257.『種種御振舞御書』        高橋俊隆

□『種々御振舞御書』(一七六)

本書は建治二年とされます。小川泰堂居士(一八一四〜七八年)が『種々御振舞御書』一九紙。『佐渡御勘気抄』二一紙。『阿弥陀堂法印祈雨事』一〇紙。『光日房御書』(末文)の四編の書状を、本来は一書であるとしてまとめたものです。真蹟は身延曽存です。本書の一部は日興上人の孫弟子である日道上人が、『御伝土代』に引用され中山法華経寺の『祐師目録』にも書名が載せられています。四月頃に安房の光日尼から書状が届き、その返事に与えられています。本書は冒頭に文永五年後一月一八日の蒙古の牒状を提起して、『立正安国論』の二難の的中と、その後における竜口・佐渡流罪・身延入山にいたる過程をのべており、日蓮聖人の生涯を知る大事な遺文です。(『日蓮聖人全集』第五巻三四九頁)。冒頭に、

「去文永五年後正月十八日、西戎大蒙古国より日本国ををそ(襲)うべきよし牒状をわたす。日蓮が去文応元年[太歳庚申]に勘たりし立正安国論すこしもたがわず符合しぬ。此書は白楽天が楽府にも越へ、仏の未来記にもをとらず。末代の不思議なに事かこれにすぎん。賢王聖主の御世ならば、日本第一之権状にもをこなわれ、現身に大師号もあるべし」(九五九頁)

と、日蓮聖人は『立正安国論』に予言した他国侵逼が蒙古の牒状としてあらわれ、終には文永五年に襲来として的中したことを、法華経の真実性と自身が法華経に予言された本化上行菩薩であることを確証する、最も大事な出来事としています。この観点に立てば現身に大師号を賜っても不思議なことはないと自負されたのでした。本書は続いて、『立正安国論』の内容について幕府や関係者から何らの尋問がなかったので、各所に十一通の書状を送って再考されることを募ったことがのべられています。

「定で御たづねありて、いくさの僉義をもいゐあわせ、調伏なんども申つけられぬらんとをもひしに、其義なかりしかば、其年の末十月に十一通の状をかきてかたがたへをどろ(驚)かし申」(九五九頁)

 これに対し、なんの取次ぎもなく返って悪口雑言されたとのべています。そして、文永八年に先にのべたように、日蓮聖人の評議に斬首、流罪、鎌倉追放、また、弟子信徒にも所領没収、斬首、入牢、遠流など、さまざまな意見が出て、結果、評定は流罪と決まります。日蓮聖人はこの評決はもとより覚悟のことであるとして、弟子信徒に、 

「各々思切給へ。此身を法華経にかうるは石に金をかへ、糞に米をかうるなり。仏滅後二千二百二十余年が間、迦葉・阿難等、馬鳴・龍樹等、南岳・天台等、妙楽・伝教等だにもいまだひろめ給ぬ法華経の肝心、諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字、末法の始に一閻浮提にひろまらせ給べき瑞相に日蓮さきがけしたり。わたうども(和党共)二陣三陣つづきて、迦葉・阿難にも勝ぐれ、天台・伝教にもこへよかし。わづかの小島のぬしら(主等)がをどさんを、をぢ(恐)ては閻魔王のせめ(責)をばいかんがすべき。仏の御使となのりながら、をく(臆)せんは無下の人々なりと申ふくめぬ」(九六一頁)

と、不退転の信心を言い聞かせていたのでした。ところで、この訴状を出した念仏者や良観たちは、評議が長引くのであせります。自分たちが直接法論しても負けることがわかっていたので、幕府の上層部の未亡人に泣きついて日蓮聖人の悪口を言います。何を言ったかといいますと、

「故最明寺入道殿・極楽寺入道殿を無間地獄に墮たりと申、建長寺・寿福寺・極楽寺・長楽寺・大仏寺等をやきはらへと申、道隆上人・良観上人等を頚をはねよと申」(九六二頁)

最明寺入道とは時ョのことです。極楽寺入道とは重時のことです。この二人は死んで無間地獄に墮ちたと、日蓮聖人が言ったことを評定所で確かめるように頼みます。狙いは現状では埒が明かないので、その悪口の咎をもって処断することでした。評定所においての平頼綱との問答の内容など、前述した経緯を回顧してのべていきます。なを、これについては、前述していますので省略いたします。(『日蓮聖人の歩みと教え』第三部第一章佐渡流罪)。以下、この件について九月一〇日に問注所から召喚され、奉行人に最明寺入道殿と極楽寺入道殿とを地獄に堕ちたというのは訴人の作り事であるが、諸宗の邪義については存命のときより申していたことであり、それは日本国のために言ったことで、日蓮聖人を流罪死罪にしたのちには、自界反逆・他国侵逼の難があることをのべたとあります。それを聞いていた平頼綱は、太政入道(平清盛)が狂ったように、あたりを憚からずに怒り狂ったとあります。このあとの文章にも「太政入道の世をとりながら国をやぶらんとせしにに(似)たり。ただ事ともみへず」(九六三頁)とありますように、清盛が天下を取って悪政をし平家滅亡に至ったことと同じとみたのです。清盛は娘の徳子を高倉天皇に入内させ、『平家物語』に「平氏にあらずんば人にあらず」と言われるまでの権威をもちました。この平氏政権に反発したのが後白河法皇でしたが、法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁立して政治の実権を握ります。また、園城寺、延暦寺は反平氏であり、とくに、興福寺と東大寺などの南都焼き打ちしたことにより仏敵となります。平氏独裁政治は自らの滅亡をまねくことになります。日蓮聖人は平頼綱も幕府の中枢にいて日本を滅亡に導く者とみたのです。平頼綱の敵対心がうかがえます。日蓮聖人はこのような人を相手にされていた環境にあったのです。つづいて、草庵で平頼綱に捕縛されたときの状況、良観の祈雨など(九六三頁)、竜口刑場までの道中、八幡大菩薩、四条金吾など(九六五頁)、竜口首座と江ノ島の光りもの(九六七頁)、相模依智への道中(九六七頁)、鎌倉より立文が届いたこと(九六九頁)、ここまでが本書の構成上の『種々御振舞御書』です。

次の「追状(ついじょう)云、此人はとがなき人なり」(九六九頁)から、『佐渡御勘気抄内』になります。内容の概略は、幕府(時宗)より正式な書状である立文(竪文)が届き、刑の執行停止がなされます。その追状(この場合は追伸)に、日蓮聖人には罪がなく程なく許されるから過ち(斬首)がないようにと書かれていたことがのべられます。ここからわかることは、平頼綱が時宗を凌ぐ権力をもっていたということです。平頼綱は父祖三代にわたり内管領を務めたといわれ、あわせて侍所頭人(所司)でもあり、得宗被官のトップとして軍事・警察に、御家人の統轄と権断の実権を掌握していたのです。日蓮聖人の斬首も平頼綱の独断にて執行されようとしたことがわかります。次に、一三日の夜の出来事をのべます。坊(屋敷)の庭にて自我偈を読誦し、法華経に仏前の約束が説かれていることなどを月に向かって説いたところ、明星のような大星が梅の木の枝に掛かったことがのべられています。これは、星下りの奇瑞として霊跡となっています。次に、一四日の出来事をのべます。一三日の夜八時から一〇時ころに時宗(守殿)の館に異変があったこと。依智に二十日ほど滞在し、その間に日蓮聖人の弟子が鎌倉に火をつけ、人を殺したという讒言があったことがのべられます。これは、日蓮聖人を謀反人として刑の執行の罪状とするためでした。飽くまでも日蓮聖人を亡き者にしたかったのです。そして、一〇月一〇日に佐渡流罪のため依智をたち、二八日に佐渡に着いたこと、一一月一日に塚原の三昧堂に移されたことをのべています。

佐渡流罪は日蓮聖人にとって、願っていたことではないかと思います。その理由は法華経を色読する必要があったからです。「数々見擯出」の文は流罪を意味しますので、竜口法難にて斬首の危機がありましたが、生きて流罪になるはずという思いがあったと思います。その色読を完成させてくれた平頼綱は、行者を証明してくれた善知識となります。ですから、

「今日蓮は末法に生て妙法蓮華経の五字を弘てかゝるせめ(責)にあへり。仏滅度後二千二百余年が間、恐は天台智者大師も一切世間多怨難信の経文をば行じ給はず。数数見擯出の明文は但日蓮一人也。一句一偈我皆与授記は我也。阿耨多羅三藐三菩提は疑なし。相模守殿こそ善知識よ。平左衛門こそ提婆達多よ。念仏者は瞿伽利尊者、持斉等は善星比丘。在世は今にあり、今は在世なり。法華経の肝心は諸法実相ととかれて本末究竟等とのべられて候は是也」(九七一頁)

と値難迫害は法華経を弘通することにより起こることで、日蓮聖人が窃盗や殺人などの罪を犯したためではありません。「数々見擯出」の文を色読したのは日蓮聖人一人というのは、地涌の菩薩を意味します。この現証を実現させたのは相模守殿(時宗)であり、平左衛門(平頼綱)だったのです。法華経の弘通史からみますと釈尊が受けた値難と、日蓮聖人が受けている値難は、法華経を弘めるために起きたことです。法華経の肝心は「諸法実相」である因縁・果報の道理が等しいことを説きました。ここには十如実相、一念三千の成仏にいたる深い教えがうかがえます。そして、三障四魔についてふれ、法華経の行者には強固な留難があり、釈尊には提婆達多が善知識であったように、日蓮聖人が正しい行者であることを、示すために加勢してくれた方人(味方・仲間)は、東条景信・良観・道隆・道阿弥陀仏、平頼綱・時宗であるとのべます。次に塚原問答(九七三頁)、重連に二月騒動の予言と助言にふれ、『開目抄』著述の由来(九七五頁)、二月騒動(自界叛逆)の的中(九七六頁)、念仏者の謀略と虚御教書(九七七頁)、赦免状到来と鎌倉討ち入り(九七八頁)と、四月八日に平頼綱と対面し第三の諫暁をされたことをのべます(九七九頁)。

次からは『阿弥陀堂法印祈雨抄内』(九八〇頁)になります。内容は日蓮聖人が平頼綱と対面を終えて帰ったところ、幕府は阿弥陀堂法印に四月一〇より祈雨の祈祷を依頼したことを聞きます。阿弥陀堂法印とは加賀法印定清のことで、真言宗小野流定清方の開祖です。父は後藤基清、兄は評定衆佐渡前司基綱です。大倉の阿弥陀堂の別当をしてました。この定清法印の祈雨ことがのべられ、身延入山のこと(九八二頁)、蒙古襲来のこと、安房の謗僧のこと(九八三頁)、そして、行者を迫害する者の現罰である「頭破作七分」の解釈にふれます(九八四頁)。この疑問については佐渡在島中の『開目抄』(五九九頁)に提起しており、一闡提の謗法の者は堕獄することが決まっているので現罰として現れないと言う解釈をされていました。文永一一年に富木氏に宛てた『聖人知三世事』には、

「問云 何毀汝 人無頭破七分乎。答云 古昔聖人除仏已外毀之人頭破但一人二人也。今毀呰日蓮事非不可限一人二人。日本一国一同同破也。所謂正嘉大地震 文永長星誰故。日蓮一閻浮提第一聖人也。上自一人下至于万民軽毀之 加刀杖 処流罪故 梵与釈日月四天仰付隣国逼責之也」(八四三頁)

日本国中の人が一同に頭を破られているとのべ、それは正嘉元年の大地震や文永元年の大彗星による天変地夭の苦悶であるとされ、他国侵逼の蒙古の脅威の苦悩とされます。本書には、

「又頭破作七分と申事はいかなる事ぞ。刀をもてきるやうにわるるとしれるか。経文には如阿梨樹枝とこそとかれたれ。人の頭に七滴あり。七鬼神ありて一滴食へば頭をいたむ。三滴を食へば寿絶とす。七滴皆食へば死するなり。今の世の人々は皆頭阿梨樹の枝のごとくにわれたれども、悪業ふかくしてしらざるなり。例せばてを(手負)いたる人の、或は酒にゑひ、或はね(寝)いりぬれば、をぼえざるが如し。又頭破作七分と申は或心破作七分とも申して、頂の皮の底にある骨のひびたふ(響破)るなり。死る時はわるゝ事もあり。今の世の人々は去正嘉の大地震、文永の大彗星に皆頭われて候なり。其頭のわれし時ぜひぜひやみ(喘息)、五蔵の損ぜし時あかき腹(赤痢)をやみしなり。これは法華経の行者をそしりしゆへにあたりし罰とはしらずや」(九八四頁)

七鬼神がいて頭にある七滴を食して頭痛を起こすこと、また、頭骨にヒビが入り死ぬときにそれが割れてしまうこと、そして、正嘉・文永の天変地夭に驚愕したことを当てます。具体的には喘息や内蔵を痛めた赤痢などの症状をあてています。当時はこれらの病状が流行っていたのでしょう。これらは行者を謗った罪であるとされたのです。ちなみに、弘安元年の『日女御前御返事』(一五一〇頁)には、鬼神のなかの善鬼が法華経の怨敵を食すとあり、大疫病がその現れであるとのべています。ここまでが『阿弥陀堂法印祈雨抄内』です。

次に、『光日房御書』の末文を置いて結んでいます。ここには第六天の魔王は必ず行者を阻止することをのべます。現に「二十余年所を追われ」(九八六頁)二度の流罪を経て身延山に籠もったことをのべ、身延山の草庵の周辺の様子を知らせています。最後に今年の身延は雪が多く尋ねる者がいないなかに、音信をいただいたことに感謝しています。本書は自伝的な要素が多く、竜口法難の端緒となった平頼綱の評定から、身延入山までの経過をのべています。なを、五月に妙一尼の下人である瀧王丸を身延山に遣わしています。