277. 『破良観等御書』 高橋俊隆 |
◆第二節 『破良観等御書』以後
□『破良観等御書』(二三六) ○良観の破僧罪
『延山録外』に収録されており、首尾が欠失していて著作年次や宛先は不明ですが、本文に「故弥四郎殿は」(一二七九頁)とあることから、安房の光日房に宛てたと推定されます。本書は良観・道隆・悲願聖人等が極楽寺・建長寺・寿福寺・普門寺等を建てて、叡山の円頓大戒を蔑如しているとし、これは第一破僧罪に当たるとのべるところから始まります。 良観(一二一七〜一三〇三年)は北条長時の招きにより、極楽寺の開山となります。蘭渓道隆(一二一三〜一二七八年)は臨済宗の中国の僧で、北条時頼が建長寺を建て開山となります。悲願聖人(一一九四〜一二七七年)は臨済宗の僧で、長楽寺を開創した栄朝の弟子です。寿福寺の悲願房朗誉といい普門寺の開基ともいいます。普門寺は延慶三(一三一〇)年に、安誉院の失火により延焼して廃寺になっており、大町の田代観音堂のことともいいます。(『日蓮大聖人御書講義』第二八巻八七頁)。 良観たちが開山となっていることは、比叡山の大乗戒を軽蔑することであり、提婆達多の三逆罪の一つ破僧罪であるとします。そして、念仏者が釈尊の入滅の日を阿弥陀仏の日とし、釈尊降誕の日を薬師仏の日としていること。真言師が釈尊を無明の仏と蔑視し、灌頂のときは釈迦仏の頭を踏んでいること。禅宗の法師は「教外別伝」として、一切経は反古紙のようなものとして、釈尊より勝れていると思っていることは、三逆罪のなかの「出仏身血」にあたるとします。良観たちは高慢な大慢婆羅門の末流とのべます。また、「殺阿羅漢」は提婆達多が拳で蓮華比丘尼を殴り殺したことで、これに匹敵するとして念仏者の所業を挙げます。 「今の念仏者等が念仏と禅と律と真言とをせめられて、のぶるかたわなし、結句は檀那等をあひかたらひて、日蓮が弟子を殺させ、予が頭等にきずをつけ、ざんそう(讒奏)をなして二度まで流罪、あわせて頚をきらせんとくわだて、弟子等数十人をろう(牢)に申入のみならず、かまくら(鎌倉)内に火をつけて、日蓮が弟子の所為なりとふれまわして、一人もなく失とせしが如し」(一二七八頁) と、念仏者たちは日蓮聖人より邪教であることを責められ、それに答えることができないため、日蓮聖人や弟子信徒を迫害したことをのべています。ここには、小松原法難において鏡忍房と工藤吉隆が殺害されたこと、日蓮聖人は前頭部に刀傷を受け左腕を骨折しています。佐渡流罪と決められますが、平頼綱の策により暗夜に竜口斬首の坐となります。竜口法難のあと北条時宗は日蓮聖人を放免しようとします。そのために起きたのが鎌倉市中の放火で、依智滞在中の讒奏や鎌倉の町に火を付けて、日蓮聖人の弟子の仕業であるとした謀略により、日朗上人たち数名は土牢に幽閉されます。信徒を壊滅させようという策だったのです。この讒言の行為を暴露されているのです。これは「殺阿羅漢」の罪と同じとされたのです。 ところで、提婆達多の三逆罪について、 「而に提婆達多が三逆罪は仏の御身より血をいだせども爾前の仏、久遠実成の釈迦にはあらず。殺羅漢も爾前の羅漢、法華経の行者にはあらず。破和合僧爾前小乗の戒なり、法華円頓の大戒の僧にもあらず。大地われて無間地獄に入しかども、法華経の三逆ならざれば、いたう(甚)も深くあらざりけるかのゆへに、提婆法華経にして天王如来とならさせ給」(一二七九頁) と、提婆達多の罪は重いけれど、釈尊が法華経を説く以前のことであるから、法華経にたいしての三逆罪よりも罪は軽いとします。その証拠に法華経が説かれた会座において、天王如来の受記を得たとのべます。 この提婆達多と同じ三逆罪を作ったした、良観や信徒などにたいしては、提婆達多よりも罪が深いと論じます。さらに、これら真言師・念仏者・禅・律の僧俗が、法華経と日蓮聖人を迫害するため、現世では蒙古の侵略を受け、後生には無間地獄に堕ちるとのべます。当時の良観などの迫害は三逆罪であると断定するほど、教団に対する迫害が卑劣なものであったのです。それは、法華経・釈尊の教えに背反し、日蓮聖人や弟子信徒に迫害を加え殺害し、竜口首座のみならず、鎌倉の町並みに放火し日蓮聖人の弟子の仕業だと虚言をもって、日蓮聖人の教団を壊滅に追い込もうと画策したからです。これにたいし、光日房の子息の故弥四郎は提婆のような大罪はなく、法華経を信じた者であるから、成仏は疑いないと慰めています。 ○山門寺門の抗争
次に、三問答をもって真言師の堕獄についてのべていきます。まず、日蓮聖人に対する反論として、真言師が無間地獄に堕ちると言うけれど、真言師の源である弘法・伝教・慈覚・智証は堕獄していないのに、何故そう断言できるかを問います。これにたいし、日蓮聖人は伝教のほかの三大師が法華経を誹謗した原因により、真言師の堕獄が始まったとします。その邪義は善無畏・金剛智・不空三蔵にあり、その元祖である善無畏は頓死して閻魔の責めにあったことを証拠として挙げます。 この閻魔の責めについては、善無畏が講述し一行が筆録した『大日経疏』巻五にあります。善無畏が閻魔に責められ鉄縄七筋で縛られた理由は、法華経は大日経に劣るという邪義を立てたことです。京都の醍醐寺にある閻魔堂と、もと鎌倉の由比ヶ浜にあった新井の閻魔堂(現在は円応寺といい宝永元年に山の内に移っています)に、この様子の絵が掛けられていたのでしょう。善無畏が生きかえったのは法華経の文を唱えたことによります。(『善無畏三蔵鈔』四七二頁、『報恩抄』一二二七頁)。日本国の人々を無間地獄に堕とす原因を作った、弘法・慈覚・智証の過失は此処にあるとします。 これは法華経の譬喩品「若人不信 毀謗此経 則断一切 世間仏種 或復顰蹙 而懐疑惑 汝当聴説 此人罪報 若仏在世 若滅度後 其有誹謗 如斯経典 見有読誦 書持経者 軽賎憎嫉 而懐結恨 此人罪報 汝今復聴 其人命終 入阿鼻獄」(『開結』一六七頁)の文によります。 では、法華経と大日経の勝劣は何処にあるのかを、法華経の「於諸経中最在其上」の文を経証として、法華経こそが「一切経の頂上の法」「法華経は一切経の頂上の宝珠」(一二八一頁)として勝劣をのべます。天台宗の真言化は慈覚より始まり、この謗法堕獄の現われとして、弘法と聖覚の末孫が本寺と伝法院と別れて不和であり、慈覚・智証の末孫が叡山と園城寺と争っているのであると指摘します。 聖覚とは興教大師覚鑁(一〇九五〜一一四三年)のことです。本寺の高野山金剛峯寺は、弘法が弘仁一〇(八一九)年に金堂を建てたのが始まりです。伝法院は天承元(一一三一)年に聖覚が鳥羽上皇の勅許を得て、高野山に大伝法院を建てたのが始まりですが、長承三(一一三四)年に金剛峯寺を兼任したため、金剛峯寺衆と対立します。保延六(一一四〇)年に焼き打ちにあい根来山(現在の和歌山県岩出市根来)に逃れ円明寺を建てます。 両者の抗争はその後、弘安九年、一〇年と続いたため、正応元(一二八八)年に大伝法院を根来の一乗山に移し新義真言宗となります。いわゆる、古義派と新義派の分裂が生じ、現在では古義が七派、新義は二派に分かれています。聖覚の主著である『五輪九字明秘密釈』(『頓悟往生秘観』)は、日蓮聖人が「建長三年十一月廿四日卯時了。五条之坊門、富小路。坊門ヨリハ南。富小路ヨリハ西」(二八七五頁)にて書写されています。ここには、密教の大日如来と浄土教の阿弥陀如来とが、同体異名であるとしました。これは浄土教の影響が高野山にもおよび、覚鑁は浄土信仰に対処するため密教のなかに、浄土教を包摂して融合することを考えました。 慈覚・智証の末孫が叡山と園城寺と争っているというのは、智証大師円珍(五代座主。八一四〜八九一年)の没後、比叡山は円珍の門流と、慈覚大師円仁(三代座主)七九四〜八六四年)の門流との二派に分かれ対立するようになります。その原因は天台座主補任、寺門の戒壇建立問題などにあります。延暦寺を「山門」(山法師)と称するのにたいし、三井寺を「寺門」(寺法師)と称することから、両者の対立抗争を「山門寺門の抗争」と呼んでいます。 日蓮聖人は延暦寺の山門派を天台宗とみています。(『金吾殿御返事』四五八頁)。円珍の没後一世紀あまりを経た天元元(九八一)年に、山門の末流が座主となっていた法性寺の座主に、園城寺の余慶がなったため確執が表面化します。永祚元(九八九)年に延暦寺座主となりますが三ヶ月で辞任します。正暦四(九九三)年には、円仁派の僧たちが比叡山内にあった円珍派の山手院と房舎を壊す騒動により、両派の対立は決定的となります。円珍派の一千余人は比叡山を下りて三井寺に移り、そこを拠点とします。 以後、比叡山宗徒による三井寺の焼き討ちは永保元(一〇八一)年に、堂宇二十、塔一基、経蔵五カ所、神社九カ所、僧房一八二、経巻二万余りが灰燼に帰したと言います。(『日蓮大聖人御書講義』第二八巻一六二頁)。その後、中世末期までに大規模なものだけで十回、小規模なものまで含めると五十回にも上るといいます。これらの両者の抗争の原因は慈覚の日輪を射落とした夢想と、弘法の現身妄語にあるとします。 「弘法大師は又此等にはにるべくもなき僻人なり。所謂法華経大日経に劣のみならず、華厳経等にもをとれり等[云云]。而を此邪義を人に信させんために、或は大日如来より写瓶せりといゐ、或は我まのあたり霊山にしてきけりといゐ、或は師の慧果和尚我をほめし、或は三鈷をなげたりなんど申種種の誑言をかまへたり。愚な者今信をとる」(一二八二頁) 弘法には霊験譚が多く伝えられていますが、その中には妄言があるといいます。このことは『報恩抄』(一二三一頁)にのべていたことです。弘仁九(八一八)年の春に疫病が流行したとき、般若経をもって祈願したところ疫病は止み、夜中に太陽が輝き出でたと言う『般若心経秘鍵』の文は、歴史的な記録はないこと。また、『孔雀経音義』の面門俄に開いて金色毘盧遮那となったという弘法の即身成仏や、三鈷のことなどを妄言と指摘されたのです。まさに、現在は釈尊が『涅槃経』に予言された邪法が蔓延し、正法を説く者は爪上の土よりも少ないという、末法に符合していることを示されたのです。 ○出家の動機と鎌倉弘教
そして、日蓮聖人自身の清澄寺での虚空蔵菩薩への請願、立教開宗、鎌倉弘教、松葉ヶ谷夜討ち、伊豆流罪についてふれています。出家の動機と諸国修学などを述懐されており、真蹟はありませんが日蓮聖人の行動を知る大事な遺文とされます。(『日蓮聖人全集』第五巻三五〇頁)。 「予はかつしろしめされて候がごとく、幼少の時より学文に心をかけし上、大虚空蔵菩薩の御宝前に願を立、日本第一の智者となし給へ。十二のとしより此願を立。其所願に子細あり。今くはしくのせがたし。其後、先浄土宗・禅宗をきく。其後、叡山・園城・高野・京中・田舎等処処に修行して自他宗の法門をならひしかども、我身の不審はれがたき上、本よりの願に、諸宗何の宗なりとも偏党執心あるべからず、いづれも仏説に証拠分明に道理現前ならんを用べし。論師・訳者・人師等にはよるべからず。専経文を詮とせん。又法門によりては、設王のせめなりともはばかるべからず。何況其已下の人をや。父母師兄等の教訓なりとも用べからず。人の信不信はしらず。ありのまゝに申べしと誓状を立しゆへに」(一二八三頁) この「かつしろしめされて候がごとく」という文面からしますと、光日房は日蓮聖人を幼少頃から知っていた人ということがわかります。日蓮聖人は釈尊の真実の教を追求し、成仏の直道を求めました。その基本は「依法不依人」でした。誰がどう思おうと正直に申しのべようという虚空蔵菩薩への誓いに従い、真言宗の善無畏・弘法、比叡山の慈覚・智証の邪義を正そうとされました。 伝教は『依憑集』に、真言宗は天台の教義を大日経に盗みいれて、理同としたことを説いているが、伝教は詳しく説かなかったため、慈覚・智証のような誤った解釈をしたとみています。伝教は円頓の大乗別受戒の大戒壇建立を、優先しなければならなかったためです。(『報恩抄』一二一〇頁)そこで、立教開宗の頃は浄土宗と禅宗を対象として破折し、その後に真言宗などの邪義を破折したとのべます。 「かく申程に、年卅二建長五年の春の比より念仏宗と禅宗等とをせめはじめて、後に真言宗等をせむるほどに、念仏者等始にはあなづる(中略)いにしへの人人は但法然をなんじて、善導・導綽等をせめず。又経の権実をいわざりしかばこそ、念仏者はをごりけれ。今日蓮は善導・法然等をば無間地獄につきをとして、専浄土の三部経を法華経にをしあはせてせむるゆへに」(一二八四頁) 過去の念仏批判は、根源である善導・道綽までを対照としないで、法然の誤りだけを責めたこと、そして、権実論による勝劣を徹底しなかったところに弱点があったと指摘します。日蓮聖人に責められて敗退した念仏者や禅僧、律僧たちは、自宗の教えでは負けてしまうので、苦肉の策として同じ法華経を信奉する、天台宗の僧と日蓮聖人を戦わせます。 「念仏者・禅宗・律僧等、我智力叶ざるゆへに、諸宗に入りあるきて種種の讒奏をなす。在家の人人不審あるゆへに、各各の持僧等、或は真言師、或は念仏者、或はふるき天台宗、或は禅宗、或律僧等をわきにはさみて、或は日蓮が住処に向、或はかしこへよぶ。而ども一言二言にはすぎず」(一二八五頁) それでも叶わないので、主に武士階級が信仰していた禅宗の名前ばかりの無知の武士や、主に浄土宗を信仰していた面白半分の有力な人を集め、ついには数知れない暴力をふるったのです。ひそかに日蓮聖人の信徒に暴力を加え、住居から追いはらい所領を奪ったり勘当させたのです。また、日蓮聖人を幕府に訴えたのです。 「挙(こぞっ)て日蓮をあだ(怨)するほどに、或は私に狼籍をいたして日蓮がかたの者を打、或は所をひ、或は地をたて、或はかんだう(勘当)をなす事かずをしらず。上に奏すれども、人の主となる人はさすが戒力といゐ、福田と申、子細あるべきかとをもひて、左右なく失にもなされざりしかば、きりもの(権臣)どもよりあひて、まちうど(町人)等をかたらひて、数万人の者をもんて、夜中にをしよせ失とせしほどに、十羅刹の御計にてやありけん、日蓮其難を脱しかば、両国吏心をあわせたる事なれば、殺れぬをとがにして伊豆国へながされぬ。最明寺殿計こそ、子細あるかとをもわれて、いそぎゆるされぬ」(一二八五頁) 幕府は日蓮聖人を安易に処罰しなかったため、北条重時などの権威を持つ権臣(きりもの)たちが寄り集まり、町人たちを扇動して夜中に日蓮聖人を殺そうとしたのです。これは、文応元年八月二七日の松葉ヶ谷法難のことをのべています。同年七月一六日に奏進した『立正安国論』の答えでもあったのです。十羅刹女の守護により命を護られ下総方面に逃れます。 翌弘長元年に鎌倉に帰った日蓮聖人は、罪状は悪口の咎とも言えましょうが、松葉ヶ谷において殺されなかったという、たいした理由もなく五月一二日に伊豆流罪となります。執権の長時は重時の子息ですので、父が信奉する念仏者の讒言に従ったのでしょう。政治の道を破った理由はここにあります。その重時は翌月に病に倒れ一一月に死去します。時ョは一年九ヶ月後の弘長三年二月二二日に、伊豆流罪の赦免状を発します。時ョは法を遵守したのでしょうか、伊豆流罪は讒言によるものとして赦免したのです。日蓮聖人にとっては幕府内における数少ない理解者であったのです。 「さりし程に、最明寺殿隠させ給しかば、いかにも此事あしくなりなんず。いそぎかくるべき世なりとはをもひしかども、これにつけても法華経のかたうどつよくせば、一定事いで来ならば身命をすつるにてこそあらめと思切しかば、讒奏人人いよいよかずをしらず。上下万人皆父母のかたき、とわり(遊女)をみるがごとし。不軽菩薩の威音王仏のすへ(末)にすこしもたがう事なし」(一二八六頁) 時ョは赦免の年の一一月一二日に三七歳にて死去します。時ョの死去は日蓮聖人に大きなダメージをあたえます。弘教は困難であるとして、早くも山林に隠居することも考えたのです。しかし、不惜身命の覚悟で法華経を弘教することが使命ですから、大難を覚悟で弘教しますと、さらに迫害が多くなります。世間の人々が日蓮聖人を見る目は親の敵のように、また、妻が遊女(とわり)を見るように憎しみをもった目で見られたのです。それは、不軽菩薩が威音王仏の末法に罵詈・毀辱され暴力的に迫害されたと同じとのべています。時ョの死去の翌文永元年八月に長時も三五歳にて死去し、長老の政村が執権となります。 文永五年正月に高麗の使節が、元の国書を持って大宰府を来訪します。内容は蒙古への服属を求めるものでした。これを機に三月五日に執権職を政村から時宗に移ります、このとき時宗は一八歳で第八代執権となります。本書はこのあとが欠損しているため続きの文面はわかりませんが、佐渡流罪・身延入山のことや、宛先が故郷の光日房であるので内心の情感を吐露され、『観心本尊抄』の一念三千についてふれながら、真言師を批判したと思われます。 □『和漢王代記』図録二一 『定遺』は建治二年、『対照録』は文永七年と推定しています。真蹟は一八紙のうち第一六紙が欠失しており、一七紙を一巻として西山本門寺に所蔵されています。他筆として、ふり仮名と送り仮名の大部分、それと、第二紙の「三教」(二三四四頁)のところ五行三一文字、第一二・一三紙の「女帝」(二三五二頁)が後から書き加えられています。 本書は題号が示すように中国と日本の王代を列挙したもので、中国については常に挙げている、三皇・五帝から宋の時代までを示し、仏教伝来以前から以後の仏教流伝と流布について示しています。これに天台の釈などを引き見解が示されています。日本についても常にのべている神代十二代から、人王第一代神武天皇、第一四代仲哀天皇から第一六代応神天皇、そして、第三〇代欽明天皇から第五十三代淳和天皇までが示され、その間における仏教流伝について簡単に図示しています。 □『一代五時鶏図』図録二二 建治二年とされ真蹟六紙が京都妙覚寺に所蔵されています。本書にも一代五時が図示され、所依の経典と各宗の祖師が示されています。主師親の三徳のうち親徳の部分が欠失しています。師徳に「四依」の菩薩が図示され、「主師親の三徳」を締めくくるように、『涅槃経』の「一体之仏作主師親」(二三五九頁)が書き込まれています。教主釈尊の三徳具備を教えられたことが窺えます。 また、大通仏の第九番目の王子である阿弥陀と、第一六番目の王子である釈迦を並べて、娑婆の衆生を教化されのは釈尊であることを示します。娑婆の国主は釈尊であり、有縁の教主も釈尊であることから、親徳は釈尊に限ることを示されたことが分かります。 |
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