270.『南條殿御返事』大橋太郎父子〜『筍御書』       高橋俊隆

□『南條殿御返事』(二一五)

 閏三月二四日付けにて時光に宛てられています。本文中に大橋太郎父子の故事を引いていることから『大橋書』ともいいます。真蹟は二二紙(二一紙目が欠)が富士大石寺に所蔵されています。真蹟の第一紙の袖に「建治三年」と別筆の書き込みがあります。丁付一七紙が重複して二一丁まであり、二〇紙が欠失しています。平仮名が多く使われ、後に日興上人の振り仮名と思われる読みがつけられており、読みやすくした布教者の役割を知ることができます。

 冒頭にいつものように供養の品が記載されており、帷子一枚、塩一駄、種油五升が奉納され、これらの品について効能と大切なことをのべています。とくに塩は貴重な物であったことが窺えます。油は灯火・食用・薬・燃料などに使用され、本書には風を治す薬用に使われていたことが書かれています。これらの供養の志しについて、故親父の信心が時光に受け継がれていることを喜ばれています。この親子の固いつながりについて、大橋太郎父子の孝養譚にふれます。

○大橋太郎父子の孝養譚

 大橋太郎というのは九州の武士で、平通貞という御家人といわれています。頼朝の勘気にふれ由比ガ浜の土牢に閉じ込められます。このときに妻の胎内に子供が宿っており、十二年の後にこの子供が成長して鎌倉八幡宮にて法華経を読誦し、その美声に心打たれて、頼朝が父を赦免するという話しが書かれています。頼朝は子供の孝養心と、法華経を読誦する姿に心を打たれたのですが、これには自身の過去の姿を見た思いがしたためといいます。 

日蓮聖人は頼朝が身にあたり実感し、法華経の功徳とした二つのことを挙げます。その一つは、父の義朝は平治の乱に負け、尾張の旧臣長田忠宗を頼りますが、平清盛が怖く逆に殺害されてしまいます。頼朝は走湯山(伊豆山)の妙法尼より法華経を読み習い、父の供養のために法華経を千部読誦する願を起こします。その願いが叶ってか、父の遺骸を高雄山寺の文覚房が持参しました。そして、敵を討つのみならず、法華経読誦の功徳によって武士の大将となります。

二つ目には稚児が親を助けたのは法華経を読誦したことです。頼朝は大橋太郎が憎くて勅宣があったとしても許さないほどでした。十二年の懲罰をあたえ斬首しようとしたのです。ところが、稚児の父親をおもう孝心と、法華経の尊さに感涙したのです。大橋太郎は赦免され所領も元のように返り、子供は多くの布施を受けたといいます。この稚児の幼名は一妙麿といい後に貞経と名のります。ただし、『吾妻鏡』などに記録がありません。また、肥後国神崎に大橋という地名があり、その大名である窪田太郎が大橋の太郎と呼ばれたともいいます。(『日蓮大聖人御書講義』第三六巻二四七頁)。日蓮聖人は頼朝が法華経を信仰していたから、このような功徳があったとのべます。 

この稚児の孝養心と時光の孝養心は同じであるとして褒めたのです。日蓮聖人は時光の信仰心に対し、故親父も存外の嬉しさであろうということを、

「今の御心ざしみ候へば、故なんでうどのはただ子なれば、いとをしとわをぼしめしけるらめども、かく法華経をもて我がけうやうをすべしとはよもをぼしたらじ。たとひつみありて、いかなるところにをはすとも、この御けうやうの心ざしをば、えんまほうわう(閻魔法皇)ぼんでん(梵天)たひしやく(帝釈)までもしろしめしぬらん。釈迦仏・法華経も、いかでかすてさせ給べき。かのちごのちゝのなわ(縄)をときしと、この御心ざしかれにたがわず。これはなみだをもちてかきて候なり」(一一七六頁)

と、故親父が存生ならばどれほど時光の信仰心を喜ばれただろうとのべています。兵衛七郎と深い信頼関係で結ばれていたことが窺えます。このような法華経読誦の孝養譚を中国の文献を引用されますが、日本の場合の引用は唯一で、また、大橋太郎の孝養譚の記録で最も古い文献は、この『南条殿御返事』(二一五)です。

次に、蒙古の情勢についてふれ、その後の動静については聞いてはいないとのべ、蒙古が襲来したという風聞に予言が当たったと喜んでいるという風評があったようで、これについては毅然として仏教に説かれた事実であり、法華経の行者として国難を防ごうとしたが、聞き入れられず排斥されたため身延に入ったとのべます。

しかし、身延の山中から昼夜に各々の安泰と日本国の安泰を祈っており、各々も力の限り蒙古の国難を克服すべく祈念するようにとのべています。このままでは日本国の主立った人々は蒙古により、生け捕りにされてしまうと悲しまれています。

○御本尊(三四)四月

 卯月の顕示がある御本尊は第三四から第三七までの四幅あります。自署花押が多寶仏側の下部に書かれています。特徴は四天王が梵名で書かれていること、転輪聖王と呼称されるのもこの御本尊からです。また、四天王に「大」の字を冠して表現されていきます。紙幅は縦一五二.七センチ、横九四.五センチ、十枚継ぎの大幅です。京都本国寺に所蔵されており、紙背の右下隅に筆墨の痕籍は、寺伝によれば日朗上人に授与された御本尊といいます。

○御本尊(三五)四月

 紙幅は縦九三.九センチ、横五〇.九センチ、三枚継ぎの御本尊で、茂原の藻原寺に所蔵されています。寺伝によりますと日向上人に授与されたとあります。

○御本尊(三六)四月

 紙幅は縦九〇.九センチ、横四七.九センチ、三枚継ぎの御本尊で、烏山の妙寿寺に所蔵されています。署名と花押が一体的に中央首題の中心真下に揮毫されています。 

○御本尊(三七)四月

 この御本尊は通称「祈祷御本尊」といわれ、玉沢妙法華寺に所蔵されています。日照(昭)上人に授与された御本尊で、現在は日昭上人の授与名が表面にありますが、もとは紙背に書かれていたものを、表装し直すときに切り離したといいます。また、この御本尊は「祈祷御本尊」というように、讃文に特徴があります。通常の曼荼羅は諸尊のすぐ横に不動愛染・四天王が書かれていますが、この御本尊は諸尊と不動愛染の間に、横書きにて讃文があります。

多寶仏側に、「此経即為閻浮提人病之良薬若人有病得聞是経病即消滅不老不死、余失心来見其父来雖亦歓喜問訊求索治病然与其薬而不肯服、是好良薬今留在此汝可取服勿憂不差」と讃文を書いています。

釈尊側には、「「譬如一人而有七子是七子中一子遇病父母之心非不平等然於病子心則偏重、世有三人其病難治一謗大乗二五逆罪三一闡提如是三病世中極重」の讃文を書かれています。

この讃文は、法華経が閻浮提人の謗法五逆の罪を滅罪する良薬であることを抽出したもので、謗法治罰・逆法救助の日蓮聖人の教えを示しています。

□『覚性御房御返事』(四三六)

 五月五日付けで覚性房に宛てた書状です。(『定遺』二八七三頁)。覚性房については不明です。清酒・ちまき二十を受け取ったことを丁重に感謝され、その旨を御上へ申し上げてほしいという内容です。この御上にあたる人物も不明です。(鈴木一成著『日蓮聖人遺文の文献学的研究』四四一頁)。真蹟一紙一二行は随喜文庫に所蔵されています。覚性房にふれた遺文は、『覚性房御返事』(一一八九頁)、『霖雨御書』(一五〇四頁)があります。

□『筍御書』(二一六)

 五月一〇日付けにて覚性房に宛てた書状です。真蹟は一紙(半折り)が京都の妙覚寺に所蔵されています。(『定遺』一一七七頁)。『覚性御房御返事』(二二一)と本書は、『定遺』にはじめて収録されました。内容から覚性房とは、物品をやりとりしているほどの親しい関係と思われます。

本書は『覚性御房御返事』(二八七三頁)から、清酒・ちまきをいただいた返礼として、筍二十本を送ったので、そのことを覚性房から御上に伝えてほしいという、ある人物に宛てた消息です。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇七一七頁)。「たかんな御書」ともいいます。