|
□『曽谷入道殿許御書』(一七〇) 三月(「下春」)一〇日に血縁関係にある曽谷氏・太田氏に宛てた消息となります。真蹟は漢文で書かれており曽谷氏・太田氏の教養の深さがわかります。上巻二六紙、下巻一九紙の四五紙二巻が中山法華経寺に所蔵されています。本書の草案は身延山に所蔵されていました。(『霊宝目録』)。別名、『大田禅門許御書』『構索鈔』『取要撰時鈔』などといい、『日常目録』には『遣太田禅門許御書』とあります。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇六六三頁)。『観心本尊抄』には良薬(寿量品の肝心「一大秘法」)と、本化上行菩薩の出現をのべていました。本書の内容は「五義」を説き五大部につぐ重要な著述とされます。それは末法の機根である謗法逆機を療治するには、妙法蓮華経の要法が良薬であり、その良医である「師」の代表は日蓮聖人であることをのべるからです。つまり、五義の教えを用いて末法に広める要法は、地涌付属の妙法五字であることを説いたのです。この方法を「折伏逆化」「折伏下種」といいます。また、本書は消息ですので、その目的である門下に典籍を収集し整備することを依頼しています。これは、『注法華経』を選集するためといいます。(小松邦彰稿「日蓮聖人引用経典の一考察」『日蓮とその教団』第三集所収、九七頁)。佐渡法華経を信仰する人の守護神の確信流罪などにて散逸した経典類を手元に保存し、弟子などを教化するためのことです。文永六年の三月一〇日とされる『弁殿御消息』(四三八頁)を、『対照録』(中巻一二二頁)を、この文永一二年の蒐集のときとしています。折紙の上段に「千観内供五味義・盂蘭経之疏・玄義六本末可有御随身候。文句十少輔殿」、下段に「御借用有べし。恐恐謹言。三月十日。日蓮花押。辨殿」と書かれています。鎌倉きた日昭上人はこの時まで身延山に居られたのか、帰り道にある日昭上人を弟子に追わせて、用件を託されたのかもしれません。 本書の構成を三段としてみることができます。(『日蓮聖人御遺文講義』第七巻一九二頁) 第一段――――逆謗の救済を五義に検証 ――機 (「本未有善」の人は逆縁の下種益を説きます) 第二段――――序と教(本化上行菩薩が付属された妙法五字を説きます) ――時と国(『撰時抄』につながります) 第三段――――上行暗示 第一段は本書にて解明する主旨を挙げ、その説明を詳細にしたのが第二段となります。第二段はまず五義のうち、機根に焦点をあて末法の衆生についてのべます。次に末法の衆生を救済する師と教(要法)についてのべます。そして、その要法を説く時期と国をのべます。この「時」とは文永一一年一〇月に蒙古来襲した末法今時です。『立正安国論』に予言した他国侵逼の歴史的現実との符契は、日蓮聖人の主張と行動の真実を証明したことに裏打ちされています。本書に五義の違いによる教法流布の違いをのべ、末法には妙法蓮華経に限ることをのべます。あわせて法華経受持の福報と謗者開罪於無間を示されています。第三段は日蓮聖人の法華色読から上行菩薩の暗示をされます。消息としては外護の檀越の勤めとして、末法の師のため経典の蒐集をお願いしています。蒐集の依頼によせて、その重要性をのべ意欲を促したのです。また、本書を第三章に区分し、弘経方軌・三時弘経・弘経相異とすることができます。(『日蓮聖人遺文全集講義』第一四巻四〇頁)。 『教機時国抄』との違いを「機根」にみますと、『教機時国抄』には「日本国一切衆生自桓武皇帝已来四百余年一向法華経機也。例如霊山八箇年為純円機」(二四四頁)と像法末・末法時を法華経純円の機根とみますが、 本書には「正像二千余年猶有下種者。例如在世四十余年。不知機根無左右不可与実経。今既入末法在世結縁者漸々衰微権実二機皆悉尽。彼不軽菩薩出現於末世令撃毒鼓之時也」(八九七頁)と、末法には在世結縁の者は絶え、本已有善と「本未有善」の機根を区別をします。「序」は『教機時国抄』は日本に仏教が伝来してから伝教大師の法華経流布を最高として教法流布の前後をのべています。本書は在世の付属を始めとして三国四師をのべ、上行所伝を主体として要法をのべます。文永八年の佐渡流罪以降は、末法の「師」への自覚を表明されるのが特徴です。また、天台僧としての立場から伝教大師との関係をのべた遺文をあげますと、「天台沙門日蓮」(『立正安国論』二〇九頁)、献進したときも「天台沙門日蓮」とあります。「根本大師」(『教機時国抄』二四四頁。『薬王品得意抄』三四〇頁)。「根本大師門人」(『法華題目鈔』三九一頁)。そして、本書には「吾師伝教大師」『曽谷入道殿許御書』(九〇〇頁)とのべています。「教」は『教機時国抄』は一切経のなかから法華経を選択することを知教としています。本書は広略要の要法としての妙法五字・名体宗用教五重玄をのべます。この要法とは寿量所顕・神力別付の五字です。『教機時国抄』との立脚の違いは、伝教附順の五義と上行自覚を確立しての五義の違いにあります。ここに、本書にのべた日蓮聖人独自の五義があります。『開目抄』との違いは、『開目抄』は内外~教観の五重相対して、寿量品文底の観心の妙法蓮華経五字を選び取ります。本書はただちに神力別付・上行所伝の妙法五字を示されます。その手法として広略要の三科を説きます。『観心本尊抄』は五重三段を説きます。 本文に入ります。冒頭の次の文章が第一段となります。本書の内容をここからみることができます。 「夫以療治重病構索良薬 救助逆謗不如要法。所謂論時正像末。論教小大・偏円・権実・顕密。論国中辺両国。論機已逆与未逆 已謗与未謗。論師凡師与聖師二乗与菩薩 他方与此土 迹化与本化。故四依菩薩等出現於滅後仏随於付属妄不演説於経法」(八九五頁) 末法の人々は仏から見たら重病の者ばかりで、これらの重病人を治療するには法華経しかないと、はじめに、論点と結論をのべます。この冒頭に「療治重病構索良薬」と、重病人を助けるための最上の薬は何かというのべ方は、すでに文永元年一二月の『南条兵衛七郎殿御書』に見られます。 「又仏法流布国においても前後を勘べし。仏法を弘る習、必さきに弘ける法の様を知べき也。例せば病人に薬をあたふるにはさきに服したる薬の様を知べし。薬と薬とがゆき合てあらそひをなし、人をそんずる事あり。仏法と仏法とがゆき合てあらそひをなして、人を損ずる事のある也。さきに外道の法弘まれる国ならば仏法をもつてこれをやぶるべし。仏の印度にいでて外道をやぶり、まとうか・ぢくほうらんの震旦に来て道士をせめ、上宮太子和国に生て守屋をきりしが如し。仏教においても、小乗の弘まれる国をば大乗経をもつてやぶるべし。無著菩薩の世親の小乗をやぶりしが如し。権大乗の弘まれる国をば実大乗をもつてこれをやぶるべし。天台智者大師の南三北七をやぶりしが如し」(三二四頁)
この病気の原因は五逆罪であり謗法罪です。仏教の教は広汎でありその教を広めることには条件があります。日蓮聖人はこの判断の方法を五義(五綱)に求めます。教機時国は弘める「法」の違いの理由であり、序(師)は弘める人師に視点があてられます。 ・五義(五綱) 時――正像末の三時の違いがある 教――小乗大乗・偏教円教・権教実教・顕教密教の違いがある 国――中辺両国(インドと日本の両国)の違いがある 機――已逆与未逆 已謗与未謗 師――凡師与聖師二乗与菩薩 他方与此土 迹化与本化 四依菩薩 「時」とは正法時代・像法時代・末法時代のことです。そして、機根の違いに注目されます。 已逆と未逆の違い――已に過去世に五逆罪を作った者と作っていない者 已謗と未謗の違い――已に過去世に謗法をした者としていない者(本已有善・本未有善) そして、「師」の文類についてのべます。 凡師と聖師 二乗と菩薩 他方と此土 迹化と本化 の四通りに区別があることを示されます。ここに、「人四依」という教があります。「人四依」といいます。出典は『涅槃経』の四依品です。釈尊の滅後、正像末の三時に釈尊に代わって弘教する人の規定(位)です。『涅槃経』によりますと、次のようになります。 第一依(初依)――出家して煩悩を持つ凡夫、菩薩の方便所行秘密の法を知る人――四善根(伏惑) 第二依――――――須陀洹・斯陀含の位にある菩薩、すでに受記を得た人 第三依――――――阿那含の位にあっても、すでに受記を得て間もなく成仏する菩薩 第三依――――――阿羅漢。煩悩を断じて何時でも成仏することのできる人。仏と代わらない人。
そこで、『観心本尊抄』にのべていたことをみますと、次の解釈をされていました。
「問曰 此経文遣使還告如何。答云 四依也。四依有四類。小乗四依多分正法前五百年出現。大乗四依多分正法後五百年出現。三迹門四依多分像法一千年・少分末法初也。四本門四依地涌千界末法始必可出現。今遣使還告地涌也。是好良薬寿量品肝要名体宗用教南無妙法蓮華経是也。此良薬仏猶不授与迹化 何況他方乎」(七一六頁)
・四依四類 小乗の四依――正法前五百年に出現して小乗の教を弘める 大乗の四依――正法後五百年に出現して権大乗を弘める 迹門の四依――像法一千年から末法の初めに出現して実大乗の法華経迹門を弘める 本門の四依――地涌の菩薩が末法の始めに出現して寿量品の肝要である妙法蓮華経を弘める と、四依に四類(四類四依)があり、正像末の三時に必ず出現して正法を弘通するとした『法華文句』の文を引きます。これを、釈尊の滅後に仏教を弘教する「人」に焦点をあてますと、建治二年に系年される図録二十二『一代五時鶏図』(二三五八頁)に、「師」には聖師凡師・四依・出世師(権権師・実経師)・三聖等(世間師)の三っあり、「人四依」について、次のように示しています。 初依の菩薩――天台・南岳等位――凡師 第 二 依――竜樹菩薩等――――聖師 第 三 依 第 四 依――普賢・文殊師等 このことから、出生された人を見ますと、四依の菩薩は正法時の龍樹に天親を加え、像法時の南岳・天台・伝教大師を示しています。図示しますと次のように考えられます。(山川智応著『観心本尊抄講話』五三一頁)。 第一依――名字初品位――日蓮聖人など―――――本門―――末法 第二依――五品十信位――南岳・天台大師など――迹門―――像法時 第三位――円別住地位――龍樹・天親菩薩など――権大乗――正法後五百年 第四依――蔵通極聖位――迦葉・阿難尊者など――小乗―――正法前五百年 本書は「師」について、これまでの『教機時国抄』(二四三頁)『当世念仏者無間地獄事』(三一七頁)には「教法流布の先後」、『南条兵衛七郎殿御書』に「仏法流布国においても前後を勘べし」(三二四頁)、『顕謗法抄』「弘法用心」(二六三頁)と、仏教を説く順序の先後・前後を弁えるとのべていたことから、この序を本化上行菩薩と明確にしました。前述したように、佐渡流罪を契機に「序」は後五百歳の「時」を焦点とします。その「時」を担う者こそ「師」、即ち日蓮聖人という自覚になりました。つまり、この決断は日蓮聖人に委せられたこととします。これを序から師への転換といいます。 日蓮聖人が判断しなければならない弘教の方法を法華経に求めますと、相反する二つの方法が説かれていました。一つは譬喩品の「仏対於舎利弗云 無智人中莫説此経」。法師品の「告薬王菩薩等八万大士 此経是諸仏秘要之蔵。不可分布妄授与人」の文です。これは無智で未謗正法の者には左右なく法華経を説いてはいけないという言葉です。一方、不軽品云には「乃至遠見四衆亦復故往」「四衆之中有生瞋恚心不浄者。悪口罵詈言是無智比丘従何所来」。「或以杖木瓦石而打擲之」と説かれています。これは、相手が信じても信じなくても、暴力や迫害を受けても法華経を説かなけれならないという言葉です。第二第四巻経文と第七巻の経文は天地水火のように異なっているのです。そこで、第一番の問答に、どちらの説を信じればよいのかをテーマにしたのです。日蓮聖人は次のことを基本として決断されます。 「所詮無智者未謗大法 忽不与大法。為悪人上 已謗実大者強可説之」(八九五頁) 同じように天地水火の相異がある問題に「摂折」の判断がありました。これは『開目抄』にのべていました。 「夫摂受折伏と申法門は水火のごとし。火は水をいとう。水は火をにくむ。摂受の者は折伏をわらう。折伏の者は摂受をかなしむ。無智悪人の国土に充満の時は摂受を前とす。安楽行品のごとし。邪智謗法の者多時は折伏を前とす。常不軽品のごとし。譬へば熱時に寒水を用、寒時に火をこのむがごとし。草木は日輪の眷属、寒月に苦をう、諸水は月輪の所従、熱時に本性を失。末法に摂受折伏あるべし。所謂悪国・破法の両国あるべきゆへなり。日本国当世は悪国か破法の国かとしるべし」(六〇六頁) 無智悪人の国土に充満の時――――摂受。安楽行品のごとし 『開目抄』 無智で法華謗法をしていない者――法華経を与えてはならない 『曽谷入道殿許御書』 邪智謗法の者多時――――――――折伏。常不軽品のごとし 『開目抄』 悪人で法華経を謗法している者――強く法華経を説くべし 『曽谷入道殿許御書』 再確認しておきたいことは、逆縁に対しての化導には、折伏の主張をされてきたことです。(『一代聖教大意』六八頁。『守護国家論』一〇五頁。『唱法華題目抄』二〇四頁)。『観心本尊抄』『法華取要抄』には、下種の法を妙法五字とはっきりのべていました。 「今末法初 以小打大 以権破実 東西共失之天地顛倒。迹化四依隠不現前。諸天弃其国不守護之。此時地涌菩薩始出現世但以妙法蓮華経五字令服幼稚。因謗堕悪必因得益是也」(七一九頁) 「問曰 滅尽仏法之法何弘通之乎。答曰 於末法者大・小・権・実・顕・密共有教無得道。一閻浮提皆為謗法了。為逆縁但限妙法蓮華経五字耳。例如不軽品。我門弟順縁 日本国逆縁也」(八一五頁) つまり、現在の末法における弘教は、『法華文句』をもとにしますと、「本未有善」の「而強毒之」になるとされ、その弘通者は地涌の菩薩とします。 本已有善――釈迦以小「而将護之」・・・久遠大通仏の下種がある・・順縁 本未有善――不軽以大「而強毒之」・・・過去に下種されていない・・逆縁 邪智――法華謗法――本未有善――不軽品――折伏――妙法五字――而強毒之――因謗堕悪必因得益 寿量品の内証――妙法蓮華経の五字――一大秘法――本化上行菩薩に付属――日蓮聖人の折伏逆化 という一連の構図が形成されます。これを、「本未有善」「折伏逆化」といいます。逆化といいますのは、妙楽大師の『文句記』に「此の品(不軽品)は俗を礼して逆化し理に通ず」(『正藏』三四巻三四八頁)により、逆縁の化導をいいます。 これより十二の問答があり、最初の問答によりますと、釈尊が在世のときの衆生は、その過去世である久遠大通仏のときに、純円の下種益を受けていた者達でした。しかし、これらの者は過去に謗法の罪を作ったため、釈尊在世にいたるまでの長い年を迷ってきたとのべます。それを、「三五の塵点を経歴す」(八九六頁)と説きます。久遠大通仏の下種益が釈尊により純熟して成仏の授記を得たのです。これが、下種・塾益・脱益の三益論(種・塾・脱)です。三種教相の第二化導始終不始終相になります。釈尊が四二年の間、華厳・阿含・方等・般若経を説いてきたのは、謗法の罪を作らせないための方便であったのです。それを、調機調養といいます。つまり、釈尊在世の化儀・化法の理由を説いたのです。 次の問答は法華経を説く以前に得脱した者について問います。法華経を聞かなくても『華厳経』や『観経』を聞いて得道したことをあげます。それは、『華厳経』のときの法慧・功徳林・金剛幡・金剛蔵の菩薩や、『観経』の韋提希夫人と五百人の侍女のことです。これを、「教外の得道」といいます。この答えとして、『華厳経』や『観経』による得脱に見えるが、実際は「三五の下種益」のとき、法華経を下種されていた人達でした。その下種があるからこそ、爾前経を縁としても得脱できたことになります。 次に、その証拠を問います。答えとして涌出品受の文を挙げます。「是諸衆生 世々已来 成就我化。乃至此諸衆生始見我身聞我所説即皆信受入如来慧」(『開結』三九八頁)。釈尊はこれらの得脱した者たちは、過去世より教化してきた者で、それが華厳の会座などで得脱したということです。つまり、過去に下種がありその中でも上根の者が熟が実ったということです。この経文の解釈を天台大師は『法華文句』に「衆生久遠」と解釈され、妙楽大師は『文句記』「雖脱在現具騰本種」と解釈されました。天台大師の「衆生久遠」といいますのは、この久遠下種のことをいいます。過去久遠の昔に釈尊により法華経との結縁があることを証拠とするのです。ですから、妙楽大師は「雖脱在現具騰本種」と解釈されました。つまり、爾前経にて脱益することは、過去に下種された「本種」があるからこそであるとします。この考え方は『法華文句』にあります。『法華文句』には、「四節三益」といって、法華経の種・熟・脱の三益について四つの節(種類)があることを説きます。和訳しますと、「衆生久遠に仏の善巧を以て仏道の因縁を種えしむることを蒙むる、中間に相値いて更に異の方便を以て第一義を助顕し而してこれを成熟す、今日雨華地動して如来の滅度を以てこれを度脱す。復次に久遠を種となし、過去を熟となし、近世を脱となす、地涌等是れなり。復次に中間を種となし、四味を熱となし、王城を脱となす、今の開示悟入の者是れなり。復次に今世を種となし、次世を熟となし、後世を脱となす、未来得度の者是れなり」とあります。 第一は、久遠に下種を受け、さらに中間(ちゅうげん)に仏法に値い、後にまた今番の釈尊の化導に値って爾前方便の教えを受けながら次第に機が調い、法華経の序品の時に雨華瑞・地動瑞等の六瑞を見て解脱する人です。 第二は、久遠に下種を受け、過去に熟し、久遠の近世に脱の益を得た地涌の菩薩です。 第三は、中間の化導を種とし、爾前権経を熟とし、法華経(開示悟入)を脱とする衆生です。 第四は、現在の法華経を下種とし、次世を熟とし、未来を脱とする衆生です。 この四種の分類はそれぞれの衆生の種熟脱をのべたもので、基本とするのは全ての衆生は法華経の下種であり、それが成熟して得脱することを説いたのです。妙楽大師の「雖脱在現具騰本種」の文は、このうちの第一を指し久遠の昔に法華経の下種を受けたことを主張したものです。による、というものです。華厳経等で得道したとされる衆生も、じつはこの第一にあたるものであり、久遠の下種と中間の成熟があって、法華経の序品で得脱したことになります。実はこの「教外得道」は「法華得道」であることは、『観心本尊抄』に提起されて問いだったのです。
ここに利根の菩薩や凡夫の中には爾前経において得脱した「教外得道」の者がいるが、実は大通久遠下種を顕した「法華得道」の者であるとのべていました。このように、「雖脱在現具騰本種」とは、、在世の衆生が久遠元初の下種を覚知して成仏したということなのです。「久遠下種」が塾益の期間を経て開花結実したのです。 次に、『大日経』にても得道(即身成仏)したという疑問に答えます。日蓮聖人は核心として、種・塾・脱の三益を説かない経典は、小乗経の灰身滅智と同じで成仏はできないとのべます。仏の化導の始めと中間・今日までが明かされていないからです。それなのに、今の真言師が即身成仏を説くのは、王莽(おうもう。前五~二三年)と趙高(ちょうこう。前二〇七年没)のように、謀略により一時は権力を得ても後に亡びたことに喩えます。同じことを『開目抄』に、 「真言・華厳等の経経には種熟脱の三義名字猶なし。何況其義をや。華厳真言経等の一生初地即身成仏等は経権経にして過去をかくせり。種をしらざる脱なれば超高が位にのぼり、道鏡が王位に居せんとせしがごとし」(五七九頁) ここに、華厳や真言経などで説く「一生初地即身成仏」は、下種を説いていないから脱益もないとのべてます。そして、正像末の三時代における機根と弘通法をのべます。これは、『法華文句』の本已有善と「本未有善」を解説されたもので、正・像時は過去に法華経ん下種を受けた者、釈尊在世に法華経を聞いて下種を受けた者が生まれてくるので、謗法を作ってはならない弘通をします。末法には在世結縁の者は少なくなるので、いわゆる爾前経での「教外得道」の者はいないとします。そこで、「本未有善」の者には不軽菩薩が末法に折伏「毒鼓の縁」をもって弘通するとのべます。 「此等因論於仏滅後有三時。正像二千余年猶有下種者。例如在世四十余年。不知機根無左右不可与実経。今既入末法在世結縁者漸々衰微権実二機皆悉尽。彼不軽菩薩出現於末世令撃毒鼓之時也。而今時学者迷惑於時機 或弘通於小乗 或授与権大乗 或演説於一乗 以題目之五字可為下種之由来不知歟」(八九七頁) 「毒鼓の縁」とは、『涅槃経』(国訳涅槃部一―二〇四)に和訳しますと、「毒薬を以て用ひて太鼓に塗り、大衆の中に於て之を撃ちて声を発(いだ)さしむるが如し。心に聞かんと欲する無しと雖も、之を聞けば皆死す」と説かれた文を引用しています。つまり、毒を塗った太鼓太鼓を打つことによって、その音を聞いた人々は、聞く気持ちがなくても必ず死ぬと説かれます。この毒鼓の譬えは相手が聞く意思を持たなくても、いったん聞こえたならばそれが結縁・下種となると解釈されます。一切衆生の仏性常住を説く『涅槃経』においては、涅槃経を強いて説き聞かせて縁を結ばせ、三毒(貪瞋癡)の煩悩を破して仏性を薫発する仏の化導が説かれています。 そして、三益を説いていない真言師の謬りを糺し、その下種の教法とは題目五字であることをのべます。 「而今時学者迷惑於時機 或弘通於小乗 或授与権大乗 或演説於一乗 以題目之五字可為下種之由来不知歟。殊真言宗学者懐於迷惑依憑三部経 単宣会二破二之義猶不説三一相対。即身頓悟之道削跡 草木成仏名不聞耳」(八九七頁) 東密・台密の真言師への批判は急務のことでした。真言師が蒙古調伏を祈祷することは亡国になるという危機意識があったからです。会二破二とは声聞・縁覚の二乗を小乗から菩薩の大乗に引入するのが会二で、三乗を並立して菩薩乗を示します。その小乗を捨てる教を破二といいます。二乗の見地を菩薩乗に高めることです。これは、深密経(法相宗)・般若経(三論宗)・『大日経』を依拠とします。真言師はこの会二破二を説くが三一相対を説かないということが大事で、声聞・縁覚・菩薩の三乗と一仏乗との違いを説いていないことをいいます。譬喩品には「三車火宅」において羊鹿牛の三乗と、大白牛車の一仏乗を説き、三車と一車を相対しているように、三乗と一乗を比較して一乗を勝れていることを論じたものです。『華厳経』『般若経』はこの三乗を破り一乗を説いています。『大日経』は『華厳経』にも及ばないのです。ですから、即身頓悟(成仏)はないのであり、非情や国土の草木成仏もないとのべます。草木成仏は国土の成仏ですから仏国土の実現をいいます。蒙古の襲来による日本国の破壊を危惧されたのです。『立正安国論』の主張はここにありました。真言師批判は化導において下種がないのであるから、教理においても成仏が成り立たないのです。真言宗は天台大師の一念三千の論理を『大日経』に盗用したというのが日蓮聖人の見解です。本書にも日本には天台大師の一念三千が知れ渡っていないので、善無畏(『大日経』『蘇悉地経』)、不空(『金剛頂経』)は一行阿闍梨を騙して、『大日経疏』(『大毘盧遮那成仏経疏』二十巻)に一念三千の理論があると偽証させたとあります。『大日経疏』には一念三千は法華経と大日経に説かれているが、印真言を説く大日経が勝れているという、「理同事勝」を偽証したのです。ここに、「盗取天台之智慧」(八九七頁)と言われたのです。東密では弘法大師が伝えた『大日経疏』を用い、台密は慈覚・智証大師が伝えた『大日経疏』を用いています。弘法大師はさらに法華経は大日経に比べれば第三の劣で戯論であるとまで下します。これは、善無畏の解釈よりも悪くしたのです。しかし、善無畏・不空三蔵は法華誹謗の罪を後悔したとのべています。(『善無畏三蔵鈔』四七〇頁)。 次に、今の真言宗の人達は、この「盗取天台」のことを知らないのかを問います。自分の眉は近くにあるけれど見えないように、知識においても謬りが見えないとします。しかし、先師の中には邪見に気づいた人がいるとして実名をあげます。また、それを四句に分別しています。同じように『真言七重勝劣』(二三一六頁。文永七年『朝師本』)に図示されています。 ・天台宗帰伏人人有四句 一、身心倶移――――三論ノ嘉祥大師 華厳ノ澄観法師 二、心移身不移―――真言ノ善無畏・不空 華厳ノ法蔵 法相ノ慈恩 三、身移心不移―――慈覚大師 智証大師 四、身心倶不移―――弘法大師 この実名をあげたのは、開祖たちが最後には法華経に帰伏しているのに、末学たちはそれを知らないこと、それは外見の立場を変えていないからとします。 そして、これより三時弘教についてのべていきます。 正法前五百年――軽病に軽薬――正法時の人々は機根が勝れ煩悩も軽い 迦葉・阿難・商那和修・末田地・脇比丘等 一向以小乗之薬対治衆生軽病。 弘通四阿含経・十誦・八十誦等諸律 相続解脱経等三蔵 後号律宗・倶舎宗・成実宗是也。 正法後五百年――中病に中薬 馬鳴菩薩・龍樹菩薩・提婆菩薩・無著菩薩・天親菩薩等諸大論師 初諸小聖所弘小乗経通達之。後一々破失彼義了弘通諸大乗経。是又以中薬衆生対治於中病。 華厳経・般若経・大日経・深密経等。三論宗・法相宗・真言陀羅尼・禅法等也 これら迦葉・阿難などの小聖がなぜ大乗経を説かないのか、龍樹・天親が一乗を説かないのかを問います。その答えは、 自身不堪故――――迦葉たちは大乗経を教える能力が不足していた 無所被機故――――大乗経を聞いても受け容れられない 従仏不譲与故―――釈尊より大乗を弘通する付属を受けていない 時不来故―――――大乗を弘通する時ではなかった 次の問答は真言の龍猛菩薩と弟子の提婆菩薩(迦那提婆)・龍智菩薩にふれます。龍猛菩薩は龍樹のことです。真言宗には弘法の『秘密曼荼羅教付伝』(『空海全集』二巻三九三頁)に、独自の密教相承の系譜があります。その文を引いたのです。 「問曰 諸真言師云 仏滅後相当於八百年龍猛菩薩出現於月氏釈尊顕教華厳・法華等相伝馬鳴菩薩等大日密教自開拓南天之鉄塔 面対大日如来与金剛薩埵口決之。龍猛菩薩有二人弟子。提婆菩薩伝釈迦顕教 龍智菩薩授大日密教。龍智菩薩隠居阿羅苑不伝於人。其間提婆菩薩所伝顕教先渡於漢土。其後経歴於数年 龍智菩薩所伝秘密之教 善無畏・金剛智・不空渡於漢土等[云云]。此義如何」(八九八頁) 南天とは南天竺の略で南インドのことで、そこに鉄塔が存在したといわれます。近代では、栂尾祥雲氏がキストナ河畔のアマラーヴァティー(Skt:Amaraavatii)の大塔ではないかと推察しています。伝説では大日如来の法門を金剛薩埵が結集して、機を見て授けんとしてこの塔に蔵めたのを龍猛菩薩が、この塔を開いて『金剛頂経』あるいは『大日経』)を伝授したといわれています。ただし、台密では大日経は大日経は場外相伝とし、金剛頂経のみを塔内相承したとします。これに対し東密では両部の大経ともに龍猛が金剛薩埵から相承したとします。弘法大師は「この経及び大日経は並びにこれ龍猛菩薩、南天鉄塔中より誦出する所の如来秘密蔵の根本なり」(『教王経開題』)と両方を取ります。しかし、南天鉄塔誦出の伝説は『金剛頂経義訣』にはありますが、大日経の流伝を説いていないため、東密でも鉄塔の誦出には論議があります。また、この鉄塔の存在について、随縁と法爾(ほうに)の二つの説があります。随縁説は現実に存在したとするもので、法爾説は竜樹の内心に感得された境地とするものです。鉄の塔の中にあるのは菩提心で、煩悩がこの菩提心を覆う鉄の扉とされます。日蓮聖人は『開目抄』に、この鉄塔の中にあった教法とは、法華経の南無妙法蓮華経の題目とされています。 「付法蔵第十三、真言華厳諸宗の元祖本地法雲自在王如来 迹に龍猛菩薩初地の大聖の大智度論千巻の肝心云 薩者六也等[云云]。妙法蓮華経と申は漢語也。月支には薩達磨分陀利迦蘇多攬と申。善無畏三蔵の法華経の肝心真言云 曩謨三曼陀[普仏陀]唵[三身如来]阿阿暗悪[開示悟入]薩縛勃陀枳攘[知]娑乞芻毘耶[見]誐誐曩婆縛[如虚空性]羅乞叉爾[離塵相也]薩哩達磨[正法也]浮陀哩迦[白蓮華]蘇駄覧[経]惹[入]吽[遍]鑁[作]発[歓喜]縛曰羅[堅固]羅乞叉鋡[擁護]吽[空無相無願]娑婆訶[決定成就]。此真言は南天竺の鉄塔の中の法華経の肝心の真言也。此真言の中薩哩達磨と申は正法なり。薩と申は正也。正は妙也。妙は正也。正法華・妙法華是也。又妙法蓮華経の上南無の二字ををけり。南無妙法蓮華経これなり」(五六九頁) 真言密教の系譜は、 大日如来――金剛薩埵――龍猛菩薩(龍樹)――龍智菩薩――善無畏三蔵(または金剛智) 顕教 馬鳴――龍猛菩薩(龍樹)――提婆菩薩―― 密教(鉄塔) ―龍智菩薩――善無畏 の順番にて相承されたとします。第四祖の龍智菩薩は不明なところがあり実在が疑問視されています。 この相承が仏教界において信じられていたのです。そこで、日蓮聖人は疑義をのべます。 そもそも龍猛菩薩いぜんにインドに真言三部経はなかったのか。 釈迦仏とは別に大日如来が出現して三部経を説いたのか(二仏並出) 顕教を提婆菩薩に伝え密教を龍智菩薩に授けたという文証はあるのか 大日如来は釈尊が方便で説いた法身仏であり、娑婆に生まれて法を説いた仏ではない、二仏出世を否定したのが仏教の通説です。それに、密教を龍智菩薩に授けたという文証はないのです。たとえるならば、提婆達多が自分は仏果を得たと妄語を言い、同じ釈尊族の瞿伽利が提婆達多を師として釈尊に敵対し、舎利弗や目連を批判した狂言(『大智度論』男女三人の不浄行)にも超えたとして、この真言宗が立てる密教相承の妄語を強く批判したのです。ゆえに、唐の王朝や日本の朝廷が尽き、唐のつぎの宋も北蕃(蒙古)に滅ぼされ、日本も西戎(蒙古)に侵略されているとして、真言亡国の起因をのべます。 そして、像法時に入ってからの仏教流伝をのべます。 四〇〇年 中国に仏教伝来 仏法乱菊(段菊のように密生)して定まらない 五〇〇年 南岳・天台大師出現し法華経を弘めるが、円頓の戒場を建立できなかった 六〇〇年 法相宗(太宗皇帝 五九八~六四九年)・華厳宗(則天皇后 六二四~七〇五年) 七〇〇年 真言宗(玄宗皇帝 六八五~七六二年) 開元四(七一六)年 善無畏が大日経と蘇悉地経を伝える 開元八(七二〇)年 金剛智・不空が金剛頂経を伝え密教とする 八〇〇年 日本の伝教大師が法華宗により円頓戒壇を建立する
伝教大師は南都六宗を法華宗に統一し、比叡山に円頓戒壇を建立します。この価値は法華経という上薬を用いて重病の人々を救ったとのべます。しかし、真言宗との勝劣を分明にしなかったのは、末法に行われる付属の法として着手しなかったとのべ、これは本書の論旨ではないとのべますが、真言破が日蓮聖人に課せられた難題であったことがうかがえます。 次に、末法時に入ります。日蓮聖人の置かれた立場と指命に言及されていきます。まず、末法の人々の機根と日本国にふれます。 「今入末法二百二十余年 五濁強盛三災頻起 衆見之二濁充満於国中 逆謗之二輩散在於四海。専仰一闡提之輩恃怙於棟梁 尊重謗法之者為国師。孔丘孝経提之打父母之頭 釈尊法華経誦口違背於教主。不孝国此国也」(九〇〇頁)
日蓮聖人が本書を書かれている文永一二(一二七五)年は、末法に入って二二四年になります。この末法時代は五濁・三災七難に覆われた時代になります。『大集経』にいう「闘諍言訟・白法隠没」のことです。 五濁 劫濁(こうじょく)――――――飢饉や疫病・戦争などの社会悪がはびこる時代の濁り 見濁(けんじょく)――――――邪悪な思想がはびこり濁る思想の濁 煩悩濁(ぼんのう)――――――貪(とん)・瞋(しん)・痴(ち)の煩悩に支配された人々の濁り 衆生濁(しゅじょう)―――――資質が低下し、十悪をほしいままにする人々が増大する 命濁(みょうじょく)―――――人々の寿命が次第に短くなり一〇歳になる 三災 小三災――住劫(じゅうこう)の減劫に起こる刀兵・疾疫・飢饉の災害 大三災――壊劫(えこう)の終わりに起こる火・水・風の災害 五濁のなかでも衆生濁と見濁の二濁が国中に充満し、五逆罪を犯した者と謗法罪を作った者たちばかりが生まれてくるということです。日蓮聖人の当時はこれらの人を国主とし国師(良観・建長寺蘭渓道隆など)と仰いでいたとし、それは、喩えると孔子の説いた孝経をもって父母の頭を打ち、釈尊の金口である法華経を口で読みながらも釈尊に背いているとのべます。この日本は不孝の国であるとし、孔子の弟子である曾参(そうさん)は、勝母という地名の里に来たとき、不孝の名であると言って引き返した例をあげます。そして、日本が謗国となったので大地は怒りをもち、その結果が正嘉元年と文永の天変地異であるとします。この論理は『立正安国論』にのべていました。これらの状況において、人々を救済する方法はあるのか、ここで、法華経が滅後末法の人々のために説かれ置かれたことをのべていきます。すなわち、「末法正為」です。 「大覚世尊以仏眼鑑知於末法 為令対治此逆謗二罪 留置於一大秘法」(九〇〇頁)
ここに、「一大秘法」として南無妙法蓮華経の題目をのべていきます。本書は「ニ処三会」の儀式を説明し、地涌出現と「結要付属」へ展開します。その地涌付属の教法(法体)について 「爾時大覚世尊演説寿量品 然後示現於十神力付属於四大菩薩。其所属之法何物乎。法華経之中 捨広取略 捨略取要。所謂妙法蓮華経之五字名体宗用教五重玄也。例如九苞淵之相馬之法 略玄黄取駿逸 史陶林之講経之法 捨細科取元意等」(九〇二頁) この「一大秘法」とは「内証の寿量品」(『観心本尊抄』七一五頁)に説かれた南無妙法蓮華経の題目です。この題目は下種の機能をもっています。『観心本尊抄』には寿量品の「是好良薬今留在此汝可取服」とは、寿量品の肝要である「名体宗用教妙法蓮華経是也」(七一七頁)とのべています。ここに、一念三千の仏種を下種結縁するという教えがあります。(小松邦彰著『観心本尊抄訳注』四頁)。釈尊が十神力を示して地涌に属累したのは「妙法五字」でした。それを、本書においては広略要の中の要とのべます。『法華取要抄』にものべていました。 「日蓮捨広略好肝要。所謂上行菩薩所伝妙法蓮華経五字也。九包淵之相馬之法略玄黄取駿逸。史陶林之講経捨細科取元意等」(八一六頁) 法華経の肝要・・内証の寿量品・・上行所伝の妙法蓮華経の五字・・名体宗用教五重玄 そして、釈尊から「一大秘法」である妙法五字を付属された地涌の菩薩は、法華経においては本門八品の間のみ出現し、その後、正像二千年には生まれず末法に標準をあてていたとのべます。本書において、さらに「末法正意」について経証をあげてのべます。『観心本尊抄』には本書と同じ法華経・『涅槃経』の経証を挙げ、「末法の始め予が如き者の為なり」(七一九頁)とのべていました。それは、末法に法華経を弘めることを約束されていたからです。ここに、上行菩薩の責務は「三類の強敵」に屈せずに、「不惜身命」の色読を完遂できる者でなければならないのです。 「正法一千年前五百年 一切声聞涅槃了。後五百年 他方来菩薩大体還向本土了。入像法之一千年 文殊・観音・薬王・弥勒等誕生於南岳・天台示現於補大士・行基・伝教等利益於衆生。今入於末法 此等諸大士皆隠居於本処。其外閻浮守護天神地祇或去他方。或住 此土不守護於悪国。或不嘗法味無守護之力。例如非法身大士不入三悪道。大苦難忍故也。而地涌千界大菩薩 一住於娑婆世界多塵劫。二随於釈尊自久遠已来初発心弟子。三娑婆世界衆生最初下種菩薩也。如是等宿縁之方便超過於諸大菩薩」(九〇三頁) 正法前五百年 一切の声聞は涅槃了 後五百年 他方来菩薩大体還向本土了 像法一千年 文殊(行基)、観音(南岳)、薬王(天台・伝教)、弥勒(補大士)と現れ 衆生を利益した 末法 此等諸大士皆隠居於本処。其外閻浮守護天神地祇或去他方 正法時代は軽病に軽薬とのべたように、前五百年は声聞の小乗の教で仏道を成すことができ、後五百年は中病に中薬とのべたように、他方の菩薩の権大乗の教で救済することができました。像法時は弥勒は補大士(善慧大師。四九七~五六九年)、文殊は行基(六六八~七四九年)、観音は南岳(五一五~五七七年)、薬王は天台(五三八~五九七年)・伝教(七六七~八二二年)として生まれ、像法時の人々を救いました。これらは釈尊の付属の通りに行われたのです。ところが、末法はこれらの声聞・縁覚・菩薩や諸天善神でさえも救済できない、五逆謗法の重病人ばかりになるのです。涌出品の「止善男子」「止召三義」はこの意味をもっていました。「止召三義」は「前三後三六釈」ともいい『法華文句』に示されたもので、「下方を召すの三義」を日蓮聖人は次のように解釈されます。 一 娑婆世界に住すること多塵刧であること・・・・・・・・・宿福が深く厚いので慈悲心が強い 二 釈尊との師弟関係は久遠であり初発心の弟子であること・・強靱な菩薩行ができる 三 娑婆世界の衆生の最初に下種を受けた菩薩であること・・・釈尊が始めて下種をした菩薩
つまり、『大集経』(巻五五月蔵分第一二閻浮提品第一七)の「五五百歳」の文は、法滅の推移を説きましたが、法華経はその法滅後における正法広布の「時」を説いていたのです。 次の問答は、地涌付属の理由である「止召三義」を挙げ、末法弘通の導師について経証を挙げてのべていきます。その経釈の意味は迦葉・舎利弗等の一切声聞や、文殊・薬王・観音・弥勒等の迹化他方の諸大士は、「如来現在猶多怨嫉況滅度後」の末法の弘経を貫徹することができないということです。責任が重すぎて忍耐ができないと見なされたのです。「三類の強敵」が説かれるほど末法の弘通は熾烈であり慈悲心が必要なのです。ところが、この地涌の菩薩からすれば、
「此等之大菩薩利益 末法之衆生猶如魚練水 鳥自在於天。濁悪之衆生遇此大士殖於仏種 例如水精之向月生水 孔雀聞雷声懐妊。天台云猶如百川応須潮海。縁牽応生亦復如是[云云]。慧日大聖尊以仏眼兼鑑之。故捨棄於諸大聖 召出此四聖伝於要法也 定於末法之弘通也」(九〇四頁)
と、魚が水に錬(な)れて泳ぎ、鳥が空に自在に飛ぶことができるように、本化の菩薩は末法においても自由自在に法を弘通することができ、また、人々も水晶が月に向かったときに水を生じ、孔雀が雷の音を聞いて懐妊すると同じようなことであるとのべます。釈尊は地涌の菩薩を召喚して末法弘教を託し要法を授けたのです。 次に、その要法とは何かを問います。答えるには口伝をもってこれを伝えるとのべます。(「答曰 以口伝伝之」)。 現代風に言いますと、対面したときに直接お伝えしましょうということです。(『日蓮聖人全集』第三巻二五九頁)。つまり、口伝法門という重要性を示唆しています。口伝は口授・面授口訣と同じで資師相伝のことですから、一子相伝のように奥義や秘法を言います。インドでは聖教を書写することは、神聖を汚すという風習があり、それを受けて中国や日本にては口伝を用いるようになったといいます。(『日蓮聖人御遺文講義』第七巻二六七頁)。では、口伝とされた要法とは何だったのでしょうか。通説では経文を指すとされ、寿量品の「色香味」具足の文、神力品の塔中付属、五重玄具足の四句要法、十神力が挙げられます。(『日蓮聖人遺文全集講義』第一四巻一三九頁)。これは、言うまでもなく『観心本尊抄』にのべられていたことで、『観心本尊抄』を授与された太田・曽谷教信氏においては周知のことと思われます。口伝の経文は『観心本尊抄』にヒントがあるといえましょう。そして、仏滅後においての弘通について再説します。
「爰以於滅後弘経 随仏之所属有弘法之限。然則迦葉・阿難等一向弘通於小乗経不申於大乗経。龍樹・無著等申於権大乗経不弘通一乗経。設申之纔以指示之 或迹門之一分宣之全不談化道始終。南岳・天台等観音・薬王等為化身 小大・権実・迹本二門 化道始終・師弟遠近等悉宣之 其上立已今当之三説判一代超過之由 勝於天竺諸論過於真丹衆釈。旧訳新訳三蔵宛不及此師。顕密二道元祖敢非敵対。雖然以広略為本未不能肝要。自身雖存之敢不及他伝。此偏重於付属故也」(九〇四頁) 迦葉・阿難等 大乗経を弘めず 龍樹・無著等 一乗経を弘めず。纔に迹門の一分を宣べたが化道始終は説かなかった 南岳・天台等 法華経の広略を弘めたが肝要を弘めなかった
その理由は釈尊より付属された弘法に限定があり、自身では分かっていたが敢えて弘めなかったのです。なぜなら、それほど付属ということが大事なことだったからです。このことから、伝教大師も戒壇を建立し一乗の国とされ(恵心僧都『一乗要決』)四依の大士であったけれど、本書にはのべていませんが、本門法華経を末法に譲ったとするのが、日蓮聖人の論調です。(『観心本尊抄』「正像稍 過已末法太有近等[云云]。末法太有近釈我時非正時云意也」七二〇頁)。そして、これら以外の中国の三論宗の吉蔵大師、法相宗の慈恩大師、華厳宗の法蔵・澄観、真言宗の善無畏・金剛智・不空・恵果、日本の弘法・慈覚等などの三蔵の諸師は、四依の大士ではなく暗師であり愚人であるとのべます。これらの諸師は経を解釈ずるときには大小権実の旨と、顕密両道の違いを弁えない。論を説くときには通申と別申の違い、申と不申の違いもわからないのに、宗々の末学からは国師と仰がれていると批判します。通申と別申というのは、経論の全体にわたって論ずるのが通申、経論のなかの細かな品などを論ずるのが別申で、通申論は全体を把握したものです。申と不申というのは、論師が付属されたことを説くため、権教のみを論じて実教を説かないことがあるということです。そこで、一例を挙げるので、そのほかの宗についてはそれに準じて推察するようにとのべます。ここで挙げられたのが弘法大師の真言宗です。 ここにおいて、弘法大師の教は邪見であり謗法であると断じます。弘法大師は『十住心論』『秘蔵宝鑰』『弁顕密二教論』に釈尊は大日如来にくらべると「無明の辺域」と卑下します。この流れの正覚房覚鑁は『舎利講式』に、法華経は大日経の履き物取りにも及ばず、釈尊は大日如来の牛飼いにも及ばないと書きました。この邪見の根源は弘法の狂言にあると指摘します。
「所詮此等狂言弘法大師起於望後作戲論之悪口歟。教主釈尊・多宝・十方諸仏以法華経相対已今当之諸説定皆是真実。(中略)弘法所覧之真言経之中悔還於三説之文有之不。弘法既不出之。末学之智如何。而弘法大師一人 法華経相対華厳・大日之二経 為於戲論盜人。所詮釈尊多宝以十方諸仏称与盜人歟。末学等閉眼案之」(九〇六頁)
法華経は教主釈尊・多宝仏・十方諸仏が、爾前経と法華経をくらべて「已今当の三説」の中の真実の教であることを知らずにいること、そして、弘法大師が三説超過の法華経に対して、自分の謬りの見解であったとのべず,法華経と釈尊を戯論の経、盗人としていることの当否を眼を閉じて案ずるようにとのべます 次に、最後の一二番問答に入ります。ここでは、弘法大師のような高僧にたいして、日蓮聖人のような暴言を聞いたことがなく、日蓮聖人のような愚僧の言うことは信じられないという意見を出します。このようなのべ方は随所に見られます。『顕仏未来記』には法華経の行者とのべたことに「大慢の法師」(七四一頁)であるという反論をし、逆に先入観に捕らわれず正当な判断を勧めます。「法四依」はその典型的な教えです。本書はその「依法不依人」のように、偽りの言葉よりも如来の金言を知るべきであるとのべます。『涅槃経』には釈尊でさえも自分の説法に不審があれば用いてはならないという文を引き、日蓮聖人は釈尊の遺誡に基づき誤った解釈を糺しているに過ぎないとのべます。その先例に天台大師が光宅寺法雲の涅槃経第一の邪義を糺し、伝教大師が慈恩大師窺基と得一の一乗方便三乗真実の邪義を糺したことを挙げます。『守護国家論』(一三〇頁)(『顕謗法抄』二五七頁)などにのべていました。日蓮聖人はすでに法然の捨閉閣抛の邪義を糾明し、これにより『選択集』を捨て法華経に入信した者がいることをのべ、現在は善無畏や弘法大師が立てた真言宗の邪義を糾明しているとのべ、日蓮聖人が先駆者であることを標榜しています。 先師が内鑑冷然として正像に弘められなかった肝要の秘法は何か、それは法華経の文に的確に説かれているとのべます。それを生まれながらに知っている者や、師匠から教えられる者、あるいは全く信じない者がいるが、少しでも聞こうとする者のために教え諭すとのべます。『大集経』の「五五百歳」のうち、前の正藏四五百歳は釈尊の記文が符合したから、末法の闘諍言訟・白法穏没も符合する可能性は強くなります。また、薬王品の「我滅度後後五百歳中広宣流布於閻浮提」の文を見るなら、今、蒙古が襲来して合戦しているのは、闘諍言訟が符合した証拠となり、日本こそが弘通される国ということになります。そこで、日本がその法華有縁の広宣流布の土地であることを、弥勒(慈氏)菩薩の『瑜伽師地論』(現行にはなく安然和尚の『菩提心義』巻二にある)、肇公(僧肇)の『法華翻経後記』を見たときに感悦したとのべます
「肇公之翻経記云 大師須梨耶蘇摩左手持法華経右手摩鳩摩羅什頂授与云 仏日西入遺耀将及東。此経典有縁於東北。汝慎伝弘[云云]。予拝見此記文両眼如滝一身遍悦」(九〇八頁) この肇公は羅什門家の四哲の一人です。羅什は師の須利耶蘇摩(すりやそま)から法華経を授けられたときに、この法華経は東北の国に縁がある大事な経典なので、慎んで弘めるようにと訓戒され法華経を翻訳したというエピソードが書かれています。日蓮聖人はこの法華経が日本に有縁の経典であることに感銘されたのです。また、遵式(慈雲大師)の『天台別宗』、伝教大師の『法華秀句』巻下・『守護国界章』巻上の文を挙げて立証します。この引用は『顕仏未来記』において三国四師(七四三頁)をのべたときにも用いていました。そして、第三段に入り習学の大切さと、学ぶためには書籍を蒐集しなければならないと、経論釈などの典籍を身延山に送るように依頼します。 「予 倩案事之情 大師於薬王菩薩侍於霊山会上仏上行菩薩出現之時兼記之故粗喩之歟。而予非地涌一分 兼知此事。故前立地涌之大士粗示五字」(九一〇頁) 法華経が日本に弘めるための経典であること、しかも、その末法に当たっていることをのべ、日蓮聖人は妙法五字をこれまで弘めたことをのべたのです。日蓮聖人はその上行菩薩であるという立証でもあります。そして、法華経を弘通するためには一代聖教を安置し、八宗の章疏を習学することが必要であるとのべ、日蓮聖人が所蔵されていた典籍の多くは、二度の流罪や度重なる迫害にて散逸したことを説明されます。 「然則予所持之聖教多々有之。雖然両度御勘気 衆度大難之時 或一巻二巻散失 或一字二字脱落 或魚魯謬悞或一部二部損朽。若黙止過一期之後弟子等定謬乱出来之基也。爰以愚身老耄已前欲糺調之。而如風聞者貴辺並大田金吾殿越中御所領之内並近辺寺々数多聖教等[云云]。両人共為大檀那 令成所願」(九一〇頁
と細かく散逸の状態を知らせています。弟子の教化にあたっても誤謬があってはならないと懇願します。蒐集依頼の遺文はほかに、『佐渡御書』『弁殿尼御前御書』『清澄寺大衆中』『弁殿御消息』『十住毘婆沙論尋出御書』『武蔵殿御消息』があります。(『日蓮聖人御遺文講義』第七巻三一〇頁)。曽谷教信氏と太田乗明氏は越中に所領があり、また近辺の大寺にも典籍が多数あると聞いたので、二人とも大檀越であるから日蓮聖人の願を叶えてほしいとのべます。檀越の勤めは仏法を永く伝えるための奉仕をすることが大事です。その前例として天台大師には毛喜(陳の宣帝に仕え軍事と政治を補佐した)という檀越がおり、毛喜のために六妙門を説いたと言われます。伝教大師には大伴国道(七八五~八二八年)がおり比叡山の別当と成っています。和気弘世は清麿呂の子で弟の真綱とともに、高雄寺にて南都六宗の碩学一四人を集め、伝教大師との対論(法華会)を計画した人です。ともに貢献のあったことをのべています。そして、檀越が仏法僧の三宝を外護する利益をのべ、法華謗法の罪報の福罪を説きます。 そして、法華経の行者は日本国に生まれていることを助証するため、行者には上品・中品・下品があることをのべます。 上品行者 大の七難が並び起き 中品行者 二十九難の内のどれかが起きる 下品行者 無量の難のうち一つが起きる 大の七難に七人があるがというのは、七人の勝れた行者を迫害したときに、七難が並び起きてくるということです。その第一の日月難にも五大難があります。それは、日月失度時節反逆・赤い太陽や黒い太陽が出る・二から五つの太陽が出る・日蝕に光がなく日輪が一重二三四五重の輪を現わす・二つの月が並び出るという現象が起きると言います。このなかで日本国を見ますと二つの日・二つの月が現れるという現象は起きていないが、ほかの大難はすでに現れているとして、この天変の亀鏡に日本国を写し見れば、必ず法華経大行者が出現していることと断定します。すなわち、日蓮聖人のことを示唆され、曽谷教信氏たちもその行者の一人であるとされたのです。そして、この大罪があることは、受持の者にも大福があるということをのべ、二人に強盛の信心を勧めます。このとき太田乗明氏は所領の北国(福島か富山)に滞在してようで、その太田氏にもこの書状を届け返事を待っているとのべ、蒐集依頼の重要性をのべて結んでいます。 本書は『観心本尊抄』と同じように太田氏・曽谷氏、そして、中山法華経寺に所蔵されていることからも富木常忍氏に宛てられた重要教義書といえます。『観心本尊抄副状』にのべているように『観心本尊抄』は「観心の法門」(七二一頁)をのべたものでした。そこに示されたのは本尊でした。本書はこの『観心本尊抄』を承けて法華経を弘通する「事行」(七一九頁)を「折伏逆化」の下種とされます。とくに、仏教弘通には規定があり、正像末の三時に限定があることを重ねてのべています。そして、末法の闘諍言訟・白法穏没の時代は本化上行菩薩に付属された要法でなければ、逆謗の人々を救済できないとのべ、その要法とは口伝にするとして日蓮聖人がその地涌の菩薩であることを立証されます。教学としては「序から師」への変化、本未有善の人に対しては「折伏逆化」の下種をすることを、正像末「五五百歳」の弘通規定を的確にのべ、五義(五綱)の論理を組み立てています。はたして、正像末弘通について詳細に示されたこと、そこに、日蓮聖人が末法弘通の重責をもった、本化上行菩薩であることを、徹底して説かれた真意は何だったのでしょうか。曽谷氏太田氏の学解の深さは、この後の建治元年とされる『観心本尊抄得意釥』に、迹門不読・爾前経引用についての疑問がなされています。
「抑今御状云教信御房観心本尊鈔未得等付文字迹門をよまじと疑心の候なる事、不相伝の僻見にて候歟。去文永年中に此書の相伝は整足して貴辺仁奉候しが、其通を以可有御教訓候。所詮、在在処処仁迹門を捨よと書て候事は、今我等が読所の迹門にては候はず。叡山天台宗の過時の迹を破候也。設如天台・伝教法のまゝありとも、今至末法者去年の暦如。何況自慈覚已来迷大小権実大謗法同をや。然間像法時の利益無之。増於末法耶。」(一一一九頁)
中山周辺の檀越たちにおいて、盛んに教義の解釈がなされていたことがわかります。日蓮聖人は文永初期ころから天台大師講を月例行事として開いています。(『富木殿御消息』四四〇頁。『金吾殿御返事』四五八頁)。ここでは主に『摩訶止観』の正観章を中心に講義されていたようです。(『十章抄』四八八頁)。この講義に富木氏、太田氏と曽谷教信氏も列席されていたことと思われ、相互に講義録を作成して学んでいたことと思います。日蓮聖人の一念三千や観心の全ては『観心本尊抄』に発表されます。本書はここでも爾前経引用の疑問に関わって、「教外得道」が問題とされています。『観心本尊抄』や『曽谷入道殿許御書』に示されたことでしたが解説をされています。
「一北方の能化難云、爾前の経をば未顕真実と乍捨、安国論には爾前経を引、文証とする事自語相違と不審事、前前申せし如し。総じて一代聖教を大仁分て為二。一大綱・二網目也。初の大綱者、成仏得道の教也。成仏教者法華経也。次網目者、法華已前諸経也。彼諸経等は不成仏教也。成仏得道文言雖説之但有名字其実義法華有之。伝教大師決権実論云権智所作唯有名無有実義[云云]。但於権教成仏得道の外説相不可空。為法華網目なるが故仁。所詮、成仏大綱を法華仁説之、其余の網目は衆典明。為法華網目なるが故仁法華の証文引之可用也。其上、法華経にて可有実義を、爾前の経仁して名字計のゝしる事、全為法華也。然間、尤法華の証文となるべし」(一一二〇頁)
一代聖教を大綱と網目の二面から解釈する方法があることをのべ、成仏得道の大網は法華経であるが、説相の綱目は爾前経にも説かれているので、法華経の実義の証文として用いるとのべます。建治二年の『曽谷殿御返事』には、迹門と本門とを合わせた法華経に境智一如があり、この境智とは南無妙法蓮華経であるとのべ、さらに、この題目を末法に上行菩薩に付属したのが「本化付属の法門」であるとのべます。
「法華以前の経は、境智各別にして、而も権教方便なるが故に成仏せず。今法華経にして境智一如なる間、開示悟入の四仏知見をさとりて成仏する也。此内証に声聞辟支仏更に及ばざるところを、次下に一切声聞辟支仏所不能知と説かるゝ也。此境智の二法は何物ぞ。但南無妙法蓮華経の五字也。此五字を地涌の大士を召出して結要付属せしめ給。是を本化付属の法門とは云也。然るに上行菩薩等末法の始の五百年に出生して、此境智の二法たる五字を弘めさせ給べしと見えたり」(一二五三頁) つまり、『曽谷入道殿許御書』にのべた、末法折伏下種に関わる解説は、引き続き曽谷氏たちになされていたことがわかるのです。その信心のあり方に、
「返々も本従たがへずして成仏せしめ給べし。釈尊は一切衆生の本従の師にて、而も主親の徳を備へ給。此法門を日蓮申故に、忠言耳に逆道理なるが故に、流罪せられ命にも及しなり。然どもいまだこりず候。法華経は種の如、仏はうへ(植)ての如、衆生は田の如なり。若此等の義をたがへさせ給はば日蓮も後生は助申まじく候」(一二五四頁)
という厳しい言葉が発せられたのでしょう。従兄弟の関係柄とも言えます。本書は真言教学との対決でした。台密批判は『撰時抄』『報恩抄』に詳細にのべられるようになります。これについては後述します。
□『曽谷入道殿御返事』(一七一) 同じく三月に曽谷氏に宛てた書状です。『録外御書』に冒頭に「法蓮房の慈父の十三年孝養の御返事に」とあることから、曽谷氏の父の十三回忌にあたり供養のため方便品の長行を書写して送られたものとされます。これより先に自我偈の書写したものが曽谷氏に与えられており、それに添えて読経するようにとのべています。日蓮聖人が写経をされて授与されていたことがわかります。また、法華経の文字は生身妙覚の仏であるが、それぞれの果報により見え方が違うとのべ、しかし、一々の文字は金色の釈尊であるから「即持仏身」であるとのべます。曽谷氏に対し異念を持たずに一心に霊山浄土を期すことのみを願い、「心の師とはなるとも心を師とせざれ」の『六波羅蜜経』(南本大経二六獅子品)の文を引き、委細は再会のおりに詳しくお話しすることを伝えています。 三月二三日に極楽寺の火災があり御所に飛び火しています。叡尊は文永一〇年二月と、この月に伊勢神宮に参詣しています。このとき良観は宋版の大般若経を船に乗せて奉納しています。これにより、伊勢が東西の律宗の中継地として、重要な役割をはたすようになります。(金沢文庫『蒙古襲来と鎌倉仏教』二〇頁)。 |
|