253.『神国王御書』                            高橋俊隆

□『神国王御書』(一六八)

 二月頃、南条時光に宛てたといわれます。建治元年の説があります。第二二紙の最後の六三文字と、末尾が欠失した断簡ですが、四四紙現存する長編の著述です。妙顕寺に所蔵され重要文化財に指定されています。本書の内容を六段に分け、添え書きを入れて七段と細分することができ、三段の構成としてみることができます。(『日蓮聖人遺文全集講義』第一七巻七八頁)。

 一、神国日本。冒頭に日本国の国名・領土とその国主についてのべます。日本には五畿七道があることをあげ、この国主に天神七代、地神五代があることをのべ、天皇を中心とした神国であることを強調します。その三〇代欽明天皇の時に仏教が渡ったことをのべて、歴史的な見地から仏教各宗の渡来と最澄・空海・円仁・円珍の四大師の宗旨を挙げていきます。つまり、仏教の伝来をのべますが、この主眼は円仁・円珍による真言化を指摘することにあります。

二、仏国土・神国の疑念。次に安徳天皇、承久の乱の三上皇の敗退にふれ、八幡大菩薩の百王守護の誓いの疑問を呈します。(八八三頁)。これは、先にもふれたように、日蓮聖人が仏教に疑問を持ち顕密二道を研鑽する動機、あるいは出家された動機となった「承久の乱」の仏教的な見解を究明されています。そして、法華経の明鏡・神鏡から見ると、この元凶は真言宗の邪法・謗法であるとのべます。四天皇が真言師に帰依したことによる、諸天善神の怒りによる朝廷側の敗北とみます。

三、諸天善神を諫暁。それら諸宗の謬りを国主などに知らせ、正しい信仰を説き諫暁しても、逆に日蓮聖人を怨み朝敵のように流罪に処したことをのべています。この謗法こそが亡国の原因であり蒙古襲来は現証であることをのべます。日蓮聖人は法華経の行者であることをのべ、法華経の文によるならば、諸天善神は行者を守護すべきことを厳格にされた論調になっています。独自の国家・神祇観が注目される著述となっています。

「夫以日本国亦云 水穂国亦野馬壹 又秋津嶋又扶桑等云云。六十六国・二嶋・已上六十八ケ国。東西三千余里、南北は不定也。此国に五畿七道あり。五畿申は山城・大和・河内・和泉・摂津等也。七道と申東海道十五箇国・東山道八箇国・北陸道七ヶ国・山陰道八ヶ国・山陽道八ヶ国・南海道六ヶ国・西海道十一ヶ国。亦云 鎮西 又太宰府[云云]。已上此は国也。国主をたづぬれば神世十二代。天神七代・地神五代。天神七代第一者国常立尊、乃至第七伊奘諾尊男也。伊奘册尊妻也。地神五代の第一は天照太神伊勢太神宮日神是也。いざなぎいざなみの御女也。乃至第五は彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊。此の神は第四のひこほの御子也。母は龍女也。已上地神五代。已上十二代は神世也。人王は大体百代なるべきか。其第一の王は神武天皇、此はひこなぎさの御子也。乃至第十四は仲哀天皇[八幡御父也]。第十五は神功皇后[八幡御母也]。第十六は応神天皇仲哀神功御子、今の八幡大菩薩也。乃至第二十九代は宣化天皇也。此時までは月氏漢土には仏法ありしかども、日本国にはいまだわたらず」〈八七七頁〉

 日本の呼び方として、古来は水穂国・野馬壹・秋津嶋・扶桑と言われたことを挙げます。水穂国は『古事記』に「豊葦原千秋長五百秋之水穂国」とある略称です。『日本書紀』には「豊葦原の千五百秋の瑞穂の国」とあり、稲が千年も五百年も長く美しく栄える国という意味から、真美穂国・豊葦原瑞穂国といい神代の国名です。野馬壹は日本の古称で、最古の記事は陳寿(二二三~二九七年)の『魏志倭人伝』にある「邪馬台国」の記述です。『日本書紀』に「大日本(おほやまと)日本、此をば耶麻謄(やまと)と云う。下(しも)皆此に効(ならえ)」とあり、『続日本後紀』巻一九、嘉祥二(八四九)年三月庚辰の条に、「日本乃野馬壹」と野馬壹が古代では日本の別名であったことがわかります。文字は大和・日本・倭とも書きます。秋津島は『日本書紀』に神武天皇が大和国の山頂から国見をされたとき、国の形状を「蜻蛉(あきず。トンボ)「あきつの臀呫(となめ)の如し」と表現されたといいます。「あきつ」トンボの別称です。つまり、そのトンボの雌雄が互いに尾を含みあい輪になって飛んでいる姿に似ていると見たのです。そこから「秋津洲」の名を得たといいます。また、『古事記』には、雄略天皇の腕にのったアブを食い殺したトンボの記述があり、「倭の国を蜻蛉島(あきつしま)と」呼んだとあります。また、「アキ」とは稲のことで、秋津州(あきつしま)は陸奥国から長門国までの本島を指したといいます。また、「アキズ」は大和国葛上郡部室村(御所市室)あたりの地名で、「シマ」は国や地方と同義であることから、大和国周辺から国全体を総称するようになったといいます。水穂国・野馬壹・秋津嶋に共通するのは稲の豊作を豊作を象徴していることです。「稲」(米)は、大和朝廷の政治基盤であり、稲作を基盤とする社会体制を知ることができます。日本の神道はこの稲と深い関わりをもっています。扶桑というのは古代中国の伝説にある、東方海上にある島国といいます。東方朔(前一五四~前九三年ころ)の『十洲三島記』などに記述されています。東方朔は中国の前漢の文人で、唐代の詩人李白は「世人不識東方朔、大金門是謫仙」と称讃しています。『山海経』には遠い東海上に立つ巨木であり、そこから太陽が昇るとされました。のちの『梁書』以降は、東海上の島国と考えられるようになります。巨木の伝承は桑の木が多いという伝説となり、九州(九夷)が扶桑の生えるところで紫庭としての憧れの地とされたといういう説があります。中国から見て東の日が出る方向を指すことが加味され、扶桑は日本の異名の一つとされました。神武天皇より堀河天皇の寛治八(一〇九四)年三月二日までの国史について書かれた、『扶桑略記』の標題に初期の用例が見られます。

そして、日本は六六ヶ国に壱岐・対馬を併せた六八ヶ国からなり、神代一二代いらい百代に及ぶ人王によって統治されてきたとのべます。この日本の神世十二代といいますのは天神七代と地神五代をいいます。天神七代とは日本神話で、天地開闢の初めに現れた七代の天神。日本書紀では、一、国常立尊(くにのとこたちのみこと)。二、国狭槌尊(くにのさつちのみこと)。三、豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)。(以下は対偶神で二神で一代と数えます)。四、泥土煮尊(ういじにのみこと)・沙土煮尊(すいじにのみこと)。五、大戸之道尊(おおとのじのみこと)・大苫辺尊(おおとまべのみこと)。六、面足(垂)尊(おもだるのみこと)・惶根尊(かしこねのみこと)。七、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)の七代。地神五代は神武天皇以前に日本を治めた五柱の神をいいます。一、天照大神。二、天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)。三、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)。四、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)。五、鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)をいいます。

人王とは天皇のことで、その第一の王は神武天皇から始まります。仏教は第三〇代欽明天皇のときに百済から伝わったことを挙げ、仏教と天皇との関連をのべていきます。三四代推古天皇のときに三論宗が渡り、仏教が盛んに広まってきたとのべ、三六代皇極天皇のときに禅宗、四〇代天武天皇のときに法相宗が渡り、四四代元正天皇のときに大日経が渡り、四五代聖武天皇のときに華厳宗、四六代孝謙女帝のときに律宗と法華宗が渡り、そして、五〇代桓武天皇のときに最澄が南都六宗を法華宗に帰属させたことを挙げます。空海は最澄が入滅して一年後に、五二代嵯峨天皇より東寺を賜り護国教王院と名づけます。そして、円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)を加えた四大師を挙げ、日本に真言宗は八派ありとして、東寺の五派(弘法・常暁・円行・慧運・慧海)は弘法大師を元祖とし、天台の三派(最澄・円仁・円珍)は伝教大師を元祖とすることをのべます。この二つは東密と台密と呼ばれる日本真言密教の二派となります。ここまでは、仏教伝来と比叡山が真言密教を取り入れたことを指摘します。

次に、神国日本の天皇が敗退した理由を究明します。ここには、国家は仏法により護られ、天皇となるのは高徳の持ち主であるという考えがあります。この視点から前述しました出家の動機となった寿永・承久の乱にふれ、その原因である「真言亡国」をのべます。まず、安徳天皇が頼朝に追撃され、三上皇が北条義時に攻められて配流されたことについて疑念をのべます。

「此に日蓮大に疑云、仏と申は三界の国主、大梵王・第六天の魔王・帝釈・日・月・四天・転輪聖王・諸王の師也、主也、親也。三界の諸王は皆は此の釈迦仏より分ち給て、諸国の総領・別領等の主となし給へり。故に梵釈等は此の仏を或は木像、或は画像等にあがめ給。須臾も相背かば、梵王の高台もくづれ、帝釈の喜見もやぶれ、輪王もかほり(冠)落給べし。神と申は又国々の国主等の崩去し給るを生身のごとくあがめ給う。此又国王国人のための父母也、主君也、師匠也。片時もそむかば国安穏なるべからず。此を崇むれば国は三災を消し七難を払、人は病なく長寿を持ち、後生には人天と三乗と仏となり給べし」(八八一頁)

 私たちの住む世界は三界の主である釈尊により統治されていることをのべます。この釈尊の命令を承けて梵天・帝釈・四天王・三光天子などの諸天善神が国土を守護すると説かれます。そして、日本国もその釈尊の配下にあり、神といわれる存在は国主が崩御されたあとに、生きていたときと同じように祭祀したものとのべます。国民にとって国主は主師親の三徳を備えたところに神としての尊崇をみます。この国主に背けば国土は戦乱となるであろうし、神を尊崇するならば国土に三災七難は起こらず、国民は無病長命の人生を享受し、後生には仏果を得るというのが常道であるとのべます。つまり、「現世安穏後生善処」をのべたのです。しかも、日本国は一閻浮提のなかでも、インドや中国にも勝れたすぐれた大乗の流布する国であることをのべ、さらに、天照大神や八幡大菩薩に守護された国ではないかと疑問を呈します。

「其上神は又第一天照太神・第二八幡大菩薩・第三は山王等三千余社。昼夜に我国をまほり、朝夕に国家を見そなわし給。其上天照太神は内侍所と申明鏡にかげをうかべ、大裏にあがめられ給、八幡大菩薩は宝殿をすてて、主上の頂を栖とし給と申。仏の加護と申、神の守護と申、いかなれば彼の安徳と隠岐と阿波・佐渡等の王は相伝の所従等にせめられて、或は殺れ、或は嶋に放、或は鬼となり、或は大地獄には墮給しぞ。日本国の叡山・七寺・東寺・園城等の十七万一千三十七所の山々寺々に、いさゝかの御仏事を行には皆天長地久玉体安穏とこそいのり給候へ。其上八幡大菩薩は殊に天王守護の大願あり。人王第四十八代に高野天皇の玉体に入給て云、我国家開闢以来以臣為君未有事也。天之日嗣必立皇緒等[云云]。又太神付行教云、我有百王守護誓等[云云]。されば神武天皇より已来百王にいたるまではいかなる事有とも玉体はつゝがあるべからず。王位を傾る者も有べからず。一生補処の菩薩は中夭なし。聖人は横死せずと申。いかにとして彼々の四王は王位ををいをとされ、国をうばわるるのみならず、命を海にすて、身を嶋々に入給けるやらむ。天照太神は玉体に入かわり給はざりけるか。八幡大菩薩の百王の誓はいかにとなりぬるぞ」(八八二頁)

天照太神は内侍所(賢所)にある明鏡(八咫鏡)に御魂を宿され、大裏(宮中)に祭祀され、八幡大菩薩は自身の宝殿を出て常に天王を守護すると大願を立てたことを挙げます。山王(日吉神社)を始めとした全ての神社も昼夜に日本国を守護し、朝夕に国家を見守るはずであるとのべます。であるならば、神武天皇より已来百王にいたるまでは、いかなる事があっても天皇の玉体は安全で王位を奪うようなことはないとのべ、日蓮聖人の神祇観を表白されます。叡山・七寺・東寺・園城等は天長地久・玉体安穏を祈るはずであり、四天王・天照太神、百王守護を誓った八幡大菩薩は天皇を護るはずであります。現に比叡山の座主は頼朝調伏の祈祷、鎌倉北条氏調伏の祈祷をした大法を挙げます。しかし、現実の事件として安徳と隠岐と阿波・佐渡等の天皇は代々の家来により、殺され流罪にされるということが起きたのか。これは日蓮聖人が幼少時から懐いてきたの疑問だったのです。この疑問を解く鍵として仏法を選ばれたのです。

「而に日蓮此事を疑しゆへに、幼少の比より随分に顕密二道並に諸宗一切経を、或は人にならい、或は我と開見し、勘へ見て候へば、故の候けるぞ。我が面を見る事は明鏡によるべし。国土の盛衰を計ことは仏鏡にはすぐべからず。仁王経・金光明経・最勝王経・守護経・涅槃経・法華経等の諸大乗経を開見奉候に、仏法に付きて国も盛へ人の寿も長く、又仏法に付て国もほろび、人の寿も短かるべしとみへて候。譬へば水は能く舟をたすけ、水は能く舟をやぶる。五穀は人をやしない、人を損ず。小波小風は大船を損ずる事かたし。大波大風には小舟やぶれやすし。王法の曲は小波小風のごとし。大国と大人をば失がたし。仏法の失あるは大風大波の小舟をやぶるがごとし。国のやぶるゝ事疑なし」〈八八五頁〉

すなわち、顕密の二道や諸宗の教義、一切経を研鑽した結果は、仏法の正邪に原因があるということでした。それを「仏法の失」により破国があるとのべます。その証文は仏記であるとして、ここには『守護国界経』の阿闍世王受記品を引きます。ここには、末代には悪法・悪僧こそが国を滅ぼすとあります。具体的には生き仏のように敬われ、漏尽通までの六神通を得た羅漢のように、三衣を皮のごとくに身にまとい、鉄鉢を両眼の眉間まで持ち上げて捧げ持つ持戒の僧や高僧と思われている者が、実には正しい仏法を失うと説かれています。その悪法・悪僧がはびこり「仏法の失」が生じたときは、梵釈日月四天が怒りを起こし、その国に大天変・大地夭等を発して諫め、それでも用いないときは其国の内に七難を起こし、父母兄弟王臣万民互に大怨敵となり、自国を破らせて最終的には他国よりその国を討伐すると説かれていることを挙げます。その未来記である証文を明鏡に喩えるが、日蓮聖人の特徴です。明鏡のなかでも法華経は、過去・未来の人々の成仏や、国土の栄枯盛衰を明らかにする「神鏡」とのべます。この神鏡に日本国の盛衰が映し出されるのです。

「今日蓮一代聖教の明鏡をもつて日本国を浮見候に、此の鏡に浮で候人々は国敵仏敵たる事疑なし。一代聖教の中に法華経は明鏡の中の神鏡なり。銅鏡等は人の形をばうかぶれども、いまだ心をばうかべず。法華経は人の形を浮るのみならず、心をも浮べ給へり。心を浮るのみならず、先業をも未来をも鑑給事くもりなし」(八八六頁)

そして、神力品の「於如来滅後 知仏所説経 因縁及次第 随義如実説。如日月光明 能除諸幽冥 斯人行世間 能滅衆生闇」文を挙げ、末代に仏教の浅深・勝劣・次第を弁えた一人の智者があらわれ、正しい教えを説くと解釈します。しかし、邪悪な僧侶たちは保身のため、その智者を国主に讒訴し人々を扇動して誹謗させるとのべます。これは、日蓮聖人自身を迫害した平頼綱や良観忍性のことをのべたのです。この行者迫害のときにこそ、諸天善神が謗法治罰のために破国の行いを起こすという定論をのべます。この元凶は善無畏・金剛智・不空の三人の三蔵法師(三三蔵)であり、日本では弘法・慈覚・智証大師が、この謗法である真言を習い伝えたところに原因を指摘します。そして、比叡山五五代の明雲座主、八一代安徳天皇のときに、比叡山は完全に真言宗と同じになったとのべます。六一代の顕真権僧正(一一三〇~九二年)は法然の専修念仏を信じて念仏三昧に耽ります。承久の乱のときに北条氏の調伏祈祷をした慈円僧正は六二・六五・六九・七一代の座主となりますが、やはり真言を用いて法華経を捨てたとのべます。そこで、このような謗法の者は諸仏の怨敵であり、諸天善神は必ず懲罰するとします。ここに、天照太神・八幡大菩薩の守護も破綻したとみます。

「教主釈尊・多宝仏・十方の諸仏の御怨敵たるのみならず、一切衆生の眼目を奪取、三善道の門を閉、三悪道の道を開く。梵釈・日月・四天等の諸天善神いかでか此人を罰せさせ給はざらむ。いかでか此人を仰ぐ檀那をば守護し給べき。天照太神の内侍所も八幡大菩薩の百王守護の御ちかいもいかでか叶はせ給べき。余此由を且つ知しより已来、一分の慈悲に催されて粗随分の弟子にあらあら申せし程に、次第に増長して国主まで聞ぬ。国主は理を親とし非を敵とすべき人にてをはすべきが、いかんがしたりけん諸人の讒言ををさめて、一人の余をすて給」(八九〇頁)

つまり、日本国を守護すべき天照太神も、百王守護を誓った八幡大菩薩も、この真言の邪法の蔓延により守護を放棄したと受けとれます。これを「善神捨去」といいます。そして、これを防ぐべく諫暁されたのです。しかし、国主である時賴や時宗は平頼綱や良観などの意見を聞き、正法を説く日蓮聖人を罪人として排斥したことをのべます。国主はたとえ一人の意見であっても、多数派に左右されず賢明に真実を判断すべきなのです。その先例として天台大師・伝教大師が国主から庇護されたことを挙げ、自身は二度の流罪などの迫害を受けたことを比較したのです。法華経の行者を迫害すれば、必ず他国侵逼という「現罰」(八九一頁)があるとのべます。それがなければ日蓮聖人は法華経の行者ではないとまでのべ、自身こそが無間地獄に堕ちるだろうとのべます。自分が「後五百歳広宣流布」の金言を忠実に実行して、法華経の行者であることが証明されるのは悦ばしいことであるけれど、他国に侵逼されて国民が修羅道に苦しめられることは悲しいことであるとのべます。そして、過去に受けた鎌倉市中を引き回しにあい流罪されたこと、松葉ヶ谷草庵を襲撃された悲しい事実をのべます。

「此は教主釈尊・多宝・十方の仏の御使として世間には一分の失なき者を、一国の諸人にあだまするのみならず、両度の流罪に当てゝ、日中に鎌倉の小路をわたす事朝敵のごとし。其外小菴には釈尊を本尊とし一切経を安置したりし其室を刎こぼちて、仏像経巻を諸人にふまするのみならず、糞泥にふみ入れ、日蓮が懐中に法華経を入まいらせて候しをとりいだして頭をさんざんに打さいなむ。此事如何宿意もなし。当座の科もなし。ただ法華経を弘通する計の大科なり」(八九二頁)

 草庵に押し入って釈尊像や法華経の経本を乱雑に扱い、日蓮聖人の頭をも何度も打ちつけたのです。これを指示したのは平頼綱です。幕府の甚だしい迫害は、日蓮聖人を個人的に恨む宿意でも罪科があったのではなく、ただ法華経を弘通するだけのことで、これだけの迫害にあったのです。この迫害は法華経に予言されていることですから、受難に耐えられたのです。忍難慈勝の精神がここにあります。しかし、法華経の行者を守護すると誓った諸天善神は、日蓮聖人を護らずして何をしているのかと問います。法華経の会座に連なる梵天・帝釈・日月・四天王・龍王・阿修羅と、欲界・色界の八番(八部衆)や無量の国土の諸神が霊山に集まり、釈尊や多寶仏の御前にて宣誓したことは偽りであったのかを厳しく問います。八部衆とは雑衆のなかの欲界天衆・色界天衆・龍王衆・緊那羅衆・乾闥婆衆・阿修羅王衆・迦楼羅衆・人王民衆をいいます。序品に説かれています。このような筆致は『開目抄』の大きなテーマの一つでした。日蓮聖人の「一期の大事」(五六一頁)であったのです。本書にもニ処三会の会座において、菩薩は法華経弘通を誓い、そして、諸天善神が法華経の行者を守護すると誓った経文を挙げます。日蓮聖人において諸天善神の守護は、釈尊との誓いであり法を遵守すべき仏弟子としての責任感からのべられるのです。「如世尊勅当具奉行」(『開結』五〇九頁)と誓言した約束を、釈尊の御前において問い糺されるのです。この属累品の文は菩薩に法華経を弘通することを付属したものです。しかも菩薩は釈尊より頂を撫でられての摩頂付属です。それに答えて菩薩が三度、誓った約束の言葉です。属累品には「十方無量分身諸仏。坐宝樹下。師子座上者。及多宝仏。竝上行等。無辺阿僧祇菩薩大衆。舎利弗等。声聞四衆。及一切世間。天人阿修羅等。聞仏所説。皆大歓喜」(『開結』五一〇頁)とあります。つまり、諸天善神は菩薩の発誓を目の当たりに聞き、弘教はしないけれど法華弘通の菩薩を守護することを誓ったと見るのです。『開目抄』(五八一頁)においては「五箇の鳳詔」を引きます。そして、「六難九易」を色読する認識に滅罪と、不惜身命の行者を証明されます。本書においても諸天守護の追求は続いて行われているのです。諸天善神の守護がなくても、それは一時の嘆きだけであるという、「日蓮がためには一旦のなげきなり」(八九三頁)とのべられます。これは、日蓮聖人自身に守護されるべき資格がないかも知れないという謙虚な意味合いもありますが、日蓮聖人はすでに佐渡において上行自覚を発表されている立場です。その決め手となった竜口の受難にふれ諸天の不守護についてのべます。

「なによりもなげかしき事は、梵と帝と日月と四天等の、南無妙法蓮華経の法華経の行者の大難に値をすてさせ給て、現身に天の果報も尽て花の大風に散がごとく、雨の空より下ごとく、其人命終入阿鼻獄と無間大城に堕給はん事こそ、あわれにはをぼへ候へ。設彼人々三世十方の諸仏をかたうどとして知ぬよしのべ申し給とも、日蓮は其人々には強かたきなり。若仏のへんぱをはせずば梵釈日月四天をば無間大城には必ずつけたてまつるべし。日蓮が眼と口とをそろしくばいそぎいそぎ仏前の誓をはたし給へ」(八九三頁)

と、法華経の会座において行者を守護すると誓った諸天に対して、釈尊に造反した大罪を告げます。譬喩品に「其人命終入阿鼻獄」と説かれた堕獄は、「不信謗法」だけではなく諸天善神が誓言を不履行したところにも向けています。そのうえでその誓言を果たすようにと、善神への勧奨を強い言葉でのべています。末尾が欠失しているためこの後については不明です。諸天善神に要請されたことも不明ですが、時勢としては他国侵逼の蒙古に関してのことと思われます。追い書きに供養の品(麦一箱・銅銭二千文・若布一俵・搗布一俵・干飯一袋・焼き米一袋)への謝礼と、『神国王御書』にのべた真言破については他門に知らせないようにと注意をされています。

 昨年四月八日に平頼綱と対面し蒙古襲来について真言宗を批判し、そして、蒙古襲来が現実となってからは台密を批判するようになりました。文永一一年一一月の『上野殿御返事』以降、『曽谷入道殿御書』『大田殿許御書』『四条金吾殿女房御返事』と本書にいたるまで諸所にみることができます。二月に日像上人が日朗上人の門に入り身延山に登りました。経一麿の名をいただき弟が日輪です。(『宗全』上聖部)。日高と日興上人の弟子日目が随身したといいます。

□『四条金吾殿御返事』(一六九

 三月六日付けの『四条金吾殿御返事』があります。真蹟は伝わっておらず四条金吾が信仰に動揺がある記述に疑義があります。(『日蓮聖人遺文全集講義』一四巻三二頁。(『日蓮聖人御遺文講義』第一三巻一八五頁)。四条金吾は竜口に列座した篤信の者ですので、その四条金吾が信仰に動揺したとある記述に疑問がもたれています。また、四条金吾と夫人に宛てた三〇数書は、同一人に与えられたならば重複する文が多いと指摘されています。(『日蓮聖人御遺文講義』第一三巻二七頁)。

これより半年前の文永一一年九月二六日付けにて『主君耳入此法門免與同罪事』(八三三頁)があります。ここには四条金吾が主君の江馬光時に法華経の法門を耳に触れさせたことをがのべられています。日蓮聖人が赦免されたことを受けてのことですが、主君は信仰には至らなかったようです。良観を信じる主君への諌言は、かえって反感を強めることになります。そこで、これよりは法門については語らないようにとのべ、同輩の者たちから命を狙われることがあるため、身辺に注意をするようにのべていました。このことからしますと、主君から見放されたような立場になり、同僚の武士達が公然と四条金吾に対して危害を加えていたと思われます。江馬光時の子息四郎親時も良観の信者であることから、家臣の多くも良観の帰依者となっていたと思われます。同僚たちは良観や真言師、念仏・禅宗などの信者であれば宿年の敵といえます。この迫害が多々生じていたことの知らせであったといえます。日蓮聖人の門家への迫害は、流罪赦免後においても起きていた事実がわかります。ことに、日蓮聖人が身延に入られてからは、鉾先が門家に向かっていきます。このような危険な状況は文永一一年頃から、主君から勘気がとける弘安二年頃まで五年ほど続くことになります。この間の建治三年六月九日にに桑が谷問答がおきます。また、弘安二年頃は熱原法難の熾烈なときです。十月十五日神四郎、弥五郎、弥六郎の三人は頸を斬られ、残る十七人は追放処分となっています。三月二三日には鎌倉に大火があり四条金吾の邸宅も烏有に帰していました。その火元は極楽寺でした。良観を「両火房」(『王舎城事』九一五頁)と呼ぶのはこのためです。厄年を迎えた妻の心境も複雑になっていたのです。(『四条金吾殿女房御返事』八五六頁。『王舎城事』九一六頁)。このような状況から、四条金吾が弱音をもった一面かもしれません。本書は主君の不興と同僚からの暴力的な讒言に、日昭上人の教化を受けながら耐えている姿を見ることができましょう。また、池上宗仲と父親との信仰対立も起きていました。父親は極楽寺良観の熱心な信者であったため、兄弟の法華信仰に反対します。この対立は長くつづき、文永一二(一二七五)年の春に、兄弟を威圧して法華信仰を捨てない宗仲を勘当します。(『兄弟鈔』九二九頁)。各地における信徒たちに、このような社会的な弾圧として襲ってきたことがわかります。

 本書の書き始めに「此経難持事」とあることから、『此経難持鈔』ともいいます。「此経難持」の文は宝塔品にあり、このなかの「六難九易」は『開目抄』に、

「当世日本国に第一に富者日蓮なるべし。命は法華経にたてまつる。名をば後代に留べし。大海の主となれば諸河神皆したがう。須弥山の王に諸山神したがわざるべしや。法華経の六難九易を弁れば一切経よまざるにしたがうべし」(五八八頁)

とのべられているように、とくに重視されていました。日蓮聖人が教えている信仰は不惜身命の覚悟を持つことでした。本書は四条金吾に、この法華経の信者の心得を再度のべたものす。本書の由来は辨阿闍梨日昭上人が日蓮聖人に、四条金吾が法華経に「現世安穏後生善処」と説かれているので、それを信じて去年より今日まで信仰をしてきたら、かえって大難が雨のように起こり困惑しているということを伝えたことにあります。これに対しこれが事実なのか日昭上人の聞き違いなのかを問い、いづれにしても良い機会なので不審について答えたものです。日蓮聖人は大難を受けるところに、法華経の行者としての「現世安穏」を説いてきました。この論理を理解できないことが、いわゆる「難信難解」で文字通りに信じ難く解り難いことなのです。この受難を法華色読として門下にのべたのが『開目抄』でした。現実に難にあっても「憶持不忘」の者は少ないのは、行者意識が確立していないためです。信仰は持続していくことが大事でここに成仏をのべています。

「受るはやすく、持はかたし。さる間成仏は持にあり。此経を持ん人は難に値べしと心得て持つ也。則為疾得無上仏道は疑なし。三世の諸仏の大事たる南無妙法蓮華経を念ずるを持とは云也。経云、護持仏所属といへり。天台大師云信力故受念力故持云云。又云此経難持若暫持者我即歓喜諸仏亦然云云」(八九四頁)

 受るは易く持つ難しは法華経の信仰は受持が根本のあり方であり、その受持を持続することは経文にあるように難しいことをのべます。『開目抄』には三障四魔が紛然と競い起こるとのべているように、法華経の行者は迫害にあうことは承知のことでした。それを心得て信仰しているはずなのです。受持については『観心本尊抄』に「受持譲与」がのべられているように、日蓮聖人の成仏論の基本となっています。天台大師の釈によれば受持は信念であり、念持することが大事なところです。日蓮聖人は南無妙法蓮華経と唱題することが念持であるとのべており、南無妙法蓮華経の七字は「南無」と帰依する受持者の機根と、「妙法蓮華経の五字」とは本仏の三身常住に具足する因果の功徳の法体のことで、この機法が一体となり唱題により感応一如のところに即身成仏が具現されるのが受持成仏です。つまり、法華経を受持する者は仏・菩薩に護られ仏道を成就することができるのです。

 四条金吾にたいし法華経の行者を火に喩えて、火に薪を加えれば火が盛んに燃え上がるように、難題が押し寄せるものとのべます。また、大風が吹けば求羅というインドに棲むトカゲが生長するようなものとのべます。迦羅求羅(『上野殿母尼御前御返事』一八一四頁)は梵語の音写で黒木虫と訳し、『大智度論』に微細な虫だけど風を得て大きくなり一切を呑食するとあります。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇一六九頁)。つまり、法華経の行者は薪や求羅であり、行者を悩ます薪と風は迫害であるとのべます。行者には三障四魔が強く起きるのは当然のことであり、この迫害に屈せず「此経難持」の四字を心得て信心に励むようにのべています。