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□『顕立正意抄』(一五六)一二月一五日に『顕立正意抄』を執筆しています。草庵に謫居されてから半年になります。『立正安国論』に予言した自界叛逆・他国侵逼の二難が符合したことにより、弟子信徒に対し再度、『立正安国論』の国家諫暁を促した著述といわれ、その『立正安国論』の大事な意義を顕すということから、『顕立正意抄』と題されています。また、『立正安国論』の裏書きであり結論といいます。(『日蓮聖人御遺文講義』第一巻三四五頁)。真蹟は現存しませんが日春上人(~一三〇三年~)の写本が沼津市光長寺に伝えられています。 冒頭に『立正安国論』の二難予言の文を挙げ、日蓮聖人が『立正安国論』において予言した自界反逆・他国侵逼が、蒙古襲来として的中し一〇月五日より壱岐・対馬の二箇国が奪い取られたことをのべます。『立正安国論』の文を引いて釈尊の苦得外道・長者の婦人懐妊・釈尊涅槃など「苦得外道等三事」の未来の予言が事実として普合していることを示して、日本国中の覚醒を促しています。また、『立正安国論』にふれた謗法堕獄においても、同じように的中して日本国の上下万民が、法華不信の謗法罪により無間地獄に堕ちるであろうとのべます。そして、日蓮門下の弟子などにおいても信心が薄い者は多少の堕獄があるので、覚悟して修行すべきことを不軽軽毀の衆の文を引いて厳しく訓戒しています。 「彼不軽軽毀衆現身加信伏随従四字猶先謗依強先堕阿鼻大城経歴千劫受大苦悩。今日蓮弟子等亦如是。或信或伏或随或従。但名仮之不染心中信心薄者設不経千劫或一無間或二無間乃至十百無間無疑者歟。欲是免者各如薬王・楽法焼臂剥皮如雪山・国王等投身仕心。若不爾者五体投地徧身流汗。若不爾以珍宝積仏前。若不爾為奴婢奉持者。若不爾者等云云。以四悉檀適時而已。我弟子等之中信心薄淡者臨終之時可現阿鼻獄之相。其時不可恨我等云云」(八四一頁) 不軽軽毀の衆は現身に改悔して「信伏随従」したが、謗法の罪により千劫堕獄してその大苦悩を受けたことをあげ、今、日蓮聖人の弟子はよくよくこの経文の意を心にかけ、四悉檀を適時に信心すべきことをのべています。 悉とは遍くという意味で檀とは施すということです。つまり、全ての人に教を施す四種の方法です。 世界(歡喜)――――人々の心に合わせて説き利益を与える 為人(生善)――――人々それぞれの能力に応じて法を説き善根を積ませる 対治(破悪)――――三惑の煩悩を断じること 第一義(真実)―――真理を説いて直接導くこと 前の三者は時代や機根に応じて種々の方便によって化道することで、第一義は『法華経』の真実を直接的に説くことをいいます。前二者と対治の三つを摂受、後二者を折伏として解釈する方法があります。つまり、摂受・折伏を時に応じて用いることをのべています。ここでは、末法闘諍堅固の時、現に蒙古襲来においても、不惜身命の覚悟を強くして布教すべきことを強調したとみることができます。
□『聖人知三世事』(一五七)『聖人知三世事』(八四三頁)はこの文永一一年、あるいは、建治元年の説があります。富木氏に宛てたといわれています。親蹟は五紙で全文が漢文で書かれ、中山法華経寺に所蔵されています。 主意は過去・現在・未来の三世を知るのが聖人であり、末法に法華経が広まることを預言した釈尊を聖人とします。そして、その末法に自界反逆・他国侵逼の難を的中させた日蓮聖人こそが、一閻浮提第一の聖人とのべます。結論として法華経の行者である日蓮聖人を迫害するため、諸天善神が隣国の国王に命じて日本を攻めているとのべます。その現れが蒙古の襲来であり、即刻、法華経の信心を行うことを勧めます。本文に入りますと、聖人は三世を知ることができるとし、儒教は現世しかわからず外道は過去を知るので少しは聖人であるとします。仏教においては過去未来の因果を知るが、四教において浅深があることを挙げます。法華経の迹門は過去大通仏の三千塵点劫を説いて一代に超過するが、本門は五百塵点久遠実成を説くので、過去遠遠劫から未来無数劫を説くことを挙げ釈尊こそが聖人であるとのべます。さらに、釈尊は三月後に涅槃することを知り、牽いては「後五百歳」の末法に法華経が広宣流布することも疑いのないこととします。この「後五百歳」に使わされた法華経の行者は誰かとするならば、「自他返逆侵逼」の未来を予言した事実からして、日蓮聖人自身であると判断します。そして、日蓮聖人は弟子達に自分は法華経の行者として、不軽菩薩の行跡を紹継(「不軽紹継」)することを認識するようにとのべます。 「後五百歳以誰人法華経行者可知之。予未信我智慧。雖然自他返逆侵逼 以之信我智。敢非為他人。又我弟子等存知之。日蓮是法華経行者也。紹継不軽跡之故。軽毀人頭破七分 信者福積安明」(八四三頁) また、法華経の行者を軽毀するものは陀羅尼品に説かれたように「頭破作七分」の罰を受けるとのべます。
「問云 何毀汝 人無頭破七分乎。答云 古昔聖人除仏已外毀之人頭破但一人二人也。今毀呰日蓮事非不可限一人二人。日本一国一同同破也。所謂正嘉大地震 文永長星誰故。日蓮一閻浮提第一聖人也。上自一人下至于万民軽毀之 加刀杖 処流罪故 梵与釈日月四天仰付隣国逼責之也。大集経云 仁王経云 涅槃経云 法華経云。設作万祈不用日蓮 必此国今如壹岐対馬。我弟子仰見之。此偏日蓮非尊貴。法華経御力依殊勝也。拳身想慢下身蔑経。松高藤長 源深流遠。幸哉 楽哉 於穢土受喜楽但日蓮一人而已」(八四三頁) と、頭が七分に割れる現罰を、正嘉の大地震や文永の長星はその兆候であったとします。蒙古の襲来による恐怖感もその現証と見ることができます。日本国の一同の人々が頭破作七分であり、ゆえに、日蓮聖人は「一閻浮提第一聖人也」とのべます。日本が蒙古から攻められるのは、日蓮聖人を軽毀し刀杖を加え流罪に処したから、法華経を守護する梵天・帝釈・日月・四天王が隣国に仰せつけて治罰するとのべます。つまり、法華不信謗法と法華経の行者を迫害する罪により他国より攻められると考えます。このまま日蓮聖人を用いなければ寺社に万の祈祷を願ってもこのままでは日本が壱岐・対馬のように滅びるとまで言及されています。そして、弟子達にむかい日蓮聖人が自讃で言うことではなく、法華経の力が殊勝であるからであるとのべ、この娑婆の穢土において喜楽を受けて法悦を感受しているのはただ一人であるとのべて結ばれています。
◎御本尊(一六)(『御本尊鑑』第七)一二月一二月付けにて身延の山中において図顕されたことを記し、授与者名はありませんが、山川智応先生は「本因妙・本国土妙顕発の御本尊」(『日蓮聖人研究』第二巻五〇七頁)と指摘しているように、讃文に特徴があります。讃文に、「大覚世尊御入滅後経歴二千二百二十余年雖尓月漢日三ヶ国之間未有此大本尊、或知不弘之或不知之我慈父以仏智隠留之為末代残之、後五百歳之時上行菩薩出現於世始弘宣之」と、滅後末法に上行菩薩が生まれてこの未有の御本尊を広めるとして、自身の上行自覚を示されたこと。「大本尊」と讃文に書かれたのもこの御本尊の一例のみです。ほかの御本尊は大曼荼羅と表記されています。そして、日本の本国土妙を代表する天照太神・八幡大菩薩に「南無天照八幡等諸仏」と本地を示されたことです。このような儀相は他に例がありません。(山中喜八著『日蓮聖人真蹟の世界』上、四二三頁)。通称を「万年救護御本尊」といい、紙幅は縦一〇六.六㌢、横五六.七㌢、三枚継ぎの御本尊で千葉保田妙本寺に所蔵されています。
◎御本尊(『御本尊鑑』第八)一二月紙幅は縦一〇四.五㌢、横五三.六㌢の三枚継ぎの大きな御本尊です。『乾師目録』には第二箱に所蔵されていました。(『御本尊鑑』一六頁。山中喜八著『日蓮聖人真蹟の世界』上、五〇頁)。
◎御本尊(『御本尊鑑』第九)「三紙御本尊」といわれます(『御本尊鑑』一八頁)。釈迦・多寶に四菩薩のみが勧請されており、年号はありません。紙幅は縦約八五㌢、横約四三㌢の三枚継ぎの御本尊です。さきの御本尊(第一七)と同等といわれる御本尊です。
◎御本尊(一七)染筆の年月日はありませんが、この時期のものとして『御本尊集目録』に第一七と第一八が掲載されています。第一七の御本尊は日朗上人の自署と花押があるので、「朗師加判御本尊」と呼称されています。一如日重上人の『見聞愚案記』によれば日朗上人の筆跡にて永仁元年一一月二七日の添え書きがあったとあります。この御本尊の左右両端の下部に料紙を削除した痕跡があるので、この部分に存していたと思われます。紙幅は縦八六.一㌢、横四三.四㌢、平賀の本土寺に所蔵されています。多寶仏側に上行・浄行菩薩、釈尊側に無辺行・安立行菩薩が勧請されています。本御本尊と同型で紙幅の大きさも同等であった御本尊が、かつて身延に所蔵されていたといいます。第一八の御本尊は胎蔵界大日如来を勧請しているので、類似した『御本尊鑑』第一二と同じ頃として建治元年一一月ころとします。
□『立正観抄』(一五八)文永一一年、建治元年、建治二年の説があります。赦免され京都に在住していた最蓮房に宛てた書状といいます。『進師本』の写本が身延山に所蔵されています。また、『朝師本』の写本が茨城久成寺に所蔵されていますが、真偽についての賛否があります。冒頭に「法華止観同異決」とあることから、法華止観の勝劣についてのべた遺文であることがわかります。天台宗は『止観』の観法が、法華経の教義に勝れていると説くことに対し、天台の一心三観や一念三千は法華経の迹門を依拠として立てた教であるから、本門が開顕されたことに立脚すれば、『止観』よりも法華経が勝れているとのべます。そして、末法の観法は妙法蓮華経の五字の受持唱題であることを説きます。 〇『断簡』八四 大野本遠寺に所蔵されています。故事を引き身延にいる日蓮聖人の心中をのべています。食が乏しくなった寒中の様子を喩えたと思われます。 「宅内絶食両三日道路無通人。此僧正責塞(寒)。又無食之上洛中有一青女。余悲母也。誰人養之。我学仏法不」(二五〇八頁) 〇「迦葉付属事」 第一紙より二五紙までは中山法華経寺、第二六紙は肥前三日月勝妙寺に所蔵され全紙他筆です。『祐師聖教録』には「涅槃経要文」とあり、日蓮聖人が弟子に経文などを書写させていたことがわかります。このほかに、『維摩経』『大日経』『仁王経』『般若心経』『天台三大部』『華厳五教章』『真言宗教時義』など、多くの経論釈の書写が伝わっています。『対照録』下巻。系年一覧。四七一頁)。 |
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