246.文永の役 高橋俊隆 |
◆第二節 文永の役○文永の役 一〇月に入り「文永の役」といわれる蒙古の大軍が九州を襲います。国書が到来してから六年目のことでした。外国からうけた侵略は、長徳三(九九七)年一〇月一日と、寛仁三(一〇一九)年三月末の刀伊(とい)の入寇があります。これは、遼を中心に分布した女真族(満洲民族の前身)と見られる海賊船団が、壱岐・対馬・筑前に侵攻したことがありました。女真族の目的は米穀・牛馬などの略奪のほか、農耕民族を拉致して自己圏内で農耕に従事させて食糧を確保しています。この、寛仁三年のときの太宰府からの報告書が、『小石記』や『朝野郡載』に転載されています。刀伊軍は五〇隻以上の大型外洋船で日本に襲来し、兵力は三千人前後といいます。船の長さは平均一五bくらい、櫂を三、四〇ならべ五、六〇人を乗せる速い船でした。三千人の内、約半数の千数百人前後が壱岐・対馬に上陸して戦闘が始まります。上陸するときは百人ほどが一隊となり、兵は楯をもち前陣の二、三〇人は鉾や太刀、後陣の七、八〇人は弓矢を持ちます。守の藤原理忠(まさただ)は殺害され、民家は刀伊軍に放火され、食糧は略奪されてしまいます。一三〇〇人前後の日本人は拉致され、壮健の男女は船舶で連れ去り、児童・老人は斬り殺されたと言われています。馬や牛、それに、犬も殺して食べます。壱岐では四百人のうち残ったのは三五人といいます。殺された者は三六五人。捕らえられた者は一二八九人。総計しますと一六五〇人の人が犠牲になりました。牛馬は三八〇頭になります。対馬の銀坑や民家四五軒がが焼失しています。壱岐・肥前・筑前の沿岸地帯や、そのほかにも報告されていない北九州の被害があったといいます。拉致された日本人は奴隷として駆使されます。病気や弱った者は海中に捨てたり、領土においては重労働を課せられたのです。四月七日の襲撃には、現地の住人文室忠光らが協力して応戦し、翌八日の太宰府では前少監大蔵種材(たねき)、平朝臣為賢などの豪族や府官が防禦にあたります。九日に激しい合戦がありますが船に引き上げます。一〇日と一一日は北からの強風で海が荒れ戦闘は中断されます。この間に日本は兵船三八艘を調達し、かく要所に兵隊を配備します。そして、一三日に松浦を掠めて日本近海から退去します。刀伊軍の装備は剣、槍、短弓、斧、盾、ボウガン、軽量小型の投射兵器・投石器だったと推測されています。この事件を通して見ても摂関政治は拙劣であったと批評されています。(土田直鎮著「王朝の貴族」『日本歴史』5所収三七六頁)。翌年、高麗は日本から賊掠された「日本生口男女二百五十九人」を送ってきます。救出された日本人は金海府で優遇されていたといいます。随から攻撃を受けた遼東の役いらい、高麗と日本は友好的な関係であったことがわかります。承暦四(一〇八〇)年に、高麗の文宗が病気になり名医を派遣してほしいという要請がありました。日本は故宇治殿(頼通)の夢告により派遣しませんでした。(『日本の古代』1、坂本義種稿、三六二頁)。 さて、今回の蒙古軍は三日に朝鮮半島南端の馬山、合浦を船出しました。総大将に都元帥忻都(とげんすいきんと)、副将に洪茶丘(こうさきゅう)と劉復亨(りゅうふくこう)の元・宋軍二万五千人。それに、金方慶(きんほうけい)の高麗軍が八千人と船員(漕ぎ手)六千七百人を加えた、蒙古と高麗の合同軍は約四万人になります。軍船は高麗が急遽造ったという大船が三百、それに、軽疾船三百、給水船三百の合計九百艘でした。(近藤成一編『モンゴルの襲来』四四頁。日本の時代史9。高木豊著『日蓮その行動と思想』増補改訂版百七十四頁)。 蒙古軍は五日の午後に対馬を襲撃します。(一説には六日、あるいは『兼仲卿記』では一三日となっています)。守護代の宋助国(そうすけくに、資国)は討ち死にし、夕方には下島の佐須浦に上陸し、民家を焼き払い住民の男は惨殺され生け捕られました。その後、一四日の夕方には壱岐の西海岸を襲い、守護代平景隆は自害しています。このときのようすは男の多くは惨殺され、女は掌に穴をあけ、その穴に綱を通して船舷(船の側面のへり)に結びつけたといいます。このようすを日蓮聖人は、『一谷入道御書』に、 「十月に蒙古国より筑紫によせて有りしに、対馬の者かためて有りしに宗のハ馬尉逃ければ、百姓等は男をば或は殺し或は生取りにし、女をば或は取集めて手をとをして船に結付、或は生取りにす。一人も助かる者なし。壱岐によせても又如是。船おしよせて有りけるには、奉行人道豊前の前司は逃て落ぬ。松浦黨は数百人打たれ、或は生取りにせられしかば、寄せたりける浦々の百姓ども壱岐・対馬の如し」(九九五頁) と、壱岐・対馬の蒙古軍の残忍さをのべています。日蓮聖人にあっては蒙古軍に攻められて苦しんでいる人々の悲しさをのべているのです。また、日蓮聖人の信徒のなかにも千葉氏のように、蒙古警備のため九州に向かい戦場にいた人がいました。家族や一族の悲しみを日蓮聖人は訴えていたのです。この日蓮聖人の記録は蒙古襲来の一級史料となっています。文献としては『八幡愚童訓』があります。 一六、一七日には平戸、能古、鷹島などの島や沿岸を襲い、これに防戦した松浦党の武士数百人と住民を殺しています。そして、ついに一九日には筑前国博多湾の沿岸周辺に船団が集結しました。日本軍は総大将に小弐景資(資能の子)を据え、九州の武士は沿岸一帯の守りを固めます。二〇日の未明に蒙古軍は総大将の忻都と副将の劉復亨が箱崎と博多に(百道原)上陸し、高麗軍の金方慶は佐原・赤坂、洪茶丘の蒙古別動隊は今津に上陸します。巳の刻(午前一〇時頃)には、日本軍の主力は約一万の騎兵にくらべ、蒙古軍は歩兵の集団戦法で、銅鑼や太鼓にあわせて進軍します。日本の合戦の方法は騎射戦中心の時代で敵味方が対陣して、まず鬨(とき)の声をあげ、ついで主将が名のりをあげます、いわゆる懸合(かけあ)い戦法です。そして、鏑矢(かぶらや)の応酬によって矢戦を開始します。ころあいをみて一騎駆けでよき相手をみつけ、射合って相手を射落とすか、馬上の太刀(たち)打ちから組打ちに転じ、敵の首級をあげることを武士の名誉としていました。ところが、いきなり鳴り物を鼓舞して進軍しますので、まず、その音に日本軍の馬が驚き暴れます。そこに射程の長い毒矢を射られます。接近戦では日本には普及していなかった槍で突かれ、遠方からは鉄の器に火薬をつめて点火した鉄砲という武器で攻撃してきました。一番駆けで功名を上げようとしたのは竹崎季長でした。季長主従の五騎は鳥飼浜の蒙古軍に先駆けしますが、旗差しの家来は馬を射られて落馬し、季長以下の三騎も馬を射られて危ういところを、肥前国の白石通泰に助けられています。この蒙古襲来の史料に竹崎季長が書かせた『蒙古襲来絵詞』があります。はじめは甲佐神社に奉納されていました。もとは鏑崎宮と称しましたが、神功皇后凱旋ののち、甲冑を納められたので甲佐宮と改めたと言われます。甲佐三宮大明神とも称するのは、甲佐・阿蘇。郡浦の三殿に三神を祀るためです。竹崎季長が当初ここに奉納し、今は宮内庁三の丸尚蔵館に所蔵されています。季長のほかに菊池武房・白石通泰・河野通有・安達盛宗などの御家人の参戦や、警護のための石築地などが描かれています。(金沢文庫発行『蒙古襲来と鎌倉仏教』八頁)。 このように、日本軍は戦法の違いと武器のちがいに苦戦し、敗走しながら夕刻には大宰府に退却を余儀なくされます。蒙古軍は博多に侵略し町を焼き住民を殺戮しました。箱崎も戦火にあい筥崎八幡宮も炎上しました。しかし、夕方から雨になり夜営は危険であると判断した忻都は、蒙古軍を船に引き帰らせました。この船上で総大将の忻都は朝鮮に帰る判断をしたといいます。そのわけは、日本軍は決死の防御と反撃をし、蒙古軍も多大な犠牲が出ていました。なかでも、副将の劉復亨が小弐景資の矢を受けて負傷したためといわれます。元朝の『元史日本伝』に「官軍整わず、又矢尽」きたとあることから、兵の疲労が積もり兵糧も尽きたことや、弓矢や鉄砲などの武器がなくなったため撤退したといわれています。また、海軍が失われるのを恐れたともいいます(近藤成一編『モンゴルの襲来』一三五頁。日本の時代史9)。高麗軍の金方慶は進軍を主張したといいますが、自主撤退することになります。しかし、二〇日の夜の大風雨により、蒙古軍の軍船二百余艘が漂没し、残った兵船は退却しました。船の粗雑な造りが初冬の低気圧の風雨に耐えられなかったといわれています。日本の人々が皆殺しにされるのではないかと終夜感嘆していたところ、二一日の朝には蒙古軍の船影が見えなくなっていたといいます。近年の説としては元寇は南宋接収作戦の一環として、日本を威嚇・牽制し、モンゴルの威力を示すために日本に来たのであり、侵略するほどの兵力を備えてはいなかったともいいます。日本軍の戦闘能力を試すことが目的であり、征服の前段階であったともいいます。たしかに、三万数千人の兵隊だけで、適地に陣を構えても勝利を得るには無謀のことです。この四万の軍勢は蒙古・女真・中国・高麗の人々で、征服され従属された混成軍隊でしたから、規模と質からすれば日本征服の前段階的な襲来と見ることができます。混成部隊であったからこそ進軍に意見の相違ができました。弘安の役にのぞみフビライは、勅を下して諸将が不和を起こさないように誡めています。つまり、「文永の役」の敗退の主要因が、諸将の足並みが揃わなかったということになります。(川添昭二著『蒙古襲来研究史論』三六頁)。 気象学者は台風の時期ではないといい、難破船が海岸には打ち上げられていなかったなどの意見がります。ただし、大風雨があったことは、『高麗史』や『兼仲卿記』の記述から間違いのないことであり、その時期がいつだったのかが問題となります。川添昭二先生は『滝泉寺申状』の次の文により、この大風雨により蒙古の船が海底に沈んだとみています。(川添昭二著『日蓮と鎌倉文化』一三四頁)。 「聖人在国 日本国之大喜蒙古国之大憂也。駈催諸龍 敵舟沈海 仰付梵釈召取蒙王。君既在賢人 豈不用聖人 徒憂他国之逼」(一六七八頁) 日本を護る竜神が激しい海流を起こし、自ら蒙古の敵船団に衝撃的な力を加え粉々に破壊した、という表現をされています。つまり、日蓮聖人は蒙古の船は海底に沈んだという情報を得ていたことがうかがえます。また、大風が博多湾内で吹いたと言われたことにたいし、博多湾内ではなく蒙古軍が帰る途中で大風が吹いたと推測されています。(川添昭二著『日蓮宗勧学院中央教学研修会議事録』第一八号八五頁)。高麗の史料によりますと、モンゴル軍が合浦に帰還したときの船は、出発したときよりも一万三千五百ほど少なくなっていたといいます。(近藤成一編『モンゴルの襲来』四六頁。日本の時代史9)。この蒙古襲来が京都に報じられたのは一二日後の一七日のことでした。壱岐占領が報じられたのは二八日のことでした。ですから、このときにはすでに蒙古の船団は壊滅的な被害にあっており、それが京都に伝えられたのは一一月六日のことでした。朝廷は翌日の七日に蒙古調伏の祈祷を十六社に命じています。幕府は一一月一日に総動員令を出して非御家人をも蒙古軍に参戦させようとしていました。当時は情報の伝達するのに日時を要したのです。日蓮聖人は一一月一一日に蒙古襲来による壱岐・対馬の惨事を上野氏に伝えています。(『上野殿御返事』八三六頁。蒙古初見の遺文となります)。身延にいる日蓮聖人への情報が早かったことは、その経路の情報網をもっていたことがわかります。日蓮聖人の他国侵逼の予言が的中したのです。『曽谷入道殿御書』に、 「自界叛逆難・他方侵逼難すでにあひ候了。これをもつてをもうに、多有他方怨賊侵掠国内人民受諸苦悩 土地無有所楽之処と申す経文合ぬと覚候。当時壱岐・対馬の土民の如くに成候はんずる也。是偏に仏法の邪見なるによる」(八三八頁) と、邪教を信じ法華経を謗法することにより二難が起きるとした仏典の説示と、それを、釈尊の金言として表明したことが予言的中として現実のこととなったのです。日蓮聖人の文章から、謗法が続くかぎり蒙古の再襲来があるということをうかがえます。日蓮聖人は日本国と国民を法華信仰により救済することを念じていたのです。 この前年、朝鮮の三別抄(サムビョルチョ)の最後の拠点である耽羅(トムラ)が陥落していました。耽羅は朝鮮半島の南方海上に位置する済州島(さいしゅうとう)の古名です。三別抄は珍島(チンド)が敗北しても、モンゴルに抵抗しました。一二七二年三月以降、慶尚道(キョンサンド)から京畿道(キョンギド)にいたる広範な海域に出没して、ゲリラ的な海賊行為を展開します。しかし、珍島時代のような本土で呼応する動きはなく、一二七三年四月、モンゴル軍、金の旧民で構成される漢軍と高麗軍あわせて一万余の総攻撃を受けて済州城が陥落します。ここに、四年におよんだ反乱は終息します。済州島はモンゴルの直轄領とされ、軍馬の牧場として利用されました。モンゴルが国号を「元」としたのは文永八(一二七一)年一一月のことでした。まさに竜口・佐渡流罪のときでした。そのモンゴルが日本征討を実行に移したのは、一二七四年一〇月(文永の役)のことでした。三別抄の反乱が元の対日本作戦を大幅におくらせ、また征討軍を疲れさせて日本に向かう勢いを弱めたことはまちがいありません。 文永の役は、とうじ「異国合戦」・「蒙古合戦」といわれており、「蒙古襲来」という呼び方も日本の記録にのこっています。合戦という語は、すでに『将門記』にみえており、敵味方の両軍が軍場(戦場、いくさば)に出合って戦闘を交えることです。外国から日本の内陸に襲来して防御のための合戦が行われました。「元寇」という呼び方は水戸光圀の『大日本史』(巻六三、後宇多天皇、建治元年九月七日条)ころからみえるといいます。同じ水戸の史官である小宮山昌秀の『元寇始末』(一七八七年)、大橋訥庵の『蒙古襲来研究史論』(一七八七年)があります。定着して呼称されたのは幕末から明治といいます。それは、国学や攘夷思想が高まった幕末・明治の国家意識と重なり、「倭寇」にたいしての「元寇」という言い方となったという見方ができます。(近藤成一編『モンゴルの襲来』一二三頁。日本の時代史9)。 蒙古の軍船が退去した報告が入ると、亀山上皇は自ら石清水八幡宮などに、異国降伏祈祷の戦勝成就のお礼参りをします。幕府は恩賞についての問題が生じます。御家人いがいの武士たちにも異国参戦を命じ、その軍功にたいし恩賞をだすことを決めていました。『蒙古襲来絵詞』の巻末に永仁元(一二九三)年二月九日(永仁の改元は八月五日)の日付けがあります。竹崎季長は恩賞奉行である安達泰盛に蒙古の勲功を認められ、恩賞地として肥後国海東郷(現熊本県宇城市小川町 海東)の地頭に任じられた恩恵があります。その恩人安達泰盛は弘安八(一二八五)年一一月に、平頼綱により討ち死にします。この霜月騒動のあとに幕府の実権を握ったのは、内管領の平頼綱でした。この平頼綱も貞時により邸宅を攻撃され自刃して一族は滅びます。これを「平禅門の乱」といいます。「平禅門」というのは頼綱が出家して禅門と号したことによります。この事件があったのが、永仁元(一二九三)年>四月二二日のことでした。竹崎季長の『蒙古襲来絵詞』の年次には、平頼綱が滅ぼされたことに因むともいいます。(川添昭二著『日蓮と鎌倉文化』二八二頁)。日蓮聖人が入寂されて約一三年後に平頼綱一族は滅びたのです。なを、『蒙古襲来絵詞』の伝来・模本については、川添昭二著『蒙古襲来研究史論』四六頁に詳説されています。 |
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