263.『阿仏房尼御前御返事』~『蒙古使御書』   高橋俊隆

□『阿佛房尼御前御返事』(一九四)

 九月三日付けで佐渡の阿佛房仏の妻へ与えられています。『朝師本』の写本が伝えられています。阿佛尼から謗法の浅深とその罪報とはどのようなものかを質問されたことへの返事です。

 法華経は全ての衆生を成仏させる経であると説きます。過去に謗法の罪があっても現在の信心により成仏できると安心を与えます。その上で真逆の謗法堕獄について述べます。すなわち、謗法の者は無間地獄に堕ちると、譬喩品「「若人不信毀謗斯経則断一切世間仏種」の文を挙げます。これは不信謗法により仏種を断絶する文証となっています。仏種を断絶したため堕獄するのです。この謗法の罪は一定ではなく軽重があると述べます。また、「色心相応の信者」や「能持此経」の行者は稀であるが、強い信心があれば深く重い罪を受けることはないと述べます。色心相応とは身体と心です。身・口・意の三業を兼ね備えた信心をいいます。「能持此経」(よく此の経を持つ)の文は分別功徳品(『開結』四四九頁。滅後第三品)にあります。いかなる迫害にも退せずに信心を貫く行者のことです。阿仏房尼に強い信心とは何かを示されたのです。『涅槃経』には謗法の者を呵責しなければ「仏法中怨」になるので、迫害を覚悟で弘経してきたことを述べます。ただし、この弘経の方法においては一様ではなく、日蓮聖人の考えがあったことを述べます。

「但し謗法に至て浅深あるべし。偽り愚かにしてせめざる時もあるべし。真言・天台宗等は法華誹謗の者、いたう呵責すべし。然れども大智慧の者ならでは日蓮が弘通の法門分別しがたし。然間、まづまづさしをく事あるなり。立正安国論の如し。いふといはざる(不言)との重罪難免。云て罪のまぬがるべきを、見ながら聞ながら置ていまし(禁)めざる事、眼耳の二徳忽に破れて大無慈悲也。章安云無慈詐親即是彼怨等[云云]。重罪消滅しがたし。弥利益の心尤可然也」(一一〇九頁)

 ここに、『立正安国論』奏進にあたり他宗批判の選択に思索があったことを窺えます。その分別をしたことを分かる智慧ある者はいないと述べます。これは、七月に高橋氏に最初は念仏と禅宗を批判したと述べたところです。(『高橋入道殿御返事』一〇九〇頁)。つまり、東密・台密の教理は一念三千を基本としており、日蓮聖人が示す事一念三千との相違を理解することは難しく、それを理解出来る者を導くため、真言宗の批判を後回しにしたのです。謗法の者を見聞し知っていながら放置することは、慈悲がなく重罪を消滅することができないと述べます。ただし、謗法の罪が軽い者には対処に違いがあるとします。これは放置しておいてもいずれ正しい信仰に気がつくからであると述べます。しかし、自他ともに謗法を脱却するまでは呵責すべきで、放置しておいてそのまま謗法者となってしまってはいけないと訓諭します。日蓮聖人の弟子や信徒にも当てはまることがあり、阿佛尼も心当りがある一谷入道の信仰にふれています。

「日蓮が弟子檀那の中にも多く如此事共候。さだめて尼御前もきこしめして候らん。一谷の入道の事。日蓮が檀那と内には候へども外は念仏者にて候ぞ。後生はいかんとすべき。然れども法華経十巻渡して候し也。弥信心をはげみ給べし」(一一〇九頁)

 佐渡において日妙尼の旅費を工面するために一谷入道に経典を渡したことに、日蓮聖人にとっては腐心していたことが窺えます。この縁によって一谷入道が信心を深めていることを願っている内心がみえます。そして、法華経を説く者には迫害があるというのは経文に説かれていることであるから、憎まれても釈尊の金言に身を任せて如説修行の行者となり、諸天善神から供養を受ける身分となり、大願を立てて後生善処を願うようにと「此経難持」の文を引き諭しています。佐渡における法華経の信者達の境遇が窺えます。信心の心持ちと謗法者の対処について、

「譬ば海上を船にのるに、船をろそかにあらざれども、あか(水)入ぬれば、必船中の人人一時に死する也。なはて(畷)堅固なれども、蟻穴あれば必終に湛へたる水のたま(溜)らざるが如し。謗法不信のあかをとり、信心のなはてをかたむべき也。浅き罪ならば、我よりゆるして功徳を得さすべし。重きあやまちならば、信心をはげまして消滅さすべし」(一一一〇頁)

と、畷(田のあぜ、土手)を固めるように自身の信心を強固にし、浅い罪ならばこちらから責めないで自ら覚醒させて功徳を得させ、重い罪ならば信心を励まして滅罪させることを述べます。自身の力に従って慈悲ある教化を勧めます。阿佛尼がこのような大事な法門を追求したことを、龍女に劣らない行為であると称賛しています。最後に力のある限り謗法の者を救治し、日蓮聖人の教えに助力して欲しいと述べ、不思議な因縁を感じられています。

九月四日に、四月一五日に来蝶し服属を求めていた蒙古の使者、杜世忠以下五名を間諜として竜口の刑場で斬首しています。これは蒙古に服属しない意思を内外に示したのです。九月八日、醍醐谷の下之坊が建立されます。相亦村日仏に授与された曼荼羅は妙了寺にあります。(林是㬜著『身延山久遠寺史研究』一五六頁)。

□『御衣並単衣御書』(一九五)

 九月二八日付けで富木氏の妻から衣の布と単衣を供養されたことへの返礼の書です。同年二月七日付け『富木殿御返事』(八六〇頁)には、富木氏の九十になる母が縫い設えた帷子が送られていました。日蓮聖人の身体を気遣い衣類を供養されていたことが分かります。真蹟は四紙で中山法華経寺に所蔵されています。中尾尭先生は花押の書き方から文永七年九月二八日と判断され、『法衣書』も『御衣並単衣御書』と書体や書式が類似していることから文永八年の初夏としています。(『日蓮聖人のご真蹟』一六一頁)。『日明目録』は文永一〇年としますが、花押の形より『定遺』は建治元年とします。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇一五五頁)。

『日常目録』に『鮮白比丘尼事』とありますように、単衣を供養されたことに因み鮮白比丘尼が過去世に衣を供養した善根により、生まれながらに衣を身につけ、成長に従って衣も大きくなったという本生譚を挙げます。鮮白比丘尼は法華経の会座において一切衆生喜見如来の記別を授かったと述べています。一切衆生喜見如来は釈尊の叔母である摩訶波闍波提(憍曇弥)が未来に仏になったときの名前です。鮮白比丘尼と摩訶波闍波提との関係は不明ですが、摩訶波闍波提は釈迦族の女性であり、鮮白比丘尼の出身地が近いことから同等に見ていたのかもしれません。

法華経を説く者は柔和忍辱の衣を着なければならないと述べます。この富木尼の供養の徳は物の種は一つであっても、その種を植えることにより多数に増え、龍は少しの水を大雨とし、人は火を大火にするように、この帷子は法華経の六九三八四の仏に供養されると称えます。

「衣かたびらは一なれども、法華経にまいらせさせ給ぬれば、法華経の文字は六万九千三百八十四字、一字は一仏なり。此仏は再生敗種を心腑とし、顕本遠寿其寿とし、常住仏性を咽喉とし、一乗妙行を眼目とせる仏なり。応化非真仏と申て、三十二相・八十種好の仏よりも、法華経の文字こそ真の仏にてはわたらせ給候へ。仏在世に仏を信ぜし人は仏にならざる人もあり。仏滅後に法華経を信ずる人は無一不成仏如来の金言なり。この衣をつくりて、かたびらをきそい(著添)て、法華経をよみて候わば、日蓮は無戒の比丘なり、法華経は正直の金言なり。毒蛇の珠をはき、伊蘭の栴檀をいだすがごとし」(一一一一頁)

 『文句記』のを意を用いて釈尊は成仏できないとされた二乗の成仏を説きました。敗種とされた二乗を再生することから二乗作仏といいます。顕本遠寿は久遠実成の仏の本地を顕すことです。法華経の迹門の二乗作仏と本門の久遠実成を述べたのです。釈尊の仏性常住が示されたことは、一切衆生にも常住の仏性が具わっていることを顕します。一乗妙行とは法華経を受持することが肝要であることをいいます。また、『金剛般若論』の「応化非真仏」の文を引き、応現した仏や三十二相を具足した仏よりも法華経の文字が真仏であるとし、仏の在世には成仏できない者がいたが、滅後末法に法華経を信ずる者は全ての者が成仏するとは釈尊の金言であると述べます。

 最後にこの衣を着て法華経を読むなら、日蓮聖人は無戒の比丘ではあるが、この法華経の功徳は毒蛇から宝珠を取り出だすのと、臭気のある伊蘭から栴檀をとり出だすように大きな功徳であると述べ、富木氏夫妻の成仏は疑いないと述べています。

□『蒙古使御書』(一九六)

 富士郡西山郷の地頭、大内氏より九月七日に、鎌倉竜口にて蒙古の使者五名の処刑があったとの知らせがあり、それについての返事の消息です。大内氏は幕府と関係があったと言われ、その役務を終えて所領の西山郷に帰ってきたことを喜ばれています。『西山大内殿御返事』『蒙古使刎頸抄』ともいい、内容が蒙古の使者のことであるから『蒙古使御書』と呼んでいます。文永の役の後に再び入貢を促しに来日したのです。この蒙古の使者が竜口で処刑されたのです。蒙古は憤怒し再襲を決めたことでしょう。幕府は徹底的に蒙古と戦う意志を固めたのです。幕府は始めて異国降伏の祈祷を全国の寺社に命じます。そして、蒙古征伐と防護の計画が立てられ、九州の海辺諸国の守護を北条一門に交代させます。梶取(かんどり、かじとり)という船の舵をとる者や、水手(かこ)という水夫など船乗りを集めます。鎮西のため北条実時(一二七六年没)の子実政(一二四九~一三〇二年)を異国征伐の軍総司令官として九州に下向させます。このとき金沢北条氏の重臣平岡氏などの軍勢を率います。実政の存在は九州の大友氏、少弐氏、島津氏や東国から派遣されていた有力御家人、その子弟である宇都宮通房安達盛宗などを統率できる人物といわれます。父の北条実時は建治元年五月に病気のため六浦に引退し、七月に実政に置文(遺訓として大将たる者の心得)をします。そして、金沢文庫を完成させ没後には豊前の守護職を実政に継がせています。幕府は諸国の公事を減少し警護に向けます。朝廷の実権が低下することにより多くの公事が縮小され廃絶したものもあります。日蓮聖人はこの社世中ら五人の斬首について、

「又蒙古の人の頚を刎られ候事承候。日本国の敵にて候念仏・真言・禅・律等の法師は切れずして、科なき蒙古の使の頚を刎られ候ける事こそ不便に候へ。子細を知ざる人は勘へあてて候を、おごり(□)て云と思ふべし。此二十余年の間、私には昼夜に弟子等に歎申、公には度度申せし事是也。一切の大事の中に国の亡るが第一の大事にて候也」(一一一二頁)

と、亡国の元凶である念仏・真言・禅・律等の法師の頸を切らずに、蒙古の使者を斬首したことは国が亡びる原因となるとします。亡国は第一の大事であり、それを回避するために諫暁してきたことを述べています。日蓮聖人にとっての国家意識が分かります。『最勝王経』の「害中極重者無過失国位」の文を引き、国王が自国を他国に破らるることは第一の悪であると述べます。また、『金光明経』の「由愛敬悪人治罰善人故乃至他方怨賊来国人遭喪乱」文を引き、国王と成て悪人を重用し善人を罪科に処遇すれば、必ず其国他国に破られると述べます。つまり、国王の悪政により亡国になることを示しています。次に法華経の「為世所恭敬如六通羅漢等」の文は、

「文心は法華経の敵の相貌を説て候に、二百五十戒を堅く持ち、迦葉・舎利弗の如くなる人を、国主これを尊て、法華経の行者を失なはむとするなりと説れて候ぞ」(一一一三頁)

と、あきらかに幕府が重用している良観などを指しています。ここでも法華経の行者を迫害することによる治罰が国家の存亡にも関わっていることを述べています。大事な法門というのはいざという大事なときに誤りなく判断を下すことで、それができてこそ智者の英断であると述べます。日蓮聖人の弘経はこういう視点に立っていることが窺えます。同じように『兵衛志殿御書』には、

「あはれ平左衛門殿・さがみ殿日蓮をだに用られて候しかば、すぎにし蒙古国の朝使のくびはよも切せまいらせ候はじ。くやしくおはすならん」(一三八八頁)

と、蒙古の使者を斬殺したことと、日蓮聖人の諫暁を無視したことの結果の悲しさを述べています。そして、過去・現在・未来の三世を知る智慧をもつのが聖人賢人であるとします。諸法の実相である万法は凡夫の心に収まり、須弥山を中心とする九山七海の世界も身体に備わり、日月・衆星も己心に備わっていると述べます。凡夫の己心にも三千の世界を具足するという一念三千を説いたのです。これを説くのは法華経であることを示したのです。ですから、諸経と法華経の勝劣は一念三千にあり、ここに聖人賢人との違いがあると述べています。「大事な法門」ここにあるのです。

 この返書はいそがれて書かれたようで、法門のことは際限がないのでここで書き留めるとして、西山氏が鎌倉から帰り早々に蒙古についての情報を使者にもたらしたことに感謝し、合わせて供養の志にも感謝されています。蒙古襲来は日本国にとって嘆きではあるが、日蓮聖人の門下にとっては予言が的中したことは、自身の成仏が疑いのないことの証左であると述べます。西山氏もこの蒙古の恩恵を受けたと述べます。それは時頼の十三回忌にあたり、西山氏の所領において御狩りが予定されていたであろうしが中止になったこと。北条六郎(時頼の弟の六郎為時)のように筑紫に異国警護に出兵したかもしれないが、日蓮聖人の信徒であるために所領に帰されたこととします。武士としてこれを不満に思ったり、警護を外されたのは誰かの策略と考えずに、諸天の守護があって助けられたと思うようにと述べています。悦ばしいことであるから参上したいが、人聞きがあるので身を慎んでいると述べて返事を使者に託しています。使者を斬首されたフビライは激怒したといいますが、この時は南宋との戦いのため日本に派兵できないでいたのです。 

○御本尊(二六)一〇月

 一〇月付けの御本尊があります。日興上人の『本尊分与帳』と、この御本尊を所蔵している戸田市妙顕寺の添書きによりますと、南條時光に与えれらたものであることがわかります。日蓮聖人の筆跡にて「平時光授与之」とあり、別紙の日興上人の「南条兵衛七郎子息、七郎次郎平時光者、依為日興第一弟子、所申与如件」の添え書きを貼り合わせて一幅としています。紙幅は縦一二八、二㌢、横五五、一㌢、四枚継ぎの御本尊です。十羅刹女の名前をすべて列記されるのは、この御本尊が最後となります。

○御本尊(正中山霊宝目録)建治年中

 「正中山法華経寺霊宝目録」は、遠沾院日亨上人が中山法華経寺に所蔵されていた霊宝を筆録したもので、「堀之内蔵広本」の末尾に挿入されていました。ここには十三幅の霊宝が記載されて、十一幅の御本尊が紹介されています。しかし、明治三二年五月七日に盗難にあい喪失した御本尊です。『御本尊鑑』と重複するものが四幅あるので、本書には七幅を追記しています。弘安元年七月一六日の「同日三幅」は三幅と数えます。この御本尊は建治年中とされます。十羅刹女のすべてが勧請されていることから、さきの御本尊(二六)の前後ころに染筆されていたと思われます。また、四天王には大の冠がなく、十一枚継ぎの大きな御本尊であることがわかります。

○御本尊(一八)大日如来

 同じく平賀本土寺に所蔵された御本尊で、紙幅が縦一八九、四センチ、横一一二、一㌢です。二十枚継ぎの大きな御本尊です。特筆することは諸尊のなかに金胎両界の大日如来を勧請されたことです。大日如来の位置は釈迦牟尼仏・多寶仏の横にあり、これは釈迦・多寶の下位に大日如来があることを示されたものです。同型の御本尊が建治元年一一月の日付にて、身延に曾存したことが遠沾日亨上人が伝えています。『御本尊鑑』(第一二)の「胎蔵界金剛界大日等ノ御勧請」(二四頁)がこれで、同書には、この御本尊も建治元年に系くことを妥当としています。浅井円道先生は「金剛界大日如来・胎蔵界大日如来をそれぞれ釈迦仏・多宝仏の傍に勧請してあるのは、要するに不空の法華観智儀軌によって両界の大日如来を多宝仏の脇士と考え、以って教主釈尊の眷属たらしめようとされたものである」と説明しています。(『本尊論の展開』『中世法華仏教の展開』所収二六五頁)。

平賀本土寺所蔵の文永一一年頃の曼荼羅(大崎学報一〇二号九頁)

亨師模写の建治元年一一月の曼荼羅(身延曽存)

『法華取要抄』に「大日経・金剛頂経両界の大日如来ハ宝塔品ノ多宝如来ノ左右ノ脇士也」(八一二頁)と述べていることから分かります。ほか、『善無畏鈔』(四一〇頁)・『真言七重勝劣』(二三一五頁)・『曽谷入道殿許御書』(八九七頁)・『報恩抄』(一二一九頁)にみられます。台密と純法華思想の相違を究明することは煩瑣な作業であったことでしょう。法華経の久遠実成の釈尊と大日如来の位置づけを一目瞭然に示したのが以上の曼荼羅であったのです。この御本尊が本土寺に所蔵されていることについては、曽谷法蓮氏が地蔵堂を法華堂として建立したときに、日朗上人が三箇の宝物を送ったその一つであることがわかります。