274. 『西山殿御返事』〜『四条金吾殿御返事』  高橋俊隆

□『西山殿御返事』(二二五)

 西山氏から金銭の供養にたいしての礼状です。真蹟はありません。『他受用御書』『高祖遺文録』などに収録されています。西山殿は大内氏のことで西山郷の地頭をしていました。

「夫雪至て白ければ、そむる(染)にそめられず。漆至てくろ(黒)ければ、しろ(白)くなる事なし。此よりうつりやすきは人の心也。善悪ににそめられ候。真言・禅・念仏宗等の邪悪の者にそめられぬれば必地獄にをつ。法華経にそめられ奉れば必仏になる。経云諸法実相[云云]。又云若人不信乃至入阿鼻獄[云云]。いかにも御信心をば雪漆のごとくに御もち有べく候」(一二五一頁)

人の心は移りやすいものであるから、真言や禅、念仏に影響をうけて悪く染められないようにと留意されています。法華経に染められた信心は必ず仏になるとのべ、雪と黒漆の例えで、信心を強固にして成仏することを教えています。雪の喩えをされたことから、本書は冬に書かれたともいいます。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇八五一頁)

□『曽谷殿御返事』(二二六)

○「境智二法」

 八月三日付けで教信に宛てた書状です。真蹟は伝わっておらず、写本に『延山本』があります。別称に『成仏用心鈔』と呼ばれています。法華経の教えは境智の二法が一如であることをのべ、ここに即身成仏を説いています。つまり、「境智二法」が合わさったことが即身成仏であるとされ、この「境智二法」とは南無妙法蓮華経の五字であるとのべます。すなわち、

「夫法華経第一方便品云諸仏智慧甚深無量云云。釈云境淵無辺故云甚深智水難測故云無量。抑此経釈の心は仏になる道は豈境智の二法にあらずや。されば境と云は万法の体を云、智と云は自体顕照の姿を云也。而るに境の淵ほとりなくふかき時は、智慧の水ながるゝ事つゝがなし。此境智合しぬれば即身成仏する也。法華以前の経は、境智各別にして、而も権教方便なるが故に成仏せず。今法華経にして境智一如なる間、開示悟入の四仏知見をさとりて成仏する也。此内証に声聞辟支仏更に及ばざるところを、次下に一切声聞辟支仏所不能知と説かるゝ也。此境智の二法は何物ぞ。但南無妙法蓮華経の五字也。此五字を地涌の大士を召出して結要付属せしめ給。是を本化付属の法門とは云也」(一二五三頁)

 

冒頭に方便品の「諸仏智慧甚深無量」(『開結』八六頁)の文を挙げます。舎利弗などの二乗の智慧は諸仏に比べて劣るものであり、釈尊はその諸仏の広大な智慧に導くべく法華経を説かれます。仏の智慧には権実の二智があります。実智は随自意の法華経で、権智は随他意の爾前経になります。権智は方便の教えをもって九界の衆生を仏に成すことを目的とします。この権智の二智は甚深無量ということです。この実智とは方便品には十如実相を説いています。

天台は十如是を空仮中の三諦に配して三転読文し、百界千如三千世間を所照の境とします。能照の智は仏智となります。諸法の実相を究める智慧は、仏と仏のみが究尽すると説かれ(「唯仏與仏乃能究尽」)、これを天台は『法華玄義』に三法妙のなかの仏法妙とします。また、『四条金吾殿御返事』には「諸仏智慧甚深無量」について、

 

「経云諸仏智慧甚深無量云云。此経文に諸仏者十方三世一切諸仏、真言宗の大日如来、浄土宗の阿弥陀、乃至諸宗諸経の仏菩薩、過去未来現在の総諸仏、現在の釈迦如来等を諸仏と説き挙て、次に智慧といへり。此智慧とはなにものぞ、諸法実相十如果成の法体也。其法体とは又なにものぞ、南無妙法蓮華経是なり。釈云実相深理本有妙法蓮華経といへり。其諸法実相と云も釈迦多宝の二仏とならう(習)なり。諸法をば多宝に約し、実相をば釈迦に約す。是又境智二法也。多宝は境なり、釈迦は智なり。境智而二にしてしかも境智不二の内証なり。此等はゆゝしき大事の法門也。煩悩即菩提生死即涅槃と云もこれなり」(六三五頁)

 

と、「諸法実相」の諸法を多宝、実相を釈迦に約し、また、多宝を境、釈尊を智に配して境智二法をのべます。この境智二法は境智而二であり境智不二の内証として成仏をのべています。

本書には諸仏の智慧が甚深・無量なのは『法華玄義』の「境淵無辺故云甚深智水難測故云無量」(境という客観的な淵が無辺に広いので甚深といい、智慧の水は深く測ることが難しいから無量という)の文を引き、仏になる道は境智の二つにあるとします。境は万法の実体のことで客観視した世界です。智は境である万法を認識する主観的な智慧(心作用)をいいます。この境である万法の本体を照らし出し、真理を顕すことを自体顕照といいます。つまり、妙法蓮華経の境に自身の智が一つになることが大事なのです。この境智の二法が合同するとき即身成仏するとのべ、成仏の直道は境智の二法にあると解釈されます。

法華以前の権教においては機根に応じて法を説いたので、境智が各別であり成仏はなかったとします。法華経は随自意に法を説いたので、境智が一如であるから、開示悟入の四仏知見を悟ることができるとします。つまり、南無妙法蓮華経の五字は、境智不二であることをのべたのです。この四仏知見は衆生にも仏と同じ仏知見が具わって(薀在)おり、釈尊の出世の目的である、一切衆生を平等に仏道に導くことを説いています。

○「本化付属の法門

そして、教信に「境智二法」の南無妙法蓮華経の弘通は、経文に説かれていることを教えています。釈尊はこの仏種である妙法蓮華経の五字を、地涌の菩薩に結要付属したので、これを「本化付属の法門」とのべています。末法付属においても「総別の二義」(一二五四頁)があるとのべ、ここでは大通仏に下種された、今の声聞が釈尊によって成仏を得たことをのべます。釈尊は私たちにとって主師親の三徳を具えた仏であり、釈尊との関係において、種・熟・脱の三益が成立します。つまり、弥陀などの仏とは無縁であることをのべます。総別とは総付属と別付属の違いで、総付属は属累品において、本化迹化に弘法を付属したことをいいます。先の地涌の結要付属が別付属になります。これは神力品に説かれており塔中別付属ともいいます。この別付属は日蓮聖人の教学において、「本化上行付属」として重要なところです。

教信に成仏を説くなかで、とくに師弟関係について教示をされています。大通仏の師弟関係において、弥陀や薬師に従って成仏するのではないと説くのも、師弟の絆を示すためですが、ここには教信との師弟関係も別付属の絆であることを、再確認させるためにのべていると思われます。模範となる師とは、

「末世の僧等は仏法の道理をばしらずして、我慢に著して、師をいやしみ、檀那をへつらふなり。但正直にして少欲知足たらん僧こそ、真実の僧なるべけれ。文句一云既未発真慙(はじ)第一義天愧(はず)諸聖人。即是有羞(うしゅう)僧。観慧若発即真実僧[云云]。涅槃経云若善比丘見壊法者置不呵責駆遣挙処当知是人仏法中怨。若能駆遣呵責挙処是我弟子真声聞也[云云]。此文の中に見壊法者の見と、置不呵責の置とを、能々心腑に可染也。法華経の敵を見ながら置てせめずんば師檀ともに無間地獄は疑いなかるべし。南岳大師云与諸悪人倶堕地獄云云。謗法を責ずして成仏を願はば、火の中に水を求め、水の中に火を尋るが如なるべし。はかなしはかなし。何に法華経を信じ給とも、謗法あらば必地獄にをつべし。うるし(漆)千ばいに蟹の足一つ入たらんが如し。毒気深入失本心故は是也(一二五四頁)

 

と、正直に釈尊の教を学び世間の欲望を捨てて、一筋に仏道に精進する者こそ真実の僧であるとされます。『法華文句』の文は、真理を悟らない者でも第一義である最勝真実の妙理と、それを得た聖人にたいし、慙愧(ざんき)の心を抱く者は有羞の僧とします。有羞とは羞恥の心を持ち、仏道に精進する者をいいます。反省の無いものを無慙の者といいます。観慧(一念三千の観心に基づく智慧)を発すれば真実の僧であるとされます。この『法華文句』の第一義戒の文を引用されるのは、末法の衆生の修行は初心・初品の行であり、それは題目受持の一行にあることを説くためといいます。(『日蓮聖人遺文辞典』教学篇八〇七頁)。『涅槃経』の「仏法中怨」の文は諸処に引用されている有名な文です。『守護国家論』にはこの文を引き、

「予為入仏弟子一分造此書顕謗法失流布世間。願十方仏陀於此書副力令止大悪法流布救一切衆生之謗法」

(一一九頁) 

とのべているように、仏弟子としての自覚から、一切衆生が謗法の罪科を作らないため、悪法が流布するのを止めるために、『守護国家論』を著述されたのです。「見壊法者置不呵責駆遣挙処」とは、破法する者を見たならば責め追い払い処断せよという文意です。日蓮聖人は「見壊法者置」の文を重視して、法華経の敵、謗法の者を見ながら、そのままにして置て破折しなければ師檀ともに無間地獄の堕獄するとのべました。はっきりと謗法の者を破折しなければ成仏はできないとされ、法華経を信じても謗法があれば、堕獄すると訓示されたのです。教信との師弟関係・師檀関係は、地涌の菩薩の使命をもって、謗法の者を改心させるべく弘教することを要請しているのです。

経云在在諸仏土常与師倶生。又云若親近法師速得菩薩道随順是師学得見恒沙仏。釈云本従此仏初発道心亦従此仏住不退地。又云初従此仏菩薩結縁還於此仏菩薩成就云云。返々(かえすがえす)も本従たがへ(違)ずして成仏せしめ給べし。釈尊は一切衆生の本従の師にて、而も主親の徳を備へ給。此法門を日蓮申故に、忠言耳に逆道理なるが故に、流罪せられ命にも及しなり。然どもいまだこりず候。法華経は種の如、仏はうへての如、衆生は田の如なり。若此等の義をたがへさせ給はば日蓮も後生は助け申すまじく候」(一二五五頁)

と、厳しい師弟関係と信仰のあり方をのべています。教信は以前、「迹門不読」を主張したことがあり、これについて常忍から日蓮聖人に質問が寄せられていました。これに答えたのが先にのべた『観心本尊得意鈔』(一一一九頁)でした。「迹門不読」は「不相伝の僻見」(一一二〇頁)と語気を強めて、日蓮聖人の教えを曲解しないようにと訓戒されていました。本書の冒頭に迹門の方便品を引き、成仏を論じたのも意味があったといえます。正法に準拠して折伏下種の行動をされた日蓮聖人の原点といえます。

 

□『道妙禅門御書』(二二七)

 八月一〇日付け道妙禅門に宛てた書状で、真蹟はなく弘安三年の著述という説があります。本書は本満寺本の識語に比企谷尊栄坊の正筆を書写したとあります。(『定遺』一二五六頁)。禅門という呼称は本書にしか書かれていません。禅門とは禅定の門に入っている男性のことで、入道とほぼ同じ意味で日蓮聖人は入道の呼び名を多く使われています。この道妙禅門については妙一女の家人、親子関係、あるいは印東祐信の家人といわれていますが、確実なことは不明で夫婦でないことは確実です。妙一女が身延に参詣したおりに、道妙禅門から父親の病気平癒の祈祷を依頼されたその返事と伝えています。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇八〇三頁)。祈願を依頼される親しい間柄であったと思われます。

 

顕祈冥祈と顕応冥応

日蓮聖人は仏前にて病気平癒の祈念をするとして、祈祷について次のようにのべています。

於祈祷者雖有顕祈顕応・顕祈冥応・冥祈冥応・冥祈顕応祈祷只肝要者、此経信心を致し給候はば現当所願可有満足候。法華第三云雖有魔及魔民皆護仏法。第七云病即消滅不老不死金言不可疑之」(一二五六頁)

祈祷には顕祈と冥祈があり、その利益効験にも顕応と冥応の二つがあるとして、顕祈顕応・顕祈冥応・冥祈冥応・冥祈顕応の四っがあるとのべます。顕祈顕応・顕祈冥応は、祈祷による効験に明らかに効験が体得できるものとできないものがあるとし、顕応を感じられなくても法身に冥応して効験があるとします。冥祈冥応・冥祈顕応は過去の善根によって、効験が明らかに応じてくるものと、冥応を覚知することを述べます。(『日蓮聖人遺文辞典』教学篇一一八七頁)

『法華玄義』には顕機顕応と祈が機となっており、日蓮聖人は機根の機を祈祷の祈にされています。これは信心を強調されたためといいます。(『日蓮聖人遺文辞典』教学篇二六五頁)つまり、祈祷の肝要は法華経を信じることであり、強い信心により必ず祈祷が成就するとのべたのです。妙一女に巻物一巻を差し上げたので披見するようにのべています。

 

○御本尊(『御本尊鑑』第一七)八月一二日

 「大覚允重佐」に授与され、幅は縦一〇〇.八a、横四五.三a、絹本の御本尊が身延に所蔵されていました。紙本一紙の御本尊(三八「三光瓔珞御本尊」)も同様に瓔珞が描かれていますが、この御本尊は四大天王や勧請の諸尊が多く書かれています。『亨師目録』には第一長持の内の四函にある八幅のうちの一幅とあります。

 

○御本尊(第三八〜四〇。千葉氏)八月

幕府は筑前の海岸に石累を築かせ蒙古襲来に備えており、昨年八に千葉氏第十世の千葉頼胤の死後を引き継いだ、長男の宗胤九州警護に就いています二男の胤宗が下総の本家を継ぐことになり第一一世となります。そのために八月一三日に二男の胤宗(亀若)、長男宗胤(亀弥)に、また、同一四日に亀姫(胤宗の姉といわれている)に護り曼荼羅を授与しています。同じ形式の曼荼羅御本尊三幅が染筆されています。

一三日に染筆された第三八の御本尊は亀若に授与され、「病即消滅不老不死」の祈願がされた讃文があり、「三光瓔珞本尊」として京都の本満寺に伝来しています。紙幅は縦四九.一a、横三〇.九a、一紙の御本尊です。もう一幅の第三九の御本尊は、亀弥のために揮毫され『日蓮聖人真蹟集成』などの資料から大阪市の某家に伝わっています。

両御本尊ともに釈迦・多寶と四菩薩の間に十方分身諸仏と、現在十方仏のうち東方無憂国の善徳仏が書かれ、鬼子母神・十羅刹女、天照大神・正八幡宮と、右下に東方を守護する持国天と、北方を守護する毘沙門天の二天が書かれています。両脇に不動・愛染が書かれます。

讃文が右に病即消滅、左に不老不死の文が書かれています。特徴として花押の中に「亀若護也」の名前が包み込まれて書かれています。第三九の御本尊の花押のなかに「亀弥護也」の授与者名が書かれていたのを、のちに削損したと思われます。また、広目天と増長天が後人により加筆されています。第三八・四〇にはありません。(『御本尊集目録』五九頁)

亀若は千葉氏第十代の、下総の守護職を勤めた頼胤の次男である胤宗の幼名といいます。亀弥は九州に出陣した兄の宗胤といいます。亀若は当時まだ十歳にも満たなかったといいます。父の一周忌に家臣が身延に詣でて、三幅の曼荼羅を護り本尊として授与されたものと思われます。

第四一の亀姫の御本尊は、一紙ほどの小型の本尊で京都の立本寺に所蔵されています。横に十二面に細く折って保存されていました。紙幅は縦五〇.九a、横三一.八a、一紙の御本尊です。これらは千葉氏一族に、法華経の振興が浸透していたことが窺える大切な御本尊といえます。九州小城に向かった長男の亀弥(宗胤)の子息が胤貞で、その楢子が中山三世の日祐上人です。

 

○御本尊(『御本尊鑑』第一八)八月二五日

 横紙に書かれた御本尊です。紙幅は縦二四.五a、横三〇.七aの御本尊で、行学院日朝上人の目録には記載されておらず、遠沾院日亨上人の『亨師目録』に記載されています。広目天王と増長天王が梵名です。

 

○御本尊(『御本尊鑑』第一九)九月

 通常の讃文に、「以要言之如来一切所有之法、如来一切自在神力如来一切秘要之蔵、皆於此経宣示顕説」、「妙法華経皆是真実」、「四十余年未顕真実」、「世尊法久後要当説真実」、「諸仏所師所請法也、是故如来恭敬供養以法常故諸仏亦常」の経文が書きいれてあります。紙幅は縦一一八.四a、横九〇.五a、絹本の御本尊です。「華」の字体が通常の書き方と違っているのが特徴です。嘗て身延に所蔵されていました。、

□『四条金吾殿御返事』(二二八)

○師檀不離の絆

 九月六日付けにて、頼基から主君江間氏とのその後の状況が伝えられました。『平賀本』の写本があります。著作年次に文永一一年・建治三年の説があります。本書は頼基が主君に対する忠義の覚悟と、日蓮聖人と頼基とにおける師檀不離の絆をのべています。身延に入山された文永一一年の九月に、頼基は主君光時に良観への信仰をやめ、法華経に帰信することを諌言しました。(『主君耳入此法門免與同罪事』八三三頁)。しかし、かえって光時の不興を招き、併せて同輩から讒言され窮地に追い込まれます。

翌一二年四月に鎌倉の大火が発生し、長谷にある頼基の邸宅も類焼して、精神的な負担が蓄積されます。さらに、妻の日眼女が法華信仰に疑念を抱いたため孤立する事態となります。これに対応したのが、建治二年四月に宛てた『王舎城事』です。ここでは夫婦ともに強い法華信仰を持つようにと訓戒され、外出するときも命を狙われないようにと注意されました。家臣からの誹謗中傷、同輩たちの讒言が続き、終に主君から伊豆にある所領を越後に所領がえという事態を迎えます。本書はこの状況において、主君への奉公と信仰の両立関係について日蓮聖人の指示を仰いだものです。

 まず、正法を弘める者は智者に限るけれど、その智者の生命を援助する信徒が必要であることをのべます。法を説くには支援をしてくれる檀家がいなければ、法を広めることは難しいのです。釈尊の天界の檀那は梵天・帝釈です。人界に生まれたときは、マカダ国の阿闍世王が檀那となるべきですが、その阿闍世王は父王を殺した不孝の悪人であり、しかも三逆罪を作り出仏身血を犯した提婆達多を師匠としていた、つまり、二つの災いを持ったのです。そのため天神・地神が怒りをなし天変地夭が起き、他国から侵略されます。阿闍世王は夢告か耆婆の説得により改心し、釈尊の御前にて怠報(たいほう)します。怠報とは関東地方の俗語で詫び言、謝罪のことといいます。(『日蓮聖人遺文全集講義』第一九巻二八頁)。ここでは怠慢であったことを懺悔したということです。

それにより阿闍世王は病気が平癒し国も民も平和になります。四十年の延命により一千人の阿羅漢を集めて一切経を書写させ、法華経が伝えられたのは阿闍世王の御恩とのべています。これは釈尊が入滅して迦葉が千人の弟子を王舎城耆闍崛山に結集したとき、阿闍世王は日々に二食を供養したことによります。つまり、阿闍世王の外護があって、遺教(ゆいきょう)経が出来たのです。このように阿闍世王が改心して命を延べ、仏教を外護した故事をのべています。

そして、このとき釈尊が阿闍世王に説いたことを代わって言うならば、日本国の人々は日蓮聖人の作り話というであろうが、頼基は弟子檀那であるからとして、末法の法華経の行者を迫害することにより、天変地異が起き他国侵逼があるとし、これが、『守護国界主陀羅尼経』の第十巻、阿闍世王受記品第十の文の意趣であるとのべます。阿闍世王と提婆達多の故事を末法に転用し、日蓮聖人こそがその法華経の行者であることをのべたのです。すなわち、冒頭に述べた正法弘通の智人とは、日蓮聖人のことであるとのべたことを受けているのです。従って頼基は智人を支える檀那であると励まされたのです。

日蓮をたすけんと志す人々少々ありといへども、或は心ざしうすし、或は心ざしはあつけれども身がうご(合期)せず、やうやう(様々)にをはするに、御辺は其一分なり。心ざし人にすぐれてをはする上、わづかの身命をさゝう(支)るも又御故なり。天もさだめてしろしめし、地もしらせ給ぬらん。殿いかなる事にもあはせ給ならば、ひとへに日蓮がいのちを天のたた(断)せ給なるべし」(一二五八頁)

日蓮聖人を助けようと志を起こす者が少々いても、思うように動くことができないでいるが、頼基は勝れて日蓮聖人を助けている者であり、頼基により命を支えることができていると賛辞します。ゆえに、頼基に害をなすことは日蓮聖人の命を絶つと同じであるとのべます。いかに頼基が大切な人であるかをのべたのです。頼基は感激し自身の立場を弁えたことでしょう。

人の寿命は無常であり定業があるので、山・海・空・市のいずれに逃げても、定業からは逃避できないが、「定業亦能転」(一二五九頁)という経文があるように、定まった寿命を延べることができることをのべ、蒙古襲来がるまで身辺を慎むように指示されています。そして、主君に対しての返答について次のようにのべます。 

「主の御返事をば申させ給べし。身に病ありては叶がたき上、世間すでにかうと見え候。それがしが身は時によりて憶病はいかんが候はんずらん。只今の心はいかなる事も出来候はば、入道殿の御前にして命をすてんと存候。若やの事候ならば、越後よりはせ上らんは、はるかなる上、不定なるべし。たとひ所領をめさるゝなりとも、今年はきみをはなれまいらせ候べからず。是より外はいかに仰せ蒙るとも、をそれまいらせ候べからず。是よりも大事なる事は日蓮の御房の御事と、過去に候父母の事なりと、のゝしらせ給へ。すてられまいらせ候とも命はまいらせ候べし。後世は日蓮の御房にまかせまいらせ候と、高声にうちなのり居させ給へ」(一二五九頁) 

江間氏より越後への領地替えについては、たとえ所領を召されても、蒙古のことがあるので主君の側から離れず、主君を護るために命を捨てる覚悟であるとのべるように教えています。幕府は三月に蒙古襲来に備えて博多の海岸に防塁を築き始め、八月にはほぼ整備されていたという状況下でした。もしもの時に遠国越後では主君に急事があっても奉公に間に合わない。所領を召し上げられたとしても、今年は主君の側からは離れないということです。

また、大事なことは父母のことと日蓮聖人のことであると高声に宣言し、自分は主君に捧げた身であるから、主君に捨てられても命は主君に奉じ、後生は日蓮聖人に任せてあると主君に申すようにと、身延より鎌倉の頼基に、細かく指示をされています。蒙古の襲来が現実味を帯びてきている状況に、門下に対する態度が緩和されることを見通しての訓戒といえます。頼基は指導の通り返答しこの件は落着します。翌、建治三年の春に頼基夫妻が身延に登詣し、これらの事件が好転したことの報告をします。