272. 『四条金吾釈迦仏供養事』 〜 『辨殿御消息』     高橋俊隆

□『四條金吾釈迦仏供養事』(二二〇)

七月一五日付けにて頼基に宛てた書状です。頼基が木像の釈尊の尊像一体を造立し、その開眼供養を依頼してきたことへの返書です。自己の信仰を貫こうとする信念と、他宗をよりどころとする主君との主従関係に、亀裂を生じていた時期でした。真蹟は身延に曽存、断片一紙が鎌倉妙本寺に所蔵されています。系年について文永一一年(『境妙庵目録』)・建治三年(『日奥目録』)の説があります。内容から『三身抄』『開眼供養御書』といいます。

○開眼供養

釈尊像を開眼するにあたり、「五眼」と「三身」について法華経の文を引いて説明し、開眼供養は法華経・天台宗に限るとのべます。「五眼」とは人間肉眼天人天眼声聞縁覚慧眼菩薩法眼、仏の仏眼をいいます。普賢経の「此大乗経典諸仏宝蔵 十方三世諸仏眼目」。「此方等経是諸仏眼 諸仏因是得具五眼」の文を引き、法華経を持つ者は経の功徳力により、本仏釈尊の仏眼を具えた開眼が可能となると解釈します。

「三身」については普賢経の「仏三種身従方等生 是大法印印涅槃海 如此海中能生三種仏清浄身 此三種身人天福田 応供中最」の文を引きます。三身とは法身如来・報身如来・応身如来のことで、法華経の釈尊はこの三身の徳を具えているとのべます。月の体は法身、月の光は報身、月の影は応身に譬え、一の月に三つの見方があるように、法華経の久遠実成の釈尊一仏に、三身の徳が具有していることをのべます。

「この五眼三身の法門は法華経より外には全く候はず。故に天台大師云 仏於三世等有三身 於諸教中秘之不伝[云云]。此釈の中に於諸教中とかかれて候は、華厳・方等・般若のみならず、法華経より外の一切経なり。秘之不伝とかかれて候は、法華経の寿量品より外の一切経には教主釈尊秘て説給はずとなり。されば画像・木像の仏の開眼供養は法華経・天台宗にかぎるべし」(一一八三頁)

と、開眼供養は五眼三身の法門を顕した寿量品を根本としなければ、本当の開眼とはならないのです。

次に、一念三千の国土世間にふれ、魂魄という神(たましい)を入れるのは法華経の経力であり、衆生においては即身成仏の法門であり、画木においては草木成仏であることをのべます。この法門は真言宗にはないとのべます。そして、頼基が造立した釈尊像は生身と同じ仏像であり、過去の「優填大王の木像と影顕王の木像と一分もたがう」(一一八四頁)ことがなく、諸天善神が必ず頼基を守護するであろうと褒めています。

 頼基から大日天子を、毎年四月八日の釈尊誕生の日から、七月一五日の盆まで供養していることの報告にたいし、日天子の霊験は眼前に見える事実であるとのべ、これは釈尊と法華経の力であるとのべます。仏教が伝わらない前から日天を礼拝し利益を得ていた者がいたことをのべ、仏教においては日月四天は法華経の法味によって力を得ているとし、その証拠として序品の普香天子(明星天)と連なる三光天子であるとのべます。法師品において無上菩提の授記を得た火持如来であるとのべます。

また、頼基の日天信仰は父親の代からのものであったことがのべられています。日蓮聖人も日天子に祈請して日本国の邪師と戦って数年になるが、その勝利も確実であるとのべます。これも日天子の霊験であるとして、頼基も願いが叶うことを示唆しています。

 手紙のなかに父母の死後についての心配が書かれていました。頼基の父頼員は建長五年、母は文永七年に死去しています。

「是より外に御日記たうとさ申計なけれども紙上に難尽。なによりも日蓮が心にたつとき事候。父母御孝養の事。度度の御文に候上に、今日の御文なんだ(涙)更にとどまらず。我が父母地獄にやをはすらんとなげかせ給事のあわれさよ」(一一八五頁)

頼基は度々、父母の供養を依頼していたので、いつもかわらない親を想う孝養に心を打たれ、涙が流れてとまらないとのべたのです。そして、目連尊者の故事を引き、頼基の孝養の深さを諸天善神は納受しているから、成仏は心配ないとのべています。

○頼基の暇乞いと日常の用心

 頼基は主君との間に信仰上の対立を起こしており、家臣を辞し(暇乞い)たい旨の相談があり、日蓮聖人は即時にこれを否定して、主君の恩分を忘れないようにと諭しています。日蓮聖人は相模殿(時宗)に憎まれて、数多くの迫害にあい佐渡にも流罪されたが、法華経の文には値難忍耐が説かれているので怨んだことがないとのべ、身延にて安穏に居られるのは、頼基の助けがあってのことだとのべます。

その頼基の護法の根源は主君の恩恵であり、父母に孝養できるのも主君の恩恵であるから、主君から捨てられそうになっても、命に及ぶことがあっても、断じて辞職してはならないと強く諭しています。頼基は日蓮聖人を助けた人であるから悪人に害されることはないが、万一、害せられても、それは先生の謗法によるものであるから、どこの山中や海上に遁れても、免れることではないとのべます。その例として、不軽菩薩や目連の竹杖外道に殺害されたことを思えば、歎くべきではないとのべています。

しかし、この書状を受け取って読んだなら、危害は避けるようにと注意されます。まず、百日間は同僚や他人の家で酒宴をしてはならないとします。主君からの徴収においては、昼間ならば急ぎ出仕すべきだが、夜中ならば三度までは急病と言って辞退し、三度を過ぎたら下人などを警護につれて、出仕すべきことをのべています。蒙古の来襲があれば、そちらの方に気が取られるので仇を討つという気も止むとのべます。この頃の頼基の近辺のあわただしさと、日蓮聖人の周到な注意について窺えます。

これは数々の生命を狙われてきた日蓮聖人の経験から促されたものなのです。重ねて暇乞いは自分に過失があっても、妄りに御内を出てはならないと諭します。自身に過失がないのであるから堂々と構え、入道については先のことならいいが、現状においては心身に合わない悪縁が次々と起こるので、取り止めるようにのべています。用心のため身に灸の跡を作って病気であるように見せ、騒ぎがあっても先ずは下人などに様子を見させてから、行動をとるようにとのべています。急いで主君に対しての対応について知らせたかったので法門については省いたことをのべ、写経を頼まれていたことについては、涼しくなったら写経して届けることを約束して結ばれています。

□『覚性房御返事』(二二一)

 七月一八日付けで覚性房に宛てた書状です。用紙は半折を使用し、注意深く丁寧に書かれた草書体です。弥源太と覚性房が親しい関係であったことがわかります。本書には覚性御房と書かれています。北条弥源太入道が何かについて歎いているので、このことを上の高貴な人(主君)に申し上げるようにと覚性房に命じています。(鈴木一成著『日蓮聖人遺文の文献学的研究』四四五頁)

「いやげんた入道のなげき候しかば、むかはきと覚性御房このよしをかみ(上)へ申せ給候へ」(一一八九頁)

 このかみ(上)とは誰のことかは不明です。特殊な階級の人への儀礼的な形式か、まだ面接していない人への書状の形式とも推測され、身延の近くに居住している相当の身分の人と考えられます。

○熱原の滝泉寺行智と日秀

この頃、熱原の滝泉寺の寺家僧であった下野房日秀(一三二九年没)は、院首代である平左近入道行智に、法華経をやめ念仏を称えるよう起請称名念佛の誓状)を書くように命じられます。従わなければ役職を剥奪し、寺外に追放すると強要されました。これより頼円は承諾します。行智と日秀・越後房日弁・少輔房日禅と対立しはじめていきます。このため日秀は寺を出、日弁と日禅は住房を奪い取られるという事件が起きました。三師擯出)。日禅は河合に、日秀・日弁は寺中にいて弘教します。その三年後の弘安二年一〇月に、平頼綱の策略により「熱原法難」が起きます。この問題は長期化し教団にとって深刻な事態となります。

滝泉寺は下方の市庭の寺で、定期市が開かれていた地域にありました。のち、日秀は大石寺塔中の理境坊の開基となります。

□『辨殿御消息』(二二二)

七月二一日付けにて日昭上人に宛てた書状です。真蹟は一紙が京都本能寺に所蔵されています。用紙がなかったので、一枚の紙にたくさんの用件が書き込まれています。行間や紙の端に書き継がれており、端書の一部が欠失しています。裏には弟子たちに教えるためか、真言の表が書かれています。日蓮聖人の直近の門下の状況を問い合わせたもので、鎌倉との連絡が随時なされていたと考えられます。滝王が家葺きのため身延より鎌倉に帰ることになったので、この書状を持たせて門下の動向などを知らせています。滝王は妙一尼の下僕で佐渡にも随行しており、妙一尼は日昭上人の母と言われるように、近親であったことは推察されています。

池上康光は極楽寺の良観に帰依していたため、良観を批判する日蓮聖人とは信仰的に合わず、日蓮聖人を信奉する長男の宗仲を勘当していました。その時期については前述したように、文永一二年の春と、建治二年の四月の説があります。本書に

「えもん(衛門)のたいう(大夫)どのゝかへせに(改心)の事は、大進の阿闍梨のふみに候らん」(一一九〇頁)

とのべた、「かへせに」とは「改心」のことと解釈されています。衛門の大夫は父康光ではなく宗仲のことです。この改心の実情については、宗仲を指導している大進阿闍梨に与えた手紙に、書き記してあると解釈できます。(『日蓮聖人全集』第五巻二九一頁)。あるいは、宗仲の改心については、大進阿闍梨からの手紙に詳しく書かれているだろうが、その手紙は届いていますかとも受けとれます。大進阿闍梨は鎌倉に房を構え、鎌倉の教団の統率に貢献していました。康光の妻は日昭上人の姉ですので義兄になります。その子の宗仲・宗長は甥になりますので、日昭上人が池上家の信仰の指導をされていたため、日蓮聖人からの問い合わせや教導があったのです。ところで、「かへせに」とは「為替」(『本満寺本』の表記)のこととも言います。(岡元錬城著『日蓮聖人遺文研究』第二巻五一三頁)

次に、用件の一として、十郎入道から袈裟を供養されたことを、喜んでいたと伝えるように指示されています。十郎入道は鎌倉大蔵(倉)塔の辻にいた信徒で、『種々御振舞御書』に名前がみられます。本間十郎といわれ北条氏に直参していた武士といわれています。

次に、頼基からの使いが来たが心配なことがあるので、頼基を尋ねて委細を聞き対処するようにとのべ、そのことについて連絡をするように指示されています。また、河辺殿などの四人からは音信が不通になっているので、信仰のことで変事があったか、気掛かりであるので調べて知らせるようにとのべています。河辺氏については一大事と思って諸天善神を責めているので、今生に験があることを心得て、強く教訓するように指示しています。鎌倉に住んでいた信者と思われます。

また、伊豆法難に関した地頭の伊東八郎左衛門佑光についてふれます。

「伊東の八郎ざゑもん、今はしなの(信濃)のかみ(守)はげん(現)にしに(死)たりしを、いのりいけ(活)て、念仏者等になるまじきよし明性房にをくりたりしが、かへりて念仏者真言師になりて無間地獄に堕ぬ。のと房はげんに身かたで候しが、世間のをそろしさと申し、よく(慾)と申し、日蓮をすつるのみならず、かたき(敵)となり候ぬ。せう房もかくの如し。おのおのは随分の日蓮がかたうど(方人)なり。しかるになづき(頭脳)をくだきていの(祈)るに、いまゝでしるしのなきは、この中に心のひるがへる人の有とをぼへ候ぞ。をもいあわぬ人をいのるは、水の上に火をたき、空にいえ(舎)をつくるなり。此由を四人にかたらせ給べし。むこり(蒙古)国の事のあうをもつておぼしめせ、日蓮が失にはあらず」(一一九〇頁)

伊東佑光は日蓮聖人に病悩を治癒されていました。(『船守弥三郎許御書』二三〇頁)。本書には死去したのを蘇生させたとあります。信濃守として本領の日向にいた伊東祐光は、明性房の説諭を容れずに、念仏者真言師となって死去した(五四歳)とのべています。能登房と少輔房も世間の恐ろしさと欲により、日蓮聖人を捨て敵となったとあり、河辺氏達は日蓮聖人の信徒と思い頭脳を砕くほど祈っているが、その験がないのは翻心している者がいるとのべます。

日蓮聖人がどんなに祈っても、その効験がないのは、この中に信仰を捨てた人がいる証拠とします。信心を失った者を祈っても、水の上で火を焚き空中に家を建てるようなもので、祈願が成就しないとのべます。このことを四人に言い聞かせるようにと指導されています。蒙古の襲来がないように祈ったが、祈られる人に応ずる信心がなかったからと述のます。次に筑後房・三位房・帥公(日高上人)に大事な法門を伝授するので、身延に来るようにと指示しています。

最後に『十住毘婆沙論』の要文を抜書きした大帖と、日向上人が消息の裏に書いた真言の表など、細やかに書き付けた資料の軽いものから身延山に運んでほしいと依頼しています。日蓮聖人は日昭上人に指示して書籍の収集をしていたことが分かります。末文には紙がないので、一枚の紙に多くのことを書いたことを記しており、身延においては紙不足であることも伝えています。