255.阿仏坊の身延登詣          高橋俊隆

○阿仏房の登詣

阿佛房が佐渡から二回目の登詣をしています。文永十一年に一回目の登詣をされています。(阿仏房身延登詣の弁)。この当時、佐渡を往復するのに二五日から三〇日の日数がかかったといいます(田中圭一著『日蓮と佐渡』一八頁)。老若男女の歩く早さの違いや、天候の状況で日数がかかったことも考えられます。また、佐渡の土産を背中にしての旅中は難義があったことと思われます。弘安元年七月に三回目の登詣をされたときは、七月六日に立ち二七日に身延に着き、片道に二一日間をかけています。九〇歳という高齢の阿仏房が日蓮聖人に面奉したい一心の旅路であったと思います。

身延山にいる日蓮聖人を慕って多くの檀越や信徒が往復するようになります。送られた供物にはご返事を書かれて法門を示され、幕府の状況や門下の統一など、さまざまに活動がなされていました。身延山に住まいしている弟子や関係者は、少ないときでも四十人、多い時には六十人いたと述べています。日蓮聖人における身延山は門弟の教育の場でもありました。鎌倉や房総、駿河などの各地に門弟を派遣し布教をし、身延に往復させて法門の談義や教義の確認をしています。弟子や檀越もふえ、身延山の日蓮聖人を中心に教団が確立していきました。日蓮聖人ご自身においては安穏な日々が続きました。しかし、在他にいる日蓮教団への弾圧は続いていました。

□『こう入道殿御返事』(一七二)

四月ころ、佐渡の国府入道が信徒として、はじめて身延山に日蓮聖人を尋ねました。妻からの供養として佐渡のあま海苔二袋、若布一〇帖、こも(小藻・海藻)一袋、それに、「たこひとかしら」を持参しました。この「たこ」とは、里見岸雄先生が指摘するように、「たけのこ」のことと思います。房州の方言で筍のことを「たこ」「たんこ」といい、「たこひとかしら」は「たけのこ一頭」と思われます。「芋の頭」「やつ頭」という用例に類しています。また、海にいる蛸ともいいます。「ひとかしら」という単位は徳川時代にも使われており、佐渡の北川の沿岸にあたる海府地方では「干し蛸」を作っていたといいます。日蓮聖人が食されたのか、信徒のために供養されたものかは分りません。(田中圭一著『日蓮と佐渡』一五二頁)。(『日蓮聖人全集』第六巻二四二頁)には干しだこ一頭とあります。あるいは霊芝ともいいます。(『日蓮聖人遺文全集講義』第一四巻二七五頁)。

一二日付け礼状には、国府夫妻が佐渡在島より今に至るまで、不退転の信仰をしていることを喜ばれています。

三徳具備の釈尊は国府夫妻にとって父親であるように、国府夫妻二人は日蓮聖人の両親であるという表現をされます。佐渡にての親密な関係がうかがえます。

「此法華経は信がたければ、仏、人の子となり、父母となり、め(妻)となりなんどしてこそ信ぜさせ給なれ。しかるに御子もをはせず、但をやばかりなり。其中衆生悉是吾子経文のごとくならば、教主釈尊は入道殿・尼御前の慈父ぞかし。日蓮は又御子にてあるべかりけるが、しばらく日本国の人をたすけんと中国に候か。宿善たうとく候。又蒙古国の日本にみだれ入る時はこれへ御わたりあるべし。又子息なき人なれは御としのすへには、これへとをぼしめすべし。いづくも定なし。仏になる事こそつゐのすみかにては候へとをもひ切せ給べ」(九一四頁)

国府夫妻には子供がいないことを心配して、蒙古の責めがあったときや、老後には身延に移り住むことをのべています。日蓮聖人は蒙古の脅威により身延山へ逃げたという意見がありました。ここに、蒙古の襲来が強まったときは身延山に来るようにとのべたのは、共に生き延びようということではなく、子供の心情として両親ともいえる国府夫妻に孝養を尽くしたいという心境をのべたのです。ですから、どこにいても無常は逃れられことであるから、法華経を信じて仏になることこそが大事であるとのべたと思います。

□『王舎城事』(一七三)

 四月一二日付けで四条金吾から金子一貫五百文を布施されたお礼と、鎌倉に極楽寺と御所に火事があった報告のなかに、信徒たちが無事であったことを喜ばれての御返事です。真蹟は身延曽存です。本書の系年に建治二年と、『境妙目録』の弘安元年説があります。極楽寺の炎上について『鎌倉市史』(寺社編一九四頁)によると、建治元年に堂舎が焼けた規模は小さいと思われます。建治二年には一月二〇日と一二月一五日に御所の火災がありました。両火房というのは極楽寺が焼けたのは二回あったということで、この極楽寺の火災と御所の火災は別の日にあったこととも思えます。

まず、火難についてふれ七難のうちの火難は、聖人が去るときと国王の福が尽きたときに起きるとのべます。昔のインドマカダ国(ラージギル)の都で七度の大火があり、民家は焼失したが王舎城という王宮だけは焼けなかった、それは、国王の福が尽きたのではなく国民の失が原因でした。賢人が民家を王舎と名付ければ、火神は怖れて焼くことはないと言ったことを実行したら、その後、火災はなくなったという故事を挙げます。本書の題号もこの故事によります。四条金吾からの知らせで御所が焼けたのは国王の福徳が尽き、日本国の果報も尽きる兆しであるとのべます。この原因は謗法の僧侶が正法を弘める日蓮聖人を降伏しようとしていることにあるとし、良観を名指しで両火房として批判します。これは鎌倉の火災の一つは極楽寺(地獄寺)で、もう一つは極楽寺から飛び火した御所の火災を指します。

 また、野原で飼っていた馬がいたようで、その馬に友引されて栗毛の馬を得ることができたので是非とも四条金吾に見せたいと伝えています。日蓮聖人は馬がことに好きなことは知られており、草庵の周りに野飼いしていたことがうかがえます。また、名越の尼の素行について多々聞いており、名越の尼が天台の理具の法門を自讃して説いていたのを、日蓮聖人の信徒が悉く破折したということを聞いていると伝えます。四条金吾の妻の信仰にふれ、祈りが叶わないのは信心が弱いためで法華経の失ではないと諭しています。

「又女房の御いのりの事。法華経をば疑ひまいらせ候はねども、御信心やよはくわたらせ給はんずらん。如法に信じたる様なる人人も、実にはさもなき事とも是にて見て候。それにも知しめされて候。まして女人の御心、風をばつなぐ(繋)ともとりがたし。御いのりの叶候はざらんは、弓のつよくしてつる(絃)よはく、太刀つるぎ(剣)にてつかう人の臆病なるやうにて候べし。あへて法華経の御とがにては候べからず」(九一六頁)

と、信心の浅深によって祈りの成不成があり、それは弓は強くてしっかりしていても、絃が弱ければ使い物にならないように、また、利剣であっても使う者が臆病ならば利剣を生かせないようなものであるとして、強い信心を勧めています。世間の道理では主に忠義を尽くし父母に逆らわないのが孝行であるが、こと法華経の信仰においては世間の道理とは違うことをのべます。

「一切の事は父母にそむき、国王にしたがはざれば、不孝の者にして天のせめをかうふる。ただし法華経のかたきになりぬれば、父母国主の事をも用ひざるが孝養ともなり、国の恩を報ずるにて候。されば日蓮は此経文を見候しかば、父母手をすり(擦)てせい(制)せしかども、師にて候し人かんだうせしかども、鎌倉殿の御勘気を二度までかほり、すでに頚となりしかども、ついにをそれずして候へば、今は日本国の人人も道理かと申へんもあるやらん。日本国に国主・父母・師匠の申事を用ずして、ついに天のたすけをかほる人は、日蓮より外は出しがたくや候はんずらん」(九一七頁)

と、日蓮聖人が立教開宗の意思を伝えたとき、父母は両手を擦り合わせて制止し、師匠の道善房から勘当までされ、しかも、国主からは二度の流罪と処刑にまで至ったけれど、信念を貫き通したことにより法華経を信仰する人も増えたという、自身の受難に対しての姿勢をのべます。このような日蓮聖人を諸天が守護している事実に、法華経の正義をのべています。この文章の筆致からしますと、四条金吾の妻が祈っていたのは夫金吾のことではないかと思われます。自身はこの年の一月に三三歳の厄除けの祈願をし(八五七頁)ていますが、三月の書状には金吾が「現世安穏後生善処」の文に疑念をもったことを日昭上人より聞きます(八九四頁)。本書に日蓮聖人自身の行者意識をのべ、父母国主に従わなくても孝養となり忠義になることをのべています。金吾に差し迫り緊迫した主君や同僚からの迫害、これを除去しようと祈願されていたことが第一の祈りと思います。そして、日蓮聖人を謗ることにより、これから蒙古の襲来を受けるのは諸天の計らいであるとし、これは、日蓮聖人は人々の父母として、また、師匠として人々を無間地獄から救済するための慈悲の心であるとします。

「日蓮法華経の行者にてあるなしは是にて御覧あるべし。かう申せば国主等は此法師のをど(威)すと思へるか。あへてにくみては申さず。大慈大悲の力、無間地獄の大苦を今生にけ(消)さしめんとなり。章安大師云 為彼除悪即是彼親等[云云]。かう申は国主の父母、一切衆生の師匠なり」(九一七頁)

 ここに、日蓮聖人は国主や謗法の僧を憎み脅して諫言するのではなく、一切衆生の「親」であり「師」としての慈悲心から発するとのべ、日蓮聖人の三徳をのべています。金吾夫妻の信心も同様であると諭されたのです。白米のような白い麦一駄と生姜(生薑)も供養されました。

 四月一五日に元の使いである社世中たちが長門の室津に着きます。(『関東評定衆伝』)。四月一六日に佐渡から阿佛房が二回目の身延山に詣でています。また、同じ四月一六日に『兄弟抄』を池上兄弟に送っています。池上康光は日昭の姉の夫で義兄になり宗仲・宗長は甥になるといいます。