248.『曽谷入道殿御書』154      高橋俊隆

□『曽谷入道殿御書』(一五四)

一一月二〇日に、曽谷氏と子供の道崇に送られた(『日蓮聖人遺文全集講義』第一三巻一四六頁)、また、曽谷・富木両氏に宛てられたとされていました。(『日蓮聖人御遺文講義』第一八巻一七九頁)。ところが、平成二一年に京都で開催された日蓮聖人展のおりに、某氏所蔵の本書最後の一紙が確認されました。これに関して中尾尭文先生が日蓮宗新聞に写真を掲載し、宛名が曽谷入道のほかに「土木入道殿、並びに人々御中」であることを記載しています。また、日付が一一月二五日であることを確認できます。真蹟はこの某氏所蔵の断簡と、本国寺に三行の断簡が伝わっています。

冒頭に他国侵逼が的中したことを、『金光明経』の「多有他方怨賊侵掠国内人民受諸苦悩 土地無有所楽之処」の文を挙げ、いずれ、壱岐・対馬の人々のように日本国の人々も侵略されるであろうと危惧されます。この原因は仏教の邪見によるものであるとして、とくに真言宗と法華宗との違目であるとのべます。そして、これまで禅・念仏宗の邪義を批判してきたのは、真言宗の邪見を顕然とするためであるとのべています。

「仏法の邪見と申は真言宗と法華宗との違目也。禅宗と念仏宗とを責候しは此事を申顕さん料也」(八三八頁)

 そして、中国が滅んだのも善無畏などの真言の邪教を信じたからであり、日本では慈覚大師が真言の三部経を鎮護国家の護経としたことが邪見の始まりで、この邪義が鎌倉の幕府などに受容されたことが、日本の亡国の原因であるとのべます。ここに台密批判がなされたのです。

「日本国は慈覚大師ガ大日経・金剛頂経・蘇悉地経を鎮護国家の三部と取て、伝教大師の鎮護国家を破せしより叡山に悪義出来して終に王法尽にき。此悪義鎌倉に下て又日本国を可亡」(八三八頁)

 慈覚大師が法華経と大日経との勝劣を判じる祈請をされ、そのときに日輪を矢で射る夢を見て大日経を選んだことについて、日蓮聖人は慈覚大師の心中に修羅が入ったためであるとのべます。つまり、第六天の魔王が入り仏敵となったことをのべたのです。

「慈覚大師は法華経と大日経との勝劣を祈請せしに、以箭射日見しは此事なるべし。是は慈覚大師の心中に修羅の入て法華経の大日輪を射るにあらずや」(八三九頁)

 末尾に、日蓮聖人の弟子は真言を用いることを禁じます。この理由は冒頭にのべた他国侵逼が現実となったことにあります。最後にこのことを申し伝えるとして、日蓮聖人に違背して罪を受けても恨まないようにとのべています。現実的には蒙古に滅ぼされそうとする、国難の責め苦を言うと思われます。曽谷氏近辺の人々の中に、真言師を頼ったりして日蓮聖人の教に背く者がいたようです。本書はそれらの人々に宛てたと思われます。曽谷氏と太田乗明は兄弟のように親しかったといわれ、また、「不読迹門」の義を日蓮聖人に質問したこと(『観心本尊得意抄』)などから、深い教学を修めていたと思われ、ここにのべた台密思想においても、間違いが生じないように、本書において慈覚大師の「理同事勝」の解釈を用いてはならないと厳命したのです。富木氏を中心した中山近辺の信徒にたいし、曲折した教学の理解を誡めているといえましょう。

 なを、この年に富木氏は自邸の法華堂を妙蓮山法華堂とあらため、太田乗明も中山の自邸を正中山本妙寺とされて、法華経の道場とされています。弘安六年に太田乗明が亡くなると富木氏が本妙寺に住みます。永仁七(一二九九)年三月に、富木氏は太田乗明の子供の日高に自邸の法華堂と本妙寺を譲り、聖教護持を厳命して亡くなります。法華経寺の法華堂は富木氏の自邸から移されたものといいます。宗門最古の堂で四足門と重要文化財に指定されています。若宮の富木氏邸は現在の奥之院で富木常忍の墓所があります。

○台密批判

 この台密批判について、小松先生は、『守護国家論』・『立正安国論』においては、法華・真言を正法とし、円仁・円珍を正師に属せしめていることから、鎌倉初期の段階では台密批判は行なわれていないとし、台密批判の過程を次のように分析しています(『天台密教思想との連関』『中世法華仏教の展開』所収八五頁)。 

@    文永五,六年頃の『御輿振御書』『法門可被申様之事』あたりから、比叡山の台密に批判的な態度を示し始める。

A    文永八年の佐渡流罪を契機に同九年の『開目抄』に慈覚大師円仁の批判があらわれる。しかし、ここでの慈覚大師批判は形式的なもので教理的批判はみられない。

B    文永一一年の『曽谷入道殿御書』(八三八頁)より思想的に深く台密理論と対決し批判が展開される。

 他宗批判については、はじめに、謗法者と定めて批判されたのは念仏と禅宗でした。『立正安国論』を著述されたころは、天台・真言の二宗はいくぶん正法とされています。弘長元年に良観が鎌倉に入り、日蓮聖人が伊豆流罪から赦免されて鎌倉に帰ってから律宗批判が加わります。また、弘長二年ころから東密批判が見られるようになり、文永元年ころから顕著になります。そして、台密批判は身延入山の文永一一年末頃とされます。(宮崎英修著『不受布施派の源流と展開』三八頁)。宮崎英修先生は台密批判が本格的に展開されたのは、同年、一一月一一日の『上野殿御返事』(八三七頁)と、一一月二五日の『曽谷入道殿御書』(八三八頁)を挙げています。ただし、これよりも早い九月一七日の『彌源太殿御返事』(八三一頁)に、慈覚・智証の功罪が述べられているとし、この台密が本格的なった大きな要因は蒙古襲来にあるとしています。すなわち、先にも引用した『曽谷入道殿御書』に、

「当時壱岐対馬の土民の如くに成リ候はんずる也。是偏に仏法の邪見なるによる。仏法の邪見と申スは真言宗と法華宗との違目也。禅宗と念仏宗とを責メ候しは此事を申シ顕さん料也。(中略)日本国は慈覚大師ガ大日経・金剛頂経・蘇悉地経を鎮護国家の三部と取て、伝教大師の鎮護国家を破せしより叡山に悪義出来して終に王法尽にき」(八三八頁)

と、これまでは慈覚に与同的であったのが、蒙古の襲来を契機に、慈覚の台密を明確に批判することになります。大日経などの三部経を鎮護国家の法とし、「理同事勝」を主張して比叡山を密教化した功罪を蒙古の襲来と重ねて、亡国の元凶とみなす批判をされました。身延に入って以降は慈覚の台密を批判し、比叡山と決別した方向に進みます。すでに『法華取要抄』に述べた「日蓮為正」(八一三頁)としての根本大師最澄に直結し、そこから脱却した本化上行の付属された三大秘法を開陳しなければならないことであったのです。

 別の視点からみますと、蒙古襲来の事実は日蓮聖人独自の事一念三千の教学が実証されたということになります。台密批判は一念三千と台密教学との対決といわれ、それは最澄いらい四百年の間、異議がなかった天台法華宗との対決であります。日蓮聖人の教学の基盤は天台教学にあります。しかし、最澄は真言批判の時期を末法に譲ったと(『報恩抄』一二一六頁)受けとめている日蓮聖人において、独自の教学をもって脱却しなければなりません。それは、すでに『観心本尊抄』においてのべた事一念三千でありますが、なを、台密批判に必要とされたのが歴史的実証であったのです。それが、『立正安国論』で予言した二難の的中であり、文永一一年の蒙古襲来という他国侵逼の現実をもって事一念三千の現証とし、このときをもって台密と対決する準備が整ったとされる理由がここにあります。