268. 『忘持経事』『光日房御書』                       高橋俊隆

□『忘持経事』(二一二)

○常忍は母の遺骨を身延に納めます

 三月末日に身延から中山に帰路についた常忍に宛てたもので、真蹟は九紙八四行が中山法華経寺に所蔵されています。先の『富木尼御前御書』(二一一)に常忍が母の遺骨を身延に納め、無事に法要を終えて中山に帰りますが、所持していた経典を身延に忘れたため、日蓮聖人は身延で修行していた者に経典とこの書状を持たせています。持経を忘れて帰路についたことによせて、魯の哀公が孔子に引越しのときに妻を忘れて、転居した者がいると言ったときに、孔子は桀王と紂王の例を出して、悪政をもって自身をも忘れた者がいるといった故事を引き、また、、槃特は閻浮第一の忘れる者で、常忍は日本で一番の忘れ者であると微笑ましくのべています。

続いて、三五塵点にふれ大通結縁の者は衣珠を忘れ、久遠下種の者は良薬を忘れ、現在の他宗の者は釈尊の本意を忘れているとのべます。そして、これよりも甚だしいこととして、天台宗の者が日蓮聖人を誹謗し、他宗の者を扶助していることは、親に背き敵に味方するようなものであり、自らの刀で自身を切るようなものであるとのべていきます。同じ法華経を学ぶ天台宗の持経者たちが、念仏者たちに同意することは、釈尊に背反することであり謗法堕獄の因となるからです。

 そして、常忍の求道心について例を挙げます。常啼菩薩が身命や財利よりも、仏の智慧により悟りの涅槃に入るため、東方に般若波羅密を求めたこと。善財童子が南方に法を求め、五三人の指導者に会い広大不思議の華厳の教えを得たこと。雪山童子が菩薩行として鬼神(羅刹)に身を与えて、教えを聞こうとしたこと(「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅爲樂」)楽法梵志が菩薩行として仏の一偈の教えを残すため、自分の皮を剥いで紙とし骨を削って筆とし血を墨として書き残したこと。常忍はこのような過去の求法の賢人ではなく、愚かな僧形の俗人であるが、母親に対する孝養はこの賢人に劣らないと孝心を褒めたのです。

常忍が日蓮聖人に語ったことは、一人の大切な母を亡くし、これよりは誰に孝養を尽くしたらいいのだろうと。日蓮聖人は離別の悲しみを耐え難く、身体が弱いのにも拘わらず身延へ来た心中を察します。その道中が飢饉のため盗賊がいて危険であったこと、羅什三蔵が超えたパミール高原や、役行者が修行した大峰山に匹敵する険しい行路であったことを喩え、常忍の母への孝養眞心を讃えます。

 

「此与貴辺歎云 齢既及九旬留子去親雖為次第 倩案事心 去後不可来期何月日。二母無国 自今後誰可拝。離別難忍之間 舎利懸頚任足出大道自下州至于甲州。其中間往復及千里。国々皆飢饉 山野充満盗賊 宿々乏少糧米。我身羸弱所従若亡 牛馬不合期。峨々大山重々 漫々大河多々。登高山 下幽谷足踏雲。非鳥難渡 非鹿難越 眼眩足冷 羅什三蔵葱嶺・役優婆塞大峰只今」(一一五〇頁)

常忍は疲れはてて身延に到着し弟子に案内されて庵室に入ります。そして、御宝前に遺骨を安置し五体投地し、合掌して両眼を開き釈尊の尊様を拝見したときに、その歓喜の強さで心の苦しみが法悦にかわったとのべています。日蓮聖人は教主釈尊の御宝前詣でた常忍の心境を次のようにのべています。

 

「触案内入室 教主釈尊御宝前安置母骨五体投地合掌開両眼拝尊容 歓喜余身心苦忽息。我頭父母頭 我足父母足 我十指父母十指 我口父母口。譬如種子菓子身与影。教主釈尊成道浄飯・摩耶得道。吉占師子・青提女・目尊者同時成仏也。如是観時無始業障忽消 心性妙蓮忽開給歟」(一一五一頁)

と、常忍は歓喜のあまり心の苦しみが忽ちに消えたのです。それのみならず父母への感謝の気持ちが湧き起こったのです。我が頭は父母の頭であり、我が足は父母の足であり、我十指は父母の十指であり、我が口は父母の口であると感じたのです。自分の肉体は父母から受け継いだもので、父母と自身とは同体であると自覚したのです。ゆえに、日蓮聖人は常忍自身の成仏は父母の成仏であると体得したなら、無始の業障は忽ちに消え、心の妙法蓮華の仏種の花が開いたとして、ここに即身成仏をのべたのです。この後、身延において充分な仏事を営み帰られたとのべ孝養の徳を推奨されています。

□『光日房御書』(二一三)

 建治二年三月の書状とされます。『対照録』は文永一二年としています。あて先は故郷の安房天津に住む光日尼のことで弥四郎の母です。在家の尼が房名を使うことは中世にみられます。ほかに、「光日尼ごぜん」(弘安三年九月一九日。『光日尼御返事』一七九五頁)。「光日上人」(『光日上人御返事』一八七六頁)と呼称されています。

建長五、六年か文永元年の頃に入信したといいますが、同郷ですので早くからの知り合いと思います。弥四郎は文永一一年六月五日に死去しています。二年後に光日尼から弥四郎の死去を知らせた書状の返書となります。この間は佐渡流罪を赦免され鎌倉に帰り、五月十七日に身延入山という時期にあたります。光日尼が清澄寺の檀家という周辺の信仰の事情や(『日蓮聖人御遺文講義』第一二巻二〇八頁)、変動的な日蓮聖人の所在に逡巡して消息が遅れたのかも知れません。ただ弥四郎の成仏を願う母の気持ちが、日蓮聖人の教えを信じ始めたことが本書から分かります。真蹟は一八紙半と末尾の少々(『阿弥陀堂祈雨御書』の末文)が身延曾存です。断片四紙が越後本成寺に所蔵され、『平賀本』の写本が伝えられています。

○「頭の白烏とび来ぬ」

故郷からの書状に望郷の心を次のようにのべています。

「御勘気の身となりて死罪となるべかりしが、しばらく国の外にはなたれし上は、をぼろげ(小縁)ならではかまくらへはかへるべからず。かへらずば又父母のはかをみる身となりがたしとおもひつづけしかば、いまさらとびたつばかりくやしくて、などかかゝる身とならざりし時、日にも月にも海もわたり、山をもこえて父母のはかをもみ、師匠のありやうをもとひをとづれざりけんとなげかしくて」(一一五五

 文永八年の佐渡流罪中には、故郷に帰り父母の墓参をし、道善房を訪ねたかったことをのべ、法華経の真実を宣布するために四箇の格言をもって他宗を責め、最明寺殿や極楽寺の入道は堕獄すると、平頼綱に諫言したことをのべ、佐渡流罪は必然であったと述懐しています。赦免は容易に起こり得ないこと、有り得ないことの喩えとして、「烏の頭が白くなる」という『史記』「刺客伝賛注」「燕丹子」の故事を引きます。中国の戦国時代、秦に人質となっていた燕の太子、丹が帰国を望んだところ、秦王が「烏の頭が白くなり、馬に角(つの)が生えたら許可しよう」と答えたというものです。日蔵上人は吉野金峰山と増基上人の二説あります。増基は中古三十六歌仙の一人で、「やまからす」の詠が熊野紀行に含まれています。

どのようなことがあっても赦免にはならないとしながらも、法華経が真実であり、諸天が釈尊の約束を守るならば、赦免して鎌倉へ帰ることを高い山に登って祈ったことがのべられます。そして、その後の赦免の経緯と鎌倉への道中についてのべます。

「但し法華経のまことにおはしまし、日月我をすて給はずば、かへり入又父母のはかをもみるへんもありなんと、心づよくをもひて、梵天・帝釈・日月・四天はいかになり給ぬるやらん。天照大神・正八幡宮は此国にをはせぬか。仏前の御起請はむなしくて、法華経の行者をばすて給か。もし此事叶ずば、日蓮が身のなにともならん事はをしからず。各々現に教主釈尊と多宝如来と十方諸仏の御宝前にして誓状を立給しが、今日蓮を守護せずして捨給ならば、正直捨方便の法華経に大妄語を加へ給へるか、十方三世の諸仏をたぼらかし奉れる御失は、提婆達多が大妄語にもこへ、瞿伽利尊者が虚誑罪にもまされたり。設ひ大梵天として色界頂に居し、千眼天といはれて須弥頂におはすとも、日蓮をすて給ならば、阿鼻の炎にはたきぎとなり、無間大城にはいづるごおはせじ。此罪をそろしくをぼせば、いそぎいそぎ国にしるしをいだし給、本国へかへし給へと、高き山にのぼりて大音声をはなちてさけびしかば」(一一五四頁)

と、故郷への思慕と、法華経守護を誓った諸天善神へ、釈尊との約束を守るためには、赦免へ導いて鎌倉に帰らせるよう祈ったことをのべます。そうしました、赦免が現実となったことを、

「いよいよ強盛に天に申せしかば、頭の白烏とび来ぬ。彼燕たむ(丹)太子の馬、烏のれい(例)、日蔵上人の、山がらすかしらもしろくなりにけり我かへるべき期や来らん、とながめし此なりと申もあへず、文永十一年二月十四日の御赦免状、同三月八日に佐渡の国につきぬ。同十三日に国を立てまうら(網羅)というつ(津)にをりて、十四日はかのつにとどまり、同十五日に越後の寺どまり(泊)のつにつくべきが、大風にはなたれ、さいわひ(幸)にふつかぢ(二日程)をすぎて、かしはざき(柏崎)につきて、次日はこう(国府)につき、十二日をへて三月二十六日に鎌倉へ入。同四月八日に平左衛門尉に見参す」(一一五四頁)

 三月二十六日に鎌倉に帰ってからの住居については、先にみたように戎堂に滞在されて、弟子信徒と交流したようです。そして、四月八日に平頼綱との対面があります。三諫を果たしても法華経を信仰する様子がないので、山林に入り山岳修行を行う決心を固めます。

この身延入山については前述の通りです。同郷の光日尼には小湊に帰り、父母の墓参りをしたかったいう心情、故郷をなつかしむ想いを正直に吐露します。

「本よりごせし事なれば、日本国のほろびんを助がために、三度いさめんに御用なくば、山林にまじわるべきよし存ぜしゆへに、同五月十二日に鎌倉をいでぬ。但本国にいたりて今一度、父母のはかをもみんとをもへども、にしきをきて故郷へはかへれといふ事は内外のをきてなり。させる面目もなくして本国へいたりなば、不孝の者にてやあらんずらん。これほどのかた(難)かりし事だにもやぶれて、かまくらへかへり入身なれば、又にしきをきるへんもやあらんずらん。其時、父母のはかをもみよかしと、ふかくをもうゆへにいまに生国へはいたらねども、さすがこひしくて、吹風、立くもまでも、東のかたと申せば、庵をいでて身にふれ、庭に立てみるなり。

かゝる事なれば、故郷の人は設心よせにおもはぬ物なれども、我国の人といへばなつかしくてはんべるところに、此御ふみを給て心もあらずしていそぎいそぎひらきてみ候へば」(一一五五頁)

本書には光日尼の子供、弥四郎が一昨年の六月八日に亡くなったことが知らされていました。それを知らずに楽しみに開けたことを、浦島太郎が玉手箱を開けて後悔したのと同じ心境であるとのべます。故郷の人の中には冷たい仕打ちをした者がいるが、それでも成仏を願ってきたことをのべ、まして弥四郎は容姿も勝れ性格も頑なに、自己主張をしない柔和な人とみえたことを回顧します。その鎌倉での講座の出会いをのべます。

「皆人も立かへる。此人も立かへりしが、使を入て申せしは、安房国のあまつ(天津)と申ところの者にて候が、をさなくより御心ざしをもひまいらせて候上、母にて候人も、をろか(疎略)ならず申、なれ(馴)なれしき申事にて候へども、ひそかに申べき事の候」(一一五六頁)

この文章から同郷の弥四郎は、幼少のころより日蓮聖人の志を慕っていたことがわかります。また、母の光日尼も日蓮聖人のことを、疎かには言っていないことが分かります。そのとき弥四郎が武士の習いとして母に先立つことがあるので、その時は日蓮聖人から教えを聞いていたことを、弟子から伝えて欲しいと託していました。弟子のなかに安房方面を往復していた者がいたようです。

○子供を先立つ母の悲しみ

弥四郎はその時は無事でしたが、この度の書状により弥四郎の死去の知らせを聞いたのです。弥四郎が母に不孝をする歎きの心中を光日尼に伝えたのです。そして、親子の別れのなかにも、子供を先立つ親の悲しみ母の愛情が深いことの故事を挙げます。

すなわち、迦蘭陀長者が寄進した竹林精舎に住む金鳥(雉)は、巣を焼かれても子と共に焼死すると言われ、母性愛の強いこと。波羅尼期国の林にいる鹿を国王が狩に出たとき、郡鹿が殺戮されるのを怖れた鹿王は、毎日一頭ずつ膳に供することを願い出ます。ある日、懐妊した鹿が番になったとき、鹿王が身代わりとなって国王の前に行きます。国王はその理由を聞き深く恥じ、鹿をその林に解放します。これが施鹿林といい鹿野園の名の起こりとなります。胎内に命を宿した子鹿のために、鹿王が身を投じた慈愛をのべたのです。

王稜の母が項羽に捕らえられたとき、王稜に漢王への忠義を貫くように自害します。唐の高祖李淵の竇(とう)皇后(神尭皇帝)は才色兼備といわれ、息王・太宗・衛王・巣王の王子と平陽昭公主の子女がいます。胎内の太子のために腹を破って産んだという故事を挙げ、子を思う母の愛情によせて、子供を先立たせた母の心情をのべています。

また、弥四郎は武士であったので、戦において殺戮をした報いを受け、地獄に堕ちたのではないかとの子を思う母の問いに、大逆でも懺悔すれば罪が消えると諭します。

「又御消息云、人をもころしたりし者なれば、いかやうなるところにか生て候らん、をほせをかほり候はんと[云云]。夫、針は水にしずむ。雨は空にとどまらず。蟻子を殺る者は地獄に入、死にかばね(屍)を切る者は悪道をまぬがれず。何況、人身をうけたる者をころせる人をや。但大石海にうかぶ、船の力なり。大火もきゆる事、水の用にあらずや。小罪なれども、懺悔せざれば悪道をまぬかれず。大逆なれども、懺悔すれば罪きへぬ」

(一一五八頁)

 罪を後悔して懺悔する信心が大切なのです。懺悔の懺というのは梵語の懺摩のことで、罪の重さを知り仏・菩薩・師長・衆生に許しを請うことです。悔とは懺の漢語の意訳で後悔の心です。作法として悔過ともいいます。法華経の結経である『普賢経』に、「一切の業障海は皆妄想より生ず、若し懺悔せんと欲せば端坐して実相を思え、衆罪は霜露の如し慧日能く消除す」(『開結』六四二頁)と説かれ、唱題による成仏を説かれていると受容できます。  

懺悔滅罪についても、懇切に故事を挙げて諭します。すなわち、懺悔せずに堕獄した者の例として、憍梵波提は過去世に粟を盗んだ罪により、五百生の間、牛と生まれ、仏弟子となってもその習性が抜けない生涯を送ります。苽を盗んだため三悪道に堕ちた者。羅摩王・抜提王・毘楼真王・那沙王・迦帝王・毘舎王・月光王・光明王・日光王・愛王・持多人王などは、父を殺して王位についた者であり、仏教という善知識に縁がなかったため、罪障消滅の懺悔をできずに阿鼻地獄に堕ちたと見なします。

これにたいし、波羅奈城にいた阿逸多は殺父・殺阿羅漢・殺母の三逆罪を犯した悪人であるが、釈尊の教えにより罪を懺悔したので出家を許されたことを挙げます。北インドにある細石城の龍印王は、父王を殺害した罪を怖れ釈尊の許にて懺悔を許されたこと。次に阿闍世王にふれます。阿闍世王は生まれながら貪欲・瞋恚・愚痴の三毒が強く、十悪(殺生、偸盗、邪淫、妄語、綺語、両舌、悪口、貪欲、瞋恚、愚癡)を犯し父王や、提婆達多の弟子となって仏弟子も殺害します。その阿闍世王は悪逆の罪により、釈尊の入滅の二月十五日に堕獄の徴として身体の七カ所に悪瘡ができ、大火で焼かれるような熱湯を浴びせられたように苦悶します。それを見た月称・蔵徳・実得・悉知義・吉徳・無所為の六大臣は、六師外道を招き悪瘡治癒を命じます。六師外道とは中インドにいた六人のバラモン(外道論師)のことです。道徳否定の富蘭那迦葉、決定論の末伽梨拘舎梨、懐疑論の刪闍耶毘羅胝子、快楽主義的唯物論の阿耆多翅舎欽婆羅、因果否定論の迦羅鳩駄迦旃延、ジャイナ教開祖の尼乾陀若提子の六人をいいます。

日蓮聖人はここで、大臣が行ったことは、現在の人々が禅師・律師・念仏者・真言師などを信頼し、蒙古を調伏して後生も助けてもらおうとしていることと同じと批評します。阿闍世王の師匠である提婆達多は、外道のすべての教えと仏法の多くの教えを暗記していました。世・出世間をしっていたといいます。つまり、世間と出世間の両方に明るいことは、日月や明鏡に向かうようなものとして、今の天台宗の学者が顕密二道の教えや、一切経を暗記しているのと同じとします。知識としては知っているのですが、大事なことが欠けているのです。

阿闍世王はこれらの者により遮られて、釈尊との縁が持てませんでした。ところがマカダ国に天変地異が起き、他国から攻められ国が滅びようとします。このとき耆婆大臣が阿闍世を説得して、霊鷲山の釈尊の許に連れて行ったと言われます。このとき阿闍世王は深く懺悔したので、悪瘡は治癒したという故事を挙げて、光日尼の苦悩に答えたのです。

「人のをやは悪人なれども、子、善人なればをやの罪ゆるす事あり。又、子、悪人なれども、親、善人なれば子の罪ゆるさるる事あり。されば故弥四郎殿は、設悪人なりともうめる母、釈迦仏の御宝前にして昼夜なげきとぶらはば、争か彼人うかばざるべき。いかにいわうや、彼人は法華経を信じたりしかば、をやをみちびく身とぞなられて候らん」(一一六〇

と、弥四郎が悪人であったとしても、母親が熱心に釈尊の御宝前において供養することによって救われるであろうし、弥四郎は法華経を信仰した者であるから、母親を導くほどに成仏していると諭しています。法華経の功徳により懺悔すれば罪を消滅することができると信心を勧奨されたのです。

弟子の三位房と佐渡公にたびたびこの書状を読ませて教えを聞くようにとのべています。また、安房に在住していたと思われる明慧房に、この書状を預けておくようにと指示されています。安房の光日尼の近辺にいる他宗の者が勧誘したり讒言をしていたようで、本書には、 

「法華経を信ずる人は、かまへてかまへて法華経のかたきををそれさせ給へ。念仏者と持斉と真言師と、一切南無妙法蓮華経と申さざらん者をば、いかに法華経をよむとも法華経のかたきとしろしめすべし。かたきをしらねばかたきにたぼら(誑)かされ候ぞ。(中略)なにとなく我智慧はたらぬ者が、或はをこつき、或は此文をさいかく(才覚)としてそしり候なり。或はよも此御房は、弘法大師にはまさらじ、よも慈覚大師にはこへ(超)じなんど、人くらべをし候ぞ。かく申人をばものしらぬ者とをぼすべし」(一一六一頁)

と、光日尼の信仰を阻害し日蓮聖人を悪口する者がいても、それらの者こそ法華経の敵であり、釈尊の本意を知らない者であるとして、強固な信心をするようにとのべています。書状を預けさせたのも、他宗にわたり悪用されることを危惧したのです。安房と身延を弟子が往復して、教線を拡張していた門弟の動向が注目されます。