|
□『兄弟抄』(一七四) 本書は建治二年四月の説が有力ですが、『定遺』ではその一年前の文永一二年四月一六日としています。岡元錬城先生は文永一二年説を提唱した、玄修院智英日明師(『新撰祖書目次』『定遺』二八二八頁)の根拠は不明とします。(岡元錬城著『日蓮聖人遺文研究』第二巻一三頁)。 真蹟は池上本門寺に二六紙一巻、ほか断片が妙伝寺・大鏡寺・妙法寺などに所蔵されています。当初の紙数は四三紙であったと推測されています。(岡元錬城著『日蓮聖人遺文研究』第二巻一五頁)。「きょうだい抄」「けいてい抄」「きょうてい抄」の読み方があります。池上宗仲の父左衛門尉康光は幕府の作事奉行として、池上千束の郷を知行していました。池上右衛門大夫志(たゆうさかん)宗仲と兵衛志宗長の兄弟も幕府に仕え、宗仲は正五位上太夫志、宗長は従五位下兵衛志に任じられていました。「たいふ」とは中国の周代の職名で卿(けい)の下、士の上になり、日本の律令制では一位から五位までの人の総称で五位の通称となっています。「さかん」は兵衛府・衛門府の第三等の官名で、長官・佐(すけ)・志の順になります。当時の鎌倉幕府の執権でも四位五位までで、池上氏の身分が高かったことがわかります。作事奉行は殿舎の造営や修理、土木などの工事を担当するので、慈善事業を進めていた良観とは親密な関係にあったと思われます。前にふれたように、宗仲・宗長の兄弟の父康光は、印東次郎祐昭の娘を娶っています。つまり、康光は日昭上人の義兄になり、池上兄弟は甥になります。この関係から宗仲と宗長は鎌倉開教の初期(建長八年ころ)から日蓮聖人に帰依していたといいます。父は極楽寺良観の熱心な信者であったため宗仲と信仰上の対立があり、宗仲を勘当したことに端を発して父と宗仲・宗長兄弟の信仰をめぐる問題が起きました。この背後には良観の策謀がありました。家督を相続することは社会的にも経済的にも基盤を築くことであり、宗長は人情から父に就く気配がありました。日蓮聖人は兄弟とその夫人に対し、共に強い信仰をもってこの難局を解決するように説いたのが『兄弟抄』です。 冒頭に『法華経』は八万法蔵の肝心であり、諸経と比べれば大日輪と星月のように勝劣・高下があるとのべ、『法華経』が勝れている証文である「二十の大事」のなかで「「三五の二法」(『法華取要抄』八一一頁)についてのべます。三五を経歴したのは、まず、悪縁により退転したことを示します。『開目抄』にも「悪知識」(六〇一頁)により法華経を捨て地獄の業を作ったとのべていました。ここでは法華経謗法の罪に視点が当てられており、大通仏の三千塵点の喩を引いて、父母を殺す五逆罪よりも重く無間地獄に堕ちることを説いています。 「法華経をすつる人は、すつる時はさしも父母を殺なんどのやうに、をびただしくはみへ候はねども、無間地獄に堕は多劫を経候。設父母を一人二人十人百人千人万人十万人百万人億万人なんど殺て候とも、いかんが三千塵点をば経候べき。一仏二仏十仏百仏千仏万仏乃至億万仏を殺たりとも、いかんが五百塵点劫をば経候べき。しかるに法華経をすて候けるつみによりて、三周の声聞が三千塵点劫を経、諸大菩薩の五百塵点劫を経候けることをびただしくをぼへ候」(九二〇頁) また、この罪の軽重は所対(相手)によって異なることを説きます。『法華経』は一切の諸仏の眼目であり、教主釈尊の本師であるから、一字一文でもこれを捨てるならば父母を殺す罪よりも過ぎ、仏身に傷をつける出仏身血にも越えるとのべています。つまり、釈尊の金言である法華経を捨てる罪業を説いているのです。 次に、妙荘厳王品の「盲亀浮木」(もうきふぼく)「仏難得値、如優曇波羅華、又如一眼之亀、値浮木孔、而我等宿福深厚、生値仏法」の譬えによせて、『法華経』を真実のままに説く法華経の行者に値うことは難しいとのべます。慈恩大師は『華厳経』と『法華経』は同格と褒めたが、かえって『法華経』の実理を失わせたと伝教大師から批判されます。善無畏も最初は『法華経』を信じたが、後に『大日経』を勝れる経として『法華経』をおろそかに解釈した罪をあげます。舎利弗や目連が三五の塵点を経たのは、この悪知識を信じて法華経を捨て他経に移ったためであるとし、法華信者が当時において最も恐れるものは強盗や虎、蒙古の襲撃ではなく、法華経の行者を悩ます人々であるとのべます。つまり、国主や良観などの三類の強敵が亡国と堕獄の元凶であるとのべています。 そして、「第六天の魔王」についてふれます。「第六天の魔王」は欲界の六重にある天の最上に住しています。『法蓮鈔』に、 「第六天の魔王は欲界の頂に居して三界を領す。此は上品の十善戒・無遮の大善の所感なり。大梵天王は三界の天尊、色界の頂に居して魔王・帝釈をしたがへ、三千大千界を手ににぎる」(九三八頁) と、「第六天の魔王」にふれており、本書において、この欲界は第六天の魔王の所領で一切衆生は無始いらい魔王の眷属であるから、法華経を信じる者を悪道に落とそうとしているとのべます。 「此世界は第六天の魔王の所領なり。一切衆生は無始已来彼魔王の眷属なり。六道の中に二十五有と申ろうをかまへて一切衆生を入のみならず、妻子と申ほだしをうち、父母主君と申あみをそらにはり、貪・瞋・癡の酒をのませて仏性の本心をたぼらかす。但あく(悪)のさかな(肴)のみをすゝめて三悪道の大地に伏臥せしむ。たまたま善の心あれば障碍をなす。法華経を信ずる人をばいかにもして悪へ堕とをもうに、叶ざればやうやくすか(賺)さんがために相似せる華厳経へをとしつ。杜順・智儼・法蔵・澄観等これなり。又般若経へをとしつ、嘉祥・僧詮等これなり。又深密経へ墮つ。玄奘・慈恩此なり。又大日経へ堕つ、善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智勝等これなり。又禅宗へ墮。達磨・慧可等是也。又観経へすかしをとす悪友は、善導・法然是也。此は第六天の魔王が智者の身に入て善人をたぼらかす也。法華経第五巻に悪鬼入其身と説れて候は是也。設ひ等覚の菩薩なれども元品の無明と申す大悪鬼身に入て、法華経と申妙覚の功徳を障へ候也。何況其已下の人人にをいてをや」(九二二頁) 魔というものは自己の六道において、正法を行おうとしたときに邪魔をする煩悩であり、その正法を行じていくと危害を加える外的な迫害者を言います。仏道を妨げる存在です。過去の高僧と言われた善無畏などの各宗の祖師たちは、勧持品に「悪鬼入其身」と説かれたように、魔王の眷属となり善人を誑惑したとのべます。等覚の位まで到達した菩薩でさえも、この元品(根本)の無明という最後の大悪鬼・死魔が心中に入り、障礙をなすのであるから、まして凡夫においては耐えがたい修行となります。つづいて、今の池上氏の現状にあたり、 「又第六天の魔王或は妻子の身に入て親や夫をたぼらかし、或は国王の身に入て法華経の行者ををどし、或は父母の身に入て孝養の子をせむる事あり」(九二三頁) と、自己以外では妻子や主君などによる迫害こそが、第六天の魔王の所作なのです。妻や夫、父母に魔が入り法華経の信心を破ろうとすることを教えます。その例として、始めに悉達太子が出家を志したときに、妻の耶輸多羅妃には羅睺羅を懐妊されたので、父王の浄飯王はこの子が生れてから出家するように諫められたところ、魔王は太子を胎内に六年間押さえ込まれたと言います(『大智度論』)。舎利弗は昔、禅多羅仏の末法のときに、菩薩の修行をして六十劫となり、あとを四十劫にて百劫になるところを、第六天の魔王は舎利弗が菩薩の行を成就すると自分の身が危ないので、婆羅門の姿に化けて眼を求めます。舎利弗は菩薩行のため一眼を与えますと、婆羅門はその眼を地に投げ捨て踏みにじります。これを見た舎利弗は怒りのため退転します。『開目抄』には「身子が六十劫菩薩行を退せし、乞眼の婆羅門の責を堪ざるゆへ」(六〇一頁)とのべ、これを「悪知識」とされています。舎利弗はこれ以降、退転の心が出来て無量劫のあいだ無間地獄に墮ちたとのべます。また、大荘厳仏の末法に六八〇億の檀那は、苦岸比丘らの四比丘に騙されて、真実を説く普事比丘を迫害して永いあいだ無間地獄に堕ちたこと。一切明仏(獅子音王仏)の末法のとき、勝意比丘を持戒の僧を敬い、真実を説く喜根比丘を嘲笑して誹謗したため、無量劫のあいだ間地獄に堕ちたという実例を示します。日蓮聖人を始め弟子信徒はこの第六天の魔王の大難に対峙しているとのべて、強固な信心を覚醒しているのです。 日蓮聖人はこの事例を門家にあてはめ、法華経に「如来現在猶多怨嫉況滅度後」「一切世間多怨難信」と説かれているのは、今の教団の現状であることを力説します。つまり、日蓮聖人門家は正法を正しく弘通しているという証が受難とみるのです。そして、『涅槃経』の文を引き、護法の功徳力(転重軽受法門)をのべます。このことは『開目抄』(六〇二頁。『佐渡御書』六一六頁)に詳しくのべていたことです。『涅槃経』の梵行品に「横羅死殃呵嘖・罵辱・鞭杖・閉繋・飢餓・困苦受如是等現世軽報不堕地獄」とあり、『般泥洹経』四依品に「衣服不足飲食麁疎求財不利生貧賎家及邪見家 或遭王難及余種種人間苦報現世軽受斯由護法功徳力故」とある文を引き、池上氏はこの経文に説かれていることを如実に色読していると指摘します。 「この経文に過去の誹謗によりてやうやう(様々)の果報をうくるなかに、或は貧家に生、或は邪見の家に生、或は王難に値等[云云]。この中に邪見の家と申は誹謗正法の父母の家なり。王難等申は悪王に生あうなり。此二の大難は各々の身に当ておぼへつべし。過去の謗法の罪滅とて邪見の父母にせめられさせ給。又法華経の行者をあだむ国主にあへり。経文明々たり、経文赫々たり。我身は過去に謗法の者なりける事疑給ことなかれ。此を疑て現世の軽苦忍がたくて、慈父のせめに随て存外に法華経をすつるよしあるならば、我身地獄に墮のみならず、悲母も慈父も大阿鼻地獄墮てともにかなしまん事疑なかるべし。大道心と申はこれなり。各々随分に法華経を信ぜられつるゆへに、過去の重罪をせめいだし給て候。たとへば鉄をよくよくきたへばきずのあらわるるがごとし。石はやけばはいとなる。金はやけば真金となる。此度こそまことの御信用はあらわれて、法華経の十羅刹も守護せさせ給べきにて候らめ。雪山童子の前に現ぜし羅刹は帝釈なり。尸毘王のはとは毘沙門天ぞかし。十羅刹心み給がために父母の身に入せ給てせめ給こともやあるらん。それにつけても心あさからん事は後悔あるべし」(九二四頁) 値難は自己にとっては過去の謗法の報いであり、しかもこれが滅罪になるという意識が日蓮聖人にはあり、その根拠は『般泥洹経』の「護法功徳力」でした。本書も過去の謗法と滅罪観にふれています。池上氏に対し『般泥洹経』に説く「邪見の家に生まれ」とは、法華経を誹謗する父母の家のことで、池上氏も過去に謗法の罪があることは疑いのないことであるから父の責めに負けないようにのべます。もし法華経を捨てるようなことがあれば自身のみならず父母も阿鼻地獄に堕ちることになるとのべます。大道心をもって法華経を信じ、この護法の功徳によって過去の重罪を顕し消滅することを勧め、十羅刹女の守護をのべています。前車が覆るのは後車の戒めという『漢書』『周書異記』の喩えを挙げて、前人が堕獄したことを戒めにするようとのべます。さらに、文永九年の二月騒動にて時輔が滅んだことは、盛りの花が大風に枝から折れ、清絹(すずし)という生糸で織った夏の軽く薄い衣が大火で一瞬に燃え消えてしまうように、誰もがこの世の中を儚んでいる時輔の乱や、文永一一年の蒙古襲来は国主が法華経の敵となっているから起こる災害で、この原因は持斎・念仏・真言師などの謗法が原因であることを指摘して、忍耐をもって信心に励み法華経の利生を試みるようにのべます。とくに女性は心が弱いので退転することもあるとのべ、日蓮聖人自身が平頼綱の眼前にても恐れずに法華経を説いたように、また、和田義盛の子供や三浦泰村一族、将門、貞当らの家来のように、恥を思い命を惜しまずに、今回の父との件について対処するようにのべています。さらに、白夷と叔齋の故事を引きます。長男の伯夷は父親の遺言に従って三男の叔斉に王位を継がせようとしますが、叔斉は兄を立て辞退します。伯夷は国を出て他国に逃れたのを見て叔斉も兄の跡とを追い次男が王になります。流浪の身となった兄弟は周の文王のところに向かいますが、息子の武王が王位を継ぎ呂尚を軍師に立て、紂王を滅ぼすため殷に向かう途中でした。殷の紂王は妲己(だっき)という淫女を寵愛し、炮烙の刑に見られるような暴虐を尽くします。これを見かねた叔父の比干が命をかけてこれを諫めた故事の引用も遺文に多くみられます。二人は父王が死んで間もないのに戦をするのは孝ではない、主の紂王を討つのは仁でないと諌めます。武王が周王朝を立てると兄弟は周の粟を食べる事を恥として国から離れ首陽山に隠棲して山菜を食べて暮らします。王麻子の言葉によりこの兄弟は餓死するのですが、日蓮聖人は次のようなことをのべます。(『史記』列伝)。 「天は賢人をすて給ぬならひなれば、天白鹿と現じて乳をもつて二人をやしなひき。叔せいが云、此白鹿の乳をのむだにもうまし、まして肉をくわんといゐしかば、白ひせいせしかども天これをききて来らず。二人うへて死ににき」(九二七頁) つまり、天は賢人を守るというように、白鹿となって乳を与えましたが、叔斉は思わず鹿の肉を食べれば美味しいだろうと口をすべらします。伯夷はあわてて失言を制しますが、その後、白鹿は現れず二人とも餓死したのです。高名な隠者で儒教では聖人とされても、一言に身を滅ぼすことがあることを教えます。日蓮聖人は弟の宗長に親子の信仰問題にあたって、動揺して誘惑に負けたなら、その行く末は堕獄という結末を迎えることを危惧されたのです。また、釈尊が太子のときに親に従わずに出家したが、仏になって誠の恩を報じ孝養となったことをのべ、世間においても謀反を起こす父母に従わないのが孝養となることをのべます。また、池上兄弟のために類例を挙げます。応神天皇の二人の子供にふれます。王は二人の王子のうち弟の宇治皇子(菟道稚郎子うじのわきいらつこ)に譲位しましたが、嫡子(いろえのみこ)である兄の仁徳皇子と互いに皇位を譲り合います。三年ののち空位が続きましたが、宇治皇子は仁徳天皇に皇位を譲るために自殺したため、兄の仁徳に継がせて国が穏やかになった故事に、薬王・薬上の父王を改心させたことを重ねあわせます。これは兄弟の信頼により国が平和になり、外国にも威信が知れ渡ったことをのべています。そして、兄の宗仲が勘当され今度は弟の宗長は兄に造反すると思っていたが、使いの鶴王が言うには兄と同じく法華経の信仰をされたことを喜ばれています。父の康光は弟の宗長を寵愛していたようで、宗長も父に背くことができず兄のかわりに家督を継ぐ可能性が強かったのです。 次に、施鹿林の隠士が風雲に乗って仙宮に行く仙術を得ようとしますが、最後に魔に魅入られて成就しなかった故事を引きます。このような外道の法であっても四魔が競って成し難いのであるから、まして法華経の極理である南無妙法蓮華経の題目を、始めて日本に弘通する行者の弟子や檀越にも、四魔が競うことは当然のこととのべます。ゆえに、強い信仰心をもって大難に立ち向かう心構えを説いています。そこで、仏道修行を妨げる魔障についてふれます。これについて天台の『摩訶止観』をあげ、そのなかでも一念三千の法門を説くときには「三障四魔」が必ず行者を迫害することをのべます。 「其上摩訶止観の第五巻の一念三千は、今一重立入たる法門ぞかし。此法門を申には必魔出来すべし。魔競はずは正法と知るべからず。第五巻云 行解既勤三障四魔紛然競起乃至不可随不可畏随之将人向悪道畏之妨修正法等[云云]。此釈は日蓮が身に当るのみならず、門家の明鏡也。謹て習伝て未来の資糧とせよ」(九三一頁) と、ここには「三障四魔」を明鏡として、門下の信条としなければならないとのべています。値難は行者である証拠なのです。自身の鏡に映しだされた真実なのです。佐渡にての『開目抄』に、 「日本国に此をしれる者、但日蓮一人なり。これを一言も申出すならば父母・兄弟・師匠国主王難必来べし。いわずば慈悲なきににたりと思惟するに、法華経・涅槃経等に此二辺を合見るに、いわずわ今生は事なくとも、後生は必無間地獄に堕べし。いうならば三障四魔必競起るべしとし(知)ぬ。二辺の中にはいうべし。王難等出来の時は退転すべくは一度に思止べし、と且やすらい(休)し程に、宝塔品の六難九易これなり。我等程の小力の者須弥山はなぐとも、我等程の無通の者乾草を負て劫火にはやけずとも、我等程の無智の者恒沙の経々をばよみをぼうとも、法華経は一句一偈末代に持がたしと、とかるゝはこれなるべし。今度強盛の菩提心ををこして退転せじと願しぬ」(五五六頁) とのべているように、「三障四魔競起」「六難九易」の必然性は、立教開宗を決意するときの日蓮聖人の信念でもあり、仏教者として備えなければならない菩提心であったのです。(拙著「日蓮聖人に於ける三障四魔の一考察」」『日蓮教学とその周辺』所収)。宗仲・宗長の二人の兄弟はさきの隠士と烈士のように力を合わせ、また、この二人の妻に対し夫と一体となって信仰を貫き末代の女人成仏の手本となるようにとのべ、そうするならば二聖二天十羅刹女に申して必ず来世には成仏させると約束しています。 この頃になると日蓮聖人の教えが信じられるようになっており、それは、蒙古襲来の予言が的中したことにありました。竜口法難で退転した信者たちも後悔していることをのべ、これから信者ができても最初から信仰をしてきた池上氏たちには代えがたい胸中をのべます。それほど日蓮聖人にとって大切な檀越であったことがわかります。池上氏たちのように初期の信徒のなかにも、退転しただけではなく逆に教団に対し攻撃的に謗る者がいることをのべています。これらは釈尊在世の阿闍世王のように無間地獄に堕ちるであろうとのべ、末文に本書を宗長に渡すので兄嫁や宗長の妻にも、不退の信仰を諭されるようにとのべています。この書状は弟の兵衛志宗長に送りますが、兄嫁や自分の妻にもこの内容を読み聞かせるようにとのべ擱筆されます。日蓮聖人が身延に入ってからも、教団への執拗な妨害工作がなされていたことがわかります。とくに良観は自分の信徒や事業主の権限を駆使していました。父親へ圧を加え宗仲を勘当に追いやったのもその例です。また、もと信徒であった者の中には、さらに増して誹謗中傷する者がいたとのべています。それは、釈尊在世の善星比丘と同じように、無間地獄に堕すことは釈尊にも叶わない自業自得のことであるとのべ、念をおして退転のないことを綴っています。四月二五日に建治と元号がかわります。 □『法蓮鈔』(一七五) 四月頃(二五日)に下総の曽谷二郎法蓮氏に宛てた書状です。曽谷氏の父親の一三回忌にあたり『法華経』五部を転読し、供養の品を送られて追善供養の依頼を書いた諷誦文を捧げことに答えた返書です。真蹟一八紙は身延曽存で、断片が本国寺など三箇所に所蔵されています。 冒頭に一刧という永いあいだ仏を罵る罪よりも、法華経の行者を毀謗することの罪が大きいことを示されます。まず、法師品の「若有悪人以不善心於一劫中現於仏前常毀罵仏 其罪尚軽。若人以一悪言毀訾在家出家読誦法華経者 其罪甚重」と、妙楽の「妙楽大師云 然約此経功高理絶得作此説。余経不然等」の文を引き法華誹謗の罪についてふれます。そして、提婆達多の大罪と堕獄を詳しく説明して、末代に法華経の行者を「罵詈・毀辱・嫉妬・打擲・讒死・歿死」(九三七頁)する者は、提婆達多を越えるほどの大罪を受けることを示します。この大罪は譬喩品によれば阿鼻獄に堕獄するのであり無間地獄に堕ちるとのべます。次に、その無間地獄について説明され、経証として譬喩品と法師品を挙げ解釈をされます。 譬喩品 見有読誦書持経者軽賎憎嫉而懐結恨。乃至其人命終入阿鼻獄。具足一劫劫尽復死展転至無数劫 「此大地の下五百由旬を過て炎魔王宮あり。其炎魔王宮より下一千五百由旬が間に、八大地獄並に一百三十六地獄あり。其中に一百二十八の地獄は軽罪の者の住処、八大地獄は重罪の者の住処なり。八大地獄の中に七大地獄は十悪の者の住処。第八の無間地獄は五逆と不孝と誹謗との三人の住処也。今法華経の末代の行者を戲論にも罵詈誹謗せん人人はおつべしと説給へる文なり」(九三七頁) とこの大地の五百由旬の下に炎魔王のいる宮殿があり、この宮殿の下の一千五百由旬の所に一三六の地獄があるとし、そのうちの一二八の地獄は罪の軽い者、八大地獄は重罪の者が行く所で、しかも、第八番目の無間地獄は 五逆と不孝と誹謗の者が堕す所とのべます。いかに、信徒たちが悪口され罵詈されていたのでしょうか。この八大地獄・無間地獄については、弘長二年伊東にての『顕謗法鈔』(二四七頁)に詳しくのべています。 法師品 有人求仏道而於一劫中乃至歎美持経者其福復過彼等 妙楽大師云 「若悩乱者 頭破七分 有供養者福過十号等」 と、説かれた文を引き、末代の法華経の行者を讃め供養する功徳は、一劫という長い間、仏を供養する功徳よりも勝れているとのべ、妙楽はこれを「福過十号」と釈したとのべます。この福過十号についての説明をされます。転輪聖王の力は十善を修行して得た果報であり、四大天王・帝釈・第六天の魔王は上品の十善戒と、差別のない無遮の善根を施したこと、三界の主である大梵天は魔王や帝釈天を従え、三千大千世界を掌握する力を持っているのは、煩悩を断尽し慈悲喜捨の四無量心を修行した功徳であることをのべます。そして、声聞・縁覚・菩薩のそれぞれの福徳を示し、釈尊は円教の四十二品の無明を断じ妙覚の仏であり、釈尊が三十二相を具足し十号を称せられた徳行を示します。その一例を、 「仏と申は上の諸人には百千万億倍すぐれさせ給へる大人也。仏には必三十二相あり。其相と申は梵音声・無見頂相・肉髻相・白毫相・乃至千輻輪相等也。此三十二相の中の一相をば百福を以て成じ給へり。百福と申は、仮令大医ありて日本国・漢土・五天竺・十六の大国・五百の中国・十千の小国、乃至一閻浮提・四天下・六欲天・乃至三千大千世界の一切衆生の眼の盲たるを、本の如く一時に開たらんほどの大功徳を一の福として、此福百をかさねて候はんを以て三十二相の中の一相を成ぜり。されば此一相の功徳は三千大千世界の草木の数よりも多、四天下の雨の足よりもすぎたり」(九三九頁) と一相百福の大きな徳があることを示されます。かつ、人を怨まない慈悲の例を、悪逆非道の阿闍世王が改悔をしたとき、悪瘡の病をのぞき四十年の寿命を延ばしたこと。その大臣である耆婆も釈尊の命令に従って火中から膽婆長者の男子を救ったことを挙げ、このような尊い仏であるから、たとえ一度だけでも仏を供養したなら、悪人でも女人でも成仏は疑いないとのべます。提婆達多は釈尊より足の火傷を治癒してもらいながらも改悔せず、かえって魔術であると妄言を放っても、釈尊は怨むことなく一度でも信じた者を見捨てることはないとのべます。このことは、日蓮聖人自身の離檀者への思いであり、弟子や信徒に教訓されたことと思われます。このように尊い仏であるから木画の二像を造って祀ります。優填大王が牛頭栴檀にて五尺の木像として祀ったとき、釈尊が刀利天より戻ると席を立って歩いたといいます。釈尊はこの木像の頭頂をなでて来世の教化を付属されたとあります。迦葉摩謄が描いた画像は一切経を説かれたといいます。この出典は不明です。後漢の明帝のときに竺法蘭と中国に仏教を伝えました。日蓮聖人は釈尊がこのように尊い仏であることを挙げ、釈迦仏を供養する功徳がいかに大きいかを示し、さらに、その仏を永いあいだ渇仰し供養しても、末法の法華経の行者を供養することのほうが功徳が大きいとのべます。このことを妙楽大師は福過十号と解釈されたとのべます。 「是程に貴き教主釈尊を一時二時ならず、一日二日ならず、一劫が間掌を合せ両眼を仏の御顔にあて、頭を低て他事を捨て、頭の火を消さんと欲するが如く、渇して水ををもひ、飢て食を思がごとく、無間供養し奉る功徳よりも、戲論に一言継母の継子をほむるが如く、心ざしなくとも末代の法華経の行者を讃供養せん功徳は、彼三業相応の信心にて、一劫が間生身の仏を供養し奉るには、百千万億倍すぐべしと説給て候。これを妙楽大師は福過十号とは書れて候なり。十号と申は仏の十の御名なり。十号を供養せんよりも、末代の法華経の行者を供養せん功徳は勝とかかれたり。妙楽大師は法華経の一切経に勝たる事を二十あつむる其一也」(九四一頁) この福過十号という教えは、妙楽大師が法華経が他経よりも勝れている証拠として挙げた二十のうちの一つであるとのべます。これは、『法華文句記』(巻四下)に説いた十双歎(じっそうたん)のことです。 十双歎 「今義に依り文に附するに略して十双有り以って異相を弁ず。二乗に近記を与え、如来の遠本(おんぽん)を開く。随喜は第五十の人を歎じ、聞益は一生補処(ふしょ)に至る。釈迦は五逆調達を指して本師と為し、文殊は八歳の竜女を以って所化と為す。凡(およ)そ一句を聞くにも咸(ことごと)く綬記を与う。経名(きょうみょう)を守護するに功(こう)量(はか)るべからず。品を聞いて受持するは永く女質を辞し、若(も)し聞いて読誦するは不老不死なり。五種法師は現に相似を獲(え)、四安楽行は夢に銅輪に入る。若し悩乱する者は頭(こうべ)七分(しちぶん)に破れ、供養することある者は福十号に過ぎたり。況や已今当の説は一代に絶えたる所と、其の教法を歎(たん)ずるに七喩を以って称揚す。地より湧出せるをば、阿逸多一人をも識らず、東方の蓮華は竜尊王未だ相本を知らず。況や迹化には三千の塵点を挙げ、本成(ほんじょう)には五百の微塵に喩えたり。本迹の事の希なる諸経に説かず。斯くの如き等の文、経に準ずるに仍(なお)あり」 一 二乗に近記を与え (方便品~人記品) 如来の遠本を開く (如来寿量品) 二 随喜は第五十の人を歎じ (随喜功徳品) 聞益は一生補処に至る (分別功徳品) 三 釈迦は五逆調達を指して本師と為し (提婆達多品) 文殊は八歳の竜女を以って所化と為す (提婆達多品) 四 凡そ一句を聞くにも咸く綬記を与う (法師品) 経名を守護するに功量るべからず (法師品) 五 品を聞いて受持するは永く女質を辞し (陀羅尼品 若し聞いて読誦するは不老不死なり (薬王品) 六 五種法師は現に相似を獲(え) (法師功徳品) 四安楽行は夢に銅輪に入る (安楽行品) 七 若し悩乱する者は頭七分に破れ (陀羅尼品) 供養することある者は福十号に過ぎたり (法師品) 八 況や已今当の説は一代に絶えたる所 (法師品) 其の教法を歎ずるに七喩を以って称揚す (薬王品) 九 地より湧出せるをば阿逸多一人をも識らず (従地涌出品) 東方の蓮華は竜尊王未だ相本を知らず (妙音菩薩品) 十 況や迹化には三千の塵点を挙げ (化城喩品) 本成には五百の微塵に喩えたり (如来寿量品) 『法華取要抄』の「今法華経与相対諸経超過一代廿種有之。其中最要有二。所謂三五二法也」(八一一頁)とのべた、三五塵点についてはのべましたが、『開目抄』に「但此経に二十の大事あり」(五三九頁)とのべた文は本迹・教観の視点から取り上げていました。ここでは、七番目の福過十号を引いたのです。そして、この「二つの法門」である「毀者得罪」「供者得福」は、信じがたいことであるとのべます。 一 譬喩品 法華経の行者を謗る者は無間地獄に堕ちる 二 法師品 法華経の行者を讃歎する者は仏を供養するにも過ぎた功徳がある つまり、仏を供養するよりも、凡夫を供養するほうが勝れた功徳を得るということです。これは、日蓮聖人を供養する功徳、門家の信徒と異体同心して信仰していく功徳をのべたのです。末法という白法隠没の状況において、法華経を信仰することが、いかに大事なことであるかを示されたのです。しかし、これらのことは信じ難いことであろうとして実例を挙げます。釈尊は八〇歳のとき予言されたように二月一五日に涅槃され、当時の人々は釈尊の言葉は真実であると信心したこと、釈尊が未来の予言として滅後百年すると阿育大王が生まれて、釈尊の舎利を供養する仏塔を建てること、また、滅後四百年に迦貳色迦王が生まれて、大勢の僧侶を集めて『毘婆沙論』を造ると預言します。この預言は実語となり、仏の記文は信じられたという実話を示されます。近い現証を引くので、遠いことである信心を持ちなさい(九四二頁)ということでした。釈尊が予言した仏記はすべて実語であることをのべ、もし以上の二つの法門が妄語ならば、過去の五百塵点の久遠実成の釈尊のことや、未来に舎利弗が華光如来となり、迦葉尊者が光明如来となる授記も信じられないことであろうとのべます。 そして、曽谷教信氏の孝養心にふれます。曽谷法蓮が父の十三回忌に至るまで、かかさず自我偈を読誦し回向してきたことに対し、法華経による追善の孝養と成仏が疑いのないことを、「今此三界皆是我有」の文を引き説明しています。そして、唐代の『法華伝記』烏龍(おりょう)と遺龍(いりょう)の親子の故事を挙げて書写の功徳を示します。子供の善行は親に良い影響を与えるということです。曽谷氏の読誦はそれよりも、無量無辺という勝れた功徳であるとのべています。また、「今の法華経の文字は皆生身の仏なり」(九五〇頁)と、読経の功徳は、父の聖霊に届き誠の孝養となるとのべます。 次に、法華経を受持するには「時」によってさまざまに変わることをのべます。法華経の信仰のあり方は、経文によれば、楽法梵志の裂身肉、檀王の身状、薬王菩薩の身焼の布施行と、不軽菩薩の杖木難の忍辱行を挙げます。 身肉を裂いて師に供養する・・楽法梵志が身肉を裂いて骨を筆とした 身を牀として師に供養し・・・檀王が阿私仙人に仕えて身を状座とした 身を薪となし・・・・・・・・薬王菩薩が喜見菩薩のとき臂をを焼いて法華経に供養した 杖木をかほり精進し持戒し・・不軽菩薩が上慢の人々から杖木瓦石を投げられた これを、天台大師は「適時而已」(ときにかなうのみ)といい、章安大師は『涅槃経疏』に「取捨得宜不可一向」(取捨宜きを得て一向にすべからず)と釈したことをあげます。この引用は『開目抄』などにみられるように、摂折をのべたものです。そして、日蓮聖人は当時における弘経のあり方と自身のことをのべます。 「問云、何なる時か身肉を供養し、何なる時か持戒なるべき。答云、智者と申は如此時を知て法華経を弘通するが第一の秘事なり。たとへば渇者は水こそ用事なれ。弓箭兵杖はよしなし。裸なる者は衣を求む。水は用なし。一をもて万を察すべし。大鬼神ありて法華経を弘通せば身を布施すべし。余の衣食は詮なし。悪王あて法華経を失ば身命をほろぼすとも随べからず。持戒精進の大僧等法華経を弘通するやうにて而も失ならば是を知て責べし。法華経云 我不愛身命 但惜無上道[云云]。涅槃経云 寧喪身命終不匿王所説言教等[云云]。章安大師云 寧喪身命不匿教者身軽法重死身弘法等[云云]。然に今日蓮は外見の如ば日本第一の僻人也。我朝六十六箇国・二の島の百千万億の四衆上下万人に怨まる。仏法日本国に渡て七百余年、いまだ是程に法華経の故に諸人に悪まれたる者なし。月氏・漢土にもありともきこえず。又あるべしともおぼへず。されば一閻浮提第一の僻人ぞかし。かゝるものなれば、上には一朝の威を恐れ、下には万民の嘲を顧て、親類もとぶらはず、外人は申に及ばず。出世の恩のみならず、世間の恩を蒙し人も、諸人の眼を恐て口をふさがんためにや、心に思はねどもそしるよしをなす。数度事にあひ、両度御勘気を蒙りしかば、我が身の失に当るのみならず、行通人人の中にも、或は御勘気、或は所領をめされ、或は御内を出され、或は父母兄弟に捨らる。されば付し人も捨はてぬ。今又付人もなし」(九五二頁) と、法華経を妨げる国王や地位のある僧侶がいたならば、それに従わずに正義を説くことが大事で不惜身命の覚悟を持つことが現在の弘経方法であることをのべています。これは『開目抄』などに示した法華経の行者観で、日蓮聖人は日本国に仏教が渡来してからこれほど迫害にあった者がいないという実感を吐露しています。 また、幕府という国家権力を恐れ、親類大衆から悪僧の知り合いということで嘲笑されることを懸念して、親類も疎遠となっていたことをのべています。仏道の教えを受けた恩や世間的な恩恵を受けた者も世間体を繕って日蓮聖人を謗ったといいます。領家の大尼や名越の尼、弟子のなかにも造反した者がおり、これらの人たちを指すと思われます。草庵に行き来していた信者のなかには勘気や所領没収、解雇、勘当にあい、日蓮聖人に付き従っていた人も出て行き、今でも付き従う者がいないことをのべています。つづいて、佐渡の塚原では謀反人よりも重い悪人扱いをされ、三昧堂での生活は現身に餓鬼道と寒地獄を経験したことをのべ、赦免されて鎌倉に帰ったが身の置き場がなく身延山に入り衣食に困窮していたと現況をのべます。このようなときに身延山に訪問されたことに父母の魂が入れ替わって尋ねてきたのか、釈尊の恩恵なのかと思い感涙を押さえ難いと感謝されているのです。 次に、『立正安国論』著述の動機となった、正嘉の大地震と文永の大彗星を見て、自他(自界反逆・他国侵逼)の謀反と侵略を予言したが、その理由を法華経謗法であると了知した理由は何かという問答を設けます。この問いの目的は日蓮聖人が法華経の行者であることを示されるためです。そこで、この二つの天変地妖については外典には記されておらず、三墳・五典・史記等に記すのは小規模であるとのべ、仏教の経典をみてもこのようなことはないとのべます。過去にインドの弗沙密多羅王がマウリア王朝を滅ぼし、寺院仏塔を焼き払い僧尼を斬首した、大虐殺のときにも異変はなかったこと。中国では唐の武宗が会昌(かいしょう)五年に廃仏を断行したときにもなかったこと。日本では守屋の破仏、平清盛が奈良七大寺を焼き払ったとき、比叡山の山僧が寺僧を焼失したときにも現われなかった凶瑞であるとのべ、今回の天変地夭は他国侵逼の予兆であるとして、『立正安国論』を時頼に上呈した理由をのべています。まず、正嘉元年八月二三日の大地震に、 「自是大事なる事の一閻浮提の内に出現すべきなりと勘て、立正安国論を造て最明寺入道殿に奉る。彼状云、[取詮]此大瑞は他国より此国をほろぼすべき先兆也。禅宗念仏宗等が法華経を失故也。彼法師原が頚をきりて鎌倉ゆゐ(由比)の浜にすてずば国当に亡ぶべし」(九五四頁) と、正嘉の大地震は他国侵逼の験であり、その原因は国主が禅宗、念仏宗などの謗法流布を放任し、かつ、この増上慢の僧侶を退治しなければ国が滅ぶと時頼にのべたことをあげます。その七年後の文永元年七月五日の大彗星を見て、手に握るように他国侵逼があることを確信し、文永八年九月一二日の御勘気のときと、赦免後の文永一一年四月八日に平頼綱と対面したときにも同様にのべたことを、 「其後文永の大彗星の時は又手ににぎりて知之。去文永八年九月十二日の御勘気の時、重て申て云、予は日本国の棟梁なり。我を失は国を失なるべしと。今は用まじけれども後のためにとて出にき。又去年の四月八日に平左衛門尉に対面の時、蒙古国は何比かよせ候べきと問に、答云、経文は月日をささず、但天眼のいかり頻なり、今年をばすぐべからずと申たりき」(九五四頁) と、のべており、日蓮聖人はこれを三度の高名として国主に諫暁したことを誇りとしています。この二つ目の天変地妖は法華経の行者を迫害したために起きたと心情が変化していきます。これについて問答形式をとって、証文に『最勝王経』の「由愛敬悪人治罰善人故星宿及風雨皆不以時行等」と、『仁王経』の「聖人去時七難必起」の文をあげます。そして、これまでの破仏には起きなかったが、この凶瑞が年々に盛んになるのは、国主が聖人である日蓮聖人を怨むことにあるとします。しかも、日本国にいる僧や国主、臣民たちは、たとえば、その国主は過去の阿闍世王や波瑠璃王の化身とも思え、家臣たちは阿闍世王に仕えた雨行大臣・月称大臣のようであり、悪事をなした須那刹陀や阿育大王のときの極悪な耆利を集めたように思えると喩えます。しかし、これらの謗法者で充満してしまった失により、大地が割れて全ての者が無間地獄に堕ちるだろうとのべています。その譬喩として、次のように喩えています。 「例せば老人の一二の白毛をば抜ども、老耄の時は皆白毛なれば何を分て抜捨べき。只一度に剃捨る如也」(九五六頁) さらに問答を設けて、法華経の行者を迫害して天変地妖が起きるというが、法華経には「頭破作七分」「口則閉塞」と説かれており、数年も日蓮聖人を罵詈し怨嫉しても、その現われがないのはなぜかと問います。これに答えて、不軽軽毀の衆に「口閉頭破」があったかと反論します。つまり、不軽菩薩に敵対した者のなかに、口が閉じ塞がり頭が七分に割れた者がいたかと反問します。これは、法華経の行者か否かの判断は、迫害者に現罰があるかないかで判断することではないということです。不軽菩薩を迫害した者に現罰がなかったように、行者の色読により判断されることと受けとれます。 しかし、このことを理解できない者は、それでも経文に相違するのではないかと思うため、再度、この経文に相違する理由についてのべます。 「法華経を怨む人に二人あり。一人は先生に善根ありて、今生に縁を求て菩提心を発して、仏になるべき者は或は口閉、或は頭破。一人は先生に謗人也。今生にも謗じ、生生に無間地獄の業を成就せる者あり。是はのれども口則閉塞せず。譬ば獄に入て死罪に定る者は、獄の中にて何なる僻事あれども、死罪を行までにて別の失なし。ゆり(免)ぬべき者は獄中にて僻事あればこれをいましむるが如し」(九五六頁) と、現世に罪を作っても罪科を受けない者は罪業の深い証拠であって、永く来世にその苦報である無間地獄に堕ちると説明しています。そして、このことこそが第一の大事なことであるから、そのことを詳しく教えて欲しいとされ、その説明は『涅槃経』と法華経にあるとして結ばれています。曽谷教信氏には『観心本尊抄』が渡されています。また、『開目抄』も拝読されていることですから、その文に求められましょう。『開目抄』の 「有人云、当世の三類はほぼ有ににたり。但法華経の行者なし。汝を法華経の行者といはんとすれば大なる相違あり。此経云 天諸童子以為給使刀杖不加毒不能害。又云 若人悪罵 口則閉塞等。又云 現世安穏 後生善処等[云云]。又頭破作七分如阿梨樹枝。又云 亦於現世得其福報等。又云 若復見受持是経典者出其過悪若実若不実此人現世得白癩病等[云云]。答云 汝が疑大に吉。ついでに不審を晴。不軽品云 悪口罵詈等。又云 或以杖木瓦石而打擲之等[云云]。涅槃経云 若殺若害等」(五九九頁) とのべた文にうかがえます。四月二七日に山徒が龍象の坊を焼き打ちします。 ∧『定遺』第一巻 終∨ |
|