252.『可延定業御書』~『大善大悪御書』  高橋俊隆

□『可延定業御書』(一六三)

 同じく二月七日付けで富木氏の妻に宛てられた書状です。真蹟は一〇紙で中山法華経寺に所蔵されています。弘安二年、建治元年の説があります。富木尼は病弱でありながらも、献身的に夫と姑に仕えています。境持院日通上人の『御書略註』によりますと、熱原弥四郎国重の娘ともいいます。日頂上人と寂仙房日澄上人の母で重須伊予守定時の亡き後、後妻にに入っています。(『日蓮聖人の歩みと教え』第二部二九三頁)。

病いと業についてのべられているので本書の題号がつけられています。病気には軽い病と重い病があるように、人の業も定業と不定業があるとのべ、その定業も法華経の信心をして懺悔するならば、業病であっても消滅し治癒できるとのべます。法華経に「此経則為閻浮提人病之良薬」「増益寿命」と説かれているように、法華経を信仰する功徳によって寿命をのばすことができた例として阿闍世王・陳臣、そして、日蓮聖人の母においても寿命を四年延命したことをのべています。

「されば日蓮悲母をいのりて候しかば、現身に病をいやすのみならず、四箇年の寿命をのべたり。今女人の御身として病を身にうけさせ給。心みに法華経の信心を立て御らむあるべし。しかも善医あり。中務三郎左衛門尉殿は法華経の行者なり。命と申物は一身第一の珍宝也。一日なりともこれをのぶるならば千万両の金にもすぎたり。法華経の一代の聖教に超過していみじきと申は寿量品のゆへぞかし。閻浮第一の太子なれども短命なれば草よりもかろし。日輪のごとくなる智者なれども夭死あれば生犬に劣。早く心ざしの財をかさねて、いそぎいそぎ御対治あるべし」(八六二頁)

 このように、富木氏の妻の病気平癒を願い強い信仰を喚起しており、鎌倉にいる四条金吾は善医であり法華経の行者であるから、早急に施薬をしてもらい病気を治療するようにとのべています。そして、日蓮聖人の細やかな配慮がうかがえます。四条金吾に対して同心の信仰者であるから信頼があることをのべ、早く治療をしてもらうようにと勧めます。その四条金吾には日蓮聖人からもお願いするが、本人らも誠意をもってお願いすることの大切さをのべています。

「此よりも申べけれども、人は申によて吉事もあり、又我志のうすきかとをもう者もあり。人の心しりがたき上、先々に少々かゝる事候。此人は人の申せばすこそ(少)心へずげに思人なり。なかなか申はあしかりぬべし。但なかうど(中人)もなく、ひらなさけに、又心もなくうちたのませ給。去年の十月これに来て候しが、御所労の事をよくよくなげき申せしなり。当事大事のなければをどろかせ給ぬにや、明年正月二月のころをひは必をこるべしと申せしかば、これにもなげき入て候。富木殿も此尼ごぜんをこそ杖柱とも恃たるに、なんど申て候しなり。随分にわび候しぞ。きわめてまけじたまし(不負魂)の人にて、我かたの事をば大事と申人なり。かへすがへす身の財をだにをしませ給わば此病治がたかるべし。一日の命は三千界の財にもすぎて候なり。先御志をみみへさせ給べし。法華経の第七巻、三千大千世界の財を供養するよりも、手一指を焼て仏法華経に供養せよととかれて候はこれなり。命は三千にもすぎて候。而齢もいまだたけさせ給はず、而法華経にあわせ給ぬ。一日もいきてをはせば功徳つもるべし。あらをしの命や命や。御姓名並御年を我とかかせ給て、わざとつかわせ。大日月天に申あぐべし。いよどの(伊予殿)もあながちになげき候へば日月天に自我偈をあて候はんずるなり」(八六三頁)

 四条金吾が昨年の一〇月に身延に来たときに、富木尼の病気について語ったところ、年が明けてから病状が表出するといい、富木氏も心配であろうと腐心していたことを伝えます。薬王品の「能燃手指」(『開結』五二一頁)は、誠意を示すことが大事であることを教えているとのべ、命を大切にして一日でも長生きすれば功徳を積むことができるとのべます。そして、富木尼の姓名と年齢を自身で書き、使いの者に身延まで届けるように指示されています。そうするならば日天・月天に病気平癒と増益寿命の祈願をされるとのべます。祈願を行うには自分からすすんで氏名や年齢を書き、諸天善神にお願いすることを教えています。富木尼の子息である日頂上人は自我偈を唱えて平癒祈願をされていると伝えます。

二月八日に小室の日伝上人が、醍醐谷に志摩坊を建立します。(林是㬜著『身延山久遠寺史研究』一五七頁)。二月一六日に一六社に奉幣使を遣わし異国調伏を祈ります。

□『新尼御前御返事』(一六四)

 二月一六日付けで故郷安房の領家の新尼と大尼よりあまのり(海苔)が送られたことの礼状です。領家の大尼に対しては恩義があり言葉使いも、

「あまのり(海苔)一ふくろ送給了。又大尼御前よりあまのり畏こまり入て候」(八六四頁)

と、丁寧にのべています。大尼は領家の尼御前とも言われ、日蓮聖人の両親や兄弟一族が大恩を受けている人です。新尼はその領家の若女主人で、大尼の娘か嫁と思われています。身延に入山して始めての書状なので、住まわれている身延山について説明されています。安房の海育ちの日蓮聖人が山深い身延山の様子を語られています。

「春の花は夏にさき、秋の菓は冬なる。たまたま見るものはやまかつ(山人)がたき木をひろうすがた、時時とぶらう人は昔なれし同法(朋)也。彼の商山の四晧が世を脱し心ち、竹林の七賢が跡を隠せし山かくやありけむ」(八六五頁)

と、身延山の山河の様子を知らせながら、故郷の思い出と供養されたあまのり(海苔)に、両親を偲んでおられます。身延入山の心境を、中国秦代末期に乱世を避けて陝西省商山に入った、東園公・綺里季・夏黄公・甪里(くり)先生の四人の隠士に喩えています。みな鬚眉(しゅび)が皓白(こうはく)の老人であったので商山の四皓いいます。漢の初代の高祖は劉邦(在位、前二〇二~前一九五年)です。劉邦の皇后は呂 雉(~前一八〇年)で、唐代の則天武后、清代の西太后と並ぶ中国三大悪女の一人です。竹林の七賢は魏(二二〇~二六五年)の末期に、河南省北東部の竹林で、しばしば集まって清談を行った七人の賢人をいいます。。阮籍(げんせき)・嵆康(けいこう)・山濤(さんとう)・向秀(しょうしゅう)・劉伶(りゅうれい)・阮咸(げんかん)・王戎(おうじゅう)で阮籍が中心とされます。この賢人たちが隠れたという心境の場に喩えています。『世説新語』に自由奔放な言動が書かれています。しかし、七人が一堂に会したことはなく、四世紀頃からそう呼ばれるようになったといいます。また、陰者と呼ばれますが役職についている者もあり、山濤と王戎は宰相格の高官に登っています。嵆康は讒言により死刑に処せられています。七賢人の俗世間に背を向けた言動は、魏から晋への王朝交代をめぐる不安定な政情への憤懣や、儒教の持つ偽善性への不信があったといいます。儒家の偽善性を嫌い、そのアンチテーゼとして老荘思想を好み酒と音楽を愛したといいます。時代思想としては魏から晋にかけては老荘思想が流行り、俗世から超越した談論を行う清談が流行したのです。これ以後は社会に対する慷慨の気分は薄れ詩文も華美な方向に流れます。このように、身延入山の心境を喩えてのべ、郷愁の忘れがたさを次のように叙述されます。

「峰に上てわかめやを(生)いたると見候へば、さにてはなくしてわらびのみ並立たり。谷に下てあまのりやをいたると尋れば、あやまりてやみるらん、せり(芹)のみしげりふ(茂伏)したり。古郷の事はるかに思わすれて候つるに、今此のあまのりを見候て、よしなき心をもひいでて、う(憂)くつらし。かたうみ(片海)・いちかわ(市河)・こみなと(小湊)の礒のほとりにて昔見しあまのりなり。色形あぢわひもかはらず。など我父母かはらせ給けんと、かたちがへ(方違)なるうらめ(恨)しさ、なみだをさへがたし。此はさてとどめ候ぬ。但大尼御前の御本尊の御事おほせつかはされておもひわづらひて候」(八六五頁)

 この故郷の父母たちを思う感情をのべながらも、現実の問題として文面は本題に入ります。新尼より御本尊授与についての依頼があったことをのべます。それについて困っていると本意をのべられます。御本尊を授与することに抵抗を感じていたのです。身延入山直後の文永一一年七月二五日付けの御本尊の讃文に、「大覚世尊入滅後二千二百二十余年之間雖有経文一閻浮提之内未有大曼荼羅也得意之人察之」と特筆されていました。御本尊に対する尊厳の心得を訓戒したのです。『御講聞書』にも「未曾有大曼荼羅コソ正一念三千宝珠ナレ」(二五七五頁)とあるように、未曾有と表現される教義的な理由もあるのです。本書には困惑した理由について、御本尊はどのような威厳をもっているかをのべます。日蓮聖人は三国の本尊をすべて調べ尽くしたが、その中においても日蓮聖人が書き顕した曼荼羅本尊は始めて(未曾有)のものであり、しかも偏見ではなく法華経本門に根拠があることを新尼のためにやさしく説明します。本尊については寿量品において説き顕したもので、久遠の弟子である地涌の菩薩に付属されたことをのべます。

「上行菩薩等を涌出品に召出させ給て、法華経の本門の肝心たる妙法蓮華経の五字をゆづらせ給て、あなかしこあなかしこ、我滅度の後正法一千年、像法一千年に弘通すべからず。末法の始に謗法の法師一閻浮提に充満して、諸天いかりをなし、彗星は一天にわたらせ、大地は大波のごとくをどらむ。大旱魃・大火・大水・大風・大疫病・大飢饉・大兵乱等の無量の大災難並をこり、一閻浮提の人人各各甲胄をきて弓杖を手ににぎらむ時、諸仏・諸菩薩・諸大善神等の御力の及せ給ざらん時、諸人皆死して無間地獄に堕こと、雨のごとくしげからん時、此五字の大曼荼羅を身に帯し心に存せば、諸王は国を扶け、万民は難をのがれん。乃至後生の大火炎を脱べしと仏記しをかせ給ぬ」(八六七頁)

 妙法蓮華経(法華経)の本尊は五濁悪世、諸大善神の威力が失せた末法の現在に、日本国を救うために釈尊よりゆずられたものであるとのべます。この御本尊を受持する威力は今生後生の災難を逃れることができると、釈尊が経文と説かれているとのべます。立教開宗より身延山にいたる二十余年、法華経を弘通したが「如来現在猶多怨嫉」の予言のごとく、国主や郡郷などの地頭や領家万民に憎まれ、これに道門・僭聖の僧侶が訴状を出して刀杖におよんだことをのべています。それは竜口首座・佐渡流罪であったのです。

そして、東条の「御厨」についてふれます。日蓮聖人は安房東條の郷は、天照大神が住み処とした日本の中心地であるとみています。日蓮聖人の天照大神についての認識を知る大切な文章といえます。すなわち、

「而を安房国東條郷辺国なれども日本国の中心のごとし。其故は天照太神跡を垂れ給へり。昔は伊勢国に跡を垂させ給てこそありしかども、国王は八幡加茂等を御帰依深ありて、天照太神の御帰依浅かりしかば、太神瞋おぼせし時、源右将軍と申せし人、御起請文をもつてあをか(会加)の小大夫に仰つけて頂戴し、伊勢の外宮にしのびをさめしかば、太神の御心に叶はせ給けるかの故に、日本を手ににぎる将軍となり給ぬ。此人東條郡を天照太神の御栖と定めさせ給。されば此太神は伊勢の国にはをはしまさず、安房国東條の郡にすませ給か。例ば八幡大菩薩は昔は西府にをはせしかども、中比は山城国男山に移り給、今は相州鎌倉鶴が岡に栖給。これもかくのごとし」(八六八頁)

 天照大神は天武天皇が伊勢に祭祀しました。これが伊勢神宮の始まり(六九八年頃)となります。(『日蓮聖人の歩みと教え』第四部参照)。その後、国主の主とした祭神が八幡神や賀茂神となり、頼朝が天照大神を再度、祭祀されたとみます。

朝廷や武士が祭祀した八幡宮についてみますと、一説には八幡神は応神天皇(誉田別命)の神霊として、欽明天皇三二(五七一)年に宇佐の地に示顕したといいます。また、神亀二(七二五 )年に、「我は、譽田天皇廣幡八幡麻呂護国霊験の大菩薩」と託宣したと伝わります。 これが宇佐八幡宮です。「昔は西府にをはせし」というのは筑紫の太宰府をいいます。筥崎宮は福岡市東区箱崎に延長元(九二三)年に遷座されました。応神天皇を主神として、比売神、応神天皇の母である神功皇后を合わせて八幡三神として祀ります。神社によっては比売神、神功皇后に変えて仲哀天皇、武内宿禰、玉依姫命を八幡三神として祀っている神社も多くあります。八幡神を応神天皇とした記述は「古事記」や「日本書紀」「続日本紀」にはみられず、八幡神の由来は応神天皇とは無関係であった]とされます。「東大寺要録」や「住吉大社神代記」に八幡神を応神天皇とする記述が登場することから、奈良時代から平安時代にかけて応神天皇が八幡神と習合し始めたと推定されています。次に、「中比は山城国男山に移り給」という石清水八幡宮(旧称、男山八幡宮)は、南都大安寺の行教和尚が宇佐八幡宮にて、八幡大神の「吾れ都近き男山の峯(鳩ヶ峰、標高一四三㍍)に移座して国家を鎮護せん」との託宣を受け、朝廷は清和天皇の貞観二(八六〇)年四月三日に、男山の峯に神霊を遷座されました。そして、「今は相州鎌倉鶴が岡に栖給」という鶴岡八幡宮は、康平六(一〇六三)年に頼朝の祖先源頼義が「源氏の氏神」である京都の「石清水八幡宮」を由比郷鶴岡に勧請したが始まりです。(由比若宮)。京都府八幡市の石清水八幡宮、大分県宇佐市の宇佐神宮を日本三大八幡宮といいます。

一.宇佐八幡宮   神亀二(七二五 )年、「我は譽田天皇廣幡八幡麻呂、護国霊験の大菩薩」と託宣。

二.石清水八幡宮  貞観二(八六〇 )年、京都の南西の裏鬼門を守護する王城守護の神

三.筥崎八幡宮    延長一(九二三 )年、八幡神の託宣。

四.鶴岡八幡宮    康平六(一〇六三)年、源頼義が源氏の氏神である石清水八幡宮を鶴岡に勧請  

建久二(一一九一)年、源頼朝が社殿の焼失を機に上宮と下宮の体制とし石清水八幡宮を勧請した

また、賀茂神は奈良時代に以前から朝廷の崇敬を受けており、平安遷都の後は皇城鎮護の神社として更なる崇敬を受けました。賀茂郡は『和名抄』に二十三ヶ郡に賀茂・鴨部(かも)があり、カモはカミ(神)の居所からきた地名とされます。(『国史大事典』三巻六〇四頁)。そして、弘仁元(八一〇)年以降は約四百年にわたって、伊勢神宮斎宮にならった斎院が置かれ、皇女が斎王として奉仕しています。日蓮聖人はこの八幡・賀茂神を主神として天照太神の祭祀が疎かになったことを指摘されたのです。その天照大神の伊勢の外宮(豊受大神宮)に、起請文(誓紙)を曾加(会賀)次郎太夫生倫(あをかの小大夫)に密かに納めさせます。その効験があり頼朝は将軍となり、その頼朝が東條の郷を天照大神の棲む所と定めたことは、この東條の御厨に天照大神は遷り棲まわれていると受けとめます。つまり、日蓮聖人は天照大神の神体は東條に棲まわれているとされたのです。天照大神は日本国の最高位にある守護神とされていたのです。

本書は東条の地頭の勢力が半分になったことをのべ本題に入ります。すなわち、領家の信心が不定であることを糾弾します。佐渡流罪を機に世間体にしても、竜口のおりに退転したことを危惧して、本尊をわたさないことを新尼に伝えます。

「領家はいつわりをろかにて或時は信じ、或時はやぶる不定なりしが、日蓮御勘気を蒙し時すでに法華経をすて給き。日蓮先よりけさんのついでごとに難信難解と申せしはこれなり。日蓮が重恩の人なれば扶たてまつらんために、此の御本尊をわたし奉ならば、十羅刹定て偏頗の法師とをぼしめされなん。又経文のごとく不信の人にわたしまいらせずば、日蓮偏頗はなけれども、尼御前我身のとがをばしらせ給はずしてうらみさせ給はんずらん。此由をば委細に助阿闍梨の文にかきて候ぞ。召て尼御前の見参に入させ給べく候」(八六九頁)

 日蓮聖人が領家の尼と会見した折々に、法華経は難信難解であると諭し信心を強く持つようにとのべたことを伝えます。領家の尼の信心は法華経に叶っていないことをのべたのです。日蓮聖人は恩義はあっても私情を挟まず、法に従った決断をされたのです。十羅刹女など諸天善神の正法を護る忠誠心にも係る大事な判断であったのです。本尊を授与しないことで大尼が怨むことであろうから、この理由を助阿闍梨にも伝えているので、助阿闍梨から大尼にこの旨を伝えてもらうようにとのべています。助阿闍梨については不明ですが、『清澄寺大衆中』に「さど殿とすけあさり御房と虚空蔵の御前にして、大衆ごとによみきかせ給へ」とのべていることと、大尼に対してもそれなりの尊崇を受けていることから、清澄寺の大衆の高僧で浄顕房・義浄房よりも日蓮聖人に親しい人ともいわれています。

 新尼は竜口以後も佐渡においても供養をされ不退に信仰をされているので本尊を授与されます。しかし、大尼には逆らえない立場であり、大尼を説得することは憚れると思っているであろうから、今後のことを思うと不安である心中をのべます。

「御事にをいては御一味なるやうなれども、御信心は色あらわれて候。さどの国と申、此国と申、度度の御志ありて、たゆむけしきはみへさせ給はねば、御本尊はわたしまいらせて候なり。それも終にはいかんがとをそれ思事、薄氷をふみ、太刀に向がごとし。くはしくは又又申べく候。それのみならず、かまくらにも御勘気の時、千が九百九十九人は堕候人人も、いまは世間やわら(和)ぎ候かのゆへに、くゆる人人も候と申に候へども、此はそれには似るべくもなく、いかにもふびんには思まいらせ候へども、骨に肉をばか(替)へぬ事にて候へば、法華経に相違せさせ給候はん事を叶まじき由、いつまでも申候べく候」(八六九頁)

また、大尼のように竜口法難のおりに退転した信者は、このころには幾分、後悔していることがのべられています。大尼に対しては「骨に肉をば替へぬ事にて候」という喩えをもって、父母の恩義があるとはいえ、法の道理を重視した出家者のあるべき姿を示されたといえましょう。

□『瑞相御書』(一六六

 本書は末尾が欠けており、年月日や宛名が不明ですが、二月頃とされ度々の供養をされた人物として、四条金吾に宛てたといわれています。七紙断簡、身延曽存の遺文です。法華経の教が始めて説かれるときに、序品に五瑞六瑞の瑞相が現れたことをあげます。これは「此土の六瑞。他土の六瑞」といいます。

此土の六瑞――説法瑞・入定瑞・雨華瑞・地動瑞・衆喜瑞・放光瑞

他土の六瑞――見六趣瑞・見諸佛瑞・聞諸佛説法瑞・見四衆得道瑞・見菩薩修行瑞・見諸佛涅槃瑞

このなかの地動瑞にふれます。地動瑞は法華経が説かれる前に普く世界の地面が揺れたことをいいます。大地や建物が揺れ雷音や鐘・鈴などの音が鳴り響きます。序品第一に「普仏世界六種に震動す」(『開結』六〇頁)とあります。この大地が六種に震動することについて、天台大師の『法華文句』を引き、人間の身体と天変地夭は大きな係わりがあることをのべます。

「夫天変は衆人のおどろかし、地夭は諸人をうごかす。仏、法華経をとかんとし給時、五瑞六瑞をげんじ給。其中に地動瑞と申は大地六種に震動す。六種と申は天台大師文句の三釈云、東涌西没者 東方青主肝 肝主眼。西方白主肺肺主鼻。此表眼根功徳生 鼻根煩悩互滅也。鼻根功徳生眼中煩悩互滅。余方涌没表余根生滅亦復[云云]。妙楽大師承之云 言表根者 眼鼻已表於東西。耳舌理対於南北。中央心也。四方身也。身具四根。心徧縁四。故以心対身而為涌没[云云]」(八七二頁)

東方

西方

南方―赤―心―

北方―黒―腎―耳

四方―黄―脾―

中央

『戒法門』(一九四二頁)を参考としますと、次のように図示されています。

春  仁以慈為義 肝 不殺生戒 眼 木青酸木山雨味酢、 歳星東出眼病

夏  信不乱為本 心 不飲酒戒 舌 火赤苦火山雨味苦、 惑星南出舌病

土用 智不偽為義 脾 不妄語戒 身 意土黄甘土山雨味甘 鎮星中出身病

秋  義以理為義 肺 不偸盗戒 鼻 金白辛金山雨味辛、 太白星西出鼻病

冬  礼以敬為本 腎 不邪婬戒 耳 水黒鹹雪山雨味鹹、 辰星北出耳病

土 水 火 金 木  五行也

地 水 火 風 空  五大也

黄 黒 赤 白 青  五色也

意 耳 舌 鼻 眼  五根也

 ○ △     五輪也

 これは戒・定・慧の中の「定の法門」として、人間の呼吸する息(気)に喩えます。決められた安座をして鼻より息を吸い、吐くときは口から息を出すと、口の息が暖かく軽いのは火と風の作用になるからとのべます。鼻の息が重く冷たいのは土と金が重なるためです。呼吸が速(急)いのは体に病がある証拠とします。すなわち、病気なのです。木を燃やす煙の色によって、薪がまだ生なのか乾いているかが分かるようなものと喩えています。

「夫十方は依報なり。衆生は正報なり。依報は影のごとし、正報は体のごとし。身なくば影なし、正報なくば依報なし。又正報をば依報をもて此をつくる。眼根をば東方をもつてこれをつくる。舌南方 鼻西方 耳北方 身四方 心中央等。これをもつてしんぬべし。かるがゆへに衆生の五根やぶ(破)れんとせば、四方中央をどろう(駭動)べし。されば国土やぶれんとするしるし(兆)には、まづ山くづれ、草木か(枯)れ、江河つくるしるしあり。人の眼耳等驚そう(躁)すれば天変あり。人の心をうごかせば地動す」(八七二頁)

つまり、人間の五体や人間の意思は、自然界と密接に繋がっており、その現れが自然現象であるということをのべています。国土が破壊する前兆には、まず山が崩れ樹木草葉が枯渇し河水が涸れる現象があるとのべます。それと同じように、人の耳目が驚き騒げば天変が起き、人心が動揺すると大地が震動するとのべます。序品の地動瑞は法華経が説かれる前兆であり、これまでの諸経にはない大瑞であるとのべ、さらに本門の神力品の大地振動は、法華経が広まる瑞相であると展開します。宝塔品の多宝塔が大地より出現し、地涌の菩薩が大地より涌出する大震動があります。これらは在世のことであるが、神力品の大瑞は末法に視点があるとします。

「仏、神力品にいたて十神力を現ず。此は又さきの二瑞にはにるべくもなき神力也。序品の放光は東方万八千土、神力品の大放光は十方世界。序品の地動は但三千界、神力品の大地動は諸仏世界 地皆六種震動。此の瑞も又又かくのごとし。此神力品の大瑞は仏滅後正像二千年すぎて末法に入て、法華経の肝要のひろまらせ給べき大瑞なり。経文云 以仏滅度後能持是経故 諸仏皆歓喜現無量神力等[云云]。又云 悪世末法時等」(八七四頁)

と、神力品の大瑞は法華経の肝要である南無妙法蓮華経が流布する前兆であるとのべています。

十神力

吐舌相(とぜつそう)     仏が舌を天まで伸ばします

通身放光(つうしんほうこう) 体から無数の光を放ちます

(きようがい)      諸仏が一斉に咳払いをします

弾指(たんじ)        一斉に指を弾き鳴らします

地六種動(じろくしゆどう)  その咳払いと指の音で十方の諸仏の世界の大地が振動します

普見大会(ふげんだいえ)   十方の世界の衆生が娑婆世界の仏の姿を見て歓喜します

空中唱声(くうちゆうしようしよう)空中から釈迦仏を礼拝せよと大きな声で呼びかけます

咸皆帰命(げんかいきみよう) その呼びかけに応じて全ての衆生が合掌し釈迦仏に帰命します

遙散諸物(ようさんしよもつ)十方世界から種々の華や香などのあらゆる宝物が娑婆世界に届けられ、それらが集まって宝の帳となって十方の諸仏を覆います

通一仏土(つういちぶつど) 十方の世界の隔てがなく なって娑婆は寂光の一つの仏土になります

この五番目の「地六種動」を挙げたのです。謦欬と弾指の二つの音響が、十方世界の諸仏の所に至ります。それは仏土を六種に震動させたのです。天台大師は『法華秀句』に、「前の五神力は在世のため、後の五神力は滅後のため」と説いています。日蓮聖人は神力品の瑞相は末法に法華経が広まる大きな瑞相とみたのです。そのために諸仏は神力を示されたと解釈されています。「仏滅度後」の釈尊滅後とは末法のことであり、分別功徳品に「悪世末法時」(『開結』四四九頁)と具体的に時が示されているとします。ここから問答にはいり、まず瑞相というのは吉凶どちらも短期間に起きることであるから、二千年以後の末法に起きるための瑞相とはいえないと問います。これに答えたのが、周の昭王とインドの訖利季王の故事です。周の昭王が見た瑞相について、『開目抄』にもふれています。

「周の第四昭王の御宇二十四年甲寅四月八日の夜中に、天に五色の光気南北に亘て昼のごとし。大地六種に震動し、雨ふらずして江河井池の水まさり、一切の草木に花さき菓なりたりけり。不思議なりし事なり。昭王大に驚、大史蘇由占云、西方に聖人生たり。昭王問云、此国いかん。答云、事なし。一千年の後彼聖言此国にわたて衆生を利すべし。彼のわづかの外典の一毫未断見思の者、しかれども一千年のことをしる。はたして仏教一千一十五年と申せし後漢の第二明帝の永平十年丁卯年、仏法漢土にわたる。此れは似べくもなき釈迦・多宝・十方分身の仏の御前の諸菩薩の未来記なり」(五九三頁)

昭王は四月八日の夜に、五色の光が現れ真昼のように空が明るくなり、同時に大地が震動し雨が降らないのに河川や井戸、あるいは池の水があふれ、すべての草木に花や果実が着いた光景をみます。それについて蘇由が占うと、「西方に偉大な聖人が生まれた瑞相である」と奏上し、それから一千年を経て後漢の第二明帝の永平十年に仏法が中国に伝来したのです。また、インドの波羅奈城の訖利季王は一夜に二つの夢をみます。その一つは、九匹の大猿が騒乱して城中を荒らしますが、一匹の猿だけは知足の心をもち騒乱しなかった夢を見ます。もう一つは、白象の夢で首尾に口があり、いくら食べても飽きることがなく、終には疲れ痩せてしまう夢を見ます。訖利季王はは迦葉仏に夢の判断をしてもらうと、これは未来の釈迦仏の滅後のことであると言います。つまり、悪世末法の時代になると、貧人・奴隷・債負・求過・勝他・名称・生天・利養・求王を目的として出家するのを九猴とし、純粋に仏道を求め出家するのを一猴と断じます。二口の白象とは国王を補佐すべき忠信が、不正を行い腐敗したことを現すと判断します。つまり、出家者は邪見をもち為政者たちも私欲に満ちた政治を行う、末法の様相であると判断しました。これは二万二千年後(『守護経』守護國界主陀羅尼経)に現実となったとのべています。法華経に説かれた仏滅度後二千年の未来記の妥当性をのべたのです。

鎌倉に頻繁に起こる天変地異の原因は、為政者の悪政にあることと、法華謗法による「善神捨去」にあることは、日蓮聖人の持論であり、それに加えて地涌の菩薩が出現する前兆であるという独自の見解をのべてきました。本書もその論理に従って解説をしています。ゆえに、次に、問答により大地振動は人の六根の動きによって起きるとし、振動においては吉凶があるとのべます。正嘉・文永の大地震・大天変は、日本国には未だこれ程の天変地夭はなかったもので、この原因を探れば、

「人の悪心盛なれば、天に凶変、地に凶夭出来す。瞋恚の大小に随て天変の大小あり。地夭又かくのごとし。今日本国上一人より下万民にいたるまで大悪心の衆生充満せり。此悪心の根本は日蓮によりて起れるところなり」(八七四頁)

と、人心の善悪によって起きるものであり、また、日蓮聖人がこれらの謗法の者を攻めることにあるとのべます。そして、『守護国界経』の文には行者の罪科のほかに、末法に提婆達多のような悪僧が充満したときに正法を持つ僧があり、悪僧たちはこの正法の僧を流罪死罪にするならば、国中に様々な大難がおき他国より攻められるという文を説明します。日蓮聖人を迫害した念仏者や真言師が、提婆達多よりも百千万億倍の大罪をうけるであろうとのべています。

 また、真言宗の灌頂について、儀式の在り方が不孝・不忠を表しているとします。

「真言宗の不思議あらあら申べし。胎蔵界の八葉の九尊を画にかきて、其の上のぼりて、諸仏の御面をふ(踏)みて、潅頂と申事を行なり。父母の面をふみ、天子の頂をふむがごとくなる者、国中充滿して上下の師となれり。いかでか国ほろびざるべき。此事余が一大事の法門なり」(八七六頁)

と、灌頂の儀式が不孝不忠のものであり亡国の原因であるとのべます。つまり、父母の顔を踏み主君の頭を踏むような行為であると批判します。「不孝の失」は謗法罪のことです。不孝・謗法の罪科は謗国・真言亡国を招くというのが日蓮聖人の一大事とされた主張です。この法華経と真言の勝劣を判明することが日蓮聖人の本意であり、このことは簡単に他人には教えないようにとのべています。結尾が欠けているので末文はわかりませんが、度々の供養があったことに感謝されています。

□『大善大悪御書』(一六七)

 この頃の書状とされる『大善大悪御書』(八七七頁)があります。宛先は不明です。真蹟は一紙断簡です。ここには大事(大きな出来事)が起こる前には、大瑞があるもので小さな瑞相はないとのべます。そして、大悪が起きれば必ず大善が来るように、日本国中に大謗法が充満しているから大正法も必ず広まるとのべます。信者たちにも迫害が起きていました。蒙古の襲来による恐怖感があったと思われます。これらの大悪は法華経の大善が広まる瑞相であるから歎かないようにと、弟子や信者に激励されたものと思われます。その表現として迦葉尊者が成仏の法を授かって大歓喜して舞い踊ったように、また、舎利弗尊者のように躍り上がって歓喜すべきことであるとのべます。さらに、地涌の菩薩たちは付属を受けるため大地から躍り出たように、普賢菩薩が出現されたときは大地を六種に震動させた例をあげ、法華経弘通のときであることを法悦として、励むようにとのべています。