髪塚があります。

【身延は霊山浄土】

 また、身延山は日蓮聖人にとって大事な処となっていきます。日蓮聖人は生活には不便で難儀なところであるが、身延山は風光明媚な処であるとのべます。(『新尼御前御返事』八六四頁)。そして、身延山の勝れたことを、『松野殿女房御返事』に、

「此身延の沢と申処は甲斐国飯井野御牧三箇郷の内、波木井の郷の戌亥の隅にあたりて候。北には身延嶽天をいただき、南には鷹取が嶽雲につづき、東には天子の嶽日とたけをな(同)じ。西には又峨々として大山つづきて、しらね(白根)の嶽にわたれり。のなく音天に響き、蝉のさゑづり地にみてり。天竺の霊山此処に来れり、唐土の天台山親りこゝに見る。我が身は釈迦仏にあらず、天台大師にてはなけれども、まかるまかる昼夜に法華経をよみ、朝暮に摩訶止観を談ずれば、霊山浄土にも相似たり、天台山にも異ならず(一六五一頁)

と、内観の身延は釈尊が法華経を説いた「霊山浄土」と同じ聖地であるとのべています。また、同じように『秋元御書』にも「中天竺の鷲峰山を此処に移せる歟」(一七三九頁)とのべているように、釈尊が法華経を説かれた霊鷲山と同じであると、聖地化されて受容していきました。身延山においては昼は終日法華経を論談され、夜は竟夜、法華経を読誦されました。読経と唱題の声が山中にひびきわたり、法華経の教えが山林渓谷にまで浸透していく状況は、釈尊が法華経を説いた霊鷲山を身延のこの地へ移されたのではないかと思えるほどだったのです。肉体的には辛苦が多いのに、「日本一心の富める者」とのべています。こういう心境はどこにあったのでしょうか。身延入山のとうしょは諸国を遍歴して、意にかなった場所に法華経弘通の基礎を作ろうとされていましたが、身延の環境と弟子信徒の往来が、しだいに身延が理想の場所となっていきました。「主上女院の御意たりというとも山の内を出でず」「此の深山に居住して門一町を出でず」「此の山を出づること一歩も候はず」とのべているように、身延は日蓮聖人がとどまるべき聖地となります。身延期の日蓮聖人は、ここからがスタートなのです。そして、身延の飢餓という悪条件のなかで、わずかな弟子とはじまりました。日蓮聖人の身延での歩みは厳しい食料難から始まったのです。次第に大勢の門弟が雑居するようになります。日蓮聖人に随従して修学と修行に励んだ弟子で、能力を身につけて自分の縁故にあたる信徒のために身延とを往復したり、坊舎を構えて地域的な指導者となっていきます。(高木豊著『日蓮その行動と思想』増補改訂版一八二頁)。

その門弟の兄弟や縁のある者ということで、日蓮聖人に面会する者が来訪します。このなかには世俗的な交誼を結ぶ目的で来た者もいたでしょう。四〇人から六〇人となれば、極秘の法門を講義したくても時と場所を選ばなくてはなりません。それに加えて日蓮聖人は下痢を患い衰弱されます。そのようなときに、心中には世俗の煩わしさから抜け出たかったと『兵衛志殿御返事』(一六〇六頁)に心中を吐露しています。この書状は一一月二九日の日付けで、一一日から一四日まで大雪が降り、それに雨が降って雪は金剛のごとく固く締まり根雪になったとのべています。昼も夜も寒く薪を納める者がいなかったので火もたかなかったとのべています。そのような状況のなかで煩わしいとのべた心境をうかがわなければなりません。弘安二年八月一七日には、曽谷道崇氏から多額の布施により、一百余人の人を身延山にて養育していろという書状を送っています。『曽谷殿御返事』(一六六四頁)に一日中、法華経を読誦させ、日蓮聖人が自ら談義していることを伝えています。また、日蓮聖人の御本尊の百幅以上、四百余篇の御遺文のうち三一一篇以上が身延山にて書かれたものです。結果から判断しますと、身延山へ隠居・隠棲された理由は、積極的な法華経弘通にあったといえるのです。日蓮聖人は身延山を、このような読経・談義・布教の場という環境作りをされたのです。ここに、身延霊山浄土の志向が形成されたのです。

『身延鑑』(八五頁)には波木井氏と日蓮聖人と身延山は「三世の約束」があるとのべています。過去の約束として『四条金吾殿御返事』(一八〇〇頁)にのべた「旁々存ずる旨あり」の文。『波木井殿御書』(一九三二頁)の「九ヶ年の間心安く法華経読誦」の文。未来の約束は同じく「未来際までたましい留まる」の文を挙げています。これは、身延山第一三世の宝聚院日伝上人の文にみえます。(北沢光昭著『身延山図経の研究』九八頁)。この「三世の約束」は真の霊山、事の寂光であることを示すといいます。(『身延鑑』一四〇頁)。身延山第一一世の行学院日朝上人は、身延山の十功徳をあげるなかで、八番目に「転法輪をされたのは身延なり」、九番目に「弘化の地は身延山」であるとのべています。(北沢光昭著『身延山図経の研究』九二頁)。また、法華経を読誦された霊山浄土であるという境地から、身延入山は涌出品の色読とみることができるという見解もあります。(安立行編著『日蓮大聖人自伝』三一九頁)。この『身延鑑』の身延霊山説の記述は、法華経至上主義による身延霊山説の萌芽であり、妙法五字と五岳、法華経八軸と八谷、四海流布と四河を結びつけ、「五岳八渓之説」へ展開する前段階となったといいます。(北沢光昭著『身延山図経の研究』三〇八頁)。