247.『上野殿御返事』(153)  高橋俊隆

□『上野殿御返事』(一五三)

 南条時光から聖人(すみざけ、清酒)二筒、柑子(橘類)、昆若一〇枚、山芋一籠、牛蒡一束などが身延の日蓮聖人のもとに供養され、一一月一一日付けで書かれた御返事です。真蹟は現存しませんが、稲田海素氏は明治三六年一月に大石寺所蔵の『興師本』と対校しています。内容は末法に法華経の行者を供養する功徳が大きいこと、蒙古襲来の元凶は真言の調伏祈祷により、さらに激化することをのべています。

 本文に入りますと、まず、得勝・無勝童子が土餅を仏に供養して阿育大王と生まれ、儒童菩薩は錠光仏(燃燈)に供養して釈尊と生まれたことを挙げて布施供養の功徳をのべています。つづいて法師品の文を引いて末代に法華経の行者を供養することは、仏を一劫という長い間、供養することよりも功徳が勝れているとのべています。

「法華経の第四云、有人求仏道而於一劫中合掌在我前以無数偈讃。由彼讃仏故得無量功徳。歎美持経者其福復過彼等云云。文の心は、仏を一劫が間供養したてまつるより、末代悪世の中に人のあながちににくむ法華経の行者を供養する功徳はすぐれたりととかせ給。たれの人のかゝるひが(僻)事をばおほせらるるぞ、と疑おもひ候へば、教主釈尊の我とおほせられて候也。疑はんとも、信ぜんとも、御心にまかせまいらする。仏の御舌は或は面に覆ひ、或は三千大千世界に覆ひ、或は色究竟天までも付給。過去遠遠劫よりこのかた、一言も妄語のましまさざるゆへ也。されば或経云、須弥山はくづるとも、大地をばうちかへすとも、仏には妄語なしととかれたり。日は西よりいづとも、大海の潮はみちひずとも、仏の御言はあやまりなしとかや。其上、此法華経は他経にもすぐれさせ給へば、多宝仏も証明し、諸仏も舌を梵天につけ給。一字一点も妄語は候まじきにや」(八三五頁)

 釈尊を供養することよりも、法華経の行者を護ることのほうが功徳が大きいというのは、現に末法の今時に法華経を弘通している日蓮聖人のことを指します。釈尊は自分を毀謗することよりも、初発心の弟子を謗ることを諫め、その罪が深いことを説きます。それは、初発心の弟子は退転しやすいからです。今、末法において人々から疎まれている日蓮聖人を供養することは、日蓮聖人を勇気つけることであり法華経の灯火を絶やさないことになります。しかも、このことは釈尊の言葉であるから妄語ではないとのべます。時光は供養の功徳を聞いて感動したことでしょう。日蓮聖人は恩人とした亡き時光の父にふれて、

「其上、殿はをさな(幼少)くをはしき。故親父は武士なりしかども、あながちに法華経を尊給しかば、臨終正念なりけるよしうけ給き。其親の跡をつがせ給て、又此経を御信用あれば、故聖霊いかに草のかげにても喜びおぼすらん。あわれいき(活)てをはさば、いかにうれしかるべき。此経を持人々は他人なれども同霊山へまいりあはせ給也。いかにいはんや故聖霊も殿も同法華経を信させ給へば、同ところに生させ給べし」(八三六頁)

と、南条兵衛七郎は殺生を役目とする武士であったが、法華経の深い信心により臨終においては正念であり安らかであったと聞いたことをのべます。その父親と同じ法華経の信仰を継ぐ時光を、亡き父親は草葉の陰にて喜んでいるとのべ、他人でも法華経の同心者は霊山に生まれかわるのであるから、まして、時光も父と同じ霊山に生まれると後生の安心を説いています。父親が生きていたならば、さぞ喜んだであろうと思えば、涙がとまらないとのべています。

日蓮聖人は日本国の安穏のために長年身命を惜しまずに布教してきており、誰よりも他国侵逼の警鐘を鳴らした人でした。しかし、三度の諫暁も叶わずに身延に入山した心中をのべ、ついで、蒙古の壱岐・対馬の事件に言及しています。日蓮聖人の遺文では最初に蒙古襲来にふれます。

「抑日蓮は日本国をたすけんとふかくおもへども、日本国の上下万人一同に、国のほろぶべきゆへにや、用られざる上、度々あだをなさるれば、力をよばず山林にまじはり候ぬ。大蒙古国よりよせて候と申せば、申せし事を御用あらばいかになんどあはれなり。皆人の当時のゆき(壱岐)つしま(対馬)のようにならせ給はん事、おもひやり候へばなみだもとまらず」(八三六頁)

対馬の守護職から博多に伝えられ京都に伝えられたのが一〇月一七日ですのでので、身延山にいながらも文永合戦の情報の速さがわかります。鎌倉に届いた情報は直ぐに日蓮聖人に伝えられています。これは幕府内に情報に通じる者が四条金吾、富木常忍などに報せたと思われ、幕府内にこれらの情報を伝えていた信徒の存在がうかがえます。文永の役は天災により蒙古が兵士を引き上げたことにより終わりましたが、日本側の苦戦と被害は大きなものでした。第一次蒙古襲来で敵船が沈没したことについて、日蓮聖人の直弟に連なる中老僧の越後阿闍梨日弁上人(一二三九一三一一は、『龍泉寺申状』に日本国に聖人がいるのは「日本国の大喜にして蒙古国の大憂也」である、なぜなら、龍神を動かして「敵船を海に沈め」たからであると書いています。

 次に、念仏・禅・真言の邪義にふれ、蒙古との戦いで日本の兵士が自害したことにつき、念仏宗を広めた善導が自害したように念仏を唱えていると自害の心が生じるとのべます。蒙古合戦にて討ち死にした者のほかに、自害して果てた者がいたからです。善導は永體(六八一)年、六九歳のときに寺の前にある柳の木にのぼり自殺しているからです。真言宗は承久の乱のように亡国の教えであり、これらの僧侶が鎌倉に下り僧正・法印といわれて蒙古を調伏するから、なおさら日本国の滅亡が近づいているとのべています。この真言宗こそが亡国の根源であることを知っていたのは伝教大師だけであるとのべます。伝教大師は詳しく論じていないけれど、概要を承知しているとのべています。そして、

「後白河の法皇の太政の入道にせめられ給し、隠岐法王のかまくらにまけさせ給し事、みな真言悪法のゆへなり。漢土にこの法わたりて玄宗皇帝ほろびさせ給。この悪法かまくらに下て、当時かまくらにはやる僧正・法印等は是也。これらの人々このいくさを調伏せば、百日たゝかふべきは十日につづ(縮)まり、十日のいくさは一日にせめらるべし。今始て申にあらず、二十余年が間音もをしまずよばはり候ぬるなり」(八三七頁)

と、後白河法皇が平清盛に攻められたことや、後鳥羽上皇が北条義時に負けて隠岐に流されたのも、その原因は真言の邪法を信じたからであるとのべます。唐の玄宗皇帝の開元七(七一九)年に、金剛智三蔵(六六九〜七六二年)は広州に到達し翌年に東都洛陽に入り、皇帝に入国の事情を奏上しました。そして、『金剛頂瑜伽略出念誦経』四巻、『金剛頂瑜伽修習毘盧遮那三摩地法』などを翻訳し、中国密教の祖師と称されています。玄宗皇帝が楊貴妃を寵愛し終に皇位を失ったのも、この真言の邪法を信じたためであり、真言亡国の現証であるとのべます。この真言批判は蒙古が壱岐・対馬などを襲い、その現実の惨状を真言亡国の事例として挙げるようになります。(佐藤弘夫著『日蓮』二六九頁)。この悪法が鎌倉に流行し、僧正とか法印と称されている者たちのことであるとし、幕府がこの真言師を頼みとして蒙古調伏を行わせれば、すぐに負けてしまうだろうとのべます。このことは二十年も前から声も命も惜しまずに叫んできたことであり、法華経に帰信しなければ、再度の襲来があるとのべています。

 最後に南条時光にこの書状を人々に読み聞かせるようにのべています。南条時光の近辺には相応の信徒集団がいたことがうかがえます。他宗の者から謗られるであろうが、日蓮聖人の一門はそれらには屈しない者ばかりであるとのべ、時光にもそれらの嘲笑に惑わされず、信仰を貫くように諭しています。日蓮聖人が予言した他国侵逼が蒙古の襲来として現実化し、教団の異体同心の布教を勧めていたことがわかります。

【四箇格言】

 日蓮聖人は他宗の劣れる理由を一言にのべたのが「四箇格言」です。四箇格言の全てができあがるまでには年数が掛かっています。佐前・佐渡・佐後という年代に分けて違いをみています。佐前には念仏無間・禅天魔がみられますが、律宗と真言宗に対してはまだみられません。佐渡在島中になりますと、律宗と真言宗の批判が本格的になってきます。律宗は良観への批判であり、真言宗については幕府の蒙古対策と関連し、真言僧に調伏の祈祷を願ったところに直接的な批判の理由がありました。『種々御振舞御書』のなかで阿弥陀堂法印の祈雨にあたり、はじめは雨が降り時宗から金子三〇両ほか褒美があったので、鎌倉市中の人々が日蓮聖人の密教批判を揶揄したことが、

「鎌倉中の上下万人、手をたゝき口をすくめて、わらうやうは、日蓮ひが法門申て、すでに頚をきられんとせしが、とかう(左右)してゆりたらば、さではなくして念仏・禅をそしるのみならず。真言の密教なんどをもそしるゆへに、かゝる法のしるし(験)めでたしとのゝしりしかば」(九八〇頁)

と、のべており、鎌倉の市中においては真言破は積極的に行なっていなかったことがうかがえます。このように、成語としての四箇格言はまだみえません。佐後の身延期において四箇格言が成句となります。『諫暁八幡抄』に、

「我弟子等がをもわく、我が師は法華経を弘通し給とてひろまらざる上、大難の来は、真言は国をほろぼす・念仏は無間地獄・禅は天魔の所為・律僧は国賊との給ゆへなり。例せば道理有問注に悪口のまじわれるがごとしと」(一八四五頁)

と、身延期になり四箇格言を盛んに論じていたことがうかがえます。『上野殿御返事』(一五三)にみたように、蒙古が壱岐・対馬・太宰府などを襲撃した事実に、真言亡国の現証として徹底的に真言批判がなされてきます。