278. 『西山殿御返事』〜『六郎次郎殿御返事』                 高橋俊隆

■五六歳 建治三年 一二七七年

幕府は建治二年に高麗出兵を計画します。併せて蒙古の再襲来に備えた石築地を築造させていました。一月にその防塁の一部が完成しましたがその後も延長して行い、幕府滅亡の前年にあたる、元弘二(一三三二)年まで行われています。武家領や本所一円地を問わずに、田一反あたりにつき一寸の割合で、石築地役が賦課されています。(「大隅国石築地賦役文書」)。飢饉や疫病が流行り不安な世相がつづきます。

□『法華経二十重勝諸教義』(二三七)

 一月二三日付けにて、富士芝川町西山の大内三郎安清に宛てた書状といわれています。真蹟はなく『本満寺本』が伝わり、最初と最後が欠失しています。始めに妙楽の弟子である智度の『東春』(『法華経疏義纉』)に説いた、法華経は極楽極妙の経であるから、この妙法を誹謗すると極苦を受けるの文を引き、謗法の罪が無間地獄の原因となる理由を四っ示しています。そして、どのような苦しみを受けるかを経文を引きます。

「東春云問何故謗経入無間耶。答一乗是極楽経。謗極妙法故感極苦処也。初者謗極法及以尊人故受賎獣報。二者謗平等大慧之経故受愚獣報。三者仏有権実二教。執権而破実故得一目報。四謗法毀人之時心生瞋恚故受蛇身報」                      (一二八七頁) 

次に、妙楽の『文句記』の十雙歎二十重の文を引き、経文を挙げて法華経が諸経に勝れた理由をのべます。

「記四云今依義附文略有十双。以弁異相。一与二乗近記。二開如来遠本。三随喜歎第五十人。四聞益至一生補処。五釈迦指三逆調達為本師。六文殊以八歳龍女為所化。七凡聞一句咸与授記。八守護経名功不可量。九聞品受持永辞女質。十若聞読誦不老不死。十一五種法師現獲相似。十二四安楽行夢入銅輪。十三若悩乱者頭破七分。十四有供養者福過十号。十五況已今当一代所絶。十六歎其教法十喩称揚。十七従地涌出阿逸多不識一人。十八東方蓮華龍尊王未知相本。十九況迹化挙三千墨点。二十本成喩五百微塵。本迹事希諸教不説云云」(一二八七頁)

 そして、これらの十雙歎について説明を加え、法華経が諸経に比べて、超勝している理由をのべています。本書と共に宛てたのが次の『西山殿御返事』です。

□『西山殿御返事』(二三八)

 一月二三日付けで『法華経二十重勝諸教義』の内容についてのべたといわれます。(『日蓮聖人遺文辞典』歴史篇一〇二三頁)。真蹟は身延に一紙曾存していました。本書は西山氏の後生を大切に思う日頃の信仰に対し、法門の「名目」について教えられたものです。この「名目」とは先の「『東春』の謗法無間地獄」と、「十雙歎二十重」のことです。先の『法華経二十重勝諸教義』を、「同行どもにあらあらきこしめすべし」(一二九一頁)とのべており、西山氏の近辺に同じ信仰をしていた者がいたことが分かります。二月七日、幕府の公文所が焼けます。

□『現世無間御書』(二三九)

 二月一三日付けで宛先は不明です。『対照録』は建治四年としています。岡元錬城氏は宗仲宛とします。(『日蓮聖人遺文研究』第三巻七三五頁)。真蹟は最後の第一六・一七紙が現存し、京都の本能寺に所蔵されています。現存している本書の内容は、法華経の行者を迫害(竜口・佐渡流罪)することにより、釈尊の命により梵天・帝釈が他国侵逼をもたらすとのべ、「法華経の大怨敵」(一二九二頁)となった謗法の国と、無間地獄に堕獄する衆生の関係を示します。邪教による国家安泰の祈願は、祈るほどに悪い方向に進み亡国となると諫暁し、蒙古襲来の危機感のなかで法華経の信心を勧めていることが分かります。

 

○御本尊(四一)二月

○首題の「経」の字体に変化

 二月付けの御本尊で、紙幅は縦八九.一a、横四七a、三枚継ぎとなっており、京都京都本国寺に所蔵されています。この御本尊の特徴は、この御本尊から第六天魔王の列座が始まることと、首題の「経」の字体に変化が見られることです。この建治三年の御本尊、第四一から第四六までは第二期の書体となります。『御本尊集目録』の第四四・五三・五四を除いては、日蓮聖人の御本尊の時期を判定するときに、この「経」の字体をもって判断できるほど、その相違が認められます。この時期を四期に分けることができます。

 第一期は御本尊第一の文永八年一〇月九日より、第四〇の建治二年八月一四日まで。

 第二期は御本尊第四一の建治三年二月より、第四六の建治三年一一月まで。

 第三期は御本尊第四七の弘安元年三月一六日より、第七八の弘安三年三月まで。

 第四期は御本尊第七九の弘安三年三月以降の御本尊のすべて。

 この書体・書式の相違により、染筆された時期を判断しています。年代的な相違は決定的であるとされます。(『御本尊集目録』六二頁)

○御本尊(四二)二月

 二月一五日付け、紙幅は縦八八.二a、横四五.五a、三枚継ぎの御本尊です。湖西市鷲津本興寺に所蔵されています。御本尊(四一)とほぼ同じ時期に書かれていますが、年月日の位置が増長天王の左右に書き分けられている違いがあります。身延の草庵は寒かったと思われますが、この時期に御本尊を認めています。部屋をあたため弟子たちに墨をすらし、紙筆の準備を整えさせ、体調のよいときに揮毫されたと思われます。これらの準備のためか、御本尊をまとめて数幅、染筆されるときもあります。 

○御本尊(四三)二月

 年月日は損傷のため不明ですが、さきの御本尊(四一・四二)とほぼ同時期の書体です。現存の紙幅は縦八七.三a、横三八.八a、三枚継ぎの御本尊です。横幅はさきの御本尊と最初は同じであったと思われます。京都の本能寺に所蔵されており、寺伝には「焼残りの御本尊」と称しています。消失した部分は釈尊側の方で、巻かれた状態でなんらかの災厄にあったと思われます。戦乱にそなえて軸を巻いて保存されていたのかもしれません。寺伝には災厄の事件についての記述は明瞭ではありません。

□『兵衛志殿女房御書』(二四〇)

○身延に使わした馬の功徳

三月二日付けで宗長の妻へ、以前に仏器を供養されたお礼と、今回は一人の尼御前を妻の配慮により、馬に乗せて身延へ参拝させたことのお礼をのべた書状です。(兄は右衛門大夫志宗仲)本書は真蹟がなく弘安三年という説(『境妙庵目録』)があります。同じく鈴木一成氏は、信仰上の争議にふれていないことから解決後の書状とみます。(『日蓮聖人遺文の文献学的研究』三一五頁)

康光の長男宗仲が父から勘当され許された時期には異説があります。最初の勘当は『兄弟抄』の系年から文永一二年ともいいますが、建治二年四月一六日直前ころが定説となっており、同年中に許されています。再度の勘当は建治三年一一月二〇日ころで、翌年の弘安元年正月に許されたといわれ、これより父子兄弟が帰依しています。本書の建治三年三月二日頃は最初の勘当が解け、再度の勘当となる間のこととなります。宗仲・宗長の兄弟の妻達の信仰が池上家を支えていくことになります。妻達にも法華経の信仰のあり方を教えられていたことが分かります。

 本文は儒童菩薩と瞿夷(くい)の故事を引いて、宗長夫妻の信仰の結びつきをのべています。儒童菩薩は錠光菩薩を供養するために、瞿夷という女性から、五茎の蓮華を五百の金銭にて買い七日七夜供養します。瞿夷は残りの二本の茎を儒童菩薩に託して供養しました。このとき瞿夷は儒童菩薩と凡夫のときは生々世々、夫婦となり、仏になるときは同時に仏になるようにと誓願を立てます。そして、九一劫ともに夫婦となります。そのときの儒童菩薩は釈尊であり瞿夷は耶輸多羅女でした。耶輸多羅は勧持品で具足千万光相如来の授記を得ています。

次に、身延に使わせた馬の功徳について故事を引いてのべます。釈尊が太子のときに出家するため、去城したときに乗っていた馬が金泥の毛並みをしており、この金泥駒は帝釈天が化身した馬でした。また、摩謄迦・法蘭が経典を中国に伝えたおりに、運搬した白馬は十羅刹女の化身であったことを引き、今、身延に使わした馬も法華経への奉公であるから、宗長の妻が百二十年の人寿をまっとうして霊山へ参るときには、貴女を乗せて浄土へ導くでしょうとのべたのです。

□『六郎次郎殿御返事』(二四一)

 三月一九日付けにて白米三斗・油一筒を供養されたことの礼状です。『延山本』の写本が伝えられ、弘安元年の説(『境妙庵目録』)があります。この六郎次郎と次郎兵衛について詳細は不明ですが、本文より以前より供養をしていた篤信の信者であることが窺えます。六郎次郎は南部実長氏の兄とする説、駿河の高橋六郎兵衛入道の子で六郎兵衛の弟(六郎次郎)とする説があります。次郎兵衛は加嶋の太田次郎兵衛との説があり、南部氏の一族か駿河に住む高橋・太田氏の信徒とする説に分かれます。(『日蓮聖人遺文全集講義』第一九巻九九頁)

本文には明日、弟子の三位房を使わすので、そのおりに法門などについて委細に聞くようにとのべています。身延からは比較的に近いところに住んでいたように思われます。

三月中旬から阿佛房が二度目の登詣をし、一ヶ月ほど給仕しました。叡尊は三月に二回目となる伊勢神宮の参詣をしています。このときは般若心経三巻を納め、蒙古の改心を祈願しています。(宮家準著『神道と修験道』七〇頁)

○連署重政の遁世

重政は重時の五男で居住地名越であり、重時流として特異な一面がありました。六代将軍宗尊親王に近侍し文永一〇年に時宗の連署となります。文永の役には時宗を補佐しています。『建治三年記』によりますと建治三年四月病のため突如連署を辞して出家します。時宗(二七歳)は使者を送って慰留しますが、義政は翌五月に信濃善光寺に詣で塩田荘遁世します。『関東評定伝』に義政は病のために出家を望んでいたとあります。これについて網野善彦氏は安達泰盛室が義政と同母姉妹であることから、泰盛と平頼綱との対立があったと推測します。また、建治元年九月に時宗は元の使者を処刑しますが、このときに和睦の道もあるとして反対していることから、時宗との確執があったといいます。さらに、義政の遁世後に極楽寺流の義政にとって本家筋にあたる義宗が評定衆になり、この幕府人事の手早さ等から、得宗家の政治的排除であるとも考えられています。

『鎌倉大日記』四月四日に「義政出家、法名通義。時に三十六歳。四月以来時宗一判」。五月二八日に「「義政善光寺に詣で信州塩田に住す」とあります。時宗は義政の所帯を収公しますが寛大な処分であったといいます。これ以後、時宗は連署を置きませんでした。日蓮聖人はこの事件について、「武蔵かう殿、両所をすてて入道になり、結句は多の所領・男女のきうたち御せん等をすてて御遁世と承る」(『四条金吾殿御返事』一三六二頁。建治三年七月)「当時も武蔵入道、そこはくの所領・所従等をすてゝ遁世あり。(中略)極楽寺殿はいみじかりし人ぞかし。念仏者等にたぼらかされて日蓮をあだませ給しかば、我身といゐ其一門皆ほろびさせ給。ただいまはへちご(越後)の守殿一人計なり。両火房を御信用ある人はいみじきと御らむあるか」(『兵衛志殿御返事』一四〇三頁。建治三年一一月)と、重時の一門が滅びることとして取り上げ良観を批判しています。