244.『富木尼御前御返事』~『別当御房御返事』  高橋俊隆

□『富木尼御前御返事』(一四六)

 真蹟は一紙四行に署名と花押がある新加の遺文です。明治三八年七月二五日に稲田海素氏により発見されました。同じく『弁殿御消息』(四三八頁)も発見され、真蹟は所在地である池上本門寺に所蔵されています。『日蓮聖人全集』には「文体不祥」とあります。第七巻一六八頁)。内容は富木尼から銭(鵞目)一貫、富木常忍氏からも銭(青鳧)一貫が身延山へ送られてきました。本書はその受けとりの礼状です。また、富木尼の手製なのか帷子一領も添えられており、篤い志に感謝された文面がうかがえます。短文からしますと使いの者が帰路を急いだようです。本書は文永一一年に収録されていますが、年次日付が記されていないため、二年後の建治二年の説があります。((山川智応氏『信心』第一七巻第七号)。また、本書は文永一一年に富木常忍氏に宛てたものであり、同日にもう一通、富木尼に宛てた書状があったとするという意見があります。(岡本錬城著『日蓮聖人遺文研究』第二巻三四六頁)。

◎御本尊(一二)

 顕示の年月日と授与者は不明ですが、文永一〇年後半から翌一一年の初頭といいます。その理由はこの御本尊の書式に本化の四大菩薩を認めていることにあります。分身諸仏は省略され、本門本尊の儀相を表されたといいます。(山中喜八著『日蓮聖人真蹟の世界』上四二一頁)。日興上人の添え書きに「佐渡国法花東梁阿仏房彦如寂房日満相伝之」と書かれ、佐渡妙宣寺に所蔵されています。日満上人は阿仏房の嫡子盛綱の孫(興円)になります。富士門流の日華上人の弟子となり、妙宣寺の二世になっています。紙幅は縦四二、七㌢、横二九、一㌢、一紙に認められています。『御本尊鑑』(四頁)の遠沾院日亨上人が書写された曼荼羅といいます。日亨上人は日興上人の添え書きは省略されています。

□『上野殿後家尼御返事』(三九)

前述しましたように、『朝師本』があり経年は不明です。『定遺』は文永二年七月一一日とし、別説に文永一一年としています。南条兵衛七郎が死去した日を文永二年三月八日と推定するからです。尼御前の第二子、五郎次郎は南条兵衛七郎が死去のときに懐妊中(『上野殿母尼御前御返事』一八一七頁)であり、弘安三年に一六歳にて早世(『上野尼御前御返事』一八五八頁)しています。

文永一一年とするのは、本書に「法華経誹謗の悪知識たる法然・弘法をたのみ、阿弥陀経・大日経等」(三二九頁)と、真言批判があること。また、供物が届けられたとしますと鎌倉か身延に在住していたときになります。文永二年の七月ころは鎌倉には在住せず、宇都宮方面へ布教されたと思われるからです。ただし、本書の真言宗批判は佐渡期にくらべて弱く抽象的です。東密に対しての批判は早い時期に見られます。文永一一年説としますと、身延入山の約一ヶ月ほどに上野尼より種々の供物が届けれたことになります。また、同月の二六日に子息の南条時光から供物が届けられています。ここに、「かまくらにてかりそめの御事とこそをもひまいらせ候しに、をもひわすれさせ給ざりける事、申ばかりなし」(八一九頁)と、日蓮聖人とは鎌倉いらいの無音であったことがわかります。時光は上野尼とは別に供物を届けられたのですが、本書には身延入山後の書状ではなく、佐渡流罪以前の書状という可能性があると思います。本書の内容から成立に問題があると指摘されています。(『日蓮聖人遺文全集』別巻二二八頁。『日蓮聖人遺文全集講義』第一三巻一一四頁)。南条兵衛七郎の臨終のことや墓参については、拙書の第二部にふれています。尼御前は夫の南条兵衛七郎が死去したのちに尼となっています。日蓮聖人は尼御前を上野殿後家尼御前・上野殿母御前・上野殿母尼御前と呼ばれています。松野六郎左衛門入道の娘といわれ、甲斐公日持上人は肉弟といわれています。

 内容は前述したように、南条兵衛七郎の篤信により尼御前は法華経との縁ができたこと、それにより行者となれたのであるから、夫の南条兵衛七郎を仏と思って信心をするようにとのべています。死者の霊は凡夫は見えないけれど、夫は霊山浄土から尼御前たちを昼夜に見ているだろうし、尼御前が死去したら同じ霊山浄土の夫のもとに行けるだろうとのべます。

「御供養物種種給畢。抑上野殿死去の後はをとづれ冥途より候やらん。きかまほしくをぼへ候。ただし、あるべしともをぼへず。もし夢にあらずんばすがたをみる事よもあらじ。まぼろしにあらずんばみゝえ給事いかが候はん。さだめて霊山浄土にてさば(娑婆)の事をばちうや(昼夜)にきき、御覧じ候らむ。妻子等は肉眼なればみ(見)させ、きか(聞)せ給事なし。ついには一所とをぼしめせ。生生世世の間、ちぎりし夫は大海のいさごのかずよりもをゝくこそをはしまし候けん。今度のちぎりこそ、まことのちぎりのをとこ(夫)よ。そのゆへは、をとこのすゝめによりて法華経の行者とならせ給へば、仏とをがませ給べし。いきてをはしき時は生の仏、今は死の仏。生死ともに仏なり。即身成仏と申す大事の法門これなり。法華経第四云若有能持即持仏身云云」(三二八頁)

 夫の勧めにより尼御前が信仰を続けるところに、夫は生死ともに仏となることを即身成仏の法門とのべています。宝塔品の「若有能持則持仏身」(『開結』三四〇頁)の文を挙げたのは、釈尊が六難九易を説いて法華経の受持は難事であることを示し、尼御前が信仰をしていることは仏身を持つことになるから、即身成仏の女人であることをのべたのです。凡夫衆生と仏の不二(生仏不二)が大事の法門としています。そして、浄土と地獄についての疑問について、法華経を受持する者は「地獄即寂光」と悟ることであるとのべます。尼御前もこれまでは

浄土教や真言を信じてきたことがあったと思われ、権教を修行してきても法華経を離れているならば地獄であるとのべます。法華経を誹謗する法然・弘法の阿弥陀経・大日経を信じるならば、ますます無間地獄に堕ちることは、釈尊・多寶仏・十方分身仏が定めたことであるとして譬喩品の次の文を挙げます。「其人命終入阿鼻獄具足一劫劫尽更生如是展転至無数劫」『開結』一六八頁)。そして、南条兵衛七郎は法華経の信者であるから、堕獄の道からは救われているとのべます。

「故聖霊は此苦をまぬかれ給。すでに法華経の行者たる日蓮が檀那なり。経云設入大火火不能焼。若為大水所漂称其名号即得浅処。又云火不能焼水不能漂云云あらたのもしやたのもしや。詮するところ、地獄を外にもとめ、獄卒の鉄杖、阿防羅刹のかしやく(呵責)のこゑ、別にこれなし」(三二九頁)

 日蓮聖人の檀那であるから地獄の苦しみを逃れていることをのべ、尼御前の不安を取り除いています。引用の経文は普門品(『開結』五四七頁)と、本事品(『開結』五二七頁)です。

 さらに、文殊師利菩薩が龍女に即身成仏の秘法を説いたように、尼御前にたいし大事な法門を伝えるので、強い信仰心をもつことを勧め、天台大師が『摩訶止観』に引用した「従藍而青」(じゅうらんにしょう)を挙げます。

「法華経の法門をきくにつけて、なをなを信心をはげむをまことの道心者とは申也。天台云従藍而青云云。此釈の心はあいは葉のときよりもなを、そむ(染)ればいよいよあをし。法華経はあいのごとし。修行のふかきはいよいよあをきがごとし」(三三〇頁) 

従藍而青」は「青は藍より出でて藍よりも青し」と読みます。意味は青は染料となる植物の藍の葉から得られるが、その染料に布や糸を漬けて染め上げる作業を重ねていくと、もとの藍の葉の色よりも深く濃い青色になるということです。これは、中国の古典『荀子』(勧学篇)に、「君子曰く、学は以って已むべからず。青はこれを藍より取りて、しかも藍よりも青し」(学ぶことはやめることのできないものである。青は藍から取るが藍よりも青い)、つまり、学門を積み重ねることによって、先輩以上に立派になることができるということで、日蓮聖人はこの「従藍而青」を、信仰のうえにおいても信心を重ねていく大切さは同じと喩えたのです。ここで、説かれた教は、法華経の行者の即身成仏ということです。尼御前には法華経を受持信行することの大切なこと、死後の地獄、極楽浄土観や即身成仏について、をわかりやすく説いていきます。まず、地獄という二文字は土を穿ると読み、死去した遺体は土を掘って埋葬することは地獄であるとのべます。遺体を荼毘する火は無間の火炎であるとします。妻子眷属が故人の葬送の場にいて、財産について争うのは獄卒阿防羅刹であり、妻子等の悲しみ泣くのは獄卒の声であり、二尺五寸の杖は鉄杖、馬は馬頭、牛は牛頭という鬼、埋葬する穴は無間大城、八万四千の地獄の釜は八万四千の塵労門(煩悩)であると喩えます。そして、遺体が家から搬送されることは死出の山であり、孝子が河のほとりにて泣き悲しむのは三途の愛河であって、これらを余所に求むる事は現実から離れた愚かなことであるとのべます。しかし、法華経を受持する者はこれとは違い、地獄は寂光土、火焔は報身如来の智火、死人は法身如来、火抗は大慈悲為室応身如来、杖は妙法実相の杖、三途の愛河は生死即涅槃の大海、死出の山は煩悩即菩提の重山であると心得ることを説きます。このように知ることが、即身成仏・開仏知見という悟りであるとのべ、提婆達多が阿鼻獄を寂光極楽と悟り、龍女の即身成仏はこのことであるとのべます。 

「提婆達多ハ阿鼻獄を寂光極楽とひらき、龍女が即身成仏もこれより外は候はず。逆即是順の法華経なればなり。これ妙の一字の功徳也」(三三一頁) 

この理由は、「逆即是順」の法華経であり、妙の一字の功徳によると説きます。そして、龍樹菩薩の『大論』「譬如大薬師能変毒為薬」の文、妙楽大師の『文句記』「豈離伽耶別求常寂。非寂光外別有娑婆」、『金錍論』「実相必諸法諸法必十如十如必十界十界必身土」の文。方便品の「諸法実相乃至本末究竟等」(『開結』八七頁)、寿量品「我実成仏已来無量無辺」(四一六頁)の文を引きます。

「逆即是順」の文を引いたのは、煩悩即菩提、生死即涅槃を示すためです。ここに、法華経のみが勝れた経典である証拠とします。提婆達多が天王如来の記別を与えられたのは、因行は逆であるが理においては順になるのは円教の意であり余経の意ではないと解釈しています(『法華文句』巻八)。妙楽大師は理順となるのは円教であり事逆は三教であるとし、円教のみが逆即是順となるが三教は逆は逆と定まっている教であると解釈を加えています。これは、円教である法華経は煩悩が般若に、悪業が解脱に、苦果が楽果に転換する経力をもっていることをのべたものです。提婆達多の悪人成仏は釈尊に反逆したけれど、その逆縁により未来の仏果になることを示しています。これは、不可思議な妙の一字のもつ行因と徳果の功徳であるとのべます。そこで、龍樹の「能変毒為薬」の文が引用されます。毒をもって薬とすることができる喩えです。日蓮聖人はこの文を引用されて逆縁成仏の文証としています。また、浄土はこの娑婆にあることをのべています。寿量品・方便品の文について 

「此経文に我と申は十界なり。十界本有の仏なれば浄土に住するなり。方便品云是法住法位世間相常住云云。世間のならひとして三世常恒の相なれば、なげくべきにあらず、をどろくべきにあらず。相の一字は八相なり。八相も生死の二字をいでず。かくさとるを法華経の行者の即身成仏と申也」(三三一頁) 

 法華経の信者はすでに浄土に住んでいるということ、また、「是法住法位世間相常住」(『開結』一一五頁)の文は、生死の二つは世間的には別のようであるが、本来は常住のことであるということです。十界の衆生は常に娑婆浄土に居住しているのであり、この十界三千の世間の諸法は常住であるとのべます。つまり、三千の諸法は中道実相・不変常住であることをべています。そこから人間の生死もこの見解からみれば三世に定まったことであるとのべたのです。ですから、歎いたり驚くことではないとのべます。釈尊がこの世に出現して示した降兜率・入胎(托胎)・出胎・出家・降魔・成道・転法輪・入滅の八相も、生死の二法に収まることをのべ、法華経の生死観をのべています。この基本には十界互具・一念三千の教があります。本書の始めのほうに、

「夫浄土と云も地獄と云も外には候はず。ただ我等がむねの間にあり。これをさとるを仏といふ。これにまよふを凡夫と云。これをさとるは法華経なり。もししからば、法華経をたもちたてまつるものは、地獄即寂光とさとり候ぞ」(三二九頁)

と、浄土と地獄は我等の胸中にあるとのべた「唯心所変」「地獄即寂光」のテーマはここにあります。

そして、夫である南条兵衛七郎は、法華経の行者であるから即身成仏しているとのべ、尼御前に歎くことはないと慰めます。しかし、釈尊が入寂されたとき大弟子たちも、悟りのうちの嘆きとは言え、凡夫のように悲しみの振る舞いをしたであろうと優しい言葉をかけ追善供養を勧奨します。南条兵衛七郎と日蓮聖人の深い交流がわかるのは、法華経の行者と呼称するところです。墓参に足を運ばれたことなどからして、幕府の中にいて日蓮聖人を庇護されたことがうかがえます。『沙石集』にある古徳の、「心地を九識にもち、修行をば六識にせよ」の教訓を挙げて心の持ち方を教えています。日々に到来する煩悩や想起する迷妄心を、法華経の修行として精進するようにとのべます。最後に日蓮聖人の「秘蔵の法門」(三三一頁)を書いたので秘蔵するようにとのべます。この秘蔵の法門は『観心本尊抄』の四十五字法体(「常住浄土」七一二頁)といいます。(『日蓮聖人遺文全集講義』第一三巻一一二頁)。

○御本尊(一三)七月

 文永一一年七月二五日付けの御本尊です。「甲斐国波木井郷於山中図之」と、身延山にて書かれたことを示しています。この御本尊は『御本尊集目録』の備考(一九頁)に記載されているように、特筆すべき勧請形態をもっています。讃文に「大覚世尊入滅後二千二百二十余年之間雖有経文一閻浮提之内未有大曼荼羅也得意之人察之」とあることは特異とされます。御本尊に対する尊敬の心得を訓戒しています。諸天善神および龍王・阿修羅王に「無量世界」を冠し、天照太神・八幡大菩薩に「大日本国」を冠しています。山川智応氏はこの儀相は、蒙古調伏を意識して認めたとのべています。(山中喜八著『日蓮聖人真蹟の世界』上、四二二頁)。迹化菩薩・諸大声聞および先師に「南無」を附していないこと。これはこの御本尊のみであること。妙楽大師と天親菩薩を列したこと。形式については四天王に東西南北の方位を冠せられこと。ただし、その位置が他の御本尊と違うこと。天熱提婆達多・未生怨阿闍世大王がはじめて列座したこと。文永年間の御本尊が総帰命式に諸尊に南無を冠しているのに対し、本御本尊は諸仏と本化四菩薩にだけ南無が冠されています。また、日蓮聖人の花押が本御本尊より変化していることが特徴となっています。授与者名と先師の添え書きは書かれていません。紙幅は縦一二七、三㌢、横五七㌢、六枚継ぎの御本尊で茂原藻原寺に所蔵されています。西谷草庵に落ちついた頃に書かれたと思われますが、身延当初の書式とうかがえます。この御本尊を染筆された翌日に上野氏から供物が届きます。

□『上野殿御返事』(一四七)

七月二六日に駿河の南条時光(一二五九~一三三二年)が金銭一〇連と河(川)海苔(かはもくづ)二帖、生姜(しやうかう、はじかみ)二〇束などの食品を身延山に送っています。このお礼状が本書で、時光に宛てた第一書となります。真蹟の二紙は水戸の久昌寺に所蔵されています。ここに南条時光との最初の出会いが鎌倉であり、それほど深い縁ではなかったのに忘れずに供養を頂いたことのあり難さをのべています。

「鵞目十連(とつる)・かわのり二帖・しやうかう(生薑)二十束給候了。かまくらにてかりそめの御事とこそをもひまいらせ候しに、をもひわすれさせ給ざりける事、申ばかりなし。こうへのどの(故上野殿)だにもをはせしかば、つねに申うけ給なんと、なげきをもひ候つるに、をんかたみに御み(身)をわか(若)くしてとどめをかれけるか。すがたのたがわせ給ぬに、御心さえにられける事いうばかりなし。法華経にて仏にならせ給て候とうけ給て、御はかにまいりて候しなり」(八一九頁)

南条氏は伊豆の南条から富士宮市の北西部一帯の上野の地頭となりました。時光は七歳のときに父南条兵衛七郎と死別し家督を継いでいました。日蓮聖人とは鎌倉にいたときに面識があったことがわかります。そのときには、その場かぎりのことかと思っていたが、忘れずに父親の供養と日蓮聖人へ供物を届けてくれたことに感謝されています。故人となった父南条兵衛七郎が存命ならば、法門の談義をしたいと常に思っていたおりに、故人と姿も似ており信心深い時光を形見として残していったと喜ばれています。

また、日蓮聖人と南条兵衛七郎の信仰の繋がりが深かったと見え、南条兵衛七郎が安らかな臨終をむかえたと聞き、墓参りして回向されたことをのべています。飢渇が始まった六月より身延に住み始め草庵は木の葉を敷いたようなところであると様子をのべ、草庵にて読経する功徳の一分を父南条兵衛七郎に回向したとのべ、孝養心のある子供を持ったことを思うと感涙が抑えがたいと時光を褒めています。妙荘厳王は浄蔵と浄眼の二人の子供の導きによって法華経に入信したが、厳王はバラモンの邪見を信じた悪人であるのに対し南条兵衛七郎は善人であるから、この回向の功徳は比較にならないほど大きいとのべています。玉沢妙法華寺に日蓮聖人の遺物である銭が所蔵されているといいます。なを、真蹟にはありませんが端書きに、「人にあながちにかたらせ給ふべからず。若き殿が候へば申すべし」と、書き添えられています(『定遺』八二〇頁)。

□『聖密房御書』(一四八)

本書の真蹟は一四紙(内一紙欠)で身延曽存です。年次がないので系年に『境妙庵目録』に文永一〇年五月、『高祖年譜』に建治三年などの異説がありますが、台密未破の文面から文永一一年の五月から六月ころと推定しています。聖密房は清澄寺の大衆で密教を信仰をしていた僧で、古くから日蓮聖人に私淑していたといいます。詳しいことは不明です(『日蓮聖人遺文全集』別巻一二三頁)。本書は聖密房に対し華厳宗・真言宗の成立が天台大師以後のことであり、澄観や善無畏が一念三千の義を盗用し理同事勝を立てて法華経を見下したことをのべます。法華経は二乗作仏・久遠実成が説かれた最勝の経であることをのべます。特に真言の邪義についてのべています。聖密房や清澄寺が密教化していたことを是正する意図がうかがえます。

 まず、天台第七祖道邃の門人で第八祖の広修と、その門人である良諝(りょうしょ)・維蠲(ゆいけん)は、大日経を方等部の経であるとしたことに対し弘法が反論した説を挙げます。弘法は『十住心論』に法華経を華厳経にも劣る「第三戯論」と下します。法華経の釈尊は応身の仏で真言宗は大日法身の仏として勝劣を立てます。また、『秘蔵宝鑰』に釈尊は大日如来の使いとして顕教の法華経や華厳経を説いたが、これは真言密教の初門と下します。そして、同じ『秘蔵宝鑰』に、法華経寿量品の釈尊は密教に比べると煩悩を断じていない凡夫であり、「無明の辺域」にあると下します。この四点を挙げ弘法の邪義についてのべていきます。「真言亡国」の根拠として空海を破折した『真言見聞』(文永九年七月。六四九頁)があります。ここに、本書の顕密二道・理同事勝などについて、真言の五失・七重の難(七重劣)についてのべています。

華厳宗の澄観、真言宗の善無畏が天台の一念三千の義を盗み取り入れて自分の宗としていることをのべます。それなのに天台宗の人々は真言の理同事勝に同調していることを批判し、法華経の二乗作仏・久遠実成は天地の差ほど大日経などの印・真言に勝れているとのべます。『維摩経』に敗種として永不成仏といわれた二乗の三業は、法華経を受持することにより成仏するのであり、無量刧のあいだ千二百余尊(胎蔵界の五百余尊と金剛界の七百余尊)の印真言を修行しても仏にはならないと断じます。これを、「二乗作仏の事法」(八二三頁)とのべています。空海はすでに破折された華厳宗の邪義を借用していることを指摘します。

そして、日蓮聖人は澄観や空海などを悪言を吐いて批判しているのではなく、疑問を明らかにしたいという意志を示し、立腹しないようにとのべています。そこで、過去においても教が進展することにより破折された実例を示します。インドの外道の教は千年のあいだ広まっていたが、釈尊の出世により九十五流の外道が破折されたこと。中国においては梁の真諦三蔵が伝えた摂論宗が百年続くも、唐の玄奘三蔵により破折されたこと、これは、真諦が釈した無着の『摂大乗論』と、別の『摂論』を釈した玄奘の説は異なっていたためです。真諦の梁論は『大乗起信論』論の真如随縁を説き、玄奘の新論は『唯識論』の真如凝然を説きます。摂論宗の邪義とは「往生成仏別時意趣」を立てたことといいます。また、南三北七の諸姉の教も三百年続いたが、天台大師により破折されたこと、日本でも仏法伝来より二百六十年栄えた南都六宗の教も、伝教大師がこれらを破折したことをのべます。そして、日蓮聖人がここで聖密房にのべていることは、すでに伝教大師が『顕戒論』や『守護国界章』などの著述のなかで破折されていることで、それを羅列したことであると客観性をのべます。

次に日本の仏教を戒定慧の三学の視点から考察します。日本には大乗五宗・小乗三宗があり、よりどころの経典が大乗か小乗によるもので、詳しく論ずるなら天台宗以外の大乗宗も小乗となるとします。その根拠は三学のうち戒によるとします。つまり、法相宗・三論宗・華厳宗・真言宗は、南都東大寺の戒壇を践み受戒しますので、小乗律宗の戒となります。これにたいし天台宗は比叡山に、伝教大師が建立した大乗円頓の三学の戒壇があるとのべます。天台宗は仏が立てた仏立宗であるが、真言宗は大日如来や弥勒に託して立てた当分仮説の宗であるとのべます。つまり、大乗の戒壇は法華経であることをのべています。 

「宗と申は戒定慧の三学を備たる物なり。其中に定慧はさてをきぬ。戒をもて大小のぼうじをうちわかつものなり。東寺真言・法相・三論・華厳等は戒壇なきゆへに、東大寺に入て小乗律宗の驢乳臭糞の戒を持つ。戒を用て論ぜば此等の宗は小乗の宗なるべし。比叡山には天台宗・真言宗の二宗、伝教大師習つたへ給たりしかども、天台円頓円定・円慧・円戒の戒壇立べきよし申させ給しゆへに、天台宗に対しては真言宗の名あるべからずとをぼして、天台法華宗の止観・真言とあそばして、公家へまいらせ給き。伝教より慈覚たまはらせ給し誓戒の文には、天台法華宗の止観・真言と正くのせられて、真言宗の名をけづられたり。天台法華宗は仏立宗と申て仏より立られて候。真言宗の真言は当分の宗、論師人師始て宗の名をたてたり。而を、事を大日如来・弥勒菩薩等によせたるなり。仏御存知の御意は但法華経一宗なるべし」(八二五頁) 

そして、『大日経』の位置と、三諦の教からみた真言の位置についてのべていきます。仏教のなかの小乗は二宗(上座部・大衆部)・十八宗(上座部十部・大衆部八部)・二十宗(十八宗に根本の上座部と大衆部)と数あるが、所詮の教は「諸法無常」の理とのべます。世間の無常・苦・空・無我を悟り煩悩を断尽して灰身滅智・無余涅槃を求めます。法相宗をはじめ大乗宗の所詮は「唯心有境」の理とします。これは法相宗の教を要約したもので、「有」の一辺に執着した一宗となるとします。三論宗の教は「唯心無境」の理からでないもので、大乗の「空」(無)の一辺に執着する宗となるとのべます。この両者の「唯心有境」・「唯心無境」の理は、「通教」の「空』『と有」の一分にすぎないとします。また、華厳宗と真言宗は、良く言えば「別教」の「但中」であるとします。これは、「別教」の隔歴三諦のことをいいます。「別教」は中道を説きますが空・假のほかに但中諦を説き融即を説きません。ですから、空・假・中の三諦から判じれば、華厳宗・真言宗は別教の隔歴三諦で、法華経の円融三諦には及ばないとのべたのです。

「所詮は唯心有境とだにいはば但一宗なり。三論宗は唯心無境。無量の宗ありとも、所詮唯心無境ならば但一宗なり。此は大乗の空有の一分歟。華厳宗・真言宗あがらば但中、くだらば大乗の空有なるべし。経文の説相は猶華厳・般若にも及ばず」(八二六頁)

 真言宗が流布したことについて、王と下女の喩えをもってのべます。多くの高貴な人達が信じたので真言宗が流布し、立派と思われる論師人師が解釈したので大日経が広まったとのべます。現今の盛況に惑わされず、仏教の道理を学ぶようにと諭されたのです。しかし、以上の問答の論議は、智慧が浅く慢心が深い人々ばかりなので、今は信用されないであろうが後世には理解されるとのます。日蓮聖人は聖密房を大切に思われていたので、大事な法門を書いたので、学問の目安に箇条書きされました。何度も読んで法華経が勝れていることを理解するようにと思われたのです。末筆に大事な法門を書いたので、清澄寺の虚空蔵菩薩の御宝前において、常に読み奉るようにと結んでいます。聖密房への著作は本書のみで、その後の聖密房については不明です。なを、真言批判は東密に対してのもので円仁・円珍の台密には及んでいません。次の『別当御房御返事』に名前があります。

□『別当御房御返事』(一四九)

同じく五月~六月頃(鈴木一成先生は六~七月ころと推定)に、清澄寺の別当に宛てた書状鈴があります。「別当御房」という表記は本書のみで、浄顕房のことと推察されています。(『日蓮聖人遺文全集講義』二七巻七六頁)。『聖密房御書』とともに書かれた書状です。真蹟の四紙は身延曽存で、自署と花押は切り取られていました。

冒頭に、真言の不審については聖密房に聞くようにとのべています。『聖密房御書』は東密を破折した教義をのべたものですが、このなかに、「天台宗の人人は一同に真言宗に落たる者なり」(八二二頁)とあるように、清澄寺内における台密の破折に及ぶことがうかがえます。しかし、慈覚・智証大師にふれていないので身延入山の始め頃と推察しています。同心の者が集まって法談して理解を深めるように指示しています。また、二間と清澄寺の別当については、世間の道理を弁えている聖密房の指示に従うようにとのべています。これは、鎌倉を退出したのちの行き場として、清澄寺の別当就任についての話があったと思われます。ですから 

「これへの別当なんどの事はゆめゆめをも(思)はず候。いくらほどの事に候べき。但な(名)ばかりにて候はめ」(八二七頁)

と、別当の誘いがったとしても、清澄寺に行くことは念頭にもないことをのべ、自身にとっては内実のないことであり、肩書き程度のことだと断わっていたことがわかります。聖密房は日蓮聖人を清澄寺に誘致する前に、清澄寺の内情が真言化していたことを告げ、その対処法を探ったのかも知れませんが、日蓮聖人は清澄寺の後継に聖密房を推挙されたといいます。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇九九三頁)。「又わせいつをの事、をそれ入て候」の文については誤写とされており、意味は不明となっています。その続きに「いくほどなき事に御心ぐるしく候らんと、かへりてなげき入て候へども、我恩をばしりたりけりと、しらせまいらせんために候」とのべています。また、何かのことについて恐縮されており、その幾程もないこと(いくらぐらい・どれほど)、わずかなことに心配をかけ心苦しい思いをさせているとのべます。その状況や事態について、かえって嘆いていると心中をのべます。しかし、日蓮聖人はご恩を忘れていないことを、伝えるためにこのことをされたとのべます。このこととは、二間寺・清澄寺の件といいます。(『日蓮聖人全集』第五巻二六七頁)。浄顕房が日蓮聖人を後継者に推挙されたこと、それに同意しなかったこと、あるいは、清澄寺入山に対し反対勢力があったためか、どちらにしても二間寺・清澄寺の両寺に関してのことと思われます。その過去の恩恵を忘れてはいないことを伝えたと思われます。

 このあとに続いて、日蓮聖人は閻浮提における第一の高名を挙げたとのべます。すなわち、

「大名を計ものは小耻にはぢずと申て、南無妙法蓮華経の七字を日本国にひろめ、震旦高麗までも及べきよしの大願をはらみ(懐)て、其願の満べきしるしにや。大蒙古国の牒状しきりにありて、此国の人ごとの大なる歎とみへ候。日蓮又先よりこの事をかんがへたり。閻浮第一の高名なり。先よりにくみぬるゆへに、まゝこ(継子)のかうみよう(功名)のやうにせん心とは用候はねども、終に身のなげき極候時は辺執のものどもも一定とかへぬとみへて候。これほどの大事をはらみて候ものの、少事をあながちに申候べきか。但東条、日蓮心ざす事生処なり。日本国よりも大切にをもひ候。例せば漢王の沛郡ををもくをぼしめししがごとし。かれ生処なるゆへなり。聖智が跡の主となるをもんてしろしめせ。日本国の山寺の主ともなるべし。日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり。天のあたへ給べきことわりなるべし」(八二七頁)

と、題目の七字を世界中に広めることが自分の大願であり、その誓願が成就する兆しとして、他国侵逼の予言が的中したことをのべます。この予言をしたことが「閻浮第一の高名」とします。ふつうなら、この手柄に名声を得るところです。しかし、世間の人々は日蓮聖人を憎んでいるので、継子が功名を得たように無関心であるとのべます。死に直面するような逼迫した時は日蓮聖人を頼るのかもしれないとのべます。そして、これほどの大願をもっている日蓮聖人であるから、小さなことである二間寺・清澄寺のことに直向きにはならないとのべます。「少事」は暫時ということではなく、「大事」に対する「少事」(小事)と思います。ひたむき(直向き)は一つの事に一生懸命になることですから、両寺の後継問題につながると思われます。つづいて、日蓮聖人が常に心のなかにあるのは東条は生誕の大事なところであるとのべます。日本国よりも大切に思っていると、故郷や両寺を捨て去ってはいないことをのべます。その例として漢の高祖劉邦が出生地の沛郡(現在の江蘇省徐州市沛県一帯に比定される)を重視したこと、聖智が跡を継いで当主となったことを挙げます。聖智という人物については不明です。清澄寺の人々が知っている出来事をのべたと思われます。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇五四七頁)。この例を挙げて清澄寺も終には日本国の寺を代表する寺となるであろうと讃えます。日蓮聖人は法華経の行者として、この先も歩んで行くことが自分に与えられた使命であるとのべ、清澄寺は自分に付与されたところではないとのべます。本書には蒙古の牒状がしきりに日本に来ていることをのべ、襲来が近い緊迫感を示しています。本書に法華経の題目を震旦・高麗までも弘通しようとされた大願を懐いていることをのべています。この大願が成就すべき大事な時に、清澄寺の別当に就任する余裕はないと断ったという見方ができます。(佐藤弘夫著『日蓮』二六一頁)。日本国の未来を思慮されていた日蓮聖人の焦燥感がうかがえます。

 望郷の思いは身延に入って顕著にのべられています。その帰郷の意志は父母の墓参にあるとのべています。しかし、帰郷し難い理由があることを『光日房御書』にのべています。

「本よりごせし事なれば、日本国のほろびんを助がために、三度いさめんに御用なくば、山林にまじわるべきよし存ぜしゆへに、同五月十二日に鎌倉をいでぬ。但本国にいたりて今一度、父母のはかをもみんとをもへども、にしきをきて故郷へはかへれといふ事は内外のをきてなり。させる面目もなくして本国へいたりなば、不孝の者にてやあらんずらん。これほどのかた(難)かりし事だにもやぶれて、かまくらへかへり入身なれば、又にしきをきるへんもやあらんずらん。其時、父母のはかをもみよかしと、ふかくをもうゆへにいまに生国へはいたらねども」(一一五五頁)

と、「にしき(錦)をき(着)て故郷」に帰るというのは、錦を飾ると同じで成功や立身出世をして故郷に帰るということです。日蓮聖人においては流罪を赦免されたとはいえ、国師のように重用されなかったという世間的な状況からのべたと思われます。つまり、蒙古の他国侵逼を予言したことは、「閻浮第一の高名」であるとのべ、この大事からすれば清澄寺のことは少事であるとして清澄寺の件については、日蓮聖人からすれば迂遠のことであるというのべ方をしました。東条は日蓮聖人の生まれたところで大事に思っていることをのべ、「日蓮は閻浮第一の法華経の行者」の立場が大事であることをのべたのです。

 最後に米一斗六升、粟二升、焼米を袋に入れて供養があった礼をのべ、故郷の人々の御心が有難いと感謝しています。そして、重ねてこれ以後は日蓮聖人と清澄寺のことは心苦しく思わないようにとのべます。そして、この二間寺と清澄寺の件については明らかにしない方が良いとのべ、供物に関しては感謝の気持ちを伝えてほしいとのべます。本書は「乃時」(ないじ)とあるように、供物が届いて直ぐに返書を書かれています。同月に御本尊(現茂原藻原寺)を認めています。