261.『大学三郎御書』~『乙御前御消息』        高橋俊隆

□『大学三郎殿御書』(一八六)

 同じ七月二日に大学三郎へ書状を出されています。真蹟は九紙あり全文が漢文で書かれ平賀の本土寺に所蔵されています。大学三郎は比企能本のことで書道家としても高名な儒者と言われ『立正安国論』を校定したと言います。日蓮聖人が漢文にて書状を送られたのは七名と言います。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇六七一頁)。

 本書はまず外道と内道の八宗は、十界のどこまでを説いているかを比べて勝劣を判断します。十界の因果を示すことは十界互具・一念三千の即身成仏を説く重要なところです。内道の倶舎・成実・律・三論・法相の六宗は十界の教えの分限が六道・八界に留まることを示します。つまり、二乗不作仏からしますと声聞・縁覚の二乗(二界)は成仏できないのです。華厳と真言の二宗は十界を立てていますが、天台以後の宗派であり天台宗の教義を盗用したと述べます。天台大師の教えが弘まる前は小衍相対(大小相対)により解釈をし、天台以後は権実相対をもって自宗を勝れていると解釈します。天台の学者はこれに迷い、特に真言の善無畏は「理同事勝」の謬言をしたと批判します。大日経について、

「日蓮捨論師人師添言専勘経文 大日経一部六巻並供養法巻一巻三十一品見聞之声聞乗縁覚乗大乗菩薩仏乗四乗説之。其中大乗菩薩乗者三蔵教三祇菩薩乗也。仏乗実大乗也。不及法華経之上 劣華厳・般若但阿含方等二経也。大日経極理未及天台別教通教極理也」(一〇八二頁)

と、大日経の一部六巻と大日経巻七の供養念誦三昧耶法門には四乗を説いているが、その中の菩薩乗は蔵経に説かれた三阿僧祇劫を修行した菩薩に過ぎないと述べます。仏乗においても大乗のことであるから、阿含・方等部に属する大乗教の分限であると述べます。方等部は権大乗です。大日経の教えは天台の「別教」「通教」の極理にも及ばず、大日経の位置は阿含と方等の中間にあると述べ、法華経の内容には及ばないことは明白であると述べます。次に弘法に対しては、

「華厳経勝法華経者取南北二義也。又華厳宗義也。南北並弘法大師不見無量義経・法華経・涅槃三経愚人也。仏既分明華厳経与無量義経勝劣説之。何捨聖言南北付凡謬乎。以近察遠将又大日経与法華経勝劣不知之。大日経四十余年之文無之又已今当之言削之。二乗作仏・久遠実成無之。法華経与大日経勝劣論之民与王石珠勝劣高下是也」(一〇八二頁)

と、「華厳勝法華」は南三北七の華厳宗の説を受けており、『無量義経』『法華経』『涅槃経』の教えを読んでいない愚人であると述べています。その理由は無量義経に「四十余年未顕真実」と説かれているからです。それを弘法大師は仏説よりも南三北七が立てた華厳第一の義を採択したのです。この勝劣を弁えないのであるから、大日経と法華経の勝劣についても分からないと述べます。安然は華厳経と法華経の勝劣を述べたが、大日経と法華経の勝劣は明確にしなかったと述べ、慈覚大師は伝教大師から教えを受けたけれど入唐しているうちに、真言宗に心を惑わされ「理同事勝」を説き、善無畏と同じ誤った解釈に落ちたと述べます。慈覚にもふれ善無畏の僻見を出ないものと述べています。最後に日蓮聖人の考えを

「而日蓮居末代粗疑此義。尊遠賎近 上死下生 故当世学者等不用之。設堅持三帰・五戒・十善戒・二百五十戒・五百戒・十無尽戒等諸戒比丘・比丘尼等 依愚智失 小乗経謂大乗経権大乗経 執実大乗経等謬義出来。大妄語・大殺生・大偸盗等大逆罪者也。愚人不知之尊智者。設世間諸戒破之者堅弁大小権実等経者 世間破戒仏法持戒也。涅槃経云 於戒緩者不名為緩於乗緩者乃名為緩等[云云]。法華経云 是名持戒等[云云]。重故留之。事々期霊山。恐々謹言」(一〇八三頁)

と、日蓮聖人の在世には仏教の実義を弁える知者はいないことを歎き、たとえ戒律を持っていても小乗を大乗と思い込んでいるのは愚痴なことで、持戒者のようでありながら、それこそが大逆罪であると述べています。また、世間の守るべきことを破ったとしても、それが仏教の実義を知ってのことならば仏教における持戒であると述べ、仏教の誤りを糾すことが真実の仏戒であることを表明しています。つまり、真実の教法を持つことが大事なのです。これは明らかに法華経を弘通してきた日蓮聖人ご自身の正当性を示し、退転なく法華経を弘通することを勧めている文章で、法師品の六難九易を意識して「是名持戒」の、末法における唱題受持を述べたのです。『涅槃経』の「乗急戒緩」の知教主義と、持経即持戒を示しています。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇六七一頁)。緩(かん)とは急に対することで、ゆるやかなこと、怠ることを言います。結びに霊山浄土に往詣する「後生善処」観を述べ、霊山浄土にて再会したときに委細について語りましょうと述べています。大学三郎は晩年に住居を本行院として出家します。法号を本行院日学といい弘安九年八五歳で寂しました。

□『高橋入道殿御返事』(一八七)

 七月一二日に富士賀島に住む高橋六郎兵衛(入道)に与えた書状です。北条時賴に仕えていたと推測されています。妻の持妙尼は西山河合入道の娘であり日興上人の叔母になります。高橋氏は大和から移住した氏族で、大井・西山・由比氏と同族ともいいます。(『日蓮大聖人御書講義』第三三巻一九八頁)。高橋入道は妻の持妙尼の薦めにより入信していましたが、竜口法難の折に幕府からの弾圧により疎遠になっていました。この頃、高橋入道が病気であることが日蓮聖人に伝えられ、弟子の学乗房と伯耆房にこの書状を持たせて慰問させています。(『日蓮聖人遺文全集』別巻九八頁)。真蹟は全二三紙あり、第二紙三行は富士大石寺、第四紙より第一八紙(第一六紙は欠)は西山本門寺、第二三紙は京都寂光寺に所蔵されています。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇七一四頁)。末尾に日興上人の筆にて「高橋六郎兵衛入道殿」と宛名が書かれています。(『日蓮聖人御真蹟大集対照御書集』下一〇二頁)。

 冒頭に、「進上 高橋入道殿御返事 日蓮」(一〇八三頁)とあります。真蹟は第二紙からなので、この文章は欠失しています。本文に入り釈尊は滅後の衆生のために法を説いたことを述べます。そして、

但八万聖教の肝心・法華経の眼目たる妙法蓮華経の五字をば、迦葉・阿難にもゆづり給はず。又文殊・普賢・観音・弥勒・地蔵・龍樹等の大菩薩にもさづけ給はず。此等の大菩薩等ののぞみ申せしかども仏ゆるし給はず。大地の底より上行菩薩と申せし老人を召いだして、多宝仏・十方の諸仏の御前にして、釈迦如来七宝の塔中にして、妙法蓮華経の五字を上行菩薩にゆづり給」(一〇八四頁)

と、法華経を大地の底から召し寄せた上行菩薩にだけ付属したことを述べます。これは正・像・末三時の弘教において、末法の衆生は病が重く、それを治療する薬は法華経であることを説きます。

正法前五百年は迦葉・阿難等に小乗経の薬をもて一切衆生に与える

次の五百年は文殊・弥勒・龍樹・天親菩薩等が、華厳経・大日経・般若経等の薬を一切衆生に授ける

像法の時には薬王・観世音菩薩等が、法華経の題目を除て余の法門の薬を一切衆生に授ける

末法の衆生は病が重いため、上行菩薩が妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生に授ける

 つまり、末法の衆生には法華経こそが良薬であり、釈尊は滅後の衆生のために応病与薬の仏法を説いたことを述べます。ただし、法華経を説く者には迫害が付きまとうため、それに耐えて妙法蓮華経の五字を弘めることが出来るのは本化上行菩薩だけなのです。法華経の行者は三類の強敵により迫害を受けます。その様子は猿が犬に会ったように、また、鬼神が人間を憎むように、そして、父母の敵を見るように怨み迫害を加えると述べます。この行者を迫害することにより自界叛逆・他国侵逼の難が国に起こります。その理由は謗法治罰のために法華経を守護すると誓った諸天が起こすからであると述べます。

次に、立教開宗の決意までの心中を述べています。知教者としての責任と誹謗する者の堕獄などの心配などで進退に悩まれたが、釈尊の記文に従って佐渡流罪にあい法華経の行者を貫いたことを述べます。それゆえ記文の如く自界叛逆・他国侵逼の難が起きます。このことは日蓮聖人が法華経の行者であることを教えています。佐渡赦免の後、鎌倉に入り国諫をしますが受け入れられなかったので身延山に入りますが、その道中に高橋氏宅に寄らなかったこと、また、手紙を受けていてその返事をしていなかったことについて次のように弁明しています。

「但去年かまくらより此ところへにげ入候し時、道にて候へば各々にも申べく候しかども申事もなし。又先度の御返事も申候はぬ事はべち(別)の子細も候はず。なに事にか各々をばへだてまいらせ候べき。あだをなす念仏者・禅宗・真言師等をも並に国主等もたすけんがためにこそ申せ。かれ等のあだをなすはいよいよ不便にこそ候へ。まして一日も我かた(方)とて心よせなる人々はいかんがをろか(疎)なるべき。世間のをそろしさに妻子ある人々のとをざかるをばことに悦身なり。日蓮に付てたすけやりたるかたわなき上、わづかの所領をも召ならば、子細もしらぬ妻子所従等がいかになげかんずらんと心ぐるし」(一〇八七頁) 

 身延山に入る途中、高橋氏宅に寄らなかったのは、意図があって避けたり隔てているのではなく、日蓮聖人を一日でも信じた者を疎遠にすることはないと述べます。もし、日蓮聖人が連絡を取れば、北条氏の所領でもあるから迫害が起きることの配慮があったのです。そして、前述したように法華経の信仰においても、不信の妻子がある場合の信仰のあり方について訓辞しています。すなわち、日蓮聖人の信徒に対する迫害が強まっており、そのため所領を没収された信徒がおり、高橋氏においてもその心配をされたのです。同心に夫妻が信仰をしていない場合に、不信の妻子や所従が所領を没収されされたなら感嘆するであろうことを心配されていたのです。高橋氏の家庭の信仰の様子が窺えます。

 次に、赦免後に平頼綱に諫暁したのは、真言宗こそが「呪詛の悪法」(一〇八八頁)であり、真言師に調伏の祈祷をさせてはならないことでした。日本国の衆生を助けようという一念であったのです。しかし、この諫暁を終え聞き入れられないならば鎌倉に留まる身分ではないので、足に任せて身延山へひとまず留まることとして、その道中に高橋氏の近辺を通るので再会したいと千度思ったが、迫害が加わることを思い躊躇した旨を述べています。

 

「又申きかせ給し後はかまくらに有べきならねば、足にまかせていでしほどに、便宜にて候しかば設各々はいとわせ給とも、今一度はみたてまつらんと千度をもひしかども、心に心をたゝかいてすぎ候き。そのゆへはするがの国は守殿の御領、ことにふじ(富士)なんどは後家尼ごぜんの内の人々多し。故最明寺殿・極楽寺殿の御かたきといきどをらせ給なれば、きゝつけられば各々の御なげきなるべしとをもひし心計なり。いまにいたるまでも不便にをもひまいらせ候へば御返事までも申ず候き。この御房たちのゆきすりにも、あなかしこあなかしこ、ふじ(富士)かじま(賀島)のへんへ立よるべからずと申せども、いかが候らんとをぼつかなし」(一〇八九頁)

 身延山に入る道中の駿河は北条時宗の所領であり、とくに富士は重時の娘で時頼の妻の身内の人が多く、これらの人たちは重時や時賴の敵と憤怒して日蓮聖人を見ているので、もし日蓮聖人が高橋氏宅に寄ったと知れたならば迫害があることを懸念し、再会しないで通り過ぎたことを述べます。また、手紙を出さないこともその理由であり、弟子の学乗房や伯耆公にも富士や賀島には立ち寄らないようにさせているが、そのような配慮をしているか心配していると心情を吐露しています。学乗房は日静といい佐渡の妙照寺の二世で実相寺の開基となっています。伯耆公は日興上人のことです。当時の富士近郊の信徒と日蓮聖人との状況が北条氏と絡み合っていたことが窺えます。

 次に、再度、真言宗についてふれます。これは高橋氏が真言宗に対しての関心が強かったことが窺えます。日蓮聖人は論理的なことを述べるより、眼前の事実を見て正否を判断することを勧めます。

「ただし真言の事ぞ御不審にわたらせ給候らん。いかにと法門は申とも御心へあらん事かたし。但眼前の事をもて知しめせ」(一〇八九頁)

 この現象を重視することは、かつて浄土僧の死相を見て経典の真実性を判断したように、日蓮聖人は文証・理証・現証の三証の裏付けを重視していたことが分かります。その真言の悪法の証拠として後鳥羽上皇(隠岐法皇)が真言師に執権義時の命を召し取るための祈祷をさせ、結果、「承久の乱」に見るように敗退したことを挙げます。隠岐法皇は天照大神の御魂が体内にお住みになって皇位を継承された方であり、前世において十善戒を保った有徳の方であっても、なぜに、人民である義時に捕らわれ流刑となったのかを問います。

「しかるに隠岐の法皇のはぢにあはせ給しはいかなる大禍ぞ。此ひとへに法華経の怨敵たる日本国の真言師をかたらはせ給しゆへなり。一切の真言師は灌頂と申て釈迦仏等を八葉の蓮華にかきて此を足にふみて秘事とするなり。かゝる不思議の者ども諸山諸寺の別当とあをぎてもてなすゆへに、たみの手にわたりて現身にはぢにあひぬ。此大悪法又かまくらに下て御一門をすかし、日本国をほろぼさんとする也。此事最大事なりしかば弟子等にもかたらず、只いつはりをろかにて念仏と禅等計をそしりてきかせし也。今は又用られぬ事なれば、身命もおしまず弟子どもに申也」(一〇九〇頁)

それは法華経に反したからなのです。真言宗は法華経の怨敵と述べています。そして、真言の灌頂についてふれ、真言の灌頂の儀式のときに、釈迦仏などの諸仏を書いてある絵曼荼羅を足に踏ませて受法させ、この敷曼荼羅を秘法であり秘事であるとしていることを悪法と指摘します。つまり、隠岐法皇はこのような真言師達を全国の別当とし重用していたために、現身に法皇の座より落ちて恥辱を受けたと述べています。

 そして、鎌倉にもこれらの真言の悪法が入り、北条一門の人々に取り入っている現状こそは、日本国を亡ぼすことになるとします。鎌倉幕府が安定してきますと、文化の面においても京に劣らない街造りをします。寺院の建立はそのためで幕府は高僧と呼ばれた者たちを鎌倉に招いたのです。日蓮聖人が最大の心配であったことは真言宗が台頭して人心を誑惑することでした。日蓮聖人の諸宗批判の最大の標的は真言であったことが窺えます。つまり、日蓮聖人は真言宗の存在が最大の悪事であると見ていたのです。しかも、それを心中に隠して広く弟子檀越にも教えていなかったのです。この本心を発表すると大事件として騒乱することを危惧していたのです。しかし、第三国諫を無力に過ぎた身延山にあっては、命を惜しまずに弟子達にこの旨を説き顕していると状況を知らせています。四月一五日に蒙古から杜世忠などの使者が来ており、幕府は鎌倉に護送させます。蒙古調伏の祈祷も真言師にさせていた状況にあったのです。

 このような真言宗に対しての見解を、高橋氏においては信用できずとも、身延へ尋ねて来られたことは過去世からの深い因縁があることと述べます。そして、高橋氏が病気が重くなったことを心配され、法華経を信じれば延命も可能なことの例を挙げます。法・仏・僧の三宝と、法華経・釈迦牟尼仏・法華経の行者の三事が揃ったならば、「閻浮提人病之良薬」の経文のように、必ず病気は平癒すると述べます。しかし、疑念があれば日蓮聖人においても、法華経の利生を授けれないと述べています。

□『四条金吾殿御返事』(一八八)

 七月二二日付けにて四条頼基から、柑子蜜柑五十、銭五貫文の供養に返礼された書状で、あわせて四条頼基が一六日に他宗の僧侶と会合したときに、「諸法実相」について法談したという知らせであり、これについての教示と爾後の法論について訓諭されています。真蹟は伝わらず、迹門の「諸法実相」を法華経の中心教義とし、伝教大師が入唐して諸法実相の法門を相伝したという事実も明らかでないことから、本書の成立については検討が必要とされます。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇四五一頁)。

「諸法実相」の法門は一切衆生が仏道を成就する根元の教えといわれ、伝教大師が中国で相伝した法門もこの諸法実相の法華経であると、この「諸法実相」の法門が大事であることを述べます。「諸法実相」の一句に仏法の深義が集約していることから、「一句万了」の一言といわれるのはこの理由であると述べます。伝教大師は入唐し龍興寺の道邃から本覚の法門を教わり、仏瀧寺の行滿から始覚の法門を習ったといいます。「諸法実相」の法門は始覚門の立場にあることから、行滿から伝えられたとも考えられます。(『日蓮聖人御遺文講義』第一三巻一九二頁)。天台宗では誤った解釈をしていると指摘します。

「当世天台宗の開会の法門を申も此経文を悪く得意邪義を云出し候ぞ。只此経を持て南無妙法蓮華経と唱て、正直捨方便但説無上道と信ずるを、諸法実相の開会の法門とは申也。其故は釈迦・多宝如来・十方三世の諸仏を証人とし奉候也」(一〇九二頁)

 そして、南無妙法蓮華経と唱え、「正直捨方便但説無上道」と信ずることを開会の法門と述べています。つまり、爾前経は方便であり法華経こそが真実であると信じ唱題することが、「諸法実相」の開会の法門ということです。それなのに、天台宗は権実雑乱の邪義の解釈をしているとします。当時の天台宗は法華開会のあとでは、爾前経も法華経も等しいとして爾前経を容認し、各宗の修行も同じであるとしていたので、日蓮聖人は権実を混乱させると述べたのです。法華経を真実として爾前経は、「正直捨方便」しなければならないのです。法華純円のなかに権経を交えてはならないことを、

「良薬に毒をまじうる事有るべき乎。うしほ(潮)の中より河の水を取出す事ありや。月は夜に出、日は昼出給。此事諍ふべき乎」(一〇九二頁)

と、法華経の良薬に権経の毒薬を混入させてはならないのであり、諸経が同一の大海になっているのを敢えて河水を取り出す必要はなく、日輪が出でて明るくなっているのに前夜の月の明かりを求めるような必要はないという喩で教えています。そして、今後の法論の覚悟を教えます。

「此より後には加様に意得給て、御問答あるべし。但し細細は論難し給べからず。猶も申さばそれがしの師にて候日蓮房に御法門候へと、うち咲て打返打返仰せ給べく候」(一〇九二頁)

と、法華一乗の権実判と開会の法門を誤って解釈し、他宗諸経を認めるようなことをしないように述べ、細部については論難しないようにと訓辞されています。最後に法門のことを主にして書いたので、供養の志に感謝する文面が足りなかったとして、感謝の気持ちを述べています。

□『高橋殿御返事』(一八九)

 七月二六日付けで高橋入道の妻から瓜一籠・髭籠に入れたささげ(豇豆・大角豆)。髭籠とは竹で編んだ籠のことで、編み残しの端を髭のように延ばし、贈り物などを入れるのに用いたといいます。その他に小枝豆・根芋・香の瓜(香とは味噌のことで味噌漬の瓜)を供養され、この供養に対して返礼された書状です。日興上人の写本が冨士大石寺に伝えられています。本書は持妙尼に宛てられたもので、『与高橋氏妻書』『蓏書』ともいいます。

 『付法蔵経』を引き阿育大王が過去世に砂の餅を供養した功徳で一閻浮提の四分の一を支配した大王となったことと、法師品の釈迦仏を一劫という長いあいだ供養する功徳よりも、末法の法華経の行者を須臾でも供養したほうの功徳が勝れることを、妙楽の「有供養者福過十号」と解釈した文を引いて説明し、この功徳により成仏は疑いないと述べます。また、高橋氏の妻は尼となって仏門に入ったので、その信心の強さにより成仏はさらに疑いないと述べています。持妙尼は夫の病気平癒を願い法華経の信心を堅固にして尼となります。

 しかし、高橋入道はこれまで念仏の信者であったので、日本国を滅ぼし蒙古の襲来を招く元凶であることを述べ、日本国中の人々は日蓮聖人の敵となったため、諸天善神が壱岐・対馬を治罰したと述べます。そのようなことが起きたら入道はどうされるのか、また、妻が病気平癒を願う入道のことを心配されています。入道にはしばらく延命して日本国の今後の成り行きを見届けるようにと述べ、そのとき日蓮聖人を二度まで流罪し松葉ヶ谷の草庵において頭を打ち叩いたことを後悔するであろうと結んでいます。高橋入道はまもなく死去されたようで、大進阿闍梨を墓参に遣わしています。(『智慧亡国御書』一一三一頁)。夫の死去の後に郷里である富士郡久保村に戻ります。このため窪尼とも呼ばれます。持妙尼(窪尼)宛ての書状が七通あり、この後も夫の命日などに供養の品を届けていたことが分かります。

□『乙御前御消息』(一九〇)

七月に日妙尼が身延山を訪れ、八月四日付けで乙御前の名前で長文の本書を日妙尼に与えています。夫とは早い時期に信仰問題などで離別していました。文永九年に日妙尼は乙御前を連れて、佐渡まで日蓮聖人に会いにいった強信者で、その三年後に乙御前が成長したであろうと宛てたものです。しかし、本書以後、乙御前の消息は不明となっています。『乙御前母殿御消息』『日妙聖人御消息』と呼称すべきと言います。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇一五〇頁)。『朝師本』が伝えられています。

中国に仏教が伝わらないときは、外典・儒教の教えにより礼儀や孝・忠を習得し、国や人を治める基礎としました。仏教が印度より伝わったとき、道士と仏教徒との争いがありました。『法蓮鈔』に、

「漢土も如此。摩騰、漢土に入て後、道士と諍論あり。道士まけしかば始て信ずる人もありしかども、不信の人多し」(九四五頁)

と、後漢の明帝は永平十四年正月十五日に漢土の道士と摩騰迦・竺法蘭とを召合せ対決させます。道士は仙経、三墳・五典・二聖三王の書を薪に積み焼きますと燃えて灰となります。摩騰迦・竺法蘭が経を唱えますと、舎利は天に登て光を放ち画像の釈迦仏の眉間より光を放ちます。これにより道士が帰伏したことを言います。これについては、建治三年八月の『四条金吾殿御返事』(一三八二頁)に詳しく書いています。中国においては、この後、仏教を拠り所とするようになったことを述べ、仏教にも勝劣や浅深があることを述べます。小乗の教えは小さな船であり大乗の教えは大船で多くの人や荷物を、鎌倉から筑紫や陸奥までも運ぶように勝れていると喩え、さらに実経はそれ以上に珍宝を積んで人も千人乗せて高麗へも渡航できると喩ます。そして、法華経は提婆・龍女の成仏を説いた勝れた経典であり、末法の人々を救済するために説かれた唐船のようであると喩えます。諸経と法華経の違いは蛍の灯りと日月のようであると述べ、ここでも真言宗との勝劣を、

「経に勝劣あるのみならず、大日経の一切の真言師と法華経の行者とを合すれば、水に火をあはせ露と風とを合するが如し。犬は師子をほう(吠)れば腸さくる。修羅は日輪を射奉れば頭七分に破る。一切真言師は犬と修羅との如く、法華経の行者は日輪と師子との如し。氷は日輪の出ざる時は堅き事金の如し。火は水のなき時はあつ(熱)き事鉄をやけるが如し。然ども夏の日にあひぬれば堅氷のとけやすさ。あつき火の水にあひてきへ(消)やすさ。一切の真言師は気色のたうとげさ、智慧のかしこげさ。日輪をみざる者の堅き氷をたのみ、水をみざる者の火をたのめるが如し」(一〇九六頁)

と、法華経の行者に敵対する真言師は、獅子に吠える犬や日輪を射る修羅のように身を破るとして、法華経が勝れていることを述べています。人々の心情は蒙古襲来が現実になる前は驕慢であったが、去年の一〇月以降からは驕る者はいなくなり、恐れおののいている様子を述べています。このように臆病になった原因は他国侵逼を予言していた法華経の行者を迫害したため、諸天の責めを受けたからであると述べます。襲来の恐れが続き人々は狼狽していたからです。そして、頼りとすべき夫がいないのに佐渡まで訪問したことは現実とは思えない不思議な縁であったと感謝し、今も身延山に参詣したことは言葉にならないほど尊いことであり、諸天は必ず守護し十羅刹女も讃歎していると述べます。信心が強ければ諸天の守護も強くなることを、妙楽の『弘決』巻八の「必心固神守護則強」の文を挙げます。日蓮聖人においても信心が強固であったからこそ、種々の迫害にあっても諸天善神に守護されて存命してきたことを述べ、強い信心を持つようにと勧奨します。

「妙楽大師のたまはく、必仮心固神守則強等[云云]。人の心かたければ、神のまほり必つよしとこそ候へ。是は御ために申ぞ。古への御心ざし申計なし。其よりも今一重強盛に御志あるべし。其時は弥々十羅刹女の御まほりもつよかるべしとおぼすべし。例には他を引べからず。日蓮をば日本国の上一人より下万民に至まで一人もなくあや(失)またんとせしかども、今までかう(斯)て候事は一人なれども心のつよき故なるべし、とおぼすべし」(一〇九八頁)

そして、先頭に立って指導する者の考えが愚かである例として蒙古襲来についてふれます。いずれは念仏者や禅宗の者も南無妙法蓮華経と唱えるようになるであろうと述べています。日妙尼に再婚することがあっても法華経の敵であるならば随わないようにと述べ強盛の信心を勧めます。

「抑法華経をよくよく信じたらん男女をば、肩にになひ、背におうべきよし、経文に見えて候上、くまらゑん(鳩摩羅琰)三蔵と申せし人をば木像の釈迦をわせ給て候しぞかし。日蓮が頭には大覚世尊かはらせ給ぬ。昔と今と一同也。各各は日蓮が檀那也。争か仏にならせ給はざるべき。いかなる男をせさせ(為夫)給とも、法華経のかたきならば随ひ給べからず。いよいよ強盛の御志あるべし。氷は水より出たれども水よりもすさま(凄冷)じ。青き事は藍より出たれどもかさ(重)ぬれば藍よりも色まさる。同じ法華経にてはをはすれども、志をかさぬれば他人よりも色まさり、利生もあるべき也」(一一〇〇頁) 

 同じ法華経の信心であっても、信心を重ねるほどに利生も強くなると述べています。信心の強弱・浅深に利生に差があるということです。信仰を捨ててはいけないことを諭しているのです。

 日蓮聖人は蒙古襲来を現証として法華経の真実性を述べます。法華経の行者を迫害したために蒙古の侵逼に遇い国が亡びると主張されました。この行為を「自讃」していると批判されます。しかし、日蓮聖人にとってはこれを公言することが法華経の行者の使命であると考えています。後世において未来の人が、日蓮聖人は智者であったと知るであろうと述べます。そして、「身軽法重死身弘法」であるから自身は迫害にあっても法華経は必ず広まると述べ、日蓮聖人の真意は日本国の人々の盲目である眼を開き救済することにあります。日蓮聖人の身分が賤しいとして日蓮聖人の諌言を用いず、そのため亡国になろうとする悲しさと、日蓮聖人を信じて従ってきた弟子達の苦労を嘆きます。日妙尼に蒙古が押し寄せてきたりして、身の安全が危ぶまれるならば身延へ来るようにと述べ、乙御前も成長し聡明な子供となっているだろうと思いを馳せています。

幕府は、前年の蒙古襲来のときに口実を言って出陣しなかった者に対し、今後は厳罰に処するようにと鎮西奉行に指示しました。八月一三日に富木氏の主君、千葉介頼胤が文永一一年の蒙古軍との戦いで負傷し療養していましたが九州の佐賀県小城町で三七歳にて没しました(『本土寺過去帳』では二六日)。