259.『撰時抄』                 高橋俊隆

■『撰時抄』(一八一

六月一〇日に蒙古襲来の予言的中と、蒙古の敗退という現実のなかで『撰時抄』を執筆しました。『撰時抄』は「釈氏日蓮述」と署名しています。日蓮聖人は僧侶としての自分の立場を弁えた呼称をされます。佐前には比叡山の学僧として天台沙門(『立正安国論』)と名のり、伊豆流罪後は本朝沙門(『教機時国抄』『顕謗法鈔』『観心本尊抄』)と名のります。規定された日本の宗派を超え、日本のなかでただ一人、釈尊の真意を説く僧侶という自覚です。身延入山からは扶桑沙門(『法華取要抄』八一〇頁)と名のり、本書は本化上行菩薩として釈尊に直結された付法の弟子という意味から釈子と名のります。三国を代表して正法を弘通する者という強い意志がうかがえます。ですから、本書に閻浮提において第一の法華経の行者であるとのべます。すなわち、仏使としての師自覚から著述されたのです。(『日蓮辞典』一五〇頁)。「撰」は選択という意味をもち、取捨選別のうち撰取の語義を強めています。時を撰ぶことは同時に五義を定めることになります。その末法という時を撰するのは日蓮聖人です、ですから、「撰時」という題号には、本化上行菩薩という導師・依師を表明されており、日蓮聖人のこれまでの書状は、地涌菩薩が出現していることを訴えていたといえます。(山川智応著『撰時抄講話』六六頁)。

真蹟は全五巻一一〇紙の長文です。そのうち玉沢妙法華寺には五巻一〇七紙が所蔵されています。ほか、京都立本寺などに断片が所蔵され、欠如しているのは第一巻三紙と、第三巻第一五紙の数行です。重要文化財に指定されています。身延にも真蹟があり、玉沢妙法華寺が草稿本で身延は再治本といいます。身延にあった下巻は散失し、上巻五三紙は明治八年に焼失しています。宛先は西山氏という説がありますが(『宗全』第二巻一二二頁)、門下全員に宛てた著述という内容です。

本書の構成については山川智応氏が、精進院日隆上人、證誠院日修上人、安国院日講上人の分け方を解説し、三段一〇章に分科しています。(『撰時抄の研究』四九頁)。盬田義遜先生は三段九章に分けています。(『日蓮聖人御遺文講義』第四巻目次一頁)。両先生ともに、序論(序分)二章、本論(正宗分)六章は同じで、結論(流通分)を一章と二章に分けるところが違います。また、本論の四・七・八章に違いがあります。ここでは、盬田義遜先生の分け方に従っていきたいと思います。

序論

第一章        仏法と時節           一〇〇三頁 仏道における時とは

第二章        時機傍正の難を会す       一〇〇三頁 時がきたときは法華経を説く

 本論

第三章        五五百歳流布の仏法       一〇〇五頁 末法は法華経を説くとき

第四章        滅後三時における法華の流布   一〇〇九頁 三徳を具えた法華経の行者

第五章        正像弘通の批判         一〇二〇頁 正像には深秘の法華経は弘通されていない

第六章        末法諸宗の批判         一〇二九頁 念・禅・真言宗の誤り

第七章        慈覚によせて真言の邪義を決す  一〇四〇頁 台密の破折を始める

第八章        末法における法華の広布     一〇四六頁 三度の高名は閻浮第一の智者の証拠

 結論

第九章  不惜身命の勧誡         一〇五九頁  なぜ法華弘通に命を賭すのか

 

山川智応氏は三段に分けたときの大科を次のようにしています。

        『撰時抄の研究』   『撰時抄講話』

序分段    在滅仏法撰時顕実段

正宗分段   末法依師閻浮一聖段 (末法依師弘経利益段)

 流通段    捨身呵謗冥顕擁護段 (捨身呵謗冥顕得益段)

 

〇〔第一章〕仏道における時とは

 

仏教を心の支えとするのは成仏という果徳があるからです。しかし、仏道の歩み方は五義に応じることが大事なことです。題号の「撰時」は当にそのことを意味しています。冒頭に、

 

「夫仏法を学せん法は必ず先づ時をならうべし。過去の大通智勝仏は出世し給て十小劫が間一経も説き給はず。経に云 一坐十小劫。又云 仏知時未至 受請黙然坐等[云云]。今の教主釈尊は四十余年之程、法華経を説き給はず。経に云、説時未至故と[云云]。老子は母胎に処して八十年。弥勒菩薩は兜率の内院に篭らせ給て五十六億七千万歳をまち給うべし。彼のは春ををくり、鶏鳥は暁をまつ。畜生すらなをかくのごとし。何に況や、仏法を修行せんに時を糾ざるべしや」(一〇〇三頁)

 

とのべているように、仏教の解釈は「時」に視点をあてて、弘通の選択しなければならないということです。仏教の教えは五義をもととすることは『教機時国抄』『曽谷入道殿許御書』にのべられていました。このなかで、日蓮聖人は「時」を重視されていました。さきの一谷入道にも、仏になる道は時によって代わることを教えていました。(『一谷入道御書』九九〇頁)。それほど「時」が大事なことの例を挙げます。化城喩品に説かれた大通仏は十小刧という長い間、入定して法華経を説かなかったこと。釈尊も四十二年には法華経を説かなかったこと。老子は世に生まれる時期を八十年胎内にて待っていたこと。弥勒菩薩は釈尊入滅より五十六億七千万歳を待って、娑婆に生まれ成道することを挙げます。また、時鳥は初春を過ごし初夏になって鳴きはじめ、鶏も暁をまって鳴くように、時が大事なことは畜生でも、その道理がわかっているとし、仏教を学ぶ者は常識として学ぶことであるとします。

 

〇〔第二章〕時がきたときは法華経を説く

 

本書は続いて釈尊在世の説法の次第をのべます。『華厳経』の寂滅道場の場においては、悟りを開いた諸仏菩薩や、智慧の勝れた利根の者が来臨しても、二乗作仏や久遠実成のことは一言も説きませんでした。ですから、即身成仏の教えは示されていないのです。

 

「即身成仏・一念三千の肝心其義を宣給はず。此等は偏にこれ機は有しかども時来らざればのべさせ給はず。経に云、説時未至故等」(一〇〇三頁)

 

と、法華経の肝心である一念三千の教義は明かされていません。しかし、四十二年を過ぎた霊山(耆闍崛山)の法華経の会座には、父を殺した阿闍世王が法華経の結縁衆となります。悪逆非道をして釈尊を苦しめた提婆達多が未来に天王如来となることが許されました。また、龍女は蛇身のままに成仏を示現し、仏になれないと説かれてきた(決定性)舎利弗などの二乗が成仏の授記を得ました。謗法の者の得脱や二乗作仏が説かれ示されたのです。このことは常識を逸脱したことですから、炒った種である燋種(しょうしゅ)が芽を出し花を咲かして実をつけたように、信じられないことでした。さらに、本門に至って地涌の菩薩が出現し、釈尊の久遠実成が明かされたときは、百歳の老人が二十五歳の青年の子供になったように、大衆は驚き疑ったのです。つまり、法華経はこのように突然に説かれたことをのべているのです。そして、この二乗作仏・久遠実成の教えは「九界即仏界・仏界即九界」の教えを示します。法華経の功徳は如意宝珠のように大きなものであり、仏と成る種子を具えています。これを教義としたのが一念三千です。日蓮聖人はその理由は何かを考察させるのです。

 

「此等は機の熟不熟はさてをきぬ、時の至れるゆへなり。経云 今正是其時決定説大乗等」(一〇〇四頁)

 

と、釈尊の実語である法華経の経文によれば、まさに法華経を説く時期が到来したと釈尊が決断されたのです。方便品には「未曾説汝等 当得成仏道 所以未曾説 説時未至故 今正是其時 決定説大乗」(『開結』一〇六頁)とあります。つまり、釈尊はこれまでに仏弟子たちに成仏(二乗作仏)を説かなかったのは、説くべき時に至っていなかったからで、今は正にその時であるから徹底して大乗の教えを説いた、ということで、日蓮聖人はこのところを重要視されたのです。仏法は「時」によって説く内容を選択しなければならないことになります。

 次に問答に入ります。ここでは、聞法する側の能力が未熟であれば、いかに勝れた教えを聞いても、かえって誹謗をし悪道に堕ちたならば、その罪は説いた側にあるのではないかを問います。その答えとしてたとえば、路に迷ったからといって路を作った者の罪ではなく、医師が処方した薬を服さずに死去しても医師の罪ではないと同じように、説いた者には罪がないとのべます。しかし、法華経のなかに無知の者には、この法華経を説いてはいけないという安楽行品の文を提示します。つまり、時よりも機根を重視すべきではないかということです。ここからは、勧持品と不軽品の文から、無知の者が反抗しても強いて法華経を説くべしという、同じ法華経のなかにも水火のような両説があることを挙げ、末法正意論を展開していきます。「末法為正」については、『観心本尊抄』(七一四頁)『法華取要抄』(八一三頁)、摂折論は『開目抄』(六〇六頁)、「本未有善」については『曽谷入道殿許御書』(八九六頁)、同じく「五五百歳」(八九八頁)についてものべてきたことです。これらの教えが基盤となるのが、日蓮聖人の教えの大事なところです。

 

〇〔第三章〕末法は法華経を説く時

 

 次に、小乗教や大乗教、法華経を説く時を分けるのは、どのような理由があるのか、それをどのようにして察知するのかを問います。この時を重視することは日蓮聖人の教学の根底になっています。その時代の社会思想を鋭く見抜いています。それはどのようにして知るかといいますと、

「問云、何る時にか小乗権経をとき、何る時にか法華経を説べきや。答云、十信の菩薩より等覚の大士にいたるまで、時と機とをば相知がたき事なり。何に況や我等は凡夫なり。いかでか時機をしるべき。求云、すこしも知事あるべからざるか。答云、仏眼をかつて時機をかんがへよ、仏日を用て国土をてらせ」(一〇〇五頁)

 

とのべているように、仏眼である経文を依拠とします。「依法不依人」の方法により、日本国で起きている天災や戦乱の元凶を知るということです。そこで、本書にも「五五百歳」を挙げます。釈尊の滅後は正法・像法・末法の三時代に時が経過し、二千年後の末法の初めの五百年を五箇の五百歳と呼び、白法隠没の時です。曇鸞・道綽・善導法師や法然が白法穏没とは、末法には法華経は利益がなくなる時としたのは謬りです。このことは『守護国家論』(一〇六頁)にのべていました。日蓮聖人は早い時期に念仏無間の悪義を「難破」(『曽谷入道殿許御書』九〇八頁)したという自覚をもっています。ですから、「日蓮此等の悪義を難じやぶる事は事ふり候ぬ」(一〇〇六頁)とのべたのです。

 次に、日蓮聖人の関心は、白法隠没の悪世末法には、必ず法華経が広宣流布されるということに移ります。

『大集経』の「白法穏没」「闘諍言訟」の時とは、「後五百歳」の末法をいいます。法華経はこの末法に法華経を弘めるように付属された経典です。『開目抄』に、「後五百歳のあたらざるか。広宣流布の妄語となるべきか。日蓮が法華経の行者ならざるか」(五六六頁)と、法華経の行者を自覚されたように、三類の強敵が出現する「後五百歳」には、この法華経を弘める「時」とされます。本書からも、

 

「文の心は第五の五百歳の時、悪鬼の身に入る大僧等国中に充満せん。其時に智人一人出現せん。彼の悪鬼の入る大僧等、時の王臣・万民等を語て、悪口罵詈、杖木瓦礫、流罪死罪に行はん時、釈迦・多宝・十方の諸仏、地涌の大菩薩らに仰せつけば、大菩薩は梵・帝・日月・四天等に申くだされ、其時天変地夭盛なるべし。国主等其のいさめを用ずば鄰国にをほせつけて、彼々の国々の悪王悪比丘等をせめらるるならば、前代未聞の大闘諍一閻浮提に起るべし」(一〇〇七頁)

 

後五百歳―三類の強敵―地涌付属―他国侵逼という大きな脈絡がみられます。そして、法華経が弘まる時は釈尊の在世と現在の二度であるとされ、それゆえに、天台・妙楽・伝教大師は末法を慕って、「後五百歳遠沾妙道」「末法之初冥利不無」「正像稍過已末法太有近」とのべたのです。その心境を占い師である阿私陀仙人が、釈尊が産まれたのを見て、自分の年齢が九十を過ぎていたので、釈尊の成道を見ることができないと悲泣された例を引きます。日蓮聖人は私たちに法華経の縁があることを、喜びなさいと喚起されたのです。

 

〇〔第四章〕三徳を具えた法華経の行者

 

次に、龍樹や天親などのインドの論師は、「後五百歳」に法華経を広宣流布することを説いたのかを問うことから、正像末三時の付法蔵についてふれます。龍樹や天親などは知っていたが、口には説かなかったとして、その理由をあげます。

 

「問云、龍樹・天親等の論師の中に此義ありや。答云、龍樹・天親等は内心には存ぜさせ給とはいえども言には此義を宣給はず。求云、いかなる故にか宣給ざるや。答云、多の故あり。一には彼時には機なし、二には時なし、三には迹化なれば付嘱せられ給はず」(一〇〇九頁)

 

 その理由は機・時に該当せず、釈尊からの付属がなかったからです。これは、涌出品の「止善男子」(「止みね善男子、汝等が此経を護持せんことを須ひじ」)の文を、天台大師が「前三後三六訳」(『観心本尊抄』七一五頁)、「「止召三義」(『曽谷入道殿許御書』九〇三頁)と解釈したところです。日蓮聖人が「末法為正」「上行別付」をのべるときの基礎となります。ここで、具体的に付法蔵の人達の名前と、弘経の内容についてのべます。

 

正法前五百年、解脱堅固のとき

迦葉尊者・阿難尊者・商那和修・優婆崛多・提多迦、小乗経の法門をのみ弘通した

弥遮迦・仏陀難提・仏駄密多・脇比丘・富那奢等は大乗経の法門少し弘通した

正法後五百年、禅定堅固のとき

馬鳴菩薩・毘羅尊者・龍樹菩薩・提婆菩薩・羅睺羅尊者・僧佉難提・僧伽耶奢・鳩摩羅駄・闍夜那・盤陀・摩奴羅・鶴勒夜那・師子等の人々は諸大乗経をもつて諸小乗経をば破した

 

つまり、この正法時代の付法蔵の二十四(二十三)人は、小乗・権大乗を弘通して法華経を説かなかった(『神国王御書』八八七頁)ことを示します。その説示しなかったこととは、

 

本迹の十妙・二乗作仏・久遠実成・已今当の妙・百界千如・一念三千の肝要の法門は分明ではない

化道の始終・師弟遠近・得道の有無は全く説いていない(一〇一〇頁)

 

とのべます。本迹の十妙(本迹二十妙)とは、天台大師が『法華玄義』に説いた勝劣の判別のしかたです。迹門の十妙は「境妙・智妙・行妙・位妙・三法妙・感応妙・神通妙・説法妙・眷属妙・利益妙」です。これは、爾前諸経の教えに対して、法華経に説く諸法実相が勝れている(絶妙)ことを説きます。本門の十妙は「本因妙・本果妙・本国土妙・本感応妙・本神通妙・本説法妙・本眷属妙・本涅槃妙・本寿命妙・本利益妙」です。これは、法華経の迹門迹仏と本門本仏の勝劣をのべます。つまり、迹門の始成仏に対して久遠本佛の因果等がすべて勝れていることを説く教理です。ともに、自行の因果と化他の能化所化を説き、それを比較して勝劣を判定します。

 

本門十妙(本門の不可思議)

本因妙    我本行菩薩道。所成寿命。今猶未尽(『開結』四二〇頁)

本果妙    我成仏已来。甚大久遠(『開結』四二〇頁)

本国土妙   自従是来。我常在此。娑婆世界。説法教化(『開結』四一八頁)

本感応妙   若有衆生。来至我所。我以仏眼。観其信等。諸根利鈍(『開結』四一八頁)

本神通妙   如来秘密。神通之力(『開結』四一六頁)

       或説己身。或説佗身。或示己身。或示佗身。或示己事。或示佗事(『開結』四一九頁)

 

本説法妙   悉是我所化 令発大道心~今皆住不退     (『開結』四〇七頁)

本眷属妙   是諸大菩薩~在娑婆世界 下方空中住~我従久遠来 教化是等衆(『開結』四〇七頁)

本涅槃    又復言其。入於涅槃。如是皆以。方便分別(『開結』四一八頁)

本寿命妙   処処自説。名字不同。年紀大小(『開結』四一八頁)

本利益妙   説微妙法。能令衆生。発歓喜心(『開結』四一八頁)。

 

         迹門十妙(迹仏)    本門十妙(本仏)

――境妙――     本因妙・・         ・・

――因――  智妙      ―本果妙・・本因本果の法門・・・・・三妙一体

自行―       行妙      ―本国土妙・・・・・・・・・・・・

――位妙――     本感応妙

――果――――三法妙      本神通妙

感応妙      本説法妙

――能化―――神通妙      本眷属妙

化他―       説法妙     ―本涅槃妙

――所化―――眷属妙     ―本寿命妙

利益妙――――――本利益妙

 

 本門十妙から、日蓮聖人の主要教学である、「本因本果の法門」(『開目抄』五五二頁)。「四十五字法体段」「本因本果本国土の三妙一体」(『観心本尊抄』七一二頁)をみることができます。

次に、像法時になりますと、

 

像法前五百年読誦多聞堅固のとき

迦葉摩謄・竺法蘭が中国に仏教を弘めたが、大小・権実を説くまでにはいかなかった

天台大師が法華経を第一、涅槃経を第二、華厳経を第三とした

 像法後五百年多造塔寺堅固のとき

  玄奘三蔵が法相宗を弘め、法蔵は華厳宗を弘めた。善無畏は真言宗を弘めたので法華経が失われた

  伝教大師が比叡山に円頓戒壇を建立したが、空海の真言宗が仏教界に蔓延した

 

次に日本の仏教史について、欽明天皇のときに仏教が伝来し、しだいに六宗が伝えられたことにふれます。ここでは、聖徳太子が法華経を鎮護国家の法と定めたこと。鑑眞は小乗の戒場(戒壇)を東大寺に設けたが、律宗のみを弘通して法華経を弘通しなかったことをのべます。そして、像法に入って八百年目に最澄が出現し、比叡山に「霊山の大戒日本国に始まる」(一〇一五頁)と、法華経を広めたことをのべます。しかし、最澄の没後には真言宗が台頭したとのべます。

そして、現在は末法に入って二百年になり白法隠没の時にあたることをのべます。経文には一閻浮提に闘諍が起きると予言されたときであるとして、現実に外国からの侵略にあっている蒙古襲来を、『立正安国論』予言した他国侵逼の現われであるとのべます。蒙古襲来が現実となり、法華経の正当性と自身の正当性を主張する日蓮聖人の一連の論調がみられます。すなわち、

 

「伝聞、漢土は三百六十箇国二百六十余州はすでに蒙古国に打やぶられぬ。花洛すでにやぶられて、徽宗・欽宗の両帝北蕃にいけどりにせられて、韃靼にして終にかくれさせ給ぬ。徽宗の孫、高宗皇帝は長安をせめをとされて田舎臨安行在府に落させ給て、今に数年が間京をみず。高麗六百余国も新羅・百済等の諸国等も皆々大蒙古国の皇帝にせめられぬ。今の日本国の壹岐・対馬並に九国のごとし。闘諍堅固の仏語地に墮ちず。あだかもこれ大海のしをの時をたがへざるがごとし。是をもつて案ずるに、大集経の白法隠没の時に次で、法華経の大白法の日本国並に一閻浮提に広宣流布せん事も疑うべからざるか」(一〇一六頁)

 

と、蒙古襲来の事実は闘諍堅固を予言した仏語が現実となった証明であり、同時に白法が隠没した末法今時に、法華経が世界中に広まることも、仏記に符契してまちがいのないことであると自信を深めたのです。その使命とすべきことは、謗法の者へ妙法五字による下種結縁でした。

 

「釈尊は重て無虚妄の舌を色究竟に付させ給て、後五百歳に一切の仏法の滅せん時、上行菩薩に妙法蓮華経の五字をもたしめて謗法一闡提の白癩病の輩の良薬とせんと、梵・帝・日・月・四天・龍神等に仰せつけられし金言虚妄なるべしや。大地は反覆すとも、高山は頽落すとも、春の後に夏は来ずとも、日は東へかへるとも、月は地に落とも此事は一定なるべし。此事一定ならば、闘諍堅固の時、日本国の王臣と並に万民等が、仏の御使として南無妙法蓮華経と流布せんとするを、或は罵詈し、或悪口し、或流罪し、或は打擲し、弟子眷属等を種々の難にあわする人々いかでか安穏にては候べき。これをば愚癡の者は呪詛すとをもいぬべし。法華経をひろむる者は日本の一切衆生の父母なり。章安大師云 為彼除悪即是彼親等[云云]。されば日蓮は当帝の父母、念仏者・禅衆・真言師等が師範なり、又主君なり」(一〇一七頁)

 

とのべているように、この自信は上行自覚を促すこととなり、行者を迫害した三類の強敵に目が向けられるときには、法華誹謗の罪による堕獄を強調しました。日蓮聖人を迫害した者からしますと、謗法堕獄という言葉は怖く感じたでしょう。ですから、この日蓮聖人の言葉を「咒詛」と思うかもしれないとのべます。しかし、その根本にあるのは博愛の精神です。伊豆流罪の弘長二年の『四恩抄』(二四〇頁)に、流罪となって悦ぶことは法華経を色読できたこととのべています。そして、仏教者は四恩に報謝することが大事であるとのべ、その心から一切衆生の恩を見たとき、謗法者が堕獄することが、大きな歎きであるとのべていました。つまり、本書に日蓮聖人の三徳を自負されたことは、法華経を弘通することを誓った原点にある慈悲心といえましょう。日蓮聖人は迫害した者を恨むのではなく、親のごとき慈愛、師匠のごとき指導であったとのべます。しかし、法華経の経文、釈尊の仏記によれば法華経を毀法する者には罰があることを引きます。その現れが蒙古の襲来なのです。

 

「蒙古のせめも又かくのごとくなるべし。設五天のつわものをあつめて、鉄圍山を城とせりともかなうべからず。必日本国の一切衆生兵難に値べし。されば日蓮が法華経の行者にてあるなきかはこれにて見べし」(一〇一八頁)

 

そして、謗法現罰を説く口則閉塞・頭破七分の現れがないことにふれます。このことは当時の関心事であり随所に説明をされていました。(『聖人知三世事』八四三頁、『種種御振舞御書』九八四頁、『法蓮鈔』九五六頁)。本書は釈尊から正統に仏教を受け継ぐ「日蓮は閻浮提第一の法華経の行者なり」(一〇一九頁)との立場から、謗者と現罰について言及していきます。陀羅尼品の「頭破作七分」は軽い罪であり、日蓮聖人が常にのべる正嘉の大地震、文永の大彗星の天変地妖こそが、法華経の行者を誹謗した大きな現罰であるとのべています。同時に、仏使として南無妙法蓮華経の題目を始唱した本化上行菩薩を伝えているのです。

 

〇〔第五章〕正像時には深秘の法華経は弘通されていない

 

 本書は正像末三時の法華弘経は、機根に応じてではなく時に応じて説くことを、問答形式をもってのべていきます。

 

「如来の教法は必機に随という事は世間の学者の存知なり。しかれども仏教はしからず。上根上智の人のために必大法を説くならば、初成道の時なんぞ法華経をとかせ給はざる。正法の先五百余年に大乗経を弘通すべし。有縁の人に大法を説せ給ならば、浄飯大王・摩耶夫人に観仏三昧経・摩耶経をとくべからず。無縁の悪人謗法の者に秘法をあたえずば、覚徳比丘は無量の破戒の者に涅槃経をさづくべからず。不軽菩薩は誹謗の四衆に向ていかに法華経をば弘通せさせ給しぞ。されば機に随て法を説と申は大なる僻見なり」(一〇二〇頁)

 

 ここにおいても、本書の始めに鶏鳥は暁をまって鳴くという喩えを引いたように、法華弘通にも説く時があることを再説します。鶏は夜明けに鳴き声を発します。暁鶏はその夜明けの時刻を知らせます。しかし、正法時の天親や像法時天台・伝教大師は法華経を説いています。ですから、末法に限定されないのではという問難です。これについて、まず、龍樹・天親は法華経の実義は説いていないとします。そして、不空三蔵の『菩提心論』にふれます。これは弘法大師が『菩提心論』の著者は龍樹と言ったことの批判のためです。日蓮聖人は不空の偽作として羅什三蔵いがいの釈経は用いないことをのべます。その理由は「此事は余が第一の秘事なり」(一〇二三頁)とのべながらも、羅什の舌が焼けなかったという現証を挙げます。(『開元釈教録』沙門鳩摩羅什訳妙法華経至此乃言此語与梵本義同。若所伝無謬使焚身之後舌不燋爛)。

そして、いよいよ天台大師の法華弘通についてのべます。天台大師は題目の五字を『法華玄義』『法華文句』に説き、『摩訶止観』に一念三千を説きました。さらに、また、三論宗の吉蔵や南山律宗の道宣、華厳宗の法蔵法師、真言宗の不空三蔵・含光法師が、天台大師に帰伏した実例を挙げます。つまり、中国の仏教界は天台宗に集約された実績からしますと、天台大師は法華経を弘通しているではないかと問うのです。しかし、天台大師は法華弘通に似ているけれど、円頓の戒壇は建立されていないと否定します。戒・定・慧の三つのうち戒・定を説いたが、戒壇の実質的な建立はなかったからです。

そして、仏滅年代は像法時であって末法ではないと断定します。つまり、像法時代に天台大師が法華経の三部を解説したが、時代が像法であったため広宣流布のときではないとします(一〇二六頁)。それは、天台大師自身が「後五百歳遠沾妙道」(後の五百歳遠く妙道に沾わん。『観心本尊抄』七二〇頁)とのべているように、同じ法華経であっても内容に違いがあることがわかります。つまり、天台大師は像法時の範囲を超えなかったのです。

次に、伝教大師の法華弘通についてのべます。天台大師は円頓の戒壇は建立されていないと言ったことにたいし、伝教大師は比叡山に円頓の大乗別受戒を建立したので、伝教大師は法華弘通をされて人ではないかと問います。日蓮聖人はここにおいても像法未弘とのべ、末法流布とを徹底して区別します。ただし、法華経の行者としては天台・妙楽大師を認めます。(一〇二七頁)。では、何が違うのでしょうか。日蓮聖人は、迦葉尊者から龍樹・天台・伝教大師と次第に大乗の教えが深まったけれど、しかし、逆に日蓮聖人が不審に思うことは、この法華経を末法のためにと説き尽くされたが、未だにその教えが弘通されていないとのべます。このところから『立正安国論』のように主客の立場が変わっていきます。

 

「但し詮と不審なる事は仏は説き尽し給ども、仏滅後に迦葉・阿難・馬鳴・龍樹・無著・天親乃至天台・伝教のいまだ弘通しましまさぬ最大の深秘の正法、経文の面に現前なり。此深法今末法の始、五五百歳に一閻浮提に広宣流布すべきやの事不審無極なり」(一〇二九頁)

 

それは、「最大の深秘の正法」と言います。すなわち、「一大事の秘法」(『富木入道殿御返事』五一六頁。「一大秘法」『曽谷入道殿許御書』(九〇〇頁)にほかなりません。(『日蓮聖人御遺文講義』第四巻二八四頁)。また、「三大秘法」とする解釈がありますが、(『日蓮大聖人御書十大部講義』第六巻二九五頁)。この脈絡おいては「経文の面に現前なり」とあり、「文底秘沈」のような表現をされていませんので、『観心本尊抄』に

 

「所詮迹化・他方大菩薩等以我内証寿量品不可授与。末法初謗法国 悪機故止之 召地涌千界大菩薩寿量品肝心以妙法蓮華経五字令授与閻浮衆生也」(七一五頁)

 

とのべられた、地涌付属の寿量品の肝心である題目と思われます。ここでは、誰でもが納得できる、理路整然とした文証があることを示されたと思います。「後五百歳」の始めにこそ、「深秘の正法」「秘法」が広宣流布するときであるとのべたのです。

 

〇〔第六章〕念仏・禅・真言宗の誤り

 

次に、その「最大の深秘の正法」である「秘法」についてのべていきます。問者は「まず名を聞き次に義を聞かんと思う」と質問します。日蓮聖人はこの法門は経文に明白であるから直ちに言えると前置きをされます。この経文は「本門八品」「一品二半」を指すと思われます。しかし、その文を示す前に順序として邪義を糺すことを先決とされます。それが、法華経の「三の大事」である破邪顕正をすることです。法華経を貶めた「三の災い」を糾明されます。そして、いよいよ本書において慈覚大師の台密批判へと展開します。

 

「答云、此の法門を申さん事は経文に候へばやすかるべし。但此法門には先三の大事あり。大海は広けれども死骸をとどめず。大地は厚けれども不孝の者をば載せず。仏法には五逆をたすけ、不孝をばすくう。但し誹謗一闡提の者、持戒にして大智なるをばゆるされず。此の三のわざわひと者所謂念仏宗と禅宗と真言宗となり。一には念仏宗は日本国に充満して、四衆の口あそびとす。二に禅宗は三衣一鉢の大慢の比丘の四海に充満して、一天の明導とをもへり。三に真言宗は又彼等の二宗にはにるべくもなし。叡山・東寺・七寺・薗城、或は官主、或は御室、或は長吏、或は檢校なり。かの内侍所の神鏡燼灰となりしかども、大日如来の宝印を仏鏡とたのみ、宝剣西海に入しかども、五大尊をもつて国敵を切と思へり。此等の堅固信心設劫石はひすらぐともかたぶくべしとはみへず。大地は反覆すとも疑心をこりがたし」(一〇三〇頁)

 

つまり、念仏宗・禅宗・真言宗の三宗が災いとなっているとして、その理由をのべていきます。この中でも真言宗が災いの元凶としています。真言宗は比叡山を始めてした諸大寺の、官主(比叡山の座主)・長吏(園城寺、勧修寺の寺主)・検校(高野、熊野、日光などの頭統領)に影響をあたえ、真言化して繁栄しているとのべます。その影響力は三種神器のうち、鏡と剣の本物は失せているのに、密教の代品を平気で取り替えていることを指摘します。第六二代村上天皇の天徳四(九六〇)年九月に内裏が炎上します。このとき神鏡(みかがみ)は飛上して南殿の桜樹に懸かり、これを左大臣の小野宮実頼によって保護されたといいますが(『神皇正統記』下巻)、日蓮聖人はこのとき焼失したと見ています。ですから、この内侍所の神鏡(八咫鏡)が燼灰となったので、その代わりとして大日如来の宝印を置き換えたので、神鏡ではなく仏鏡となったとのべます。大日は摩訶毘盧遮那を訳したもので、光明遍照の義があります。その光り輝くところに同体としたと思われます。密教の本尊は大日如来の智拳印を金剛界、法界定印を胎蔵界に配しています。ですから、像形とすれば大日のこの智拳印と法界定印を神鏡に入れ代えたのですから仏鏡といえます。日蓮聖人は天皇家の王法と仏法を混淆したところに、真言亡国を指摘されたのです。(『日蓮聖人御遺文講義』第四巻二九六頁)。また、宝剣(草薙剣)が西海に沈んでしまっても、その代わりとして五大尊(五大明王)をもつて国敵を切ると思っていると批判します。方高四十里という巨大な刧石が、仙人の薄い衣によってすり減らされる長い時間をかけても、大地が転倒してもこの邪見を絶対のものと思い込んでしまっているとのべたのです。剣は邪悪なものを切り開くものですから、密教の五大尊がもつ不動・降三世・軍吒利・六足・浄心の力をもって、国敵を切り払うとしたことです。この八咫鏡と草薙剣は第四部(第三章 道教と神道の関連)にてのべましたように、日本の神道や天皇家において最も重要な宝器とされます。日蓮聖人は日本国守護の善神として、天照大神を曼荼羅に勧請されたように神祇信仰を大切にされています。この文章から本物の鏡と剣のもつ威力が代用品よりも優れていると考えていたことがわかります。

さて、この真言宗は天台大師の時には伝わっていません。伝教大師は空海と交誼を持ちましたが断絶し、真言批判に至りませんでした。伝教大師の弟子である慈覚大師(七九四~八六四年)が真言を取り入れたため、後の比叡山は真言宗と変わりなくなり、それを是正する人物もいなかったのです。慈覚大師の弟子である安然和尚(八四一~九一五年)は、少し弘法大師の邪義を糺そうとしますが、その見解は華厳を法華経の次としても真言第一は変わりませんでした。ですから、日蓮聖人は世間の立て入りの者、真言宗を立てた仲人であると批判したのです。

次に、浄土・禅・真言宗の謬りは何かをのべます。浄土宗については曇鸞・道綽・善導・法然にふれます。曇鸞・道綽・善導は中国の浄土宗の三祖とよばれます。曇鸞(四七六~五四二年)は、菩提留支より観無量寿経を授けられて浄土門に入ります。『往生論註』に龍樹の『毘婆沙論』を引いて念仏を易行道とし、他経を難行道としました。道綽(五六二~六四五年)は『安楽集』上巻に、他経は聖道門として浄土宗の浄土門のみが救済されるとします。善導(六一八~六八一年)は『観行疏』に、浄土宗のみが正行であり他経はすべて雑行で往生しないとしました。法然(一一三三~一二一二年)は善導の教えを継いで、末法の下根下機は浄土の念仏一行を説きます。これらは機根を基本としたものです。日蓮聖人の時を中心とした教典の解釈と異なります。法然の前に慧心院源信(九四二~一〇一七年)は『往生要集』を著し、永観(一〇三二~一一一一年)は『往生十因』を著して念仏の成仏を認めていました。ですから、比叡山第六一代の顕真座主(一一三〇~一一九二年)も、吉水に法然を尋ねて弟子となっていました。このように、五〇年の間に日本中が念仏の機根思想に陥り、法然の弟子となり謗法堕獄の原因を作ったとのべます。そして、法然は念仏停止の院宣により、承元三(一二〇七)年に藤井元彦に還俗されて土佐に流罪されます。また、死後の嘉禄二(一二二七)年には大谷の墳墓が破却されます。いわゆる「嘉禄の法難」が六月にが起きます。これは比叡山の衆徒が「専修念仏」の義を訴え、法然の大谷の墓を破却するという暴挙にでたのです。七月には院宣、御教書をもって「念仏停止の令」があり、法然の高弟、隆寛と甲西は流罪され、隆寛は奥州からのちに対馬に流罪されるなどのの弾圧がありました。(第一部第四章 鎌倉遊学と仏教界を参照)。日蓮聖人はこの処遇に法然は悪霊となったとのべます。

 

「結句は法然流罪をあだみて悪霊となつて、我並に弟子等をとがせし国主・山寺の僧等が身に入て、或は謀反ををこし、或は悪事をなして、皆関東にほろぼされぬ。わづかにのこれる叡山東寺等の諸僧は、俗男俗女にあなづらるゝこと猿猴の人にわらわれ、俘囚が童子に蔑如せらるるがごとし」(一〇三二頁)

 

 法然や弟子を流罪死罪にした恨みを、後鳥羽院や比叡山・三井寺の僧に憑依して謀反を起こさせ、それにより鎌倉の幕府に滅ぼされたとのべます。真言宗に祈祷を委せた朝廷の敗北の原因のほかに、法然の念仏徒たちの怨念もあったとみていたのです。

 次に、禅宗についてふれます。禅宗は承久の乱の比叡山や東寺の衰退の隙に、「教外別伝」の教えを掲げ持斎者の風体をして、国を滅ぼすイナゴとなったと表現されます。禅宗においては、釈尊が華を拈(ひね)ると迦葉だけがその意図を悟って破顔微笑します。心が通じニコッとされたのです。これを拈華微笑(ねんげみしょう)といいます。そして、その悟りとは以心伝心による見性成仏とします。『大梵天王問仏決疑経』の中に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙の法門があり、文字を立てず教外に別伝して迦葉に付属する、との経文を依拠として承伝してきました。『蓮盛鈔』にこの引用と経典の疑義をのべています。

 

[禅宗云、涅槃時世尊登座拈華示衆。迦葉破顔微笑。仏言吾有正法眼蔵涅槃妙心実相無相微妙法門。不立文字教外別伝付属摩訶迦葉而已。問云何経文哉。禅宗答云大梵天王問仏決疑経文也。問云件経何三蔵訳哉。貞元・開元録中曽無此経。如何。禅宗答云此経秘経也。故文計天竺渡之云云。問云何聖人何人師の代に渡ぞや。無跡形也。此文は上古の録に不載中頃より載之。此事禅宗の根源也。尤可載古録。知偽文也](一七頁)

 

つまり、釈尊はこの教えを迦葉だけに付属されたとします。しかし不立文字教外別伝と言って、経文を無用なものと否定することは、涅槃経では「仏の所説に順ぜざる者あれば、当に知るべしこれ魔の眷属なり」と説いています。日蓮聖人はここに「禅天魔」と批判されたのです。また、「拈華微笑」の伝説を根拠付けるために、中国で作られた偽経とされる『大梵天王問仏決疑経』を引用するのは「不立文字」と矛盾します。これらの念仏無間や禅天魔については、すでに初期から主張されてきたことです。

 そして、真言宗についてのべます。日蓮聖人の本書の目的の一つはこの真言批判にあります。蒙古襲来にあたり真言亡国の謬りを起こさないための諌言です。しかも、浄土・禅宗の災いをはるかに超えた、大僻見」(一〇三三頁)であるとして真言宗の誤りを究明します。この真言宗の教えは、

 

「善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵、大日経・金剛頂経・蘇悉地経を月支よりわたす。此三経の説相分明なり。其の極理を尋れば会二破二の一乗、其の相を論ずれば印と真言と計なり。尚華厳・般若の三一相対の一乗にも及ず、天台宗の爾前の別円程もなし。但蔵通二教を面とす」(一〇三三頁)

 

  天台四教

   蔵通別円・・方等―――――会二破二の一乗――――真言宗・法相宗

   別円・・・・華厳・般若――三一相対の一乗――――華厳宗・三論宗

   円・・・・・法華経――――会三帰一の一乗――――天台宗

 

 つまり、真言宗は「会二破二の一乗」「印と真言」だけが特徴であるとのべます。その「会二破二の一乗」とは、声聞・縁覚の二乗を一つの一乗に融合(会)とすることで、その解き方を融合するか打破するかを会二破二といいます。しかし、菩薩の破会は説きません。声聞・縁覚の二乗にとらわれず、それよりも菩薩を讃えるもので、蔵経・通教の範疇に入ります。華厳宗の三一相対とは、三乗のほかに一乗を立てることをいいます。これらは天台宗の爾前の別円程もないと言われたのです。天台宗は「会三帰一」の一乗を説きます。しかし、二破二は華厳・般若の三一相対の一乗思想や、爾前の別円にも及ばない蔵通の教理にすぎません。『観心本尊抄』に、

 

「爾前迹門円教尚非仏因。何況大日経等諸小乗経。何況華厳・真言等七宗等論師人師宗。与論之不出前三教。奪云之同蔵通。設法称甚深未論種熟脱。還同灰断。化無始終是也。譬如雖為王女懐妊畜種其子尚劣旃陀羅」(七一四頁)

 

とのべていたことです。善無畏三蔵と一行の関係については『曽谷入道許御書』(八九七頁)にのべていました。善無畏はいかにして真言宗を天台宗よりも優位に置くかを考え、一行の三論・法相・華厳・天台宗の学識を利用した経緯をくわしくのべています。善無畏は大日経の入真言門住心品の「極無自性心」「如実一道心」の文を、法華経の「四十余年未顕真実」の文に対抗させ、入曼荼羅具縁品以下の品はインドにては同じ一経であると騙します。これにより法華経の「已今当の三説超過」の文、神力品の「四句要法」の文に対抗させたのです。では、法華経に勝れたものは何かを考え、それを印と真言の「事」にあると説いたのです。これが、「理同事勝」です。真言宗はここに密教の優位性を主張します。空海は大日如来の悟りを密教とし、六大無碍・四種曼荼羅・三密加持の教理をもって即身成仏をのべています。禅定の境地に入り、手に印契を結ぶ身密、口に真言を唱える口密、心に仏を憶念する意密を真言の三密といいます。いわゆる「三密相応の秘法」(一〇三五頁)です。これに、仏力が加わった三密加持に即身成仏を説きます。そこで、天台の一念三千は意密の範囲であり、三密相応の真言宗のほうが勝れているとしたのです。

 次に伝教大師にふれます。伝教大師は入唐以後の日本においては、戒壇建立の問題に奔走し真言論破は後事に託したが、『依憑集』に真言を破邪した文があるとのべています。(一〇三六頁)。その文とは、『開目抄』に引かれた、「故伝教大師云 新来真言家則泯筆受之相承 旧到華厳家則隠影響之軌模等」(五七九頁)の文です。

ついで、弘法大師にふれます。弘法大師は印と真言を習い、帰国後には天台宗に対抗するため華厳宗を利用します。つまり、弘法大師は天台宗の法華経には勝てないと知っていたのです。にも関わらず印・真言をどうにかして優位に立たせるため、それも龍猛菩薩の『菩提心論』や善無畏の名前を引用したのです。このような見方は本書の特徴といえます。弘法大師は一番勝れた宗派は真言宗、二番目は華厳宗、三番に天台宗とします。ですから、日蓮聖人は「仏法の事は申にをそれあれども、もつてのほかにあらき(荒量)事どもはんべり」(一〇三六頁)と、弘法大師は粗雑な考え方をするとのべます。それは、

 

「問云、弘法大師の十住心論・秘蔵宝鑰・二教論に云 如此乗々自乗得名望後作戲論。又云 無明辺域非明分位。又云 第四熟蘇味。又云 震旦人師等諍盜醍醐各名自宗等[云云]。此等の釈心如何。答云、予此の釈にをどろいて一切経並大日の三部経等をひらきみるに、華厳経と大日経とに対すれば法華経戲論、六波羅蜜経に対すれば盜人、守護経に対すれば無明の辺域と申経文は一字一句も候わず。此事はいとはかなき事なれども、此の三四百余年に日本国のそこばくの智者どもの用させ給へば、定てゆへあるかとをもひぬべし。しばらくいとやすきひが(僻)事をあげて余事のはかなき事をしらすべし」(一〇三七頁)

 

大日経に対すれば法華経は戲論・・六波羅密経に対すれば盗人・・守護経に対すれば無明の辺域

 

空海は淳和天皇の勅命により、天長七(八三〇)年に南北各宗の碩学に綱要を提出することになり、『秘密曼荼羅十住心論』十巻と、それをまとめた『秘蔵宝鑰』三巻を献上します。(『聖愚問答鈔』三六五頁)。前者は広本、後者は略本といいます。『弁顕密二教論』は早い頃の著作とされています。序説・引証喩釈・引証註解・結語から構成され、内容は第一に能説の仏身、第二に所説の教法、第三に成仏の遅速、第四に教益の勝劣についてのべられ、要点は顕教と密教とで著しい相違があり、密教が勝れていることをのべたものです。とくに、天台大師が六波羅密経の醍醐を盗んだとあるのは、もってのほかで六波羅経が中国に伝来したのは天台大師の没後のことだからです。(『真言見聞』六五七頁)。似た事例として得一(徳一、徳溢)が、天台大師が『解深密経』の三時教を誤りとし、「三寸の舌をもつて五尺の身をたつべしと罵しり」批判したとき、伝教大師は『解深密経』は天台大師が没後に伝来した経典であるので、「死して已後にわたれる経をばいかでか破給べき」と批判します。このとき得一は返答に詰まるのみならず、「舌八に裂けてさけて死候ぬ」とのべます。(『私聚百因縁集』七巻二五丁、「舌口中裂伝云爾」。『破邪弁正記』「舌口中爛」)。そして、天台大師が醍醐を盗んだというなら、法華経を醍醐と説いた釈尊を始め、多寶仏、インドの龍樹・天親も盗人になると反論します。また、弘法大師は法華経を戯論というが、大日経や金剛頂経などに文証があるかを反詰します。これらの主張は根拠がないことをのべたのです。たとえ経典にそう書いてあっても、訳者の誤りということもあるので、慎重にすべきであるとして、孔子は九思して一言をのべたことを挙げます。また、周公旦は湯浴みし頭洗うときは、三度髪を握ったといい、食事には三度吐いたという故事を引きます。これは、智人とは慎重なことをのべたものです。吐哺捉髪(とほそくはつ)というのは、周公が子の伯禽に教えた教訓です。周公、子を戒めて曰く、我は文王の子、武王の弟にして、成王の叔父なり。我、天下に於いて、亦た賤しからず。然れども我はに三たび髪を捉り、一飯に三たびを吐き、起ちて以て士を待つ。猶ほ天下の賢人を失はんことを恐る。子、魯に之かば、慎みて国を以て人に驕ること無かれ」。周公は伯禽に自分は天下において身分は高い位にあるが、それでもなお、客が来ると洗髪中でも髪を握ったまま、食事の間に口の中の食べ物を吐き出してでも天下の士と会うことを優先させるのは、天下の賢人を失うことを恐れるからである。お前も魯へと行ったら、驕ることなく慎んで人と接することを教えたものです。(「韓詩外伝」「史記魯周公世家」)。為政者が賢者を大切にする心得をのべたといいます。

そこで、この邪説を信じた正覚房覚鑁(一〇九五~一一四三年)は、「舎利講式」(舎利供養式)で法華・華厳の仏僧は真言師の履き物取りにも及ばないとしたことを挙げます。

 

「聖覚房が舎利講の式云 尊高者也不二摩訶衍之仏。驢牛三身不能扶車。秘奥者也両部曼陀羅之教。顕乗四法不堪採履と[云云]。顕乗の四法と申は法相・三論・華厳・法華の四人、驢牛の三身と申は法華・華厳・般若・深密経の教主の四仏、此等の仏僧は真言師に対すれば聖覚・弘法の牛飼、履物取者にもたらぬ程の事なりとかいて候」(一〇三八頁)

 

「不二摩訶衍之仏」とは大日如来のことです。「驢牛三身不能扶車」の驢牛(露牛)とは、顕教の釈尊は大日如来の車をひく驢馬や牛にも足らないと揶揄したのです。また、顕教の教えは両部の曼荼羅を説く密教に比べれば履き物取りにも及ばないとしたのです。これは、弘法大師にその責任があることをのべたのです。覚鑁の行いは釈尊や大自在天・婆籔天・那羅延天のなどの四聖を、椅子の脚としてその座において法を説いたという、インドの大慢バラモンの非道をあげます。これは、あたかも真言師が灌頂のとき敷曼荼羅として諸仏の上に立つのと同じとします。禅宗も仏の頂を踏む大法と言うのは(『仏祖通載』十三)、真言師の敷曼荼羅と同じ仏を卑下した邪法であるとのべます。その大慢バラモンの誤りを糺した『西域記』の賢愛論師(跋提羅楼支)にふれます。国王の前で法論をさせたところ大慢バラノンの邪義が明らかになります。国王は先王をも誑かしたことに怒って大慢を火刑に処そうとしますが、賢愛論師の諭しにより国中を引き回して懺悔をさせます。大慢は憤りのため吐血して病にふせます。これを聞いた賢愛論師は見舞いにいきますが、大慢は反省せず大乗を誹謗し、その場において大地が裂き破れて、生きながらに無間地獄に堕ちたという故事を引きます。つまり、真言師や禅宗が釈尊を蔑ろにしていることと同じとのべたのです。したがって、その罪も大慢と同じように堕獄であるとされます。また、中国の三階禅師(信行。五四〇~五九七年)にふれます。三階禅師は天台大師と同年代で『三階仏法』(さんがい)四巻を著します。三階とは第一階は善を以て悪を覆う衆生、第二階は悪を以て善を覆う衆生として、諸仏もこれを済度しないとします。第三階の末法は一乗三乗、高下浅深を分けない普遍妥当の教えが必要として「普経」を作ります。末法の機根に法華経を弘める者は地獄に堕ちるとします。そして、昼夜六時の勤行と、一年四時の座禅を行い生き仏のように慕われます。『法華伝』(九巻十九丁)によりますと、弟子の慈門寺の孝慈が三階教に帰依したとき、一人の少女が法華経を読誦しているのを見て、大乗経は時機不相応の別教であるから阿鼻地獄に堕ちると言います。少女はどちらが仏意に叶っているか確かめましょうと勝劣を判じます。そのとき孝慈は声を発することができなくなります。その他の僧も口が利けなくなったといいます。『迹門自鏡録』(上十三丁)には神都福先寺の遂が一時のあいだ命終したところ、三階禅師が大蛇身となり体全体が口となって三階教の信徒を飲み込んでいたのを見たという文が載せられています。当座に音(声)を失ったのは弟子の孝慈で、後に大蛇と成なったのは師の三階禅師信行です。師弟がともに悪道に堕ちた例をあげたのです。この引例は善導や法然が立てた「千中無一」の教えと同じで、念仏信者も三階教と同じように無間地獄に堕ちるとのべます。

ここまで、真言・禅門・念仏の邪義を糺してきますが、これよりも最大の悪事があるとして、慈覚が真言に与同したことにより、山門が密教を勝れた教えと思い真言に帰伏したことをあげます。ここからは弘法大師が立てた真言密教(東密)の破折から、比叡山の密教化した台密の批判に入ります。日蓮聖人の諸宗批判の最後にあたる、台密批判の発表となります。

 

〇〔第七章〕台密批判に着手

 

これまでの密教批判は弘法大師の真言宗批判でした。ここからの台密批判は日本仏教の中枢であり、社会的にも最大の勢力をもつ天台宗比叡山を批判することでした。与同天台の立場から布教してきたことからしますと、大きな矛盾とみられることです。しかし、これまでの積年の台密に対する疑義を本格的に批判する時期になったとうけとれます。諸宗批判の最後とした日蓮聖人の長期的な布教戦略と言えましょう。

 

「此等の三大事はすでに久くなり候へば、いやしむべきにはあらねども、申さば信ずる人もやありなん。これよりも百千万億倍信じがたき最大の悪事はんべり。慈覚大師は伝教大師の第三の御弟子なり。しかれども上一人より下万民にいたるまで伝教大師には勝てをはします人なりとをもえり。此人真言宗と法華宗の奥義を極させ給て候が、真言は法華経に勝たりとかかせ給へり。而を叡山三千人の大衆、日本一州の学者等一同帰伏の宗義なり。弘法の門人等は大師の法華経を華厳経に劣とかかせ給るは、我がかたながらも少し強きやうなれども、慈覚大師の釈をもつてをもうに、真言宗の法華経に勝たることは一定なり。日本国にして真言宗を法華経に勝と立をば叡山こそ強かたきなりぬべかりつるに、慈覚をもつて三千人の口をふさぎなば真言宗はをもうごとし。されば東寺第一のかたうど(方人)慈覚大師にはすぐべからず」(一〇四〇頁)

 

慈覚大師円仁(七九四~八六四年)は修禅大師義真(七八一~八三三年)寂光大師円澄(七七一~八三六年)に続いて相承された第三代座主です。円澄は西塔を開き慈覚大師は横川を開いています。法華経と伝教大師の立場からしますと、真言宗の邪義を糺すのは天台宗であるべきです。しかし、その肝心の慈覚大師は真言宗の方が法華経より勝れている(「真言勝法華」)としたのです。ですから、伝教大師よりも高徳と思われた慈覚大師の言うことですから、誰しもが信じ従ったのです。比叡山の学僧も真言宗を批判することができなくなり、東寺からすれば最大の味方となったのです。そこを、日蓮聖人は「最大の悪事」と糾弾されたのです。同じように、禅宗が弘まったのは天台密教を大成した五大院安然和尚にあるとします。『教時諍論』(『教時諍』)に禅宗(仏心宗)を第二とし法華宗をその下の第三としたからです。また、念仏宗が弘まったのは恵心僧都が『往生要集』(天台首楞厳院沙門源信撰)の序分に、「それ往生極楽の教行は、濁世末代の目足なり。道俗貴賎、、誰か帰せざる者あらん。ただし顕密の教法は、その文、一にあらず。事理の業因、その行これ多し。利智精進の人は、いまだ難しと為さざらんも、予が如き頑魯の者、あに敢てせんや。この故に、念仏の一門に依りて、いささか経論の要文を集む。これを披いてこれを修むるに、覚り易く行ひ易からん。惣べて十門あり。分ちて三巻となす。一には厭離穢土、二には欣求浄土、三には極楽の証拠、四には正修念仏、五には助念の方法、六には別時念仏、七には念仏の利益、八には念仏の証拠、九には往生の諸業、十には問答料簡なり。これを座右に置いて、廃忘に備へん」(日蓮宗 現代宗教研究所の文献資料より抜粋)と、念仏を勧めたからです。比叡山の僧綱が機能せず、禅・念仏宗が弘まった原因はここにあると指摘されたのです。この慈覚大師が真言宗を認め、安然和尚が禅宗を認め、恵心僧都が念仏を認めた責任を、この三師は『蓮華面経』の「獅子の身の中の虫」(一〇四一頁)とし、亡国の因縁を作った者とします。

 次に、伝教大師にふれます。伝教大師は法華経が真言に勝れていることは、師の行表や鑑眞和尚が招来した『天台三大部』を学び修得していたとのべます。高雄山寺において南都六宗を帰伏させ謝表を奉って、仏教界を法華経に統一されていました。その上において世間的な配慮から入唐し、天台・真言を学び帰朝してからも法華経を説きます。それは法華経が真言よりも勝れているという基にあったことです。ですから、真言には特別の宗をつけず、天台法華宗の止観・真言(遮那)の二業として、一二年間の期間を官費をもって修学させました。一乗止観院(根本中堂)においては、法華経・金光明経・仁王経を鎮護国家の三部経として長講させ、天皇の宣旨により三種神器に擬えたとのべます。それは、日本国の重宝である神璽(八尺瓊 (やさかに)の勾玉)・宝剣(天叢雲剣)・内侍所(ないしどころの八咫鏡)の三種神器と同等と判断されます。このことは義真・円澄大師までは守られたが、慈覚大師が破ったとします。慈覚大師は中国に渡り、顕密二教を顕密二教を宗叡・全雅・興善寺の元政(げんじょう)・青龍寺の義真・玄法寺の法全(はっせん)・宝月(ほうがち)・大安国寺の侃(かん)阿闍梨・浄影寺の惟謹(いきん)の八師(「高僧宗叡に悉曇梵學研究し全雅阿闍梨に金頂の潅頂曼荼羅相傳」)の真言師や、天台宗の広修・維蠲に習います。この八師については、密教の宗叡・全雅・元政・義真・法全・侃阿闍梨と、天台の志遠・宗頴の八人とする説などがあります。(『日蓮聖人遺文全集講義』第一五巻下二九七頁)。慈覚大師は始めから真言宗が勝れていると思っていたとのべます。師の伝教大師は中国にて密教を学ぶ期間が短いため、深いところまでには至らなかったと思ったのです。慈覚大師は帰朝して文徳天皇の仁寿元(八五一)年に、東塔の止観院の西に総持院という大講堂を建て、真言の金剛界の大日如来を本尊とします。そして、善無畏の『大日経疏』(台密では『大日経義釈』)を手本として、『金剛頂大教王経疏』七巻と『蘇悉地羯羅経略疏』(そしつじからきょうしょ)七巻を著します。この『蘇悉地羯羅経略疏』に仏教には顕示教と秘密教があり、顕示教は世間一般の世俗(俗諦)と、仏法の勝義(真諦)の融合一体を説かないとします。秘密教は俗諦と真諦の一体融合を説くから勝れているとします。その秘密教にも理秘密教の華厳・般若・維摩・法華経・涅槃経は真言密印を説かないので、それを説く事理具密教の大日経・金剛頂経・蘇悉地経よりも劣っているとします。つまり、事理具密教は真俗二諦と事と理の一体不二だけではなく、真言と密印の事相を説くことに真言宗が勝れているとします。いわゆる、「理同事勝」を主張したのです。慈覚大師はこの解釈は善無畏の『大日経疏』によるものであるから、間違いないと思いながらも、少しの疑念があったのか、また、真実性を誇張するためか、日輪を射る夢相に仏意に叶ったと思い後世に伝えようとしたとのべます。。寛平親王(宇多天皇)の撰で慈覚大師の別伝を引用します。

 

「大師造二経疏成功已畢 中心独謂此疏通仏意否乎。若不通仏意者不流伝於世矣。仍安置仏像前 七日七夜翹企深誠勤修祈請。至五日五更夢 当于正午仰見日輪 而以弓射之 其箭当日輪日輪即転動。夢覚之後深悟通達於仏意 可伝於後世等」(一〇四三頁)

 

 これは、慈覚大師は金剛頂経と蘇悉地経の疏を著述し、この内容が仏の意に叶うかを確かめるため、仏像の前に二つの疏を置いて七日七夜の祈請を誓います。その五日目の明け方に夢を見ます。それは、太陽を弓で射るとその矢が太陽に命中し、射られた太陽は落ちたというものです。この夢想に二つの疏は仏意に通達したものとして伝導を決意したというものです。日蓮聖人は『祈祷鈔』(六八六頁)にこの夢想は「忌むべき夢」とされ、歴史的事実として殷の紂王が日輪を的にして射ることにより国を滅ぼした例を挙げます。また、『曽谷入道殿御書』には、

 

「慈覚大師の法華経・大日経等の理同事勝の釈は智人既に許しぬ。愚者争か信ぜざるべき。慈覚大師は法華経と大日経との勝劣を祈請せしに、以箭射日見しは此事なるべし。是は慈覚大師の心中に修羅の入て法華経の大日輪を射るにあらずや」(八三九頁)

 

と慈覚大師が日輪を射ると日輪が転動(回転しながら動くこと)した夢は凶夢とされます。承久の乱を現証として真言亡国をのべるときにも引用されます。比叡山は仁明天皇の勅許を受けて真言化し、木画の二像を開眼供養するにも、すべての宗が大日如来の印と真言との事相を用いるようになったとし、その起因を慈覚大師にみたのです。慈覚大師の「理同事勝」の説が鎌倉時代においても絶対的なものとして存続していたことがわかります。そこで、慈覚大師の真言宗が勝れているという解釈を誤りとし、法華経のほうが勝れているとする論拠をのべます。つまり、仏法の正邪を判定する基準を示されます。

 

「疑云、法華経を真言に勝と申人は此釈をばいかんがせん。用べきか、又すつべきか。答、仏の未来を定云、依法不依人。龍樹菩薩云 依修多羅白論。不依修多羅黒論。天台云 復与修多羅合者録而用之。無文無義不可信受。伝教大師云 依憑仏説莫信口伝等[云云]。此等の経・論・釈のごときんば夢を本にはすべからず。ただついさして法華経と大日経との勝劣を分明に説たらん経論の文こそたいせち候はめ」(一〇四四頁)

 

その基準とは直々に(ついさして)経論の文証が大切であり、単純な夢判断ではないとのべたのです。印・真言がなければ開眼ができないとするのはおかしな非義で、真言宗が伝来する以前にも開眼供養は行われており、まして、その頃は木画像が歩いたり説法をし物を言ったが、今はその利生は失われたとのべます。その証拠は経論をあげなくても、その慈覚大師が疏に自ら書いてあるとします。つまり、日輪を射ると見た夢は、仏教や外典においても吉夢ではないとするからです。その夢想が凶夢である例証を引きます。仏典からは『涅槃経』のマカダ国の阿闍世王が天から月が落ちる夢を見て、耆婆大臣に占わしてみると釈尊が入滅する夢と判断します。また、『大智度論』に修祓多羅は天から太陽が落ちる夢を見て、自らも占うと釈尊が夜半に入滅することを知ったこと。『長阿含』には修羅が帝釈と闘うときは、まず帝釈の臣下である日月を射るとあります。外典からは『史記』の夏の桀王、殷の紂王という悪王は、常に太陽を射たため身を滅ぼし国を滅亡させました。『過去現在因果経』には摩耶夫人は太陽を孕んだ夢を見て釈尊をお産みになったと説かれています。ゆえに、『仏本行集経』に釈尊の幼名を日種と言う由来を挙げます。そして、日本国というのは『神代巻抄』に、天照大神が日天である太陽の神(日神)であることを引きます。日神は大日霊尊(おおひるむちのみこと)といわれ、日神出生の本国であることから日本国と称したという説があります。(『日蓮聖人御遺文講義』第四巻四一八頁)。これらのことをもって、慈覚大師の金蘇二疏と比べます。すなわち、慈覚大師の日輪と比べるのは、先ずは天照大神は日神であること、伝教大師は法華経を仏教の中における日輪と定めたこと、日種と言われた釈迦牟尼仏と、そして、法華経は日天子(『開結』五二三頁)と説かれた経王であることを比較されるのです。つまり、日輪を射る夢は凶夢であることをのべたのです。

このことの現証として挙げたのが、承久の乱の真言師の祈祷でした。この結末からして蒙古調伏に真言宗を起用すれば、過去と同じ轍を踏むとのべたのです。これは、鎌倉の仏教界の現状をのべたもので、このままでは亡国は必然のことであると、身をもって警告されているのです。ここまでは台密批判をのべています。

 

〇〔第八章〕三度の高名は閻浮第一の智人の証拠

 

 台密の批判から、末法に法華経を弘める自身についてのべていきます。破邪から顕正に展開します。賢明な国主であるなら国家の安泰を願って、日蓮聖人を頼るべきであるが、讒言を信じてかえって日蓮聖人に迫害を加えたため、結果的に正嘉・文永の天変地妖は法華経の行者を迫害することにより、梵天・帝釈・日月・四天・衆星・地神などの諸天が、これらの謗法の者を治罰するために顕したという「謗法治罰」をのべています。これほどに国内に強敵をもった行者はいないことから、「閻浮第一の者としるべし」(一〇四七頁)とのべます。閻浮提のなかに第一の法華経の行者と確定されるほど、迫害が熾烈であり身命に及んだということです。仏法の流布について、浄土三部経の題名であり弥陀の名号である念仏の流布は、法華経の題目が弘まる順序とします。その念仏は恵心僧都・永観・法然の三人の力により流布し、この権教が弘まれば必ず実教が弘まるのは道理であるとのべます。

 

「権大乗経の題目の広宣流布するは、実大乗経の題目の流布せんずる序にあらずや。心あらん人は此をすい(推)しぬべし。権経流布せば実経流布すべし。権経の題目流布せば実経の題目又流布すべし。欽明より当帝にいたるまで七百余年、いまだきかず、いまだ見ず、南無妙法蓮華経と唱よと他人をすゝめ、我と唱たる智人なし。日出ぬれば星かくる。賢王来れば愚王ほろぶ。実経流布せば権経のとどまり、智人南無妙法蓮華経と唱えば愚人の此に随はんこと、影と身と声と響とのごとくならん。日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし。これをもつてすいせよ。漢土・月支にも一閻浮提の内にも肩をならぶる者は有べからず」(一〇四八頁)

 

 釈尊の一代五時の教えは先権後実という方便から真実へ説き進めています。これと同じように法華経の題目が流布することは必定のこととします。この教法流布の思考は『教機時国抄』にのべています。「五教法流布先後者未渡仏法国未聴仏法者。既渡仏法国信仏法者。必知先弘法可弘後法。先弘小乗権大乗後必可弘実大乗」(二四三頁)。

 

日蓮聖人の「時」の概念は左記のことが考えられます。

1.「今本時」という現在を永遠の時としたこと

2.「末法今時(こんじ)」は仏教が滅亡する時(白法隠没)とみたこと

3.「教法流布の前後」から過去に題目を広められなかった時があること

4.題目が広まる時

5.選ばれた者(「上行別付」)が出現して弘める時

 本書のこの文章はこの中の(3)の五義により、浄土教の流布は題目の流布するはじまりとのべています。そして、蒙古襲来の未来記が現実となったなかで、南無妙法蓮華経の題目を広宣したのは自分一人であることから、閻浮第一の法華経の行者と称し、法華経流布の必然性をのべたのです。この行者の自覚により、(2)から(5)の項目が充当されたことになります。次に、つねずねのべる正嘉・文永の天変地妖について、この災難の起きる理由は日蓮聖人のみが知っているとのべます。

 

「問云、正嘉の大地しん文永の大彗星はいかなる事によつて出来せるや。答云 天台云 智人知起蛇自識蛇等[云云]。問云、心いかん。答云、上行菩薩の大地より出現し給たりしをば、弥勒菩薩・文殊師利菩薩・観世音菩薩・薬王菩薩等の四十一品の無明を断ぜし人々も、元品の無明を断ぜざれば愚人といわれて、寿量品南無妙法蓮華経の末法に流布せんずるゆへに、此の菩薩召出されたるとはしらざりしという事なり。問云、日本・漢土・月支の中に此事を知る人あるべしや。答云、見思を断尽し、四十一品の無明を尽る大菩薩だにも此事をしらせ給はず、いかにいわうや一毫の惑をも断ぜぬ者どもの此事を知べきか」(一〇四八頁)

 

 涌出品において地涌の菩薩が出現した理由を、弥勒・文殊師利・観世音・薬王菩薩などの仏に次ぐ智慧をもつ菩薩でも知らなかったとのべます。これは迹化と本化の違いを示したのです。ここで、日蓮聖人はその原因を具体的にのべて、智人であり上行菩薩であることを明かすのです。また、中国の平王や周の幽王の出来事は、その預言の通りになったように物事には前兆があることをのべたうえで、

 

「今の大地震・大長星等は国主日蓮をにくみて、亡国の法たる禅宗と念仏者と真言師をかたうどせらるれば、天いからせ給ていださせ給ところの災難なり」(一〇四九頁)

 

と、国主とそれに与同する禅・念・真言の諸僧を諸天は治罰したとのべ、それを最勝王経・仁王経・守護経を引いて証文とします。そして、これら三宗の元祖を「三虫」(一〇五一頁)とし、天台宗の慈覚・安然・恵心を法華経と伝教大師の獅子身中の「三虫」(一〇五二頁)と指摘します。釈尊の教を誤って解釈し、仏教を内部から邪道とし、伝教大師の天台宗を破壊し堕獄の悪因を作ったのは天台僧であると糾弾したのです。そして、日蓮聖人の「三度の高名」(一〇五三頁)をのべます。これは智者としての表明となり、その紛れもない理由を示されたのです。

 

「外典云、未萠をしるを聖人という。内典云、三世を知を聖人という。余に三度のかうみやう(高名)あり。一には去し文応元年[太歳庚申]七月十六日に立正安国論を最明寺殿に奏したてまつりし時、宿屋の入道に向云、禅宗と念仏宗とを失給べしと申させ給へ。此事を御用なきならば、此一門より事をこりて他国にせめられさせ給べし。二去し文永八年九月十二日申時に平左衛門尉向云、日蓮は日本国の棟梁也。予を失は日本国の柱橦を倒なり。只今に自界反逆難とてどしうちして、他国侵逼難とて此の国の人々他国に打殺るのみならず、多くいけどりにせらるべし。建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をばやきはらいて、彼等が頚をゆひのはまにて切らずは、日本国必ほろぶべしと申候了。第三去年[文永十一年]四月八日左衛門尉語云、王地に生たれば身をば随られたてまつるやうなりとも、心をば随られたてまつるべからず。念仏の無間獄、禅の天魔の所為なる事は疑なし。殊に真言宗が此国土の大なるわざわひにては候なり。大蒙古を調伏せん事真言師には仰付らるべからず。若大事を真言師調伏するならば、いよいよいそいで此国ほろぶべしと申せしかば、頼綱問云、いつごろ(何頃)かよせ候べき。日蓮言、経文にはいつとはみへ候はねども、天の御けしきいかりすくなからずきうに見へて候。よも今年はすごし候はじと語たりき」。此の三の大事は日蓮が申たるにはあらず。只偏に釈迦如来の御神我身に入かわせ給けるにや。我身ながらも悦び身にあまる。法華経の一念三千と申大事の法門はこれなり」(一〇五三頁)

 

このことは前述しましたように、三度の諫暁をいいます。法華経の行者としての実績といえます。

一 文応元年七月十六日に立正安国論を最明寺殿に提出したときに自界反逆を予言したこと

二 文永八年九月十二日に平左衛門尉に逮捕されたときに自界反逆・他国侵逼があると予言したこと

三 文永十一年四月八日に平左衛門に年内に蒙古襲来の他国侵逼を予言したこと

 この言葉には外典や仏教で説く聖人としての資格を、日蓮聖人は具えているという意思があります。そして、この諫暁を行ったことは、釈尊との約束を実行できたという安堵感があります。これを次のように表現されます。

 

「此の三の大事は日蓮が申たるにはあらず。只偏に釈迦如来の御神我身に入かわせ給けるにや。我身ながらも悦び身にあまる。法華経の一念三千と申大事の法門はこれなり。経に云、所謂諸法如是相と申は何事ぞ。十如是の始の相如是が第一の大事にて候へば、仏は世にいでさせ給。智人起をしる、蛇みづから蛇をしるとはこれなり。衆流あつまりて大海となる。微塵つもりて須弥山となれり。日蓮が法華経を信じ始しは日本国には一渧一微塵のごとし。法華経を二人・三人・十人・百千万億人唱え伝うるほどならば、妙覚の須弥山ともなり、大涅槃の大海ともなるべし。仏になる道は此よりほかに又もとむる事なかれ」(一〇五四頁)

 

と、釈尊との一体感をのべ法悦とされています。それを一念三千とのべます。ここに本書の帰着があると言うように、「三度の高名」以下は日蓮聖人の本懐をのべた文章と思われます。(『日蓮聖人御遺文講義』第一五巻下三四五頁)。「三の大事」とは三度の諫暁のことで、その内容は念・禅・真言宗を亡国の悪法とのべたことです。この未来の予見ができたのは釈尊の魂が日蓮聖人の身体に入り、日蓮聖人の口を借りてできたこととのべます。つまり、仏の未来記と重なるのです。この言葉は信仰の極致と思います。それを「一念三千と申大事の法門」とのべます。「九界即仏界・仏界即九界」の観心を体得された発言といえます。教学としては事具一念三千となりましょう。天台大師は一念三千を十如実相から立てました。「諸法実相」とは諸法即実相のことで、現実にあることがそのまま実相であると説きます。したがって、現象の一々から全体をみることができるという一即一切を説きます。これを具体的に説いたのがを十如是の体用因果です。日蓮聖人は十如是の始めの相如是が大事であるとのべています。「如是相」とは、外より見て判別される事物の相状をいいます。『法華玄義』には「相以て外に拠る覧て別つ可し」、『釈籖』には「相はただ色にあらわれる」とあります。相とは前相・瑞相も含まれます。つまり、正嘉以来の天変地異の現象を、地涌の菩薩が出現された吉瑞とのべた根拠がここにあります。『観心本尊抄』に、

 

「此菩薩蒙仏勅近在大地下。正像未出現。末法又不出来大妄語大士也。三仏未来記亦同泡沫。以此惟之 無正像出来大地震大彗星等。此等非金翅鳥・修羅・龍神等動変。偏四大菩薩可令出現先兆歟。天台云 見雨猛知龍大見花盛知池深等[云云]。妙楽云 智人知起蛇自識蛇等」(七二〇頁)

 

 末法に法華弘通を付属され、立正安国を主張され妙法五字を下種されたことを、法悦であるとのべていると思います。ですから、権教流布の後は実教が流布する論理から、日蓮聖人の妙法広布の一歩は、一渧一微塵ではあるけれど、未来には百千万億人が題目を唱え妙覚の須弥山となり大涅槃の大海となるとのべたのです。妙法広布を誓願とする門下の指標を示されたのです。

 次に、重ねて文永八年に平左衛門尉に逮捕されたとき、自界反逆・他国侵逼があると予言したことにふれます。その根拠は諸経に多く説かれていますが、とくに、『大集経』の忍辱品に「若復有諸刹利国王作諸非法 悩乱世尊声聞弟子 若以毀罵 刀杖打斫 及奪衣鉢種種資具 若他給施作留難者。我等令彼自然卒起他方怨敵 及自界国土亦令兵起飢疫飢饉非時風雨闘諍言訟譏謗。又令其王不久復当亡失己国」、とある文を大事にされています。この文は法華経の行者に留難をなせば、梵天王をはじめとした諸天善神が二難を起こし、国王と国家を滅亡させると説かれています。日蓮聖人は「いたひ(痛)とかゆき(痒)とはこれなり」(一〇五四頁)とのべます。これは『四恩抄』(二三三頁)に流罪となって、悦びと歎きの二つの心があるとのべ、『大集経』を挙げた言葉と同じと思われます。経文符合の行者としての法悦と、行者を迫害した罪により堕獄することです。本書では国主と国家の滅亡が含まれます。この亡国は本意ではないが、その原因の一つとして、この文永文永八年に平左衛門尉に逮捕されたことをのべます。

 

「あまさへ(剰)召し出て法華経の第五の巻を懐中せるをとりいだしてさんざんとさいなみ、結句はこうぢ(小路)をわたしなんどせしかば、申たりしなり。日月天に処し給ながら、日蓮が大難にあうを今度かわらせ給はずは、一には日蓮が法華経の行者ならざるか、忽に邪見をあらたむべし。若日蓮法華経の行者ならば忽に国にしるしを見せ給。若しからずは今の日月等は釈迦多宝十方の仏をたぶらかし奉大妄語の人なり。提婆が虚誑罪、瞿伽利が大妄語にも百千万億倍すぎさせ給る大妄語の天なりと声をあげて申せしかば、忽に出来せる自界叛逆難なり。されば国土いたくみだれば、我身はいうにかひなき凡夫なれども、御経を持ちまいらせ候分斉は、当世には日本第一の大人なりと申なり」(一〇五五頁)

 

竜口法難の折に庵室での捕縛の状況をのべたもので、諸天善神に対して法華経の行者を守護する証を迫ったことをのべています。その現象として現れたのが二月騒動の自界反逆の的中でした。この事実に自身は凡夫であるが、法華経を受持することにより「日本第一の大人」とのべました。大人とは『開目抄』によりますと、

 

「仏世尊は実語の人。故に聖人・大人と号す。外典・外道の中の賢人・聖人・天仙なんど申は実語につけたる名なるべし。此等の人々に勝て第一なる故に世尊をば大人とは申すぞかし」(五四三頁)

 

大人とは釈尊と同じように真実のことを語る人を言います。その真実を体得した智人(ちにん)のことです。寿量品の自我偈に「仏語実不虚」(『開結』四二八頁)と虚言を言わない聖人のことです。この大人と自ら宣言することにつき、次に、日蓮聖人のこのような主張は慢煩悩(大きな慢心)ではないかとの問答をおこします。慢煩悩には七慢・九慢・八慢があり、これらは他人より劣っているのに己が勝れていると吹聴することです。たとえば、『大唐西域記』に徳光論師が弥勒菩薩を礼拝しなかったことが説かれています。徳光論師は大乗を誹謗しますが、心中に疑問をもち弥勒菩薩に会い解決したいと天軍羅漢に乞います。天軍論師は神通力をもって徳光論師を兜率天に上らせます。ところが弥勒菩薩に合っても礼拝をしませんでした。天軍論師がその理由を聞くと、弥勒は天の福楽を受けているが同じ出家の仲間ではないからと答えます。徳光論師はこの我慢のため疑問を解決できませんでした。段慢バラモンも四聖を四脚として座り法を説き、賢愛論師に説き伏せられます。大天は在俗のとき父母と阿羅漢を殺し、滅罪のためマカダ国の鶏薗寺にて出家します。説法がうまく尊敬されますが、慢心して阿羅漢を得たと自ら称しました。迦湿弥羅(カシュミーラ)の無垢論師は小乗を学び大乗を誹謗します。五天竺第一と呼ばれましたが、その罪により狂乱し懺悔しますが堕獄します。これらの諸師を挙げたのは、自分から大人と名のった者で、これらの者は慢心により無間地獄へ堕ちます。日蓮聖人においても同様な批難があることを想定したものです。ですから、

 

「汝いかでか一閻浮提第一の智人となのれる、大地獄に堕ちざるべしや。おそろしおそろし」(一〇五六頁)

 

と自問されます。ここに注目されるのは、自らを一閻浮提第一の大人・智人と位置づけたことです。釈尊につぐ大人として、仏語をそのまま発言されたと自覚することは、さきの「一念三千という大事の法門」に追従します。資師相承の立場から言いますと上行自覚になります。そこで、この批難について反論します。まず、釈尊は『瑞応経』に「天上天下唯我独尊」と説き、『無量寿経』には「最上尊」、法華経には「今此三界皆是我有」と、三界において第一の者と名のります。外道は大自在天に罰せられて大地に堕獄すると批難した故事を引きます。また、伝教大師も南都六宗の七大寺の三百余人から、大天の蘇生であると批難されます。これは宗論に負けた腹癒せに、天皇に申し上げた上奏文のことで、伝教大師により仏法は衰滅する前兆と批難したことです。(『顕戒論』)。鉄腹の再誕と批難されたのは、優婆提舎という智者と呼ばれたバラモンがおり、学んだことが腹より割れて出ることを怖れて鉄(銅)の鍱(板金)を作って腹に巻いた故事を挙げます。僧綱たちが伝教大師を外道の鉄腹バラモンに似た驕慢の者であると揶揄したのです。しかし、釈尊は天が罰することもなく、かえって守護し大地は金剛座のように堅くなり、伝教大師も比叡山に延暦寺を建て、南都七大寺以下すべての人が従ったとのべます。このことから、日蓮聖人の慢心から起きる自讃ではないと断言されたのです。同じことを『聖人知三世事』にのべています。ここでは、自分の正しいことを主張しなければ、かえって法華経の尊厳を蔑視することになるとのべます。

 

「日蓮一閻浮提第一聖人也。上自一人下至于万民 軽毀之 加刀杖 処流罪故 梵与釈日月四天仰付隣国逼責之也。大集経云 仁王経云 涅槃経云 法華経云。設作万祈不用日蓮 必此国今如壹岐対馬。我弟子仰見之。此偏日蓮非尊貴。法華経御力依殊勝也。拳身想慢下身蔑経」(八四三頁)

 

このことを補強するために、伝教大師の『法華秀句』と、法華経薬王品の十喩のうち第二須弥山喩(『開結』五二二頁)の文を引きます。

 

「されば現に勝たるを勝たりという事は慢ににて大功徳となりけるか。伝教大師云 天台法華宗勝諸宗者 拠所依経故 不自讃毀他等[云云]。法華経第七云 衆山之中須弥山為第一。此法華経亦復如是。於諸経中最為其上等」(一〇五六頁)

 

そして、第八羅漢喩の文(『開結』五二四頁)を引いて、諸経の菩薩、過去の諸宗の祖師にくらべて法華経の行者が勝れていることをのべます。つまり、法華経が勝れているので、それを持つ人も法華経の力によって勝れるという論理です。その過去の先師にも三種の人があることをのべます。『開目抄』(五八〇頁)にものべていました。それは、次の人達です。

一 彼の経々に且く人を入て身心ともに法華経の信仰に移した人  三論宗の嘉祥など

二 彼の経に執着し心は信ずるも身は法華経に入信しない人    法相宗の慈恩など

三 彼の経々に身心ともに執着し法華経を劣るという人      善導や法然など

 ここで、法華経の行者の心得をのべます。薬王品の第一大海喩と第三月天喩です。これは法華経が最第一と言うように、持経者も同じく第一の者であることを示すものです。日蓮聖人は薬王品のこれらの文と、第八喩中の「有能受持。是経典者。亦復如是。於一切衆生中。亦為第一」(『開結』五二四頁)の文を裏付けとして、法華経の行者も諸師に勝れているとのべています。本書には「日蓮は満月のごとし」(一〇五八頁)とのべます。この発言は門下に勇気をを与えたと思います。身延に隠棲されても行者としての誇りと、生き方を発信されているのです。法華経の普賢菩薩勧発品(『開結』五九七頁)の文を引き、

 

「亦於現世得其福報の八字、当於今世得現果報の八字、已上十六字の文むなしくして日蓮今生に大果報なくば、如来の金言は提婆が虚言に同く、多宝の証明は倶伽利が妄語に異ならじ。一切衆生も阿鼻地獄に堕べからず。三世の諸仏もましまさざるか。されば我弟子等心みに法華経のごとく身命もをしまず修行して、此度仏法を心みよ」(一〇五九頁)

 

と「死身弘法」の功徳と果報をのべ、弟子・信徒に不惜身命で法華経を弘めることを勧めたのです。この果報とは即身成仏と言います。(『日蓮聖人御遺文講義』第四巻五二五頁)。このあとに続く題目二遍は、『啓蒙』によりますと自利と利他の回向とあります。

〇〔第九章〕なぜ法華弘通に命を賭すのか

 これまでのことから、権教のあとに法華経が弘まるのは道理であるという前提に立ち、まず勧持品と『涅槃経』の如来性品の文を掲げます。

・我不愛身命 但惜無上道

・譬如王使 善能談論 巧於方便 奉命他国 寧喪身命 終不匿 王所説言教。智者亦爾。於凡夫中不惜身命要必宣説 大乗方等 如来秘蔵 一切衆生 皆有仏性

 この文は「不惜身命」の行動を勧めたものです。ですから、どのような理由により命を捨ててまで、法華経を弘通しなければならないのかを示します。日蓮聖人は若い頃は伝教・弘法・慈覚・智証等の先師が、天皇から勅宣を受けて入唐し求法したことかと思っていたとのべます。当時遣唐使は「よつのふね」と呼ばれ、同時に四艘が船出しました。澄は第二船、空海は第一船に乗船します。三船と四船は沈没し有能な留学生が没します。命がけの遣唐使であったのです。玄奘三蔵は中国からインドへ渡り、一七年を求法して帰国するまでに六度も命の危険にあいます。また、『涅槃経』聖行品に雪山童子が、「諸行無常 是生滅法(諸行は無常なり、是れ生滅の法なり)」と説く羅刹に、これに続く「生滅滅已 寂滅爲樂(生滅滅し已(おわ)りて、寂滅を楽と為す)」の文を聞くために身命を供養として捧げたことを引きます。そして、薬王菩薩が日月浄明徳仏に供養するため、七万二千歳という年月の間、臂を焼いて供養したことを引き、これらのことが「不惜身命」と思っていたとのべます。しかし、法華経と『涅槃経』を読んだとき、末法の修行はこれらのことではなく、真実は法華経の勧持品に「三類の強敵」があっても、「我不愛身命但惜無上道」の信心をもって法華経を弘めることでした。なぜなら、勧持品の二十行の偈は八十万億那由他の菩薩が、身命を奪われる迫害にあっても忍難弘経を誓言した文であるからです。『涅槃経』の「寧喪身命」(にょうそう)の文も同じことを説いているとのべます。共通していることとして挙げたのは、「三類の強敵」のうち第三の僭聖増上慢といわれる、戒律をたもち智者と呼ばれる高僧に加害されることとします。

「此等の経文は、正法の強敵と申は悪王・悪臣よりも外道・魔王よりも破戒の僧侶よりも、持戒有智の大僧の中に大謗法の人あるべし。されば妙楽大師か(書)ひて云 第三最甚以後後者転難識故等」(一〇六〇頁)

 そして、安樂行品の「最在其上」(此法華経。諸仏如来。秘密之蔵。於諸経中。最在其上『開結』三八六頁)の文を引き、法華経こそが一切経の頂上にある最勝の教えであると、宣布することをもって行者の使命とします。当時の現況は主に真言師が国主や臣下に尊重されていました。ですから、勢力基盤が脆弱な日蓮聖人の国諫も通りませんでした。しかし、このようなことこそが法華経の予言であるから、不軽菩薩のように強く謗法の僭聖増上慢である良観などを、呵責しなければならないとのべます。これば身命に及ぶことですが、この弘経精神こそ釈尊から付属された「第一の大事」(一〇六〇頁)とのべます。容易にできることではないが、今こそ弘法大師・慈覚大師などの邪義を糺す時とされます。そして、不惜身命の弘通をするならば諸仏・諸菩薩・諸天善神に守護されることを強調して本書を結ばれます。

「日本国にして此法門を立は大事なるべし[云云]。霊山浄土教主釈尊・宝浄世界の多宝仏・十方分身諸仏・地涌千界の菩薩等、梵釈・日月・四天等、冥に加し顕に助給はずば、一時一日も安穏なるべしや」(一〇六一頁)

ここからうかがえることは、日蓮聖人が今日まで弘通されてこれたのは、まぎれもなく守護されている証拠であるとのべられたのです。松葉ヶ谷法難にては日蓮聖人が生きていたことに、平頼綱などは不思議としました。(『下山御消息』一三三〇頁)。佐渡流罪の赦免と鎌倉へ打ち帰ったことも、諸天善神の守護があったと言うべきでしょう。以上のことから、日蓮聖人の教えの根本は「時」を重視したことがわかりました。釈尊は末法の衆生のために法華経を説きおかれたと解釈しました。これら一連の著述は常時、門弟に教えられていたことであります。また、法華経の肝心は南無妙法蓮華経の七字であり、この題目がひろまる時であるとのべている論調も同じです。ただし、身延入山後においても教団信徒への迫害は止みませんでした。日蓮聖人が鎌倉に在住していないこともあって、四条金吾や池上兄弟に見られたように動揺がありました。これらの信徒の退転を防ぐため本書には強固な信心を勧奨された心境が窺えます。