264.『大田入道殿御返事』197~『強仁状御返事』        高橋俊隆

□『大田入道殿御返事』(一九七)

 一一月三日付けで大田乗明に宛てた書状です。真蹟の存在について、後世、真間弘法寺の日満上人(一三五六~九三年)が、中山法華経寺の第四世日尊上人と法服問題を起こします。起因は日尊上人が埴谷妙宣寺の開堂式を勤めた折に、七条の袈裟を着用したことにあります。日満上人は身延第七世日叡上人に訴えたことから、身延・中山法華経寺の軋轢となり、日満上人は明徳元(一三九〇)年に真間門徒を立てようとしますが失敗します。このため真間を退出することとなります。(『日蓮聖人御遺文講義』第一八巻九三頁)。そのときに本書を持ち出して後に市河村で焼失したと伝えられきましたが、大正・昭和の宗宝調査により断片一一紙が、鶴崎法心寺・本国寺など七ヶ所に散在しています。本書は元は真間弘法寺に所蔵されていたことが分かります。

○乗明の病気

 本書は乗明が病気になり、この病は歎きではあるがもう一つには悦びであると諭します。悦びと言うのは乗明が法華経を信仰したことにより、過去に真言宗を信じていた謗法の重罪を現在に受けるが、法華経の功徳により罪を軽く受けるという、「転重軽受」の法門をいいます。この内容の意をとって『転重軽受書』ともいいます。『維摩経』(弟子品・文殊師利問疾品)『涅槃経』『法華経』(涌出品)『摩訶止観』などの経釈を引いて、病気の起因・病相・治病についてのべています。

『維摩経』 維摩詰が病の床に着いたので、釈尊は文殊師利菩薩に見舞いに行かせ、その病状を問わせます。

      維摩詰は衆生を哀れむために病を現じたと慈悲を説きます。

『涅槃経』 釈尊は衆生を調伏するために右脇を下にして伏し病人のようにされた。

(調和制伏とは己の心身を修め、外からの悪を教化して成道に至る障害を取り除くこと)

      仏には真実の病はないと説かれます。

『法華経』 地涌の菩薩が釈尊に少病少悩にして安楽に法を説いていますかと問います。

釈尊は安楽にして少なく病み少なく悩むと答えます。

天台はこれらの文について『摩訶止観』に、維摩詰が毘耶梨城の自宅に伏して病に寄せて教えを説いたように、釈尊も入滅に寄せて法身常住を示し、病によってその功力を説いたと解釈しています。日蓮聖人はこれらの文を引いて病気について解説されたのです。日蓮聖人の「生老病死」についての認識が窺えます。

続いて『摩訶止観』第八を引き病気の原因を六点をあげ、続いて、『涅槃経』の文を引き難治な病として三点あげます。

「明病起因縁有六。一四大不順故病。二飲食不節故病。三坐禅不調故病。四鬼得便。五魔所為。六業起故病[云云]。大涅槃経世有三人其病難治。一謗大乗。二五逆罪。三一闡提。如是三病世中極重。又云 今世悪業成就 乃至 必応地獄。乃至 供養 三宝故 不堕地獄現世受報。所謂頭目背痛等[云云]。止観云 若有重罪乃至人中軽償。此是業欲謝故病也(一一一五頁)

 

病気の原因六

一、四大不順  体を構成している、地大骨や筋肉)・水大血液)・火大体温)・風大呼吸)が調和を乱

すと病気になる。
二、飲食不節  飲食の過不足により病気が起こる。
三、坐禅不調  生活の摂生(身体の姿勢、心の怠慢)を乱すと病気になる。

四、鬼病    悪鬼が人の隙を窺って、体の四大・五臓に入り病気を起こします。
五、魔病    天魔が人の心に入り病気を起こします。

六、業病    過去世の罪業に因って起きる病気です。

この病気の原因のうち初めの三つの病気は、医者や薬で治すことができます。後の三つの病気は法華経を信仰することによってのみ治すことができます。六番目の「業起故病」とは前世の悪業を原因として、今世に現れる病気のことです。そして、謗大乗、五逆罪、一闡提による病は重く最も治療の難しい病とします。しかし、同じ『涅槃経』に今世に悪業を作れば必ず地獄に堕ちるが、三宝を供養することによって、地獄に堕ちず現世に功徳の果報を得ると説いていることを挙げます。現世にはその報いを受けて、頭と目と背の痛みとなって現れるとあります。『止観』には重罪を今世に償うならば、悪業を消滅させるために病気になるが、それは軽く受けて償うことができると説かれます。すなわち、「転重軽受」を説いた文です。

龍樹の『大論』を引き、これらの病気を治療するのは法華経であり、ゆえに法華経こそが秘密の法であり「変毒為薬」の経であるとの文をあげ、さらに天台・妙楽の解釈を引き助証し、『法華経』の「此経則為閻浮提人病之良薬」の文をあげて、『法華経』こそが病気を退治する良薬であることをのべています。

この業病にも軽重があり、その中でも法華経を誹謗する罪が最大の重病であるのべます。この業病は神農・黄帝・華他・扁鵲という名医であっても手を拱き、持水・流水・耆婆・維摩という名医も口を閉じて治せないのです。釈尊のみが法華経の良薬をもって治療できるとします。

 

「但限釈尊一仏妙経良薬治之。法華経云 如上。大涅槃経指法華経云 若有毀謗是正法能自改悔還帰於正法 乃至 除此正法更無救護。是故応当還帰正法[云云]。荊谿大師云 大経自指法華為極[云云]。又云 如人倒地還従地起。故以正謗接於邪堕」(一一一六頁)

と、『涅槃経』と妙楽の『文句記』「因謗堕悪必由得益。如人倒地還従地起。故以正謗接於邪堕」の文を引きます。これは折伏下種の証文となります。つまり、謗法の罪があっても改悔し、法華経に帰信することにより救治できるのです。日蓮聖人は乗明に法華経の功徳の大きいことをのべたのです。そして、この文のように邪教を離れ法華経に帰信して、滅罪した者として世親・馬鳴・吉蔵の実例を挙げます。

ここまで経論を引き、法華経は釈迦・多宝・十方分身諸仏の三聖の金言であり、諸経のなかの最上にあるとして真言宗との比較をします。日蓮聖人は『大日経』『金剛頂経』『蘇悉地経』などを多年にわたり研究したが、「法華最大一」「已今当」の三説超過を破る経文はなかったとのべます。

「予随分勘 大・金・地等諸真言経敢無此文会通明文。但見 畏・智・空・法・覚・証等曲会。是知。釈尊・大日本意限在法華最上也。而本朝真言元祖 法・覚・証等三大師入唐時 畏・智・空等三三蔵誑惑相承果・全等帰朝了。法華・真言弘通之時隠三説超過一乗明月 顕真言両界蛍火 剰罵詈法華経曰 戯論也 無明辺域也。自害謬悞曰 大日経戯論也 無明辺域也。本師既曲。末葉豈直乎。源濁流不清等是之謂歟。依之日本久為闇夜 扶桑終欲枯他国霜」(一一一七頁)

真言宗が法華経に勝れているというのは、善無畏などの三三蔵などの曲解による誤りであり、弘法・慈覚・智証はこの誑惑した相承を受けて帰朝し、これにより末葉の弟子たちも曲解したため亡国へ導いたとのべます。

 そして、乗明は真言宗の正嫡ではないが檀那であり従者であったので、その謗法の罪は大山が崩れ大海の潮が乾くことがあっても消えがたいとのべます。しかし、日蓮聖人と出会い法華経を信仰し改悔の心を起こしたことにより、未来の罪業を軽く受けて軽い瘡病となり、この軽瘡を癒して長寿を得ることができるあろうと、阿闍世王が五逆・謗法の滅罪した例を引きます。もし効験が現われないならば、法華経を綺語と公言されたくなければ、世尊は験を表わし、諸賢聖は誓いを守るならば守護すべしと、声を出して叫喚しなさいとのべています。

「抑貴辺雖非嫡嫡末流一分 将又檀那所従。身処邪家年久 心染邪師月重。設頽大山 設乾大海 此罪難消歟。雖然宿縁所催 又今生慈悲所薫 存外値遇貧道 発起改悔故 償未来苦現在軽瘡出現歟。彼闍王身瘡五逆謗法二罪所招。仏入月愛三昧照其身 悪瘡忽消延三七日短寿保四十年宝算 兼又屈請千人羅漢書顕一代金言 流布正・像・末。此禅門悪瘡但謗法一科。所持妙法超過月愛。豈不愈軽瘡招長寿。此語無徴 発声叫喚一切世間眼大妄語人 一乗妙経綺語典 惜名世尊験顕恐誓諸賢聖来護云爾」(一一一七頁)

この書状を受けた乗明は、法華経の真実と諸天の守護を確信したことでしょう。日蓮聖人の強い信心の言葉が窺えます。本書に乗明を「禅門」と呼ばれていることから、この年には剃髪入道していることがわかります。

 

□『尊霊御菩提御書』(一九八)

 一一月に常忍に宛てた消息といわれ、真蹟は一紙五行断片が頂妙寺に伝わっています。『定遺』にはじめて収録されました。尊霊とありますので常忍の主君など、身分の高い人の菩提を回向されたことと思われます。文中に乗明と次郎入道の名前が見えます。両氏が法門についての疑問があったと思われ、それについての答えは「観心之法門時可申」(一一一九頁)とのべています。

乗明の病状にふれ「転重」のところから欠文になりますが、あきらかに「転重軽受」についてのべ、強い法華経の信心により治癒し延命できることをのべたと思われます。法門の疑問とは「迹門不読」についてと思われ、これに答えたのが『観心本尊抄得意釥』(一一一九頁)です。また、乗明の病状を心配され病の原因や「転重軽受」についてのべたのが『太田入道殿御返事』(一一一五頁)です。両書とも建治元年一一月に系年されており、本書はその前後と考えられています。次郎入道については曽谷二郎、教信御房ではないかといわれますが、同一人物とするには留意する必要があるといい、また、法蓮上人と教信御房とは別人であるといいます。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇六六六頁)

この一一月に駿河の高橋六郎入道が死去し、年末に弟子を弔問させています。

 

○御本尊(二七)一一月

 一一月付け紙幅、縦一一六.一センチ、横四六.一センチ、四枚継ぎの御本尊で、京都妙顕寺に所蔵されています。署名と花押は左下に一体的に書かれており、讃文はそのすぐ横に四行にて書かれています。

 

○御本尊(『御本尊鑑』第一二、胎蔵界勧請)一一月

 大日如来を勧請した御本尊で、さきの御本尊(一八)に類似しています。御本尊(一八)を建治元年に系年する根拠となる御本尊です。紙幅は不明です。御本尊(一八)と違うところは、四天王が梵名で書かれていることと、金剛・胎蔵界の大日如来の位置が、十方分身諸仏と善徳仏の次に勧請されていること、ほかにも諸尊の出入りがあります。

○御本尊(『御本尊鑑』第一三)一一月

 授与者名はなく、紙幅縦九八センチ、横五四.六センチの御本尊が、嘗て身延に所蔵されていたことが記録されています。(『亨師目録』「第一長持之内三函八幅」)。

 

○北条実政を九州に派遣

 幕府はこのころ北条実政を九州に派遣して警固させ、一一月に異国征伐令を発し、高麗に先制攻撃をすることを決めました。鎮西のため北条実時(一二七六年没)の子、二九歳の実政(一二四九~一三〇二年)を異国征伐の鎮西軍軍総司令官として九州に下向させる意向をもちます。つまり、幕府は「異国警護」と「異国征伐」の両方の強気な計画を進めたのです。実時はこのとき金沢北条氏の重臣平岡氏などの軍勢を率います。実政の存在は九州の大友氏、少弐氏、島津氏や東国から派遣されていた有力御家人、その子弟である宇都宮通房安達盛宗などを統率できる人物といわれます。かつ、九州や高麗に長期に滞在できる有能な人物といいます。

父の実時は建治元年五月に病気のため六浦に引退し、七月に実政に置文(遺訓として大将たる者の心得)をします。そして、金沢文庫を完成させ没後には豊前の守護職を実政に継がせています。幕府は諸国の公事を減少し警護に向けます。朝廷の実権が低下することにより多くの公事が縮小され廃絶したものもあります。

博多を本拠とし少弐景資(しょうにかげすけ)を大将として九州・山陰・山陽の御家人に兵士・武器・船舶・舵取り・水夫(かこ)などの動員できる数を注進させました。蒙古は一二月に今の武漢を陥落させ、元軍はそのまま揚子江の南岸を下って南京を制覇し杭州に向かいます。翌年の正月に宋の皇帝、恭帝は元に降伏します。宋との三百年にわたる交易をしてきた日本にとっては、蒙古襲来の不安を大きくすることでした。

□『観心本尊得意抄』(一九九)

 一一月二三日付けで常忍から金銭一貫文と厚綿の白小袖、ほかに筆十管、墨五丁を送られたことへの謝礼の返事です。身延の冬は嵐が激しく降積の雪も消えず、草庵の生活はこの極寒を耐え抜くことでした。常忍からの厚綿の小袖はその寒苦を和らげたのです。商那和修が過去に病気の比丘に衣を布施した功徳を示して、常忍より送られた小袖の功徳を示しています。

真蹟は現存せず『平賀本』の写本が伝えられています。常忍の目録に本書が載っていないことと、文体にも多少の不審があるといいます。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇二一一頁)。また、本書に「心地違例」と病気と思われる記述があることから、建治二年とも考えられています。若江賢三稿「御書の系年研究(その5)」東洋哲学研究所)

 

○教信から迹門不読についての質問

 本書は常忍が、『観心本尊抄』のなかで示された教学の解釈について質問されています。曽谷教信が『観心本尊抄』のなかで、

 

「自一品二半之外名小乗教・邪教・未得道教・覆相教。論其機徳薄垢重幼稚貧窮孤露同禽獣也。爾前迹門円教尚非仏因」(七一四頁)

と、一品二半の他は未得道」の教えとあることから、迹門の方便品は読誦しないという考えを持ったことにつき、日蓮聖人に迹門不読についての真意を質問しています。これについて、

「抑今御状云教信御房観心本尊鈔未得等付文字迹門をよまじと疑心の候なる事、不相伝の僻見にて候歟。去文永年中に此書の相伝は整足して貴辺仁奉候しが、其通を以可有御教訓候。所詮、在在処処仁迹門を捨よと書て候事は、今我等が読所の迹門にては候はず。叡山天台宗の過時の迹を破候也。設如天台・伝教法のまゝありとも、今至末法者去年の暦如。何況自慈覚已来迷大小権実大謗法同をや。然間像法時の利益無之。増於末法耶」

(一一一九頁)

と、迹門不読は僻見であるとはっきりとのべています。では、日蓮聖人がいう迹門とは何かというと、比叡山の天台宗が立てている過去の法華経の解釈を指しているとのべます。末法においては天台・伝教が説いたとおりに修行しても、古い暦を読むと同じく利益がないとのべます。それは末法における弘教は、本門寿量品の肝心である妙法五字を下種することにあるからです。『観心本尊抄』に、

「像法中末観音薬王示現南岳天台等出現以迹門為面以本門為裏百界千如一念三千尽其義。但論理具事行南無妙法蓮華経五字 並本門本尊未広行之。所詮有円機無円時故也」(七一九頁)

とのべた事行の南無妙法蓮華経とは、この下種の弘通を指し、寿量品の久遠実成の本仏釈尊を、本門の本尊と宣顕することにあるからです。本書の題号の「観心本尊得意」とは『観心本尊抄』の大事な法門は本門にあることを示します。まして慈覚以後の天台宗は謗法となり利益がないとします。慈覚は真言密教を取り入れ「理同事勝」を説きます。師匠の伝教に背いたのです。ここには比叡山の天台宗と、日蓮聖人が説く法華経の勝劣が峻別されていることが分かります。この旨を乗明に教訓するように指示されます。

弘安二年の『四菩薩造立鈔』にも「御状云太田方の人々」が迹門未得道を論じ、日蓮聖人はこれを「以の外の謬也」(一六四九頁)と喝破されていることから、本迹論についての見解の相違が続いていたのです。

 次に、北方(ぼっけ)にいる学僧的な能化が、日蓮聖人は爾前経を「未顕真実」といいながら、『立正安国論』に爾前経を引用するのは、自語相違していると批判された疑問を挙げます。北方に天台宗の談義所があったと思われます。これについては前々に解釈をしていますが、仏教を判別する方法に「大綱」と「綱目」があるとのべます。

「一北方の能化難云、爾前の経をば未顕真実と乍捨、安国論には爾前経を引、文証とする事自語相違と不審事、前前申せし如し。総じて一代聖教を大仁分て為二。一大綱・二網目也。初の大綱者、成仏得道の教也。成仏教者法華経也。次網目者、法華已前諸経也。彼諸経等は不成仏教也。成仏得道文言雖説之但有名字其実義法華有之。伝教大師決権実論云権智所作唯有名無有実義[云云]。但於権教成仏得道の外説相不可空。為法華網目なるが故仁。所詮、成仏大綱を法華仁説之、其余の網目は衆典明。為法華網目なるが故仁法華の証文引之可用也。其上、法華経にて可有実義を、爾前の経仁して名字計のゝしる事、全為法華也。然間、尤法華の証文となるべし」

(一一二〇頁)

仏教は成仏を究極の目的としていますので、この成仏の方法や論理・現証を説いたのは法華経のみであるとします。これを大綱といいます。綱目とは法華経以前の経で不成仏の教えです。しかし、法華経に説かれた成仏へ導くための方便の教えを指します。この観点からすれば全ての経は法華経の真実へ導くための教えであることとなります。ここに、諸経を引用する理由があるとします。爾前経の引用について大綱と綱目に分類し、大綱は成仏の教えで法華経を指し、綱目は而前経のことで成仏に関すること以外は虚言ではないとして、『立正安国論』などに引用する爾前経は法華経のための綱目であるから、証文として引用しても構わないとのべています。さらに、文証の一部を常忍に示されます。

「問、法華を大綱とする証如何。答、天台当知此経唯論如来説教大綱不委細網目也。問、爾前を網目とする証如何。答、妙楽云皮膚毛綵出在衆典[云云]。問、成仏限法華云証如何。答、経云唯有一乗法無二亦無三[文]。問、爾前為法華証如何。答、経云雖示種種道其実為仏乗」(一一二〇頁)

 天台の文は『法華玄義』第十、妙楽の文は『釈籖』第十九『文句記』第十、『法華経』の文は方便品(『開結』一〇七・一一五頁)。です。これらの文を証拠として自語相違とする批判に答え、あわせて大綱・綱目の受容の仕方を、中山周辺の信徒たちに教示するように示されています。そして、委細について詳しく説明したいが、心地違例しているので省略するとのべています。心地とは戒のことをいい心を地に譬えたものです。違例とは体調がいつもと違うということで病気のことと思います。教信から迹門不読の解釈が起きたことに、心持ちを悪くされたと解釈するのは誤りと思います。

 追伸に日高上人が下総に目連樹という木があるというので、その木の根を掘って十両(二十本)ほど送ってほしいとのべています。その根の両方を焼いて紙に厚く包み風にあてて品質を落とさないようにと、細かな指示をし、大夫次郎がついでの時に身延に届けてほしいと頼んでいます。大夫次郎については不明ですが、常に身延と中山法華経寺を往来していた、常忍の家臣ではないかといいます。日蓮聖人に病気の気配があったと思われます。

○玄旨伝法御本尊(二八)一二月

 この御本尊は経一丸に授与されたもので、建治元年一二月の年号が書かれています。紙幅は四九.一センチ、横三一.五センチの一紙の大きさに、譬喩品の「今此三界皆是我有其中衆生悉是吾子而今此処多諸患難唯我一人能為救護」の文が、中央首題の両横各四行に書かれています。京都妙顕寺に所蔵されています。右下隅に妙顕寺第四世の通源院日霽上人の二個の印章が押されています。

『妙顕寺史』によりますと、経一丸は文永六年八月十日に下総平賀の郷(松戸市本山本土寺の地)に生まれ、六才のとき異父兄の日朗上人に導かれて身延に入ります。このとき日蓮聖人は経一丸と名づけられて、この玄旨伝法本尊を染筆し授けました。池上にて入寂のとき、十三才の経一丸は枕辺に呼ばれ京都の弘通を遺命されます。名を日像と改め二十五才の永仁二(一二九四)年四月二十八日の晩、御所の正門に立ち、登る旭日に題目を唱えて京都の開教を誓いました。

「玄旨伝法本尊」と呼称されるのは、日蓮聖人の宗教において最も根源となる重要なことを、曼荼羅本尊として顕したということで、その法華経の深い教えを伝えることを日像上人に託されたのです。日像上人にとっては法華経の行者の守り本尊として受容されます。中尾堯氏はこの本尊を修理のため、表紙の裏打ちを外すと折り目がいくつもあることから、幾重にも折って守り本尊として身につけていたと推測しています。その折り目の角にはすり切れた穴があり、そこに染みた跡は日像上人の汗と言います。(日蓮宗勧学院『中央教学研修会講義録』第二二号五三頁)。日蓮聖人から不惜身命の法脈を承け、弛みなく教えを貫いた日像上人の面影が窺えます。

○御本尊(二九)

 通称「今此三界御本尊」といわれ、「玄旨伝法御本尊」と同じ譬喩品の「今此三界皆是我有云々」の讃文があります。紙幅は縦四六.一センチ、横三二.七センチ、一紙に染筆されています。折り目や擦れのため判読できない授与者名(日心上人)などが見られます。顕示日はありませんが、「玄旨伝法御本尊」と同じ形式で、この時期の染筆とされています。大野本遠寺に所蔵されています。

○御本尊(三〇)一二月

 一二月の年月が書かれ、紙幅縦九三、九センチ、横五一.五センチ、三枚継ぎの御本尊です。鎌倉妙本寺に所蔵されています。

○御本尊(『御本尊鑑』第一四)一二月

○十羅刹女列記最後

 「中山十一枚継御本尊」が、中山法華経寺に所蔵されていたことが記録されています。紙幅などは不明ですが、不動愛染はなく、十羅刹女の十女の名前がすべて書かれています。『祐師目録』には一一枚継ぎ、四天王に大の冠がないとあります。(『御本尊鑑』二八頁)。十羅刹女の名前をすべて列記されるのは、この御本尊が最後となります。遠沾院日亨上人の『御本尊鑑』には大日天王を欠き、村上有信居士の『妙宗先哲本尊鑑』には日月両天を欠き、両者ともに写し間違いがあったと指摘されます。(山中喜八著『日蓮聖人真蹟の世界』上一三四頁)

○御本尊(『御本尊鑑』第一五)一二月

 紙幅は縦九五.一センチ、横四七.七センチ、紙本三枚継ぎの御本尊となっています。嘗て身延に所蔵されていたことが記録されています。『亨師目録』に「第一長持之内三函八幅」とあります。『御本尊鑑』の底本は第十一になります。(『御本尊鑑』三〇頁)

□『強仁状御返事』(二〇〇)

一二月二六日に一〇月二五日付で強仁(強忍、ごうにん)からの書状が届きます。そこには、法論の対決を申し込んでいました。強仁は富士に住んでいた真言宗の僧で仏教の理解が深かったようです。真蹟八紙が妙顕寺に所蔵され、『日乾目録』によりますと、身延に草案十三紙が曽存されていたとあります。強仁からの法論要求の勘状が二ヶ月ほどを経て身延山の日蓮聖人に届いており、日蓮聖人は公場対決に望みを持ち返書しました。特に京都の朝廷への上申を考えたのでしたが、中継者のなんらかの事情で強仁へ書状が届かなかったようです。

日蓮聖人は法論における正式な判定を得るには公場にての法論を求めています。『行敏御返事』に、 

「条々御不審事、私問答難事行候歟。然者被経上奏随被仰下之趣、可被糾明是非候歟」(四九七)

とのべているように、日蓮聖人が行なう法論は公場対決を主として、勝敗の行方に関して後々喧騒が起きないように配慮しています。片田舎での問答は判定を巡って双方の喧嘩の原因となるので、今回も朝廷と幕府に奏聞して許可を得ての法論を促しています。そうすることが天皇から万民に至る全ての者の疑いを晴らすことになり、釈尊は仏法の付属を国王や家臣に付属されているのは、公場での邪正を見定めるためであるとのべています。

そして、自界叛逆・他国侵逼の二難を予言した旨をのべ、他宗の邪法が法華経の真実を滅失することを、身命を惜しまずに国主に奏したために、刀杖・流罪・斬首の刑に処せられそうになったことを挙げます。日本の亡国の原因は真言宗の弘法、天台宗第三祖の慈覚にあるとのべます。弗沙密多羅王が多くの寺院を焼き多くの僧侶を斬首したことや、会昌の破仏よりも謗法の罪が大きいと比較します。しかし、現状は謗法の原因である真言師に祈祷を頼み、持斎を供養しているため更に災禍を招き、日本が亡国の危機にあるとのべます。そして、

「今幸強仁上人以御勘状暁喩日蓮。可然者此次奉驚天聴決。誠又御勘文為体以非為先。若上人黙止空過一生定師檀共招泥梨大苦。以一期大慢勿殖永劫迷因。速々経天奏疾々遂対面翻邪見給。書不尽言言不尽心。悉々期公場。恐恐謹言」(一一二三頁)

と、日蓮聖人は強仁の書状を機会として、強仁の考えの誤りを糾すのみだけではなく、天皇の裁断を仰ごうとしました。日蓮聖人の諫暁が幕府から天皇に移行していたことが窺えます。この公場対決を黙視することは、強仁と檀那の師弟が共に堕獄することになるから、速やかに対面して邪見を翻すようにと促します。その後の返答はありませんでした。しかし、日蓮聖人は公場対決の意欲を持ったことは確かです。