260.『国府尼御前御書』〜『南条殿御返事』(185)高橋俊隆

□『国府尼御前御書』(一八二)

 阿仏房がはるばる佐渡より身延山の日蓮聖人のもとを尋ねられます。その折、国府尼に頼まれた単衣一枚などを受け取り、六月一六日付けで感謝の礼を送られた御返事です。真蹟七紙が妙宣寺に所蔵されています。第三紙目が欠けていたのを昭和六年に発見し、岡島伊八氏の篤志により補い完全となりました。(『日蓮聖人遺文全集』別巻二四五頁)。国府尼については不明ですが、阿佛房夫妻とともに佐渡在島のおり日蓮聖人を外護された篤信の信徒で、身延山に入られてからも供養を届けて、かわらぬ信仰をされていたことがうかがえます。本文にはこの末法において法華経の行者を供養することは、如来を多劫の間、供養するよりも功徳が勝れていることをのべます。そして、流罪人として日本第一の僻者として憎まれていた日蓮聖人を外護されたことを感謝されます。

「しかるに尼ごぜん並に入道殿は彼の国に有時は人めををそれて夜中に食ををくり、或時は国のせめをもはばからず、身にもかわらんとせし人々なり。さればつらかりし国なれども、そりたるかみ(髪)をうしろへひかれ、すゝむあし(足)もかへりしぞかし。いかなる過去のえん(縁)にてやありけんと」(一〇六三頁)

 この文面に佐渡在島の苦難の様子が偲ばれます。地頭や他宗の僧俗から迫害されたのは日蓮聖人だけではありませんでした。日蓮聖人を信奉し供養をする者を疎外しました。このような苦しい生活を共にしたことから

日蓮こい(恋)しくをはせば、常に出る日、ゆうべにいづる月ををがませ給。いつとなく日月にかげをうかぶる身なり。又後生には霊山浄土にまいりあひまいらせん」(一〇六四頁)

と、身延と佐渡とは遠く離れていますので、日月に影を浮かべて国府入道夫妻を見守っているとのべた感情がうかがえます。再会して法のことなどを説きたかったことでしょう。それが叶わないならば、死後は霊山浄土にてお会いしましょうと「後生善処」を諭して結ばれています。そして、この手紙を阿仏房の妻である千日尼と二人で、誰かに読ませて一緒に聞いて欲しいと述べています。偏波のない日蓮聖人の布教態度が窺えます。

 

□『三三蔵祈雨事』(一八三)

 六月二三日付けで西山氏に宛てた消息です。西山氏は駿河の西山郷の地頭であったところから西山殿と呼ばれており、北条氏に仕え本名は大内三郎安清といいます。学徳が高く始めは台密を信仰し「根本山法師」(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇四一四頁)であったといわれます。日蓮聖人が鎌倉にいたときに信者になり、日興上人に帰依し南部氏を信仰に導いた人といわれています。後の康永二(一三四三)年に西山本門寺を建立しています。入道して安浄と名のります。墓所は下条村にあります。西山氏に与えられた書状は現在七篇が伝えられています。真蹟は大石寺に所蔵され、一六紙のうち第一紙(三行半と日付自署花押宛名)は川崎市巨^寺に所蔵されています。第一六紙目は欠けています。本書は西山氏からささげ(大角豆)と青大豆が送られてきたことへの礼状です。冒頭に、

「夫木をうへ候には、大風ふき候へども、つよきすけ(扶介)をかひぬればたうれず。本より生て候木なれども、根の弱きはたうれぬ。甲斐無き者なれども、たすくる者強ければたうれず。すこし健者も独なれば悪きみちにはたうれぬ」(一〇六五頁)

と、人間には助ける者が必要なことの喩をあげて、仏道を成就して仏になるには「善智識」が大切であることを述べます。善智識とは『法華経』の信仰を説く人のことで、この「善智識」に廻りあうことが第一番の難しいことであるとのべます。仏教においては道理と証文が大切であり、さらに現証こそが仏法の真不真を諮る最も大事なことであるとのべ、文永五年におきた俘囚(蝦夷)・蒙古にふれます。蝦夷の乱を他国侵逼と見ていたという指摘があります。北条義時は安藤五郎を奥州に派遣して蝦夷に備えていたところ、文永五年に蝦夷は反乱を起こし安藤五郎を殺害した事件をさしています。また、前述したように蒙古が樺太・サハリンのアイヌを攻めて日本を侵略することを含んでいたといいます。蒙古は文永五年正月一八日に牒状をもって日本に来ました。日蓮聖人は「責め使い」の牒状と見ており蒙古が武力をもって襲ってくると受け留めていました。蒙古の使いは文永の役までに五度の使者を遣わしています。この二つの事件を現証として、真言宗などの誤った仏教が蔓延している証拠であると述べていきます。

 本書の題号となった三三蔵とは善無畏・金剛智・不空の三人の三蔵法師のことです。この三人の祈雨は大雨が降ったあとに台風がきて大災害になります。この失敗を真言の悪法の現証としてあげます。また、弘法においても天長元年二月の祈雨に守敏と効験を競います。守敏は同じ真言僧で嵯峨天皇から西寺を授けられています。守敏は七日のうちに雨を降らせます京都だけでした。つぎに弘法大師に祈雨を命じますが、二一日間、祈っても雨が降らなかったので天皇が祈ると雨が降ります。弘法大師の東寺の門人はこの効験は弘法大師が降らせたと吹聴します。日蓮聖人はこれは弘法大師の虚言と批判したのです。同じように、弘仁九年の疫癘のときに祈祷をしたら、夜半に日輪が現われたという言い伝えや、帰朝のときに船より三鈷を投げたら雲をかきわけて高野山に留まったという言い伝えは、すべて誑惑であるとのべます。そして、天台・伝教の祈雨の効験をあげて、法華経が勝れている現証であるとのべます。つまり、三三蔵や弘法大師と天台・伝教大師の祈雨の効験を比較し、法華経が勝れていることを示されたのです。この事実をもって、蝦夷と蒙古の調伏を真言にまかせるならば、隠岐法皇のときのように日本が滅ぶ前兆であるとし、これらのことを、不惜身命の覚悟で諫暁したとのべます。このとき弟子たちは止めたようですが、的中したので納得しているとのべます。

 西山氏に対し弘法大師の大妄語についてのべるのは、この事実を理解できる学識に達しているからであるとのべ、このことは「日蓮が門家第一の秘事」(一〇六九頁)として、証拠となる経文などを充分に熟読してから言うことであるとのべます。、このことについては軽率に談義してはならないと訓辞しています。真言師との法論において三三蔵と弘法の祈雨の凶験は、経力の勝劣を判じるときの現証として、相手を論破したことがうかがえます。また、日蓮聖人の諫言を軽視していたために蒙古の襲来が現実となり、これにより法華経が広まることになるとのべ、日蓮聖人を迫害した者のなかでも、特に激しく軋轢を加えた者は後悔するであろうとのべています。

 釈尊が出世して仏教を説いたときにも外道が王臣や庶民を策動して、釈尊や弟子信徒に迫害を加え殺害などもしたが、釈尊は一切衆生を救済するため退転せずに法を説いたことをあげ、日蓮聖人も釈尊と同じ心であるとのべます。そして、弘法・慈覚・智証が真言を広めたことが大きな誤りであると述べます。

「今も又かくのごとし。日本の法門多といへとも源は八宗九宗十宗よりをこれり。十宗のなかに華厳等の宗々はさてをきぬ。真言と天台との勝劣に、弘法・慈覚・智証のまどひしによりて、日本国の人々、今生他国にもせめられ、後生にも悪道に堕なり。漢土のほろび、又悪道に堕事も、善無畏・金剛智・不空のあやまりよりはじまれり」(一〇七〇頁)

 ここにも善無畏などが真言を広めたことが、亡国の根本原因であるとのべています。天台宗も同様に真言を取り入れたことにより悪道に堕ちることとなったとのべます。そこで、そのようなことであるから、日蓮聖人の弟子のなかにも、日蓮聖人は彼らに勝れているのだろうかと、疑問を持つ者がいるとのべます。しかし、釈尊が説いた経文に違うことはないと断言します。そして、その証文として仏記には謗法堕獄は多く正法を伝える者は爪上の土であるという『涅槃経』の文、『法華経』の六難九易の文、そして、ここでも『大集経』などの文から、正法を弘持する者に迫害を加えれば、隣国の賢王がその国を滅ぼすという文を引き、諸天善神の呵責として蒙古襲来に関連させています。この隣国の賢王の身体に入り代わって日本国を覚醒するという考えは、『観心本尊抄』(七一九頁)の折伏を行なうときは賢王となって愚王を攻めるという文と、関連して考えることと思われます。結びに、西山氏と日蓮聖人との法華経の縁を重んじ、須梨槃特のように信心を強固にして成仏することが、提婆達多のように智慧者でも不信により堕獄することより大事であると述べ、供養の志に感謝して結ばれています。

□『浄蓮房御書』(一八四)

 六月二七日付けで浄蓮房に細美(さいみ・さよみ)帷子を供養された礼状を書かれています。細美は荒く織られた麻布のことで細布とも言います。粗末な麻布の服で猛暑のときは涼しいようですが、僧侶の衣服として粗服を送った配慮がうかがえます。この麻布で作った帷子を送られ感謝の御返事を書かれました。浄蓮房は本書の文面から駿河の庵原郡(いはら)興津の人で、富士郡の高橋六郎兵衛入道と俗縁といわれています。父親は念仏の信者でした。日蓮聖人は浄蓮上人と呼ばれており、熱原法難のときは日蓮聖人を外護されています。駿河地方における強固な信仰を持っていた信者です。日興上人の写本が重須本門寺にありますが真蹟は伝わっていません。浄蓮房に宛てた書状は本書のみが伝えられています。

 本書に善導が観経を所依としたのは、明勝(みょうしょう)という師匠の教えによることをのべます。明勝は三論宗の僧で法朗の門にて嘉祥寺吉蔵と同学であったと言います。善導が『観経』を撰んだことについて、機根と教法との関係にふれ『涅槃経』の「七種の衆生」について説明をします。このなかの第一の闡提と第二の常没の衆生については、釈尊は救済をされなかったので弥陀の因位である法蔵菩薩は、四十八願を立てて弥陀の浄土に迎い入れたとする説をあげます。この浄土にも末代凡夫の機根に応じて上中下、各三品の違いがあり、末代凡夫は下三品であるから法華経では救われないというのが善導の論理です。すなわち、上三品は大乗を修行する凡夫、中の上と中は小乗を修行する凡夫、中の下は世間における善を行なう凡夫で、最後の下三品が悪罪を行なう凡夫としています。これに対応して往生していく浄土に九種を立てて論じたもので、これは『観無量寿経』の九品往生によるものです。

 善導は浄土に往生するための修行の方法として九品を述べましたが、この説は道綽禅師の説であり、また、道綽の説は曇鸞にあるとして念仏の三祖をあげ、この三代が伝えてきた浄土宗の法門であり、日本では恵心が『往生要集』でのべたのが始まりで、東大寺で三論宗を学んだ永観や後の法然もこの系列であると述べます。

 つぎに、善導の誤りを法蔵比丘の「唯除五逆誹謗正法」の文を挙げて論証します。そして、『涅槃経』の「七種の衆生」の第一の謗法と第二の五逆を救うのは法華経であり、結経の『観普賢菩薩行法経』には、謗法・五逆の機根を法華一乗と説き顕していると述べます。釈尊は宝海梵志として、娑婆の衆生を救済することを誓った仏であるが、阿弥陀仏は娑婆の衆生を捨てた仏であるから、娑婆世界の衆生とは縁がないという、釈尊三徳から弥陀無縁をのべます。

 

「善導和尚が義に付て申詮は私案にはあらず。阿弥陀仏は無上念王たりし時、娑婆世界は已にすて給ぬ。釈迦如来は宝界梵志として此の忍土を取給畢。十方の浄土には誹謗正法と五逆一闡提とをば迎べからずと、阿弥陀仏・十方の仏誓給き。宝界梵志の願云、即集十方浄土擯出衆生我当度之[云云]。法華経云、唯我一人能為救護等[云云]。唯我一人の経文は堅きやうに候へども釈迦如来の自義にはあらず。阿弥陀仏等の諸仏我と娑婆世界を捨しかば、教主釈尊唯我一人と誓て、すでに娑婆世界に出給ぬる上は、なにをか疑候べき」(一〇七五頁)

 このことからしても浄土の教えは誤りであり、この六人の浄土の僧侶の邪見により、今生には守護の善神に捨てられ三災七難が起きるのであり、この罪により阿鼻獄に堕ちるとのべ、常連房の父親も浄土の信者であったから無間地獄に堕獄すると述べます。しかし、浄蓮房の法華持経の功徳は、亡父の功徳となって救われると述べています。そして、この書状を三篇読んで人々に聞かせるようにと述べています。

〇熱原法難の萌芽

また、本書に駿河の信徒達も同心であると伝えるように指示されています。この追伸の文章から六月には滝泉寺の行智などから、迫害されていたことが窺えます。折伏の布教は熱原法難を必然的に招くことになります。

「返返するが(駿河)の人々みな同御心と申させ給候へ」(一〇七八頁)

熱原郷(冨士市)の天台宗滝泉寺の住僧である日秀・日弁・日禅上人は日興上人の教化により、日蓮聖人の弟子となっていました。これを危険視した院首代の行智により迫害が起きます。三河房ョ円は責めに屈して行智に従います。日弁・日禅上人は滝泉寺より退出しますが、日秀上人は滝泉寺に留まって、熱原の農民を教化されていました。行智が熱原法難を引き起こす策略が始まっていたのです。

□『南条殿御返事』(一八五)

七月二日付けで南条氏から白麦一俵、小白麦一俵、河海苔五帖の供養を受け取った礼状を出しています。河海苔は富士川や支流の芝川の渓流にある岩場に自生していました。海苔十枚を壱帖とします。真蹟は大石寺に断簡が伝わっており健治三年の説があります。

 麦を供養されたことに因んで、阿那律が前世において縁覚に稗を供養した功徳で如意という名前を得たことと、迦葉が麦を供養した功徳により在俗にあっては富裕の長者となり、法華経において光明如来となったことを挙げます。南条氏の供養の功徳により、必ず仏となる善因になると述べています。阿那律の故事は『法蓮鈔』(九三八頁)『上野殿御返事』(九八七頁)などに引かれています。出典は『法華文句』から引用されたと述べています。阿那律はアヌルダともいい釈尊の十大弟子の一人です。釈尊の説法中に居眠りをし、それを悔いて釈尊の前では眠らなかったといい、そのために失明しますが天眼第一を得ます。迦葉は頭陀第一といわれた厳格な修行者です。

そして、日蓮聖人が身延山中において食や金銭に苦しんでいるところに、山河を踏み分けて供養されたことに感謝をされます。 

「上一人より下万民までににくまれて、山中にうえしに(餓死)ゆべき法華経の行者なり。これをふびんとをぼして山河をこえわたり、をくりたびて候御心ざしは、麦にはあらず金なり、金にはあらず法華経の文字なり。我等が眼にはむぎなり。十らせつ(羅刹)には此むぎをば仏のたねとこそ御らん候らめ。阿那律がひえのはんはへん(変)じてうさぎ(兎)となる。うさぎへんじて死人となる。死人へんじて金となる。指をぬきてうり(売)しかば、又いできたりぬ。王のせめのありし時は死人となる。かくのごとくつきずして九十一劫なり。釈まなん(摩男)と申せし人の石をとりしかば金となりき。金ぞく(粟)王はいさごを金となし給き。今のむぎは法華経のもんじ(文字)なり。又は女人の御ためにはかがみ(鏡)となり、みのかざりとなるべし。男のためにはよろひ(甲)となり、かぶと(胄)となるべし。守護神となりて弓箭の第一の名をとらるべし」(一〇七九頁)

この麦を十羅刹女は仏の種と見、また、法華経の文字となり守護神となって弓箭第一という名声を得させることとのべています。このとき食糧に困っていたのでしょう。供養の功徳を賞賛されています。追伸には法華信仰により所領を召されたりしても、法華信仰の真実が現われたと悦び、身延に来るようにと述べています。また、本書には蒙古の襲来に備えて警備に就く者の不安や別離の悲しみについてふれています。このような事態になったのは、幕府が日蓮聖人の教えを用いないからであると述べています。

「当時つくし(筑紫)へむかひてなげく人々は、いかばかりとかおぼす。これは皆日蓮をかみのあなづらせ給しゆへなり」(一〇八〇頁) 

ほかに、『富木尼御前御書』(一一四七頁)・『兄弟抄』(九一八頁)・『聖人御難事』(一六七二頁)・『上野殿御返事』(一七六六頁)に、蒙古襲来で九州などの異国警護についた武士たちの悲しみにふれ、為政者が賢者であるならば法華信仰により蒙古襲来を防げたことの無念さを述べています。