273.『報恩抄』           高橋俊隆

報恩抄』(二二三)

去る三月一六日に道善房が没した知らせを、清澄寺にいる兄弟子から届けられていたと思われます。この頃は身延と清澄寺近辺に布教している弟子の往来があったので、弟子や信徒からいち早く訃報がもたらされたことでしょう。約四ヶ月後の七月二一日に、師道善房の追善供養のため、『報恩抄』二巻を書き終えられます。七月二六日に『報恩抄送文』を「清澄御房」に宛てます。この呼称から浄顕房が別当となっていたことが窺えます。日蓮聖人は身延に隠遁という立場でしたので、兄弟子の浄顕房と義浄房に宛てて、弟子の日向上人と日実上人をつかわし、『報恩抄』を墓前と「嵩かもり(森)」にて、拝読するように指示しています。(『校補録内扶老』二三五頁)。『報恩抄送文』に、

 

御まえ()と義城房と二人、此御房をよみてとして、嵩かもり(森)の頂にて二三遍、又故道善御房の御はか(墓)にて一遍よませ給いては、此御房にあづけさせ給いてつねに御聴聞候へ(一二五一頁)

 

と、本文には浄顕房と義浄房の二人に朗読を依頼しています。その目的は兄弟子二人への教化ともいいます。(『日蓮聖人遺文全集講義』第一八巻二頁)。「嵩かもり(森)」は高い森の頂ということで(『日蓮聖人全集』三巻一〇六頁)、立教開宗を決意された旭が森と呼称された場所と思われます。

 道善房の訃報に嘆き悲しまれた様子は、本文に、「火にも入り水にも沈み、走り立ちてもゆいて」(一二四〇頁)と、のべているところに、一二歳から師匠のもとで育てられた恩愛を窺うことができます。道善房の死去に接し『報恩抄』を書かれた気持ちは、恩を知り恩を報ずることの大事をのべ、この報恩とは法華経を信奉することであるとして、直接的には本師釈尊への報恩をのべ、敷衍して道善師への恩を説いています。道善房への恩とは、出家に導き比叡山などの修学を薦めたことと思われます。信条や性格においては本書に書かれているように臆病で、地位に執着していました。東条景信や円智房・実城房が死去した後は幾分、法華経を信じたのか釈尊像を造っています。このことをもって、師匠の恩に報いることができたと感激しました。しかし、竜口・佐渡流罪中には、その幾分の信仰を捨てたようで、流罪中には日蓮聖人への書状はなく、師匠としての温情がなかったことを嘆いています。道善房が謗法により堕獄することを心配されていたというのが、日蓮聖人の心情であろうと思われます。

本書はその後生の抜苦と追善を心に念じながら書かれたといえます。道善房と対面して話をされるような語り口調で、釈尊の真意の教えを学ぼうとされた心境と、その修学により得た法華最大一の理由、そして、法華経の行者となった経緯や、これからの弘通について語ります。

本書の冒頭に、「夫れ老狐は塚をあとにせず」の書き始めから、最後の、「されば花は根にかへり真実は土にとどまる。此の功徳は故道善房の聖霊の御身にあつまるべし」の文に結ばれたのは、法華経の行者として存在するのは師匠の恩として受けとめていたからです。初発心の求道者としての出発を回顧したとき、この恩徳にいかに報いるかを示したものと思われます。

 本書の真蹟は四巻五三紙、一巻ずつが表裏に記載されていました。(『日乾目緑』)。上下二巻とするのは写本のときに便宜に分冊したからです。明治八年身延の火災で焼失し、真蹟は池上本門寺(断片二紙二七行)・京都本禅寺(断片六行)・円実寺(断片一行)・山梨妙了寺(断片二行)・高知要法寺(断片貼合二行)・東京本通寺(断片二行)に所蔵されています。乾師の写本(『乾師対照録』)が本満寺に所蔵されており、小川泰堂居士は慶長一一年四月に正写したものを原書として、字数二七六七六文字を正本として記録されています。(『日蓮聖人御遺文講義』第五巻二三頁)。これにより『報恩抄』の全文と真蹟の形態をしることができます。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇一〇〇一頁)

教学面では『四恩抄』(二三七頁)の恩(『四恩抄』には『心地観経』に説かれる父母・衆生・国王・三宝の四恩説をのべています。本書では父母・師匠・国の三恩のみが挙げられているのは、師匠の追善のため師恩を重視されたことが窺えます)、『開目抄』(五三五頁)の「三徳」、『撰時抄』(一〇〇三頁)の「末法時」、また、『撰時抄』と同じく東台両密を批判しています。円澄にたいしても半分は比叡山の密教化を進めたとし、自らを最澄の真意を継承する者と位置づけました。それは蒙古襲来と密教重用に対する批判でもありました。この台密批判と「三大秘法」をのべたところは、『報恩抄送文』に他言を注意された大事な法門となります。

『報恩抄』の分科については、『録内啓蒙』と守屋貫教氏の(『日蓮聖人御遺文講義』第五巻一三頁)の序分・本分・流通分の三段に分ける見方と、小松邦彰氏の四段に分ける見方があります。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇一〇〇二頁)

 

『録内啓蒙』

序分  初~三界第一の孝となりしこれなり         (一一九三頁一行目)

正宗分 かくのごとく存て~源遠れば流れながしというこれなり(1248 頁一二行目)

流通分 周の代七百年文王の礼孝による~末

守屋貫教氏・小林是恭氏(『日蓮聖人御遺文講義』第五巻。『日蓮聖人遺文全集講義』第一八巻)

序分 初~三界第一の孝となりしこれなり          (一一九三頁一行目)

正宗分 かくのごとく存て~南無妙法蓮華経と唱べし     (1248 頁八行目)

流通分 此事いまだひろまらず~末

 

 小松邦彰氏(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇頁)一〇〇二頁)の分科。

  第一段  初~一切世間多怨難信              (一一九八頁一三行目)

  第二段  釈迦仏を摩耶夫人~一人として謗法ならざる人はなし(一二二一頁末)

  第三段  但事の心を案ずるに~後生は疑おぼすべからず   (一二四〇頁一二行目)

  第四段  問云、法華経一部八巻二十八品の中に~末

 

四段分科に従い大まかな内容をみますと、

 

一段 報恩の意味

真実の報恩とは法華経の弘通であること。それは事一念三千に裏付けられた成仏にあります。求道の真意は報恩のため。修学の成果は「依法不依人」の軌範により法華最勝に到達し、夫を不惜身命の決意をもって弘通してきたことをのべます。

二段 三国四師

釈尊の滅後以来の仏教史を概観され、三国四師の法華弘通者を規定されます。

三段 知教者の自覚

教学として真言密教に加え天台宗の台密批判をされたことが本書の特色です。その論理として三証具足をのべます。また、知教者としての自覚と、佐渡流罪の受難の意義、身延入山の心中をのべます。

四段 慈悲広大

重ねて妙法五字は法華経の肝心であること、末法弘通に視点を当て正像に未だ広めた者がいなかった「三大秘法」を説き明かされます。そして、法華経の行者の意識としては、報恩にあることを「慈悲広大」の文に表現されます。この法華経弘通の功徳は、旧師道善房の聖霊に回向されるとのべて結ばれています。

 

〇第一段〔真実の報恩の意味〕

 本文に入りますと、冒頭に日蓮聖人の報恩思想の骨髄となる文章が綴られています。(『日蓮聖人遺文全集講義』第一八巻三八頁)父母・師匠・国恩に対しての報恩の行為は、人間にとっていかに大切なことであるかを知らされる文章です。

 

夫れ老狐は塚をあとにせず。白亀は毛宝が恩をほうず。畜生すらかくのごとし。いわうや人倫をや。されば古への賢者予攘(譲)といゐし者は剣をのみて智伯が恩にあて、こう(弘)演と申せし臣下は腹をさひて、衛の懿公が肝を入たり。いかにいわうや、仏教をならはん者の、父母・師匠・国恩をわするべしや。此の大恩をほうぜんには必ず仏法をならひきはめ、智者とならで叶べきか。譬へば衆盲をみちびかんには、生盲の身にては橋河をわたしがたし。方風を弁ざらん大舟は、諸商を導て宝山にいたるべしや。仏法を習極めんとをもわば、いとまあらずは叶べからす。いとまあらんとをもわば、父母・師匠・国主等に随ては叶べからず。是非につけて、出離の道をわきまへざらんほどは、父母・師匠等の心に随べからず」(一一九二頁)

 

 「夫れ老狐は塚をあとにせず」と書き出されたのは、恩とはどのようなことか、その恩に報いるとはどのようなことかを提示することにあります。狐は年老いても自分が生まれた狐塚を忘れず、死ぬときは必ず首を生まれた塚に向けていることの例を挙げます。狐塚に足や背を向けて死ぬことはないということで、そこには父母に産み育てられた恩や、命を護られた塚への恩を忘れないということです。日蓮聖人においても故郷を忘れたことはないとのべたのです。

出典は『淮南子』『礼記集説』などにあります。「白亀(びゃっき)は毛宝の恩を報ず」とは、昔、晋の毛宝が一二歳のとき河に行くと漁師が白い亀を捕らえていたので、毛宝は自分の着物と交換して、亀を海に帰してあげました。(『開目抄』「あを(襖)の恩をわすれず」。襖は衣服のあわせや綿いれの意後年、毛宝は武将になりますが、敵の大軍に城を攻め落とされて、敗走し揚子江まで遁れます。しかし河に阻まれ乗る船もなく落胆したときに、昔、助けた白亀が河の中から現れて、その背中に毛宝を乗せて向こう岸に渡し、毛宝の命を救ったといいます。このように動物でさえ恩を知り恩を報ずることを挙げて、まして私たち人間が恩を知り、恩に報いることを弁えるべきであることをのべます。日蓮聖人は法華弘通の行動を、白亀の報恩に譬えたのです。

そこで、過去の賢人として予攘(譲)の故事を挙げます。「予攘(譲)は剣をのみて智伯が恩にあて」たということは、予攘(譲)の主君である智伯のために自刃したことをいいます。智伯は豫譲の才能を認めて国士として優遇します。智伯は趙襄子を滅ぼすべく、居城である晋陽を攻撃しますが、裏切りにあい智伯は敗死します。紀元前四五三。趙襄子は智伯の頭蓋骨を塗り、酒盃として酒宴の席で披露します。(厠用の器として曝したという説もあります)。豫譲はこれを知ると「士は己を知るものの為に死す」として復讐を誓います。顔や体に漆を塗ってらい病患者を装い、炭を飲んで喉を潰し声色を変え、乞食に身をやつし再び趙襄を狙います。しかし、見破られて処刑されるとき、豫譲の願を聞き趙襄子は自ら着ていた衣服を与えます。豫譲はそれを三回斬って智伯の無念を晴らし、剣に伏せて自らの体を貫いて自決したのです。日蓮聖人はこれを、「剣をのみて智伯が恩にあて」たと表現されたのです。

「弘演と申せし臣下は腹を割きて衛の懿公が肝を入たり」というのは、弘演という人は衛の懿公の臣下で、主君の命により他国に使いをしている間に、懿公は狄の国に殺されてしまいます。『呂氏春秋(巻十二・忠廉紀)によりますと懿公は殺害され、その肉を人に食べられてしまい、肝臓だけが捨てられたとあります。弘演は自分の腹を切って肝臓を取り出し、代わりに懿公の肝臓を入れて自害したとあります。つまり、自分の腹を割いて打ちすてられた懿公の肝を護ったのです。この行為により主君への恩を報じたということです。ちなみに懿公は中国史上唯一の人に食べられた人君でした。懿公は即位してから鶴に禄位を与えるなどして、淫楽奢侈な性格であったため人民も大臣も服従しなかったといいます。弘演の行動はことさら恩義の厚さを示しています。

 日蓮聖人は余譲と弘演の故事を引いて、一般の人物でも報恩のためには命を捨てるのであるから、仏教を学ぶ者は尚更に、父母・師匠・国恩に報じなければならないとのべたのです。そのためには仏法を極めることが大事でるとします。なぜなら、成仏を目的としているからです。そのためには学問をして智者となる必要があります。譬えると目が見えない盲目の人々を導くには、自分の目が見えなければ橋や河をわたすことができません。また、東西南北の方角と風の方向を知らなければ、船に多くの商人を乗せて宝の山に行くことはできません。つまり、恩を報ずるにも正しい知識を持たなければならないのです。求道者の覚悟は全ての時間を仏道に向けることです。そのためには、父母・師匠・国主等に随い世俗のことに関わっていては、三界六道の生死の迷いから出離した悟りの道に到達できないとのべます。

世間では父母・師匠・国主等に逆らうことは戒めることですが、儒教の孝経には父母や主君に従わなくても、忠臣となり孝人になると書かれています。仏教においても親の恩を捨てて仏道に入ることは、結果的に父母を救済することであるから、これが真実の報恩であると説かれています。(『清信士度人経』の文といいますが、『録内扶老』は一切経にはないとあります)

その例として殷の紂王の臣下である比干は、悪逆の紂王に従わず、敢えて妲己への溺愛を諫めたため、腹を裂かれて殺されますが賢人と称讃されました。釈尊も父王の浄飯王の意思に背いて出家します。しかし、三界第一の孝子となりました。つまり、自他ともに成仏を目的としなければならないといえます。日蓮聖人においての出家の目的は、父母の成仏であり自身の成仏でありました。道善房にたいしては仏教の真実を極めることが、師恩に報いることであるとのべています。すなわち、「出離の道」を究めることであって、そのためには父母・師匠の諫言に逆らうことを承知しなければならないとのべているのは、釈尊が出家したことを例証とした目的と同じで先述したとおりです。

 

〇〔真実の明鏡は法華経〕

「かくのごとく存て、父母・師匠等に随ずして仏法をうかがひし程に、一代聖教をさとるべき明鏡十あり。所謂る倶舎・成実・律宗・法相・三論・真言・華厳・浄土・禅宗・天台法華宗なり。此の十宗を明師として一切経の心をしるべし。世間の学者等おもえり、此の十の鏡はみな正直に仏道の道を照せりと。小乗の三宗はしばらくこれををく、民の消息の是非につけて他国へわたるに用なきがごとし。大乗の七鏡こそ、生死の大海をわたりて、浄土の岸につく大船なれば、此を習ほどひて、我がみ(身)も助け、人をもみちびかんとをもひて、習ひみるほどに、大乗の七宗いづれもいづれも自讃あり。我が宗こそ一代の心はえたれえたれ等」(一一九三頁)

 

日蓮聖人が鎌倉・比叡山にて修学された原点(「一の願を立」一一九四頁)と、このような覚悟をもって仏教各宗の教えをを研鑽したことをのべています。そして、領解したことは天台のように、『涅槃経』の「依法不依人」を基本として研鑽する方法であり、ここに到達したのは、「已今当の三説」を説く法華経を明鏡とすべきことでした。十宗(小乗三宗と大乗の七宗)はそれぞれが自宗こそ第一と言うが、世間にも国主は一人であり、家にも主人は一人であるように、釈尊の一切経の教も一つの経こそが大王とのべます。大乗の七宗を明鏡とし、その中でも法華経薬王品には「此法華経於諸経中最在其上」と説かれています。

つまり、日蓮聖人は法華経こそが最も第一の経であると受容され、法華経は「一切経の頂上の如意宝珠」(一一九五頁)であると評価します。『涅槃経』如来性品においても、「是経出世乃至如法華中八千声聞得授 記別成 大菓実如秋収冬蔵更無所作」(是の経の出世は、乃至、法華の中の八千の声聞に記別を授くることを得て大菓実を成ずるが如く、秋収冬蔵して更に所作無きが如しと説かれています。つまり、『涅槃経』には『涅槃経』よりも法華経が勝れていることを説いています。法華経は八千の声聞に記別(未来に成仏することを約束)をします。この法華経の利益に漏れた者を拾い集めたのが『涅槃経』です。ゆえに、法華経を秋に収める大収とし、『涅槃経』を冬に蔵す捃拾として、『涅槃経』を捃拾遺嘱といいます。このことは、一切経の勝劣を判ずる証文となりますが、天台宗に所属する慈覚・智証でさえも、このことを弁えていないとします。

法華経は「已今当の三説」を説き、多寶仏と十方の諸仏は来集して法華真実を証明しています。しかし、

 

「而を華厳宗の澄観等、真言宗の善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証等の大智の三蔵大師等の、華厳経・大日経等は法華経に勝たりと立給ば、我等が分斉には及ばぬ事なれども、大道理のをすところは豈諸仏の大怨敵にあらずや。提婆・瞿伽梨もものならず、大天・大慢外にもとむべからず。かの人々を信ずる輩はをそろしをそろし」(一一九七頁)

 

華厳宗の澄観、真言宗の善無畏・金剛智・不空・弘法、天台法華宗においても、弘法の密教に随従した慈覚・智証は、釈尊の大怨敵であり法華経を謗法する仏敵と断言します。

 

〇第二段〔四依の菩薩の受難〕

第二段に入ります。ここにおいて、『開目抄』にのべていたように、知教者として立教開宗の決意をされたのです。すなわち、立教開宗における「進退」(一一九八頁)に迷われたのは値難にありました。ここでは値難をもたらすところの根元である、「三障四魔」の第六天魔王にふれます。そして、正法・像法・滅後末法に仏教を広める者への付法と、とくに、「末法為正」とする法華経の行者に纏わるのが第六天魔王です。素直に値難の恐怖心を吐露しています。

 

「況滅度後と申て未来の世には又此の大難よりもすぐれてをそろしき大難あるべしと、とかれて候。仏だにも忍びがたかりける大難をば凡夫はいかでか忍ぶべき。いわうや在世より大なる大難にてあるべかんなり

(一一九九頁)

 

 しかし、値難は法華経の行者としての証明でもあります。釈尊の御心を知る日蓮聖人は、『開目抄』の立教開宗にのべたように不惜身命の法華弘通に邁進されます。ここで過去の法華経の行者と値難にふれます。釈尊の滅後に釈尊の使いとして仏法を弘通した人を付法蔵といいます。迦葉は阿難に付属し商那和修に伝えます。このようにして二四人目となるのが獅子尊者です。

『付法蔵経』吉迦夜・曇曜共訳六巻。元魏四七二年)によりますと、(巻一)迦葉、(巻二)阿難、(巻三・四)末田地・商那和修、(巻五)憂波毱多・提多迦・弥遮迦・仏陀難提・仏陀密多・脇尊者・富那奢・馬鳴・比羅・龍樹、(巻六)迦藍提婆・羅睺羅・僧伽難提・僧伽耶舎・鳩摩羅駄・闍夜多・婆修盤陀・摩奴羅・鶴勒那・師子尊者と付法されとあります。この付法蔵の人は釈尊の使いであり四依の菩薩と呼ばれます。「法四依」に対し「人四依」ともいいます。

 このなかで、第十四師の提婆菩薩迦藍提婆)、第二四師の獅子尊者、第八師の仏陀密多を挙げます。提婆菩薩は龍樹の弟子となり、外道を屈服させ『百論』著わします。羅睺羅に付法し晩年に破折した外道の怨みにより殺されています。獅子尊者は付法蔵の最後の人で、達磨達多の師ともいわれます。『五燈会元』によりますと、師子尊者は釈尊の滅後一二〇〇年頃、中インドに生れ、第二三祖鶴勒那に法を受け、北インド地方を巡教し罽賓国にて教化をします。外道の嫉みに謀られ国王檀弥羅は、師子尊者の首を斬り落とします。この時出血せず白い乳が湧き出たといいます。国王の右臂も地に堕ちて七日後に死んだとあります。

 

小乗の四依――正法時代前五百年――迦葉・阿難

大乗の四依――正法時代後五百年――馬鳴・龍樹・天親

        ―像法時代     ―南岳・天台・伝教

        ―末法時代     ―日蓮聖人

 

日蓮聖人は獅子尊者の故事を遺文の処々に引用されています。(定三七四・一一〇〇頁)。その理由の一つは、釈尊の使者として、正法時代に最後の伝灯者として仏法を伝道していること、二つは「死身弘法」の行者として、師子尊者を自らの前例の一つに擬していることです。そして、第八代の仏陀密多と仏滅後の大論師である龍樹(龍猛)菩薩は、国王を改心させるために赤幡を七年も十二年も指して、苦難を重ね国王を帰伏させました。

第十一番目の馬鳴菩薩は国王によって金銭三億の代償として月氏国に移ります。栴檀罽昵吒王に攻められて、破れた華氏王は九億の金銭を要求されます。華氏王は馬鳴と仏鉢と慈心雞を、それぞれ三億に当てて奉献したといいます。(「迦膩色迦王求馬鳴及佛缽事」。『付法藏因緣傳』五。月氏國王為旃檀罽呢吒王・・以馬鳴、佛缽、慈心雞奉王而退兵」とあり、慈心雞という鶏は慈心があり虫の住む水を飲まず、ことごとく能く一切怨敵を消滅せしむとあります)

如意論師は世親の師で『毘婆沙論』の著者です。超日王と一人の学者は如意論師を辱めます。如意論師は「党援の衆と大義を競うことなかれ、群迷の中に正論を弁ずることなかれ」と弟子の世親に遺誡し、自ら舌を噛み切って死んだといいます。これらの付法蔵の人は正法時代の弘通者です。

 

〇〔像法時代の天台大師〕

 次に、像法時代になり天台が中国に生まれたことにふれます。像法時代の付法に天台を挙げ、南三北七の邪義を打ち破って法華第一を宣顕した貢献をのべます。光宅寺法雲(四六七~五二九年)が一代仏教の勝劣を、華厳経第一、涅槃経第二、法華経第三と立てたのを誤りとし、法華経第一、涅槃経第二、華厳経第三としました。光宅寺は梁の武帝(五〇二~四九年在位)が旧宅に建てて法雲を主としました。法雲は開善寺智蔵、荘厳寺僧旻と共に梁の三大法師と呼ばれます。嘉祥寺吉蔵(五四九~六二三年)も法雲の四車説、仏身無常の説として批判しています。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇九九九頁)。天台は法雲にたいし、法華謗法により堕獄したと批難します。とうぜん起きる反抗に一々反証して法雲の邪義を破ります。この功績に、

 

「教主釈尊両度出現しましますか。仏教二度(ふたたび)あら(顕)われぬと、ほ(褒)められ給しなり」

(一二〇四頁)

 

と賞賛されたのです。

 しかし、天台が没し、次いで章安が没した後には、唐の太宗時代に玄奘が法相宗を広め、則天皇后の時代には法蔵が華厳宗を広め、玄宗皇帝の時代に善無為が、大日経を広め金剛智・不空と次第して真言宗を広めたことをあげます。天台が法華経第一とした説を真言第一としてしまったことをのべているのです。このときに妙楽が『弘決』『釈籖』『疏記』を著して、天台のときに伝えられていなかった、法相宗・新訳華厳経・真言宗を打ち破って、法華経第一としたことを挙げます。

 

〇〔伝教大師の弘法と慈覚・智証大師〕

 次に、日本に仏教が初伝された欽明天皇から、桓武天皇の時代に伝教が天台の釈を見て、法華経に目覚めたことをのべます。そして、高雄寺において南都七大寺の、善議・勝猷・奉基・寵忍・賢玉・安福・勤操・修円・慈誥・玄耀・歳光・道証・光証・観敏等の十四人の僧侶が、「承伏の謝表」を奉って伝教の法華宗に帰伏したことをのべます。この謝表のなかに「三論法相久年の諍い」は、氷が溶けて水が広がるようになったとあります。

三論宗は龍樹の『中論』『十二門論』、提婆の『百論』により、般若経の「一切皆空」を肝要とします。法相宗は天親の唯識論、無着の瑜伽論と解深密経の「唯識実有」を肝要とします。龍樹と天親系の二派が、インドでは青目・清弁・智光と難陀・護法・戒賢との諍論となり、中国では興宜・嘉祥と玄奘・慈恩、日本では元興寺は三論、東大寺は法相を講じて「空」「有」を諍いました。これを伝教は法華経の教えから、空有の諍論は権教の方便説の範疇であることを説いたのです。つまり、この帰伏は、

 

「華厳宗の法蔵・審祥、三論宗の嘉祥・観勒、法相宗の慈恩・道昭、律宗の道宣・鑑真等の、漢土日本元祖等の法門、瓶はかはれども水は一也。而に十四人彼邪義をすてて、伝教法華経に帰伏しぬる上は、誰の末代の人か華厳・般若・深密経等は法華経に超過せりと申べきや。小乗の三宗は又彼の人々の所学なり。大乗の三宗破ぬる上は、沙汰のかぎりにあらず。而を今に子細を知ざる者、六宗はいまだ破られずとをもへり。譬へば盲目が天の日月を見ず、聾人が雷の音をきかざるがゆへに、天には日月なし、空に声なしとをもうがごとし」(一二〇九頁)

 

つまり、華厳・般若・深密経等の大乗経を破折して、法華最勝を証明したことです。しかし、この子細を知らない南都六宗の者は、法華経に論破されているとは思っていないとのべます。伝教の高雄寺において、桓武天皇の御前にて南都六宗を論破したことを挙げたのは、天台が陳王の宮殿において、南三北七の諸師と対論させたことと呼応します。日蓮聖人は天台・伝教の世のように、時の君主は公場対決をさせて、仏教の正邪を決すべきと主張されたのです。

このように、天台・伝教によって法華最第一となった事実を挙げ、日蓮聖人が説く法華経も如上のこととして示します。また、伝教は入唐して真言を相伝して帰国し、大日経・真言宗は法華経に劣ることを、『依憑集』に著していることをのべます。

 

「この依憑集に取載て候。法華経に大日経は劣としろしめす事、伝教大師の御心顕然也。されば釈迦如来・天台大師・妙楽大師・伝教大師の御心は一同に大日経の一切経の中には法華経はすぐれたりという事は分明なり。又真言宗の元祖という龍樹菩薩の御心もかくのごとし(一二一一頁)

 

 このように法華経と大日経の勝劣を整理したうえで、次に、空海は仏教の勝劣を、第一真言大日経、第二華厳、第三に法華涅槃としたこと。教主釈尊は大日如来に比べれば無明の辺域、天台は真言の醍醐を盗んで法華経を醍醐とした盗人としたことを挙げます。ついで、空海の真言密教を取り入れた、慈覚・智証の理同事勝にふれます。そして、この慈覚・智証こそが伝教の『依憑集』に背反した者であることを、不惜身命の覚悟をもってのべたとあります。この理由は法華経が最勝である実義が破れてしまうと表現されます。

その『依憑集』の序に「新来真言宗則泯筆授之相承旧到華厳家則隠影響之軌範。沈空三論宗者忘弾訶之屈恥覆称心之酔。著有法相非撲揚之帰依撥青龍之判経等。乃至謹著依憑集一巻贈同我後哲。某時興 日本第五十二葉弘仁之七丙申之歳也[云云]。次下正宗云 天竺名僧聞大唐天台教迹最堪簡邪正渇仰訪問[云云]。次下云豈非中国失法求之四維。而此方少有識者。如魯人耳等」とあります。この文から、

 

「此宣旨のごとくならば、慈覚・智証こそ、専先師にそむく人にては候へ。かうせめ候もをそれにては候へども、此をせめずば、大日経・法華経の勝劣やぶれなんと存じて、いのちをまと(的)にかけてせめ候なり」

(一二一六頁)

 

と、慈覚・智証の二人の心は師匠から離れ、すでに伝教の弟子ではないという視点からのべます。日蓮聖人の不惜身命の弘教をされた行動から、伝教の真意を忠実に継承しているという信念が分かります。

 

〇〔三国三師〕

 そして、法華経を説の如くに広めた法華経行者は、教主釈尊のほかには天台・伝教の三国三師を挙げます。インドにおいては教主釈尊を挙げます。釈尊を法華経の行者とされる理由として宝塔品を用います。

 

「月氏には教主釈尊、宝塔品にして、一切の仏をあつめさせ給て大地の上に居せしめ、大日如来計宝塔の中の南の下座にす(居)へ奉て、教主釈尊は北の上座につかせ給。此の大日如来は大日経胎蔵界の大日・金剛頂経金剛界の大日の主君なり。両部の大日如来を郎従等定たる多宝仏の上座に教主釈尊居せさせ給。此即法華経の行者なり。天竺かくのごとし」(一二一九頁)

 

宝塔品において多宝塔が出現し、開扉するための儀式として、釈尊の十方分身の諸仏を集める必要があります。この分身来集があり、多宝仏の塔が開かれ釈尊は塔中に入ります。その時の着座に上下関係を見ることができます。すなわち、日蓮聖人は金剛界・胎蔵界の両部の大日如来を多寶仏の下座に着かせ、釈尊は北の上座に着いたという事実を重視されたのです。宝塔は東を背にして西向きになっており、右尊左卑のインドの風習から中央の右(北)に釈尊、左(南)に多宝仏が座られています。

金剛界は正式には金剛界大曼荼羅、胎蔵界は大悲胎蔵生曼荼羅といいます。金剛界は堅固な永遠の覚りの智慧、胎蔵界は仏の慈悲という母親から生まれた曼荼羅となります。『一代五時鶏図』(二三四二頁)に大日如来の法身は胎蔵界、報身は金剛界とあります。また、諸仏の能生であり所帰であることを智法身といい、万有に偏在する所依とすることから理法身といいます。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇六九六頁)

胎蔵界の「八葉九尊の中尊の大日如来」とは、胎蔵曼荼羅の赤い八葉(八葉院)蓮華の中台に大日如来(中央)、宝幢如来(東)、普賢菩薩(東南)、開敷華王如来(南)、文殊菩薩(西南)、阿弥陀如来(西)、観音菩薩(西北)、天鼓雷音如来(北)、弥勒菩薩(東北)のことです。胎蔵の含蔵とは凡夫にも仏の慈悲を含んでいることをいいます。摂持とは凡夫の心中に仏界が随縁生起して、利益をおよぼし一切を摂持することをいいます。

 

大日経の胎蔵界の大日如来――――八葉九尊の中尊の大日如来―――――法身――理法身

含蔵(ごんぞう)・摂持(しょうじ)――――― 理性

金剛頂経の金剛界の大日如来―――五智五仏五大月輪の中央輪の中尊――報身――智法身

堅固 ・ 利用―――――――――――――智性

 

金剛界の「五智五仏五大月輪の中央輪の中尊」とは、五智五仏は五智如来(五大如来)ともいい、密教で五つの知恵を五体の如来にあてはめたもので金剛界五仏のことです。すなわち、法界体性智(中央の大日如来)、大円鏡智(東方の阿閦如来)、平等性智(南方の宝生如来)、妙観察智(西方の阿弥陀如来)、成所作智(北方の不空成就如来)の五仏です。金剛界曼荼羅は智の曼荼羅と言われ、大日如来の智恵の働きと、それに基づく悟りを絵図にしたものです。金剛界曼荼羅は、九つの方形の小曼荼羅から成り立っているので九会曼荼羅といいます。(一会からなる金剛界八十一尊曼荼羅もあります)

五大とはあらゆる世界である宇宙を構成しているとする、地・水・火・風・空の五つの要素のことです。これらを大小の白い円形が文様に配置しています。これを智恵(智法身)を象徴する満月輪とし、全尊はそれら月輪内の蓮華座に坐して表しています。金剛の堅固・利用とは、不可破壊という堅固なことを本義としています。胎蔵界の理から流出される智の曼荼羅が金剛界の曼荼羅です。この理と智の二つに分けられますが、「理智不二」と一つにするのが弘法の密教です。(『空海辞典』一五一頁)

この両部の大日如来は多宝仏の左右の脇士となります。『法華取要抄』にのべていました。

 

「大日経・金剛頂経両界大日如来 宝塔品多宝如来左右脇士也。例如世王両臣。此多宝仏寿量品教主釈尊所従也」(八一二頁)

本書に大日如来とあるのは、法身の意味で多宝仏のことといいます。(『日蓮聖人遺文全集講義』第一八巻一三八頁)。多寶仏は両部の大日如来を脇士とし、その大日如来を従える多寶仏は釈尊に従う仏です。つまり、この主従関係に釈尊を法華経の行者とされたのです。それは、法華経を正法と覚知し説かれたからです。(『観心本尊抄』七〇九頁)そして、釈尊に加えて天台と伝教の三人を法華経の行者と認められます。

 

「漢土には陳帝の時、天台大師南北にせめかちて現身に大師となる。特秀於群独歩於唐というこれなり。日本国には伝教大師六宗にせめかちて日本の始第一の根本大師となり給。月氏・漢土・日本に但三人計こそ、於一切衆生中亦為第一にては候へ。されば秀句云 浅易深難釈迦所判。去浅就深丈夫之心也。天台大師信順釈迦助法華宗敷揚震旦叡山一家相承天台助法華宗弘通日本等[云云]。仏滅後一千八百余年が間に法華経の行者漢土に一人、日本に一人、已上二人。釈尊を加奉已上三人なり(一二一九頁)

 

 このように正統な法華経の弘教者を挙げ、伝教の跡を受けた義真の次の円澄は、半分は伝教の弟子として法華経を弘通したが、半分は弘法の弟子のように真言を取り入れたと指摘します。そして、伝教の後継である慈覚・智証の誤り、また、弘法の没後の東寺・仁和寺の関係、高野山の本寺・伝法院の紛争を挙げ、

 

「日本国は慈覚・智証・弘法の流なり。一人として謗法ならざる人はなし」(一二二一頁)

 

と、根本的な誤りを今日に継いでいるとのべ、当時の真言師・禅宗・念仏者の改心がなく堕獄するのは必定であり、守護の善神も謗法の国ゆえに捨去するとのべます。いわゆる末法意識を持たれたのです。これを説き明らかにするのは日蓮聖人一人であると、末法の行者色読に展開していきます。

 

〇第三段〔末法時代の日蓮聖人の受難〕

 これよりは日蓮聖人の現況に視点をあて、忍難弘教の「三類の強敵」の色読や、蒙古襲来に証明された他国侵逼の的中などから、末法における法華経の行者を日蓮聖人に確定されていきます。まず、『仏蔵経』に説かれている大荘厳仏の末法時代と、不軽品の威音王仏の末法と現況は類似していることをのべます。そして、日本国は法華経誹謗の謗国となり、人々は謗法堕獄の業引にある状況のなかで、日蓮聖人一人がその救済に奔走していることをのべます。

『金光明最勝王経』「由愛敬悪人治罰 善人故他方怨賊来国人遭喪乱等」と、『大集経』「若復有諸刹利国王作諸非法悩乱世尊声聞弟子若以毀罵刀杖打斫及奪衣鉢種種資具若他給施作留難者我等令彼自然卒起他方怨敵 及自界国土亦令兵起病疫飢饉非時風雨闘諍言訟。又令其王 不久復当忘失己国等」の文を引き、日蓮聖人はこの経文に符合する正法弘時の仏弟子であることを示し、日蓮聖人を罰することによる他国侵逼であることをのべます。この他国侵逼の予言の経文を挙げ、法華経の行者として文永八年の法難を受けたこと、それが文永九年の同士討ち、同一一年一〇月に蒙古の国書の的中となったことは、竜口捕縛のときに平頼綱に、

 

「日蓮は日本国のはしら(柱)なり。日蓮を失うほどならば日本国のはしらをたをす(倒)になりぬ。此経文に、智人を国主等若は悪僧等がざんげんにより、若は諸人の悪口によて、失にあつるならば、にはかにいくさ(軍)をこり、又大風ふかせ、他国よりせむべし等[云云]。去文永九年二月のどし(同士)いくさ、同十一年の四月の大風、同十月に大蒙古の来しは偏に日蓮がゆへにあらずや。いわうや前よりこれをかんがへたり。誰の人か疑べき。弘法・慈覚・智証の悞並に禅宗と念仏宗とのわざわい(禍)あいをこりて、逆風に大波をこり、大地震のかさなれるがごとし。さればやうやく国をとろう(一二二二頁)

 

と、諫言したことが現実になったことをのべます。この経文にある国主等とは平頼綱であり、悪僧とは弘法・慈覚・智証、それに禅宗と念仏宗であるとのべます。そして、他国侵逼を予言する経文によれば、正法を行ずる者を迫害することにより諸天善神が隣国の賢王の身に入れ代わって日本を攻めるという、蒙古治罰をのべています。この諸天善神の治罰、蒙古からの治罰は『撰時抄』に、

 

「天の御計らいとして、隣国の聖人にをほせつけられて此れをいましめ」(一〇四七頁)

 

と、のべている一連の論理と同じです。本書に第六天魔王の迫害についてふれていたことが(一一九九頁)、現実として日蓮聖人の身に具現されたことを、「此経文は予が肝に染みぬ」(一二二四頁)と確信しています。この経文とは『法滅尽経』(『普賢経』と『涅槃経』の中間の経)の「魔道興盛。魔作沙門壊乱吾道」、『涅槃経』の「爪上土」です。日蓮聖人がいかに迫害を受け、「世間の人云く。日本国には日蓮一人計、謗法の者」(一二二五頁)と、逆に謗法の僧として揶揄されていたかを知るのです。

そして、日本国には日蓮聖人こそが、この「爪上土」にあたる正法の行者であるとのべます。しかし、世間の人の認識とは異なっています。そこで、この『涅槃経』の「爪上土」についての問答を行います。

 

「問云、涅槃経の文には、涅槃経の行者は爪上土等[云云]。汝が義には法華経等[云云]如何。答云、涅槃経云 如法華中等[云云]。妙楽大師云 大経自指法華為極等[云云]。大経と申は涅槃経也。涅槃経には法華経を極と指て候なり。而を涅槃宗の人の涅槃経を法華経に勝と申せしは、主を所従といゐ、下郎を上郎といゐし人なり。涅槃経をよむと申は法華経をよむを申なり。譬へば、賢人は国主を重ずる者をば我をさぐれども悦なり。涅槃経は法華経を下て我をほむる人をば、あながちに敵とにくませ給。此例をもつて知るべし。華厳経・観経・大日経等をよむ人も法華経を劣とよむは彼々の経々の心にはそむくべし。此をもつて知べし。法華経をよむ人の此経をば信ずるやうなれども、諸経にても得道なる(成)とをもうは、此経をよまぬ人なり」(一二二五頁)

 

 『涅槃経』の如法華中」とは、「声聞の授記作仏は法華経に明かされた」ということで、妙楽は『涅槃経』の文は法華経を至極という意味であると解釈されました。日蓮聖人の『涅槃経』受容は天台の五時教判を基本として、『涅槃経』を落ち穂拾いの経典とし、法華経を補足する経典と位置づけています。つまり、『涅槃経』は追説追泯の拾教として位置づけ法華最勝をのべたのです。法華第一としない者は謗法となるということです。

 

〇〔謗法の諸師を挙げて批判

 そこで、その例として嘉祥(『法華玄論』)・慈恩大師(『法華玄賛』)を挙げます。妙楽は嘉祥について、法華経を称讃しているようにみえるが、その言葉の中に毀りが含まれているので、讃歎したことにはならないと『文句記』(「毀在其中何成弘讃」)に批判しています。また、伝教は慈恩を文章の上では法華経を讃めているようにみえるが、真意を理解していないので還って法華経の心を殺していると、『法華秀句』(「雖讃法華経還死法華心」)に非難しています。日蓮聖人は嘉祥・慈恩を「一乗誹謗の人」(一二二六頁)とします。

 

「嘉祥大師の法華玄を見るに、いたう法華経謗たる疏にはあらず。但法華経と諸大乗経とは門は浅深あれども心は一とかきてこそ候へ。此が謗法の根本にて候か。華厳の澄観も真言の善無畏も大日経と法華経とは理は一とこそかゝれて候へ。嘉祥とが(科)あらば善無畏三蔵も脱がたし」(一二二七頁)

 

と、嘉祥は法華経を極力誹謗したわけではないが、諸経をも認めたところに非難されたとのべます。純一に法華経のみを受持することの大事なことを先師の例を引いてのべているのです。そして、嘉祥が謗法であるならば善無為も謗法の罪を逃れることができないとして、善無為・金剛智・不空についてのべていきます。善無畏が祈雨に失敗したことと、臨終の相が悪く無間地獄に堕獄したことについて、次のような見解をのべます。

 

「問云、何にをもつてかこれをしる。答云、彼伝を見るに云、今観畏之遺形漸 加 縮小 黒皮隠々 骨 其 露 焉等[云云]。彼の弟子等は死後に地獄の相の顕たるをしらずして、徳をあぐなどをもへども、かきあらはせる筆は畏が失をかけり。死してありければ、身やふやくつづま(縮)りちひさ(小)く、皮はくろ(黒)し、骨あらわ(露)なり等[云云]。人死て後、色の黒は地獄の業と定事は仏陀の金言ぞかし」(一二二八頁)

 

善無畏の伝記である『宋高僧伝』の記載によると、死して後に身体の色が黒くなるのは、仏説によると正に地獄の罪科を記したものでした。日蓮聖人は現証をもって批判されたのです。本書は続いて金剛智も勅宣により祈雨をしたが、その後に大風が吹き追放されたこと、不空も天子より祈雨を命じられ雨は降ったが、後に大風が吹き宮殿などを破壊するものであったとのべます。この中国の三人の三蔵の悪風は、謗法の証拠であるといえます。ですから、文永一一年四月一二日に、加賀法印の祈雨が大災害となったのは、この三三蔵の悪法が伝えられたためとのべます。加賀法印は東寺第一の智者と呼ばれた真言師であったからです。

続いて、日本の弘法や慈覚はどうであったかをのべます。弘法は祈雨を命じられたが雨は降らず、天子が和気の真綱に新泉苑に御幣を奉納させたところ雨が降ります。弘法はこの雨は自分が降らしたと自慢したのです。新泉苑は京都二条城の南にあり、ここの池に善女という神竜がおり、祈雨の効験があったので御弊を供えたのです。慈覚については日輪を射る夢想について、

 

「慈覚大師は夢に日輪をいるという。内典五千七千、外典三千余巻に、日輪をいるとゆめにみるは吉夢という事有やいなや。修羅は帝釈をあだみて日天をいたてまつる。其矢かへりて我が眼にたつ。殷の紂王は日天を的にいて身を亡。日本の神武天皇の御時、度美長と五瀬命と合戦ありしに、命の手に矢たつ。命云、我はこれ日天の子孫なり。日に向奉て弓をひくゆへに、日天のせめをかをほれりと[云云]。阿闍世王は仏に帰しまいらせて、内裏に返てぎよしん(御寝)なりしが、をどろいて諸臣に向云、日輪天より地に落とゆめにみる。諸臣云、仏の御入滅か[云云]。須跋陀羅がゆめ又かくのごとし。我国は殊にいむ(忌)べきゆめなり。神をば天照という。国をば日本という。又教主釈尊をば日種と申。摩耶夫人日をはらむとゆめにみてまうけ給る太子なり。慈覚大師は大日如来を叡山に立釈迦仏をすて、真言の三部経をあがめて法華経の三部の敵となりしゆへに、此夢出現せり」

(一二三〇頁)

 

と、弘法が夜中に日輪の夢を見たというが、日輪が夜中に出たという事実はないということと、慈覚の日輪を矢で射る夢は災いであると断定します。日輪を射る夢は仏典には吉夢として説かれず、中国・日本・インドにおいても不吉な夢であるとし、とくに、日本国では忌む夢想であるとして、慈覚の夢相は禍いの証拠であると断言されます。その例として次のことを挙げます。

 

「例せば漢土の善導が始は密州の明勝といゐし者に値て、法華経をよみたりしが、後には導綽に値て法華経をすて、観経に依て疏をつくり、法華経をば千中無一、念仏をば十即十生百即百生と定て、此義を成がために阿弥陀仏の御前にして祈誓をなす。仏意に叶やいなや、毎夜夢中常有一僧而来指授すと[云云]。乃至 一如 経法乃至観念法門経等[云云]。法華経には若有聞法者無一 不成仏。善導は千中無一等[云云]。法華経と善導とは水火也。善導は観経をば十即十生百即百生。無量義経云、観経は未顕真実等[云云]。無量義経と楊柳房とは天地也。此を阿弥陀仏の僧と成て来て真なりと証ばあに真事ならんや。抑阿弥陀は法華経の座に来て、舌をば出し給はざりけるか。観音・勢至は法華経の座にはなかりけるか。此をもてをもへ、慈覚大師の御夢はわざわひなり」

(一二三一頁)

 

 この慈覚の日輪に矢を射る夢想は、凶相であることを所々にのべて批判されています。

 

〇〔弘法大師と門下の不審〕

 次に、弘法の邪義について問答形式をとって追求します。これは先の弘法の『般若心経秘鍵』一巻にのべているところの、「弘仁九年春天下大疫」・「夜変而日光赫々」(一二三一頁)と、『孔雀経音義』に「大師結智拳印向南方面門俄開成金色毘盧遮那」・「然真言瑜伽宗 秘密曼荼羅道 従彼時而建立矣」・「三論道昌・法相源仁・華厳道雄・天台円澄等皆其類也」(一二三二頁)。弘法大師伝に「帰朝泛舟之日発願云 我所学教法若有感応之地 者此三鈷可到其処。仍向日本方抛上三鈷 遥飛入雲。十月帰朝」・「高野山下占入定所。乃至 彼海上之三鈷今新在此等」と、真済(あるいは真寂)が書いた文の疑惑を指摘し、『涅槃経』の文を挙げて、これらのことに反論し弘法を、

 

「弘法大師は法華経を華厳経・大日経に対して戯論等[云云]。而仏身を現ず。此涅槃経には魔 有漏の形をもつて仏となつて我正法をやぶらんと記給。涅槃経の正法は法華経なり。故経次下文云 久已成仏。又云 如法華中等[云云]。釈迦・多宝・十方の諸仏は一切経に対して法華経は真実、大日経等の一切経は不真実等[云云]。弘法大師は仏身を現じて華厳経・大日経に対して法華経は戯論等[云云]。仏説まことならば弘法は天魔にあらずや。又三鈷の事、殊に不審なり。漢土の人の日本に来てほり(掘)いだすとも信じがたし。已前に人をやつかわしてうづみ(埋)けん。いわうや弘法は日本人、かゝる誑乱其数多し。此等をもつて仏意に叶人の証拠とはしりがたし(一二三六頁)

 

と、『涅槃経』の経文が真実ならば、弘法は正法である法華経を破壊する、「天魔」であると断定します。以上の『般若心経秘鍵』の夜中に太陽が出たこと、『孔雀経音義』の面門俄に開いて、金色毘盧遮那となったという弘法の即身成仏や、三鈷のことなどの疑惑にたいし、反論して誑惑であることを指摘されたのです。

 

〇〔承久の乱と真言師〕

そして、承久の乱にふれ、第八二代後鳥羽上皇は、真言師の邪法により禍を受けたとします。鎌倉に仏教諸宗が進出し、真言・禅・念仏宗が隆盛してきたころ、後鳥羽上皇は北条義時を亡ぼそうとします。後鳥羽上皇は比叡山・東寺・園城寺、南都七大寺に幕府調伏の祈祷をさせ、また、天照太神・正八幡・山王・加茂・春日等に数年が間、祈願をかけ準備をしていました。いわゆる承久三年五月一五日に承久の乱が勃発しました。ところが、挙兵して一ヶ月、わずか一日の合戦にて、朝廷軍はかえって幕府軍に制圧されます。首謀者である後鳥羽上皇は、隠岐島、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流され、討幕計画に反対していた土御門上皇は自ら土佐国後に阿波国へ移される)へ配流されます。後鳥羽上皇の皇子の六条宮冷泉宮もそれぞれ但馬国備前国へ配流され、仲恭天皇(九条廃帝、仲恭の贈諡は明治以降)は廃され、行助法親王の子後堀河天皇が即位します。

さらに、御室一一世仁和寺の道助法親王(後鳥羽院の第二子)が東寺より追放されたこと。寵愛していた侍童の勢多伽が斬首されたことに及びます。道助法親王は北条義時を調伏祈祷した上首(頭目)でした。『吾妻鏡』によりますと天童として可愛がっていた勢多伽は、六波羅に召し出され斬首されています。日蓮聖人は朝廷側や祈祷に加わった者が制裁を受けたのは、真言の邪法による謗法の罪によるものと解釈されます。

 

〇〔日蓮聖人の受難自覚〕

そして、これらの謗法の罪により、他国侵逼が起きることを予見したことをのべます。

「調伏のしるし還著於本人のゆへとこそ見へて候へ。これはわづかの事なり。此後定日本の国臣万民一人もなく、乾草を積て火を放がごとく、大山のくづれて谷をうむるがごとく、我国、他国にせめらるる事出来すべし。此事日本国の中に但日蓮一人計しれり。いゐいだすならば、殷の紂王の比干が胸をさきしがごとく、夏の桀王の龍蓬が頚を切がごとく、檀弥羅王の師子尊者が頚を刎がごとく、竺道生が流されしがごとく、法道三蔵のかなやき(火印)をや(焼)かれしがごとくならんずらんとはかねて知しかども、法華経には我不愛身命但惜無上道ととかれ、涅槃経には寧喪身命不匿教者といさめ給えり。今度命をおしむならば、いつの世にか仏になるべき、又何なる世にか父母師匠をもすくひ奉べきと、ひとへにをもひ切て申始めしかば、(一二三七頁)

 

そして、これを諫暁すべく立教開宗に至る心中の葛藤はあったが、迫害を受けることを決心して弘教したところ、予想していたとおり勧持品や『涅槃経』如来性品のように、伊豆流罪など大難が重なってきたことをのべます。この値難は譬えれば大風によって大波が起こるようなものと表現され、絶え間なく迫害があったことが窺えます。まさに不軽菩薩が杖木に責められたことを身読されたとのべます。覚徳比丘が歓喜増益如来の末法に大難を受けたが、日蓮聖人の受けた諸難には及ばないとまで言い切ります。ですから、日本国のなかに一時でも安住出来たことがないとのべます。

 

「日本六十六箇国嶋二の中に、一日片時も何の所にすむべきやうもなし。古は二百五十戒を持て忍辱なる事羅云のごとくなる持戒の聖人も、富楼那のごとくなる智者も、日蓮に値ぬれば悪口をはく。正直にして魏徴・忠仁公のごとくなる賢者等も、日蓮を見ては理をまげて非とをこなう。いわうや世間の常の人々は犬のさる(猿)をみたるがごとく、猟師が鹿をこめたるににたり。日本国の中に一人として故こそあるらめという人なし」

(一二三八頁)

 

とのべ、日蓮聖人を敵対視した良観忍性や平頼綱などについて、古の羅睺羅のような持戒の者や富楼那のような智者も、日蓮聖人の教えを聞けば悪口し、また、唐の太宗皇帝から正直者として信頼された魏徴(ぎちょう)や、第五六代清和天皇の摂政となった忠仁公(藤原良房)のような賢者も、日蓮聖人に対しては道理を曲げて非道を行うと譬えます。いわんや一般の民衆においては犬が猿を見たときのように、猟師が鹿を追い込めたときのように敵視していたのです。残念ながら日蓮聖人の主張に耳を傾けて思考する者はいなかったのです。

なぜこのような迫害に値うかといえば、念仏無間・真言亡国・禅天魔と諸宗を攻めたからであるとのべます。他宗を批判するからその反動が起きるのも道理であるとのべます。結果は禅僧・念仏僧・真言師などがこぞって奉行に訴えたとあります。

さらに、幕府の中枢にいる権力者や、それらの夫人、時頼の後家尼、重時の後家尼に働きかけて日蓮聖人を排斥活動をしたのです。終いには、この後家尼たちが幕府や日本を滅亡させようとする法師であり、時頼と重時を無間地獄に堕ちたと暴言を吐くような法師であるから、取り調べるほどもなく即座に斬首し弟子たちも斬首や流罪・入牢させよと怒ったので、幕府はそのように日蓮聖人を捕縛したのだと、竜口法難の経緯をのべています。

本書は竜口・佐渡・平頼綱への諫暁と身延入山を淡々とのべています。自身の法華経の行者としての行いは四恩に報いるためでした。つまり、「報恩」という信念が行者意識の一つにあったのです。不惜身命という覚悟があったことを、

「これはひとへに父母の恩・師匠の恩・三宝の恩・国恩をほう(報)ぜんがために、身をやぶり、命をすつれども、破れざればさてこそ候へ。又賢人の習、三度国をいさむるに用ずば、山林にまじわれということは、定るれい(例)なり。此功徳は定て上三宝、下梵天・帝釈・日月までもしろしめしぬらん。父母も故道善房の聖霊も扶り給らん」(一二三八頁)

 

とのべ、命は法華経に奉って弘教してきたが、殺害されることもなく、流罪も赦免されたため身延へ入山されたとのべます。仏使の責務として平頼綱に三諫をした日蓮聖人の行ないは、諸天善神が知るところであろうとのべます。そして、日蓮聖人の度重なる法難により、法華経を宣布できた功徳という面から見るならば、

 

「此功徳は定て上三宝、下梵天・帝釈・日月までもしろしめしぬらん。父母も故道善房の聖霊も扶かり給らん」(一二三九頁)

 

と、功徳の行き先が父母と師匠の道善房に向けられていることをのべています。『報恩抄』は道善房を悼むための著述であり、日蓮聖人における師恩をここに見ることができます。

 

〇〔道善房の堕獄の疑念〕

 しかし、「道善房の聖霊も扶かり給」らんと、日蓮聖人の心情としては師匠の成仏を願うにしても、仏説を忠実に開き見るならば、果たして、道善恩師の後生の成仏は可能なのかという疑念を提示するのです。

 

「但疑念ことあり。目連尊者は扶とをもいしかども母の青提女は餓鬼道に堕ぬ。大覚世尊の御子なれども善星比丘は阿鼻地獄へ堕ぬ。これは力のまやすく(救)はんとをぼせども自業自得果のへん(辺)はすくひがたし。故道善房はいたう弟子なれば、日蓮をばにくしとはをぼせざりけるらめども、きわめて臆病なりし上、清澄をはなれじと執せし人なり。地頭景信がをそろしといゐ、提婆・瞿伽利にことならぬ円智・実城が上と下とに居てをどせしを、あながち(強)にをそれて、いとをしとをもうとし(年)ごろの弟子等をだにも、すてられし人なれば後生はいかんがと疑う」(一二三九頁)

 

と、道善房の後生の堕獄について心配されているのです。その理由として目連尊者は母の青提女を助けようとしたが、餓鬼道から救済できなかったこと。釈尊の子供であっても善星比丘は堕獄したことを挙げます。釈尊の子供は三人いるという説もあります。『法華玄賛』などには善星比丘・優婆摩耶・羅睺羅とあり、通常の羅睺羅一子説と異なっています。(『日蓮聖人御遺文講義』第五巻二一八頁)つまり、あまりにも本人の罪業が深重な自業自得の罪科ならば、力の限り救おうとしても救済できないこともあるとのべたのです。

ここで、道善房の性格と清澄寺における人間関係にふれています。道善房は臆病で清澄寺に執着していたこと、地頭の東条景信や円智房・実城房の脅しに怖れていたとあります。この文章から道善房の性格と、清澄寺をとりまく人間関係が窺え、日蓮聖人との交流に難儀していたことが分かります。日蓮聖人の純真な出家者の立場としては許せなく、後生の成仏にも苦慮されていたのでした。このような環境のなかにも地頭の景信や、道善房の実兄や兄弟子といわれる円智房・実城房が死去します。日蓮聖人は法華経を誹謗する罪により、十羅刹女の責めにより死去したとのべます。このことが道善房をして幾分、改心させた面もあるが、諍いが終わってからの乳切木(長さを自分の胸の乳のあたりで切った棒)は役に立たないのであり、昼間に明かりを灯すようなもので、そのような平穏な状況による法華経の信心は弱いとします。その証拠に佐渡流罪中に一度も見舞いをしないのは、弟子としての日蓮聖人に愛情がないといえるし、根本的に信心がないからであると苦悶されています。

 しかし、道善房が死去と聞いて、火にも入り水にも沈み立ち走ってでも、直ぐに行きたかったとのべます。しかし、遁世と思われている身なので、理由もなく身延を下りることはできないと事情をのべています。道善房を慕う日蓮聖人の師弟愛が窺えます。

 

「それにつけてもあさましければ、彼人の御死去ときくには、火にも入、水にも沈み、はしり(走)たちてもゆひて、御はか(墓)をもたゝいて経をも一巻読誦せんとこそをもへども、賢人のならひ、心には遁世とはをもはねども、人は遁世とこそをもうらんに、ゆへもなくはしり出るならば、末へもとをらずと人をもうべし。さればいかにをもうとも、まいるべきにあらず。但各々二人は日蓮が幼少の師匠にてをはします。勤操僧正・行表僧正の伝教大師の御師たりしが、かへりて御弟子とならせ給しがごとし。日蓮が景信にあだまれて清澄山を出しに、をひ(追)てしのび出られたりしは、天下第一の法華経の奉公なり。後生は疑おぼすべからず」(一二四〇頁)

 

そして、浄顕房・義浄房の二人は、清澄寺に入った幼少のときの師匠であると尊びます。立教開宗の折には景信の迫害から護り、ともに清澄寺を出て花房に匿ってくれたことは、天下第一の法華経の奉公であると讃えます。兄弟弟子の強い絆を確認されます。道善房の後生の不安とは違って、二人の後生は疑いのないことであると伝えます。出家者として仏道を説かれているのです。

 

〇第四段〔法華経の肝心は題目〕

これより問答形式をとって法華経の肝心、南無妙法蓮華経についてのべます。「三大秘法」を顕すための問答が始められます。まず、法華経の肝心は妙法蓮華経の五字であり、一切経の肝心であり、一切の諸仏・菩薩・二条・天人・修羅・龍神の「頂上の正法」(一二四一頁)であるとのべます。いわゆる本門の題目にふれます。

そして、何も知らない愚者が唱える法華経と権経の功徳力を比較して、法華経が全ての面において勝れているとのべます。それを喩えたのが、「法華経は露・涓・井・江・小河・大河・天雨等の、一切の水を一もらさぬ大海」(一二四一頁)、という法華経の包容力の大きさです。また、体に熱がある者が冷たい水がたくさんある所で寝ると涼しいけれど、少しばかりの水では効果がなく苦しいようなものと譬えます。この熱悩とは五逆・謗法の罪のことです。ですから、

 

「五逆謗法の大一闡提人、阿含・華厳・観経・大日経等の小水の辺にては大罪の大熱さん(散)じがたし。法華経の大雪山の上に臥ぬれば五逆・誹謗・一闡提等の大熱忽に散ずべし。されば愚者は必法華経を信ずべし。各各経々の題目は易き事同じといへども、愚者と智者との唱 功徳は天地雲泥なり。譬へば大綱は大力も切がたし。小力なれども小刀をもてたやすくこれをきる。譬へば堅石をば鈍刀をもてば大力も破がたし。利剣をもてば小力も破ぬべし。譬へば薬はしらねども服すれば病やみぬ。食は服ども病やまず。譬へば仙薬は命をのべ、凡薬は病をいやせども、命をのべず」(一二四一頁)

 

とのべているように、南無妙法蓮華経と唱えることが、熱悩を救助する唯一の方法なのです。ここが諸経の題目よりも功徳が深く勝れているところなのです。五逆・誹謗正法の罪人の堕獄を救い成仏させることができるのは、南無妙法蓮華経と唱題することなのです。前述した『曽谷入道殿許御書』の「夫以療治重病構索良薬 救助逆謗不如要法」八九五頁、「大覚世尊以仏眼鑑知於末法 為令対治此逆謗二罪 留置於一大秘法」九〇〇頁)「法華経之中 捨広取略 捨略取要。所謂妙法蓮華経之五字名体宗用教五重玄也」(九〇二頁)とのべたところです。

次に、法華経の二十八品の中における肝心は何かを論じます。ここに肝心についての諸釈を六義挙げます。「品々皆事に随て肝心なり」「方便品・寿量品肝心なり」「方便品肝心なり」「寿量品肝心なり」、「開・示・悟・入肝心なり」「実相肝心なり」。そして、南無妙法蓮華経が肝心であると再度のべます。その証拠は阿難・文殊が仏滅後に結集した大衆に妙法蓮華経と書かせ、それにたいして「如是我聞」と唱えたことが、妙法蓮華経の五字が一部八巻二十八品の肝心である証拠とします。

また、光宅寺の法雲は「如是者将伝所聞 前題挙一部也」とのべ、霊山にて目の当たりに釈尊より法門を聞いたという天台は、「如是者所聞法体也」と説き、これを章安は「蓋序王者叙経玄意 玄意述於 文心」と解説されたことを引きます。そして、章安の解釈にある「文心」とは、題目であり法華経の心であるとします。妙楽は「収一代教法出法華文心」と解釈したのも、妙法蓮華経の五字が、一部八巻二十八品の肝心である証文として引用されたのです。たとえて、日本という地名の中に国内の全ての物を納めるように、妙法五字に一切を具有するとのべます。

このように、経題の妙法蓮華経の五字が肝心であり、題目の五字こそが肝心であると強調されているのです。それは法華経のなかに声聞と縁覚の二乗が仏になるという法門と、釈尊は始成正覚の仏ではなく、久遠の本仏であることが説かれているからです。ですから、この二乗作仏と久遠実成を説かない諸経は、例えば華は咲いても菓が成らず、雷は鳴動しても雨が降らず、鼓はあっても音が鳴らず、眼はあっても物が見えず。女人が子供を産まないように、人間に命や神(魂)がないようであるとのべています。

題目と同じような大日の真言、薬師の真言、阿弥陀の真言、観音の真言も内実がないとのべます。それらの経の中においては、大王・須弥山・日月・良薬・如意珠・利剣のように説かれているが、法華経の題目にたいすれば勝劣は雲泥であり、それぞれの経の力用も消失するとのべます。このことを例えて、多くの星の光が一つの太陽の光明に奪われ、全ての鉄が一つの磁石に力が尽きたように引き寄せられ、大きな剣も小火に焼かれれば使い物にならず、牛乳や驢乳などが師子王の乳に対すれば水のようになり、多くの狐が術を駆使しても一匹の犬に会えば力を失い、狗犬が小虎に値て顔色を変えて怖れるようであると、法華経の題目の威力をのべています。

 

「南無妙法蓮華経と申せば、南無阿弥陀仏の用も南無大日真言の用も、観世音菩薩の用も一切の諸仏諸経諸菩薩の用、皆悉妙法蓮華経の用に失はる。彼経々は妙法蓮華経の用を借ずば皆いたづらのもの(徒物)なるべし。当時眼前のことはりなり。日蓮が南無妙法蓮華経と弘れば南無阿弥陀仏の用は月のかくるがごとく、塩のひる(干)がごとく、秋冬の草のかるゝがごとく、氷の日天にとくるがごとくなりゆくをみよ」(一二四四頁)

 

と、南無妙法蓮華経と唱えることにより、弥陀や大日如来、観世音菩薩などのすべての諸経の諸仏菩薩の力は消されてしまい、日蓮聖人が南無妙法蓮華経の題目を広めることにより、弥陀の力は月が隠れ潮が引き、秋になり草が枯れ氷が太陽に照らされて溶けるように衰退するとのべます。『観心本尊抄』(七一六頁)に寿量品の肝心である妙法五字を、閻浮提の一切の衆生に授与するとのべた題目は、『曽谷入道殿許御書』八九五頁に説いたように五逆・誹謗正法の謗機を救助するためでした。諸経の題目の功徳は法華経の題目に含まれるとし、題目の功徳は諸経に超えて勝れていることをのべています。

 

〇〔先師が法華経を弘めなかった理由〕

では、南無妙法蓮華経がそれほど勝れているならば、なぜ、過去の先師が広めなかったのかという問いを起こします。これについては、古来から論じられてきたことで今更のことではないとして、釈尊滅後の付法蔵の四依の人師の出現の意義をもって、その答えとしています。本書は既に付法蔵(一一九九頁)にふれてのべていましたが、ここでは実大乗の法華経を弘めなかったことにふれます。すなわち、正像時代に生まれて仏教を興隆した、馬鳴・竜樹・提婆菩薩・獅子尊者・天台・妙楽・伝教と時代の順に挙げ、それぞれは教えを説いたが、「如来現在猶多怨嫉況滅度後」の経文のように、時が至らなかったため法華経を説かなかったとのべます。しかし、仏教の教えは次第に深くなったのです。

 

「されば内証は同けれども、法の流布は迦葉・阿難よりも馬鳴・龍樹等はすぐれ、馬鳴等よりも天台はすぐれ、天台よりも伝教は超させ給たり。世末になれば、人の智はあさく仏教はふかくなる事なり。例せば軽病は凡薬、重病には仙薬、弱人には強きかたうど(方人)有て扶るこれなり」(一二四七頁)

 

 付法蔵の仏使たちは大乗を説こうとしたが、小乗に執着する者達から迫害されます。邪智謗法の者が充満するときは正法を弘めることは困難なのです。難信難解・難解難入という状況は、経文に説かれた未来記であったのです。

 

〇〔「三大秘法」を明かす〕

天台・伝教と時代が推移するに従い仏教の教理は深くなったが、これらの先師がいまだに弘通しなかった正法があるのか、これが次の問答となり、ここで日蓮聖人は、法華経の本門に開顕された本尊と題目に加え、本門戒壇の三大秘法を開出されるのです。本尊と題目の二大秘法については、『観心本尊抄』にのべていました。

 

「像法中末観音薬王示現南岳天台等出現以迹門為面以本門為裏百界千如一念三千尽其義。但論理具事行南無妙法蓮華経五字 並本門本尊未広行之。所詮有円機無円時故也。今末法初 以小打大 以権破実 東西共失之天地顛倒。迹化四依隠不現前。諸天弃其国不守護之。此時地涌菩薩始出現世但以妙法蓮華経五字令服幼稚。因謗堕悪必因得益是也。我弟子惟之。地涌千界教主釈尊初発心弟子也。寂滅道場不来 双林最後不訪 不孝失有之 迹門十四品不来。本門六品立座 但八品之間来還。如是高貴大菩薩約足三仏受持之。末法初可不出歟。当知此四菩薩現折伏時成賢王誡責愚王 行摂受時成僧弘持正法。問曰 仏記文云何。答曰 後五百歳於閻浮提広宣流布。天台大師記云 後五百歳遠沾妙道。妙楽記云 末法之初冥利不無。伝教大師云 正像稍 過已末法太有近等[云云]。末法太有近釈我時非正時云意也。伝教大師日本記末法始云 語代像終末初。尋地唐東羯西。原人則五濁之生闘諍之時。経云 猶多怨嫉況滅度後。此言良有以也。此釈闘諍之時[云云]。今指自界叛逆・西海侵逼二難也。此時地涌千界出現本門釈尊為脇士 一閻浮提第一本尊可立此国」(七一九頁)

 

「事行南無妙法蓮華経五字」とは題目のことです。あえて事行という条件を付加したのは、唱題と弘教という実践を行うことが、日蓮聖人の法華信仰のあり方だからです。本尊は地涌の菩薩を脇士とした本門の釈尊です。日蓮聖人は「一閻浮提第一本尊」と称します。すなわち、本尊は本門寿量品の久遠実成の教主釈尊です。本書に、

 

「問云、天台伝教の弘通し給ざる正法ありや。答云、有。求云、何物乎。答云、三あり。末法のために仏留置給。迦葉・阿難等、馬鳴・龍樹等、天台・伝教等の弘通せさせ給はざる正法なり。求云、其形貌如何。答云、一は日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦多宝、外の諸仏、並に上行等の四菩薩脇士となるべし。二には本門の戒壇。三には日本乃至漢土月氏一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず、一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱べし。此事いまだひろまらず。一閻浮提の内に仏滅後二千二百二十五年が間、一人も唱えず。日蓮一人南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経等と声もをしまず唱るなり」(一二四八頁)

 ここに、「三大秘法」は釈尊の滅後より始めて弘通されたとのべます。この「三大秘法」は釈尊が末法の衆生を救済するために説き置かれた要法とみます。本尊となる本門の教主釈尊は、本門八品の化儀をもって示されます。つまり、宝塔品の二仏並座の儀式です。重要なのは、本化地涌の菩薩が釈尊の脇士となっていることです。釈迦・多寶仏の二仏並座の曼荼羅は、不空三蔵の『観智儀軌』や、鑑眞和尚は戒壇に多宝塔を安置し、釈迦・多寶の二仏を造立しています。未曾有とするのは地涌菩薩を脇士としたところなのです。(『校補録内扶老』二六七頁)

次に戒壇が説かれます。詳しい説明はありませんが『法華取要抄』に、

 

「龍樹・天親・天台・伝教所残秘法何物乎。答曰 本門本尊与戒壇与題目五字也」(八一五頁)

 

と、本尊・戒壇・題目の順に「三大秘法」をのべていました。戒壇の説明をされないのは、戒壇は勅命を拝して建立されることであるという説があります。(『日蓮聖人遺文全集講義』第一八巻二五〇頁)。そして、題目をのべます。これは唱題を勧める事行の題目といえます。換言しますと、題目を弘めることを私たちの使命とされたのです。日蓮聖人はこれまでのべて、南無妙法蓮華経は必ず流布することを予言しているのです。それを、日蓮聖人の慈悲心であるとのべます。

 

「一閻浮提の内に仏滅後二千二百二十五年が間、一人も唱えず。日蓮一人南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経等と声もをしまず唱るなり。例せば風に随て波の大小あり。薪によて火の高下あり。池に随て蓮の大小あり。雨の大小は龍による。根ふかければ枝しげし。源遠れば流ながしというこれなり。周の代七百年文王の礼孝による。秦世ほどもなし、始皇の左道なり」(一二四八頁)

 

 釈尊の滅後より今日にいたるまでに、南無妙法蓮華経と唱えることを、正行として説いた人はいませんでした。立教開宗いらいの日蓮聖人の弘通は、身軽法重死身弘法の法華経の行者を貫いたものでした。その根源には日本国の一切衆生の逆謗の罪を滅し、堕獄から救済する信条があります。その発露は慈悲心であるとのべます。

 

「日蓮が慈悲曠大ならば、南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ。此功徳は伝教天台にも超へ、龍樹・迦葉にもすぐれたり。極楽百年の修行は穢土の一日の功に及ばず。正像二千年の弘通は末法一時に劣るか。是はひとへに日蓮が智のかしこきにはあらず。時のしからしむる耳。春は花さき、秋は菓なる、夏はあたゝかに、冬はつめたし。時のしからしむるに有ずや」(一二四八頁)

 

法華経の行者となれたことは、天台・伝教の学恩にあり、末法という時に忍難弘教したことが、地涌の菩薩にしか成し遂げられないことです。法華経の真実を証明すべき使命があったのです。

 

「我滅度後 後五百歳中 広宣流布 於閻浮提 無令 断絶 悪魔魔民 諸天龍夜叉鳩槃荼等 得其便也等[云云]。此経文若むなしくなるならば、舎利弗は華光如来とならじ。迦葉尊者は光明如来とならじ。目犍は多摩羅跋栴檀香仏とならじ。阿難は山海慧自在通王仏とならじ。摩訶波闍波提比丘尼は一切衆生喜見仏とならじ。耶輸陀羅は具足千万光相仏とならじ。三千塵点も戯論、五百塵点も妄語となりて、恐は教主釈尊は無間地獄に堕ち、多宝仏は阿鼻の炎にむせび、十方の諸仏は八大地獄を栖とし、一切の菩薩は一百三十六の苦をうくべし。いかでかその義あるべき。其義なくば日本国は一同の南無妙法蓮華経なり。されば花は根にかへり、真味は土にとどまる。此功徳は故道善房の聖霊の御身にあつまるべし」(一二四八頁)

 

 釈尊の遺誡をまもり、法華経の行者として歩んできたことこそが、報恩の体現者といえます。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇一〇〇三頁)。ここに慈悲広大と言われた、忍難慈勝の行者像を見ることができます。

その具体的な表れが「三大秘法」です。法華経を受持する穢土一日の功徳が多きのは末法という時によるからです。薬王品の「後五百歳中 広宣流布」の文は日蓮聖人の門下の使命であり、悪魔魔民などの「三障四魔」があっても、必ず諸天善神の守護があるという確信をのべたのです。そして、日蓮聖人のこの功徳は、道善房への報恩にて締めくくられています。本書の冒頭に、「父母・師匠・国恩を忘るべしや」と、師恩をのべ弟子の功徳は師匠に帰すという、師弟の恩を知ることができます。

建治二年七月二十一日に、甲州波木井の郷蓑歩嶽より、安房国東條郡清澄山の浄顕房と義城房のもとに、本書を認めて送られます。

 

□『報恩抄送文』(二二四)

七月二一日に書き終えた『報恩抄』を、二六日付けで清澄御房(浄顕房)のもとに送られたもので、日向上人が使者となったといいます。(『日蓮聖人全集』第三巻四二六頁)。副使として日実上人の二人が、清澄寺に詣ったともいいます。(『本化別頭仏祖統紀』『高祖年譜攷異』)。真蹟は残っておらず、平賀本・本満寺本が伝えられています。『与浄顕房書』ともいいます。

 冒頭に浄顕房から手紙が届いたことを知らせ、すぐに弘教の心構えをのべます。それは、親しい間であっても疎遠な者であっても、法華経の教えを説くときは信心がない人には、説いてはならないと注意しています。これは浄顕房の立場を考えてのことでしょう。曼荼羅を浄顕房から依頼されていたようで、図顕して浄顕房の与えられています。法華経を広める者への敵対は正法より像法には深まり、そして、末法には怨敵が強まることを承知すれば、日蓮聖人以外に法華経の行者はいないことは、皆わかっていることとのべます。

道善房が死去したことは既に聞いていたことをのべ、自分は遁世と思われている身なので離山下向しないことと、弟子の日向を遣わす旨をのべます。この頃、宗論があるという噂があり、そのため弟子を方々に使わして、経論章疏を集めていたところでした。駿河方面に使わしていた日向が身延に戻ってきたので、房総方面に縁があり、清澄寺には何度も往復していた日向を、清澄寺に送ったのです。『報恩抄』を書き終えた日付けより遅れたのはこのためです。

 また、『報恩抄』には「三大秘法」という、大事な法門を書いているとのべます。宗論の噂がある真言宗・天台宗の諸師の邪義をのべているので、その内容を信用のない者には聞かせないようにと留意させています。清澄寺は天台密教の寺で慈覚が中興した寺であり、山内にも反勢力がいたので殊更に浄顕房の立場を考えられていたのです。

日向上人を読み手として、嵩かもり(旭が森)にて三度、道善房の墓前にて一度読ませてから、本書は日向上人に預けておくようにと指示されます。そして、本書をたびたび聴聞していくうちに、理解が深まり気づくことがあるであろうとのべています。

○御本尊(『御本尊鑑』第一六)七月

 紙幅は縦九〇.八センチ、横四九.三センチ、三枚継ぎの御本尊が記録されています。建治二年卯月に染筆された御本尊(三四~三七)と同じく、四天王を梵名で書かれています。この御本尊も同じように自署と花押は同年二月から一体となっています。『亨師目録』には第一長持の内の三函八幅の一幅とあります。