245.『異体同心事』    高橋俊隆

□『異体同心事』(一五〇)

 本書の真筆はなく著作年次に文永一一年・建治三年・弘安三年・弘安四年の諸説があります。このうち弘安四年説は蒙古襲来の後になるので、本文の内容と異なります。弘安三年説は熱原法難(弘安二年四月〜一〇月頃)の収束した後の著述と推測します。(『日蓮聖人御遺文講義』第一八巻三六頁。『本化聖典大辞林』上一七六頁)。しかし、熱原法難の逼迫と蒙古襲来が近づいたという記述から文永一一年としています。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇五〇頁)。日付は八月六日です。宛先についても太田乗明氏が日興上人に委託して銭一貫文を供養されたという説と、駿河の年長の信徒に宛てたという説があります。(『日蓮聖人御遺文講義』第一八巻三六頁。『日蓮聖人遺文全集講義』第一三巻一二二頁。『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇五〇頁)。日興上人たちが熱原方面にて布教されていたという地理的なこと、本文に年長であることが書かれていることから、駿河方面の信徒とうかがえます。太田乗明氏は日蓮聖人と同年といいます。

駿河の信徒から白小袖、厚綿の小袖と金子一貫文が、日興上人により届けられたことを伝えています。ただし、本書が熱原法難以前か以後によって、いくらかの違いがあります。法難以後のこととして、太田乗明氏は鎌倉にいて熱原法難のおりに日興上人と日向上人に、何等かの助成をしていたとも考えられています。この場合は神四郎などの行為と供養者のそのときの助成は、門下にとって「異体同心」のこととして褒められることであると解釈できます。同心の者同士が結束するならば、少ない人数であっても万難を廃して法華経が広まるとして、門弟に「異体同心」を呼びかけています。

「日蓮が一類は異体同心なれば、人人すくなく候へども大事を成じて、一定法華経ひろまりなんと覚へ候。悪は多けれども一善にかつ事なし。譬へば多火あつまれども一水にはきゑぬ。此一門又かくのごとし。其上、貴辺は多年としつもりて奉公法華経にあつくをはする上、今度はいかにもすぐれて御心ざし見えさせ給よし、人人も申候。又かれらも申候。一一に承て、日天にも大神にも申上て候ぞ。御文はいそぎ御返事申べく候ひつれども、たしかなるびんぎ候はで、いままで申候はず。べんあさり(弁阿闍梨)がびんぎ、あまりそうそうにてかきあへず候き」(八二九頁)

 駿河方面にて篤信のことを行ったと見えます。この書状を早く出すべきであったが、確実な便宜がなかったので遅れたことをのべています。鎌倉の日昭上人に便宜があったが、急々のことであったのでそのときは返事を書けなかったことを伝えています。

 つづいて、蒙古の襲来が近づいていることをあげます。日蓮聖人が予言した他国侵逼について、皆が何時のことかと疑念をもっていただろうが、いよいよ現実のこととして近づいていることをのべます。襲来は悲しいことであるが日本国の人々の堕獄と謗法を防ぐためには、灸や針治療のようなもので後には回復して悦びとなることであるとのべています。そして、日蓮聖人は「法華経の御使」(八三〇頁)であるとの立場から、蒙古国が法華経の行者に敵対をなす者に対して懲罰のために襲来するとのべています。また、阿闍世王のように現身に改悔するならば災害から逃れることができるであろうとのべています。蒙古の襲来は法華経謗法を治罰するためであり、阿闍世王が改悔して救われたように、日本の人々も今すぐに法華経に改悔すべきことを説いています。

□『彌源太入道殿御返事』(一五一)

彌源太が日蓮聖人の安否を心配していたようで、九月に弥源太の使いが身延に登詣し、一七日に返事を書かれたのが本書です。真筆は伝わっていません。冒頭に、

「別事候まじ。奉憑候上は最後はかうと思食候へ。河野辺入道殿のこひしく候に、漸く後れ進らせて其かたみと見まいらせ候はん。さるにても候へば如何が空しかるべきや。さこそ覚え候へ」(八三一頁)

 彌源太の安否を問い、法華経の信仰に命を預けたのであるから、信心一筋に精進するようにのべます。ここに河野辺山城入道が死去し恋しく思っていたが、今は弥源太入道を形見と思い見ていると虚しさを感じないとのべています。法華経は転子病という表現をして、一種の遺伝のように法華経の功徳力は変わらずに継続するとのべています。

 つぎに、日本は六十六箇国、島二つであり、そのなかに寺は一一〇三七、僧尼は三千、一万、あるいは一人という宗派によって変わるが、僧尼の根源は弘法・慈覚・智証の三大師であるとのべます。ゆえに、今の比叡山・東寺・御室・七大寺・園城寺・伊豆・箱根・日光・慈光りなどの座主・検校・長吏・別当などは三大師の弟子であり嫡流であるとのべます。三大師と同じように法華経を下げて解釈しているから、法華最大一とする日蓮聖人とは水火のように違うことをのべます。その三大師の誤った教を引き継ぐ末裔が、寺寺の所領の田畠を所有して生活しているならば、どのように弁解しても同じ罪抖を逃れることはできないとのべます。日蓮聖人がいかにこれを主張しても怯弱の者だから、誰も用いる者がいないとのべます。怯弱の者とは気が弱く臆病ということではなく、微力卑賤の者であるから、誰も信用しないということと思います。(『日蓮聖人遺文全集講義』第一三巻一三五頁)。そして、日本国中で法華経を読むという者は多くいても、これを用いる気持ちにはならないとのべています。日蓮聖人の色読とは明らかに違うからです。

 最後に、しばらく音信がなかったので心配していたことをのべ、このたびの使いを身延に遣わした温情と、弥源太が病気をしており、それが平癒したことを嬉しく思うと書き送っています。

□『主君耳入此法門免與同罪事』(一五二)

奥書から九月に四条金吾から金子二貫文が送られ、二六日に返事を書かれています。真蹟が伝わっていないので著作年次に建治元年、三年などの所説があります。『定遺』はこの文永一一年としています。本書は四条金吾が主君に対して『法華経』の法門を説いたことを褒めます。これにより迫害がある危険性をのべ、四条金吾の身辺を防備するようにと心配されています。日蓮聖人が鎌倉を発つときに、四条金吾に主君の江馬氏に法華経を説き帰信を勧めるよう諭されていたと思います。(姉崎正治著『法華経の行者日蓮』四一八頁)。

 冒頭に有情の私たちの一番の財宝は命であることをあげ、仏教はその尊い命の殺生を禁断することをのべています。殺生した者は火途(地獄)・刀途(餓鬼)・血途(畜生)の三途(三悪趣)に堕ちると仏教に説いています。寿量品の釈尊の仏寿長遠なのは、不殺生戒を持った証拠であるとのべます。しかし、同じ殺生にも罪の軽重があり、仙豫・有徳王のように法華経の「かたきを打て」、その功徳を得て釈迦仏と生まれ、この王に治罰を勧めた覚徳比丘は「大慈大悲の法華経の行者」(八三四頁)であると、『涅槃経』の有徳王・覚徳比丘の故事を引いて、国主諫暁の意義と謗法の者を駆除することの正当性をのべています。つまり、殺害された者により、罪の軽重があるのは世間の知るところであるように、仏教は時と次第によっては殺生を認めるということになります。その理由は謗法の反逆者を駆除することを善行とするからです。その謗法対治の貢献は絶大な功徳を獲得すると説かれています。その例が仙豫・有徳王の故事です。そして、今は謗法が充満しているときで有徳王・覚徳比丘と同じく謗人を駆除すべきであるのに、国主は日蓮聖人を迫害し日本国中が謗法であるとのべます。四条金吾も与同罪を逃れ難い身であったが主君に法華経を説くことにより、この失を脱したと喜ばれています。主君に誤りがあれば諫暁することは臣下の勤めであり、法華経の信者としては大きな勤めです。主君にたいし謗法の教を信奉し、謗法の者を供養すれば無間地獄に堕ちるとのべたのでしょう。殺生戒でも法華経を護るためならば、それを守らなくてもよいという前提があるからです。

しかし、主君の江馬氏は拒絶したようです。四条金吾は落胆したと思いますが、与同罪逃れたことを日蓮聖人に伝えます。日蓮聖人はこの諫暁により主君や臣下の同僚から憎嫉をかい、命を狙われる危険があるので、今後は法華経の法門は言わないようにし、近辺にも注意を払うようにとのべたのです。 

「此より後には口をつつみておはすべし。又、天も一定殿をば守らせ給らん。此よりも申也。かまへてかまへて御用心候べし。いよいよにくむ人人ねら(狙)ひ候らん。御さかもり、夜は一向に止給へ。只女房と酒うち飲でなで御不足あるべき。他人のひるの御さかもりおこたる(油断)べからず。酒を離れてねらうひま(隙)有るべからず。返返。恐恐謹言」(八三四頁)

信仰の違いによる軋轢や、鎌倉武士として誉れ高い四条金吾への嫉みがありましたので、この信仰問題をきっかけとして妨害から殺意へと変わったのです。外出するときの注意や、酒宴などにも慎むようにとのべています。本書から信徒における法華経を弘めることの細心の注意と、四条金吾を大切に思う日蓮聖人の優しさがうかがえます。

このように身延に入られてから、まもなく信徒の供養が始まり、飢饉の難儀を知って金品などの供養がありました。ここに、鎌倉の弟子や富木氏が信徒たちに連絡をとりあって教団が結束していたことをうかがえます。

 この秋に遊行聖の一向俊聖(一二三九〜八七年)は、宇佐八幡宮で踊り念仏を行ったといいます。一遍智真と一向俊聖は、ともに蒙古襲来に出征した御家人の一族といいます。蒙古の危機感が遊行という新しい信仰形態をうみだしたといいます。(金沢文庫『蒙古襲来と鎌倉仏教』三一頁)。