262.『妙心尼御返事』~『単衣鈔』      高橋俊隆

□『妙心尼御前御返事』(一九一)

 八月一六日付けで妙心尼に与えています。年次は弘安元年の説があります。本書と並び同年同月二五日付の『妙心尼御前御返事』(一九二)があり、わずか一〇日ほどで再び供養品を送ることの疑問があります。また、本書は高橋入道の所労について述べられ、二五日付書状は幼児のために曼荼羅のお守りを授与されており、脈略が切れていると思います。小松邦彰先生は弘安一年とされています。(小松邦彰稿「日蓮遺文の系年と真偽の考証」『日蓮の思想とその展開』所収九二頁)。真蹟は四紙半が身延に曽存していました。日興上人の写本『日興本』が冨士大石寺に所蔵されています。妙心尼は日蓮聖人が身延に入られてからの信者といわれ駿河に住んでいたと推測されています。また、妙心尼は持妙尼・窪尼と同じ人とも考えられています。これは夫の高橋入道が重病のため尼となって病気平癒を願ったときに妙心尼と名のり、夫の死去後、実家の由比家に近い西山の窪に移り住み、このとき持妙尼の法号を賜り、居住の地名に因んで窪尼と呼ばれたと推測します。(『日蓮大聖人御書講義』第三四巻一六五頁)。しかし、三人は別人ともいい、持妙尼・窪尼は同一人物ともいい、定かではないと言えます。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇四七六・一〇九七頁)。

 あわし柿(泡消柿・醂柿と書き灰汁などで渋を抜いた柿)二籠と茄子一籠を供養され、夫の入道の病気(所労)にふれます。釈尊は中国の黄帝・雇鵲や印度の持水・耆婆という名医よりも勝れ、釈尊は閻浮提の人のために不死の薬として妙法蓮華経の五字の良薬を説いたと述べます。(「閻浮提人病死良薬」『開結』五二九頁)。波瑠璃王については『増一阿含経』に説かれています。波瑠璃王の父である波斯匿王は、誇り高い釈迦族から后を迎えようとしました。しかし、釈迦族は身分の卑しい女性を王族と偽って嫁がせ、王子として生まれたのが波瑠璃王です。 波瑠璃王は父王が釈迦族に騙されたことと、自分が卑しい身分であると釈迦族が蔑視したことを怒り、長行大臣と謀って父波斯匿王を放逐し、大軍を率いて釈迦族を殺戮し全滅させたのです。釈尊は阿難を霊山に遣わして青蓮華を取り寄せます。一族の女人五百余人の体に触れさせますと蘇生し、七日の後に刀利天に生まれます。つまり、蓮華は不思議な功徳力を持っている花であることから、釈尊は妙法に譬えた故事を挙げ妙法蓮華経の功徳を述べたのです。

また、死は病気が原因ばかりではなく蒙古に攻められて壱岐・対馬の人のように殺された場合があると述べます。そして、病気があることにより道心が起きることがあるので、仏のはからいによって入道が病にあると述べます。病気には五逆罪・一闡提・謗法があり日本国の人々はすべてが極大重病であるとし、この大謗法の重病はあまりにも重すぎて諸宗の者は自身に認知できないでいるのであり、これが強まって蒙古から襲来を受けたと述べます。入道は法華経を信じていないようであるが、過去の宿習により病身になり長い間、道心が起きていると述べ、これにより今生の罪も消え謗法の罪も法華帰信により消えたとして、霊山往詣の安心を説いています。そして、死後に中有にあっても日蓮聖人の弟子と名のれば悪鬼が出てきても安心して霊山浄土に往詣できると説いています。

「中有の道にいかなる事もいできたり候はば、日蓮がでし(弟子)也となのらせ給へ。わずかの日本国なれども、さがみ(相模)殿のうちのものと申をば、さうなくおそるる事候。日蓮は日本第一のふたう(不当)の法師。ただし法華経を信候事は、一閻浮提第一の聖人也。其名は十方の浄土にきこえぬ。定天地もしりぬらん。日蓮が弟子となのらせ給はば、いかなる悪鬼等なりとも、よもしらぬよしは申さじとおぼすべし」(一一〇四頁)

 妙心尼からは度々供養があったようで、その信心に感謝しています。追而書に

「女人はおとこをたのむ。わかれのをしきゆへにかみをそり、そでをすみにそめぬ」(一一〇四頁)

とあることから、妙心尼が夫のために尼となったことが窺えます。この心を十方の仏は憐れに思っているであろうから、いよいよ強い信心をもって法華経に祈るように述べています。ただし、この追而書は日興上人の写本には欠けています。(『日蓮大聖人御書講義』第三四巻二二〇頁)。

□『妙心尼御前御返事』(一九二)

 八月二五日付けで妙心尼に供養のお礼と、幼児が病弱であったのかお守りを授け、このお守りは法華経の肝心であり眼目である曼荼羅であるから、昼夜に諸天から守護されると述べ、信用して信仰をするように述べています。『日興本』の写本が冨士大石寺に伝えられています。

このまんだら(曼荼羅)を身にたもちぬれば、王を武士のまほるがごとく、子ををやのあいするがごとく、いを(魚)の水をたのむがごとく、草木のあめをねがうがごとく、とりの木をたのむがごとく、一切の仏神等のあつまりまほり、昼夜にかげのごとくまほらせ給法にて候」(一一〇五頁)

□『単衣鈔』(一九三)

 八月付けで南条時光の母へ与えられています。真蹟は伝わっておらず『朝師本』『本満寺本』の写本があります。宛先は写本により上野殿(時光の母)、藤四郎夫妻と言われますが不明です。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇九四〇頁)。未見の某夫妻から単衣(ひとえぎぬ)一領が送られてきた礼状で、棄老国では老人を棄てたというが日本国では日蓮聖人が棄てられており、法華経を説くという理由で憎まれた者は他にはいないと述べて、三二歳からの開宗以来、二十二年の値難を挙げます。

「故に生年三十二より今年五十四に至まで二十余年の間、或は寺を追出され、或は処をおわれ、或は親類を煩はされ、或は夜打にあひ、或は合戦にあひ、或は悪口数をしらず。或は打たれ、或は手を負、或は弟子を殺され、或は頚を切れんとし、或は流罪両度に及べり。二十余年が間一時片時も心安事なし。頼朝の七年の合戦もひま(間)やありけん。頼義が十二年の闘諍も争か是にはすぐべき」(一一〇六頁) 

日蓮聖人は天台大師や伝教大師も身読しなかった「如来現在猶多怨嫉況滅度後」「一切世間多怨難信」の仏語を色読した行者であることを述べます。日蓮聖人がこのような迫害に値うことは釈尊の仏語を真実とする証明となります。そして、身延山の生活を述べます。 

「かかる身なれば、蘇武が如く雪を食として命を継、李陵が如く簑をきて世をすごす。山林に交て果なき時は空して両三日を過ぐ。鹿の皮破ぬれば裸にして三四月に及べり。かゝる者をば何としてか哀とおぼしけん。未だ見参にも入らぬ人の膚を隠す衣を送給候こそ何とも存がたく候へ」(一一〇七頁)

世間から捨て去られた者であるから、身延の山中に隠棲していることを不憫に思って衣を供養され、しかも、日蓮聖人とは面識がないようで、そのような者に肌に触れる大事な衣を手づから縫って供養された心に感謝をされています。蘇武(前一四〇~六〇年)は『漢書』によりますと、武帝のとき中郎将として節を授かり匈奴(きようど)王の単于(ぜんう)に使いしますが、囚われの身となり臣従を迫られます。節義をまげず拒否したため穴牢に閉じ込められ食事を与えられなかったので、雪と衣類を食べて生き延びたことが書かれています。北海(バイカル湖)のほとりの荒野に送られて羊を飼い苦難抑留生活を続け、一九年後に昭帝が即位して帰国がかないます。李陵(~前七四年)は李公(石虎将軍)の孫で、武帝の命により将軍李広利の軍を助けるために五千の歩兵を率いて出陣しますが、合流前に単于が率いる匈奴の本隊三万と遭遇し降伏します。単于は李陵に臣従を迫りますが李陵は断ります。しかし、武帝は匈奴の捕虜から誤った情報を聞き、李陵の妻子をはじめ、祖母・生母・兄と兄の家族、そして従弟の李禹李敢の子)一家らをまとめて皆殺しにします。一族の非業の死を伝え聞いた李陵は憤慨し、後に且鞮侯単于の娘を娶って、そのまま匈奴の右校王となります。李陵とは対照的なのが、かつて李陵とともに侍中として武帝の側仕えをした蘇武です。李陵はこの蘇武を陰から助けたといいます。『法蓮鈔』に、「彼蘇武が十九年之間胡国に留られて雪を食し、李陵が巌窟に入て六年蓑をきてすごしけるも我身の上なりき」(九五三頁)とあります。「李陵が如く簑をきて世をすごす」の典拠は不明ですが、李陵と武帝・単于との間におけることと思われます。

この帷子を着て仏前にて法華経を読誦すれば、法華経六九三八四の文字は皆、金色の仏でありこの一々の仏に母が供養した帷子を着せてあげることになると、供養の功徳を説いています。そして、この功徳は夫妻二人ともに現世には守られ、臨終のときには二人を檀那として守り、霊山浄土へ迎え入れると述べています。追記に藤四郎の女房と共にこの書状を見るようにとのべています。