251.『大田殿許御書』~『富木殿御返事』(162)   高橋俊隆

五四歳 建治元(文永一二)年 一二七五年

◎御本尊(一九)一月

 「正月日」と書かれた紙幅縦一一六.七センチ、横四三、三センチ、四枚継ぎの御本尊です。釈尊の横に十方分身諸仏が勧請され善徳仏は省略されています。次の段に日本国守護の天照太神・八幡大菩薩が勧請され、四天王・不動愛染は省略されています。この御本尊は京都妙伝寺に所蔵されています。

□『大田殿許御書』(一五九)

月二四日に太田乗明氏に宛て年頭の賀詞をのべています。真蹟は一〇紙完で中山法華経寺に所蔵されています。文永一二年は四月二五日に改元し建治となります。本書の末尾に「大田金吾入道殿」とあることから、太田乗明氏は建治元年に入道し、本書はその入道後とみるとき、弘安元年とする『太田左衛門尉御書』(一四九五頁)の以後の書状として、『境妙目録』は弘安二年とします。(『日蓮聖人御遺文講義』第一八巻四九頁)。太田乗明氏は日蓮聖人と同年令ともいわれ、妻が道邊右京の孫であることから、日蓮聖人と従姉妹の関係にあったといいます。この関係から富木常忍氏とともに早い時期から支援したともいいます。下総中山に本妙寺を建立し、富木常忍氏の若宮法華寺と合わせて法華経寺となります。子息の帥阿闍梨日高上人が中山法華経寺を継ぎます。(『日蓮聖人遺文全集』別巻七一頁)。

太田乗明氏はもともと真言密教の信徒であり、この頃も真言に傾倒していたためか、法華経の方が正しく勝れていることを説いています。とくに天台と真言宗の勝劣において、慈覚・智証が善無畏の理同事勝を立てた義を踏襲したことを批判します。

まず、世間においても仏教においても、何が正しいのかという理非を糺すことが先決であるとのべます。そこで、①、これまでに法華経と大日経の勝劣と、天台宗と真言宗の勝劣を判別した者がなく、慈覚・智証の二人は真言と『止観』は同等のように思い、しかも、昨今の天台僧は先師の教に背き法を宣布していないと批判されていることをあげます。

「余生居末初 学禀諸賢之終。慈覚・智証正義之上敕宣方々有之。不可有疑。不可出一言。雖然円仁・円珍両大師劫略先師伝教大師正義 申下敕宣之疑有之上 仏誡難遁。随又亡国因縁謗法源初始之歟。故不憚世謗。不知用不用。捨身命申之也」(八五二頁)

と、その原因は慈覚・智証の二人にあるとのべます。これこそが日本国の亡国の因縁と謗法始まりであるとのべ、佛の訓戒を見過ごすわけにはいかないので、世間から憚りを受け、またこれが用いられるかも弁えずに、身命を捨ててこの諸悪の根源を指摘されたことをのべます。

次に、問答により台密についてのべていきます。②、日蓮聖人が敢えて真言宗を批判するのは、『涅槃経』の「仏法中怨」となり「仏敵」となることを怖れるため、身命を捨てる覚悟で糾明したとのべます。第一番の問答においては『涅槃経』の「仏法中怨」の文を挙げて、東密・台密の大師の誤りを指摘します。世間の迫害を恐れてこの誤りを言わなければ「仏敵」となるとし、章安大師の「仏法中怨」の者を糺治する者は親徳に当るという文に、不惜身命の覚悟を心肝に染めたとのべています。そして、諸経はそのときの方便の施教であるから、それぞれが第一と自讃するのは常習のことです。諸経の勝劣は「已今当の三説」により明白であることをのべます。これについては、『法華取要抄』(八一〇頁)にのべているように、日蓮聖人の経の勝劣論の定形となっています。仏意によれば諸経の勝劣を論じることが詮ではないことをのべます。③、ここでは、法華経の行者が一切の論師よりも勝れていることを強調します。その経文は薬王品の十喩のなかの第八番目の文を引きます。「又如一切。凡夫人中。須陀洹。斯陀含。阿那含。阿羅漢。辟支仏。為第一。此経亦復如是。一切如来所説。若菩薩所説。若声聞所説。諸経法中。最為第一。有能受持。是経典者。亦復如是。於一切衆生中。亦為第一」(『開結』(五二三頁)。

「第八譬兼有上文。所詮如仏意者非詮経之勝劣。法華経行者勝一切之諸人之由説之。大日経等行者諸山・衆星・江河・諸民也。法華経行者須弥山・日月・大海等也。而 今世 軽蔑法華経如土如民。重崇真言僻人等為国師如金如王。依之増上慢者充満国中。青天為瞋黄地至夭孽。如涓聚破墉塹民愁積亡国等是也」(八五四頁)

これは自讃ではなく仏説によるとのべ、法華経を受持する法華経の行者も経の最勝とともに、行者の最勝として、真言師と比較されたのです。④、そして、真言師などの邪師を国師のように尊び、増上慢の者が日本国中に充満したため、青天黄地は災いをなすとのべます。天を青、地を黄で表現するのは李賀(七九〇~八一六年)の漢詩に見られるように、天地をあらわした道教的な表現です。つまり、天は瞋を為し地は災いを致す天変地夭により、涓(したたり)が聚って堤防(砦)を破るように、民衆の愁いが積もって国を亡すことになるとのべます。「真言亡国」をのべたのです。さらに、呉競(六七〇~七四九年)の『貞観政要』上奏の表や、章安大師・従義法師の釈を引き、重ねて法華経の行者が勝れていることをのべます。従義法師(一〇四二~九一年)は天台宗の正統派である山家に対し、後山外派と呼ばれる中の一人で、『天台四教儀集解』などを著述しています。そして、善無畏・弘法・慈覚・智証大師などが、仏意に背き法華経を謗法した罪の報いを、慈覚大師は墓所が明らかではなく、弘法も入定は遺骸を隠すために弟子たちが決めたことで墓所の跡がないとのべ、三井寺や叡山も兵火に焼かれていることをあげて、これが仏意に違背した者の罪科であるとのべます。これらの者が正法を伝える師であるならば、「恥辱を死骸に与えられることはない」という諺に相違するとのべます。

最後に、⑤、奈良の六宗が天台宗に帰伏したように、真言宗が天台宗に帰伏した証文があるかを問い、その証文は妙楽大師の『文句記』第十巻に記載されており、伝教大師は『依憑集』に証文を載せているとのべます。その『法華文句記』第十巻末の文は、「適与江淮四十余僧、往礼臺山。因見不空三蔵門人含光、奉勅在山修造。云与不空三蔵、親遊天竺。彼有僧問曰大唐有天台教迹。最堪簡邪正暁偏円。可能訳之将至此土耶。豈非中国失法求之四維。而此方少有識者。如魯人耳。故厚徳向道者莫不仰之敬。願学者行者随力称讃。応知自行兼人。並異他典。若説若聴境智存焉。若冥若顕種熟可期。並由弘経者有方故也。若直爾講説是弘経者何須衣座室三之誡。如来所遣豈可聊爾。余省躬揣見自覚多慚。迫以衆縁強復疏出。縦有立破為樹円乗使同志者開仏知見終無偏黨而順臆度。冀諸覧者悉鑑愚誠。一句染神咸資彼岸思惟修習永用舟航随喜見聞恒為主伴。若取若捨経耳成縁。或順或違終因斯脱。願解脱之日依報正報常宣妙経一刹一塵無非利物。唯願諸仏冥薫加被一切菩薩密借威霊在在未説皆為勧請。凡有説処親承供養。一句一偈増進菩提一色一香永無退転」のところを証文とします。門下はこのことを存して、今生の謗りや権力を恐れて後生に悪い果報を招かないようにと訓戒して結んでいます。

□『四条金吾殿女房御返事』(一六一)

四条金吾の妻から三三歳の厄年にあたるので厄除けのために布施を送られ、それに答えて宛てられた、一月二七日付けの書状です。真蹟は断片が丹後妙圓寺など五ヶ所に散在しています。本書の冒頭にも真言師の邪法をのべますが、これについては今回はふれないとして本文に入り、薬王品の十喩についてのべます。薬王品の十喩は法華経の超勝を示すだけではなく、一切経の行者と法華経の行者のどちらが勝れているかを示すのが釈尊の御心であるとのべています。これは先の太田氏に宛てた『大田殿許御書』(八五二頁)と同じように、諸経と法華経の勝劣のほかに、諸宗の諸僧と法華経の行者の勝劣に視点を当て比較をしています。すなわち、

「第八の譬への下に一の最大事の文あり。所謂此経文云 有能受持是経典者亦復如是。於一切衆生中亦為第一等[云云]。此二十二字は一経第一の肝心なり。一切衆生の目也。文の心は法華経の行者は日月・大梵王・仏のごとし、大日経の行者は衆星・江河・凡夫のごとしととかれて候経文也」(八五六頁)

と、とくに、薬王品十喩の「一切衆生中亦為第一」の二十二字の文字を、法華経の第一の肝心であるとのべます。冒頭に邪法を使い人々を迷わしている真言師を挙げているように、ここにも大日経を挙げて真言破を中心におこなっていることがわかります。「是経典者」とある法華経を受持する「者」について次の文に「若有女人」とあることから、釈尊の心は女人にあるとのべます。しかし、諸経(『大智度論』『涅槃経』など)をみれば女人は地獄の使いであるとか、毒蛇であるとか、曲がった木、仏種を炒る者などと説かれ、世間にも栄啓期は女人と生まれなかったことを幸福とし、災いは三女より起きるなどと説いて、女人が嫌われていることを挙げます。三女とは妹喜・姐己・褒姒の三人の女性は夏の桀王、殷の紂王、周の幽王を亡国に導いた悪女とされます。しかし、法華経は男子よりも勝れていると説くとして、薬王品の「若有女人」について、法華経を信じる女人もまた勝れていることをのべます。そして、世間の人から悪口を言われても、大切に思う夫に優しく守られることが嬉しいように、法華経の信仰をして世間の人からは憎まれても、釈迦・多寶をはじめ諸天善神から不愍と思われるならば、何も苦しいことはないとのべ、法華経に褒められるならば、肩身が狭いことはないと信心を勧めます。女性にとっては実感できる言葉であったと思います。私たちの信仰も日蓮聖人の御心に叶った行動でなければならないことを学びます。

三十三歳の厄にあたり布施を送っていただいたので、釈迦佛・法華経・日天子の御前に祈願することを伝えます。母の胎内に宿ったときから随身している、同名・同生の倶生神は一生の善悪と法華経の信心を見ていることを告げます。この倶生神は人の一生の善悪を天神に報告することが、『華厳経』の入法界品に説かれ、それを天台大師が『摩訶止観』の第八で詳しく解説しているとのべます。そして、日蓮聖人はさらに強固な信心を勧めます。

「但し信心のよはきものをば、法華経を持つ女人なれどもすつるとみへて候。れいせば大将軍心ゆわければしたがふものもかいなし。ゆみゆわければ、つるゆるし。風ゆるなればなみちひさきはじねんのだうりなり。しかるにさゑもん(左衛門)どのは俗のなかには日本にかたをならぶべき物もなき法華経の信者なり。これにあひつ(連)れさせ給ぬるは日本第一の女人なり。法華経の御ためには龍女とこそ仏はをぼしめされ候らめ。女と申す文字をばかゝるとよみ候。藤の松にかゝり、女の男にかゝるも、今は左衛門殿を師とせさせ給て、法華経へみちびかれさせ給候へ」(八五八頁)

日本の在俗のなかでは比類のない法華経の信者である四条金吾の妻であるから、日本第一の女人であるとのべます。そして、三十三の厄は転じて三十三の幸いとなり福が重なりくるであろうと書き送っています。正月二七日ですと草庵には雪が降り積もっていたでしょう。寒中に布施を届けた四条金吾氏の信心も伝わってきます。

□『春之祝御書』(一六一)

 一月の下旬ころに南条時光に宛てて春の年頭の挨拶をしています。真蹟三紙は富士大石寺に所蔵されています。南条兵衛七郎は文永二年に病没し、本書には日蓮聖人が鎌倉にいたおりに、南条兵衛七郎の墓参りに駿河に行ったことをのべています。南条氏の妻は松野六郎左衛門の娘という関係から、日持上人と義理の兄弟になります。日蓮聖人に従順した信者であり信頼が深かったことがうかがえます。

「さては故なんでうどの(南條殿)はひさしき事には候はざりしかども、よろづ事にふれてなつかしき心ありしかば、をろかならずをもひしに、よわひ盛なりしに、はかなかりし事、わかれかなしかりしかば、わざとかまくら(鎌倉)よりうちくだかり、御はかをば見候ぬ。それよりのちはするが(駿河)のびん(便)にはとをもひしに、このたびくだしには人にしのびてこれへきたりしかば、にしやま(西山)の入道殿にもしられ候はざりし上は力をよばず、とをりて候しが心にかゝりて候。その心をとげんがために、此御房は正月の内につかわして、御はかにて自我偈一巻よませんとをもひてまいらせ候」(八五九頁)

 南条兵衛七郎は文応・弘長ころの入信といわれ文永二年に亡くなっているので、日蓮聖人との関係は四~五年と思われます。そのため久しい交際ではないとべられていますが、親交においては深い繋がりをもっていたようです。南条氏は北条時政と近い関係ともいわれ、執権の身内として北条氏の領地である上野に居住していました。南条氏が上野殿と呼ばれるのはこのためです。日蓮聖人が鎌倉に在って幕府との交渉を得たのは南条氏の力が大きかったと思われます。離別の悲しさから鎌倉より、駿河上野の南条兵衛七郎の墓参りに行ったことがのべられています。その後も駿河方面を訪れたら墓参を思っていたが、このたび身延に来ることは、人々に内緒であり西山氏にも内密にしてのことであったのべ、そのため南条氏の墓所の近くを素通りした事情と、日蓮聖人の南条氏にたいする心情を語っています。西山氏は大内安清のことで三郎といい、北条氏の一門で駿河西山を領していたので西山殿と呼んでいます。日蓮聖人が亡くなってからは日興上人に師事し、その後は日代に仕えて西山本門寺を建立しました。この頃の北条氏の迫害が続いていたことがうかがえ、そのため身の危険を抱えての下山であったのです。とはいえ、充分な墓参りが出来なかった心残りがあるので、弟子を遣わして自我偈一巻を読ませ供養したいとのべています。この弟子とは時光の母の兄にあたる日持上人か日興上人のどちらかです。『日蓮聖人全集』(第七巻一二頁)には日興上人となっています。南条氏の形見がなく寂しく思っていたが、時光という子息を残したことを喜ばれ、日興上人と南条時光氏とともに、墓において経文を読むならば、故父もどれほど喜ぶことであろうと伝えています。この後の文章の真蹟は欠失しています。二月四日に幕府は鎮西の御家人に異国警護番役の制を定め、蒙古に対する警戒を命じます。(『比志島文書』)。

□『富木殿御返事』(一六二)

 二月七日付けで富木氏から帷子が送られたことの御返事で、真蹟四紙全文が中山法華経寺に所蔵されています。この帷子は富木氏の九十になる母が縫い設えたことが記されています。釈尊在世に飢饉があり、このとき一人の比丘が袈裟を売ってその代価を釈尊に供養したことの故事を引き、袈裟の功徳よりも母の恩の方が重いことを示し、富木氏の老母への感謝と恩義をのべています。その故事とは釈尊在世に飢饉があり、一人の弟子が自分の袈裟を売って金品にかえ釈尊に供養します。しかし、釈尊はそれを受けとりませんでした。弟子の母親に供養するように説きます。弟子は自分の母は無知であるから布施を受ける身分ではないと答えます。釈尊は産んでくれた恩は充分に袈裟を受けるに値することを説いています。日蓮聖人はこの帷子は、我が子の富木常忍氏のために老眼をこらし縫われたものであるから、自分よりも日蓮聖人のためにと思われて送られたものとのべ、それを思えば受けとるわけにはいかないが、この帷子を着して日天子に申し上げるならば、十方の諸天善神は感応して、大きな功徳となると感謝の気持ちをのべています。

「此は又、齢九旬にいたれる悲母の、愛子にこれをまいらせさせ給。而我と老眼をしぼり、身命を尽せり。我子の身として此帷の恩かたしとをぼしてつかわせるか。日蓮又ほうじがたし。しかれども又返べきにあらず。此帷をきて日天の御前して、此子細を申上ば、定て釈梵諸天しろしめすべし。帷一なれども十方の諸天此をしり給べし。露を大海によせ、土大地に加がごとし。生々に失せじ、世々にくちざらむかし」(八六〇頁)