258.『上野殿御返事』『一谷入道御書』〜          高橋俊隆

□『上野殿御返事』(一七七)

 五月三日付けで南条時光から石のように乾かされた芋一駄を供養された御返事です。系年は大宮造営の記載から弘安二年とする説があります。(『日蓮聖人遺文全集講義』第一四巻四四五頁)。『興師本』の写本が富士大石寺に所蔵されています。

 内容は供養の功徳についてのべます。仏弟子の中でも十大弟子の一人であり、天眼通を得た阿那律尊者(阿奴律陀)の過去世の積徳についてふれます。すなわち、過去世の弗沙仏の末法の世で飢饉があり、そのときに飢えた利咤という僻支仏(尊者)がおり、猟師が稗の飯を供養した功徳を説きます。猟師はこの功徳により現世では富豪の者となり、死後においては九十一刧という長い間、人間界と天上界に生まれかわって幸福な人生をおくり、そして、斛飯王の太子として生まれた阿那律尊者がその漁師という説話です。阿那律尊者は如意と名づけられるように、思うように願が叶う福徳をもっていたといいます。法華経の会座にて普明如来の確約を得ています。妙楽大師の解釈を引き、稗飯は高価なものではないが、自分のもっていた全てを供養した福田が勝れていたので、大きな功徳を得ることができたという、過去世の善因を説いています。日蓮聖人は時光氏より供養された稗と芋は違っても、食料が乏しいときに供養する福田と、その供養を受ける尊者が飢渇しているときであるからこそ、功徳が大きいことをのべています。このことは布施の意義をのべたものです。厚手の衣類は冬の寒いときに重宝なもので、夏の暑い盛りにはさほど用をなしません。塩が充分にあるが米のないときは、塩を大量に布施されるよりも米一合のほうが有り難いのです。修行も同じことで、墨や筆がたくさんあるときに、我が身を削って骨を筆とし血を墨としても功徳は小さなものになります。日蓮聖人が身延の山中にて食糧不足のときに、布施された稗は有り難いことだったのです。身延山には石は多くあるが、芋はないとのべたのはこのことです。夏は人々も忙しく、かつ、大宮浅間宮の造営で南条時光も多忙であるのにとのべたのは、その心がけに感謝されたのです。この供養を思い立ったのは故父を思ってのことであろうとのべます。梵天などの諸天は法華経の持経者を守護すると約束しているので、もし、主君から信仰を捨てるようにと強要され、迫害されることがあれば、このときこそ諸天善神が仏前で約束したことが叶うであろうと思って、強い信心をもつようにとのべます。そうするならば故父の精霊は成仏し時光を護るであろうとのべ、信仰を遮られることがあれば、かえって法悦と感じて信仰に励まれることを勧めています。

□『一谷入道御書』(一七八)

五月八日付けで一谷入道(近藤伊予清久とされます)に宛てた書状ですが、佐渡の念仏者たちとの関係を考え、表面上は一谷入道の妻に宛てた書状として出されています。日蓮聖人の配慮が窺えます。本書の目的は佐渡にてきていた尼のために、鎌倉に帰る路銀を借用し、そのおり法華経一部を引き替えにする約束をしました。その約束の通り法華経を送られました。そのときの日蓮聖人の心中を書かれたものです。真蹟断片一二紙が鷲山寺などに散在されています。一谷入道に宛てた書状は本書一通のみが伝わっています。本書には「文永合戦」(文永の役)の様子がのべられており、壱岐・対馬の蒙古進軍の資料的価値が大きく、『八幡愚童訓』甲本と日蓮聖人の遺文のほかには見当たらないといいます。『八幡愚童訓』は鎌倉末期の成立ということからしますと、日蓮聖人の遺文は当時においては最も早い情報であったのです。

はじめに伊豆流罪の年次を示し、続いて、斬首の刑が変更され武蔵前司(北条宣時)の裁定により、宣時の知行地である佐渡に二度目の流罪となったことをのべます。宣時は連著になる実力者で、虚御教書を三度まで出して、日蓮聖人を外護することを禁止して苦しめた人物です。また、佐渡の島民は仏教や人道においても道理を知らないため、日蓮聖人を激しく迫害したが、それを恨んではいないとのべます。その理由は公平に道理を弁えるべき北条時宗でさえ、国家の安泰を説く日蓮聖人の諌言を聞かず、道理に反して流罪にするくらいであるから、その末端の者も頼りとすることもできないし、悪事をなされてもそれに従う身であったからです。立教開宗を決意してからは法華経に身命を奉り、日蓮聖人の「不惜身命」の名声は十方の諸仏のもとに轟くという絶対的な法悦をのべています。弘演(公演)と余譲は主君の恩義に忠誠を示したことを挙げ、仏教における仏恩はこれよりも大きく、自身において仏とならなかったのは身命に執着し、「不惜身命」の覚悟で法華経を行じなかったからとして、喜見菩薩(薬王菩薩)と不軽菩薩(釈尊)の例をあげます。この二人の菩薩は、それぞれ違う修行をして仏道を極めたことを示します。

「されば仏になる道は時によりてしなじなにかわりて行ずべきにや。今の世には法華経はさる事にてをはすれども、時によて事ことなるならひなれば、山林にまじわりて読誦すとも、将又里に住して演説すとも、持戒にて行とも、臂をやひてくやうすとも、仏にはなるべからず」(九九〇頁)

と、法華経の信仰の仕方や成仏の方法は時によって違うことをのべます。日本に仏教は流布しているが、法華経に背くことは仏意に背反することを、諸宗の開祖や末学の者は気づいていないとのべます。普通に考えますと仏教はみな釈尊が説かれたのであるから、等しく信じてもよさそうですが、そこに勝劣・浅深などの取捨が必要とされます。それを、「不思議」なことと思われるであろうがという言葉になります。

「源とにご(濁)りぬればなが(流)れきよ(清)からず、身まが(曲)ればかげ(影)なを(直)からず」(九九一頁)

と、源が汚れていればその流れは清くないように、根源が誤っているならば末流においても邪道となり、正しい悟りを得ることはできません。身体が曲がれば影も曲がるように、教えが狂えば悟りもそれに従って邪道になります。つまり、諸宗の誤りもこれと同じであるとのべています。その理由は法華経に背き釈尊を捨て去るからです。日蓮聖人はこの謗法の罪に警鐘を鳴らしたのです。そのために死罪・流罪を覚悟されたのです。しかし、この罪により後生に阿鼻地獄に堕ちるであろうが、その前に今生において大難に会うとして、蒙古の侵逼を証拠とします。そして、釈尊こそが娑婆世界の主師親の三徳を備えた仏であることをのべます。

「娑婆世界は五百塵点劫より已来教主釈尊の御所領也。大地・虚空・山海・草木一分も他仏の有ならず。又一切衆生は釈尊の御子也。譬ば成劫の始一人の梵王下て六道の衆生をば生て候ぞかし。梵王の一切衆生の親たるが如く、釈迦仏も又一切衆生の親也。又此国の一切衆生のためには教主釈尊は明師にておはするぞかし。父母を知も師の恩也。黒白を弁も釈尊の恩也」(九九二頁)

 その三徳具備の釈尊を捨てて、天魔が善導・法然の身体に入り、阿弥陀仏を造り念仏を唱えさせているとのべ、一谷入道の念仏信仰の謬りを糺しています。国主・父母・明師である釈尊を蔑ろにすることは、不孝の者であり「三逆罪」(九九三頁)に相当するとのべます。ゆえに、日月諸天が治罰のため大彗星を示し、火災が起こると災難の興起をのべます。日蓮聖人は死罪・流罪を覚悟の上で、「仏恩」(九九四頁)に報じるために諸宗の謗法を国主に諫暁し、その通り二度の流罪を受け、文永九年の夏頃に一谷に移り、一谷入道の家族の人たちに世話になったことを邂逅します。一谷入道の恩の深かったことは父母よりも当時は大事であったとのべているほどです。しかし、一谷入道の念仏信仰は解消されないことに心を痛めます。そして、一谷入道と約束したことについてのべます。これは鎌倉から佐渡まで幼子を連れて訪った女性が、鎌倉に帰る路銀を一谷入道から借りており、そのときに法華経一部を書写して返すという約束をされていました。その約束を果たしたい一方に、一谷入道の念仏信仰が許されないのです。一谷入道の信仰が念仏の弥陀であり、弥陀の堂を造り田畑の収入も弥陀のために使い、それが地頭を恐れての仮のことであっても、無間地獄に堕ちることは間違いないと判断をしています。それゆえに、身延から佐渡へ法華経を授けても、改宗することはないであろうから、かえって堕獄の原因を作ることになって日蓮聖人の過失となると思案されていたのです。そのジレンマに法華経を渡さずに今に至ったことをのべています。また、鎌倉に大火があり渡そうとして用意した法華経を、焼失してしまったことがのべられ、それを理由に縁がなかったこととすることも考えています。また、自分のためではなく尼のために借りた金子であるので、その金子に利息をつけて返そうかと弟子に相談したところ、約束を破ることになると言われ進退が極まり、かつ、偽りを言ったという風潮が行き渡ることも、法華経に傷をつけることになります。思い悩んでいた心中を隠さずにのべたのです。結果、一谷入道の祖母が内々に法華経を信じているので、その祖母にこの法華経一部十巻をお渡しするという名目で渡されました。また、女房は日蓮聖人に帰依されていたので、本書の喩えを交えた文体からわかるように、この書状は女房宛にされたといわれます。女房は千日尼との親しい交流をもっていましたので、同心の信者であったことがうかがえます。(『阿仏房尼御前御返事』一一九〇頁。『千日尼御前御返事』一五四七頁)。在島中に血縁(一谷入道の弟ともいいます)の学(覚)乗房の入信に合わせて、阿弥陀堂を法華堂に改宗し、後に妙照寺として規模を拡大します。妙法華山妙照寺の山寺号は、学乗房が身延山に来たときに命名されたといいます。本書を宛てた建治元年と伝えています。

 ついで、蒙古襲来の様子についてのべます。

「文永十一年[太歳甲戍]十月に蒙古国より筑紫によせて有しに、対馬の者かためて有しに宗馬尉逃ければ、百姓等は男をば或は殺し、或は生取にし、女をば或は取集て手をとをして船に結付、或は生取にす。一人も助かる者なし。壹岐によせても又如是。船おしよせて有けるには、奉行入道豊前前司は逃て落ぬ。松浦党は数百人打れ、或は生取にせられしかば、寄たりける浦々の百姓ども壹岐・対馬の如し」(九九五頁)

 宗右馬允(そううまのじょう)は、一〇月五日辰の刻に蒙古軍を迎え撃って討ち死にしたと『八幡愚童訓』にはあり、本書に宗右馬允が「逃げた」とあるのは聞き違いか、あるいは敗退したことを意味しているといわれています。敗戦の情報が最初に幕府に届いたときには、このような誤報が伝えられ、その情報が日蓮聖人に直ちに届けられたのです。高麗側の記録である『高麗史』や『東国通鑑』によりますと、文永一一年一二月に捕虜になった日本側の少年と少女の数が二百人で、高麗の王と王妃に奴隷として献じられたと記載されており(「俘童男女二百人献王及公主」)います。女性の手に穴をあけ紐をとおし船に結びつけたとありますように、『日本書紀』の天智帝二年紀にも「百済王豊璋嫌福信有謀叛心。以革穿掌而縛」とあります。つまり、百済王の豊璋が手のひらに穴を穿り、そこに革紐をとおして縛ったという朝鮮の風習にみられます。また、奉行入道豊前前司は武藤資能のことで、大友頼泰と共に合戦の総司令官でありながら逃走したことは周知のことであり、松浦党が多くの犠牲を出したことも『八幡愚童訓』に記載されており、日蓮聖人の遺文の信憑性が確認されています。同時に日蓮聖人の遺文の歴史的価値が高く評価される所以なのです。日蓮聖人の世界的視野の聡明さと、情報の速さは類を見ないと評価される理由もここにあります。

 本書はつづいて、壱岐・対馬の惨状を教訓として蒙古の再来を危惧し、この原因は法華経の行者を迫害し弟子を殺し信徒の所領を奪い取るから諸天の責めがあるとのべます。そして、日蓮聖人自身に三徳をのべ、日蓮聖人に背く者は堕獄するとのべます。

「日蓮は日本国の人々の父母ぞかし、主君ぞかし、明師ぞかし。是を背ん事よ。念仏を申さん人々は無間地獄に墮ん事決定なるべし」(九九六頁)

 もし、蒙古に攻められて死ぬことがあっても、それは長年の念仏信仰によるものであるから法華経を恨まないように、また、閻魔の前ではおこがましいとはいえ日蓮聖人の弟子というであろうと心をよまれています。学乗房に、この法華経を常に読み聞かせていただくように、他宗の僧徒がいかにいうとも触らせてはいけないとのべます。日蓮聖人の弟子といっても判がない者の言葉を信用してはいけないとのべて結ばれています。判とは日蓮聖人の書き判や花押のことですが、弟子であることを証明した手形のようなものがあったのか、それほど他宗の者に注意するようにということと思われます。本書から念仏信仰をしている一谷入道を改心させ、女房などには喩えを引いて純粋な法華信仰の道理を勧めていたことがわかります。

□『さじき女房御返事』(一七九)

 五月二五日付けで、桟敷女房から帷子(単衣)を布施され、そのお礼に供養の功徳について書かれた御返事です。真蹟は断片がありますが宛名は記されていません。さじき女房は日昭上人の兄、印東祐信(すけのぶ)氏の妻で、桟敷尼は日昭上人の母といわれています。また、桟敷女房は妙一尼のこととする説がありますが明らかではありません。桟敷の名前は頼朝が由比ガ浜遠望を楽しむために、現在の常栄寺の山上に棧敷を設けたことから、その跡地のことを棧敷と呼んでいました。その桟敷の近くに印東氏が居住していたことから棧敷尼と呼ばれていました。桟敷尼は鎌倉や京都の情報を調べたり、経典などを収集し信徒の動向などを詳しく知る立場にあったようです。日昭上人も常時、鎌倉にあって信徒を掌握し指導する立場にあり、日昭上人と妙一尼への書状に瀧王丸のことが書かれているので、強い縁戚関係が考えられます。

 桟敷女房の夫祐信氏は熱心な法華経の信仰者で、日蓮聖人は祐信氏を法華経の行者であると褒めています。「女人」(九九七頁)は夫に随うものであるから、その妻である桟敷女房も仏から見れば同心の信者と見るであろうし、この度は女房が自らの気持ちで帷子を供養されたと喜ばれています。帷子(かたびら)は夏用の着物で、「かたびら」は袷(あわせ)でなく裏のつかない裂(きれ)の片方のことをいいます。平安中期になると単物(ひとえもの)の小袖の表着(うわぎ)を指すようになります。法華経には二通りの行者がいて、楽法梵志のような聖人は身の皮を剥いで紙とし、そこに経文を書き写します。しかし、凡夫は着ている一枚しかない帷子でも、仏は剥皮と等しく受けとられるとのべます。ここに、信徒が三宝に布施する功徳の尊さを説いています。日蓮聖人を供養することは、法華経弘通のために生命を長らえてもらうためです。ですから、この帷子一枚を法華経の行者に供養する功徳は、剥皮に等しく仏は見られ、法華経は文字即仏であるから、六九三八四の仏に供養するのと同じことであると、この帷子の供養を喜ばれています。日蓮聖人の法華経の行者観が窺えます。

「たとへばはるの野の千里ばかりにくさのみちて候はんに、すこしきの豆ばかりの火をくさ(草)ひとつにはなちたれば、一時に無量無辺の火となる。このかたびらも又かくのごとし。一のかたびらなれども法華経の一切の文字仏たてまつるべし。この功徳は父母・祖父母乃至無辺の衆生にもをよぼしてん。まして我いとをしとをもふをとこごは申に及ばずと、おぼしめすべし」(九九八頁)

そして、末文にこの功徳は父母や祖父母をはじめ無辺の衆生にも届くであろうし、女房が大事にされている夫のためにも大きな功徳となるとのべています。さじき女房は鎌倉にいた頃からの信徒であり、また、日昭上人の関係者であることから、往時を偲ばれ更に信仰に励まれることを願っていたことがうかがえます。身延山の五月はまだ寒いことと思いますが、猛暑にそなえて早くから用意されていたのです。信徒の日蓮聖人を大事に慕う心がうかがえます。

□『妙一尼御前御消息』(一八〇)

 五月付けで妙一尼に御返事を出されています。妙一尼については先に述べたように桟敷尼と同一人物といわれており、この場合は日昭上人の母となります。また、日昭上人の姉という説、日妙の子で乙御前という説があります。妙一尼の夫は竜口法難のあと、日蓮聖人が佐渡に在島しているときに、法華信仰上のことで所領を没収され殉教していました。本書に日蓮聖人が佐渡流罪中に夫が死去し、病の男の子と女の子、老婆が残ったとあります。第二部にて述べたようにこの記述からしますと、妙一尼は日昭上人の兄印東祐信の妻(義理の姉になる)であり、老婆というのが母親(桟敷尼)とうけとれます。印東祐信(「兵衛のさえもんどの」)は御所桟敷を守護する役目を担っていたので、その妻を桟敷女房と呼び、後家尼の母を棧敷尼と呼称することもできます。病気の子供と女の子がいたとありますので、日昭上人の母とするには年齢がは若すぎます。

本書には妙一尼の夫が逝去したことに対して、病のある子供や妻、母を残して冥土に赴きさぞ心配であったろうと、釈尊が入寂を目前として心掛かりだった阿闍世王の故事を引いています。釈尊は阿闍世王の罪深さにより地獄に堕ちることを歎かれ、阿闍世王を救ってあげたいという親心を最後までもっていたということです。(『涅槃経』梵行品)。妙一尼の夫も病のある子供がおり、釈尊と同じように心配されて亡くなられたことと察しています。亡くなった夫は信仰の上においても、法華経が広まり日蓮聖人も重用されると思っていただろうが、それに反して佐渡流罪となり法華経の教えは正しいのか、十羅刹女などの諸天の守護はどうなったのかと、疑問に思っていたであろうと述べます。日蓮聖人が流罪になった文永八年のときに、信徒はこのように感じて信仰に疑念が起きたのでしょう。故人が生きていたならば日蓮聖人の赦免を悦び、蒙古の予言も的中し幕府も動揺しているのを見たなら、法華信仰の必要性を確証してどれほど悦ばれたかと述べています。この文面には殉教した死を悼むとともに、成仏という内実のあることを伝えています。そして、故人の信仰は不惜身命のみならず、家族の生活を支えていたわずかな所領も信仰のために奪われてしまったことが述べられています。そして、個人の殉教の功徳と死しても故人が遺族を護っていることを述べます。

「故聖霊は法華経に命をすててをはしき。わづかの身命をさゝえしところを、法華経のゆへにめされしは命をすつるにあらずや。彼の雪山童子の半偈のために身をすて、薬王菩薩の臂をやき給は、彼聖人なり、火に水を入がごとし。此凡夫なり、紙を火に入がごとし。此をもつて案に、聖霊は此功徳あり。大月輪の中か、大日輪の中か、天鏡をもつて妻子の身を浮て、十二時に御らんあるらん。設妻子は凡夫なれば此をみずきかず。譬へば耳しゐたる者の雷の声をきかず、目つぶれたる者の日輪を見ざるがごとし。御疑あるべからず。定て御まほりとならせ給らん。其上さこそ御わたりあるらめ」(一〇〇一頁)

 故人は昼夜に日天か月天の中か、あるいは天の鏡を持って、その中に妻子の姿を浮かべて見ており護っているとのべています。太陽や月は天の鏡とされ、そこに地上のことが映し出されると励まされたのです。妙一女は凡夫であるから、聴覚に障害がある人は雷の音が聞こえず、盲目の人が太陽を見ることができないように、夫の声や姿がみえないであろうが、このことを疑わずに信じなさいと力づけています。

 日蓮聖人は身延に入山していましたので鎌倉へは行くことはなかったと思いますが、気持ちのなかでは妙一尼にできるならば尋ねて行きたいと思っていたことを述べ、そのときに思いかけずに衣一枚を送ってきたことに感謝しています。妙一尼が長生きして日蓮聖人と会うことができるであろうし、もし亡くなったとしても日蓮聖人と会うことができるとのべ、幼い子供のことは日蓮聖人が世話をするから心配しないようにと述べています。

「力あらばとひまいらせんとをもうところに、衣を一給でう、存外の次第なり。法華経はいみじき御経にてをはすれば、もし今生にいきある身ともなり候なば、尼ごぜんの生てもをわしませ。もしは草のかげにても御らんあれ。をさなききんだち(公達)等をば、かへりみたてまつるべし。さどの国と申、これと申、下人一人つけられて候は、いつの世にかわすれ候べき。此恩はかへりてつかへ(仕)たてまつり候べし」(一〇〇一頁)

このように、末筆には妙一尼は所領を取られて困窮しているなかで、佐渡に下人(滝王丸)を使わせて日蓮聖人を給仕しており、また、身延山においても下人を日蓮聖人のもとにおいて給仕させています。来世は自分が妙一尼に仕えて恩返しをするとのべて結ばれています。妙一尼夫妻の熱心な信仰心を讃嘆した心情が窺えます。この頃に日興上人の教化により滝泉寺の大衆が改宗したといいます。(『日蓮大聖人年譜』一八三頁)。

〇『断簡』八六

 建治元年六月六日。『定遺』二五〇八頁。左衛門尉殿御返事。左衛門尉との間に信仰について教訓されていたことがわかります。

〇断簡「御入滅」

建治元年とされる二行の断簡です。稲田海素氏が所蔵されています。「御入滅、いかて此恩をばほう(報)しまいらせ候へき。願は仏しばらく」(『対照録』下巻三九〇頁)とあります。

〇断簡「大麦一斗」

貼り合い二行の断簡で、岡山の宮埼玄養氏が所蔵されています。「大麦一斗」「胡瓜二十五給了。仏に」とあります。