269. 『妙密上人御消息』「元祖にあらず」          高橋俊隆

□『妙密上人御消息』(二一四)

 閏三月五日付けにて、銭五貫文を布施されたことに謝辞をのべた書状です。閏月うるうづき)とは、旧暦太陰太陽暦では太陰暦の一二ヶ月に約三年に一度、一ヶ月を加え一三ヶ月とします。一年の季節のずれを調整をするためにおこないます。この挿入された月を閏月といい、この年は三月が二回あったということになります。真蹟は伝わっておらず写本に『本満寺本』があります。

妙密上人については「楅谷(くわがやつ)妙密上人」の宛名があることから、鎌倉の桑ヶ谷の通用字と言われます。あるいは、梅ヶ谷の誤字という説もあります.。鎌倉に住んでいた在家僧か御家人といいます。詳しいことは分かっていません。身延に便宜のあるたびに参り供養していたこと、夫婦ともに篤い信仰をされていたことが本書より分かります。

 まず、五戒の始めに不殺生戒が定められているように命が一番大切で、命を奪うことが第一の重罪であることをのべ、施食をすることが第一の戒であるとしています。施食には一には命を継ぐこと(法身如来)、二には肉体の力を増し(応身如来)、三には気力を養う(報身如来)という三つの功徳があるとのべます。その施食の功徳により人間界に生まれては長命の果報を得るとのべています(三身即一身)

須弥山という高山も一塵の積み重ねから成っており、大海の初めは一滴の露が集まったものであるから、一つずつが積み重なったものであるが、その生みの母はただ一人であるとのべます。

○「何の宗の元祖にもあらず、又末葉にもあらず」

そして、日本に仏法が初めて伝わった経緯にふれます。神武天皇より第三十代の欽明天皇のときに仏教が初伝され、その後は上宮・観勒・道昭・審祥・善無畏・鑑真・最澄までふれ、鎌倉時代までに四百年あるが、その中で法華経の題目である、南無妙法蓮華経を唱えよと勧めた人はいないと指摘します。題目を自身のみで唱えたり、講義において唱えたことはあっても、なぜ公に題目を勧めなかったのかを問います。これは五義の教判として教えられてきました。本書には医者と薬と患者の関係に譬えて、

「譬ば大医の一切の病の根源、薬の浅深は弁へたれども、故なく大事の薬をつかふ事なく、病に随ふが如し。されば仏滅後、正像二千年の間は煩悩の病軽かりければ、一代第一の良薬妙法蓮華経の五字をば勧めざりける歟。今末法に入ぬ。毎人重病有り」(一一六四頁)

と、人間の機根と病の軽重を鑑みて、薬を調合するようなことであるとのべています。仏教の教理にも浅深があり、教化するにも「応病与薬」の方法があり、春にならなければ花が咲かないように、正像二千年は題目を流布するときではないとのべます。すなわち、末法の重病人のために法華経が説かれたと理解しています。また、仏教を広める者にも分担があり、末法に法華経を広める者は、本門の肝心である題目を釈尊より授与された本化地涌の菩薩であるとし、日蓮聖人は、

「然るに日蓮は何の宗の元祖にもあらず、又末葉にもあらず。持戒破戒にも闕て無戒の僧、有智無智にもはづれたる牛羊の如くなる者也。何にしてか申し初めけん。上行菩薩の出現して弘めさせ給べき妙法蓮華経の五字を、先立てねごとの様に、心にもあらず、南無妙法蓮華経と申し初て候し程に唱る也」(一一六五頁)

と、自身を上行菩薩とは断言しませんが、この文章は明らかに上行菩薩であることを示唆させています。法華経は『華厳経』(法慧・功徳林・金剛憧・金剛蔵の他方の四菩薩が説いています)『般若経』(須菩提が釈尊に代わって経を説いたとのべています。般若経典の対機説法の相手となっています)と違い、三身円満の釈尊ご自身が説かれた金言であり、慈恩・嘉祥・杜順・法蔵・善無畏などは、法華経を心得たようなことを言っているが、最澄が「雖讃法華経還死法華心」と言うように法華経を失う者とのべています。赤い顔をした者が白い鏡を見ても赤い物だと見、太刀に顔を写した者が丸顔でも細顔と思うように、法華経を正直に心得た者はいないと譬えています。

「此等の人人は各法華経をよめりと思へども、未だ一句一偈もよめる人にはあらず。詮を論ずれば、伝教大師ことはりて云、雖讃法華経還死法華心[云云]。例せば外道は仏経をよめども外道と同じ。蝙蝠が昼を夜と見るが如し。又赤き面の者は白き鏡も赤しと思ひ、太刀に顔をうつせるもの円かなる面をほそながしと思ふに似たり。今日蓮は然らず。已今当の経文を深くまほり、一経の肝心たる題目を我も唱へ人にも勧む。麻の中の蓬、墨うてる木の、自体は正直ならざれども自然に直ぐなるが如し。経のまゝに唱ればまがれる心なし。当知。仏の御心の我等が身に入せ給はずば唱へがたき歟」(一一六六頁)

 そして、三国において天台・伝教の二人のみが聖人という資格があるとのべ、日蓮聖人は聖人でも賢人でもないが、南無妙法蓮華経を広めて二十余年であり、流罪死罪など大難は数知れないほど受け、すべての行動が法華経に説かれた釈尊の金言に符合しており、換言すれば、日蓮聖人が存在しなければ、釈尊の説法は虚偽になるとのべます。この事実からみるならば天台・伝教にも劣らない者と言えるのではないか、日本国にて初めて南無妙法蓮華経と唱えたことは、一塵一露の功績であるとのべます。

日蓮聖人を憎み反発しても、いざ蒙古が攻め寄せ日本や自身に危害が及ぶ場合には、神力品のようにすべての人が、南無妙法蓮華経と唱えることがあろうと現状を見ています。同じことを『撰時抄』(一〇〇八頁)にのべていました。文永八年の法難において、少輔房に顔を経本でさんざん打たれたことにたいして、

「法華経の第五巻をもて、日蓮が面を数箇度打たりしは、日蓮は何とも思はず、うれしくぞ侍りし。不軽品の如く身を責め、勧持品の如く身に当て貴し貴し」(一一六八頁) 

と、迫害の苦しみは色読の法悦と転じており、不軽菩薩の逆化を継承し、勧持品の二十行を色読した満足感が窺えます。ただし、法華経の行者を守護すると、釈尊の前にて起請を立てた諸天善神は、どのようにこれを見ていたのか、という提起は数多くのべており、日蓮聖人を迫害した者の罪科については、

「但し法華経の行者を悪人に打せじと、仏前にして起請をかきたりし梵王・帝釈・日月・四天等、いかに口惜かるらん。現身にも天罰をあたらざる事は、小事ならざれば、始中終をくゝ(括)りて其身を亡すのみならず、議せらるるか。あへて日蓮が失にあらず。謗法の法師等をたすけんが為に、彼等が大禍を自身に招きよせさせ給歟」(一一六九頁)

と、現身にすぐに天罰がないのは堕獄が決まっているからであろうとし、この誹謗の罪は自身の大禍であるとのべます。妙密上人が便りごとに銭五連を送られた功徳は、題目を唱える者が多くなればなるほど大きくなることをのべ、とくに、十羅刹女は妙密や婦人を、母が子供を慈愛するように守護すると教えています。末筆に、 

「金はやけば弥色まさり、剣はとげば弥利くなる。法華経の功徳はほむれば弥功徳まさる。二十八品は正き事はわずかなり。讃る言こそ多く候へと思食すべし」(一一六八頁)

と、のべて強い信仰心を持って法華経を宣布することを伝えています。本書より日蓮聖人の法華弘通は、釈尊が上行菩薩に付属された、本門の題目を弘通するとする使命観を窺うことができます。その艱難辛苦を法悦とされた、日蓮聖人の信心を妙密上人夫妻にのべていました。