271.『宝軽法重事』〜『四条金吾殿御返事』          高橋俊隆

○『兄弟抄』

この三月末から四月始ころに、池上兄弟は父より勘当されたとする説があります。先にのべた『兄弟抄』を、『定本』では文永一二年に掲げていますが(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇一一九頁)、この建治二年の四月一六日『兄弟抄』を執筆して、池上兄弟夫妻ともに法華経の信心を貫くようにのべたという説があります。(岡元錬城著『日蓮聖人遺文研究』第二巻五一九頁)。つまり、『兄弟抄』という書状が書かれた時期に二説あるのです。

定説によりますと、文永一二年四月一六日頃に、兄の宗仲が最初の勘当を受けます。この最初の勘当が解除されます。その時期にも建治二年四月一六日、それ以降、建治三年九月九日頃などの説があります。(高木豊著『日蓮とその門弟』二二五頁)。最初の勘当と解除の年次が明らかではないのです。その後の建治三年一一月頃に、再び親子の対立が深まり、弘安元年に宗仲の勘当が解除されます。その後は、親子・兄弟ともに、法華経の信仰に入ることは定まっています。

□『宝軽法重事』(二一七)

 五月一一日付けにて、西山氏から筍百本と芋一駄(あるいは、「又二十本追給畢」『日蓮大聖人御書講義』第三四巻一一五頁)を供養されたことの返礼の書状です。年号について弘安元年・弘安二年の説があります。冨士大宮の造営は建治二〜三年のことと推測されています。(鈴木一成著『日蓮聖人遺文の文献学的研究』三六二頁)。真蹟は八紙が富士大石寺に所蔵されています。西山氏は大内太三郎といい、北条氏に仕え西山郷の地頭です。のちに、日興上人の弟子の日代上人に仕え、西山本門寺を建立します。

○「人軽法重

 薬王品と『法華文句』『法華文句記』を引いて、末法においては法華経の一偈一句を受持することが、仏を三千世界の財宝を供養することよりも勝れていることをのべます。題号の『宝軽法重事』は、『法華文句』の「人軽法重」からつけられています。この法とは法華経であるとし、法華経を受持する行者もまた、華厳や真言の行者よりも勝れているとのべます。

薬王品「若復有人。以七宝満。三千大千世界。供養於仏。及大菩薩。辟支仏。阿羅漢。是人所得功徳。不如受持。此法華経。乃至一四句偈。其福最多」(『開結』五二二頁)の文は、四聖(仏・菩薩・辟支仏・阿羅漢)に供養するよりも、法華経の一偈を持つ方が功徳が大きいと説いています。その理由を『法華文句』の「七宝奉四聖不如持一偈 法是聖師 能生能養能成能栄莫過 於法故人軽法重也」の文を引き、法華経は四聖の師匠として能く「生・養・成・栄」とするものですから、人よりも法が重い(人軽法重)と解釈します。

さらに、「生・養・成・栄」について、『文句記』の「如父母必以四護護子 今発心由法為生 始終随逐 為養令満極果為成 能応法界為栄 雖四不同以法為本」の文を引き、父母が子供を護り育てる四護と同じであると解釈します。法を聞いて発心しますから、ここに信心の生を認めます。そして、法に随い信心を養い仏果を成じ、最終的に衆生を救済することが栄です。つまり、

「経並天台妙楽の心は、一切衆生を供養せんと、阿羅漢供養せんと、乃至一切の仏を尽して七宝の財を三千大千世界にもりみてゝ供養せんよりは、法華経を一偈、或は受持し、或は護持せんすぐれたりと」(一一七八頁)

と、四聖に供養することよりも、現在においては、法華経を受持することが勝れた行であるとのべます。人(仏)よりも法を重視します。行者自身の生命よりも、教法の存続を重視するということです。それほど法は大切であることを教えています。これを「人軽法重」といい、このときの法とは法華経のことです。法華経と諸経の違いはここにあるとのべます。

「人軽と申は仏を人と申。法重と申は法華経なり。夫法華已前諸経並に諸論は、仏の功徳をほめて候。仏のごとし。此法華経は経の功徳をほめたり、仏の父母のごとし」(一一七九頁)

 法華経以前の経論は仏の徳を讃歎することを主としているが、法華経は経典の徳を讃歎してところに違いがあるとして、法華経以前は仏そのものであり、法華経はその仏を出生する父母であるとのべます。つまり、法華経は諸仏を出生して、成道させる功徳を持っているということです。

法華経は「仏種」であるという教えがあります。『無量義経』の「譬如国王夫人新生王子〜諸仏国王是経夫人和合共生是菩薩子」(『開結』三六頁)の文と、『観普賢菩薩行法経』の「此大乗経典諸仏宝蔵十方三世諸仏眼目。乃至出生三世諸如来種〜汝行大乗不断仏種等」(『開結』六一五頁)文があります。この『無量義経』の「国王と夫人の譬え」の文は、法華経を持つ者は父王である諸仏と、王夫人の母である法華経から生まれた菩薩とみます。つまり、仏(父)と経(母)が和合して菩薩の子を産むということです。

法華経にのみ「仏因仏果」が具足することと、法華経を受持しますと、初心であっても父王の徳を具足すると説きます。釈尊と法華経を父母にたとえることは、『開目抄』に、

「妙楽大師は唐の末天宝年中の者也。三論・華厳・法相・真言等の諸宗、並に依経を深み、広勘て、寿量品の仏をしらざる者父統の邦に迷る才能ある畜生とかけるなり。徒謂才能とは華厳宗法蔵・澄観、乃至真言宗の善無畏三蔵等は才能の人師、子の父をしらざるがごとし。伝教大師は日本顕密の元祖、秀句云 他宗所依経雖有一分仏母義然但有愛闕厳義。天台法華宗具厳愛義。一切賢聖学無学及発菩提心者之父等」(五七九頁)

と、法華経は母と父の義をそなえていることをのべています。

また、同じように法華経の行者は、華厳や真言師よりも勝れていることを強調します。伝教の死後に流行した真言宗の邪義を打破した者はいなかったが、日蓮聖人がその法華経の行者として破折する者であるとし、その結果、真言密教を取り入れた比叡山の座主や、東寺・御室仁和寺などは、太陽に照らされて露が蒸発し地に落ちるであろうとのべます。天台・伝教は時と機根が整わなかったため法華経を広めなかったが、現在は法華経を広める時であると正当性をのべたのです。日蓮聖人の弟子や信徒は、法華経の教えを容易に知ることができるとのべ、信仰の肝心である寿量品の本尊釈迦仏にふれて、本化上行菩薩の日蓮聖人が、始めて本尊を顕わしたことを伝えています。

一閻浮提の内、法華経の寿量品の釈迦仏の形像をかきつくれる堂塔」(一一八〇頁)とは、身延の草庵を指しています。筍を法華経と行者である日蓮聖人に供養された西山氏の志が重いので、この「人軽法重」の教えを説いたとのべ、この時期は農繁期であり、かつ浅間神社が造営で農民も忙しいことがのべられ、このような時に供養を志したことに感謝し、信心の深さにより法華経の利益も顕れると感謝しています。

□『春麦御書』(二一八)

 五月二八日の月日が書かれており、身延山に春麦(つきむぎ)一俵・芋一籠・筍二丸を、某氏の女房が届けたことに感謝して書かれた御書です。一紙が京都満願寺に所蔵され、山中喜八氏はこれを模写としており、写本はありません。芋は冬の筍のように貴重なことをのべ、供養に感謝されています。春麦とは杵や棒などで押しつぶした麦のことをいいます。某氏がわざわざ女房に供養を持たせて来たことに夢のようだと感激されており、この某氏については不明ですが、供養の品々と仮名の多い筆跡から、時光ではないかと推察されています。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇七五八頁)。

□『四條金吾殿御返事』(二一九)

 六月二七日付けにて頼基への返事です。真蹟は伝わっていませんが偽書説はありません。『本満寺本』の写本が伝えられています。頼基が主君の江馬氏と信仰上の問題を持ち悩んでいたときに、同僚の武士達から怨嫉や危害が加えられていました。文永一一年の九月頃に、頼基は主君の江馬光時氏に良観への信仰をやめ、日蓮聖人に帰依するように進言します。しかし、かえって主君光時の不興をかい、同輩からも疎まれ受難の日々が続きました。『主君耳入此法門免與同罪事』八三四頁)

これにたいして、南無妙法蓮華経と唱題して信心に励むことが、自我偈の「衆生所遊楽」の境地であるとのべます。この経文は自受法楽を説いていると示し、これこそが「現世安穏後生善処」であると諭しています。文面には女房と酒を飲んで苦楽を悟るようにと、次のように励ましています。

「ただ世間の留難来るとも、とりあへ給べからず。賢人聖人も此事はのがれず。ただ女房と酒うちのみて、南無妙法蓮華経ととなへ給へ。苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思合て、南無妙法蓮華経とうちとなへゐ(唱居)させ給へ。これあに自受法楽にあらずや。いよいよ強盛の信力をいたし給へ」(一一八一頁)

 法華経の行者には「三障四魔」が競い起こり、世間から迫害されるとも、それこそが行者の明かしであると自覚するようにのべます。同心の妻と共に信仰を貫くようにと励まされたのです。