275『.九郎太郎殿御返事』~『松野殿御返事』              高橋俊隆

□『九郎太郎殿御返事』(二二九)

九月一五日付けで時光の一族といわれる九郎太郎から、里芋を供養されたことへの礼状です。本文に「するがのいも」(一二六〇頁)とのべていることから、駿河に住んでいたことがわかります。兵衛七郎の子息は七郎を冠していて九郎の冠称がないので、兵衛七郎の子息と断定はできません。時光の従兄弟とする説もあります。(『日蓮聖人遺文全集』別巻二七三頁)

 四方を大きな山に囲まれ、その身延の沢に草庵を構えていて、供養された里芋のような小さな石さえないことをのべて、九郎太郎が「いかにめずらしからずとはあそばされて候ぞ」と、謙虚に供養された志に感謝されています。この功徳を法華経と釈尊に譲り参らせ、釈尊は悦ばれることをのべて厚志に答えています。そして、霊山浄土に行ったならば、この旨を尋ねたらよいとのべて、重ねて功徳と厚志を謝しています。信者を大切にする一端を窺えます。志があってこその供養に信仰の値があるからです。

○誕生寺開創

上総興津の領主、佐久間重貞の外護により、弟の中老僧の寂日房日家上人と重貞の子の帥法師日保上人によって、この年の一〇月に生誕地に開創されます。日蓮聖人を開山とし二世に日家上人、三世に日保上人に続きます。

佐久間重貞は文永元年一〇月に帰依していました。寺宝に蘇生本尊・曼荼羅・消息数片を所蔵されています。(『日蓮宗寺院大鑑』二四一頁)

一〇月に北条実時が五三歳で没します。実時は小侍所の別当として年少の時宗に、政治と実務など幅広い教育をした人で、金沢文庫の創設者です。年末に池上宗仲の初度の勘当が解かれました。一遍が時宗を開いています。

 

□『事理供養御書』(二三〇)

 真蹟は九紙、富士大石寺に所蔵されています。後紙が失われているため年次・宛先が不明となっています。筆跡から建治二年とされています。『御真蹟目録』(八四四頁)は弘安二年とします。大石寺に保存されていたことから時光とする説があります。(中村錬敬著『日蓮聖人と諸人供養』一四九頁)。この書状を受けとった信徒は、本書の内容から裕福な家の人ではないと考えられています。(茂田井教亨著『本尊抄講讃』上巻八四頁)。書き出しの文から『白米一俵御書』ともいいます。

○事の供養と理の供養

 まず、白米一俵、けいも(毛芋・里芋)一俵、こふのり(昆布と海苔『三澤鈔』一四四三頁)一籠を、わざわざ使いの者に持たせて供養されたことを感謝しています。本書は供養の尊さ、施食の大切な理由をのべています。人の財には衣と食があり、また、命は第一の財で食によって生命を維持することをのべ、この命を仏のために奉ってこそ成仏ができると教えています。信仰の根本的なあり方を説いています。

「いのちはともしび(燈)のごとし。食はあぶら(油)のごとし。あぶらつくればともしびきへぬ。食なければいのちたへぬ。一切のかみ仏をうやまいたてまつる始の句には、南無と申文字ををき候なり。南無と申はいかなる事ぞと申に、南無と申は天竺のことばにて候。漢土・日本には帰命と申。帰命と申は我が命を仏に奉と申事なり。我が身には分に随て妻子・眷属・所領・金銀等もてる人々もあり、又財なき人々もあり。財あるも財なきも、命と申財にすぎて候財は候はず。さればいにしへの聖人賢人と申は、命を仏にまいらせて仏にはなり候なり」(一二六一頁)

 人の宝は我が命であるから、その最も大切な命を仏法のために惜しまないことが、「南無」という意味であり帰命のことであるとのべています。しかし、これらは賢人聖人のできることで、凡夫には利屈で分かっても実行はできないものがあるとします。これを踏まえたうえで、

「たゞし仏になり候事は、凡夫は志ざしと申文字を心へて仏になり候なり。志ざしと申はなに事ぞと、委細にかんがへて候へば、観心の法門なり。観心の法門と申はなに事ぞとたづね候へば、たゞ一きて候衣を法華経にまいらせ候が、身のかわをはぐにて候ぞ。うへ(飢)たるよ(世)に、これはなしては、けう(今日)の命をつぐべき物もなきに、たゞひとつ候ごれう(御料)を仏にまいらせ候が、身命を仏にまいらせ候にて候ぞ。これは薬王のひぢをやき、雪山童子の身を鬼にたびて候にもあいをとらぬ功徳にて候へば、聖人の御ためには事供やう(養)、凡夫のためには理くやう。止観の第七の観心の檀ばら密と申法門なり」(一二六二頁)

ただ一枚しかない衣を供養すること、ただ一つしかない食べ物を供養することが「観心の法門」で、聖人の命を惜しまない立場では事の供養であり、凡夫の志で行なう供養は理の供養であるとのべています。事の供養とは法華経を実践することであり時には捨身供養を伴います。理の供養とは仏の教えに従い慳貧の心を捨てることです。供養には事の供養と理の供養があるのです。(『日蓮聖人全集』第四巻一八〇頁)

凡夫は衣食を供養することが、身命を供養するのと同等の功徳を持っているとのべています。物品の質ではなく志が重要なのです。これが『止観』第七の観心の檀波羅密で(対治助開)あり、大事なのは世間の現実に即して仏教を理解することで、「世法即仏法」をいかに受容するかの問題とします。ここで日蓮聖人は経文を挙げます。

金光明経には、若深識世法即是仏法とかれ、涅槃経には一切世間外道経書皆是仏説 非外道説と仰られて候を、妙楽大師法華経の第六の巻の一切世間治生産業皆与実相不相違背の経文に、引合て心をあらわされて候には、彼々の二経は深心の経々なれども、彼の経々はいまだ心あさくして法華経に及ざれば、世間の法を仏法に依せてしらせて候。法華経はしからず。やがて世間の法が仏法の全体と釈せられて候。爾前の経々の心は、心より万法を生ず。譬へば心は大地のごとし、草木は万法のごとしと申。法華経はしからず。心すなはち大地、大地則草木なり。爾前経々の心は、心のすむは月のごとし、心のきよきは花のごとし。法華経はしからず。月こそ心よ、花こそ心よと申法門なり。此をもつてしろしめせ。白米は白米にはあらず。すなはち命なり」(一二六三頁)

と、自己が対照に入り、そのものと一体となって生きることです。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇五七四頁)。法華経は世法が自己のなかに直接に感受していくことであるとするのは、一念三千の観心の境地をのべたといえます。「観心の法門」を具体的にのべたのは、『観心本尊抄』(「観心之心如何。答曰 観心者観我己心見十法界。是云観心也」七〇四頁)以来になります。ですから、供養された白米は食料としてのものではなく、供養をされた人の命そのものであり、供養を受けた日蓮聖人の命そのものであると受け留めていることが窺えます。

 末尾に身延地方は飢饉などが多かったので、この時節には食の乏しいことを伝えます。その飢えについて、

「食ともし。表○目が万里の一□忍がたく、思子孔が十旬九飯堪べきにあらず。読経の音も絶ぬべし。観心の心をろそかなり。しかるにたまたまの御とぶらいたゞ事にはあらず。教主釈尊の御すゝめか、将又過去宿習の御催か、方々紙上難尽。恐々」(一二六三頁)

と、万里の道を歩むのに僅かな食だけで旅した者のように、また、子思と孔子が百日の間に九回だけ食事をしたほど貧しく食に耐えたということを挙げ、日蓮聖人はこれよりも耐えがたい食糧に苦労していたとのべています。この供養により命を長らえ、法華経を修行していくことができる功徳を暗示し、釈尊の使いか過去の宿縁による供養かとのべています。この当時の身延での食生活が容易でなかったことが分かります。

 

□『松野殿御返事』(二三一)

一二月九日付けで駿河松野(現在の菴原郡)の領主、松野六郎左衛門に供養の謝礼として宛てた書状です。松野六郎左衛門の娘は、南条兵衛七郎の妻で時光の外祖父になります。岩本の実相寺で信仰を深めたといい、後に四大檀越の一人となります。実相寺で出家していた次男が日持上人です。真蹟は伝わらず『朝師本』の写本が残っています。『日境目録』は建治三年としています。供養品は金銭一結・白米一駄・白小袖一枚です。一駄は馬借ですと一頭で二五貫ほどの荷物を積んだといいます。 

○実相寺の日源上人

 本書より身延は厳しい地形にあるので訪れる者が少ないなかに、松野氏がたびたび使者を遣わしていたことが分かります。実相寺の日源についてふれています。日源は播磨法印・智海といい、日蓮聖人が正元二年に岩本実相寺に入蔵したときの学頭(『日朝本』)でした。このとき『止観』の教えを受けて日蓮聖人に帰依し、日興・日持の二人を日蓮聖人の門下に推挙したといいます。(『日蓮聖人遺文全集講義』第一九巻四九頁)。本書によれば実相寺の優秀な学生(がくしょう)であり所領や弟子がいて、ある程度の地位をもっていたのです。日蓮聖人に帰依してからは松野氏たちを教化していたことが分かります。

「実相寺の学徒日源は日蓮に帰伏して所領を捨て、弟子檀那に放され御座て我身だにも置処なき由承り候に、日蓮を訪衆僧を哀みさせ給事、誠の道心也、聖人也。已に彼人は無双の学生ぞかし。然るに名聞名利を捨てて某が弟子と成て、我身には我不愛身命の修行を致し、仏の御恩を報ぜんと面面までも教化申し、此の如く供養等まで捧げしめ給事不思議也。(中略)此学徒日源は学生なれば此文をや見させ給けん。殊の外に僧衆を訪ひ顧み給事、誠に有難く覚え候」(一二六四頁)

 また、日蓮聖人に帰依したことにより、弟子や実相寺の檀那から見放され迫害されていたことが窺えます。そのような苦しい立場にありながらも、日蓮聖人に帰依し門弟たちに慈愛の心をもって接する態度は、誠の求道者の態度であり聖人であると褒めています。日蓮聖人たちには供養を行い、日興上人と共に実相寺や四十九院、賀島荘に弘教されていました。

○法華経の心に背く題目には差別がある

 松野氏からの書状に題目の功徳について、唱える者の立場がかわればその功徳に違いがあるのか、という質問がよせられ、日蓮聖人は愚者の持つ金も智者の持つ金も同じ価値であり、愚者が点す火も智者が点す火も同じであるように、題目に勝劣はないと答えています。題目を唱える者の功徳については、先にのべた『四信五品鈔』にみることができます。ただし、法華経の説に背いて唱えるならば差別があるとして、譬喩品の「十四謗法」を挙げます。題目の功徳は同じであるけれど、信心には正と邪があるということです。

「御文に云、此経を持申て後、退転なく十如是・自我偈を読奉り、題目を唱へ申候也。但し聖人の唱させ給題目の功徳と、我等が唱へ申題目の功徳と、何程の多少候べきやと[云云]。更に勝劣あるべからず候。其故は愚者の持たる金も智者の持たる金も、愚者の然せる火も智者の然せる火も、其差別なき也。但し此経の心に背て唱へば其差別有べき也」(一二六五頁)

同じ法華経の信心であっても、法華経の心に背て唱えれば悪道に堕ちるということです。それを防ぐために法華経の修行には段階があるとして、その要点を『法華文句』には譬喩品の「説不説」を挙げます。(「又舎利弗 憍慢懈怠 計我見者 莫説此経 凡夫浅識 深著五欲 聞不能解 亦勿為説 若人不信 毀謗此経則断一切 世間仏種 或復顰蹙 而懐疑惑 汝当聴説 此人罪報若仏在世 若滅度後 其有誹謗 如斯経典見有読誦 書持経者 軽賎憎嫉 而懐結恨 此人罪報 汝今復聴 其人命終 入阿鼻獄」『開結』一六七頁)

これは、「無智人中莫説此経 若有利根智慧明了 多聞強識求仏道者 如是之人乃可為説」(『開結』一七二頁)の文に説かれているように、「説不説」とは無智の者には説いてはならない、智者のために説きなさいということになります。なぜなら、無智の者は理解出来ずに謗法を作るからです。つまり、法華経に背く行為になるからです。慈恩はこの原因として十四の例を挙げたのが「十四謗法」です。

憍慢 きょうまん    分かっていないのに、わかったと思いこみ憍(おご)り慢(たかぶ)ること

懈怠 けたい       修行を懈怠(おこた)ること
計我 けいが      自分中心に考え誤ること

浅識 せんしき     仏法の表面だけを見て内実がわからないこと

箸欲 じゃくよく    欲にとらわれていること

不解 ふげ       仏法を理解しようとしない
不信 ふしん      法華経の教えを信じないこと

顰蹙 ひんしゅく    法華経を信ずる者に反感すること
疑惑 ぎわく       法華経の教えを疑う

誹謗 ひぼう       法華経・信者を謗る

軽善 きょうぜん   法華経・信者を軽蔑する
憎善 ぞうぜん     法華経・信者を憎く思う

嫉善 しつぜん     法華経・信者の教えを妬む

恨善 こんぜん     法華経・信者の教えを恨むこと 

この「十四謗法」は在家と出家にも当てはまることであり、不軽菩薩が仏性を礼拝したように、法華経を持つ者は仏と同じであるから、法華経の持者を毀謗してはならないとのべます。つまり、法華経を持つ者を誹謗することは堕獄の原因になるのです。法華経の信仰者を互いに謗ってはならないとのべます。教団における「異体同心」の指標となります。内部に紛争があってはなりません。

「過去の不軽菩薩は一切衆生に仏性あり、法華経を持ば必成仏すべし、彼を軽んじては仏を軽んずるになるべしとて、礼拝の行をば立させ給し也。法華経を持ざる者をさへ若持やせんずらん、仏性ありとてかくの如礼拝し給。何況や持てる在家出家の者をや。此経の四巻には若は在家にてもあれ、出家にてもあれ、法華経を持説者を一言にても毀る事あらば其罪多き事、釈迦仏を一劫の間、直に毀り奉る罪には勝たりと見へたり。或は若実若不実とも説れたり。以之思之、忘ても法華経を持つ者をば互に毀るべからざる歟。其故は法華経を持つ者は必皆仏也。仏を毀ては罪を得也。加様に心得て唱る題目の功徳は釈尊の御功徳と等しかるべし。釈云、阿鼻依正全処極聖自身毘盧身土不逾凡下一念[云云]。十四誹謗の心は文に任て推量あるべし」(一二六六頁)

ここには、法華経を持つ者は仏であるとする教えがあります。妙楽は『金錍論』に無間地獄の依報も仏の身に具わっており、毘盧遮那法身の仏界も凡夫の一念にあると解釈しています。つまり、阿鼻地獄の依報である国土も正報である衆生も、ともに極聖の仏の心にあるということです。極聖とは五十二位の十地・等覚・妙覚の位にある者のことで、その聖位の究極を極聖といい仏界のことをいいます。また、毘盧遮那仏の法身と衆生の国土も、凡夫の一念のなかに存在するということです。仏と私たちの一念三千の互具を説いています。法華経を持つ者は必ず仏になれるのであるから、これを誹謗してはならない、逆に罪となるからです。題目を唱える功徳は釈尊と等しいという理由をのべたのです。

そして、賎しい者であっても、自分より法門を知っているならば教えを受けるべきであり、無知の者は法華経を説く者に師事して、功徳を得るべきであるとのべています。この前提には日蓮聖人に帰依する世間体を憚った者がいた当時の状況があります。

「然るに悪世の衆生は我慢偏執名聞名利に著して、彼が弟子と成べき歟、彼に物を習はば人にや賎く思はれんずらんと、不断悪念に住して悪道に堕すべしと見えて候。法師品には人有て八十億劫の間、無量の宝を尽して仏を供養し奉らん功徳よりも、法華経を説ん僧を供養して、後に須由の間も此経の法門を聴聞する事あらば、我大なる利益功徳を得べしと悦ぶべしと見えたり。無智の者は此経を説者に使れて功徳をうべし。何なる鬼畜なりとも、法華経の一偈一句をも説ん者をば、当起遠迎当如敬仏の道理なれば仏の如く互に敬べし。例ば宝塔品の時の釈迦多宝の如くなるべし。此三位房は下劣の者なれども、少分も法華経の法門を申者なれば、仏の如く敬て法門を御尋あるべし。依法不依人、此を思ふべし」(一二六七頁)

 そこで、本書を三位房に持たせて、三位房は下劣の者ではあるが、法華経の法門を知っているので、仏を敬うように教えを問い尋ねたらよいと薦めます。三位房日行は曽教信の弟といわれます。しかし、弘安二年の『四条金吾殿御返事』(一六六八頁)によりますと、弘安元年の熱原法難のときに、日蓮聖人と離反し間もなく死去しています。

次に、『涅槃経』の雪山童子の故事を引き生死無常を示します。雪山童子は釈尊が過去に菩薩行をしていたとこの因位のことです。雪山童子は無常を感じ修行していたとき、鬼神が「諸行無常是生滅法」の偈文を唱えたことにたいし、その後半の偈文を聞こうとします。鬼神はその代償として雪山童子の身を求めたのです。身を与える約束をして残りの半偈を聞き書き留めます。つまり、この説話は帝釈天が変化した鬼神の半偈を聞くために、投身した求道のあるべき姿勢と、この功徳により十二劫の生の罪を滅することができたことを表しています。この文は「いろは歌」として伝わっています。

いろはにほへと ちりぬるを (色は匂へど散りぬるを) 咲いている花もやがて散る     諸行無常
 わかよたれそ つねならむ  (我が世誰そ常ならむ)  この世に永遠のものはない     是生滅法
 うゐのおくやま けふこえて (有為の奥山今日越えて) 世の迷いの山を今日越えて     生滅滅已
 あさきゆめみし ゑひもせすん(浅き夢見し酔いもせず) 浅い夢を見ないので酔うこともない 寂滅為楽

本書は出家・在家の信仰についてのべています。雪山童子の故事によせて、身命を仏法に布施することの尊さを説きます。在家は余念なく南無妙法蓮華経と唱題し、僧侶を供養することが「肝心にて候」(一二七三頁)とし、如説の修行として弘教である「髄力演説」を勧め、霊山浄土に往詣することの法悦を教えています。信心が弱ければ霊山浄土には行けないと訓誡されたのです。