265.『除病御書』~『白米和布御書』              高橋俊隆
□『除病御書』(二〇一)

 本書は『延山録外』に所収されています。前文が欠け日付や宛先も不明ですが、内容から乗明に宛てた書状とされています。(鈴木一成著『日蓮聖人遺文の文献学的研究』三三八頁)。乗明が病気であることは先の『大田入道殿御返事』(一一一五頁)と『尊霊御菩提御書』(一一一九頁)にのべていることから知られ、本書にはその病気が治ったことへの返事であると思われます。病気には過去の謗法に起因するものがあることは先にのべているとおりで、ここには乗明が滅罪のために信心を深め、また、日蓮聖人が日夜に病気平癒を祈願していたところ、無事に病気が平癒したことを知り喜ばれていることが窺えます。

 

□『上野殿御消息』(二〇二)

 建治元年とされ『本門取要鈔』と異称されますが、内容から見てこの異称の理由については不明です。ほかに『四恩御抄』といわれるのは内容から取意されたことがわかります。『法華取要抄』に類似した『本門取要鈔』と言われる著述があったのかも知れません。『本満寺本』の写本が伝えられています。

 三世の諸仏は四恩に報謝することを説いているとして、まず、外典の肝要である孝・忠・礼・慈悲の四徳を挙げて内容を説明します。次に、仏教には父母・国主・一切衆生・三宝の四恩があることを挙げて内容を説明します。この四恩をすべて報ずる教えは何かという問いを起こし、父母の恩である女人成仏について追求します。つまり、華厳・阿含・方等・般若・涅槃経には女人成仏を説いていないとして、では、母を成仏させ恩に報いる経はあるのかを探したところ、法華経にだけ女人成仏が説かれているとします。その女人成仏が名目だけでなく現実のものとして、提婆品の龍女成仏、勧持品に憍曇弥・耶輸陀羅の記別を証文とします。このように母の成仏を要点として、法華経が四恩に報いる経であることをのべています。この道理を理解しやすく、 

「されば法華経を持つ人は父と母との恩を報ずる也。我心には報ずると思はねども、此経の力にて報ずる也然間、釈迦・多宝等の十方無量の仏、上行地涌等の菩薩も、普賢・文殊等の迹化の大士も、舎利弗等の諸大声聞も、大梵天王・日月等の明主諸天も、八部王も、十羅刹女等も、日本国中の大小の諸神も、じて此法華経を強く信じまいらせて、余念なく一筋に信仰する者をば、影の身にそふが如く守らせ給ひ候也。相構て相構て、心を翻へさず一筋に信じ給ふならば、現世安穏後生善処なるべし。(一一二七頁)

と法華経の経力により父母は成仏するとのべます。さらに法華経を信ずる者は仏・菩薩や諸天善神に守護され、日本国中の大小の諸神にも守護されるとします。この日本の諸神とは天照大神・八幡大菩薩を首長とした、その眷属として諸地方を守る神祇のことです。ですから、どこにいても身を守っているので、不審を抱かずに信心をするなら、「現世安穏後生善処」は疑いないと安心を与えています。

 

□『智慧亡国御書』(二〇三)

 真蹟は十紙が富士大石寺に所蔵されています。署名花押や日付、宛名は欠けています。本書の宛先は「故六郎入道の」とあることから、高橋氏の未亡人である持妙尼とされます。健治二年二月の日蓮聖人染筆本尊の日興上人の添え書きに、「高橋六郎入道の後家尼持妙尼」とあり、持妙尼は日興上人の叔母と書かれています。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇四七六頁)

○減劫は私たちの三毒が強くなることにより起きる

冒頭に「減劫と申すは人の心の内に候」(一一二八頁)とあることから『減劫御書』ともいいます。減劫とは人の命が減少していく時期のことです。四劫のなかの住刧の時期にあたります。四劫とは一つの世界成立してから滅亡するまでの期間四つ分けたとき、世界成立生物などが出現する時期を成劫人間が生存している時期を住劫、その世界崩壊していく時期が壊劫空無時期空劫とします。この四劫全部時間一大劫とします。この減劫は私たちの三毒が強くなることにより起きるとのべます。

三毒とは貪欲・瞋恚・愚痴をいいます。貪欲はむさぼりの欲望です。瞋恚は自己中心的な心で怒ることです。、愚痴は迷妄のことで物事の道理や真実がわからない愚かなことをいいます。この貪・瞋・癡の三毒は人間の心の中にあり、これにより寿命に影響があるとのべます。人心の三毒を制御し国家を統治するために、始めは外典の教えが役に立ったが、後には仏教の小乗経、大乗経により治まったけれど現在は、 

「今の代は外経も、小乗経も、大乗経も、一乗法華経等も、かなわぬよ(世)となれり。ゆへいかんとなれば、衆生の貪・瞋・痴の心のかしこきこと、大覚世尊の大善にかしこきがごとし(一一二九頁)

と、一乗の法華経へと統治する教えが深化されたが、終に末法になってからは用を足さなくなったことをのべます。これは、仏教が小乗から権大乗、実教の法華経へと展開した理由になります。釈尊の教えは貪欲の心は不浄観の薬をもって治し、瞋恚は慈悲観をもって治し、愚痴は十二因縁観の教えにより三毒の煩悩を断じていたが、三毒の煩悩が強くなり善の智慧より悪の智慧が強くなったと見ます。同じ悪を作ることにおいても社会的な悪よりも、仏法においての悪が多くなり亡国の原因になっているとのべます。つまり、法華経の正しい教えが失われたことをのべています。すなわち、 

「今末代悪世に世間の悪より出世の法門につきて大悪出生せり。これをばしらずして、今の人々善根をす(修)ゝれば、いよいよ代のほろぶる事出来せり。今の代の天台真言等の諸宗の僧等をやしなうは、外は善根とこそ見ゆれども、内は十悪五逆にもすぎたる大悪なり」(一一三〇頁)

と、出世の法門である仏教の真実の教えをを誤ったために、亡国となる事態が生じたとのべ、明確に台密・東密をさして仏法の悪とし、これらは謗法という立場から批判されます。そして、国を統治し悪を根治する方法について  

「しかれば代のをさまらん事は、大覚世尊の智慧ごとくなる智人世に有て、仙予国王のごとくなる賢王とよりあひて、一向に善根をとどめ、大悪をもて八宗の智人とをもうものを、或はせめ、或はながし、或はせ(施)をとどめ、或は頭をはねてこそ、代はすこしをさまるべきにて候へ」(一一三〇頁) 

と、智慧のある僧と賢王とが謗法の根元である八宗の僧の誤りを糾し、布施を止め排除することが国を統治する方法であるとのべます。この「止施」については『立正安国論』(二二四頁)にのべていました。これが方便品の「諸法実相」「唯仏与仏乃能究尽」の説の意味するところであり、一念三千の教義に敷衍して実相をみれば、「皆与実相不相違背」するものではなく、天台はこれを「一切世間治生産業皆与実相不相違背」と解釈されたことをのべます。

智者というのは世間の治世の方法を心得、仏法の教えに沿って行なう者のことをいい、太公望や張良の統治は仏教已前のことですが、その智慧は釈尊の使いとして、仏法に沿った人心の救済であったとします。これらの智人・賢王の行跡をあげ、現状の地震・災害から『立正安国論』を奏進し、さらに自界叛逆・他国侵逼を目の当たりにして、賢人がいるならば日蓮聖人を重用するであろうが、「賢人をば愚王のにくむとはこれなり」(一一三一頁)と幕府の対応を批判しているのです。逆に大悪は大善が起きる瑞相というので、法華経の広宣流布も疑いがないであろうとのべています。

 末尾に、大進阿闍梨を故六郎入道の墓前に使わして読誦させることを伝えます。日蓮聖人の教えを聞いて信心を起こした者のためには、墓前に詣でて自我偈を読誦したいと心中を明かします。鎌倉にいるときならば可能であるが、身延からそこへ行ったならば、その日のうちに幕府の知るところとなり、持妙尼に迷惑が降りかかり、鎌倉の弟子信徒にも加害及ぶであろうと腐心されています。故六郞入道は日蓮聖人が来ることを待ち望んでいることだろうし、日蓮聖人も墓前に詣でたいけれど、弟子を遣わした心中を察して欲しいと結んでいます。慈愛のある心が伝わってくる文章です。

 

□『白米和布御書』(二〇四)

 文永六年(山中喜八氏。岡元錬城著『日蓮聖人遺文研究』第二巻五〇二頁)、七年(『対照録』)とする説、稲田海素氏の文永一一年説(『日蓮宗年表』)があります。真蹟は一紙が浅野家に所蔵されています。宛先は不明ですが白米五升と和布一連を供養され、即時(乃時)に返礼を認められたものです。阿育大王(徳勝童子)の沙餅の功徳とこの度の供養の功徳をのべ、成仏は疑いないことであり、このような飢饉のときは尚更らであると書き送っています。簡略な受けとり証にも教えを添えています。

 岡元錬城氏は宛先は常忍と推定しています。その理由を八点挙げています。①漢文体であること。文永六~七年頃の書状とすれば常忍が優先される。②白米の供養を文永五年一二月、文永七年にされていたこと。③鎌倉は飢饉で食糧難であったこと。④「乃時」と即時に受領の礼状を出された遺文は、常忍に集中しており文永中期に多い。⑤「御返事」と書かれた書状一九通のうち四通が常忍であり、文永中期に集中している。⑥料紙一枚の短簡であること。⑦富木氏の「雑雑御状」八通のうちの一通で、中山法華経寺から加賀前田氏へ伝来し、安芸浅野家に移った。⑧料紙の形状。以上の八点を挙げて富木氏への書状とされています。(『日蓮聖人遺文研究』第二巻四九六頁)

 

□『五十二位図』(図録三三)

 『対照録』に文永一二年とされており、真蹟は一紙断片が京都本法寺に所蔵されています。内容は天台教義における、蔵・通・別・円の四教の断位昇階の行位を図示したものです。(『定遺』二九一二頁)。日蓮聖人が天台の四教義を弟子や信徒に教えていたことが分かります。天台教学は必修であったことが窺えます。

□『上行菩薩結要付属口伝』(図録一九)

 『定遺』は建治元年、あるいは弘長二年としており、真蹟はなく写本に『本満寺本』があります。また、『日明目録』には本書と『放光授職潅頂下』(二〇九九頁)は一書としています。法華経の宝塔品・勧持品・湧出品・属累品と『法華文句』などの注釈を列記し、「止召三義」「本眷属」をあげて末法に法華経を弘通するのは地涌の菩薩であることを証明します。次に、「結要付属事」と題して結要勧持に四通りを示します。

 

初 称歎付属  爾時仏告 猶不能尽 

結要勧持四   二 結要付属  以要言之 宣示顕説 

   三 正勧付属  是故汝等 起塔供養                 

四 釈勧付属  所以者何 而般涅槃

 

 このように、結要付属の四句要法について釈を引き、この四句要法を結要して付属するのは地涌の菩薩であることを示しています。次に、属累品の総付属と、『大集経』の「五箇五百歳」を示します。仏滅後の付法蔵を示し「後五百歳」の末法にふれ、この「闘諍堅固」「白法隠没」のときにあたり必ず聖人が出現するとし 

「法華経流布の時二度可有之。所謂在世八年、滅後には末法の始の五百年也」(二三三二頁)  

この末法の始めにおいて、聖人は純円一実の法華経を宣布することを、薬王品の「後五百歳中広宣流布」の文を引いて文証としています。

 

□『一代五時鶏図』(図録二〇)

 『定遺』は建治元年、『対照録』は文永九年・一〇年としています。真蹟は一五紙が西山本門寺に所蔵されています。第十紙の「文句六云」(二三三九頁)以下のふりがなは他筆で、ほかに傍書の他筆が三行あります。本書の図録は先の図録九と図録十三よりも書き込みが多くみられます。

釈尊一代の五時と各宗の所依の経典と祖師をあげ、『無量義経』『法華経』は経文と『法華文句』などを引いて三説超過の法華最勝を示しています。次に、釈尊の主師親三徳をインド・中国・日本の諸天や人物をあげて説明し、譬喩品の「今此三界」の文に『法華文句』などを引いて主師親三徳を説明しています。また、大通仏の王子である阿弥陀仏・釈尊と我らの関係を、娑婆世界の釈尊のみが三徳を具足していると図示しています。

次に、各宗の本尊と仏身について図示しています。倶舎宗・成実宗・律宗の本尊釈迦如来は劣応身の釈迦如来。華厳宗の本尊は盧舎那報身。法相宗の本尊は勝応身の釈迦如来。三論宗の本尊も勝応身の釈迦如来。真言宗の本尊大日如来の法身は胎蔵界で報身は金剛界。浄土宗の本尊は阿弥陀仏で、天台は応身とし善導は報身。天台宗の本尊は釈迦如来で久遠実成実修実証仏。華厳宗の盧舎那や真言の大日などは、久遠実成仏の眷属と注記しています。

釈尊に始成と久成の三身があり、寿量品の久遠実成の仏は、三身ともに無始無終であると図示し、本門寿量品の本尊を弟子たちに説いていたことが分かります。最後に華厳宗と真言宗で立てる本尊仏の無始無終三身は、天台宗の名目を盗用して依経の教理としたことを説明しています。